初めての出征を控え、帝都で一夜を過ごすベルノ連隊の兵士たち。エルフ好きの山田二等兵に振り回されるフレデリカ曹長。一方、帝都の夜へ繰り出した男たちは、思わぬ体験をすることに……。

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帝国歴232年1月


山田直樹二等兵の帝都観光

冬のベルノを出発した列車は、雪に覆われた田園地帯を走っていた。

 

窓の外には白く雪化粧した畑や小さな村が流れ、遠くには針葉樹の森が広がっている。

 

ベルノ連隊の兵士たちは、帝都アウグステンを経由して、中部戦線のイジュームへ向かうことになっていた。

 

帝都では一泊する予定である。

 

第4歩兵中隊に所属する山田直樹二等兵は、その一泊を何よりも楽しみにしていた。

 

「先輩! ついに帝都ですよ!」

 

向かいの座席に座っていた永野進一等兵が、苦笑した。

 

「まだ着いてないだろ」

 

「いや、そうですけど! 帝国で一番大きな都市ですよね! きっといろんな種族がいるんでしょうね!」

 

「どうだろうな。帝都はヒト族の街だからな」

 

「でも、これだけ大きな街なんですよ! ドワーフとか獣人とか、いろんな人が集まってると思うんですよ!」

 

「まあ、商人なんかはいるだろうな」

 

「楽しみですねえ!」

 

山田は満面の笑みを浮かべた。

 

第20期召喚者である山田は、もともとアニメやゲームが大好きだった。

 

エルフやドワーフ、獣人が実在する世界は、彼にとって夢のような場所だった。召喚から半年ほどが経ち、軍隊生活にもようやく慣れてきた。

 

永野は第19期の召喚者で、山田より一年先輩にあたる。同じアニメ好きということもあり、二人はすぐに意気投合していた。

 

「先輩、帝都には猫耳の獣人とかいますかね?」

 

「いるんじゃないか?」

 

「やっぱり!」

 

「でも、お前、ベルノでも獣人見ただろ」

 

「いやいや! 帝都には帝都の出会いがあるんですよ!」

 

「お前の行動原理って、本当に分かりやすいな」

 

二人は顔を見合わせて笑った。

 

「この馬鹿ども! さっきからうるさいぞ!」

 

車内に甲高い声が響き渡った。

 

二人が振り向くと、小柄なエルフの女性が腰に手を当てて立っていた。

 

フレデリカ曹長である。

 

華奢な身体に整った顔立ち。山田の目には、日本の小学校高学年ほどの少女にしか見えなかった。

 

しかし、その小さな身体には軍服がきちんと着込まれ、襟には曹長の階級章が輝いている。

 

高く鋭い声も特徴的だった。

 

まるで少女が癇癪を起こしているように聞こえるが、口から飛び出す言葉は、まったく可愛らしくない。

 

彼女は軍務十二年の古参兵であり、帝国歴225年の激戦を生き残った歴戦の兵士だった。

 

さらに、十歳になる子供を持つ母親でもある。そのことは中隊の誰もが知っていた。

 

現在、その子供はベルノ駐屯地の門前にある託児所に預けられている。軍関係の託児所は、兵士が勤務する日中だけでなく、長期遠征の間も子供を預かってくれる。十五年もの軍務を課す帝国にとって、子育てと軍務を両立させるための重要な制度だった。

 

現地の住民はエルフの年齢を見分けられるため、彼女を子供とは思わない。

 

だが、日本人の山田には、目の前の容姿と軍歴がどうしても結びつかなかった。

 

「貴様ら! これから戦場へ行くというのに、何をそんなにはしゃいでいる! 少しは静かにしろ!」

 

フレデリカは帝国共通語で怒鳴った。

 

「申し訳ありません、曹長!」

 

山田が背筋を伸ばした。

 

「山田! 貴様、何をニヤニヤしている!」

 

「いえ! 何でもありません!」

 

「嘘をつけ! その気持ち悪い顔をやめろ!」

 

「了解です!」

 

「まったく! 軍務には真面目なくせに、普段は救いようのない変態だな!」

 

宍戸亜美兵長が横から口を挟んだ。

 

「フレっち、それ、あたしも思ってた!」

 

「宍戸! お前も笑ってないで、こいつを何とかしろ!」

 

「いやー、無理だって!」

 

宍戸は第16期召喚の日本人兵士だった。

 

明るい髪色に少し派手な化粧。日本にいた頃からの軽い口調は軍人になっても変わらず、フレデリカのことを「フレっち」と呼んでいる。

 

しかし、彼女もすでに実戦を経験した古参兵であり、負傷者の手当てを担当する衛生兵だった。

 

その隣では、リリア上等兵が腹を抱えて笑っていた。

 

「あははは! 曹長、声だけ聞いたら可愛いのに、言ってることがひどい!」

 

リリアもエルフだったが、フレデリカとは対照的に陽気な女性だった。

 

「リリア! お前も黙れ!」

 

「はーい!」

 

「返事は一回!」

 

「はーい!」

 

「お前なあ!」

 

また笑い声が上がった。

 

その様子を見ていたメリーナ上等兵が、柔らかい声で口を開いた。

 

「でも、山田さんは帝都が本当に楽しみなんですね」

 

「はい! 楽しみです!」

 

「それはよかったですね」

 

メリーナは穏やかに微笑んだ。

 

彼女はヒト族の女性で、物静かで控えめな性格だった。いつも騒がしい仲間たちを、少し離れたところから見守っている。

 

「メリーナ、そいつを甘やかすな。つけ上がるだけだ」

 

フレデリカが鼻を鳴らした。

 

「申し訳ありません、曹長」

 

「お前は謝らなくていい!」

 

そのやり取りに、また笑いが起こった。

 

やがてフレデリカが自分の座席に戻ると、山田は永野に顔を寄せた。

 

二人の会話は自然と日本語に切り替わった。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「改めて思ったんですけど、フレデリカ曹長って、本当にアニメに出てくるエルフみたいですよね」

 

「まあ、確かにな」

 

「しかも軍務十二年のベテランで、十歳の子供までいるんですよ! すごくないですか!」

 

