二時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室が一気に緩んだ空気に包まれた。
一夏は伸びをしようとしてやめた。隣の席の女子生徒が振り向いて「織斑くん、次の授業の準備できてる?」と笑いかけてくる。一夏は「あ、うん。ありがとう」と曖昧に返した。こういうやり取りが、今日はやけに多い。推薦の一件以来、クラスの女子たちの一夏に対する距離が妙に近くなっていた。
(慣れないな、これ)
そう思っていると教室の扉が開いた。千冬が教壇へと上がる。三時限目の始まりだ。だが、その手には教科書がない。代わりに一枚の書類が握られていた。女子生徒たちが、ざわめく。
「静まれ」
千冬の一言で、教室は静まった。彼女は教壇の前に立ち、一夏を見た。その視線はどこまでも事務的だった。
「織斑。お前の機体の件だが」
「え? 俺の、機体?」
一夏は首をかしげた。千冬は書類を軽く掲げる。
「訓練用のISの予備機が、学園にはない。今ある機体は、本来女子生徒用に調整されたものだ。男子の操縦に最適化された予備など存在しない」
教室が、ざわめいた。「そういえばそうよね」「男子用の機体なんて、聞いたことない」。一夏もそれはもっともだと思った。ISはもともと女性用に設計された兵器だ。男子用の機体など、存在しないのも無理はない。
「そこで、学園側の判断だ。お前には専用機を用意する」
「専用機?」
一夏は、思わず聞き返した。専用機——つまり、自分だけのIS。操縦者に合わせて調整された世界に一機だけの機体。
「そうだ。ただし」
千冬の声が、わずかに低くなった。
「これは学園の厚意だけではない。各企業が、お前のデータを欲しがっている」
教室の空気が一瞬で変わった。先ほどまでの好奇に満ちたざわめきが、どこか冷たい緊張へと変わる。一夏も、顔を顰めた。
「データ、って」
「男子のIS操縦者など前例がない。お前がISに乗り、どう動き、どう反応するのか——そのすべてが、企業にとっては垂涎の的だ。機体を提供する代わりに、彼らはお前の戦闘データを得る。そういう契約だ」
一夏は、黙った。企業が自分のデータを欲しがっている。その言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。不快感——に近い。理由は分からない。だが、この感覚には覚えがある気がした。
(——企業の思惑に乗せられるな。彼らはいつだって、自分たちの利益のために動く)
脳裏で、誰かがそう囁いた。一夏は無意識に拳を握っていた。それを見た千冬の目が、わずかに細められる。何か言いたげだったが、結局それは口にされなかった。
そのとき「あの、織斑先生」
一人の女子生徒がおずおずと手を挙げた。眼鏡をかけた、おとなしそうな少女だった。名前は、まだ一夏も覚えていない。
「何だ」
「今のお話とは、少し違うんですけど——」
少女は、一瞬ためらうように視線を彷徨わせた。それから、意を決したように口を開く。
「篠ノ之さんって、もしかして——篠ノ之束博士の、妹さんですか?」
教室が、静まり返った。
一夏は、思わず隣の席を見た。箒がそこにいる。彼女は一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと視線を上げた。その表情は、驚きとそれから少しの諦めが混ざったような、複雑なものだった。
「……ああ、篠ノ之はあいつの妹だ」
千冬は、短く答えた。それだけだった。だが、その一言で教室の空気が爆発した。
「ええっ!? 本当に!?」
「篠ノ之束って、あのISの生みの親の!?」
「すごい! じゃあ、ISのこと何でも知ってるの!?」
女子生徒たちが一斉に箒へと詰め寄る。箒は、迷惑そうに眉を寄せた。その反応を見て、箒が口を開いた。
「だから、何だというんだ」
箒の声は、低く、静かだった。女子生徒たちの熱気を、一瞬で冷ますような響き。
