脱衣所に入った一夏とシャルルは、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。脱衣所の中はひんやりとした空気に包まれている。棚には籠が並び、脱衣所の向こうには湯気の立ち込める大浴場への扉があった。
「どうする」
一夏が、低い声で呟いた。シャルルは少しの間考え込むように俯いていたが、やがて顔を上げた。
「僕が入ってる間、織斑君はここで待っててくれないかな。それで、僕が上がったら織斑君が入る。それなら問題ないでしょ」
「いや、それはダメだ。お前が先に入ったら、もし誰か来た時にバレるだろ。俺が先に入る。その間、お前はここで待っててくれ」
「でも、それだと織斑君が……」
「いいから。俺が先に入る」
一夏はそう言って、シャルルの言葉を遮った。シャルルは少しだけ迷うような表情を見せたが、やがて頷いた。
「分かった。じゃあ、お願い」
「ああ。すぐ上がるから」
一夏は、そう言って服を脱ぎ始めた。シャルルは、そんな一夏から視線を外すようにして、壁の方を向いた。一夏はタオルを手に取り、大浴場の扉を開けた。湯気が一気に一夏の身体を包み込む。大浴場の中は、広々としていた。床には石畳が敷き詰められ、壁には大きな鏡が張られている。そして、中央には広い湯船があった。湯船からは、絶えず湯気が立ち上っている。
(広いな……)
一夏は、感嘆の声を漏らした。そしてまずは身体を洗うことにした。洗い場に向かい、備え付けの石鹸で身体を洗う。湯を張った桶で身体を流し、そして湯船へと向かった。湯船に足を踏み入れると、温かいお湯が一夏の身体を包み込んだ。思わず、大きな息が漏れる。
「あー……気持ちいい」
一夏は、湯船の縁に頭を預けた。今日一日の疲れが、少しずつ溶けていくような感覚。トーナメントでの戦い。ラウラの機体の変異。黒いISとの戦い。そして、あの夢のような空間でのラウラとの会話。いろいろなことが、あった。そのすべてがこの温かいお湯の中で、少しずつ遠ざかっていくような気がした。一夏は、目を閉じた。しばらくそのままでいた。やがて、背後で扉が開く音がした。一夏は、はっと目を開けた。
(シャルルか)
そう思って、何気なく振り返った。その瞬間、一夏の身体が硬直した。扉の向こうから現れたのは、間違いなくシャルルだった。だが、その姿は——
「っ……!」
一夏は、思わず声を詰まらせた。シャルルの身体には、タオルが一枚。それだけだった。肩から胸元にかけて、そして腰のあたりまでを隠すように巻かれた白いタオル。だが、それだけでは隠しきれない部分もあった。シャルルの肌は、白く、そして滑らかで。その身体の線は、とても男子生徒のものとは思えなかった。一夏は、慌てて顔を背けた。
「わ、悪い! 見るつもりは……!」
一夏の声は、上ずっていた。シャルルも一夏の反応に気づいたのか、少しだけ身体を縮めるようにした。
「見ないで……」
その声は、いつもの穏やかなシャルルのものではなく、少しだけ恥ずかしそうでそして少しだけ震えていた。
「ご、ごめん! すぐ上がるから!」
一夏は、湯船から出ようとした。だがその一夏の動きを、シャルルの声が止めた。
「待って。織斑君」
「え?」
「大事な話がしたいの。だから……ちょっとだけ、待ってくれないかな」
シャルルの声は、真剣だった。一夏は湯船から出かけた足を止めた。そして、ゆっくりと振り返った。シャルルは、一夏の視線を避けるようにして、湯船へと近づいてきた。そして、一夏の背中側に回り込むようにして、湯船に浸かった。二人は背中合わせの形になった。シャルルの背中が、一夏の背中に触れる。その温もりが、妙に意識されて一夏は少しだけ身体を硬くした。
「……話って、なんだ」
一夏が、静かに問いかけた。シャルルは、少しの間黙っていた。そして静かに語り始めた。
