放課後の第三アリーナは、西日が差し込んでいた。
高い天井のガラス窓から、オレンジ色の光が降り注ぎフィールドの白い床を淡く染めている。普段は静かなこの時間帯だが、今日は違った。フィールドの中央に立つ一夏の周囲に、緊張が張り詰めている。
「準備はいいか、二人とも」
一夏が声をかけた。その声は、いつもの能天気な調子ではなかった。どこか落ち着いた、低い響き。向かい側に立つセシリアと箒は、それぞれのISを展開していた。セシリアのブルー・ティアーズは、その名の通り青を基調とした流線型の機体だ。背部のビット「ブルー・ティアーズ」四機が、すでに展開されている。箒の打鉄は、武者鎧を思わせる黒い装甲。両肩の楯が、夕日を反射していた。
「ええ。いつでもどうぞ」
「ああ。かかってこい、一夏」
セシリアの声は、少し強張っていた。箒の声は静かだった。一夏は頷いた。手首の腕輪が光を放ち、白亜の装甲が彼の全身を包み込む。白鴉——角張った装甲板の集合体。背部の大型スラスターが、低い唸りを上げた。
「では——始める」
一夏の声と同時に、訓練が始まった。
セシリアが先手を取った。六機のビットが、蜘蛛の巣のように散開する。死角からのレーザー射撃。それが彼女の得意とする戦法だった。
「スターライト、発射!」
青い光が、一夏を襲う。だが——
一夏は、すでに動いていた。
「——遅い」
その声は、セシリアの耳に届くより速かった。一夏は、ビットの配置を一目見た瞬間に、すべての射線を把握していた。白鴉の背部スラスターが爆発的に噴射する。機体が、残像を残して加速した。レーザーが、空を切る。
「なっ——」
セシリアが驚愕する間もなく、一夏は彼女の死角に回り込んでいた。リニアライフルが、火を噴く。訓練用の低出力弾だが、その速度と精度は本物だった。セシリアのシールドエネルギーが、激しく揺らぐ。
「きゃあっ!?」
「セシリア、下がれ!」
箒が、打鉄のブレード「葵」を構えて突っ込んできた。その太刀筋は、鋭い。剣道の全国優勝者としての腕前が、ISの機動に乗って繰り出される。一夏は、その斬撃を紙一重でかわした。
「——いい太刀だな、箒」
その声に、箒は違和感を覚えた。一夏の声なのに、一夏じゃない。そんな感覚。だが、考える暇はない。一夏の反撃が、あまりに速かった。
白鴉の左腕が動く。パルスブレードが、刀身を形成する。一夏はその刀身で箒の「葵」を受け止めた。
「ぐっ——」
箒の腕に、衝撃が走る。一夏の動きは剣術の型にはまっていない。だが、無駄がない。最小限の動きで最大の効果を生む。そんな戦い方だった。
「箒さん、退いてください! ビットで援護します!」
セシリアが、体勢を立て直して叫んだ。四機のビットが、一斉に一夏を狙う。だが——
一夏は、その配置を見て小さく笑った。
「——この陣形、悪くない。だが穴がある」
そう呟くと、一夏は箒を押し返し上空へと跳んだ。四機のビットが、一斉にレーザーを放つ。だが一夏はそのレーザーの軌道を読み切っていた。まるで、未来が見えているかのように。白鴉が、レーザーの隙間を縫うように機動する。
「そんな——」
セシリアの声が震えた。一夏は、上空からリニアライフルを構えた。その照準は、正確にセシリアのビットの一機を捉えている。
「まずは、目を潰す」
一夏の声が、そう告げた。リニアライフルが、火を噴く。低出力弾がビットの一機に直撃した。訓練用の設定により、そのビットは機能を停止する。
「ブルー・ティアーズが一機!?」
「次」
一夏は、すでに次の行動に移っていた。背部のレーザーキャノンが、照準を合わせる。標的は箒の打鉄。箒は、その照準の意味を理解して横に跳んだ。だが、一夏の狙いはそこではなかった。
「——甘い」
レーザーキャノンが放たれる。その光は、箒を狙ったものではなかった。箒の背後にあった、セシリアのもう一機のビットを正確に撃ち抜いたのだ。
