翌朝は、ひどく晴れていた。
一夏は教室の自分の席に座りぼんやりと窓の外を見ていた。グラウンドでは、すでにISの訓練を始めている生徒たちの姿が見える。白い機体が、青い空を滑るように飛んでいた。昨日のことが、まだ夢のように思えた。白鴉。赤い空。声。白い少女。そして、セシリアとの戦い。すべてが混ざり合って、頭の中がまだ整理できていなかった。
「おはよう、織斑君」
声をかけられて一夏は振り返った。女子生徒の一人だった。名前は——まだ覚えていない。クラスには四十人近い女子がいて、一夏はまだ全員の顔と名前を一致させられずにいた。
「おはよう」
「昨日の模擬戦、すごかったね。代表候補生に勝っちゃうんだもん」
「あ、ああ。まあ……運が良かったというか」
「運だけじゃないでしょ。あの動き、見てたよ。すごく綺麗だった」
女子生徒は、そう言って笑った。一夏は照れくさそうに頭をかいた。そこへ、別の女子が加わった。
「そうそう。特に最後の一撃! あれ、鳥肌立ったよ」
「え、そう?」
「うん。あのレーザーキャノン、かっこよかった」
「いや、あれは……」
一夏は、言葉に詰まった。あの動きは自分の意志というより、頭の中の声に従った結果だった。だが、それを説明するわけにもいかない。
「おはよう」
凛とした声が教室の入り口から聞こえた。箒だった。長い黒髪をポニーテールにまとめている。その姿は、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていたが、一夏を見つけると少しだけ表情を緩めた。
「おはよう、箒」
「ああ。……今日は早いな」
「まあ、なんとなく」
一夏がそう答えると箒は一瞬だけ目を細めた。何か言いたげだったが、結局は何も言わず自分の席へと向かっていった。その背中を見送りながら、一夏はふと昨日の箒の表情を思い出していた。困惑と、心配とどこか怯えるような色。あれは、何だったのだろう。
やがて、チャイムが鳴った。教室の喧騒が、少しずつ静まっていく。扉が開いて、摩耶が入ってきた。アンダーリムの眼鏡の奥で、その目がにこやかに笑っている。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます、山田先生」
女子たちの声が揃って返る。摩耶は教壇に立ち、出席簿を開いた。出席を取っていく。その声は、どこか弾んでいるように聞こえた。一夏は、なんとなくそんな気がした。出席を取り終えると、摩耶は出席簿を閉じ顔を上げた。
「さて、皆さん。昨日の模擬戦のことは、もう知っていますね」
教室が、ざわめいた。一夏は背筋を伸ばした。摩耶は続ける。
「織斑一夏君が、セシリア・オルコットさんとの模擬戦に勝利しました。これにより、織斑君が1年1組のクラス代表に正式に決定しました」
その瞬間、教室が沸いた。拍手。歓声。口笛。一夏は、その音に包まれて少しだけ面食らった。こんなに祝福されるとは思っていなかった。
「おめでとう、織斑君!」
「すごいよ、本当に!」
「クラス代表、頑張ってね!」
次々と声が飛んでくる。一夏は、立ち上がって頭を下げた。
「あ、ありがとう。みんな。あの俺、まだISのことよく分かってないけど……精一杯やります」
その言葉に、女子たちはさらに声を上げた。
「その謙虚さがいいんだよね!」
「織斑君、ほんとにお人好し」
「応援してるからね!」
一夏は、照れくさそうに笑った。箒はそんな一夏を横目で見ながら、小さく息を吐いた。その表情には、どこか複雑な色が浮かんでいたが、誰も気づかなかった。
「はいはい、静かに」
摩耶が、両手を上げて制した。教室が少しずつ静まる。摩耶は、笑顔のまま続けた。
