バスは海沿いの道をひた走り、数時間後、目的地である旅館「花月荘」の前に到着した。潮風がバスの扉が開くのと同時に車内に流れ込んでくる。一夏は荷物を手にバスを降りた。目の前には、純和風の趣ある旅館が建っている。白壁に瓦屋根。玄関先には立派な松の木が植えられていた。
「うわあ……」
思わず感嘆の声が漏れる。周囲を見渡せば、青い海が広がっていた。波の音が、静かに響いている。
「整列!」
千冬の声が響き、一夏と一年生女子たちは素早く整列した。千冬は、そんな生徒たちを見渡して静かに言った。
「これから三日間、お世話になる旅館だ。従業員の方々に失礼のないように。いいな」
「はい!」
生徒たちの声が揃う。千冬は満足そうに頷くと、旅館の玄関へと向かった。一夏たちもそれに続く。玄関をくぐると、中から一人の女性が現れた。年の頃は四十代だろうか。和服を着こなし、穏やかな笑みを浮かべている。
「ようこそいらっしゃいませ。花月荘の女将、清洲景子と申します」
景子は、そう言って丁寧に頭を下げた。一夏たちも、それに倣う。
「本日から三日間、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
千冬がそう言って頭を下げると、景子は笑みを深めた。
「それでは、皆さま。お部屋の方へどうぞ。荷物を置いたら、ゆっくりなさってください」
女子たちが、景子の言葉に頷いて旅館の中へと進んでいく。一夏もそれに続こうとした。だが、その前に景子が言葉を添えた。
「ああ、それと。海に行かれる場合は別館でお着替えくださいね。本館の浴場は、皆さま方の共用ですので」
「はい。分かりました」
女子たちが口々に答える。一夏も、その後ろで小さく頷いた。女子たちは、それぞれに部屋へと向かっていく。一夏も、それに続こうとした。
「おりむー」
声をかけられて振り返ると、そこにクラスメイトである布仏 本音が立っていた。
「おりむーのお部屋って、どこー?」
「え? それは……」
一夏は、少しだけ首を傾げた。確かに自分の部屋については何も聞かされていなかった。
「俺も知らされてないな……」
そう答えながら一夏は周囲を見渡した。千冬の姿を探す。すると、ちょうど千冬がこちらへと歩いてくるのが見えた。
「一夏。来い」
「え? あ、はい」
千冬は、そう短く言ってさっさと歩き出した。一夏は、本音に軽く会釈してその後を追いかけた。千冬は、旅館の廊下をずんずんと進んでいく。一夏は、その背中を追いながらどこへ連れて行かれるのだろうと思った。
やがて、千冬は一つの部屋の前で足を止めた。そして、障子を開ける。
「ここが、お前の部屋だ」
「え……」
一夏は、部屋の中を見渡した。広々とした和室。窓の外には、海が広がっている。だがその部屋には、なぜか布団が二組敷かれていた。
「あの、織斑先生。これ……」
「私と同室だ」
千冬は、あっさりと言った。一夏は思わず声を上げた。
「ええっ!?」
「文句があるのか」
「いや、文句っていうか……」
一夏は、言葉を濁した。まさか姉と同室になるとは思っていなかった。
「これなら、女子たちも来れないだろう」
「そ、そうですね……」
一夏は、乾いた笑いを漏らした。確かに、千冬と同室なら女子たちも気軽には来られない。だが、それはそれで別の意味で緊張する。
「大浴場は時間交替だ。深夜や早朝に入りたい時は、部屋の風呂を使え」
「はい……」
千冬は、そう言って、部屋の中へと入っていった。一夏も、その後を追う。荷物を置き一息ついたところで、真耶が部屋に入ってきた。
「織斑先生。お仕事の時間です」
「分かった」
千冬は、そう答えて立ち上がった。そして、一夏の方を見る。
「私はこれから仕事だ。お前は遊びに行ってこい」
「え? いいんですか?」
「構わない。ただし、あまり羽目を外すなよ」
「はい!」
一夏は、元気よく返事をした。そして荷物の中から水着を取り出す。早速、海に入るつもりだった。千冬と真耶に見送られながら、一夏は部屋を出た。廊下を歩きながら、一夏は別館を目指した。外に出ると、潮風が一夏の頬を撫でる。空は青く、海は輝いていた。
「さて、と」
一夏は、別館へと向かう。頭の中の声が、静かに囁いた。
(——海か。水辺の戦闘は厄介だと言っただろう)
(分かってるよ。でも、今は戦闘じゃない。ただの海水浴だ)