「えっ——」
セシリアが、言葉を失った。箒もその戦術の意図を理解して、息を呑んだ。一夏は箒を狙うことで、セシリアのビットを撃った。箒が避けることを読んで、その先の空間を狙ったのだ。なんという先読み。なんという戦術眼。
「二人とも、もう終わりか?」
一夏の声が、フィールドに響く。その声は冷徹だった。まるで、戦場での判断を下す指揮官のように。セシリアは、その声に恐怖を覚えた。箒も同じだった。
「まだだ!」
箒が、声を張り上げた。打鉄のブレードを、再度構える。その目には闘志が宿っている。一夏は、その姿を見て少しだけ表情を緩めた。
「いいぞ、箒。その意気だ」
だが、その声は、やはり一夏のものではなかった。
訓練は、その後も続いた。一夏はセシリアと箒の連携を、一つ一つ崩していった。ビットの配置を読み、箒の太刀筋を予測しその隙を突く。その戦い方は、まるで長年の戦場経験を持つ歴戦の傭兵のようだった。セシリアも箒も、何度も地面に叩きつけられた。だが、その度に立ち上がった。二人の連携は、訓練を重ねるごとに少しずつ洗練されていった。一夏は、その成長をどこか嬉しそうに見ていた。
そして、訓練が終わったのは日が完全に沈みかけた頃だった。
「——そこまで」
一夏の声が、フィールドに響いた。白鴉の装甲が、光の粒子となって消えていく。一夏は、腕輪に戻ったISを見て小さく息を吐いた。その顔には、いつもの能天気な笑みが戻っていた。
「いやー、二人とも強くなったな。特に最後の連携、良かったぞ」
「……お前は、相変わらずだな」
箒が、疲れた様子で言った。その声には、少しだけ悔しさが滲んでいた。
「え、何が?」
「とぼけるな。お前のあの動き、明らかに普通じゃない」
「そうか? 俺はただ、いつも通りやっただけなんだけどな」
一夏は、本気でそう言っているようだった。そのことに、箒は言葉を失った。セシリアも、疲れた顔で一夏を見ていた。
「織斑さん。あなた、本当に自分が何をしているか分かっていませんの?」
「え? いや、まあ……」
「あれだけの戦術を、『いつも通り』で片付けられると、わたくしたちの立場がありませんわ」
「ご、ごめん。でも本当にそうなんだよ。体が勝手に動くというか」
一夏は、頭をかいた。その仕草はいつもの一夏だった。だが、箒とセシリアはその言葉の意味を、噛みしめていた。体が勝手に動く。それは、つまりそういうことなのだ。
「まあいい。とにかく、お互いお疲れ様だ」
「ええ。お疲れ様でしたわ」
セシリアが、そう言って、ISを解除した。箒もそれに続く。
「二人とも、シャワー浴びてくるといいよ。俺は、ちょっと片付けがあるから」
「分かった。先に行くぞ」
「ええ。ご一緒しますわ、箒さん」
箒とセシリアは、連れ立ってアリーナを後にした。一夏は、その背中を見送りながら小さく呟いた。
「……本当に、なんでこんなに動けるんだろうな」
その声は、誰にも届かなかった。
---
シャワー室は、湯気で白く霞んでいた。
箒とセシリアは隣り合ったシャワーブースで、訓練の汗を流していた。温かい湯が、疲れた体を包み込む。だが二人の頭の中は、まだ訓練の余韻に浸っていた。
「……ねえ、箒さん」
「何だ」
「織斑さんのあの動き。やっぱり、おかしいと思いませんか」
「ああ。おかしいな」
箒は、湯を頭から被りながら答えた。その声は、静かだった。セシリアはその声を聞いて、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「わたくし、最初は、ただの才能だと思っていましたの。織斑さんは、ISの操縦に天性の素質を持っているのだと。でも、今日の訓練でそれが間違いだと分かりましたわ」
「どうしてそう思った」
「あの戦術は、才能じゃない。経験ですわ。それも、かなり濃密な実戦の。才能だけでは、あんな先読みはできません。あれは、何度も何度も戦場をくぐり抜けた者だけが持つ、戦術眼ですわ」