「織斑君はクラス代表として、これから他のクラスの代表や選抜メンバーと戦うことになります。皆さんも、彼を支えてあげてくださいね」
「はい!」
女子たちの声が、揃って返った。摩耶は満足そうに頷いた。
「それでは、ホームルームを始めます」
そう言って、摩耶は出席簿を開いた。一夏は、自分の席に座りながらぼんやりと考えていた。クラス代表。その響きは、まだどこか現実味がなかった。だが、決まったことだ。やるしかない。そう思ったとき、頭の中の声がふと聞こえた。
(——上出来だ)
(——だが、気を抜くな。代表になったということは、狙われる立場になるということだ)
一夏は、小さく苦笑した。相変わらず容赦のない声だった。だが——その声が、少しだけ優しく聞こえたのは気のせいだろうか。
(——ありがとう)
心の中で、そう呟いた。声はもう聞こえなかった。ただ、教室の喧騒と摩耶の穏やかな声だけが、そこにあった。
―――
四月も下旬に差し掛かると、空の色もどこか変わってくる。
グラウンドに集まった一夏たちのクラスは、千冬の号令のもと整列していた。風がまだ冷たさを残していて、ISスーツの上から羽織ったジャケットの襟を立てる女子も多い。一夏はその中でひと際目立っていた。何しろ男子は彼一人である。四十人近い女子に囲まれて立つその姿は、本人が思う以上に場違いでそして本人が思う以上に馴染んでもいた。
「今日は飛行操縦の基礎だ」
千冬の声がグラウンドに響く。背筋を伸ばし、腕を組んだその姿はかつて最強と呼ばれた操縦者の風格を漂わせていた。
「ISの基本は飛ぶことにある。どんなに高度な武装を扱えても、飛べなければ話にならない。まずは基礎を叩き込む」
千冬の視線が、一夏とセシリアに止まった。
「織斑、オルコット。前に出ろ」
「はい」
「はいですわ」
二人は同時に返事をして前に出た。一夏は少し緊張していた。隣に立つセシリアは、昨日までの悔しさをどこか噛み締めるような、それでいて凛とした横顔をしていた。
「お前たちにはISを展開し、指定の高度まで飛行してもらう。高度は三百メートル。合図と同時に開始。いいな」
「はい」
「承知しましたわ」
千冬は、少し間を置いてから短く言った。
「展開」
一夏は、右手の腕輪に意識を集中した。白鴉の待機状態。それが光を放ち、展開する。白い装甲が体を包み、視界が広がる。同時に——頭の中に声が響いた。
(——飛べ。高度三百。まっすぐだ。迷うな)
(——推力は一定。姿勢制御は腰で行え。肩に力を入れるな)
(——上昇角度は四十五度。それ以上は空気抵抗が増す)
一夏は、息を吐いた。言われるままに体を動かす。ISが、静かに火を噴いた。白鴉がふわりと浮き上がる。
「——行くぞ」
一夏は、空を見上げた。そして飛んだ。推力が、一気に増す。地面が急速に遠ざかる。風が、装甲を叩く。だが——怖くはなかった。むしろ、どこか懐かしい感覚があった。空を飛ぶこと。鉄の塊を操って、空中を駆けること。それは初めてのはずなのに、何度も経験したことのある感覚だった。
(——高度二百。まだだ。もっと上げろ)
(——姿勢は安定している。このまま維持)
一夏は、機体をまっすぐに上昇させた。グラウンドの喧騒が、遠ざかる。空の青が近づいてくる。三百メートル。指定の高度に、一夏はほぼ最短で到達した。白鴉が、静かにホバリングする。一夏は、息を吐いた。思ったよりもすんなりと体が動いた。
(——上出来だ)
(——だが、油断するな。飛行は基礎だ。ここからが本番だ)
頭の中の声は相変わらず容赦がない。だが、その声にどこか安心している自分がいた。やがて、もう一機の機体が近づいてきた。ブルー・ティアーズ。セシリアだった。彼女は、やや遅れて指定の高度に到達した。その機体が、一夏の横に並ぶ。
