廊下の突き当たり、1025号室のプレートの前で一夏は立ち止まった。
銀色の鍵をポケットから取り出し、扉の前で一度深呼吸する。相部屋の相手が誰なのか、摩耶は教えてくれなかった。女子だらけの学園で男子の自分が相部屋——相手も相当な覚悟が必要だろう。せめて失礼のないように、と一夏は制服の襟を正した。
(——初対面の挨拶は大事だ。第一印象で全部が決まる)
(——戦場なら、初対面の相手はまず敵だ。だが、ここは違う)
(——分かってる。分かってるって)
頭の中で誰かと会話しながら、一夏はノックをした。三回規則正しく。
「すまない、ちょっと待ってくれ」
返事が聞こえた。女性の声だ。少し慌てたような、それでいて妙に聞き覚えのある響き。鍵の開く音がして、扉が内側から開かれる。
「——っ」
一夏は、固まった。
目の前に立っていたのは、箒だった。ただしいつもの制服姿ではない。白いバスタオルを胸元で押さえただけの、あまりにも無防備な姿。濡れた長い黒髪が肩に張り付き、肌にはまだ水滴が光っている。風呂上がり、という言葉が脳裏をよぎった瞬間、一夏の思考は完全に停止した。
「……え」
箒の声が、小さく漏れた。その目が一夏の顔を捉える。一秒。二秒。沈黙が、二人の間に重くのしかかる。
「————っ!」
箒の顔が、見る間に赤く染まった。バスタオルを押さえる手に力がこもる。
「い、一夏!? なんで、ここ——」
「え、いや、俺、今日からこの部屋って——」
「ちょっと待っててくれ!」
バタン、と扉が閉まった。勢いよく。一夏は閉じた扉の前で、しばらく立ち尽くした。心臓がばくばくとうるさい。顔が熱い。頭の中では、複数の声が好き勝手に騒いでいる。
(——油断しすぎだ。背後を取られたら終わりだぞ)
(——いや、これはそういう話じゃない)
(——落ち着け。深呼吸しろ。戦場じゃない)
(——戦場より緊張するわ!)
一夏はその場で一度深く息を吸い、吐いた。廊下の夕闇が妙に落ち着かない。
数分後——本当に数分だったのか、それとももっと長かったのか一夏には分からなかった——扉がもう一度開いた。
今度は、剣道着姿の箒が立っていた。髪はまだ少し湿っているが、きちんと結ばれている。その顔には、先ほどの赤みがまだ薄く残っていた。視線が、一夏と合わない。
「……入れ」
短く、そう言った。一夏は黙って頷き、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋は、思っていたより広かった。二つのベッド、二つの机窓際には小さなテーブル。女子寮の一室というより、どこか整然とした生活感の薄い空間だった。箒の荷物がすでに片付けられている。剣道の防具が壁際に丁寧に置かれ、本棚には剣術の教本が並んでいた。
「……お前が、相部屋の相手だったのか」
箒が、窓際に立ったまま言った。その声は、まだ少し硬い。
「うん。俺も知らなかった。摩耶先生が『相手には話が通ってる』って言うから、誰かと思ってたら」
「私も、まさかお前だとは思わなかった」
箒は小さく息を吐いた。それから、ようやく一夏の方を向く。その目はもう、先ほどの動揺を引きずってはいなかった。真剣で、まっすぐで——どこか探るような色があった。
「一夏。一つ、聞いてもいいか」
「うん」
「お前、さっき——部屋に入る前何か呟いてなかったか」
一夏は、どきりとした。自分では無意識だった。だが、箒には聞こえていたらしい。
「……独り言だよ」
「独り言……」
箒はその言葉を繰り返した。その目が、わずかに細められる。何か言いたげだったが、結局それ以上は追及しなかった。代わりに、窓の外へと視線を移す。
「お前と相部屋か。六年ぶりに会ったと思ったら、これだ」