「そりゃすごいけどな」

 

永野もフレデリカをちらりと見た。

 

「でも、俺もエルフは好きだけどさ……」

 

「はい?」

 

「ここのエルフ、みんな胸ないじゃん。ちょっとがっかりなんだよな」

 

「えっ、そうですか?」

 

「俺、巨乳エルフのアニメ好きだったからさ」

 

「ああ! 先輩は巨乳派ですもんね!」

 

「そうだよ。……巨乳といえば、お前たちの先生、なんていったっけ?」

 

「水野先生ですか?」

 

「そうそう、水野先生。俺、あっちの方が好み。今度紹介してくれ」

 

「えっ、水野先生ですか?」

 

山田は少し驚いた。

 

「先生、今は砲兵中隊ですよ」

 

「知ってるよ。同じ連隊なんだから、会う機会くらいあるだろ」

 

「まあ、そうですけど……」

 

「美人だし、胸も大きいし。俺の好みなんだよなあ」

 

「でも先輩、水野先生はエルフじゃないですよ?」

 

「別にエルフじゃなくてもいいんだよ。胸が大きければ!」

 

「先輩、そこまで言いますか!」

 

「お前にだけは言われたくねえよ!」

 

永野は苦笑した。

 

山田は少し離れた座席にいるフレデリカを見つめた。

 

そして、真剣な顔で永野に向き直った。

 

「先輩」

 

「なんだ?」

 

「曹長は僕の理想です」

 

「……おまえ、そこまで言うか」

 

永野は呆れた顔をした。

 

「いや、軍務十二年のベテランで、あの気の強さですよ! しかも、あの甲高い声!」

 

「……お前、本当に好きなんだな」

 

「もちろんです!」

 

山田はしばらくフレデリカを眺めていたが、ふと思い出したように呟いた。

 

「僕のこの感動、三上さんならわかってくれるんだけどなあ」

 

「誰? 三上って」

 

「クラスメイトの女子ですよ。三上鈴音さんっていうんですけど」

 

「へえ。同じ学校だったのか」

 

「はい。今は第3中隊にいるんですよ。中隊が違うんで普段は会いませんけど、新年に顔は見ました」

 

「なに、オタク仲間?」

 

「いや、そうじゃないんですけど、可愛いものが好きなんですよ」

 

「可愛いもの?」

 

「はい! だから曹長を見たら、絶対可愛いって言うと思うんですよ!」

 

永野はフレデリカをちらりと見た。

 

「……お前の場合、それだけじゃないだろ。怒鳴られるのも好きなんだろ?」

 

「もちろんです!」

 

「……そこが違うんだよ」

 

永野はため息をついた。

 

「三上さんが可愛いって言ってくれても、お前の趣味まで理解してくれるとは限らんぞ」

 

「いやあ、先輩! 説明すれば分かってくれますよ!」

 

「絶対やめとけ!」

 

思わず永野の声が大きくなった。

 

少し離れた席で、フレデリカが眉をひそめた。

 

「……おい、宍戸」

 

「何、フレっち?」

 

「こいつら、何を話してる?」

 

山田と永野は日本語で話しているため、フレデリカには内容が分からない。

 

だが、宍戸は二人の話を聞いていた。

 

「えーとね……」

 

少し考えてから、にやりと笑った。

 

「山田が、フレっちは自分の理想の女性だって言ってる」

 

「……は?」

 

「小柄で可愛くて、声が甲高くて、怒鳴られるのも最高なんだってさ」

 

フレデリカの顔がみるみる険しくなった。

 

「……それを、こいつらはずっと話していたのか?」

 

「うん。永野は胸の大きい女の人が好きなんだけど、山田はフレっちが一番なんだって!」

 

「この馬鹿どもが!」

 

甲高い怒声が響いた。

 

山田と永野は驚いて振り向いた。

 

「えっ、何ですか!?」

 

「山田! 貴様、また私を馬鹿にしていたな!」

 

山田は慌てて帝国共通語に切り替えた。

 

「違います、曹長! 曹長の素晴らしさについて語っていました!」

 

「この救いようのない変態野郎が!」

 

フレデリカの蹴りが山田の尻に入った。

 

「痛っ!」

 

「貴様! 去年の十一月に配属されてから、ずっとその調子だな!」

 

フレデリカの甲高い声が車内に響き渡った。

 

「私は軍務十二年だぞ! こんな兵隊は初めてだ!」

 

「ありがとうございます、曹長!」

 

「褒めてないわ! この大馬鹿者!」

 

フレデリカは山田を指差した。

 

「おまえ、国家奴隷になった方が世のためだぞ! その股間の粗末なモノ、切ってもらえ!」

 

「それは困ります、曹長!」

 

「だったら少しはまともになれ!」

 

「努力します!」

 

「嘘をつけ!」

 

永野は肩を震わせていた。

 

「ぶはっ……山田、お前、そこまで言われる奴は初めて見たぞ!」

 

「いやあ、先輩。曹長、今日も絶好調ですね!」

 

「お前、全然反省してねえだろ!」

 

宍戸も呆れていた。

 

「山田も山田だけどさ、フレっちも毎日大変だねえ」

 

「誰のせいだと思っている!」

 

「はいはい、ご苦労さま!」

 

フレデリカは心底嫌そうな顔で山田を睨んだ。

 

「いいか、山田。もうすぐ戦場だ。余計なことを考えるなよ」

 

「了解です!」

 

「私の命令をちゃんと聞け」

 

「もちろんです!」

 

「それならいい」

 

そう言って、フレデリカは座席に戻った。

 

山田は普段こそ、このように騒がしかったが、軍務には真面目だった。

 

十一月に第4中隊へ配属されてから、訓練を怠ったことはない。

 

帝国共通語も熱心に勉強し、今では日常会話なら十分にこなせるようになっていた。

 

もっとも、その動機はエルフや獣人たちと仲良くなりたいという、実に山田らしいものだった。

 

「お前、共通語だけは上達が早かったな」

 

永野が日本語で言った。

 

「そりゃ先輩、言葉が通じなかったら仲良くなれませんから!」

 