「——お見事ですわね」
セシリアの声が、通信越しに聞こえた。その声には、昨日までの敵意のようなものはなく、純粋な驚きとほんの少しの悔しさが混じっていた。
「わたくし、てっきり先に着くと思っていましたのに」
「え、そうなのか?」
「ええ。だってあなた、ISを始めたばかりでしょう? なのに、あんなにスムーズに飛ぶんですもの」
セシリアは、少し間を置いてから続けた。
「正直、驚きましたわ。あなたの飛行無駄がなさすぎる。まるで何百時間も飛んできたみたい」
一夏は、言葉に詰まった。何百時間も。実際には、今日が初めてに近い。だが——頭の中の声は、違うと言っていた。何度も飛んできたと。何度も、空を駆けてきたと。それは一夏自身の記憶ではない。だが、確かに一夏の中にある記憶だった。
「……そう見えるのか」
「ええ。少なくとも、初心者には見えませんわ」
セシリアの声はどこか複雑だった。一夏は、空を見つめた。青い空。白い雲。どこまでも続く、果てしない空。その中で白式は静かにホバリングしていた。
「まあ、いいですわ」
セシリアが、ふと声の調子を変えた。
「次は、負けませんからね。飛行でも戦闘でも」
「ああ。俺も、負けない」
一夏は、そう答えた。その声は自分でも驚くほど自然に出た。セシリアは、少しだけ笑ったようだった。
「次は応用だ」
千冬の声が、通信越しに二人の耳へ届いた。グラウンドに立つ彼女の姿は、この高度からでもはっきりと見える。腕を組んだまま、微動だにせず空を見上げていた。
「急降下。そして完全停止。停止位置は地表から十センチ。それ以上でも以下でも認めない」
一夏は思わず息を呑んだ。十センチ。地表すれすれでの完全停止。それは、単に降りるだけとは訳が違う。急降下による加速を、寸分の狂いもなく殺さなければならない。制動が遅れれば地面に叩きつけられ、早すぎれば高度が残る。
「まずオルコット。やってみろ」
「はいですわ」
セシリアの声に、緊張が混じっていた。ブルー・ティアーズが、静かに高度を上げていく。三百メートル。そこから、彼女は機体を反転させた。
「——参りますわ」
機体が、落ちた。いや、撃ち出されたという方が近い。ブルー・ティアーズが一直線に地表へ向かう。風を裂く音が、通信越しに聞こえた。百メートル。五十メートル。二十メートル。そして——
(——見事だ)
一夏の頭の中の声がそう呟いた。セシリアの機体は、まるで見えない壁に受け止められたかのように、すっと速度を殺した。ふわりと。ブルー・ティアーズが、地表すれすれで静止する。
「——よし」
千冬の声。短いが、確かな評価が込められていた。セシリアの機体が、ゆっくりと接地する。通信越しに、彼女の安堵の吐息が聞こえた。
「ふう……緊張しましたわ」
「次、織斑」
千冬の声に、一夏は背筋を伸ばした。白鴉が、静かに高度を上げる。風が装甲を撫でていく。一夏は、目を閉じた。
(——できるな?)
声が、聞こえた。問いかけるような、それでいて答えを知っているような声だった。一夏は、心の中で答えた。
(——やってみせる)
(——なら、俺に任せろ。お前は姿勢だけ保っていろ)
一夏は、目を開けた。白鴉を反転させる。眼下に、グラウンドが広がっていた。遥か下に、千冬の小さな姿。クラスメイトたちの、こちらを見上げる顔。そして——隣で静止する、ブルー・ティアーズ。
「——行くぞ」
一夏は、推力を全開にした。機体が撃ち出される。落下とは違う。自らの意志で、地表へと突っ込んでいく。風が、轟音となって装甲を叩く。景色が、凄まじい速度で迫ってくる。百メートル。五十メートル。二十メートル。十メートル——
(——今だ)
