訓練を終えた一夏は自室へと向かう廊下を歩いていた。体は疲れているが、不思議と心は軽かった。楯無との訓練で得たものは大きい。UNACの弱点、チームとして戦うことの難しさ、そして自分一人では気づけなかった課題。それらすべてが、これからの自分を強くしてくれるはずだ。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の曲がり角で見覚えのある人影に出くわした。三つ編みに眼鏡。どこか間延びした雰囲気を纏ったその姿は、間違いなく布仏虚だった。
「布仏先輩、こんにちは」
「あら。一夏君。こんにちは」
虚はそう言って、のんびりと微笑んだ。その笑顔は、本音とよく似ているようでやはりどこか違う。姉の余裕というべきか、あるいは単にマイペースなだけなのか。
「虚で良いわ。苗字だと二人いるから分かりづらいでしょう?」
「じゃあ、虚先輩で」
「ええ。それでいいの」
虚は満足そうに頷いた。そして、ふと一夏の全身を見る。訓練を終えたばかりの一夏は、まだ少し汗ばんでいた。
「楯無お嬢様との訓練はどうだった?」
「色々と勉強になりました。UNACの弱点とか、チームで戦うことの難しさとか……先輩の指摘はどれも的確で」
「そう」
虚はそう言って、静かに微笑んだ。その微笑みは、どこか誇らしげにも見えた。だが、すぐに表情を引き締めると虚は一夏の目をまっすぐに見つめた。
「一つだけ、忠告があるの」
「何ですか?」
「警戒しても、予防しても、絶対に振り回されるから。体力だけはしっかりとね」
一夏は首を傾げた。どういう意味だろう。警戒しても予防しても振り回される。何に? 誰に? 楯無のことだろうか。それとも——。
「どういう——」
「それじゃあね、一夏君。おやすみなさい」
虚はそう言って、のんびりと廊下を歩き去っていった。一夏はその背中をしばらく見送っていた。
(——どういう意味だったんだろう)
(さあな。だが、忠告であることは間違いない。心に留めておけ)
(そうだな)
頭の中の声にそう答えながら一夏は再び自室へと向かって歩き出した。虚の言葉が胸の奥に引っかかっていた。警戒しても予防しても振り回される。体力だけはしっかりと。それはつまり、これから何かが起こるということだろうか。それとも、すでに何かが始まっているのだろうか。一夏には分からなかった。だが、虚がわざわざ忠告してきたということは、それなりの理由があるはずだ。
(——まあ、今考えても仕方ないか)
(ああ。まずは休め。疲れた体では何も考えられん)
(そうだな)
一夏は自室の扉を開けた。
「お帰りなさい。ご飯にします? お風呂にします? それとも——わ・た・し?」
その瞬間、一夏は無言で扉を閉めた。静かに、しかし確実に。廊下に響く小さな音。一夏はしばらくその場に立ち尽くしていた。まぶたを閉じ、大きく深呼吸をする。
(——今、何を見た?)
(確認するまでもないだろう。楯無だ)
(裸エプロンの)
(ああ。裸エプロンの楯無だ)
一夏は頭の中の声に状況を問いかけた。
(——ここはどこだ?)
(一年生寮。お前の部屋の前だ)
(だよな)
一夏は部屋の表札を確認した。「織斑一夏」と書いてある。間違いなく自分の部屋だ。ということは、あの中にいるのは間違いなく楯無で、間違いなく裸エプロンで間違いなく「わ・た・し?」などと言っていた。
(——疲れすぎて幻覚を見た、とか?)