「迷惑か?」
「……別に。話が通ってる以上、文句は言わない」
箒の声は、そっけなかった。だがその耳がまだほんのり赤いことに一夏は気づいた。気づいたが、口には出さなかった。そういうところで余計なことを言うと、箒は決まって怒る。そのことを、一夏は六年ぶりに思い出した。
「あのさ、箒」
「何だ」
「これから、よろしく」
一夏は頭を下げた。箒はしばらく黙っていたが、やがて小さく「ああ」とだけ返した。
その夜のことは、一夏の記憶の中で妙に断片的だった。
夕飯は、寮の食堂でとった。箒と並んで席に着くと、周囲の女子生徒たちの視線がすごかった。好奇と羨望と——少しの嫉妬。一夏はできるだけ気にしないようにして、箒と他愛のない話をした。剣道のこと、生活のこと六年間の空白を埋めるように。箒は相変わらずそっけなかったが、時折見せる柔らかな表情が昔と変わっていなかった。
部屋に戻ると箒はすでに自分のベッドに入っていた。灯りを落とした部屋で、一夏はもう一つのベッドに潛り込む。窓の外には、星が見えた。どこまでも静かな、夜だった。
「一夏」
暗闇の中、箒の声がした。
「ん?」
「……おやすみ」
「ああ。おやすみ、箒」
その言葉を最後に、部屋は静寂に包まれた。一夏は天井を見つめながら、今日という日の出来事を反芻していた。教室での自己紹介、セシリアとの決闘宣言寮の部屋、そして——箒。
(——一週間後、俺は戦うんだな)
(——ああ。そのために、準備をするんだ)
(——まずは明日から、ISの訓練だ)
(——寝ろ。頭を休めろ。戦場では睡眠も武器だ)
(——……そうだな)
一夏は目を閉じた。頭の奥で、まだ誰かが囁いている。だがその声はもう、うるさくはなかった。むしろどこか心強くて。
(——俺は、一人じゃない)
そんなことを思いながら一夏はゆっくりと眠りに落ちていった。夢の中では、見たこともない機体が見たこともない空を駆けていた。
灯りを落とした部屋に、しばらく沈黙が満ちていた。
箒は仰向けのまま天井を見つめていた。隣のベッドから聞こえるのは、規則正しい寝息だけ。だがその音が妙に意識に引っかかって、どうにも眠れない。
(落ち着け。ただの寝息だ。何もおかしなことはない)
心の中でそう唱えても、目が冴えるばかりだった。頭に浮かぶのは、昼間の一夏の姿。教室での自己紹介のとき、一瞬だけ見せたあの目。戦場を見るような、冷えた光。あれは何だったのか。
(あの目を、私は知っている)
幼い頃、道場で竹刀を振る一夏を何度も見てきた。へらへらと笑って、すぐに転んでそれでも何度も立ち上がる。そんな一夏しか知らない。だが、今日の一夏は違った。あの一瞬の目は——まるで、別の誰かが中から覗いているようだった。
(考えすぎだ。疲れているんだ、お互いに)
そう結論づけて箒は寝返りを打った。壁の方を向いて、目を閉じる。羊でも数えようか。そう思ったときだった。
「——ッ」
微かに、声が聞こえた。
箒は目を開けた。寝返りを打った姿勢のまま、耳を澄ます。部屋は静まり返っている。窓の外から、風の音。それだけのはずだった。
「……っ、あ……」
今度は、はっきりと聞こえた。苦しげな、うめき声。箒はゆっくりと身を起こした。暗闇に目が慣れてくる。隣のベッドでは、一夏が寝返りを打ったところだった。布団が、乱れている。
「一夏?」
小さく呼びかけるが、返事はない。代わりにまた声がした。
「……ちがう……俺は……」
言葉にならない途切れ途切れの呟き。箒はベッドから降り、静かに一夏のそばへ歩み寄った。窓から差し込む月明かりが、一夏の横顔をぼんやりと照らしている。
「……応答……しろ……」
その言葉に、箒は足を止めた。
(応答? 誰に?)