「姉は姉だ。私は私だ。姉がISを作ったからといって、私がISに詳しいわけじゃない。教えられることなど、何もない」
その言葉には、どこか突き放すような響きがあった。姉の名前を出されることへの、一種の拒絶。一夏は箒の横顔を見つめた。
(箒、やっぱり何かあるんだな)
一夏は、そう思った。だが口には出さなかった。
「篠ノ之の言う通りだ」
千冬が、箒をフォローするように言った。
「篠ノ之束は三年前に行方をくらませている。現在の所在は不明。そして彼女の技術的知識は、妹である篠ノ之にも受け継がれていない。それを理解しておけ」
千冬の言葉で女子生徒たちはようやく熱を冷ました。だが、箒を見る目はまだどこか好奇に満ちている。箒は、そんな視線を気にするでもなく、静かに前を向いていた。
「話を戻す」
千冬が、再び一夏を見た。
「専用機の件だが、機体の調整には時間がかかる。一週間後のセシリアとの模擬戦には間に合わない。それまでは、訓練用の機体を使え」
「分かりました」
一夏は頷いた。専用機——自分の機体。その響きには、まだ実感が伴わない。だが企業の思惑が絡んでいるという事実は、妙に重くのしかかっていた。
(——データを欲しがる企業。その手に乗るな)
(——だが、機体がなければ戦えない。使えるものは使う。ただし——)
(——主導権は、こちらが握る)
一夏は、小さく息を吐いた。頭の中の声は、いつの間にか当たり前のように自分の中に溶け込んでいる。それが少しだけ——怖かった。
そんな時、セシリア・オルコットは、教室を出る前に一夏の机の前で足を止めた。
「専用機が来るんですって?」
その声は、やけに上機嫌だった。先ほどまでの棘はどこにもなく、むしろ晴れやかな笑みさえ浮かべている。一夏は椅子に座ったまま、わずかに身構えた。何を言われるのか、予想がつかなかったからだ。
「まあ、結構ですわね。訓練用の機体で模擬戦に臨むなんて、見ているこちらが気の毒になるほどの不公平でしたもの。専用機が来るなら——少しはマシになりますわ」
セシリアは、優雅に髪をかき上げた。その仕草は相変わらず芝居がかっていて、だがどこか楽しげだった。
「ただし、勘違いなさらないで。機体が良くなったところで、あなたの操縦技術が上がるわけではありませんのよ。一週間でどこまで追いつけるか——楽しみにしていますわ」
それだけ言うとセシリアは軽やかに教室を出ていった。その背中からは、確かな余裕が滲んでいた。一夏は、小さく息を吐いた。
(敵に塩を送られた、ってところか。いや——あれは塩じゃないな。挑発だ)
(——ああいう手合いは、戦場だと真っ先に狙われる。だが、今は味方になる可能性もある)
(——まだ敵だ。気を抜くな)
頭の中の声に一夏は慣れてきた自分を感じていた。それが少し、不思議だった。
——
昼休み。
食堂は、学園の女子生徒で埋め尽くされていた。一夏が箒と並んで席に着くと、周囲の視線が一斉に集まる。昨日からずっとそうだ。慣れるものではない、と思いながら一夏は箸を取った。
「なあ、箒」
「何だ」
「今日の放課後、ちょっと付き合ってくれないか」
箒は、箸を止めた。その目がわずかに細められる。
「何をだ」
「ISの基礎を教えてほしいんだ。一週間しかないし、教科書読んだだけじゃ分からなくて」
一夏がそう言うと箒はしばらく黙って一夏を見つめていた。それから、小さく息を吐く。
「私も、お前と話したいことがある」
「話?」
「あとでだ」
箒は、それだけ言って食事を再開した。一夏は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
そのとき「織斑くーん」
甘い声がして、一夏の前に一人の女子生徒が立った。上級生だった。制服のリボンの色が違う。長い髪を靡かせて、にこやかに笑っている。その後ろにも、数人の女子生徒が控えていた。
「ISのこと、教えてあげようか? 先輩として、いろいろ教えられることがあると思うの」
一夏は、箸を持ったまま固まった。周囲の女子生徒たちが、ざわめく。その視線は好奇と、ほんの少しの嫉妬に満ちていた。