「僕が、この学園に来た理由。それは僕の家のためだった。デュノア社のため。でも……今は違う。僕は、自分の意思でここにいる。織斑君と一緒に戦いたいから。それが、今の僕の理由」
シャルルの声は、静かだった。だがその言葉の一つ一つに、確かな想いが込められているのが分かった。
「シャルル……」
「それと、もう一つ。今日のトーナメントでのこと。織斑君、あの黒いISと戦ってる時の様子が、変だった」
一夏は、その言葉に息を呑んだ。シャルルは、続けた。
「あの時の織斑君は、いつもの織斑君じゃなかった。なんだか、もっと……冷たくて、鋭くて。戦い慣れているような。そんな感じがしたんだ」
一夏は、黙って聞いていた。シャルルの指摘は、的を射ていた。一夏自身もあの時の自分の状態を、うまく説明できないでいた。頭の中の声。戦場の記憶。それらが、一夏の意識に干渉してくる感覚。それは、一夏自身にもまだよく分かっていないことだった。
「……少し、待ってて欲しい」
一夏は、そう言った。声が少しだけ掠れていた。
「俺自身、まだよく分かってないんだ。あの時のこと。だから、ちゃんと説明できるようになるまで、少し時間が欲しい」
シャルルは、その言葉を聞いて少しの間黙っていた。そして、静かに一夏の背中に手を回した。一夏の背中を、そっと抱きしめるように。
「分かった。いつか、話してね。僕は待ってるから」
シャルルの声は優しかった。一夏は、その温もりに少しだけ身体の力を抜いた。
「ああ。約束する」
「うん。それとね、織斑君。僕の本当の名前知ってる?」
シャルルの問いに、一夏は少しだけ首を傾げた。
「本当の名前?」
「うん。シャルルは、偽名なんだ。僕の本当の名前は、シャルロット。お母さんから貰った、大切な名前」
シャルロット。その名前を、一夏は心の中で繰り返した。シャルルの、本当の名前。母親から貰った大切な名前。
「シャルロット……」
一夏が、その名前を呼ぶとシャルロットは少しだけ身体を震わせた。そして、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、一夏には見えなかったが声の響きでなんとなく分かった。
「ありがとう、織斑君。そう呼んでくれるの嬉しいな」
シャルロットの声は少しだけ弾んでいた。一夏は、そんなシャルロットの様子に少しだけ口元を緩めた。だが、その直後一夏はあることに気づいた。シャルロットの身体が、一夏の背中に密着していることに。
「あの……シャルロット。そろそろ、離れてくれないか」
一夏が、そう言うと、シャルロットは一瞬だけ固まった。そして、慌てたように一夏から離れた。
「ご、ごめん! ついその……」
シャルロットの声は慌てていて、そして少しだけ恥ずかしそうだった。二人は、再び背中合わせに座り直した。しばらくの間、二人は黙って湯船に浸かっていた。湯気が、二人の間を静かに流れていく。やがて、一夏が静かに口を開いた。
「そろそろ、上がるか」
「そうだね。のぼせちゃう」
シャルロットが、そう答えた。二人は静かに湯船から上がった。そして、それぞれタオルで身体を拭き脱衣所へと戻っていった。脱衣所で、一夏は服を着ながらシャルロットの方を振り返った。
「シャルロット。今日のこと、ありがとうな」
「え?」
「話、聞いてくれて。それに名前のこと。俺、ちゃんと覚えておくから」
「うん。ありがとう、織斑君」
シャルロットは、そう言って微笑んだ。その笑顔は、いつもの穏やかなシャルルのものではなく、少しだけ照れくさそうでそして少しだけ嬉しそうな、そんな笑顔だった。二人は脱衣所を出た。廊下は、先ほどと同じように静かだった。真耶の姿は、もうどこにも見えなかった。きっと、先に戻ったのだろう。
「おやすみ、織斑君」
「おやすみ、シャルロット」
