IS レイヴンズ・レゾナンス   作:BLUE@

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三十一話

風呂から上がった一夏は、濡れた髪をタオルで拭きながら廊下を歩いていた。大浴場は時間交替制で、この時間帯は男子の番だった。とはいえ、男子は一夏しかいない。実質的に貸切状態である。存分に手足を伸ばして湯に浸かることができた。

 

「ふう……」

 

部屋の前で立ち止まり障子を開ける。部屋の中は静かだった。畳の上に敷かれた二組の布団。そのうち一組の上に、千冬が腰を下ろしていた。湯上がりなのか、その黒髪はまだ少し湿っている。浴衣姿で、どこかいつもより気が抜けたように見えた。

 

「あがったのか」

「うん。千冬姉はもう入ったのか?」

「ああ。先ほどな」

 

千冬はそう短く答えると肩を軽く回した。その動きに、一夏はふと気づく。千冬の眉が、ほんの少しだけしかめられている。

 

「千冬姉、肩凝ってるのか?」

「……少々な。慣れない環境で、書類仕事が溜まっていてな」

 

千冬はそう言って再び肩を回した。その姿を見て、一夏はあることを思いついた。

 

「なあ、千冬姉。よかったら肩揉んでやろうか?」

「……お前が?」

「ああ。昔、よくやってたろ? 覚えてる?」

 

千冬は少しだけ目を細めた。その表情は、どこか遠い記憶を辿るようなものだった。

 

「そういえば、そんなこともあったな」

「だろ? 久しぶりにやるよ」

 

一夏はそう言って千冬の背後に回り込んだ。そして、その肩に手を置く。浴衣越しに、千冬の体温が伝わってきた。

 

「失礼します、と」

 

一夏はそう呟いて、肩を揉み始めた。最初はゆっくりと、様子を見るように。千冬は特に何も言わず、されるがままになっている。

 

「どうだ? 痛くないか?」

「ああ。ちょうどいい」

 

千冬の声は、どこか少しだけ柔らかかった。一夏はそれを聞いて、少しだけ安心した。そして指に少しずつ力を込めていく。凝り固まった筋肉を、ほぐすように。

 

「ここ、結構張ってるな」

「……自覚はある」

 

千冬はそう短く答えた。一夏は、その言葉に少しだけ笑みを漏らした。姉も、こういうところは隠さないんだな、と思った。しばらく無言の時間が続いた。指の下で、千冬の肩が少しずつほぐれていくのが分かる。その感触に、一夏はどこか懐かしさを覚えていた。

 

「一夏」

「ん?」

「お前、揉み方が上手くなったな」

 

千冬がぽつりと言った。その声には、ほんの少しの驚きとそしてどこか嬉しそうな響きがあった。

 

「そうか? 昔はよく怒られたけどな」

「あの頃は力加減が分かっていなかったからな。仕方ないだろう」

「ひでえ」

 

一夏はそう言って笑った。千冬も、小さく笑ったようだった。その空気は、どこか温かくて懐かしい。姉と弟。その間にある、時間の積み重ね。一夏はそんなことをぼんやりと考えながら、指を動かし続けた。

 

「千冬姉。今日はありがとな」

「何がだ」

「いろいろと。合宿のこととか。俺、千冬姉がいてくれたからこうして来られたんだと思うし」

「……お前は、昔からそうだな」

 

千冬が、小さく息を吐いた。

 

「そうかな?」

「いや。昔から、変に律儀で、お人好しで。……そして、どこか掴みどころがない」

 

一夏の指が、一瞬止まった。

 

「掴みどころがない?」

「ああ。お前は、お前のようでいてお前じゃない時がある。……気づいているか?」

 

一夏は、言葉に詰まった。千冬の言っていることが、なんとなく分かる気がした。頭の中の声。時折よぎる、戦場の記憶。それらは確かに一夏の一部でありながら、一夏ではない何かだった。

 

「……分からない。でも、そういう時があるってことはなんとなく」

「そうか」

 

千冬はそれ以上何も聞かなかった。ただ、静かに目を閉じた。

 

「あまり、深く考えるな。お前はお前のままでいい」

「……ああ。ありがとう、千冬姉」

 

一夏はそう言って、再び指を動かし始めた。その手つきは、さっきより少しだけ優しくなっていた。千冬の肩から、少しずつ力が抜けていく。その背中は、いつもよりずっと小さく見えた。部屋の外から、波の音が聞こえてくる。静かな夜だった。一夏は、しばらくの間黙って千冬の肩を揉み続けた。

 

―――

 

「よし、じゃあもう一度……」

 

一夏が千冬の肩に手を置き直した。

 

「待て」

 

千冬が低く短くそう言った。その声には、さっきまでの柔らかさはない。一夏は手を止める。千冬は静かに立ち上がると、音もなく障子へと近づいていった。そして、勢いよく障子を開ける。

 

「きゃっ!?」

「うわっ!?」

「ひゃあ!?」

 

何かがぶつかる鈍い音と共に、悲鳴が上がった。一夏は慌ててそちらを見る。障子の向こう、廊下に重なるようにして三人の姿があった。箒に鈴音、それにセシリアだ。三人はそれぞれに尻もちをついたり、壁に手をついたりして実に間の抜けた格好で固まっていた。