「動機はともかく、そこは感心するぞ」

 

山田は嬉しそうに笑った。

 

そして、ふとフレデリカの方を見た。

 

「そういえば曹長、浸透偵察小隊に誘われたことがあるって本当ですか?」

 

今度は帝国共通語で尋ねた。

 

「ああ」

 

「すごいじゃないですか!」

 

「断ったがな」

 

「えっ、どうしてですか?」

 

フレデリカは眉をひそめた。

 

「私はコソコソ動くのが嫌いなんだ。敵が来るなら、正面から撃ち合えばいい」

 

永野が苦笑した。

 

「曹長らしいですね」

 

「何か文句があるか?」

 

「ありません!」

 

「ならいい」

 

やがて、列車が帝都へ近づくにつれて、車窓の景色が変わり始めた。

 

雪に覆われた田園の向こうに工場の煙突が増え、線路は幾重にも分岐していく。

 

赤煉瓦の建物が密集し始め、遠くに大きな市街地が見えてきた。

 

「先輩! 見えてきましたよ!」

 

山田が窓に身を乗り出した。

 

工場の煙突から黒い煙が立ち上り、広い道路には馬車と自動車が行き交っている。市街地を走る路面電車の姿も見えた。

 

「すげえ……思ってたよりずっと都会だな」

 

「ですね!」

 

しかし、山田は窓の外を眺めているうちに、あることに気がついた。

 

「……あれ?」

 

「どうした?」

 

「先輩、エルフとか獣人が全然いませんね」

 

通りを歩く人々は、ほとんどがヒト族だった。

 

「もっといろんな種族がいると思ってたんですけど……」

 

「言っただろ。帝都はヒト族の街だって」

 

「ベルノの方がエルフは多いんですね」

 

「そりゃ、ベルノは元々エルフの王国だったんだろ?」

 

「そうでしたね……」

 

山田は少し残念そうに窓の外を見つめた。

 

「せっかく帝都に来たのになあ」

 

「観光に来たんじゃないんだぞ」

 

「分かってますけど!」

 

二人の声がまた大きくなっていた。

 

フレデリカが宍戸を振り返った。

 

「……おい。今度は何だ?」

 

「帝都にエルフと獣人が少なくて、山田ががっかりしてるんだって」

 

「まったく……」

 

フレデリカは深いため息をついた。

 

「……宍戸」

 

「何、フレっち?」

 

「帝都に着いたら、あいつらをどこかへ追い払おう」

 

「え?」

 

「一晩くらい、静かに過ごしたい」

 

宍戸は山田と永野を見た。

 

「あー……それ、賛成」

 

列車は速度を落とし、巨大な屋根に覆われた帝都アウグステン軍用駅へと滑り込んでいった。

 

帝都アウグステン軍用駅は、山田が想像していた以上に巨大だった。

 

高い鉄骨の屋根の下には何本もの線路が並び、軍用列車や貨物列車がひっきりなしに出入りしている。

 

大勢の兵士や駅員、荷役人夫が行き交うホームで、山田は興味深そうに周囲を見回した。

 

「先輩! ドワーフですよ!」

 

荷物を運ぶ小柄でがっしりした男性を見つけ、山田が永野の肩を叩いた。

 

「おお、本当だ」

 

「やっと見つけました!」

 

「お前、珍しい動物でも探してるみたいだぞ」

 

「いやいや! 純粋な好奇心です!」

 

「おい、お前ら! 荷物を持って集合しろ!」

 

フレデリカの甲高い声が飛んだ。

 

「了解!」

 

六人は翌朝の出発に備え、駅に隣接する軍用兵舎へ荷物を運んだ。

 

その後は翌朝の集合時刻まで自由時間である。

 

再び駅前に集まると、山田と永野は早速、市場の方角を眺め始めた。

 

「先輩、どこから見て回りましょうか!」

 

「まずは中央市場だろうな」

 

「そうですね!」

 

フレデリカは二人をじっと見つめた。

 

「……おい、お前ら」

 

「はい、曹長!」

 

「女どもに聞く。誰か、こいつらと一緒に帝都を見て回りたい奴はいるか?」

 

「やだ!」

 

リリアが即答した。

 

「あたしもパス! 絶対疲れるもん!」

 

宍戸も手を振った。

 

メリーナは申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「私も、買い物がありますので……」

 

「そうか」

 

フレデリカは満足そうに頷いた。

 

「では決まりだ」

 

山田が首を傾げた。

 

「何がですか?」

 

フレデリカは市場の方角を指差した。

 

「お前ら、風俗街は市場の裏にある」

 

「……はい?」

 

「明日の朝まで帰って来るな。金玉の中、空にしてから戻れ。これは命令だ!」

 

さらに二人を睨みつけ、吐き捨てるように付け加えた。

 

「本当はここで蹴りつぶしてやりたいがな!」

 

一瞬、周囲が静まり返った。

 

次の瞬間。

 

「了解しました、曹長!」

 

山田が元気よく敬礼した。

 

永野も嬉しそうに山田の肩を叩いた。

 

「曹長から正式に許可が出たぞ!」

 

「やりましたね、先輩!」

 

「……あんたら、本当にキモイよ」

 

宍戸が呆れたように言った。

 

「宍戸先輩も一緒に行きませんか?」

 

「行くわけないでしょ!」

 

「そうですか、残念です!」

 

「全然残念そうじゃないじゃん!」

 

リリアが腹を抱えて笑った。

 

「あははは! 曹長、本当に追い払っちゃった!」

 

「これで一晩静かになる」

 

フレデリカは満足そうだった。

 

山田と永野は、逃げるように市場の方へ歩き始めた。

 

「先輩、楽しみですね!」

 

「おう!」

 

二人の声が遠ざかっていく。

 

フレデリカはその背中を見送りながら、深いため息をついた。

 

「……まったく、日本人の男は」

 

「だから、日本人全員があんなのじゃないって!」

 

宍戸が抗議した。

 

リリアは笑いながら言った。

 

「でもさ、日本人ってエルフの女の人が好きな人、多いよね!」

 

