バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
「ちょっと、それ、あたしのストッキングでしょ! ベティ、返しなさいよ!」
「名前でも書いてあるっていうの? 拾った物は拾った人の物よ、ルシール」
港の見えるホテルの続き部屋で女が二人、一足の絹のストッキングを引っ張り合っていた。
寝起きの頭にはまったくありがたくない目覚ましである!
僕は
最悪の気分だ。
こめかみの奥で、ゆうべの琥珀色の古い酒がまだ鐘を鳴らしている。
一つ鳴るたびに目の奥がずきんと痛む。
口の中は乾いた砂を詰め込まれたようで、舌が上顎に貼りついて離れないし、胃の腑はゆっくりと裏返ろうとしている。
寝返りを打とうとして、やめた。動いたらたぶん出る。
何本空けたのかは覚えていない。
飲み始めた訳なら覚えている。
ゆうべモナークの奥の席で、支配人が揉み手をしながら耳打ちしてきたのだ。
明日の晩、この席をぜひ使わせてほしいと、ケスラーのお嬢様からご予約が入っております、と。
支配人は声をひそめて付け足した。お嬢様は、僕がいつも何時ごろ着くのかと、あの席から舞台がどの角度で見えるのかまでお訊ねで、と。
嫌がらせの下調べまでするとは、ずいぶん暇な女だ。
イザベラ・ケスラー。ゆうべの食堂で兄がわざわざ僕に聞かせた名前だ。
三年前に首都で初めて顔を合わせてから、どこで会っても僕をからかいに寄ってくるあの娘が、今夜、僕の店に来るのだ!
思い出しただけで胃がむかむかする。
断れと言いつけて、一番強いのを瓶で頼んだ。
そこへトビーが得意げに口を挟んだ。入札が終わるまで、会長の息子のマックスにくっついてこっちで遊んでいくんだってさ。ケスラーの株も今朝また上がって――。
うるさい、と遮った。自分でも驚くほど尖った声だった。
あとは取り巻きたちが妙に気を遣って瓶を開け続けたことくらいしか覚えていない。
気がつけばこの部屋の天井を見上げていた。
くそっ。頭も痛いし吐き気もする。二日酔いだ。
ルシールとベティの喧嘩が目覚ましなんて最悪すぎる…。
ああ、ルシールとストッキングを取り合っているベティはモナークの踊り子だ。
ルシールより二つ若い二十一で、栗色の髪を短く切り、長い脚を店じゅうに見せびらかして踊る。
換えた脚なら港の安い店にいくらでもあるが、ベティの脚は生まれつきだ。
歌のルシールと踊りのベティは店の看板を二枚で分け合っていて、そのせいで顔を合わせれば必ず何かを取り合う。
舞台の順番、客の花束、楽屋の鏡の前の椅子。そして、僕だ。
どちらがゆうべ僕をこの部屋まで運び込んだのかは知らないが、たぶん二人がかりだったのだろう。
「レオン! 起きてるんでしょう? この子《ベティ》に何とか言ってよ!」
「……水」
枕の下からやっとそれだけ絞り出す。
「え?」
「水、持ってきて。冷たいの。大きいコップで。……それから、声、小さくして。頭が割れる」
二人は顔を見合わせた。
それからベティがしょうがないわねという顔で水差しを取りに行き、ルシールは
「ひどい顔。ゆうべ、瓶ごと三本はいってたわよ」
「三本……」
聞かなければよかった。
三という数を聞いただけで、胃がまた騒ぎ出す。
「ケスラーのお嬢さんが来るってだけで、あんなに飲むことないのに。社交欄の写真で見たわ。きれいな子よ」
「顔はな」
「性格は最悪、でしょ。ゆうべ二十回は聞いたわ」
ルシールはくすりと笑って、僕の額の手をひっくり返す。冷たい側を当て直してくれたらしい。
二十回も言ったのか。一回も覚えていないのが余計に情けない!