二人は、それぞれのベットに入る。一夏は、歩きながら今日のことを思い返していた。トーナメントのこと。ラウラのこと。黒いISのこと。そして、シャルロットとのこと。いろいろなことが、あった。だがその中でも、シャルロットの言葉が一夏の心に強く残っていた。
(いつか、話してね。僕は待ってるから)
その言葉が、一夏の胸の奥で静かに響いていた。一夏は、自分の部屋の前に立ちドアを開けた。そして、部屋の中に入りベッドに倒れ込むように横になった。
「いつか、か……」
一夏は、天井を見つめながらそう呟いた。その「いつか」が、いつになるのかは分からない。だが、その時が来たらシャルロットだけじゃなく皆にもちゃんと話そう。そう、一夏は心の中で誓った。そして、ゆっくりと目を閉じた。
―――
翌朝、一夏は教室の窓際の席で、久しぶりに聞く声に耳を傾けていた。
(——また、昨日の続きだ。あの黒い機体の動き、随分と精密だったな)
頭の中に響く、低く落ち着いた声。眠っているわけでも、夢を見ているわけでもない。はっきりと、意識のある状態で聞こえる声。一夏は机に頬杖をつきながら、窓の外の青空を見つめていた。
(あれ、千冬姉のデータって言ったけど、本当にそうなのか)
(ああ。間違いない。あの機動、あの判断速度。他に誰がいる)
(そうか……)
一夏は、静かに息を吐いた。この声の主が誰なのか、一夏自身にもまだ分かっていない。ただ、戦いの中にいる時この声はいつも一夏の隣にいる。まるで、古くからの戦友のように。
やがて、教室の扉が開いた。山田真耶が入ってくる。その足取りは、どこか重たげだった。いつもなら穏やかな笑みを浮かべている真耶が、今日は少し疲れたような表情をしている。
「おはようございます、皆さん」
真耶の声にもいつもの張りがなかった。一夏は、首を傾げた。何かあったのだろうか。周りを見渡すと、教室には見慣れない光景があった。シャルルの姿がない。それに、ラウラの姿もない。ラウラは先日の負傷でまだ来られないのだろう。一夏はそう結論づけた。だが、シャルルはどうしたのだろう。今朝、食堂で「先に行っててくれ」と言われて別れたきりだ。一夏は、少しだけ気にかけながら真耶の話を待った。
「えー、今日は皆さんに大切なお知らせがあります」
真耶は、そう言って教壇に立った。その声は、どこか歯切れが悪い。
「転校生を紹介します。と言いますか、もう皆さんには紹介済みと言いますか……」
真耶は、そこで言葉を濁した。一夏はますます首を傾げた。
「先生、どうしたんですか。歯切れが悪いですよ」
誰かがそう言うと、真耶は苦笑いした。
「ええ、まあ。とにかく入ってきてください」
真耶が扉の方へと視線を向けた。そして、扉が開いた。入ってきたのは見慣れた人物だった。だが、その姿は一夏の知っているものとは違っていた。
「——!」
一夏は、思わず声を詰まらせた。教室のあちこちから、小さな悲鳴のようなものが上がる。入ってきたのは、シャルルだった。だがその服装は、今までのものとはまるで違っていた。ズボンではなく、スカート。IS学園の女子用の制服に身を包み、その姿は紛れもなく——女の子だった。
「え……シャルル?」
一夏の声は、上ずっていた。シャルルは少しだけ気まずそうに一夏の方を見た。そして、静かに口を開いた。
「皆さん、初めまして。シャルロット・デュノアです」
その言葉に、教室がざわめいた。女子生徒たちの驚きの声が、あちこちから上がる。
「ええっ!?」
「うそ、シャルル君が……女の子!?」
「じゃあ、今まで男だと思ってたのに……」
教室は、一気に騒がしくなった。真耶は、そんな教室を見渡して静かに言った。
「えー、そういうことですので。皆さん、これからはシャルロットさんと呼んであげてくださいね」
真耶の声は、まだ少し疲れていたがそれでもいつもの穏やかさを取り戻しつつあった。一夏は、その光景を呆然と見つめていた。頭の中の声が、静かに囁く。
(——驚いたか)
(ああ。まさか、こんな形でバレるとは思わなかった)