「そうなんだよねえ。日本人にはエルフの年齢が分からないから、みんな若く見えちゃうんだよ」

 

メリーナは首を傾げた。

 

「それで、あんなに喜ぶんですか?」

 

「まあ、あいつらは特別だけどね」

 

そこでリリアが、何かを思い出したように言った。

 

「そういえば、第3中隊の石井軍曹も変わってるらしいね」

 

「石井?」

 

「うん。年配のエルフ女性が相手のお店に行ってるって噂!」

 

「えっ、石井軍曹が?」

 

宍戸が驚いた。

 

「何だ、知り合いか?」

 

フレデリカが尋ねた。

 

「同じ日本人だから知ってるけどさ。あの人、結構格好いいじゃん!」

 

「ああ。勇者の中でもあれはいい男だと思うぞ」

 

フレデリカは頷いた。

 

「だが、残念な奴だな」

 

「まあ、趣味は人それぞれだけどね」

 

宍戸が苦笑した。

 

「日本人の男って、本当に変わってるね!」

 

リリアが笑うと、宍戸は肩をすくめた。

 

「……否定できないのが悔しいわ」

 

「さて」

 

フレデリカは市場の方を見た。

 

「私たちも行くか」

 

「市場! 化粧品見たい!」

 

宍戸が即答した。

 

「帝都なら、ベルノより種類が多いでしょ!」

 

「私も買いたいものがあります」

 

メリーナも頷いた。

 

四人は連れ立って、市場へ向かった。

 

* * *

 

山田と永野は、帝都の中央市場を歩いていた。

 

石畳の通りには商店が連なり、屋台からは香辛料や焼いた肉の匂いが漂ってくる。

 

衣服、食料品、工具、装飾品。

 

帝国各地から集まった品物が所狭しと並び、その規模はベルノとは比べものにならなかった。

 

「先輩、すごい品数ですね!」

 

「ああ。さすが帝都だな」

 

二人は焼きたての串焼きを買い、通りを歩きながら頬張った。

 

「うまっ!」

 

「おお、これはうまいな!」

 

山田は店の女性に帝国共通語で礼を言った。

 

「しかし、お前、本当に共通語が上手くなったな」

 

永野が日本語で感心したように言った。

 

「そりゃ先輩、こういうときのために勉強したんですから!」

 

「……目的が一貫してるな」

 

やがて二人は、通りから少し入った食堂に腰を下ろした。

 

木製の卓が並ぶ店内には、商人や職人たちの話し声が響いている。

 

壁には料理の名前と値段が書かれた板が掛かっていた。

 

山田はそれを見上げた。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「読めます?」

 

「……いや」

 

二人は顔を見合わせた。

 

帝国共通語での会話には困らなくなっていたが、文字となると話は別だった。

 

「まあ、店員に聞けばいいだろ」

 

山田が店員に料理を尋ね、肉と根菜の煮込み、黒パン、ビールを注文した。

 

やがて運ばれてきた温かな料理に、二人は満足そうに舌鼓を打った。

 

「帝都に乾杯!」

 

「乾杯!」

 

杯を軽く合わせた。

 

しばらく市場の話で盛り上がっていたが、やがて永野が杯を置いた。

 

「……まあ、あと五日もすれば戦場だけどな」

 

山田の笑顔が少し薄れた。

 

「そうですね……」

 

「お前、まだ実戦は経験してないんだよな」

 

「はい。先輩は去年、戦場に行ったんですよね?」

 

「ああ」

 

「やっぱり怖かったですか?」

 

「怖かったな」

 

永野は短く答えた。

 

いつもなら冗談の一つも返してくる男が、珍しく真面目な顔になっていた。

 

「魔族って、やっぱり強いんですか?」

 

「強いぞ。ただ、敵の姿が見える撃ち合いなら、訓練で習ったことが役に立つ」

 

「なるほど」

 

「だがな、山田。砲撃だけは別だ」

 

「砲撃ですか?」

 

「ああ。あれは怖いぞ」

 

永野は少し声を落とした。

 

「小銃で撃たれるなら、敵のいる方向が分かることもある。物陰に隠れることもできるし、こっちも撃ち返せる」

 

「はい」

 

「でも砲弾は違う。敵が見えないところから飛んでくるんだ」

 

山田は黙って聞いていた。

 

「慣れてくると、飛んでくる音で着弾する場所がある程度分かることもある。だが、当てにはできん」

 

「先輩も分かるんですか?」

 

「少しはな。去年、何度も砲撃を食らったから」

 

永野は苦笑した。

 

「でも、音を聞く暇もなく爆発することだってある。塹壕の中にいたって安心はできないぞ」

 

「……怖いですね」

 

「怖いさ。近くに落ちたら地面が揺れて、土が降ってくる。次の一発が自分のところに落ちるかもしれないと思うと、どうしようもなくなる」

 

山田はスプーンを置いた。

 

「……先輩。僕、大丈夫ですかね」

 

「さあな」

 

永野はあっさり答えた。

 

「俺だって慣れたわけじゃない。次に砲撃されたら、また怖いと思うぞ」

 

「先輩でも?」

 

「当たり前だろ。怖いもんは怖いんだよ」

 

山田は俯いた。

 

永野は少し笑った。

 

「まあ、フレデリカ曹長がいるからな」

 

「曹長ですか?」

 

「あの人、225年の戦いの生き残りだろ。俺なんかとは経験が違う」

 

「そうですね」

 

「戦場じゃ、曹長の命令をちゃんと聞いとけよ。ふざけるのは今だけにしろ」

 

「はい!」

 

山田は大きく頷いた。

 

そして、少し考えてから言った。

 

「でも先輩、曹長に怒鳴られたら、僕、元気が出るかもしれません」

 

永野はしばらく山田を見つめた。

 

「……お前、すげえな」

 

「何がですか?」

 

「いや、ある意味、戦場向きかもしれん」

 

「そうですか!」

 

「褒めてねえよ!」

 

二人は顔を見合わせて笑った。

 

食事を終えて外に出ると、帝都の街には夕暮れが迫っていた。

 

商店の窓には明かりが灯り、遠くから路面電車の音が聞こえる。

 

