二十六話
七月に入り、IS学園にも夏の気配が訪れていた。朝の食堂は、窓から差し込む日差しで明るく満ちている。蝉の声はまだ遠く、だが確実に近づいている気配があった。
一夏はトレイに朝食を載せいつものテーブルへと歩いていた。箒、セシリア鈴音、シャルロット、ラウラ。顔ぶれはいつの間にかすっかり定着していた。
「おはよう、みんな」
一夏が声をかけると、それぞれが顔を上げた。
「おはよう、一夏」
箒が静かに返す。その隣でセシリアが紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
「おはようございます。今日もいい天気ですわね」
「ああ。もう七月だもんな。夏って感じがしてきた」
一夏は席に着きながらそう言った。シャルロットが穏やかに微笑む。
「そうだね。学園にも夏の制服がそろそろ出るんじゃないかな」
「そういえば、寮の冷房もそろそろ本格稼働らしいわよ」
鈴音がパンをかじりながら付け加えた。
「へえ。じゃあ、快適に過ごせるようになるな」
一夏がそう言うと、ラウラが少しだけ眉をひそめた。
「冷房など、鍛錬の妨げになるだけだ。夏は暑さに耐えるからこそ意味がある」
「ラウラ、あんたそれ本気で言ってる?」
鈴音が呆れたように言った。
「当然だ。軍人たるもの、環境に文句を言ってはならん」
「あんたね……ここは戦場じゃないのよ」
鈴音の突っ込みにラウラは少しだけ口を尖らせた。だが、その表情には以前のような棘はなく、むしろどこか和やかだった。
「まあまあ。ラウラの言うことも一理あるけど、快適に過ごせるならそれに越したことはないだろ」
一夏が仲裁に入ると、箒が小さく息を吐いた。
「お前はいつもそうやって甘いんだ。一夏」
「甘くないって。ちゃんと鍛錬もしてるし」
「そうか? 最近、食堂で見かける回数が増えた気がするが」
箒の言葉に、一夏は言葉を詰まらせた。確かに、最近は食事の量が増えている。頭の中の声が、よく食べろとうるさいのだ。
(——お前、もっと食え。戦うには身体が資本だぞ)
(分かってるよ。でも、食べ過ぎだって言われそうで……)
(気にするな。お前の身体はお前のものだ。周りにどう言われようと、必要なものを取れ)
一夏は心の中でそう答えながら、皿の上のスクランブルエッグを口に運んだ。そんな一夏の様子を、シャルロットがじっと見ていた。
「織斑君、最近よく食べるようになったよね。何かあったの?」
「え? あー、まあ、その……成長期だから、かな」
一夏は曖昧に笑った。シャルロットは少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「そういえば、織斑さん」
セシリアが紅茶を置いて言った。
「来月のテストの準備は進んでいますの?」
「ああ、それか。うん一応な。実技はともかく、筆記の方がちょっと……」
「筆記が心配ですの? 織斑さんなら、もっと余裕を持って臨めると思いますけれど」
セシリアの言葉に、鈴音が笑った。
「セシリア、あんたそれ本気で言ってる? 一夏の筆記は壊滅的よ」
「鈴音、ひどいな」
一夏が抗議の声を上げると、鈴音は肩をすくめた。
「事実でしょ。この前の小テストだって、ギリギリだったじゃない」
「う……」
一夏は言葉に詰まった。確かに、この前の小テストは危なかった。頭の中の声は戦術のことなら何でも教えてくれるが、IS学園の座学にはあまり役に立たない。
(——座学は俺の専門外だ。諦めて自分で勉強しろ)
(冷たいな、お前……)
一夏は心の中でそう呟いた。そんな一夏の様子を見て、箒が小さく笑った。
「まあ、心配するな。分からないところがあれば、教えてやる」
「箒……」
「その代わり、ちゃんと真面目にやれよ」
「ああ。ありがとう」
一夏は素直に頷いた。セシリアが、少しだけ不服そうに口を挟んだ。
「ちょっと、篠ノ之さんだけずるいですわ。私だって、織斑さんに教えてあげられますのに」
「あんたは教え方が細かすぎるのよ。前なんて、一方的に講義してただけじゃない」
鈴音の指摘に、セシリアは顔を赤らめた。
「そ、それは……ちゃんと教えようと思って……」
「まあまあ。二人とも、ありがとな。ちゃんと勉強するから」
一夏がそう言うと、シャルロットがくすくすと笑った。
「織斑君、大人気だね」
「そういうシャルロットは、教えてくれないのか?」
一夏がそう聞くとシャルロットは少しだけ目を丸くした。そして、穏やかに微笑んだ。
「もちろん。でも、その前にまずは朝ごはんをちゃんと食べてね」
「ああ。そうする」
一夏は、再び皿に目を落とした。ラウラが、そんな一夏を見ながら静かに言った。
「織斑一夏。午後の訓練、付き合え」
「え? ラウラと?」
「ああ。この前の借りを返したい」
ラウラの言葉に一夏は少しだけ身構えた。だが、その目には以前のような敵意はなく、むしろ真剣な鍛錬の意志が宿っているように見えた。
「分かった。じゃあ、午後に」
「うむ」
ラウラは満足そうに頷いた。箒が、少しだけ眉をひそめた。
「ラウラだけずるいな。私も付き合うぞ」
「私もですわ」
「あんたたち……」
鈴音が呆れたようにため息をついた。シャルロットが、そんな光景を見て静かに笑った。
「じゃあ、みんなで訓練だね」