(そうであってほしいと願うのは分かるが、残念ながら現実だ。俺も見た)
(だよなあ……)
一夏は意を決して、もう一度扉を開けた。幻覚であってくれ。そう願いながら。
「お帰りなさい。私にします? 私にします? それとも、わ・た・し?」
「選択肢が無い!」
一夏は即座にツッコんだ。扉の向こうには、やはり裸エプロンの楯無がいた。幻覚でも何でもない。現実だった。
「あるわよ。一択なだけ」
「それ選択肢って言わないですから!」
楯無は可笑しそうに笑いながら、エプロンの紐を弄っている。その姿はあまりにも堂々としていて、むしろ清々しいほどだった。
「それでね、一夏君。今日から私もここに住むから」
「はあ!?」
「皆に自慢できるでしょ? 生徒会長と同居してるって」
「ちょっと待ってください! ここ一年生寮ですよ!? 三年生の先輩が住めるわけ——」
「生徒会長権限」
楯無はそう言って、にっこりと微笑んだ。その笑顔はいつもの飄々としたもので、どこか誇らしげでもあった。
(——職権乱用じゃないのか、それ)
(間違いなく職権乱用だな。だが、この人に言っても無駄だろう)
一夏も頭の中の声に同意した。この人に何を言っても無駄だ。それは昨日の訓練で嫌というほど分かっている。だが、さすがにこれは看過できない。
「と、とりあえず服を着てください!」
「あら、残念」
楯無はそう言って、くるりと後ろを向いた。その瞬間、一夏は固まった。楯無の背中にはエプロンの紐だけではなく、水着の紐があった。ビキニだ。白いビキニが、エプロンの下にしっかりと着けられていた。
「じゃん♪ 水着でしたー。残念だったね?」
「何なんだこの人は……」
一夏は思わずそう呟いた。頭の中の声も、呆れたように言う。
(——何なんだこの人は)
(だよな……)
楯無はそんな一夏の様子を楽しむように笑いながら、部屋の中へと入っていった。一夏も仕方なく後に続く。そして、部屋の中を見てまた驚いた。すでに楯無の私物が置いてあったのだ。机の上には可愛らしい文房具セット。ベッドの脇には小さな旅行カバン。壁には——なぜか楯無の写真が飾ってある。
「いつの間に……」
「さっき運び込んだのよ。虚と本音に手伝ってもらって」
「だからって勝手に……」
一夏はため息をついた。頭の中の声が静かに言う。
(——これは何を言っても無駄だろうな)
(……そうだな)
一夏もそれには同意だった。楯無は止まらない。誰にも止められない。虚の忠告が頭をよぎる。「警戒しても、予防しても、絶対に振り回されるから。体力だけはしっかりとね」。あの言葉は、こういうことだったのか。一夏は項垂れた。もう、何も言うまい。一夏はそう心に決めたのだった。
―――
箒は母親直伝の稲荷寿司を入れた箱を手に一夏の部屋へと向かっていた。ほんのりと温かい箱。中には丁寧に炊かれた酢飯と甘辛く煮た油揚げが詰まっている。箒は手にした稲荷寿司の箱を見てふと微笑んだ。一夏が喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。
(一夏のことだ。きっと大袈裟なくらい喜ぶに違いない)
箒はそう思いながら廊下を歩いた。今日の訓練で一夏はよく頑張っていた。楯無の厳しい指摘にもめげず最後まで食らいついていた。その姿は誇らしくもあり少しだけ眩しくもあった。だからこそ、せめてもの労いをしたかったのだ。
やがて一夏の部屋の前に着いた。箒は一度深呼吸をしてから、ドアをノックした。
「一夏。私だ」
返事はすぐにはなかった。少しの沈黙。そして——
「ほ、箒か?」
おかしい。明らかに動揺した声だった。箒は首を傾げた。
「私だ。差し入れを持ってきたぞ」
「ちょ、ちょっと待ててくれ!」
慌てた様子の声。中で何かがぶつかる音。箒の眉が、ゆっくりとひそめられた。何かおかしい。そう思った矢先だった。
「一夏君どうしたの? あ、浮気がバレるから必死なんだぁ♪」
その声が聞こえた瞬間箒の思考が止まった。楯無の声。なぜ、一夏の部屋から楯無の声がする? しかも今、なんと言った? 浮気? 誰が? 一夏が?