永野が市場の裏手を指差した。

 

「さて、山田」

 

「はい!」

 

「そろそろ行くか」

 

「いよいよですね!」

 

二人は顔を見合わせた。

 

「帝都の夜を満喫するぞ!」

 

「了解です、先輩!」

 

その足取りは軽かった。

 

そこで何が待っているのか、このときの二人はまだ知らなかった。

 

* * *

 

同じ頃、フレデリカ曹長たち四人も中央市場の商店街を歩いていた。

 

「うわー! やっぱ帝都は違うね!」

 

宍戸が目を輝かせた。

 

「ベルノじゃ見たことないものばっかり!」

 

「ねえ、亜美! あそこ、化粧品のお店じゃない?」

 

リリアが指差した。

 

大きな店の窓には、ガラス瓶や陶器の容器が整然と並べられていた。

 

「おおっ! あれだ!」

 

宍戸は早足で店へ向かった。

 

「おい! 走るな!」

 

フレデリカの甲高い声が飛んだ。

 

店内には石鹸、香水、白粉、頬紅、口紅、髪油などが所狭しと並んでいた。

 

「うわあ……すごい! 白粉だけでこんなに種類あるんだ!」

 

宍戸は店員に頼んで試供品を手の甲に伸ばした。

 

「おっ、これいいじゃん!」

 

「亜美さん、詳しいんですね」

 

メリーナが感心したように言った。

 

「日本にいた頃は化粧品いっぱい持ってたからね。こっちに召喚されたときは、服も持ち物も全部なくて、素っ裸だったじゃん。もちろん化粧品もゼロ! あれはマジでショックだったんだよ」

 

「そんなに化粧品がお好きだったんですね」

 

「そうそう! まあ、今はこっちの化粧品にも慣れたけどさ」

 

リリアが横から覗き込んだ。

 

「ねえ亜美、これ何?」

 

「頬紅だよ。ちょっと塗ってみる?」

 

「うん!」

 

宍戸はリリアの頬に薄く紅をのせた。

 

リリアは鏡を見て声を上げた。

 

「わあ! 可愛い!」

 

「でしょ!」

 

「すごーい! 亜美、上手!」

 

すっかり盛り上がる二人を、フレデリカは腕を組んで眺めていた。

 

「……お前ら、買い物に来たのか遊びに来たのか、どっちだ?」

 

「両方!」

 

リリアが即答した。

 

「まったく……」

 

「フレっちもやってみる?」

 

宍戸が振り向いた。

 

「いらん!」

 

「えー! 絶対似合うって!」

 

「必要ない!」

 

「そんなこと言わずにさー」

 

「宍戸!」

 

甲高い声が店内に響き、近くにいた客が振り返った。

 

宍戸は笑いながら引き下がった。

 

その間、メリーナは石鹸や手荒れを防ぐ軟膏を選んでいた。

 

「あ、それいいかも!」

 

宍戸も小さな容器を手に取った。

 

「衛生兵って手を洗うこと多いし、冬場はすぐ荒れるんだよね」

 

「お前、ずいぶん買うな」

 

フレデリカが呆れた。

 

「大丈夫だって! 小さいのばっかり選んでるから!」

 

買い物を済ませて店を出ると、通りには夕暮れが近づいていた。

 

宍戸は小さな包みをいくつか抱えていた。

 

「いやー、満足満足!」

 

「亜美、あとであたしにも化粧教えて!」

 

リリアが笑った。

 

「いいよ! 兵舎に戻ったらやろうか!」

 

「やった!」

 

メリーナも二人の会話に加わった。

 

フレデリカはその様子を眺めていた。

 

明日からは再び長い列車の旅が始まり、その先にはイジューム戦線が待っている。

 

フレデリカは225年の戦いを生き残った兵士だった。前線がどんな場所なのか、十分すぎるほど知っている。

 

それでも、化粧品を手に楽しそうに笑う部下たちを見て、何も言う気にはなれなかった。

 

「……まあ、今夜くらいはいいか」

 

小さく呟く。

 

「えっ? フレっち、何か言った?」

 

「何でもない! ほら、腹が減っただろう。飯を食いに行くぞ!」

 

「やった! 帝都の美味しい店、行こう!」

 

四人は笑いながら、人混みの中へ歩いていった。

 

* * *

 

帝都アウグステン軍用駅に隣接する軍用兵舎。

 

市場での買い物と夕食を済ませた四人は、割り当てられた寝室へ戻っていた。

 

室内には鉄製の寝台が並び、壁際のストーブが赤々と燃えている。

 

宍戸は寝台に腰掛け、買ってきた化粧品を布袋にしまっていた。

 

フレデリカは軍服の上着を脱ぎ、靴の手入れをしている。

 

「お前ら、明日は朝から移動だぞ。夜更かしするなよ」

 

「分かってるって、フレっち!」

 

リリアが、宍戸の買った口紅を手に取った。

 

「ねえ亜美、こんなに綺麗にして、誰に見せるの?」

 

「別に誰にってわけじゃないけど」

 

「彼氏いないの?」

 

「いないよ!」

 

宍戸はあっさり答えた。

 

「えー! もったいない!」

 

「そういうリリアは彼氏いるんでしょ?」

 

「いるよ!」

 

「出発前にも会ってたんでしょ?」

 

「うん!」

 

リリアは嬉しそうに頷いた。

 

「メリーナは?」

 

宍戸が尋ねると、メリーナはいつもの穏やかな笑顔で答えた。

 

「私もいますよ」

 

「へえ。どんな人?」

 

「一人は商人をしています」

 

「ふーん、商人なんだ……」

 

宍戸は一度頷き、それから顔を上げた。

 

「……ちょっと待って。今、一人はって言った?」

 

「ええ」

 

「ほかにもいるの?」

 

「はい。あと二人ほど」

 

「三人!?」

 

宍戸の声が寝室に響いた。

 

リリアが吹き出した。

 

「あははは! 亜美、知らなかったの?」

 

「知らないって! ちょっと、メリーナ! 三人も彼氏いるの!?」

 

「ええ。皆さん、いい方ですよ」

 