セシリアの声は、確信に満ちていた。箒はその言葉に、静かに頷いた。
「私も、同じことを思った。一夏のあの動きは、明らかに戦い慣れている。だが、一夏はIS学園に来るまで、戦いなんて縁がなかった。それは、私が一番よく知っている」
「では、どうして」
「分からん。だが、一つだけ言えることがある」
「何ですの」
「あの動きは、一夏のものじゃない。一夏の中の、別の何かのものだ」
セシリアは、その言葉に、息を呑んだ。シャワーの音だけが、しばらく響いていた。
「……やはり、そう思いますの」
「お前も、同じことを考えていたか」
「ええ。あの冷たい目。あの冷徹な声。あれは、一夏さんじゃない。わたくしが知っている織斑一夏は、あんな目をしません。あんな声を出しません」
「そうだな。あの時の一夏は、一夏じゃない。だが一夏だ」
「……難しいことを言いますわね」
「そうかもしれん。だが、それが真実だ。一夏の中には一夏じゃない何かがいる。だが、それは一夏を害そうとはしていない。むしろ、一夏を守っているようにも見える」
箒は、湯を止めた。セシリアもそれに続く。
「守っている、ですか」
「ああ。あの戦術は、一夏を守るためのものだ。敵を無力化し、生き残るための。一夏はそれを無意識に使っている。まるで、体に染みついているかのように」
「体に染みついている……」
セシリアは、その言葉を、繰り返した。そして少し考え込んだ。
「箒さん。あなた、織斑さんのことをどこまで知っていますの」
「どこまで、か」
「幼馴染だと聞きました。でしたら、何か知っているのでは」
「私が知っている一夏は、お人好しで、ISのことになると周りが見えなくなる、ただの少年だ。だが時々、あの目をする。その時だけ、一夏は私の知らない誰かになる」
「それについて、織斑さん本人は」
「気づいていない。いや、気づいていないふりをしているのかもしれない。だが、どちらにせよ一夏は、自分の中の『何か』を、自覚していない」
セシリアは、その言葉を聞いて少しだけ俯いた。シャワーの湯が、彼女の髪を伝って落ちていく。
「……怖いですわね」
「ああ。怖い」
「でも、不思議と、嫌ではないのです。一夏さんのあの目は、確かに冷たいですけどどこか、哀しいのです。何かを背負っているような。そんな目なのです」
「……お前も、そう思うか」
「ええ。わたくしだけかと思っていました」
セシリアは、少しだけ顔を上げた。その頬には、湯気のせいだけではない微かな赤みがあった。
「箒さん。わたくし、一夏さんのことをもっと知りたいと思っていますの」
「それは、ライバルとしてか」
「それもありますわ。でも、それだけではないのです。わたくしは、織斑一夏という人間に興味があるのです。あの中にいる『何か』も含めて」
箒は、その言葉に、少しだけ驚いた。セシリアがそこまで考えているとは思わなかったからだ。
「……そうか」
「箒さんは、どうですの」
「私は、一夏の隣にいると決めた。あの中に何があろうと、一夏は一夏だ。それは変わらない」
「強いですわね」
「強くはない。ただ、そう決めただけだ」
箒は、そう言って、タオルを手に取った。セシリアも、それに続く。
「では、これからも、よろしくお願いしますわ。一夏さんのことで、協力できることがあれば」
「ああ。その時は、頼む」
二人は、シャワー室を後にした。その表情は、訓練の前よりも少しだけ和らいでいた。一夏の中の「何か」。それは、まだ謎に包まれている。だが二人は、その謎に共に立ち向かうことを、静かに決意していた。
(一夏。お前の中に何がいるのか、私は知りたい。そしてそれが何であれ、お前を守りたい。それが私の決めたことだ)
箒は、心の中で、そう呟いた。セシリアも同じような想いを胸に、廊下を歩いていた。夕日はすっかり沈んでいた。だが、二人の心には一夏という存在が、確かに灯っていた。