「え、あの、俺——」
「いいのよ、遠慮しなくて。どうせ篠ノ之さんも、そんなに詳しくないんでしょ?」
上級生は、ちらりと箒を見た。その目には、どこか挑むような色があった。箒は、箸を置いた。静かに顔を上げる。
「確かに、私はISの専門家ではない」
箒の声は、静かだった。だがその中に確かな強さがあった。
「だが、この男の幼馴染だ。そしてISの生みの親の妹でもある。教えられることは——ある」
上級生の笑みが一瞬だけ固まった。箒は、まっすぐにその目を見返した。
「だから、私が教える。お節介は無用だ」
その言葉に、上級生はしばらく箒を見つめていた。やがて、小さく肩をすくめる。
「ふうん。まあ、いいわ。せいぜい頑張ってね篠ノ之さん」
上級生は、一夏に手を振って去っていった。その後ろに控えていた女子生徒たちも、ぞろぞろとついてくる。一夏は、ようやく箸を置いた。
「箒、ありがとう」
「礼はいい。それより、放課後だ。道場に来い」
「道場?」
「お前の剣道、見せてもらう」
箒は、それだけ言った。その目は、もう決まっていた。一夏はごくりと唾を飲んだ。剣道。ISとは関係ない。だが、箒にとっては関係ないことではないのだろう。彼女は、一夏の「今」を知りたいのだ。剣道を通して。
「分かった」
一夏は、頷いた。
——
放課後。
剣道部の道場は学園の端にあった。広い板張りの床。高い天井。窓から差し込む夕陽が、床を橙に染めている。一夏は貸し出された防具を身につけていた。三年ぶりの竹刀の感触。手に馴染むようで、どこか遠い。
箒は、もう準備を終えていた。剣道着姿。面をつけ、竹刀を構えている。その姿は昔と少しも変わらない。だが——その気迫は、六年分の研鑽を物語っていた。
「一夏。打ち込んでこい」
箒の声が、面越しに聞こえた。一夏は深呼吸をした。竹刀を構える。中段の構え。体が覚えている。だが——
(——違う。これは剣道だ。戦場じゃない)
(——だが、剣は剣だ。刃がなくても間合いは同じ)
(——黙れ。俺は、箒と打ち合うんだ)
一夏は、踏み込んだ。竹刀を振り上げる。箒が、動く。速い。一夏の竹刀は空を切った。箒の竹刀が、一夏の面を捉える。だが寸前で止まる。紙一重。
「甘い」
箒の声。一夏は、後退した。間合いを取る。
(——今の一撃。避けられたはずだ。なぜ避けなかった)
(——避けようとした。だが体がついてこなかった)
(——いや、違う。一瞬、体が止まった。あの声が思考を掠めたからだ)
一夏は、頭を振った。集中しろ。箒と向き合う。これは、訓練だ。剣道だ。
二撃目。三撃目。一夏は、必死に食らいついた。箒の竹刀は、正確だった。無駄がなく速い。一夏の動きは、それに比べて鈍い。だが——時折、自分でも驚くような動きが出た。箒の攻撃を、紙一重でかわす。あるいは読み切って先に打ち込む。そんな瞬間が、何度かあった。
そのたびに、頭の奥で声がした。
(——そうだ。間合いを読め。相手の重心を見ろ)
(——竹刀は武器だ。だが、武器だけが武器じゃない。体全体が武器だ)
(——違う。これは剣道だ。殺し合いじゃない)
一夏は、歯を食いしばった。声が邪魔だった。だが——同時に、その声のおかげで動けている自分もいた。箒の攻撃を、避けられている。それは三年間剣道を離れていた一夏には、明らかに異常なことだった。
「どうした、一夏。動きが鈍いぞ」
箒の声が、面越しに届く。その声にはどこか焦れったさがあった。
「——っ」
一夏は、踏み込んだ。全力で。竹刀を振り下ろす。箒が、受ける。鍔迫り合い。二人の竹刀が、交差する。一夏は押し込もうとした。だが——その瞬間だった。
(——右だ)
声が、した。一夏の意識がそちらへ引かれる。ほんの一瞬。だが、その一瞬が——
箒の竹刀が、一夏の小手を捉えた。
「——っ」
一夏は、バランスを崩した。箒は逃さなかった。素早く踏み込み、面を打つ。竹刀が一夏の面に当たった。乾いた音が、道場に響く。
「一本」
