三時限目の教科はIS概論だったが、教壇に立ったのは摩耶ではなかった。
扉が開いた瞬間教室の空気が引き締まる。さっきまでざわめいていた女子生徒たちが一斉に背筋を伸ばし、私語を止めた。一夏も思わず座り直す。足音も立てずに教壇へ上がったのは、やはり姉だった。千冬は教卓の前に立ち、腕を組んだまま教室を見渡す。その視線は冷徹で、どこまでも公平でどこか遠い。
「再来週。クラス対抗戦が行われる」
千冬は前置きもなくそう切り出した。教室がざわめく。クラス対抗戦——IS学園に入学してまだ間もない一夏でも、その言葉の重みは分かった。クラス単位でISの操縦技術を競う、実技形式の試験のようなものだ。代表者が出場し、模擬戦を行う。
「各クラスから代表者を一人選出する。ただし」
千冬の声が、わずかに低くなった。
「代表者はクラスの看板だ。選ばれた以上、負けることは許されない。分かったな」
返事はなかった。だが、女子生徒たちの表情が一様に引き締まる。誰もが分かっている。クラス対抗戦で勝てば名誉だが、負ければクラス全体の評価が下がる。代表者は責任を負う立場だ。
「では、代表者を決める。立候補あるいは他薦で決める。意見のある者は手を挙げろ」
千冬がそう言った瞬間教室のあちこちで女子生徒たちが顔を見合わせた。そして——一夏は嫌な予感がした。その予感は、的中した。
「はい!」
最初に手を挙げたのは、一夏の右斜め前の席に座る女子生徒だった。名前はまだ覚えていない。だが、その顔には確かな悪戯心とほんの少しの好奇が浮かんでいる。
「織斑一夏くんを推薦します!」
教室が、爆発した。
「賛成!」
「私も!」
「織斑くんしかいないでしょ!」
「男子のIS操縦者、見てみたい!」
「クラス対抗戦で男子がISに乗るなんて、歴史に残るわよ!」
次々と手が挙がる。女子生徒たちの声が重なり合い、一夏の名前が何度も呼ばれる。その熱気はまるで祭りだ。一夏はといえば、机の上で両手を広げて「待って待って」と制止しようとしていたが、その声は喧騒に飲み込まれてまったく届かない。
「ちょ、ちょっと待ってくれって! 俺まだISのことよく分かってないし! 実技なんて全然——」
「静まれ」
千冬の一言で教室は瞬時に静まった。一夏は口を半開きにしたまま、姉を見上げる。千冬は一夏を見ていた。その目は、先ほどまでとは違う何かを含んでいる。冷徹さの奥に、ほんのわずかな——期待? いや、違う。試している。そう一夏の脳のどこかが囁いた。
「他薦された者に拒否権はない。織斑、お前が代表だ」
「ええっ!?」
「異議は認めない」
一夏は立ち上がりかけてやめた。姉の目が「座れ」と言っている。仕方なく座り直すと、周囲の女子生徒たちから「よかったね!」「頑張って!」という声が飛んでくる。よかったね、じゃない。一夏は内心で頭を抱えていた。ISの実技なんて、入学試験のときに一度やったきりだ。しかもあのときは必死で、何をどうやったのか正直よく覚えていない。
(——いや、覚えてる。体が覚えてる。あの感覚)
脳裏で、誰かが静かに言った。一夏はそれを振り払うように頭を振る。そのとき。
「異議がありますわ」
教室の空気が、張り詰めた。
声の主は、セシリア・オルコットだった。彼女は優雅に立ち上がり、周囲の視線を一身に浴びながらも微動だにしない。その背筋はピンと伸び、顎はわずかに上げられまるで舞台上の女優のような立ち姿だ。だが、その瞳は真剣そのものだった。
「セシリア、何か言いたいことがあるのか」
千冬が静かに問う。セシリアは一歩前へ出た。
「はい、織斑先生。この選出には賛成しかねます」
教室が、しんと静まり返った。女子生徒たちは息を呑み、一夏も思わずセシリアを見つめた。
「申し上げますわ。クラス対抗戦は、クラスの名誉を懸けた戦いです。そこに、ISの実技経験がほとんどない者を代表として送り出すのは、あまりに無責任ではありませんか?」
セシリアの声は澄んでいて、よく通った。感情を排した論理的な響きがあった。
「織斑一夏が入学試験で教官に勝った——その話は先ほど伺いました。ですが、それとこれとは話が別ですわ。試験と実戦形式の模擬戦では、求められるものがまるで違う。ましてや、彼はISの基礎すらまだ学んでいない。そんな状態で代表に選ばれれば、クラス全体が——」
彼女は一夏を見た。その目には、先ほどまでの棘とは違うものが宿っていた。危惧。あるいは、責任感。
「——クラス全体が、笑いものになりますわ」
一夏は、何も言い返せなかった。セシリアの言い分は、正しい。正しすぎるほどに。自分でもそう思う。ISに乗れると言っても、それはただ「適性があった」というだけの話だ。実戦経験なんてない。ましてや、代表としてクラスの名誉を背負うなんて——。
(——だが、待て。本当にそうか?)