声が、響いた。一夏の手が反射的に動く。推力が、逆向きに全開となる。機体が軋む。Gが、全身を圧し潰そうとする。だが——白鴉は止まった。まるで空間に縫い止められたかのように、ぴたりと。地表から——十センチ。寸分の狂いもなく。
「——よし」
千冬の声が、聞こえた。先ほどよりわずかに強い響きがあった。一夏は、息を吐いた。全身が汗ばんでいる。だが、不思議と疲れは感じなかった。
(——上出来だ。お前、なかなか筋がいい)
声が、そう言った。一夏は小さく笑った。その声は、どこか誇らしげだった。白鴉が、静かに接地する。通信が開いた。
「——見事でしたわね」
セシリアの声だった。その声には、先ほどまでの悔しさがなかった。ただ、純粋な賞賛が込められていた。
「あなた、本当にISを始めたばかりなの? あの制動、わたくしでもここまで完璧にはできませんわよ」
一夏は、頭をかいた。機体の中でその仕草は意味をなさないが、そうせずにはいられなかった。
「いや……まあ、なんというか」
「なんというか、じゃありませんわ」
セシリアの声が、少しだけ呆れたようだった。
「あなたのその、とぼけた態度。わたくしそれが一番気に入りませんの」
「え?」
「実力があるのに、それを自覚していない。そういうのは、周りからすると一番腹立たしいんですのよ」
セシリアは、そう言って、ふっと笑った。その笑い声は通信越しでもはっきりと聞こえた。
「でも——まあ。認めてあげますわ。あなた、飛ぶのは上手いです」
一夏は、少しだけ照れた。素直に褒められると、やはり嬉しい。
「ありがとう」
「お礼は結構ですわ。次は、負けませんから」
セシリアの機体が、くるりと向きを変えた。ブルー・ティアーズが、青い空へと舞い上がる。その動きは、昨日までの彼女とはどこか違っていた。悔しさを引きずるのではなく、それを糧にしているような。そんな、しなやかさがあった。
(——いいライバルだな)
一夏は、そう思った。頭の中の声がそれに応じる。
(——ああ。そういう相手は大切にしろ。戦場では、敵になるかもしれんがな)
一夏は、苦笑した。相変わらず容赦のない声だった。だが——その声が、少しだけ優しく聞こえたのは気のせいではなかった。白鴉が、静かにグラウンドへと降りていく。地表十センチ。その距離を、一夏は正確に保ったまま着地した。
「次は装備の展開だ」
千冬の声が、グラウンドに響いた。飛行訓練を終えた一夏とセシリアは、再び地上に降りて彼女の前に並んでいた。
「ISの装備展開は、操縦者の意思と連動する。どれだけ早く、正確に展開できるか。それが実戦での生死を分ける」
千冬は、二人を交互に見た。
「まず、基本武装の展開からだ。織斑、オルコット。やってみろ」
「はい」
「承知しましたわ」
一夏は、右手の腕輪に意識を向けた。白鴉の武装。リニアライフル。レーザーキャノン。ミサイルポット。パルスブレード。それらすべてが、頭の中の声とともに浮かび上がる。
(——展開しろ。一瞬だ)
一夏は、息を吐いた。そして——展開した。白鴉の全身が、瞬時に武装を纏う。右手にリニアライフル。背部にレーザーキャノンとミサイルポット。左腕にパルスブレード。すべてが、ほぼ同時に。まるで最初からそこにあったかのように。一夏自身、自分の速さに少し驚いていた。
「——なっ」
セシリアの声が漏れた。その目が見開かれている。千冬は、一瞬だけ目を細めた。だがすぐにセシリアへと視線を移す。
「オルコット。次はお前だ」
「は、はいですわ」
セシリアは、気を取り直したように背筋を伸ばした。右手を、肩の高さまで上げる。真横に突き出す。そのポーズのまま、巨大なレーザーライフルが展開された。その姿は、確かに様になっていた。英国貴族の令嬢が、優雅に武器を構える。絵になる光景だった。だが——