箒の声が、静かに言った。一夏はその場に座り込んだ。息が荒い。竹刀を持つ手が、震えている。箒は面を外した。その顔には、複雑な表情が浮かんでいた。
「……お前」
箒が、口を開いた。一夏は、顔を上げた。箒の目がまっすぐに一夏を見ていた。心配と、困惑とそれから——確かな探求。
「強くなっている。いや——おかしい。三年も竹刀を握っていなかったと言っていたはずだ。なのに、お前の間合いは昔より鋭い」
一夏は、何も言えなかった。自分でもそう思うからだ。
「一夏。お前、どうした」
箒の声は、静かだった。だがその中に確かな問いがあった。
「……分からない」
一夏は、正直に答えた。竹刀を下ろし息を整える。
「気づくと、体が動いてるんだ。頭で考えなくても、勝手に」
箒は、黙っていた。その目が、わずかに揺れる。何か言いたげだった。だが、結局それは口にされなかった。
「……今日は、ここまでだ」
箒は、そう言って竹刀を収めた。一夏も、立ち上がる。道場の外では夕陽が沈みかけていた。橙から、紫へ。空の色が変わりつつある。
「箒」
「何だ」
「明日も、付き合ってくれるか」
一夏の問いに箒はしばらく黙っていた。それから、小さく頷く。
「ああ。ただし、明日はISの訓練だ。剣道ばかりやってても、模擬戦には勝てん」
「分かってる」
「ならいい」
箒は、そう言って道場を出ていった。一夏は、その後ろ姿を見送りながら小さく息を吐いた。
(——剣道でも、あの声は聞こえる)
(——当たり前だ。剣も戦いの一つだ。戦いである以上、俺たちは関係ないとは言えない)
(——俺は、一夏だ。お前たちじゃない)
(——だが、お前の中にいる。それは変えられない事実だ)
一夏は、竹刀を片付けた。手のひらにまだ箒の打撃の感触が残っている。その感触が、妙に生々しかった。
(——強くなってる、か)
自分では、よく分からない。だが箒がそう言うなら、そうなのだろう。それが自分の努力の結果なのか——それとも、別の何かの結果なのか。
(——分からない)
一夏は、道場を出た。夕闇が学園を包み始めていた。その中を、寮へと歩く。頭の中ではまだ声がしていた。だが、もうそれに振り回されることはない。少なくとも、今は。
(——明日は、ISの訓練だ)
(——ああ。やるしかない)
(——一週間。まだ、時間はある)
一夏は、空を見上げた。星がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
―――
模擬戦の当日は、快晴だった。
第三アリーナの観客席には授業を終えた女子生徒たちが詰めかけていた。代表選出を巡る一夏とセシリアの模擬戦。その報は学園中に広まっており、アリーナは異様な熱気に包まれていた。だが一夏はといえば、その熱気の中心にいながらひどく静かな焦燥の中にいた。
(まずい。これは、かなりまずい)
一夏は控室のベンチに座り膝の上で拳を握っていた。この一週間、やれることはやった。箒と剣道を重ね、座学でISの基礎を叩き込んだ。機体の構造、シールドエネルギーの概念ブレードの扱い。知識としては、頭に入っている。だが——
(操縦訓練が、一度もできていない)
この一週間、学園のすべてのアリーナは予定で埋まっていた。上級生の模擬戦、代表候補生の調整企業の視察。空き枠など一つもなく、一夏はISに触れることすらできなかった。座学と剣道だけでは、ISの操縦感覚など身につくはずもない。
「一夏」
箒が、隣に立っていた。剣道着ではなく、今日はISスーツに身を包んでいる。その表情は硬い。
「機体は、まだか」
「うん。連絡がない」
一夏の専用機——白式はまだ届いていなかった。千冬からは「当日までに調整を終える」と聞かされていたが、その当日になっても機体は現れない。企業との契約や調整の遅れ、そういう事情があるらしかったが、一夏には知る由もなかった。
「最悪だな」
箒が、ぽつりと言った。一夏は苦笑した。
「だよな。剣道だけやってても、ISには乗れないし」