脳裏で、別の声がした。
(——あの娘の言い分は正しい。だが、正しさだけじゃ戦場は生き残れない。実戦経験がないから選ばない——それなら、経験はどこで積む? 戦場に出る前に、戦い方を覚えられると思うな)
(——初陣で死ぬ奴はたいてい「準備が足りない」と言われる。だがな、準備が整うことなんて一度もないんだ)
一夏は、無意識に拳を握っていた。セシリアの言葉に対する反発ではない。もっと別の、自分の中の何かが——レイヴンが——反応している。
「セシリアの言い分も最もだ」
千冬が口を開いた。その声は、どこまでも公平だった。
「だが、織斑を推薦した者が多いのも事実。クラスの総意を無視するわけにはいかない」
千冬はそこで一度言葉を切り、セシリアを見た。
「セシリア・オルコット。お前がそこまで言うなら、お前が代表になればいい。英国代表候補生としての実力、このクラスで一番はお前だという自負があるのだろう」
セシリアは、一瞬だけ言葉に詰まった。だが、すぐに頷く。
「ええ。そのつもりですわ。ですが——」
彼女の視線が、再び一夏を捉えた。
「——私は、この選出の過程に納得していないだけです。実力も示さずに代表に選ばれる——そんな不公正が、このクラスにあっていいのですか?」
教室が、ざわめいた。セシリアの言い分は、もっともだ。だが一夏を推薦した女子生徒たちにとっては、自分たちの判断を否定されたも同然だ。あちこちから「それは言い過ぎよ」「別にいいじゃない」という声が上がる。
千冬は、しばらく黙って考えていた。そして——口を開いた。
「ならば、決めればいい」
その声は、あまりにもあっさりとしていた。
「一週間後の月曜、放課後。第三アリーナで織斑とセシリアの模擬戦を行う。勝った方を代表とする」
教室が、静まり返った。誰もがその言葉の意味を噛みしめるのに数秒を要した。そして——
「えええええっ!?」
一夏の声が、教室に響いた。だが誰も笑わない。千冬の目が、本気だと告げている。
「せ、先生!? いきなり決闘って——」
「模擬戦だ。決闘ではない。ただし、勝敗は明確につける。ISの機体は学園の訓練用を使用する。安全装置は作動させるが、それ以外の制限はない」
千冬は一夏を見た。その目は、先ほどよりもさらに深い何かを含んでいる。
「一週間。お前に猶予を与える。その間に、ISの扱いを覚えろ。基礎も実戦も、すべてだ。それができないなら——お前は代表にふさわしくない、というだけのことだ」
一夏は、言葉を失った。一週間。たった一週間で、ISの基礎を覚えて代表候補生と戦えるようになれと——そういうことか。
「異議は?」
千冬が、セシリアに問う。セシリアは一瞬だけ目を閉じ、それからゆっくりと頷いた。
「ありませんわ。むしろ、願ってもない機会です。実力で決める——それが最も公正な方法でしょう」
セシリアは一夏を見た。その目には、もう棘はなかった。あるのは純粋な闘志と——ほんの少しの、好奇心。
「一週間後、よろしくてよ。織斑一夏くん」
一夏は、唾を飲み込んだ。断る理由はもうどこにもなかった。
「……ああ。よろしく」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。脳裏で、複数の声が重なる。
(——一週間か。長いようで短いな)
(——だが、やるしかない。それが傭兵の——いや、代表者の務めだ)
(——面白い。久しぶりに、血が騒ぐ)
一夏は、小さく息を吐いた。窓の外では、青空が広がっている。平和な日常の空だ。だが、一週間後——その空の下で自分は戦うことになる。ISに乗って、セシリア・オルコットと。
(——戦う、か)
その言葉が、やけにしっくりきた。自分でも意外なほどに。
千冬は、そんな一夏の様子を見てほんの一瞬だけ——本当に一瞬だけ——口元を緩めた。誰も気づかないほどに。
「では、授業を始める。教科書の——」
千冬が話し始めたが一夏の耳にはもう入ってこなかった。頭の中では、すでに別のことが回り始めている。
(——一週間。何から始める?)
(——まずは機体の特性を把握する。訓練用のISは汎用型だが、癖はあるはずだ)
(——それから、セシリアの戦術を分析する。英国代表候補生——何を使ってくるか)
(——ああ、それと——)
一夏は、ふと我に返った。
(——なんで俺、こんなこと考えてるんだ?)