―――
訓練を終えた一夏は、一人で廊下を歩いていた。
第三アリーナから寮へ向かう渡り廊下は、この時間になると人通りが少ない。窓の外はすっかり暗くなっていて、校舎の灯りだけが等間隔に廊下を照らしている。一夏は腕輪に戻った白鴉を無意識に左手で弄りながら、さっきの訓練を振り返っていた。
(箒もセシリアも確実に強くなってる。連携の取り方も前よりずっと洗練されてた。あの調子なら、次の模擬戦も——)
そこで、一夏は足を止めた。
背中に、視線を感じる。いや視線だけではない。気配だ。人の気配。それも、ただ立っているだけではない。こちらの出方を窺っているような、そんな気配。一夏はゆっくりと振り返った。誰もいない。廊下の先には、消えかけた蛍光灯が一本ちかちかと瞬いているだけだった。
(——いるな)
一夏の意識がすっと切り替わる。さっきまでの訓練の余韻が、頭の隅へ追いやられた。肩の力が抜け、重心がわずかに下がる。無意識のうちに、いつでも動ける体勢を取っていた。
「——出てこいよ」
一夏は、廊下の角に向かって声をかけた。その声は、少しだけ低かった。一拍の沈黙。そして、角の向こうからひょこりと人影が現れた。
「あら、見つかっちゃった」
飄々とした声だった。現れたのは、一人の女子生徒だった。制服の上からでも分かるほどにすらりとした体躯。その顔には、人懐っこい笑みが浮かんでいる。更識楯無。IS学園の生徒会長にして、専用機持ちの一人。一夏はその名前と顔を、入学式で見ていた。
「楯無先輩」
「やっほー、一夏君」
楯無は、ひらひらと手を振った。その所作は、どこか軽やかで掴みどころがない。だが、一夏は警戒を緩めなかった。この人は、ただの生徒会長じゃない。一夏の中の何かが、そう告げている。
「……何か用ですか」
一夏の声は、硬かった。楯無はその声を聞いても、笑顔を崩さない。むしろその笑みを少しだけ深くした。
「警戒してるねえ」
「当然です。こんな時間に、こんなところでこっそり後をつけてくる人を、警戒しない理由がありません」
「まあ、そうだよね」
楯無は、あっけらかんと頷いた。その態度は、どこか一夏の警戒心を逆に煽るものだった。
「別に、悪いことをしようってわけじゃないんだよ? ただ、ちょっと話さない?」
「話、ですか」
「そう。ちょっとだけ」
楯無は、そう言って、一歩近づいた。一夏はその分だけ、後ろに下がった。その様子を見て、楯無はくすりと笑った。
「ふふ。やっぱり、面白いね、君は」
「……何がです」
「その警戒心。普通の一年生は、生徒会長にこんなに警戒しないよ。ましてや、男子が女子にこんなに警戒するなんて、普通はないんだよ?」
楯無の言葉には、含みがあった。一夏はその言葉の意味を、頭の中で反芻した。普通はない。そう言った。それは、一夏が「普通」ではないことを、楯無が知っているということか。
「……先輩は、何を知ってるんですか」
「さあ、何だろうね」
楯無は、とぼけるように首を傾げた。その仕草は、本当に何も知らないかのようにも見えるし、すべてを知った上で楽しんでいるようにも見える。一夏は、その掴みどころのなさに少しだけ苛立ちを覚えた。
「用件を言ってください。俺は、別に先輩と話すことなんてないですから」
「つれないなあ。せっかく、君に興味があるのに」
「興味?」
「そう。君のこと。君の中のこと」
一夏の背筋にすっと冷たいものが走った。君の中のこと。その言葉は、あまりにも直接的だった。一夏は、思わず左手の腕輪を、きゅっと握った。
「……どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だよ。君の中にいる、『何か』のこと」
楯無は、笑顔のまま、そう言った。その声は軽やかだった。だが、その内容は一夏の心臓を、鷲掴みにするのに十分だった。