(そうか。なら、存分に楽しめ。だが油断はするなよ)
(ああ。分かってる)
一夏は、心の中でそう答えた。
―――
別館へと続く渡り廊下を歩いていた一夏は、不意に足を止めた。前方から何とも言えない表情をした箒が歩いてくるのが見えたからだ。その眉はひそめられ、目はどこか遠くを見ている。まるで、現実を受け入れたくない何かと戦っているような顔だった。
「箒? どうしたんだ、そんな顔して」
一夏が声をかけると箒はびくりと肩を震わせた。そして、ゆっくりと一夏の方を見る。
「一夏……。ちょうどよかった。ちょっと、これを見てくれ」
箒は、そう言って廊下の先を指差した。一夏は、その指の先を見る。そこには地面に突き刺さった白い物体があった。機械仕掛けの、大きなうさ耳。そしてその横には看板が立っている。
『引っ張ってください』
「……なんだこれ」
一夏は、思わず呟いた。見覚えのある形。見覚えのある文字。そして、この悪戯心に満ちた雰囲気。一夏の頭の中に、ある人物の顔が浮かんだ。
「これ、もしかして……」
「ああ。間違いないだろうな。あの人の仕業だ」
箒は、苦いものでも噛んだような顔で言った。一夏も、同じような表情になった。
「束さんか……」
「姉さんだ」
箒の声には、諦めにも似た響きがあった。一夏は、うさ耳を見つめながら考え込んだ。どうしたものか。放っておくわけにもいかないだろう。
「とりあえず、引っ張ってみるか?」
「……そうだな。放っておくのも危険だ」
箒がそう答えた時だった。
「あら、織斑さんに篠ノ之さん。こんなところでどうされたんですの?」
優雅な声が響きセシリアが合流した。その手には、大きな日傘が握られている。海に行く準備は万端といったところだろうか。
「セシリア。実は、これが……」
一夏は、うさ耳と看板を指差した。セシリアは、その白い物体をじっと見つめ少しだけ首を傾げた。
「これは……なんですの?」
「どうやら、束さんの悪戯らしくてな」
「……はい?」
セシリアは一夏の言っている事が理解できず首を傾げる。一夏はそんなセシリアを見て小さく苦笑した。
「とりあえず、引っ張ってみようと思うんだが」
「ええ。それがよろしいかと」
セシリアが頷いた。一夏はうさ耳の前にしゃがみ込んだ。そして、その先端を掴む。ひんやりとした感触。機械的な手応え。
「せーの、と」
一夏は、うさ耳を引っ張った。すぽんという間の抜けた音と共に、うさ耳が地面から抜ける。だが、その下には誰もいなかった。ただ、土の詰まった穴があるだけだ。
「あれ? 誰もいない……」
一夏は、首を傾げた。まさか本当にただのうさ耳だったのだろうか。だが、束のことだ。何か仕掛けがあってもおかしくはない。
(——その場から離れろ)
不意に、頭の中の声が警告を発した。その声には、確かな切迫したものがあった。一夏は、その声に従いとっさに後ろへ飛び退いた。
「一夏?」
箒が、怪訝な声を上げた。だがその直後だった。
空から、何かが降ってきた。巨大なオレンジ色の物体。それは凄まじい勢いで地面に落下し、先ほど一夏が立っていた場所に突き刺さった。ドン、という重い音が響き土煙が舞い上がる。
「なっ……!?」
一夏は、思わず息を呑んだ。箒もセシリアも、その場に立ち尽くしている。土煙が晴れると、そこには巨大なニンジンが突き刺さっていた。まるで、地面を貫くように。その光景は、あまりにも非現実的だった。
「な、なんなんですの、これは!?」
セシリアが、悲鳴に近い声を上げた。その手から、日傘が落ちそうになっている。一夏も、言葉を失っていた。まさか空からニンジンが降ってくるとは思わないだろう。
(——だから言っただろう。離れろと)
(ああ。助かったよ……)
一夏は、心の中でそう答えた。頭の中の声は、時折こうして一夏を危険から遠ざけてくれる。そのおかげで、今こうして無事でいられるのだ。
やがて、ニンジンに異変が起きた。ミシリ、という音と共にニンジンの中央に亀裂が走る。そして、パカリと二つに割れた。中から、一人の人物が飛び出してくる。
「やっほー! 引っかかったねー、いっくん!」
満面の笑みを浮かべて現れたのは、篠ノ之束だった。その姿は相変わらず奇抜である。一夏は、その登場に呆気に取られながらも、どこか納得していた。やはり束だったか。
「久しぶりです、束さん」
「久しぶりー! 元気だった?」