メリーナは恥ずかしそうに微笑んだ。

 

「いや、そういう問題じゃなくて! あんた、普段あんなにおとなしいのに!」

 

「あら。私、おとなしいですよ?」

 

「だから、そういうことじゃないって!」

 

宍戸はフレデリカを振り返った。

 

「フレっち、知ってた?」

 

「ああ」

 

「なんでそんなに普通なの!?」

 

「別に、付き合っている男が何人いようが、本人たちの問題だろう」

 

「まあ、そうだけどさ……」

 

宍戸は改めてメリーナを見た。

 

穏やかな物腰。控えめな話し方。普段は目立たず、いつも周囲に気を配っている女性だった。

 

まさか三人も交際相手がいるとは思わなかった。

 

「でもさ、三人も付き合ってて大変じゃない?」

 

「そうでもありませんよ。皆さん、それぞれ事情を分かってくださっていますから」

 

「へえ……」

 

「私たちは軍務中ですから、いつ会えなくなるか分かりませんし。会えるときには、なるべく会っておきたいんです」

 

「……ああ、そっか」

 

宍戸は少し納得した。

 

そこでリリアが口を開いた。

 

「それにさ、あたしたち、今回こそ妊娠できたらいいなって思ってたんだよね!」

 

「……ん?」

 

宍戸の手が止まった。

 

「妊娠?」

 

「うん! だって妊娠すれば、戦線から離れられるでしょ?」

 

「……ああ、そっちもあるのか」

 

「子供は欲しいし、戦場には行かなくて済むし!」

 

リリアは笑った。

 

「ただ、エルフはなかなか妊娠できないんだけどね。今回の出征までにできたら、一番よかったんだけどなあ」

 

「そんなに都合よくいくものか」

 

フレデリカが口を挟んだ。

 

「曹長は子供いるじゃん!」

 

「だからこそ言ってるんだ。子供は欲しいと思ったときに、必ずできるものじゃない」

 

「それは分かってるけどさあ」

 

リリアは口を尖らせた。

 

メリーナも穏やかに微笑んだ。

 

「私も、できれば今回の出征前に妊娠したかったんです。でも、間に合いませんでしたね」

 

「メリーナもかあ……」

 

宍戸は少し考え、頷いた。

 

「まあ、気持ちは分かるよ。あたしだって、あんな砲撃はもう食らいたくないもん」

 

その声には、先ほどまでの軽い調子がなかった。

 

「近くに落ちたときなんか、塹壕が潰れるんじゃないかって思うし。土は降ってくるし、耳はおかしくなるし……」

 

宍戸は苦笑した。

 

「負傷者の手当てをしてるときに砲撃が始まると、本当に嫌になる。動かせない負傷者だっているんだから」

 

室内が少し静かになった。

 

フレデリカは黙って靴を磨いている。

 

「だからさ、妊娠して戦場から離れられるなら、それはありがたいよね」

 

宍戸は続けた。

 

メリーナは穏やかに頷いた。

 

「誰だって死にたくありませんから」

 

その言葉は静かだった。

 

メリーナは少し間を置いて、続けた。

 

「私たちって、いつ死ぬかわからないじゃないですか。子供だけでも残せれば、この世界で生きた証になるんですよね」

 

「……うわ、重いな」

 

宍戸は思わず呟いた。

 

「……でも、わかるけど。あたしだって明日どうなるかわかんないし」

 

「すみません。暗い話をしてしまいましたね」

 

メリーナは申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「いや、謝んなくていいって。あんたの言ってること、間違ってないもん」

 

宍戸は小さく息を吐いた。

 

そこでリリアが口を開いた。

 

「それに、妊娠して休んでる間も、軍務期間に数えられるでしょ?」

 

「十五年の軍務って長いもん。その間、ずっと危ないところにいたいわけじゃないし!」

 

「制度としては、よくできてるよね」

 

宍戸は頷いた。

 

「お前ら、本当に現実的だな」

 

フレデリカが呆れた声を出した。

 

「曹長だって同じでしょ?」

 

リリアが笑った。

 

「私は、子供を育てる苦労も知っているというだけだ。制度があるからといって、全部楽になるわけじゃないぞ」

 

「分かってるって!」

 

「本当か?」

 

「たぶん!」

 

「たぶんじゃない!」

 

甲高い怒声に、三人は笑った。

 

やがて宍戸が、ふと首を傾げた。

 

「そういえばさ、戦線でやってる人結構いるよね。わたし最初のころ、びっくりした」

 

「ええ。珍しくありませんよ」

 

メリーナが答えた。

 

「……あれ、避妊なしか?」

 

「たぶん、ほとんどしてないんじゃない?」

 

リリアはあっさり答えた。

 

「ちなみに、あたしはやるときは避妊なんて絶対にしないしね!」

 

「ちょっと! 大声で言わないでよ!」

 

宍戸が吹き出した。

 

「だって子供ほしいもん!」

 

メリーナも頷いた。

 

「私も、子供が欲しいことは相手の方たちに伝えていますよ」

 

「……三人とも?」

 

「はい。皆さん、了承してくださっています」

 

「いやー、あんた本当にすごいわ」

 

宍戸は感心したようにメリーナを見た。

 

「おとなしい顔して、考えることは結構すごいんだから」

 

「そうでしょうか?」

 

メリーナは首を傾げた。

 

そこでフレデリカが口を開いた。

 

「薬に逃げるより男の方がマシだろう。副作用は妊娠だけだ」

 

「うわ、フレっち、言い方!」

 

宍戸が声を上げた。

 

「戦場じゃ、酒や薬に頼って身体を壊す奴もいる。好きな男とやって気が晴れるなら、それもいいだろう。本人同士が納得しているならな」

 

「まあ、そうだけど」

 

「ただし、軍務に支障は出すな。それだけだ」

 

「もちろんです。妊娠するまでは、しっかり働きますよ」

 

メリーナが答えた。

 

「……お前は本当に、いい根性をしているな」

 

「ありがとうございます、曹長」

 

メリーナは嬉しそうに微笑んだ。

 