「俺の中に……何か、なんて」
「とぼけなくてもいいよ。私、そういうの、結構分かるんだ」
楯無は、そう言って、一夏の目をじっと覗き込んだ。その瞳は、さっきまでの飄々としたものではなく、どこか真剣な色を帯びていた。
「一夏君。君、時々、すごく怖い目をするよね」
一夏は、何も言えなかった。楯無の言葉は、一夏自身がうすうす気づいていたことを、的確に突いてきたからだ。
「その目、自分では気づいてないみたいだけど、結構目立ってるよ。少なくとも、私にはね」
「……それが、何か」
「別に、責めてるわけじゃないよ。ただ、ちょっと気になってね。その目をする時の君は、君じゃないみたいなんだ。まるで、別の誰かが君の体を使ってるみたいな」
一夏は、言葉を失った。箒もセシリアも、同じようなことを言っていた。だが、楯無の言葉はそれよりももっと、核心に近かった。まるで見透かされているような感覚。一夏は、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「……先輩は、俺のことが、怖くないんですか」
「怖い?」
「俺の中に、何かがいるかもしれないって。それが、何をしでかすか分からないって」
一夏は、そう言って、楯無をまっすぐに見つめた。その目は、さっきまでの警戒したものから、少しだけ違う色を帯びていた。それは、恐怖ではなく、どこか試すような色。楯無は、その目を見て一瞬、息を呑んだ。だが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「怖くないよ」
「どうして」
「だって、君は、君でしょ」
楯無は、そう言って、けろりとした顔で一夏の目の前まで、歩み寄った。その距離はもう、手を伸ばせば届くほどだった。
「君の中に、何がいるかは私にも分からない。でも、君は、君の意志でそれを抑えてる。違う?」
「……抑えてる、なんて」
「してるよ。少なくとも、私には、そう見える。君の中の『何か』は、君が、制御しようとしてる。だから、怖くない」
楯無は、そう言って、にっこりと笑った。その笑顔は、さっきまでの飄々としたものではなく、どこか温かみを帯びていた。一夏は、その笑顔を見て張り詰めていたものが、少しだけ緩むのを感じた。
「……先輩は、強いですね」
「そう? ただ、図太いだけだよ」
楯無は、そう言って、けらけらと笑った。その笑い声は、廊下に軽やかに響いた。
「ま、そんなわけで一夏君。あんまり、一人で抱え込まないことだよ。君の周りには、君のことを心配してる人がたくさんいるんだから」
「……はい」
「よろしい。じゃあ、私はこれで」
楯無は、そう言って、ひらりと一夏に背を向けた。そして、数歩歩いたところで振り返った。
「あ、そうだ。一夏君」
「何ですか」
「今度、生徒会室に遊びに来なよ。お茶くらい、出すからさ」
「……考えておきます」
「うん。待ってるね」
楯無は、そう言って、今度こそ廊下の角の向こうへ、消えていった。その足音はすぐに、聞こえなくなった。一夏はその場に、しばらく立ち尽くしていた。楯無の言葉が、頭の中で繰り返される。
(君の中の『何か』は、君が、制御しようとしてる。だから、怖くない)
「……制御、ね」
一夏は、ぽつりと、呟いた。自分ではそんなつもりは、なかった。だが楯無には、そう見えた。それは一夏にとって、少しだけ意外なことだった。同時に、どこか救いでもあった。
(——あの人は何か知ってるな)
頭の中の声がそう呟いた。一夏は、心の中で答えた。
(——ああ。きっと、な)
(——気をつけろ。ああいう人間は、厄介だ。何を考えているか分からない)
(——分かってる。でも悪い人には、見えなかった)
(——それも、罠かもしれないぞ)
(——かもしれない。でも、今は、そう思いたい)