「……お前の剣道は、おかしいほどに鋭かった。だが、ISは別物だ。操縦には慣れがいる」
「分かってる」
分かっている。分かっているからこそ、焦燥が募る。セシリアは英国代表候補生。専用機を駆り、ISの操縦に関しては一夏とは比較にならない経験を持っている。そんな相手と、ぶっつけ本番で渡り合えるはずがない。
(——戦場なら、こんな準備不足で出る奴はまず死ぬ)
(——だが、準備が整うことなど一度もない。それが戦場だ)
(——黙れ。今は、お前たちの声を聞いている場合じゃない)
一夏が頭を振ったとき、控室の扉が開いた。
「織斑」
千冬だった。その後ろに摩耶が続いている。摩耶の表情はどこか申し訳なさそうで、千冬の顔はいつもの冷徹さのままだった。だが、その目の奥にわずかな焦りが滲んでいるのを、一夏は見逃さなかった。
「来たぞ。お前の機体だ」
「本当ですか!」
一夏は立ち上がった。千冬は頷き、振り返る。
「入れ」
その言葉に応じて、控室の奥の扉が開いた。台車に載せられて、それは運ばれてきた。
白い機体だった。
ISの基本構造である人型を保ちながら、その装甲は純白。余計な装飾は一切なく、ただ機能のためだけに削ぎ落とされたような、無駄のないフォルム。背部には一対のブレードが収められている。それだけだった。武器は、近接ブレード一本のみ。
一夏は、その機体を見た瞬間息を呑んだ。
(——これは)
脳裏に、映像が過った。見たこともない機体。重厚な装甲、無骨な関節背部に背負った武装の数々。荒廃した大地を駆け、砲火の中を突き進む鉄の巨人たち。白い機体。赤い機体。黒い機体。それらが、一瞬だけ一夏の視界を埋め尽くした。
(——AC)
その言葉が、自然と浮かんだ。意味は分からない。だが、その響きは妙に懐かしく同時にひどく冷たい。
「どうした。ぼうっとするな」
千冬の声で、一夏は我に返った。慌てて頭を振る。
「あ、いや。なんか……かっこいいなって」
千冬は一夏をじっと見た。何か言いたげだったが、結局は口にせず代わりに機体を指す。
「白式。日本のIS企業が設計し、開発が頓挫して凍結されていた機体を流用して完成させたものだ。武器は近接ブレード一対のみ。射撃兵装は一切ない」
「射撃兵装が、ない?」
「そうだ。この機体は、近接戦闘に特化している。お前の……お前の戦い方に、合っていると判断した」
千冬は、そこで一度言葉を切った。その目が、わずかに揺れる。
「だが、問題がある。この機体最適化処理がまだ終わっていない」
「最適化処理?」
「操縦者に合わせて機体のパラメータを調整する作業だ。本来なら事前に行う。だが、時間がない。今日の模擬戦には、このまま出てもらう」
一夏は、言葉を失った。最適化が終わっていない機体で、代表候補生と戦えというのか。
「織斑先生、それはいくらなんでも」
摩耶が、声を上げた。その声には珍しく非難の色があった。
「調整が不十分な機体で戦わせるなんて、危険すぎます。せめて最低限の調整だけでも——」
「時間がない」
千冬は、短く言い切った。その声はどこまでも冷徹だった。だが、その目は摩耶を見ていなかった。一夏を、まっすぐに見ていた。
「織斑。お前が代表になるというなら、この程度の無茶は乗り越えろ。それができないなら、今すぐ辞退しろ。セシリアに頭を下げて、代表の座を譲れ」
一夏は、千冬の目を見返した。その目には、冷たさの中に——確かな期待が滲んでいた。姉が、弟を試している。そう一夏は感じた。
「やります」
一夏は、答えた。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「この機体で、戦います」
千冬は、一瞬だけ目を細めた。それから、小さく頷く。
「乗れ。時間がない」
一夏は、白式へと歩み寄った。機体の前に立ち、深呼吸する。ISスーツのインナーを通して、機体が呼応するのを感じた。白式が、展開する。装甲が展開し一夏の体を包み込む。背部のブレードが、小さく唸った。
その瞬間だった。
——視界が、白く飛んだ。
(——っ!?)