上半身を起こして、ベティが持ってきた水を一息に飲み干した。
冷たさが喉から胃へ落ちていき、裏返りかけていた胃の腑がほんの少しだけ元の向きに戻る。
二杯目を頼むと、ベティは呆れたように笑いながらそれでも注ぎ足してくれた。
グラスを持つ左手の手のひらに、桃色の細い線が一本残っている。
きのう港通りで、帰還兵のナイフにやられた傷だ。
ジーナが舐めて塞いだ傷は、握っても開いても、もう少しも痛まない。
ジーナの唾はどんな医者よりよく効く。ゆうべも支配人が耳打ちに来る前に、モナークの卓で取り巻きどもに手のひらを見せびらかして、そう自慢したのだった。
そして改めて二人の顔を見て、僕は無性に腹が立った。
ルシールはもう化粧を直していて肌は艶々しているし、ベティは寝間着の上に僕のシャツを羽織って、鼻歌まじりに部屋の中を跳ね回っている。
この二人もゆうべは僕と同じ席で、同じくらい飲んでいた筈なのだ。
シャンパンを何本も空けて、ルシールは舞台で二回歌い、ベティはテーブルの上で踊っていた。
それなのに、なぜこいつらはこんなに元気なのか。不公平にも程がある!
跳ねるたびに、僕のシャツの裾から白い脚が出る。
エロいなあ。
でも、それより頭が痛い。
「……もう二度と、酒なんか飲まない」
「それ、先週も聞いたわよ」
ルシールが僕の額をぺちりと叩く。
叩かれた所から、頭の中の鐘がまた一つ鳴った。
「先週は本気じゃなかった。今度は本気だ!」
「先週もそう言ってた」
ベティが水差しを抱えたまま、くすくすと笑う。
二人とも僕の決心をまるで信じていない。信じていないのは、たぶん僕も同じだ。
「それでストッキングは?」
「……ああもう。夕方に新しいのを二足買ってやるから、もう黙って」
二人はぴたりと口をつぐんだ。
床に落ちていた絹の塊にもう二人とも見向きもしないのは、二足と聞いた瞬間に一足の取り合いが馬鹿らしくなったからだろう。
「二足ずつ?」
ベティが
踊り子らしい細くて固い指が僕の前髪をかき上げる。
「二足ずつだ。だから黙って。それから、水をもう一杯くれ」
「やった! レオン、大好き!」
ベティは僕の頬に音を立てて口づけをすると、跳ねるように水差しを取りに行った。
ルシールは腕を組んで鼻を鳴らしたが、文句は言わない。
二足ずつなら取り分は同じだ。まったく現金なものである。
◇
二度寝を昼のサイレンに叩き起こされて
窓の外では港の起重機が荷を吊り上げ、冷蔵船の白い船腹に陽が当たっている。
風は東から吹いていて、今日は
この街で「今日は風が東だ」と言えば、いい日だという意味だ。
熱い湯に浸かって冷たい水をさらに三杯飲むと、頭の中の鐘はずいぶん静かになった。
静かになったぶん、もう二度と飲まないという決心も少しずつ遠のいていく。
我ながら、懲りない体である。
居間の卓では、いつの間にか来ていたトビーが、ルームサービスのコーヒーを勝手に飲みながら朝刊の株式欄を広げている。
「おはよう、レオン。もう昼だけど」
「……ゆうべは悪かったな」
僕が言うと、トビーはコーヒーの茶碗を持ったままきょとんとした顔をした。
「何が?」
「うるさいって言ったろ」
「ああ、あれ。いいよ別に。慣れてるし」
トビーは本当に何でもないことのように肩をすくめて、株式欄に目を戻す。
慣れているという一言が少しだけ癪に障る。
この男は僕が機嫌を損ねるたびに黙り、機嫌が直るまで待って、また何事も無かったように隣に座る。
そうやって四年も僕の取り巻きをやってきたのだ。
便利な男だ。便利すぎて時々腹が立つ。
「それより、ケスラーがまた一ポイント上がってる。あと、レオンのお父さんが今朝の汽車で発つって、新聞の社交欄に出てるよ。『兵器王、首都の社交季節へ』だってさ」
「ふうん」
父の首都行きを、僕は父の口からは一度も聞かない。いつも秘書の口と新聞の社交欄で知る。
いつものことなので何とも思わないし、父が首都にいるあいだは屋敷に帰っても書斎の明かりを気にしなくていいのだから、むしろ気が楽だ。