「……任務……完了……できず……」
一夏の声は、震えていた。苦しげに何かと戦っているような——いや、何かから逃れようとしているような。箒は息を呑んだ。一夏の額には、薄っすらと汗が浮かんでいる。眉根が寄せられ、唇が小さく動いては意味のあるようで無い言葉を紡いでいる。
「……レイヴン……?」
箒は、その単語を聞いた瞬間背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(レイヴン? 何だ、それは)
聞いたことのない言葉だった。英語でも、剣術の用語でもない。だが一夏の口から出たその響きは、なぜか妙に重みを持っていた。まるで、呪文かあるいは——誰かの名前のように。
「……生き残れ……それが……唯一の……」
一夏の顔が、月明かりの中で歪んだ。苦悶の表情。何かから逃れようと、もがいているような。手が布団の上で小さく動く。何かを掴もうとするように。あるいは、何かを手放そうとするように。
「一夏。おい、一夏。起きろ」
箒は、一夏の肩に手を置いた。強く。揺さぶる。一夏の体が、びくりと反応した。だが目は開かない。まだ、夢の中にいる。
「……ッ、あ……!」
一夏が、息を詰まらせた。その声は先ほどまでよりもずっと切迫していた。箒は、肩を掴む手に力を込めた。
「一夏! 目を覚ませ!」
今度は、大きな声で。一夏の体が大きく跳ねた。そして——
「っ……!」
勢いよく、一夏が身を起こした。荒い息。焦点の合わない目。汗が、額から頬へと伝っていく。箒は、思わず手を離した。一夏はしばらく虚空を見つめていた。やがて、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。
「……箒?」
その声は、ひどく掠れていた。だが間違いなく、一夏の声だった。箒は小さく息を吐いた。
「……大丈夫か」
「ああ……うん。ごめん、起こしちゃった?」
一夏は、いつもの能天気な笑みを浮かべようとした。だが、それは失敗に終わった。顔がまだ引きつっている。箒は、そんな一夏を見つめながら静かに問いかけた。
「今、何の夢を見ていた」
一夏の目が、一瞬だけ泳いだ。それから頭を掻く。
「えっと……よく覚えてないんだよな。なんか、戦ってた気がする。それだけ」
「戦って」
「うん。なんか、すごく——」
一夏は、言葉を切った。何かを思い出そうとしているのか、それとも思い出したくないのか。箒は、それ以上追及しなかった。代わりに、ふと思い出したように言った。
「お前、さっき『レイヴン』って言ってたぞ」
「え?」
一夏の顔が、一瞬だけ、固まった。それから首をかしげる。
「レイヴン? 何それ」
「こっちが聞きたい。お前が言ったんだ」
一夏は、しばらく考え込むように黙っていた。それから、小さく首を振る。
「分かんない。聞いたことない言葉だ」
「……そうか」
箒は、それ以上何も言わなかった。だが、胸の奥に小さな棘のようなものが残った。レイヴン。聞き慣れない言葉。だが、一夏の口から出たときその言葉は妙に——なじんでいた。まるで、ずっと昔から一夏の中にあったかのように。
「ごめん、変な夢見て。迷惑かけたな」
「別に。気にするな」
箒は、自分のベッドへと戻った。布団をかぶり、壁の方を向く。だが眠気は、もうどこにもなかった。背後から、一夏が再び横になる気配がした。しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。
(——あの目)
箒は、暗闇の中で目を開けていた。昼間見た、あの冷えた目。夢の中でのあの苦しげな声。そして、聞き慣れない言葉——レイヴン。
(一夏の中に、何かがいる)
その考えが、頭から離れなかった。恐ろしい、という感情はなかった。ただ、不思議と——胸がざわついた。六年ぶりに会った幼馴染は、昔のままの一夏だった。だがその奥に、何か別のものがいる。それは自分が知らない何か。箒は、ゆっくりと息を吐いた。
箒は暗闇の中で、ゆっくりと息を吐いた。
(レイヴン)
その言葉が、頭から離れない。一夏が寝言で呟いた、聞き慣れない響き。何度も心の中で繰り返しているうちに、記憶の底で何かが軋んだ。まるで、長い間閉ざされていた扉が内側から押されるような感覚。
(あの子の中に何かがいる)
その声が、ふいに甦った。
箒は目を閉じた。眠気はもう完全に失せていた。代わりに浮かんでくるのは、ずっと昔の記憶。まだ幼く物心ついたばかりの頃の光景だった。
あれは、何歳のときだっただろう。たしか——五つか、六つか。道場の帰りだったかそれとも篠ノ之家に千冬が訪ねてきた日だったか。細かいことは覚えていない。ただ、その日はやけに空気が冷たかったことだけは、はっきりと覚えている。
母屋の縁側で、束と千冬が話していた。箒はその近くで、ひとりで遊んでいた。だが二人の話し声は、子ども心にも妙に耳に残った。