束は、そう言って一夏に近づいてきた。そして、箒の方を向く。
「箒ちゃんも元気そうでなによりだよ」
「……姉さん。何をやっているんだ、こんなところで」
「えー、決まってるじゃん。いっくんと箒ちゃんに会いに来たんだよ」
束は、けろりとした様子で言った。箒は、そんな姉の姿に深いため息をついた。一夏は、そんな二人のやり取りを見ながら、思わず苦笑した。束の登場はいつもこうだ。予想を、はるかに超えてくる。
「それにしても、よくできた仕掛けだな。うさ耳にニンジンか」
「でしょでしょ? 結構苦労したんだよー」
束は、そう言って得意げに胸を張った。その姿は、まるで子供のようである。一夏は、そんな束を見てどこか微笑ましい気持ちになった。セシリアは、まだ少し動揺しているようだった。
その後束は「千冬に会いに行く」と言い残し、あっという間にその場から去っていった。嵐のような人だった。一夏は、束の消えていった方向をぼんやりと見つめながら、思わず呟いた。
「相変わらずだな、束さんは」
「ああ。本当に……」
箒も、同じような表情で頷いた。その声には諦めと、ほんの少しの呆れが混じっている。だが、どこか懐かしむような響きもあった。
そんな二人の会話にセシリアが割って入った。その表情には、まだ先ほどの動揺が色濃く残っている。
「ちょっと待ってください。今の人物、一体どなたなんですの?」
「え? ああ、束さんは……」
一夏は、セシリアの方を見た。彼女は本気で分かっていないようだった。まあ、無理もない。あの奇抜な登場の仕方では、誰だか分からなくても仕方がないだろう。一夏は、正直に答えることにした。
「篠ノ之束。箒の姉さんで、ISの開発者だよ」
「え」
セシリアの動きが止まった。その目が、ゆっくりと見開かれていく。
「い、今なんと? ISの……開発者?」
「うん。そうだよ」
「あの、篠ノ之束博士ですの!?」
セシリアの声が裏返った。その顔には、驚愕と信じられないといった感情が入り混じっている。セシリアにとって、篠ノ之束は伝説的な存在なのだろう。ISを開発し、世界の在り方を変えた人物。その名前を知らないIS操縦者などいない。だが、まさかこんな形でしかも巨大なニンジンから飛び出してくる姿を見るとは思わなかったに違いない。
「あの方が、あの篠ノ之博士……。あの、有名な……」
「うん。まあ、見た目はあれだけどすごい人なんだよ。一応」
一夏がそう言うと、箒が少しだけ眉をひそめた。
「一応は余計だ」
「あ、ごめん」
一夏は素直に謝った。セシリアは、まだ呆然としている。その頭の中では、伝説の科学者と先ほどの奇抜な登場が、どうにも結びつかないのだろう。
「と、とにかく。今は海に行こうぜ。セシリアも、そのために来たんだろ?」
一夏は、そう言ってセシリアの背中を軽く押した。セシリアは、まだ少し動揺していたがやがて小さく頷いた。
「そ、そうですわね。せっかく来たのですもの。海を楽しまなくては」
セシリアは、そう言って気を取り直した。だが、その声にはまだ少しだけ震えが残っていた。一夏と箒は、そんなセシリアを連れて別館へと歩き出した。渡り廊下を抜け、別館の更衣室へと向かう。途中、箒が小さく呟いた。
「しかし、姉さんが来るとはな。何かあるかもしれん」
「だろうな。束さんのことだから、きっと何か企んでる」
一夏も、そう答えた。束がただ挨拶に来ただけとは思えない。何か、良からぬことを考えているに違いない。だが、今はそんなことより海だ。一夏は、更衣室の扉を開けた。
「それじゃ、また後でな」
「ああ」
「ええ。また後で」
箒とセシリアは女子更衣室へ、一夏は男子更衣室へと入っていく。一夏は手早く水着に着替えた。そして、海へと続く扉を開ける。目の前に、青い海が広がった。白い砂浜。輝く水面。潮風が、一夏の頬を撫でる。一夏は思わず深呼吸した。
「いいなあ……」
そう呟いて、一夏は海へと歩き出した。波打ち際に立つ。冷たい水が、足元を洗った。一夏はしばらくの間、ただ海を眺めていた。頭の中の声が、静かに囁く。
(——悪くない眺めだ)
(だろ?)
(ああ。だが、戦場ではない。今はただ楽しめ)
一夏は、その声に心の中で頷いた。そして、準備体操をしてから海へと飛び込んだ。冷たい水が、全身を包み込む。一夏は水面から顔を出して、大きく息を吐いた。夏の海はどこまでも青く、輝いていた。