そのとき続き部屋の扉がノックも無しに開いた。
ジーナだ。
ゆうべと同じ紺のワンピースのまま、拳銃の入った鞄を小脇に抱えて戸口に立っている。
どうやら貸し部屋には帰らず、廊下の長椅子で夜を明かしたらしい。白い頬に椅子の肘掛けの跡が赤く残っている。
肩から、僕の外套が掛かっている。どこで脱いだかも覚えていない僕の外套だ。
人の外套を毛布にして、人の部屋の扉の真ん前で寝る。猫の寝床の選び方だ。
「レオン、起きた? お腹すいた。どっか行こうよ」
「……お前、廊下で寝たのか。部屋、借りてやってるだろ」
「帰るの面倒だったんだもん。ここの長椅子、あたしの部屋の
ジーナは悪びれもせずに言って、トビーのコーヒーを横から取り上げ、一口で飲み干す。
トビーが「あ」と小さく抗議したが、ジーナに睨まれると黙って新しい茶碗にコーヒーを注ぎ直した。
気の毒な男だ。
「ねえ、レオン。靴下は?」
寝室の戸口からルシールが顔を出す。もう化粧はすっかり直してある。
その後ろからベティが帽子を手に首だけ覗かせていた。
「夕方って言っただろ」
「夕方まで待ってたら、お店の一番いい色が売れちゃうわ。今から行きましょうよ。ついでにお昼も食べられるし」
「そうよそうよ。ジーナもお腹すいたって言ってるじゃない」
三人の女に囲まれて、僕は額を押さえた。頭の中の鐘はまだ遠くで鳴っている。
どいつもこいつも、声がでかい。
だがここで断れば、夕方までずっとこの調子で責められる。
それくらいならさっさと買ってやって、どこかで昼寝でもしたほうがましだ。
「……分かったよ。中央通りの洋品店な。トビー、車を回せ」
「え、僕が運転?」
「お前が運転だよ! こんな頭でハンドルを握ったら、僕が溝に落ちる」
「やった!」
ベティが帽子をかぶりながら跳び上がる。
ルシールは勝ったような顔で毛皮のコートに手を伸ばした。四月の昼に。
◇
赤いオープンカーに五人を詰め込んで、港のホテルから中央通りへ向かう。
ハンドルを握るのはトビーで、助手席にジーナ、後ろの座席に僕とルシールとベティ。
二日酔いの頭で運転などしたら、本当に溝に落ちる。
「ちょっと、狭いわよ。レオン、もっとそっちに寄って。毛皮が潰れるじゃない」
「四月に毛皮着てくる人が悪いんだよ」
トビーがハンドルを握ったまま、振り返りもせずに面白がって言い返す。
「……レオン、車の外に吐くときは先に言ってね。止めるから。僕の運転のせいにされたくないし」
「吐かないよ。……たぶん」
石畳の段差を越えるたびに、胃の腑がまた裏返りかける。
もう二度と飲まない、と今日三度目の誓いを心の中で立てた。
港通りを横切るとき、岸壁に荷役の人足の列が見えた。
肩幅の広い男たちが半分ほど、肘から先の色が違う。
両腕に
港の荷役の請負会社が、施術費を立て替えて換えさせた腕だ。
換えれば常人の三人分の荷を担げるが、借りを返し終わるまで請負から一歩も動けない。
男たちは汗と塩にまみれて、黙々と麻袋を担いでいる。誰も株の話はしていない。
昨日の港通りの角の男も、ああいう列の一人だったのだろうか、と一瞬だけ思い、すぐにどうでもよくなった。
左の手のひらの傷が、じんと疼いた。二日酔いのせいだろう。
その隣は父の会社の大きな波止場だ。
灰色のゴム引きの帆布で手足と背中をぴったり包んだ男が、鉄の箱を二つまとめて肩に担ぎ上げている。
帆布の下に骨組みと筋肉を着込んでいるのだ。荷役に使う作業用の
軍の物よりずっと動きは鈍いが、起重機の腕の届かない船倉の奥でも働ける。
「ねえ、あっちの鎧みたいなのを使えばいいのに。そしたら、腕を換えなくて済むじゃない」
ベティが二つの波止場を見比べて、不思議そうに首を傾げる。
「あれ、すごく高いんだよ。一着で人足が何十人も雇えるくらい。それに置いておく場所と、中を流れる溶液と、技術者や医者まで要るんだ。だから、レオンのお父さんの会社みたいな大きな波止場にしか置けない」