「ねえ、ちーちゃん」
束の声だった。いつもの飄々とした、どこか掴みどころのない口調。だがその日は、少しだけ違っていた。どこか真剣で。
「あの子のことだけど」
「一夏が、どうした」
千冬の声は、今よりもずっと若かった。だが、その響きはもうあの冷徹さの片鱗を帯びていた。
「あの子の中にね、何かがいる」
束は、そう言った。まるで天気の話でもするように、軽く。だがその言葉の重さは、五つの箒にも理解できた。空気が、すっと冷たくなった気がした。
「……どういう意味だ」
千冬の声が、わずかに硬くなった。
「言葉通りの意味だよ。あの子の中には、あの子じゃない何かがいる。ううん、何か——じゃないな。何人もいる」
束は、そこで一度言葉を切った。縁側の向こうで、蝉が鳴いていた。夏の日だったのに、その音がやけに遠く聞こえたのを覚えている。
「とても、恐ろしいものがね」
箒は、そのとき思わず息を止めていた。束の声は、変わらず穏やかだった。だがその中に——確かな警戒が滲んでいた。恐怖ではなく、警戒。危険なものを前にしたときの、あの静かな緊張。
「お前が、それを言うか」
千冬の声は、低かった。
「言うよ。だって、本当のことだもの。あの子は普通の子じゃない。いや——あの子の中の『何か』が、普通じゃない」
束は、そこで少しだけ笑った気配があった。けれど、それは楽しげな笑みではなかった。
「私にも、よく分からない。あの子の中のものは、私の理解の外にある。ISの理論でも、コアの構造でも説明がつかない。ただ——」
束の言葉が、そこで途切れた。一瞬の沈黙。そして、囁くような声で束は言った。
「あの子に、近づきすぎちゃいけないよ。ちーちゃん。あの子の中のものは——優しいものじゃない」
「……お前は、一夏を恐れているのか」
千冬の問いに束はしばらく答えなかった。そして、静かに言った。
「恐れてるんじゃない。心配してるの。あの子が、あの子のままでいられるかどうか」
縁側の向こうで、また蝉が鳴いた。箒はそのとき初めて、自分の姉が——あの自由奔放で、何にも縛られない束が——何かに怯えているのを見た気がした。いや、怯えではなくもっと静かな何か。危険を、正しく認識している者のあの落ち着き。
「箒ちゃん」
ふいに、束がこちらを振り向いた。箒は、びくりと肩を震わせた。盗み聞きが、ばれたと思った。だが束は怒らなかった。ただ、いつもの飄々とした笑みを浮かべて、箒に言った。
「今の話、忘れてね。誰にも言っちゃだめだよ」
その笑みは、優しかった。だがその目の奥に——箒は、言葉にできない何かを見た。それは、姉が本当に心の底から何かを案じているときの目だった。
「大きくなったら、分かるかもしれない。でもそれまでは——」
束は、そこで言葉を切った。それ以上、何も言わなかった。箒も何も聞かなかった。ただ、その日のことはなぜか強く記憶に残った。忘れなさい、と言われたのに。忘れられなかった。
——
(そうだ。あの日、束姉さんは確かに言っていた)
箒は、暗闇の中で目を開けた。
(一夏の中に、何かがいる。とても恐ろしいものがいると)
あれから十年。箒はその言葉の意味を、ずっと考えずに生きてきた。忘れようとしていた。だが、今日——一夏が隣で眠るこの部屋で、その記憶は鮮明に甦った。
(昼間のあの目。夢の中のあの声。そして、レイヴンという言葉)
それらは、すべて繋がっている。箒には確信があった。姉さんは、知っていたのだ。一夏の中にいる「何か」を。そして、それを恐れていた。いや恐れてすらいなかったのかもしれない。ただ、正しく理解していた。理解した上で、警戒していた。
(一夏)
箒は、隣のベッドを見やった。月明かりの下、一夏はもう穏やかな寝息を立てている。先ほどの苦悶の表情は、もうどこにもない。まるで何事もなかったかのように。
(お前は、知っているのか。自分の中にいるものを)
問いかけても答えは返ってこない。箒は、ゆっくりと布団を引き上げた。冷たい夜気が、頬に触れる。
(姉さんは、今どこにいるんだろう)
三年前、突如として行方をくらました姉。その理由を、箒は知らない。だが——もしかしたら。そんな考えが、頭をよぎった。もしかしたら束姉さんは、一夏の中の「何か」と、何か関係があるのではないか。
(考えすぎだ)
箒は、頭を振った。だがその考えは、簡単には消えなかった。胸の奥に、小さな棘のように残り続ける。
(一夏。お前は、何者なんだ)
隣のベッドから穏やかな寝息が聞こえる。箒は、しばらくその音に耳を傾けていた。やがて、ゆっくりと目を閉じる。眠れるはずがない、と思っていた。だがいつの間にか——箒の意識も、静かに闇へと沈んでいった。
夢の中で、箒はもう一度あの夏の日を見ていた。縁側で、束が静かに言う。「あの子の中にね、何かがいる」。その声がいつまでも、耳の奥に響いていた。