フレデリカ曹長の憂鬱   作:バグスター

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帝国歴232年3月


稜線の花

イジューム戦線では、冬の寒さがまだ残っていた。

 

雪解けが始まったとはいえ、朝晩の冷え込みは厳しい。地面には凍った部分と泥濘が入り交じり、兵士たちの足を悩ませていた。

 

ベルノ連隊第3中隊が守る高地では、工兵たちによる陣地改修がほぼ完了しようとしていた。

 

先月、この高地では魔族の砲撃によって三上鈴音が戦死し、伊藤千尋が負傷した。その後も砲撃による負傷者が続き、高地陣地だけで戦死一名、負傷四名の損害を出していた。

 

連隊全体では、負傷者の数はすでに二桁に達している。

 

それでも、砲撃の激しさの割には被害が少なかった。これは北ドワーフが構築した強固な陣地と、その後に重ねられた改良の成果と言えた。

 

敵の砲兵観測を避けるため、高地の背後には新たな反対斜面陣地が築かれていた。

 

兵士たちは、この陣地をいつしか「三上陣地」と呼ぶようになっていた。

 

戦死した三上鈴音の名にちなんだ通称である。

 

普段は敵側から直接見通せない反対斜面で待機し、敵の接近に応じて稜線の射撃陣地へ進出する。

 

そのため、反対斜面から稜線への迅速な展開が必要だった。

 

この日、フレデリカ曹長の歩兵分隊は、同じ高地に配置されている機銃分隊とともに展開訓練を行っていた。

 

「全員、装備を確認しろ!」

 

甲高い声が反対斜面に響いた。

 

「小銃、弾薬、手榴弾、携行工具! 忘れ物をした馬鹿は置いていくぞ!」

 

「了解!」

 

フレデリカ曹長は腰に手を当て、兵士たちを見回していた。

 

金髪のショートヘアに、緑色の目。

 

小柄なエルフの女性だった。

 

山田直樹二等兵には、どうしても少女のように見えてしまう。

 

だが、軍務十二年の古参兵であり、帝国歴225年の激戦を生き残った歴戦の兵士でもある。

 

その小さな身体から発せられる怒鳴り声は、周囲の誰よりも大きかった。

 

「いいか! 今日は反対斜面陣地から稜線陣地への展開だ! 合図と同時に持ち場へ移動し、射撃準備を完了させろ!」

 

兵士たちはそれぞれの装備を背負った。

 

小銃、弾薬、工具、水筒。

 

機銃分隊の兵士たちは、機銃本体や予備弾薬も分担している。

 

山田も小銃を担ぎ、重い背嚢を肩に掛けた。

 

目指す稜線までは、距離だけなら大したことはない。

 

しかし、上り坂は思いのほか急だった。

 

しかも、雪解けの泥が軍靴にまとわりつく。

 

「よし! 展開開始!」

 

フレデリカの号令で兵士たちが動き出した。

 

山田も勢いよく駆け出した。

 

最初のうちはよかった。

 

だが、斜面の半ばを過ぎたあたりで息が切れ始めた。

 

重い装備が肩に食い込み、泥濘に足を取られる。

 

「はあっ……はあっ……!」

 

前を行く永野進一等兵との距離が開いていく。

 

そのときだった。

 

「山田! 遅れるな! 早く登れ!」

 

甲高い怒声が飛んだ。

 

「は、はいっ!」

 

「何をちんたら歩いている! その程度でへばるのか!」

 

「申し訳ありません、曹長!」

 

「さっさと登れ! 玉蹴りつぶすぞ!」

 

「了解です、曹長!」

 

山田の顔に、なぜか笑みが浮かんだ。

 

「何を笑っている! この変態野郎!」

 

「いえっ! 何でもありません!」

 

「その気持ち悪い顔をやめろ!」

 

「はいっ!」

 

山田は急に元気になった。

 