宍戸はそのやり取りを眺めながら、ぽつりと呟いた。

 

「……男ども、全然わかってないね」

 

「ん? 何が?」

 

リリアが首を傾げた。

 

「いやさ、戦線で女の子と仲良くなって、喜んでる男って結構いるじゃん。でも、女の方は子供を産んで戦線から離れることまで考えてるわけでしょ?」

 

「もちろん、そういう女性もいますよ」

 

メリーナが穏やかに答えた。

 

「でも、相手を騙しているわけではありません。好きな人と一緒にいたいという気持ちも本当ですから」

 

「なるほどねえ……」

 

宍戸は感心したように頷いた。

 

「恋愛も楽しむ。子供も欲しい。できれば戦線からも離れたい。全部まとめて考えてるわけか」

 

「はい」

 

メリーナはにっこり笑った。

 

「女は現実的ですよ」

 

「いやー、参ったわ!」

 

宍戸は寝台に倒れ込んだ。

 

リリアが笑った。

 

「そういう亜美は、彼氏作らないの?」

 

「別に急いでないよ。どうせなら、ちゃんと好きになった人がいいし」

 

「じゃあ、山田は?」

 

「絶対嫌!」

 

即答だった。

 

「永野さんは?」

 

メリーナが尋ねた。

 

「そっちも嫌!」

 

「えー! 仲いいじゃん!」

 

「同じ日本人だから話が通じるだけ! あいつら二人、女の趣味がおかしいんだって!」

 

フレデリカが顔をしかめた。

 

「……山田の話はするな」

 

「フレっち、相当嫌がってるねえ」

 

「当たり前だ! あいつは人の顔を見るたび、訳の分からんことを言いおって!」

 

リリアが腹を抱えて笑った。

 

「あははは! でも山田、曹長のこと大好きだよね!」

 

「知るか!」

 

「まあ、今夜は静かでよかったじゃん」

 

宍戸が笑った。

 

「ああ。あの二人がいないだけで、これほど静かだとはな」

 

「でもさ、あいつら本当に明日の朝まで帰ってこなかったらどうするの?」

 

「集合時間までに戻れば構わん。戻らなかったら、私が殺す!」

 

また笑い声が上がった。

 

やがてフレデリカがストーブの火を確かめ、寝台へ腰を下ろした。

 

「ほら、もう寝ろ。明日から長旅だ」

 

「はーい!」

 

宍戸は化粧品を布袋にしまい、リリアとメリーナも寝支度を始めた。

 

四人とも、戦場がどんな場所なのか知っている。

 

砲撃の恐ろしさも、負傷者の呻き声も、昨日まで隣にいた兵士が翌日にはいなくなることも。

 

それでも彼女たちは、化粧品を買い、男の話をして、笑い合っていた。

 

戦争が終わるのを待っていては、いつまで経っても人生が始まらない。

 

彼女たちは明日も軍服を着て、命令に従い、戦場へ向かう。

 

ただ、その先でどう生きていくかを、それぞれに考えているだけだった。

 

夜も更け、兵舎は静かになっていった。

 

その頃、市場の裏手では、山田直樹と永野進が、まだ帝都の夜を楽しんでいた。

 

* * *

 

帝都アウグステンの朝。

 

軍用駅の周辺には、早朝から蒸気機関車の汽笛が響いていた。

 

出発を控えた兵士たちが、大きな荷物を抱えて駅へ向かっている。

 

そんな人混みの中を、二人の日本人兵士がとぼとぼと歩いていた。

 

山田直樹二等兵と永野進一等兵である。

 

二人とも目の下に隈を作り、げっそりとした顔をしていた。

 

昨夜、あれほど元気よく市場の裏へ向かっていった姿は、どこにもない。

 

「……先輩」

 

山田が日本語でぽつりと言った。

 

「……なんだ」

 

永野の声にも力がなかった。

 

「帝国共通語、やっぱり文字も勉強しないとダメですね」

 

「……ああ」

 

永野は大きなため息をついた。

 

「帰ったら勉強するぞ」

 

「はい。僕も頑張ります」

 

「絶対だぞ」

 

二人は無言で歩き始めた。

 

しばらくして山田が再び口を開いた。

 

「……先輩」

 

「なんだよ」

 

「石井軍曹の店もよかったけど、僕、ちょっと世界が広がりました」

 

「……俺は知らなくていい世界を知った気がする」

 

「でも、貴重な経験でしたね」

 

「お前、前向きだな……」

 

永野は呆れたように山田を見た。

 

「それにしても、財布が軽くなりましたね」

 

「……ああ」

 

「帝都って、物価が高いんですね」

 

「……そういう問題じゃないだろ」

 

二人は再び、とぼとぼと歩き始めた。

 

" " *

 

軍用兵舎の前では、フレデリカ曹長たち四人が出発の準備を終えていた。

 

「遅いな、あいつら」

 

フレデリカが懐中時計を確認した。

 

「まだ集合時間まで余裕あるじゃん、フレっち」

 

宍戸が答えた。

 

昨夜買った化粧品を使ったのか、今朝の彼女はいつもより少し化粧が丁寧だった。

 

リリアが周囲を見回した。

 

「あっ! 来た来た!」

 

彼女が指差した先に、二人の日本人兵士が見えた。

 

「……何、あれ?」

 

宍戸が目を丸くした。

 

「二人とも、すっごい疲れてない?」

 

メリーナも心配そうに見つめた。

 

「大丈夫でしょうか……?」

 

山田と永野は四人の前まで来ると、力なく敬礼した。

 

「山田二等兵、戻りました……」

 

「永野一等兵、戻りました……」

 

二人は帝国共通語で帰着を報告した。

 

フレデリカは二人の顔をじっと見た。

 

そして、満足そうに頷いた。

 

「帰ってきたな。絞り取られたようで何よりだ」

 

「……はい」

 

山田が力なく答えた。

 

「返事は元気よく!」

 

「了解!」

 

二人は反射的に背筋を伸ばした。

 

その様子を見て、リリアが吹き出した。

 

「あははは! 何その顔! 二人とも何してきたの!?」

 

「……いろいろありまして」

 