トビーが前を向いたまま、得意そうに講釈を始めた。
「それに比べて、
なるほど、と僕は感心した。
高い道具は会社が買い、安い腕は人足が自分の給料で買う。
親方は懐を痛めずに強い腕を手に入れて、薬代まで本人に持たせる訳だ。
請負の親方というのは、なかなか頭のいい商売をするものだ。
「あの人たち、お休みの日は何してるのかしら。あんな腕でダンスなんかしたら、相手の女の子の腰が折れちゃいそう」
ベティが岸壁の男たちを珍しそうに眺めながら、くすくす笑う。
踊り子は男を見ると、まず一緒に踊れるかどうかを考えるものらしい。
「お休みなんか無いよ。あの人たちの給料は腕の借りを返すのと、薬代で消えちゃうから。ダンスどころか、日曜も働いてる。働けなくなったら、薬も買えなくなって、おしまい」
答えたのはジーナで、岸壁の男たちには目もくれない。
自分の腕にも同じ薬が要ることなど、まるで別の国の話のような顔だ。
もっともジーナの薬代を払っているのは僕なので、ジーナにとっては本当に別の国の話なのだろう。
「ふうん。かわいそう」
ベティは本当にかわいそうだと思っているのかどうか分からない声で言って、すぐに通りの帽子屋の飾り窓に目を移した。
港通りの角を曲がって中央通りに入った。
角の質屋の軒下で、人足が一人、煉瓦の壁に押しつけられている。
押しつけているのは山高帽の男が二人。
人足の換えた右腕は二人のどちらの腕より太いのに、だらりと下げたままだ。
山高帽の片方が人足のポケットを裏返し、小銭を一枚残らず自分の手のひらに移している。
「施術費の取り立てだよ。給料から引いても足りない人はね、ああやって角で待たれるんだって」
トビーが首をすくめて、見てはいけない物でも見たような小声で言った。
殴り返せば二人とも溝に沈められそうな腕なのに、人足は殴らない。
殴れば請負を首になり、首になっても借りだけは残るからだ。
三人分の荷を担ぐ腕を持っていて、小銭一枚守れないのだから可笑しい。
中央通りの交差点で、真新しい黒い自動車が三台、信号待ちで並んでいる。
運転しているのはどれも工員の作業着を着た男たちだ。
一人は窓から肘を突き出し、一人は隣に乗せた娘の肩を抱き、一人は信号が変わるのも待ちきれないようにエンジンを空吹かししている。
「あの車、たぶん三台ともレオンのとこの
運転席のトビーが信号待ちのハンドルに肘をついて、自分の手柄のように嬉しそうに振り返る。
「長屋の会社の店なんか、朝から行列だよ。使い切れない社内券は、みんなうちの窓口に替えに来る」
親父さんの窓口は今ごろ行列だろうに、倅は僕の車のハンドルを握ってご機嫌だ。
両替屋の倅にとって、給料日はお祭りなのだろう。
「あの黒いの、中央通りの販売店で売ってる一番安い型だろ。販売店の親父が自慢してるんだ。あそこで車を買う工員は、ほとんどレオンのとこの
「そりゃ買うさ! 三年払い続けて、払い終わる頃には車がぼろぼろでも、乗ってる三年が欲しいんだ。女の子を乗せて、ダンスホールの前で降ろしてやる三年がな」
「そうそう。乗ってる間は、自分が金持ちになった気がするんだって。僕だって、お金があったら買うもん」
トビーの声は半分は感心で、半分は羨ましそうだった。
自分が金持ちになった気がする、というその気持ちなら前の世界で嫌というほど知っている。
手の届かない物を月々の払いで手に入れて、払い終わる前に飽きる。
それでも工員の給料で僕と同じように車を流せるなら、嬉しくない筈が無い。
そしてその嬉しさのおかげで、寝ている間に三台分の利息が僕の封筒へ歩いてくるのだ!
信号が変わった。
工員の一人が僕の赤い車に気づいて、張り合うようにもう一度エンジンを空吹かしすると、隣の娘がきゃあきゃあと笑って男の肩を叩く。
僕は鷹揚に手を上げてやった。
お前のその車の利息は僕の財布に入るのだから、ちょっとくらい調子に乗っていても許してやれる。