「おいおい、いつの間にかそんな話に……」
一夏は苦笑いした。だが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「まあ、いいか。みんなでやった方がきっと楽しいしな」
「そうだね」
シャルロットがそう言って微笑んだ。朝の食堂に、穏やかな笑い声が響く。七月の朝は、こうして静かに始まっていく。やがて、一夏はふと窓の外を見た。青空が、どこまでも広がっている。
(——夏か)
(ああ。夏だ)
頭の中の声が、静かにそう囁いた。一夏はその声に心の中で答えた。
(今年の夏は、何かが起こりそうだな)
(だろうな。お前の周りは、いつも騒がしいからな)
一夏は、思わず笑みをこぼした。そして、再び朝食に目を落とした。今日も、いい一日になりそうだ。
―――
朝食を終え、教室の席に着いた一夏は窓の外の青空をぼんやりと眺めていた。七月の日差しはすでに強く、開け放たれた窓から入る風もどこか生温かい。
やがて教室の扉が開き織斑千冬が教壇に立った。その姿はいつもと変わらず凛として、教室の空気が一瞬で引き締まる。
「ショートホームルームを始める」
千冬の声は簡潔だった。生徒たちが席に着き、静かになるのを待って千冬は続けた。
「来週から郊外特別実習期間、すなわち臨海学校が始まる。三日間、IS学園から離れての実習だ。全員、忘れ物のないように準備しておけ」
教室が、わずかにざわめいた。臨海学校。その言葉に、生徒たちの表情が明るくなる。
「臨海学校か。海か……」
一夏はそう呟きながら、頭の中で考えを巡らせていた。休みの日に必要な物をそろえよう。そう思った矢先だった。
(——水辺か。面倒なことしかないな)
頭の中の声が低く響いた。その声には、確かな憂鬱が滲んでいた。
(水辺だと? どういうことだ)
(ああ。水辺での戦闘は厄介極まりない。まず脚部をフロートに換装しなければまともに戦えん。それでも足場が不安定でな。前に一度、メインブースターが壊れてそのまま水没した奴を見たことがある。あっという間だった。救助も間に合わん)
一夏は、思わず息を呑んだ。その光景がありありと目に浮かぶようだった。荒れ狂う水面。沈んでいく機体。そして、救助もかなわずに消えていく仲間。
(そ、それは……怖いな)
(戦場では珍しいことではない。水辺は常に危険と隣り合わせだ。覚えておけ)
一夏は、静かに頷いた。頭の中の声はいつもこうして一夏に「戦場の現実」を教えてくれる。だが、その現実はいつも重い。
「——おい、一夏」
不意に、隣から声がかけられた。箒がじっと一夏を見ていた。
「どうした。ぼんやりして」
「あ、ああ。何でもない。ちょっと考え事を」
「考え事? 臨海学校のことか?」
「まあ、そんなところだ」
一夏は曖昧に笑った。箒は少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
ショートホームルームが終わると、教室は一気に賑やかになった。臨海学校の話で、あちこちが盛り上がっている。そんな中、一人の女子生徒が教壇に残る千冬に声をかけた。
「先生。山田先生の姿が見えないんですけど、今日はどうされたんですか?」
千冬は、その問いに短く答えた。
「山田は校外実習の現地視察に行っている。今日は終日不在だ」
「現地視察……」
その言葉を聞いて一夏はなるほどと思った。臨海学校の下見だろうか。真耶のことだから、きっと張り切って準備しているに違いない。だが、その分疲れているかもしれない。ここ最近の真耶は、どこか疲れ気味だった。一夏は、戻ってきたら労ってあげよう。そんなことを考えながら、席を立った。
「織斑君」
背後から、声がかけられた。振り返るとシャルロットが立っていた。スカート姿にもすっかり慣れたその姿に、一夏は少しだけ目を細めた。
「どうした、シャルロット」
「臨海学校のことだけど。何か準備で困ってることある?」
「ああ、それが……」
一夏は頭を掻きながら、正直に答えた。
「実は、何をそろえればいいのかよく分かってなくて。水着とかは分かるんだけど、その他が」
「それなら、一緒に買いに行く? 休みの日に」
「え? いいのか?」
「うん。僕もいろいろ見たいし」
シャルロットの申し出に、一夏は素直に頷いた。
「ありがとう。助かるよ」
「どういたしまして」
シャルロットがそう言って微笑んだ。
「ちょっと待った一夏。買い物に行くなら、私も行く」
「私もですわ」
「私も同行しよう」
箒が、いつの間にか隣に立っていた。その後ろには、セシリアとラウラの姿もある。
「じゃあ、みんなで行くか鈴も誘って」
一夏がそう言うと、箒は少しだけ不満そうな顔をしたが、それでも頷いた。セシリアは満足そうに微笑み、ラウラは肩をすくめた。シャルロットは、そんな光景を見てくすくすと笑った。
「賑やかになりそうだね」
「ああ。そうだな」
一夏も、思わず笑みをこぼした。頭の中の声が、静かに囁く。
(——お前の周りは、本当に賑やかだな)
(ああ。でも、悪くないだろ?)
(……まあ、悪くはないな)
その声には、どこか苦笑のようなものが混じっていた。一夏は、心の中で小さく笑った。窓の外では、蝉が鳴き始めていた。夏はすぐそこまで来ている。