「オルコット」
千冬の声は、冷たかった。
「そのポーズは何だ」
「え……?」
セシリアは、きょとんとした顔で千冬を見た。
「その、腕を真横に突き出すポーズだ。誰に教わった」
「だ、誰にというか……」
千冬は、深く息を吐いた。それは呆れと諦めが混じったような吐息だった。
「いいか。ISの装備展開は、ポーズで行うものじゃない。意思で行うものだ。腕を上げようが下げようが、関係ない。お前が今やってるのは、ただの自己満足だ。実戦では一瞬の遅れが命取りになる。そんな芝居じみたことをしていたら、撃たれて終わりだ」
「う……」
セシリアは、言葉に詰まった。その頬がわずかに赤くなっている。千冬は、容赦なく続ける。
「ポーズを決める暇があったら、展開速度を上げろ。お前の今の速度、織斑の三倍はかかってるぞ」
「さ、三倍……」
セシリアは、悔しそうに唇を噛んだ。一夏は、なんとなく気の毒になって横から口を挟んだ。
「あの、織斑先生。セシリアは」
「お前は黙ってろ」
「はい」
一夏は、すぐに黙った。千冬の指導はいつも容赦がない。
「次。近接武器の展開だ。オルコット、まずお前から」
「はいですわ」
セシリアは、気を取り直した。右手にスターライトmkIIIを構えたまま、左手を前に出す。インターセプター。ブルー・ティアーズの近接兵装。それを、展開しようとする。だが——
「……」
セシリアの声が、焦りを含んだ。左手を振る。だが、何も現れない。もう一度振る。何も出ない。
「インター・セプター!」
セシリアは、叫んだ。その瞬間左手にショートブレードが展開された。光を纏った刃が、空気を裂く。だが——
「遅い」
千冬の声は、相変わらず冷たかった。
「名前を叫んで展開するな。そんなことをしていたら、敵に次の手を読まれる。展開は、もっと速く。もっと静かに。もっと自然に」
「で、ですが……名前を呼ばないと、うまく出なくて……」
「なら、出るように練習しろ。今日中に、名前を呼ばずに展開できるようにしろ」
「む、無茶ですわ……」
「無茶を言ってるんじゃない。基礎を言ってるんだ」
千冬は、セシリアの目をまっすぐに見た。その視線は、厳しいがどこか励ますような色も含んでいた。
「お前は才能がある。だからこそ、変な癖をつけるな。今のうちに直せ」
セシリアは、しばらく千冬を見つめていた。やがて、小さく頷いた。
「……分かりましたわ」
「よし。次、織斑」
「はい」
一夏は、前に出た。近接武器の展開。白鴉のパルスブレード。一夏は、意識を集中した。頭の中の声が、自然に流れ込んでくる。
(——左腕だ。パルスシールドからパルスブレードへ。切り替えは一瞬。力むな。ただ、そうなれと思え)
一夏は、目を閉じた。そして——展開した。左腕に、光の刃が現れる。パルスブレード。その展開は、あまりにも自然だった。まるで、最初からそこにあったかのように。千冬は、しばらくそれを見ていた。そして——
「……よし」
短い、しかし確かな評価だった。一夏は、少しだけ嬉しくなった。セシリアが、横で小さく息を吐いた。その顔には、悔しさとそれから少しの納得が浮かんでいた。
「——次は、負けませんわ」
「え?」
「何でもありませんわ」
セシリアは、そう言って顔を背けた。その耳が、少しだけ赤かった。一夏は首をかしげた。何のことだろう、と思った。だが追及するのはやめておいた。千冬が、再び口を開いた。
「まだまだ基礎訓練は続く。気を抜くな」
「はい」
「はいですわ」
二人の声が、揃った。グラウンドに午後の風が吹き抜けていく。白鴉とブルー・ティアーズ。二機のISが、並んで立っていた。
―――
夜の空気は、昼とはまるで別物だった。