頭の中の声は、それ以上、何も言わなかった。一夏は腕輪を、そっと撫でた。そして、寮へと歩き出した。廊下の灯りが、その背中を静かに、照らしていた。
―――
楯無は廊下を歩いていた。
一夏と別れた後、その足取りはゆったりとしていたが、頭の中は驚くほど活発に動いていた。彼女の笑顔はいつもの飄々としたものだったが、その内側では先ほどの会話が幾度も反芻されていた。
(さて、と)
楯無は角を曲がり人気のない階段へと足を向けた。生徒会室とは逆方向だ。別に急いで戻る理由もない。むしろ、一人で考える時間が欲しかった。
(一夏君、か。思ったよりずっと面白い)
彼女が一夏に興味を持ったのは、決して偶然ではなかった。入学式の日、彼が唯一の男子生徒として紹介された時から、楯無は彼のことを注視していた。だが、それは「珍しいから」という理由だけではなかった。あの日、壇上に立つ一夏の立ち姿を見た瞬間、楯無はある違和感を覚えたのだ。
(あの立ち方。重心の位置。周囲への視線の配り方。どれも、普通の十五歳の少年のものじゃなかった)
一夏本人は気づいていないだろう。だが、彼は無意識のうちに「戦場」に適した立ち方をしていた。それは、長く危険な場所で生きてきた者だけが身につける、体に染みついた習慣。楯無はその手の「癖」を、幼い頃から見分ける環境で育ってきた。更識家。表向きはIS学園の運営に関わる名家だが、その裏には対IS戦闘のプロフェッショナルを輩出してきた歴史がある。楯無自身も、その血筋の中で揉まれてきた一人だ。
(最初は、織斑先生の弟だからかなとも思った。でも、違う。千冬先生の動きとは根本的に系統が違う。千冬先生は『鍛え上げられた剣』。でも、一夏君のあれは……もっと、泥臭い。生き残るための実戦の匂いがする)
階段を上がりながら楯無は先ほどの一夏の様子を思い出していた。彼女が気配を消して近づいた時のこと。一夏は、確かに彼女の存在を察知していた。それも、かなり早い段階で。楯無は自分の気配遮断にはそれなりの自信があった。IS学園の生徒会長として、また更識の人間としてその手の訓練は積んでいる。だが、一夏はまるで「慣れている」かのように、彼女の気配を読んだ。
(あれは、勘じゃない。経験だ。何度も何度も、背後から狙われるような状況をくぐり抜けてきた人間の、体に染みついた反応)
そして、振り返った時の一夏の目。あの瞬間、彼は間違いなく「戦闘状態」に切り替わっていた。肩の力が抜け、重心が下がりいつでも動ける体勢。あれは、意識してできるものではない。無意識に、体がそうなるのだ。何度も繰り返した結果、染みついた動作。楯無はその事実に、背筋がぞくりとするのを感じた。
(一夏君は、自分では気づいてない。でも彼の中の『何か』は、確かに彼を戦士にしている。しかも、かなり高位の)
窓の外を見ると、すっかり夜だった。校舎の灯りが、遠くのアリーナをぼんやりと照らしている。楯無は、その光を見ながらさらに思考を巡らせた。
(問題は、その『何か』が、どこから来たのか。だよね)
楯無は、一夏のバックグラウンドを思い出していた。織斑一夏。織斑千冬の弟。ごく普通の家庭で育ち、ISとは無縁の生活を送ってきた。少なくとも、公式の記録ではそうなっている。だが、その記録にはいくつもの「空白」があった。一夏が幼少期を過ごした時期の詳細な記録が、妙に少ないのだ。千冬ほどの人物の弟であれば、もっと詳細な記録があってもおかしくない。なのに、だ。
(千冬先生が何かを隠してる。それは、間違いない。そしてその隠し事は、一夏君自身の『何か』と、無関係じゃない)
楯無は、そこで一度立ち止まった。手すりに手を置き、夜の闇を見つめる。彼女の脳裏に、一夏のあの「冷たい目」が浮かんでいた。あの目を見た瞬間、楯無は直感的に理解した。あれは、人を殺めたことのある者の目だ、と。しかも一度や二度ではない。戦場で、生き残るために誰かを排除してきた者の目。