先を行く永野が振り返った。

 

「……お前、ほんとにすげえな」

 

日本語で呟く。

 

「先輩! 曹長、今日も絶好調ですね!」

 

「お前、苦しくないのか?」

 

「苦しいですよ!」

 

「だったら何で笑ってんだよ!」

 

「最高じゃないですか!」

 

「……もういい。俺が馬鹿だった」

 

永野は前を向いた。

 

やがて兵士たちは稜線陣地に到達し、それぞれの配置についた。

 

「射撃準備!」

 

フレデリカの声に応じて、兵士たちは小銃を構え、機銃分隊も所定の射撃位置についた。

 

「よし! 全員配置についたな!」

 

フレデリカは懐中時計を確認した。

 

「遅い!」

 

兵士たちの顔が引きつった。

 

「こんな速度では敵が来る前に陣地を取れん! もう一度だ!」

 

「了解!」

 

全員が装備をまとめ、反対斜面へ戻っていった。

 

二回目。

 

三回目。

 

そして四回目。

 

最初は勢いよく登っていた兵士たちも、次第に口数が減っていった。

 

泥だらけの軍靴。

 

汗に濡れた軍服。

 

何度も装備を背負い直すうちに、肩や腰が痛み始める。

 

山田は膝に手をつき、荒い息を吐いた。

 

「……先輩」

 

「なんだよ……」

 

永野も息を切らしていた。

 

「これ……結構きついですね……」

 

「結構どころじゃねえよ……」

 

「曹長……よく平気ですね……」

 

二人は少し離れたところに立つフレデリカを見た。

 

小柄な曹長は、相変わらず背筋を伸ばしている。

 

もちろん彼女も汗をかいていたが、部下たちの前で疲れた姿を見せるつもりはないらしい。

 

「おい! 休むなら今のうちに休め! 次もやるぞ!」

 

「……まだやるんですか」

 

山田が思わず日本語で呟いた。

 

フレデリカが宍戸兵長を振り向いた。

 

「宍戸! 山田は何と言った?」

 

「まだやるのかって」

 

「当たり前だ!」

 

甲高い声が響き渡った。

 

「山田! 次はもっと速く登れ! また遅れたらその玉、今度こそ潰してやる!」

 

「了解しました、曹長!」

 

山田は満面の笑みで敬礼した。

 

フレデリカは顔をしかめた。

 

「……何だ、その嬉しそうな顔は」

 

「曹長のご指導、ありがとうございます!」

 

「礼を言うな! この救いようのない変態野郎!」

 

宍戸が腹を抱えて笑った。

 

「フレっち! もうダメだって! あんたが怒れば怒るほど喜ぶんだから!」

 

「知るか! 私は訓練をしているんだ!」

 

「でも、山田だけ元気になってるじゃん!」

 

フレデリカは山田を睨みつけた。

 

「……お前、本当に頭がおかしいぞ」

 

「ありがとうございます!」

 

「褒めてないわ!」

 

永野は額に手を当てた。

 

「……山田、お前がいると曹長が気の毒になってくる」

 

山田は不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしてですか?」

 

「それが分からないからだよ!」

 

* * *

 

午後。

 

展開訓練をひと区切り終えた兵士たちは、稜線陣地の内部で短い休憩を取っていた。

 

山田も背嚢を下ろし、土壁にもたれかかった。

 

腕も脚も重い。

 

肩には背負い紐の跡が赤く残っている。

 

「……さすがに疲れましたね」

 

隣に座った永野が水筒を差し出した。

 

「飲めよ」

 

「ありがとうございます、先輩」

 

山田は水を飲み、長く息を吐いた。

 

そのとき、視線が稜線の一角に向いた。

 

補修された観測陣地があった。

 

新しい木材と土嚢が積まれ、砲撃で壊された部分も直されている。

 

しかし、周囲にはまだ砲弾の破片が混じった土が残り、少し離れた地面には埋め戻された砲弾孔の跡も見えた。

 