四月も下旬を過ぎたとはいえ山間にあるIS学園の夜はまだ冷える。凰鈴音は、制服の上から羽織った薄手のカーディガンの襟をかき合わせながら、正面ゲートの前に立っていた。頭上には、白い外灯が一つ。その光が石畳の道をぼんやりと照らしている。
「……どこなのよ、受付って」
鈴音は、小さく呟いた。手には入学手続きの書類が入った封筒を握っている。中国からはるばるやってきた。軍部を脅すような形で編入を認めさせた。その手前、こんなところで迷っている姿は誰にも見られたくなかった。
「本校舎一階にあるって聞いたんだけどな」
正面ゲートから伸びる道を鈴音は見渡した。奥に、大きな校舎が見える。あれが本校舎だろう。だが、一階のどこに受付があるのか。夜の闇と、初めて見る学園の広さに鈴音の方向感覚はすっかり狂っていた。
(まったく。誰か人でもいれば聞けるんだけど)
だが、この時間だ。生徒たちは寮に戻っている。教師も、もういないかもしれない。鈴音は、封筒を握り直した。紙の感触が、妙に頼りなかった。
(……一夏)
その名前が、頭に浮かんだ。自然に。あまりにも自然に。中国にいた頃から、何度も思い浮かべてきた名前だ。幼い頃、同じ時間を過ごした。中華料理店を営む家に生まれた鈴音と、その店に通っていた一夏。最初は、あまり仲が良くなかった。一夏は、どこかのおっとりした奴で鈴音はそんな彼をよくからかった。だが、時間と機会を重ねるうちにいつしかそれが楽しくなって。気がつけば、好意を抱いていた。
(あの頃は、よかった)
鈴音は、目を細めた。何も知らなかった。一夏が、あんな「何か」を抱えているなんて。思い出すのは、あの日のことだ。一夏がふとした瞬間に見せた目。戦場のような、冷たい目。一瞬だけのそれきりだった。だが、鈴音の野生の勘がはっきりと告げていた。
(あれは、一夏じゃない)
何かが、一夏の中にいる。別の何かが。それが、怖かった。一夏自身はきっと気づいていない。あの能天気な奴のことだ。自分のこととなると、とことん鈍い。だが鈴音には分かった。そして、怖いと思った自分を鈴音は嫌いだった。
「……なに、考えてるんだろあたし」
鈴音は、頭を振った。今は受付を探すのが先決だ。一夏のことは、会ってから考えればいい。そう思い直して、鈴音は正面ゲートをくぐった。
「とりあえず、あの校舎に行ってみるか」
歩き出そうとした、その時だった。
夜道を歩き出した鈴音の足が、止まった。
校舎へと続く石畳の先。外灯の光の輪の中に、二つの影があった。こちらへ歩いてくる。聞こえてくる声に、鈴音は思わず身を隠した。いや、隠すつもりはなかった。ただ足が動かなかったのだ。
「だから、イメージが漠然としすぎてるんだ。もっと具体的に、こう、体の内側から」
「分かってる。分かってるけど、言葉にするのが難しいんだよ。感覚の話なんだから」
「感覚を言葉にしろとは言ってない。だが、感覚を制御するにはまず自分が何をしているか理解しないと」
一夏と、箒だった。二人は並んで歩いていた。肩の位置が、自然に近い。幼馴染の距離感。鈴音は、その距離感が無性に腹立たしかった。箒。長い黒髪の、凛とした横顔。一夏と並んでも少しも見劣りしない。むしろ、隣に立つことが当たり前のような、そんな空気を纏っていた。
「今日の飛行訓練、お前の停止は見事だった。あれは、どういうイメージでやってるんだ」
「うーん。地面すれすれで、止まるイメージ。あと頭の中の声が——あ、いや、なんでもない」
「……声?」
「ああ、気にしないでくれ。うまく言えないんだ」
箒が、一夏の横顔をじっと見ていた。何か言いたげな、それでいて言えないでいる。そんな目だった。鈴音は、唇を噛んだ。
(なによ。あんたまで、一夏の中の「何か」に気づいてるの?)