箒が疑問を抱くより早く唐突にドアが開いた。そして、現れたのは——
「いらっしゃい、箒ちゃん。さあ入って入って」
水着の上に裸エプロン。そういう格好の楯無だった。箒の思考は完全に停止した。脳が、目の前の光景を処理しきれていない。水着。エプロン。楯無。一夏の部屋。浮気。それらの単語が、頭の中でばらばらに回っている。
「着替えてください!」
一夏の声が、遠くの方で聞こえた。だが箒の耳には届いていない。
やがて、箒の脳がゆっくりと再起動した。ばらばらだった単語が、一本の線でつながっていく。一夏の部屋に、楯無がいる。水着にエプロンという格好で。しかも「浮気」という言葉まで聞こえた。
箒の表情から笑みが消えた。その代わりに浮かんだのは、静かなしかし確かな怒り。不穏な気配が、箒の全身から漂い始める。ゆっくりと、箒は一夏の方へと顔を向けた。
「——一夏」
その声は、驚くほど低かった。一夏がびくりと肩を震わせる。
「これは、どういうことだ。説明してもらおうか」
箒の目は、笑っていなかった。
―――
数分後、何とか箒の誤解を解いた一夏は、箒と制服に着替えた楯無と共に稲荷寿司を食べていた。箒は最初こそ不機嫌そうだったが、一夏が必死に説明し楯無も「冗談よ、箒ちゃん。ちょっとからかいすぎたわね」と素直に謝ったことで、どうにか納得してくれたのだった。
「うまい……」
一夏は稲荷寿司を一口かじって、思わずそう呟いた。甘辛い油揚げの味が口の中に広がる。酢飯の加減も絶妙で、どこか懐かしい味がした。母の味、とまでは言えないかもしれない。だが、誰かが心を込めて作ってくれた温かさが伝わってくる。
「そうか? 母直伝の味だからな」
箒はそう言って少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、いつもの凛とした剣道部の箒とは違う、年相応の少女のものだった。楯無がそんな箒を見て、にこりと微笑む。
「本当に美味しいわ。箒ちゃん、いいお嫁さんになれるわよ」
「なっ……! 余計なことを言わないでください!」
箒の顔が一瞬で赤く染まる。一夏はそんな二人のやり取りを見ながら、もう一つ稲荷寿司を口に放り込んだ。こういう時間も悪くないな、と思った。三人で緑茶を飲みながら、しばらくは他愛のない話が続いた。訓練のこと、明日の授業のことそんな日常の話題。だが、箒がふと楯無の方を見て本題を切り出した。
「楯無先輩。一つ聞いてもいいですか」
「何かしら?」
「なぜ、一夏の部屋に楯無先輩の私物があるんですか?」
箒の声は静かだったがその目は真剣だった。楯無は紅茶のカップを置いて、こともなげに答えた。
「今日から私もここに住むからよ」
「はあ!?」
箒が素っ頓狂な声を上げた。カップを持つ手が微かに震えている。一夏はそんな箒を見て、自分も最初は同じ反応をしたなと思い出していた。箒は慌てて楯無に詰め寄る。
「ど、どうしてですか!? ここは一年生寮です!? 三年生の先輩が住めるわけ——」
「生徒会長権限」
楯無はそう言ってにっこりと微笑んだ。箒はその答えに言葉を失ったようだった。一夏は心の中で密かに頷いた。そうだ、そういう人なんだこの人は。
「それにね」
楯無はそう言って、お茶を一口含んだ。
「一夏君の観察よ」
「観察?」
一夏は首を傾げた。
「なんで俺を観察するんですか?」
「だって一夏君、面白いんだもの。色々と特殊性があるでしょう?」
「特殊性って……」
一夏は言葉に詰まった。確かに自分にはISを動かせるという特殊な能力がある。だが、それを楯無がどこまで知っているのかは分からない。頭の中の声が静かに言った。
(——この人は何かを隠しているな)
(え?)
(観察と言っているが、それだけではないはずだ。何か別の目的がある。気をつけろ)
(分かった)
一夏は頭の中の声にそう答えながら、改めて楯無を見た。楯無は茶目っ気のある笑みを浮かべている。その笑顔はいつもと変わらない。だが、その奥に何か別のものが見え隠れしているような気がした。楯無はそんな一夏の視線を受け止めながら、改めて言った。
「これからよろしくね、一夏君」
「……はい。よろしくお願いします」
一夏はそう答えて、小さくため息を吐いた。この先輩には何を言っても無駄なのだろう。そう悟ったような、諦めにも似たため息だった。箒はそんな一夏の様子を見て、何とも言えない表情をしていた。心配なような、呆れたようなあるいは少しだけ嫉妬しているような。その複雑な表情を、一夏は見逃さなかった。だが今は何も言わないでおこう。そう思った。楯無はというと、そんな二人の様子を楽しむように、静かに緑茶を啜っていた。