ISの操縦なんてまともにやったこともないのに。なのに、頭の奥では作戦が組み立てられ、機体の特性が分析され敵手の戦術が予測されている。まるで、ずっと前から知っているかのように。
(——まただ)
一夏は、こめかみを軽く叩いた。だが今回は——なぜか、その感覚を振り払おうとは思わなかった。
(——使えるものは使う。それもまた、傭兵の——)
(——いや、違う。俺は、織斑一夏だ)
そう心の中で唱えながら、一夏は教科書を開いた。文字が、いつもよりくっきりと目に入ってくる気がした。
(——一週間。やってやる)
その決意が、自分の中のどこから来るのかは分からない。だが、確かにそこにあった。
放課後の教室は、朝とはまるで別の場所のようだった。
窓から差し込む夕陽が机の列を橙に染め、女子生徒たちの談笑が廊下まで響いている。一夏はといえば、教科書を鞄に詰めながら一人静かに息を吐いていた。三時限目以降の授業は、正直ほとんど頭に入っていなかった。頭の奥で作戦めいた思考が回り続け、そのたびに自分で「違う」と打ち消す。その繰り返しで、ひどく疲れていた。
(一週間。あと一週間で、あのセシリアって奴と戦うのか)
鞄の留め金をパチンと閉じる。その音がやけに大きく響いた気がした。
「織斑」
背後から声をかけられ、一夏は振り返った。千冬が腕を組んだまま立っていた。その後ろには山田摩耶が、にこにこと笑みを浮かべて控えている。摩耶の手には、小さな封筒のようなものが握られていた。
「織斑先生。それに山田先生も。どうしたんですか?」
「話がある。少し付き合え」
千冬はそれだけ言ってさっさと教室の出口へ向かう。有無を言わせぬ背中だった。一夏は慌てて鞄を肩にかけ、摩耶と並んで後を追った。廊下に出ると、まだ残っていた女子生徒たちの視線が一斉に集まる。一夏はその視線から逃れるように、千冬の背中を早足で追った。
「あの、織斑君」
摩耶が、一夏の横で小声で言った。その声は柔らかく、どこか気遣う響きがあった。
「実はですね、寮の部屋が決まりました」
「え?」
一夏は足を止めかけた。寮の部屋。確か、入学前の説明では「男子用の設備が整うまで一週間ほどは自宅から通学すること」になっていたはずだ。それが急に、どうして。
「一週間は家から通うって話だったのに」
「ああ、それはな」
前を歩いていた千冬が、振り返らずに言った。その声は淡々としているが、どこか硬さがあった。
「お前の安全を考えて、変更した」
「安全?」
一夏は首をかしげた。千冬はようやく足を止め、振り返る。その目は教室で見せた冷徹な教師のそれではなく、どこか不器用な姉の顔だった。
「男子が一人で通学する。それだけで目立つ。ましてやこの学園は女子ばかりだ。通学路で何があるか分からん。お前が無事に過ごせるよう、少しでも早く学園内に住まわせる方がいいと判断した」
「……そっか。ありがとうございます」
一夏は素直に頭を下げた。千冬は「礼を言われるようなことじゃない」とだけ言って、また歩き出した。だがその耳がほんの少し赤かったことに一夏は気づかない。気づいたのは摩耶で、彼女は小さく笑みをこぼした。
「それでですね」
摩耶が一夏の前に回り込んだ。その手に握られていた封筒を差し出す。
「今、個室の準備ができていなくて。一ヶ月後には用意できるんですが、それまでは相部屋で我慢してほしいんです」
「相部屋」
一夏は封筒を受け取りながらその言葉を繰り返した。相手は誰なのか、と口にしかけてやめた。女子だらけの学園で、男子の自分が相部屋になる。その相手が誰なのか——正直、聞くのが少し怖かった。
「はい。相手の子にはもう話が通ってますから、心配しないでくださいね」
摩耶の笑顔は、どこまでも柔らかだった。その笑顔に、一夏は少しだけ救われた気がした。
「部屋は1025号室です。鍵、大事にしてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
封筒を開けると中から銀色の鍵が出てきた。手のひらに乗せると、ひんやりと冷たい。その感触が、妙に現実的だった。ここから始まるんだ、という実感がようやく胸の奥に降りてきた。
(——寮生活か。戦場の前線基地みたいなもんだな)
脳裏で、誰かがそう呟いた。
(——違う。ここは学園だ。基地じゃない)
一夏は心の中でそう打ち消して、鍵をポケットにしまった。
「じゃあ、俺、部屋に行ってみます」
「ああ。荷物は後で届くように手配してある。足りないものがあれば摩耶に言え」
千冬はそう言って、廊下の奥へ歩いていった。その背中を見送りながら、摩耶が一夏に小さく手を振る。
「何かあったら、いつでも言ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
二人を見送った一夏は、1025号室へ向かう廊下を歩き始めた。
夕陽はもう、廊下の奥まで届いていた。長い影が、一夏の足元に伸びている。その影を見ながら、一夏はふと思った。
(この学園での生活が、今日から始まるんだな)
戦場の記憶が、頭の奥でざわめく。だがそれはもう恐怖ではなかった。ただの——通過点のような気がした。鍵を握る手に、自然と力がこもる。
(——部屋に着いたら、まずは何をしよう)
(——ISの基礎資料を読み込むか。一週間しかない)
(——ああ、でもその前に)
一夏は、廊下の突き当たりに見えた部屋番号のプレートを目指して、歩を進めた。