永野は目を逸らした。

 

宍戸が山田の顔を覗き込んだ。

 

「ちょっと山田、あんた大丈夫?」

 

今度は日本語だった。

 

「宍戸先輩……」

 

「何?」

 

「僕、昨日、一つ大人になりました」

 

「……は?」

 

「異世界の奥深さを知りました」

 

「何言ってんの、あんた」

 

宍戸は呆れた顔をした。

 

メリーナが心配そうに口を開いた。

 

「お疲れのようですし、列車ではゆっくり休んだ方がいいですよ」

 

「ありがとうございます、メリーナ先輩……」

 

山田は帝国共通語で礼を言い、深々と頭を下げた。

 

フレデリカは額に手を当てた。

 

「いいか! お前らが昨夜どこで何をしてきたか、私は一切聞かん!」

 

「はい!」

 

「だが、これから戦場へ行くんだぞ! くだらんことで体力を使い果たすな! この馬鹿どもが!」

 

「了解!」

 

フレデリカは大きく息を吐いた。

 

「よし! 全員、荷物を持て! 集合場所へ向かうぞ!」

 

「了解!」

 

六人は荷物を手に歩き始めた。

 

そんな中、永野が山田に日本語で小声で話しかけた。

 

「……山田」

 

「はい、先輩」

 

「昨夜のことは、誰にも言うなよ」

 

「分かってます」

 

「絶対だぞ」

 

「了解です」

 

永野は少し間を置いて、山田の顔を見た。

 

「それにしても、お前さ……」

 

「はい?」

 

「お前、あれだけ蹴飛ばされてもフレデリカ曹長のこと好きだよな」

 

「当たり前じゃないですか!」

 

山田は即答した。

 

「エルフで、歴戦の軍人で、しかも十歳の子持ちですよ! 属性マシマシじゃないですか!」

 

「……まあ、お前の好みは分かるけどな」

 

「おまけに、あの甲高い声で怒鳴り散らすんですよ! 最高じゃないですか!」

 

先ほどまでげっそりしていた山田の顔が、急に生き生きとしてきた。

 

「蹴られるのもご褒美です!」

 

「お前、筋金入りだな……」

 

永野は呆れながらも、思わず笑ってしまった。

 

その様子を見ていたフレデリカが、宍戸を呼び止めた。

 

「……宍戸」

 

「何?」

 

「こいつら、今度は何を話してる?」

 

宍戸は二人を見た。

 

そして、にやりと笑った。

 

「山田がね、フレっちに蹴られるのもご褒美だって」

 

「……何だと?」

 

フレデリカの眉が吊り上がった。

 

「おまけに、フレっちが怒鳴る声も最高なんだってさ」

 

「この救いようのない変態野郎が!」

 

甲高い声が響き渡った。

 

山田と永野は驚いて振り向いた。

 

「曹長! 何でしょうか!」

 

山田が帝国共通語で尋ねた。

 

「貴様! また私のことを話していたな!」

 

「はい! 曹長は僕の理想です!」

 

「だから、そういうことを言うな!」

 

フレデリカの蹴りが山田の尻に入った。

 

「痛っ!」

 

山田は尻を押さえた。

 

しかし、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

「ありがとうございます、曹長!」

 

「礼を言うな! この馬鹿者!」

 

永野は腹を抱えて笑い出した。

 

フレデリカは額に手を当てた。

 

「……私は一体、何を相手にしているんだ」

 

そして、甲高い声を張り上げた。

 

「いいから歩け! この馬鹿ども! 集合時間に遅れるぞ!」

 

「了解です、曹長!」

 

山田は元気よく敬礼した。

 

フレデリカはリリアとメリーナを連れて、先に軍用ホームへ向かった。

 

その後ろを歩きながら、宍戸は山田と永野を交互に見た。

 

「……あんた、本当にどうしようもないね」

 

山田に向かって言った。

 

「ありがとうございます!」

 

「褒めてないって!」

 

宍戸は呆れながら、ふと思い出したように尋ねた。

 

「そういえばさ、あんたたち、昨日のお店は結局どうだったの?」

 

永野の表情が固まった。

 

「おい、宍戸先輩! もうその話はいいだろ!」

 

「えー、何でよ! あんたたち、あんなに楽しみにしてたじゃん!」

 

「だから、もういいんだって!」

 

しかし、山田は少し考えてから口を開いた。

 

「いやあ、実は男の娘のお店だったんですよ」

 

「……は?」

 

宍戸が足を止めた。

 

「男の娘?」

 

「はい! こっちの世界にもいるんですね。しかも、結構可愛かったですよ」

 

宍戸は永野を見た。

 

「……あんたたち、まさか?」

 

「だから、その話はもういいって!」

 

永野は顔を赤くした。

 

しかし、山田は悪びれもせずに続けた。

 

「……でも、上手かったですね」

 

「そりゃ男だし」

 

永野が反射的に答えた。

 

一瞬、三人の間に沈黙が流れた。

 

「……って、おい! 山田!」

 

「え? 何ですか、先輩?」

 

永野は慌てて宍戸を見た。

 

宍戸は二人の顔を交互に見つめていた。

 

「……ちょっと待って」

 

「……何だよ」

 

「今の会話、あたしが聞いてよかったやつ?」

 

「だから聞くなって言っただろ!」

 

永野が頭を抱えた。

 

山田は不思議そうに二人を見ている。

 

宍戸は大きく息を吐いた。

 

「……男って、やっぱりバカだわ」

 

三人は足早に軍用ホームへ向かった。

 

ホームには長い客車が連なり、先頭の蒸気機関車が白い煙を上げている。

 

フレデリカ曹長の指示で六人が乗り込むと、やがて出発を告げる汽笛が響いた。

 

ここからイジューム戦線までは、四泊五日の鉄道の旅が待っている。

 

山田直樹二等兵と永野進一等兵の、忘れられない帝都の一夜はこうして終わった。

 

二人はこの日、ある決意を胸に刻んだ。

 

帝国共通語は、会話だけでなく文字も勉強しよう。

 

戦場へ向かう兵士としては、少々情けない教訓だった。


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