無数の映像が、一夏の脳裏を駆け巡った。荒廃した大地。赤く染まった空。降り注ぐ砲火。撃墜されていく機体。味方の悲鳴。敵の嘲笑。ミッションブリーフィングのノイズ。企業の思惑。裏切り。生存。生存。生存——
(——生き残れ。それが唯一の——)
(——違う。俺は、俺は——)
情報量が多すぎた。一夏は、思わず顔を顰めた。こめかみが、ずきずきと痛む。視界がまだ白い。映像が、止まらない。幾人もの「自分」が、幾つもの戦場で幾度も死にかけている。そのすべてが、一夏の脳に流れ込んでくる。
「一夏!」
箒の声が、聞こえた。遠い。だが確かに聞こえた。
「どうした、一夏。大丈夫か」
「織斑君、顔色が——」
摩耶の声も、聞こえる。心配そうに。一夏は、歯を食いしばった。痛みに耐えながら、無理やり笑みを作る。
「だ、大丈夫です。ちょっと、機体の感覚が新鮮で」
嘘だった。だが、そう言うしかなかった。心配をかけたくなかった。それに——この情報量は、捨てるには惜しい。そう思う自分がいた。おかしな話だ。痛いのに、怖いのにどこかで冷静に分析している自分がいる。
(——この機体、癖があるな。)
(——だが、扱えないことはない。むしろ——)
(——使いこなせれば、強い)
一夏は、深く息を吐いた。痛みはまだある。映像も、完全には消えない。だがそれらを意識の端に追いやることは、できた。まるで慣れているかのように。まるで、ずっと前からこういう感覚を知っているかのように。
「行くぞ、白式」
一夏は、白式を動かした。機体がふわりと浮き上がる。最適化が終わっていない機体は、わずかに不安定だった。だが操縦自体は——なぜか、すんなりと体に入ってきた。ISの操縦は初めてのはずなのに。それでも、機体の動かし方が手に取るように分かる。
(——これもあの記憶のせいか)
一夏は、アリーナへと機体を進めた。通路を抜け、光の中へ。第三アリーナの中央に出る。観客席が、どっと沸いた。だが一夏の耳には、その音が遠かった。
アリーナの反対側に、セシリア・オルコットがいた。
青い機体——ブルー・ティアーズ。英国代表候補生の専用機。その姿は、優雅で、それでいてどこか鋭さを秘めていた。セシリアは、一夏の白式を見てわずかに目を見張った。それから、口元に笑みを浮かべる。
「それが、あなたの専用機? 白くて綺麗ですわね。でも——武装は、ブレードだけ?」
その声は、どこか楽しげだった。一夏は白式の中で小さく息を吐いた。
「ああ。近接戦闘だけだ」
「潔いですわね。嫌いじゃありませんわ」
セシリアは、優雅に機体を構えた。その動きは、洗練されていた。無駄がない。さすがは代表候補生、といったところか。
「では——始めましょうか」
一夏は、白式の背部からブレードを引き抜いた。刃が、光を反射する。手に馴染む感触。その感触が、妙にしっくりきた。
(——戦場の記憶。ACの記憶。それらが、俺に戦い方を教えている)
(——だが、俺は——)
(——俺は、織斑一夏だ。それでも——)
(——それでも、勝つ)
一夏は、機体を構えた。アリーナの空気が、張り詰める。千冬の声がアリーナに響いた。
「——模擬戦、開始!」
その瞬間、一夏の意識は驚くほど澄み切っていた。