 

「……お前たち、何をやっている」

 

千冬の声は静かだったがその静けさこそが一番怖い。箒が顔を上げ、言い訳をしようと口を開く。

 

「ち、違うんです。これは、その……」

「そうです。決して盗み聞きをしていたわけでは」

「わ、わたくしたちはただ通りかかっただけで」

 

三人の言い訳は要領を得ない。千冬は彼女たちを一瞥すると、小さく息を吐いた。

 

「逃げようとしたところで無駄だぞ」

 

箒と鈴音が立ち上がって走り出そうとした瞬間、千冬の手が伸びた。その動きはあまりにも速く、そして正確だった。箒の襟元を掴み、鈴音の腕を摑みセシリアの肩を押さえる。三人はあっという間に捕まった。

 

「盗み聞きは感心しないな。……だが、ちょうどいい。入れ」

 

千冬はそう言って三人を部屋の中へと押し込んだ。箒たちは観念したように、大人しく畳の上に座る。千冬は彼女たちを見下ろしながら、さらに言葉を続けた。

 

「箒、鈴音。シャルロットとラウラを連れてこい」

「え?」

「早くしろ」

「わ、分かりました」

 

箒と鈴音は顔を見合わせながらも、素直に頷いて部屋を出ていった。残されたセシリアは、どこか居心地悪そうに正座をしている。一夏は、そんなセシリアの隣に座った。

 

「セシリア。来てくれてありがとな」

「ええ。まあ……。マッサージだと聞いて、少し期待したわたくしが馬鹿でしたわ」

 

セシリアはそう言って乾いた笑いを漏らした。その声には、少しだけ自嘲の色が混じっている。

 

「でも、せっかくだからさ。腰のあたり、揉んでやるよ。正座で疲れたんだろ?」

「え……。よろしいのですか?」

「ああ。俺が言い出したことだしな」

 

一夏はそう言ってセシリアの背後に回った。そして、その腰のあたりに手を置く。浴衣越しに、セシリアの体温が伝わってきた。

 

「失礼します」

 

一夏はそう断ってゆっくりと指に力を込めた。セシリアの体が、びくりと小さく震える。

 

「あ……」

「痛かったか?」

「いいえ。……その、少し、くすぐったいだけですわ」

 

セシリアはそう言って、少しだけ肩の力を抜いた。一夏はその様子を確認してから、慎重に指を動かしていく。凝っているところを、ゆっくりとほぐすように。

 

「ここ、結構張ってるな」

「そ、そうですか……。あ……、そこ、少し強く……」

 

セシリアの声が少しずつ変わっていく。最初はどこか緊張していたのが、だんだんとリラックスしたものになっていった。やがて、その口元がほんのりと緩む。

 

「ふふ……。なんだか、とても気持ちいいですわ」

「だろう? 腰が楽になったか?」

「ええ。とても……」

 

セシリアはそう言って、うっとりと目を細めた。その表情は、さっきまでのお嬢様然としたものではなく、ただ気持ちよさに身を委ねている、素のものだった。

 

「ふむ。なかなか年不相応な下着をつけているな」

 

千冬がそう言って、不意にセシリアの浴衣の裾を捲った。黒い下着が覗く。

 

「きゃああああっ!?」

 

セシリアの悲鳴が部屋中に響き渡った。慌てて浴衣を押さえようとするが、千冬の手の方が速い。そのまま、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべている。

 

「な、何をなさるのですか織斑先生!?」

「別に。ちょっとした感想を述べただけだ」

「感想って……! 恥ずかしいですわ!」

 

セシリアの顔はゆで卵のように真っ赤になっている。一夏はというと、あまりの出来事に固まってしまっていた。目をどこに向ければいいのか分からない。

 

その時、障子が開いた。

 

「連れてきました」

 

箒の声と共に鈴音、シャルロット、ラウラが部屋に入ってくる。彼女たちは、真っ赤になっているセシリアと、その浴衣を押さえている千冬の姿を見て、一瞬にして状況を悟ったようだった。シャルロットが小さく笑いをこらえ、ラウラは少しだけ目を丸くしている。

 

「座れ」

 

千冬の一言で四人は素直に畳の上に座った。箒と鈴音は、すでに事情を察しているのか少しだけ気まずそうな顔をしている。

 

「マッサージだと聞いて、力を抜いたようだな」

「ええ。まあ……」

 

シャルロットがそう答えると千冬は小さく頷いた。そして、部屋の中を見渡した。一夏、箒、セシリア、鈴音、シャルロット、ラウラ。六人の生徒が、それぞれに座っている。

 

「五人に話がある」

 

千冬はそう言って、一夏の方を見た。

 

「一夏。もう一度、風呂に入ってこい」

「え? でも、俺も話を……」

「いいから行け」

 

千冬の声には、有無を言わせない力があった。一夏は少しだけ迷ったが、素直に立ち上がった。

 

「分かった。じゃあ、行ってくる」

 

一夏はそう言って部屋を出た。障子が閉まる音が、背後で静かに響く。廊下に出ると、夜の涼しい空気が頬を撫でた。風呂へと向かう足取りは、どこか落ち着かない。千冬が五人に話とは、一体何なのだろうか。一夏はそんなことを考えながら、廊下を歩いていった。

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