(でも、一夏君は、それを自覚してない。自覚してないのに、体だけが覚えてる。まるで別の誰かの記憶が、彼の中に流れ込んでるみたいに)
その考えは、突飛だった。だが楯無は、それを一笑に付すことができなかった。ISの技術は、まだまだ未知の部分が多い。もしかしたら、何らかの形で一夏の脳に「別の記憶」が刷り込まれている可能性も、ゼロではない。いやもっと単純に——
(一夏君自身が何かの『器』なのかもしれない。誰かの記憶や経験を、その身に宿すための)
そこまで考えて、楯無はふっと笑った。自分の思考が、少し飛躍しすぎている。そう自覚していた。だが、彼女の直感はこういう時のためにある。更識の人間として、数々の危険な任務をくぐり抜けてきた楯無は、自分の直感を信じていた。
(ま、今はまだ、確証はないけどね)
楯無は、再び歩き出した。今度は生徒会室へと向かう方向だ。彼女の頭の中では、すでに「次の一手」がいくつか浮かんでいた。
(一夏君の周りにはこれからどんどん人が集まるだろう。箒に、セシリア。それにあの中国からの転校生。彼女たちが、一夏君の『何か』にどう関わっていくのか。それを見ているのも、面白そうかも)
そして、自分自身はどうするか。楯無は、その問いに対してすぐに答えを出した。
(私は、一夏君を『観察』しよう。彼の中の『何か』が、何なのか。それがIS学園にとって、あるいは世界にとってどんな意味を持つのか。それを、見極める。生徒会長としてそして更識の人間として)
だが、その一方で、彼女の中には別の感情も芽生えていた。先ほど、一夏と話した時のこと。彼は楯無の言葉に対して、真っ直ぐに「怖くないんですか」と問いかけてきた。その目は、純粋だった。自分の中の「何か」に、本気で怯えている少年の目。楯無は、その目を見て少しだけ胸が痛んだ。彼は、まだ十五歳なのだ。何も知らない、普通の少年だったはずなのだ。なのに、その体には彼自身も知らない「何か」が宿っている。それは、どれほど孤独なことだろう。
(……少し、手を貸してあげてもいいかな)
楯無は、そう思った。それは生徒会長としての打算ではなく、一人の人間としての素直な感情だった。廊下の灯りが、彼女の横顔を照らす。その表情は、いつもの飄々としたものではなく、少しだけ優しげだった。
(まずは、情報収集からだね。一夏君の過去。それに、白式……いや、『白鴉』だったか。あの機体のことも、もっと詳しく知りたい)
白鴉。一夏が纏う、あの白亜の機体。あれはIS学園のデータベースには載っていない機体だった。少なくとも、楯無が把握している限りでは。白式の一次移行体、というのが公式の説明らしいが、楯無はそれが嘘だと見抜いていた。あの機体は、白式とは根本的に設計思想が違う。まるで、別の世界の技術で作られたかのような——
(別の世界、ね)
楯無は、その言葉を、頭の中で転がしてみた。そして、小さく首を振った。
(考えすぎか。でも、否定はできない。この学園には、それくらいの『未知』が、まだまだ転がってる)
生徒会室の扉が見えてきた。楯無は、その前で一度立ち止まり深呼吸をした。そして、いつもの飄々とした笑顔を顔に貼り付けた。
「さて、と。仕事、仕事」
彼女は、そう言って、扉を開けた。中には先に戻っていた生徒会の役員たちが、書類仕事をしていた。
「あ、会長。遅かったですね」
「ごめんごめん。ちょっと、寄り道しちゃって」
楯無は、そう言って、自分の席へと向かった。椅子に腰を下ろし、書類の山を手に取る。だがその頭の片隅では、まだ一夏のことが考えられていた。
(一夏君。君の中の『何か』は、きっと、君を守るためのものなんだろうね。でも、それがいつか君自身を苦しめることにならなければいいけど)
その想いは、誰にも告げられることなく楯無の胸の内に静かに仕舞われた。彼女は、書類に目を落とした。だがその目は、しばらくの間文字を追うことをしなかった。