胸の奥が、ちりちりと焦げるように痛んだ。嫉妬。そう呼ぶにはあまりにも子供じみていて、でも確かにそれは嫉妬だった。箒があの日々の続きにいる。鈴音が手放した時間の、その続きに。二人の影が鈴音の前を通り過ぎていく。声が遠ざかる。やがて、校舎の入り口に吸い込まれるように消えていった。
鈴音は、しばらくその場に立ち尽くしていた。冷たい夜風が、頬を撫でていく。やがて大きく息を吐いた。吐き出した息は、白く濁って闇に溶けた。
「……行くか」
鈴音は、踵を返した。一夏たちが消えていった方向ではなく、その手前にあった建物へと向かう。総合事務受付。昼間ならば人で賑わうのだろうその窓口は、今はひっそりとしていた。だが、明かりがついている。まだ人がいるらしい。鈴音は、扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
窓口の向こうから、穏やかな声がした。若い女性の事務員だった。眼鏡の奥の目が、鈴音を柔らかく見つめている。
「こんな時間にどうされましたか?」
「編入してきた凰鈴音です。手続きに来たんですが、時間が遅くなってしまって」
「ああ、凰さん。お待ちしておりました。書類はお持ちですか?」
「はい」
鈴音は封筒を差し出した。事務員はそれを受け取り、手際よく中身を確認していく。その間、鈴音は窓口のカウンターに肘をついて、ぼんやりと天井を見上げていた。さっきの光景が、まだ頭の中にこびりついている。
「……あの」
「はい?」
「織斑一夏って、何組ですか」
事務員の手が止まった。顔を上げて、鈴音を見る。
「織斑君、ですか?」
「ええ。知ってますよね。IS学園唯一の男子。入学早々、代表候補生に勝ったって聞きましたけど」
「ええ、まあ。そうですね。織斑君は一組です」
一組。鈴音は、その言葉を頭の中で転がした。自分の編入先は、二組だと聞いている。
「凰さんは二組になります。同じ一年ですから、交流も多いと思いますよ」
「そうですか」
鈴音は、少し考えた。そして口を開いた。
「じゃあ、二組のクラス代表って誰なんですか?」
「二組のクラス代表、ですか?」
事務員は、首をかしげた。その反応が鈴音には少し意外だった。
「ええ。二組の代表は、どこの誰なんですか?」
「それは……まだ、決まっていないのですが」
「決まっていない?」
「はい。二組は代表選考が難航しておりまして。候補者が複数いて、まだ調整がついていないんです。ですから、暫定で副担任の先生が代行を」
鈴音は、にやりと笑った。決まっていない。まだ、決まっていない。
「なら、ちょうどいい」
「え?」
「そのクラス代表、あたしに譲ってもらえませんか」
事務員の目が、見開かれた。
「凰さん、それは——」
「あたしは中国の代表候補生です。実力はあります。手続きの途中で編入してきた身ですが、代表選考の資格はあるはずです」
「資格の有無で言えば、確かに。ですが手続きや手順というものが」
「手順を踏んでいたら、時間がかかるでしょう。調整が難航してるんでしょう? なら、あたしが立候補します。それで、話が早くなるんじゃないですか」
鈴音は、封筒の残り——推薦状をカウンターに滑らせた。事務員はそれを受け取り、目を通す。その表情が少しずつ変わっていく。推薦状には、鈴音の戦績が記されていた。中国国内での模擬戦、無敗。代表候補生としての確かな実績。
「……確かに、これなら」
「でしょう?」
「ですが、最終決定は学園側の判断になります。私の一存では」
「分かってます。だから、話を通しておいてください。あたしは、やる気ですから」
鈴音は、一歩下がった。そして窓口の事務員に、はっきりと言った。
「あたしは、二組のクラス代表になる。そして——」
そこで、鈴音は言葉を切った。言いかけて、やめた。そして心の中で続けた。
(——一夏と、戦う)
そのために、ここへ来たのだ。一夏の中の「何か」を、この目で確かめるために。そして、あの能天気な幼馴染がどこまで本気なのかを、思い知らせるために。
「凰さん?」
「なんでもありません。じゃあ、よろしくお願いします」
鈴音は、軽く頭を下げて受付を後にした。夜風が、また頬を撫でていく。さっきよりも、少しだけ心地よかった。
(待ってなさいよ、一夏。あたしがあんたの前に立つ。そして、あんたがどれだけ本気かその目で確かめてやる)
鈴音は、夜空を見上げた。星がいくつか瞬いている。中国の夜空とは、まるで違う星の配置。だが見上げる空は、どこか懐かしかった。
(あの女にも、負けない)
その想いだけは、はっきりと胸の奥に灯していた。