一夏は、心の中でそう答えた。そしてふと周りを見渡した。箒とセシリアの席の方から、不穏な気配が漂っている。箒は、じっと一夏を見つめていた。その目は、少しだけ険しい。セシリアも一夏の方を見ていた。その表情は、笑っているようで笑っていない。そして、隣の二組からも同じような気配が漂ってくる。鈴音だろう。一夏は思わず顔を引きつらせた。
(やばい……)
一夏は、そう思った。シャルロットが女の子だったこと。それを、一夏だけが知っていたこと。それが、どうやら彼女たちの不興を買っているらしい。
——
昼休みになった。一夏は教室の隅で箒、セシリア鈴音の三人に囲まれていた。
「で、どういうことだ一夏」
箒が、静かに問いかけた。その声は静かだが、その奥には確かな怒りのようなものが感じられた。
「どういうことって……」
一夏は、言葉を濁した。セシリアが言った。
「一夏さん。あなた、デュノアさんが女の子だってこと、知っていたんですの?」
「まあ、その……」
「知っていたのですね?」
セシリアの声が、少しだけ低くなった。鈴音が腕を組みながら言った。
「知ってて、黙ってたわけ? しかも二人で風呂に入ったとか入ってないとか」
「いや、それは! ちゃんと理由があって……」
一夏は、必死に弁明しようとした。だが、その言葉はうまく出てこなかった。
「——織斑一夏」
不意に、背後から声がかけられた。一夏は、振り返った。そこにラウラが立っていた。先日の負傷がまだ癒えていないのか、少しだけ顔色が悪い。だがその目は、まっすぐに一夏を見つめていた。
「ラウラ。お前、身体はもういいのか?」
一夏がそう問いかけると、ラウラは小さく頷いた。
「ああ。もう大丈夫だ。それよりも……」
ラウラは、そう言って、一夏の前に立った。そして深く頭を下げた。
「織斑一夏。今までのこと、謝らせて欲しい」
「え?」
一夏は、その言葉に驚いた。ラウラが頭を下げている。あの、プライドの高いラウラが。ラウラは、顔を上げずに続けた。
「私は、お前を一方的に敵視していた。お前の力を認めず、挑み続けた。あの黒いISの一件も……私の未熟さが招いたことだ。すまなかった」
ラウラの声は真剣だった。その言葉の一つ一つに、確かな反省の想いが込められているのが分かった。一夏は、しばらくの間ラウラを見つめていた。そして、ふっと笑った。
「顔を上げてくれ、ラウラ」
一夏は、そう言って、手を差し出した。ラウラが顔を上げる。その目に、少しだけ驚きの色が浮かんだ。
「お前が謝ることなんて、何もない。俺もお前のこと、ちゃんと分かってなかった。だから……これから、よろしくな」
一夏は、そう言って、握手を求めた。ラウラはその手をじっと見つめた。そして、ゆっくりとその手を握り返した。
「……ああ。よろしく頼む、織斑一夏」
ラウラの声は少しだけ震えていた。だが、その表情には確かな笑みが浮かんでいた。一夏も、笑みを返した。周りの箒やセシリア、鈴音たちもその光景を黙って見守っていた。シャルロットも、少し離れた場所からその様子を見ていた。その表情には、少しだけ安堵のようなものが浮かんでいるように見えた。
「さて、と」
一夏は、ラウラとの握手を終えると振り返った。そして、箒たちに向かって少しだけ気まずそうに言った。
「あの……シャルロットのことなんだけど。ちゃんと、話すから。今度ちゃんと」
一夏の言葉に箒は少しだけ目を細めた。セシリアは小さく息を吐いた。鈴音は呆れたように首を振った。
「まったく。後でちゃんと話してもらうからね」
鈴音の言葉に、一夏は大きく頷いた。そして頭の中の声が、静かに囁いた。
(——どうやら、お前の周りは賑やかになりそうだな)
(ああ。そうみたいだ)
一夏は、心の中でそう答えながら教室の窓の外を見た。青空が、広がっている。今日はなんだかいい一日になりそうな、そんな気がした。