山田はしばらく、その場所を見つめていた。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「ちょっと、あそこまで行ってきます」

 

永野が視線を向けた。

 

「ああ……」

 

何かを察したように頷いた。

 

「気をつけろよ。敵側に姿をさらすな」

 

「はい」

 

山田は背嚢の小さなポケットから、紙に包んだものを取り出した。

 

細い紐で束ねられた、小さな花だった。

 

山田は観測陣地の端まで歩き、崩れた土嚢の脇にしゃがみ込んだ。

 

そして、花をそっと置いた。

 

「……三上さん」

 

小さく、日本語で呟いた。

 

三上鈴音。

 

日本にいた頃の同級生だった。

 

召喚されてからは別の中隊に配属され、顔を合わせる機会は少なくなっていた。

 

それでも新年には顔を見ていた。

 

つい二か月ほど前のことだ。

 

帝都へ向かう列車の中で、自分は永野にこんな話をした。

 

僕のこの感動、三上さんならわかってくれるんだけどなあ。

 

三上は可愛いものが好きだった。

 

だから、小柄なフレデリカ曹長を見たら、きっと可愛いと言ってくれるだろう。

 

そんな、くだらないことを考えていた。

 

その三上が、もういない。

 

先月、この高地を襲った魔族の砲撃で戦死したのだ。

 

山田は小さな花を見つめた。

 

「……三上さんなら、こういう花も好きだったかな」

 

返事はなかった。

 

風が観測陣地の上を吹き抜けた。

 

遠くの森林が、冷たい風に揺れていた。

 

「……ごめんね」

 

山田は呟いた。

 

「僕、まだ何もできてないや」

 

しばらく、その場にしゃがんでいた。

 

「……山田」

 

背後から声がした。

 

振り向くと、フレデリカ曹長が立っていた。

 

いつものように腰に手を当てている。

 

しかし、今度は怒鳴らなかった。

 

「何をしている?」

 

山田は立ち上がり、帝国共通語で答えた。

 

「戦死した兵士に、花を供えていました」

 

フレデリカは観測陣地の端に置かれた花を見た。

 

「知り合いか?」

 

「はい。日本にいた頃の同級生です」

 

「……そうか」

 

「三上鈴音という名前でした。第3中隊にいたんです」

 

フレデリカは小さく頷いた。

 

先月の砲撃で、この高地に戦死者が出たことは知っていた。

 

「仲がよかったのか?」

 

「同じクラスでした。中隊が違うので、こっちに来てからはあまり会えませんでしたけど……」

 

山田は花に視線を落とした。

 

「新年には、元気だったんです」

 

フレデリカは何も言わず、補修された観測陣地を見つめた。

 

かつて、この場所に砲弾が降り注いだ。

 

今は補修され、兵士たちが再び持ち場についている。

 

戦場では珍しくもないことだった。

 

彼女自身、軍務十二年の間に何人もの仲間を失っていた。

 

帝国歴225年の戦いでは、名前も顔も覚えている兵士たちが、二度と帰ってこなかった。

 

「……山田」

 

「はい、曹長」

 

「ここは戦場だ」

 

「……はい」

 

「明日、誰が死ぬかなど、誰にも分からん」

 

山田は黙って頷いた。

 

フレデリカは小さな花に目を向けた。

 

「だが、お前はまだ生きている」

 

「はい」

 

「だったら、生き残ることを考えろ」

 

「……了解です」

 

「そのために訓練をしているんだ。分かったな?」

 

「はい、曹長」

 

フレデリカは少し間を置いた。

 

そして、いつもの甲高い声に戻った。

 

「よし! 休憩は終わりだ! さっさと戻れ!」

 

「了解!」

 

山田が敬礼すると、フレデリカはその尻を軽く蹴った。

 

「早く行け! この馬鹿者!」

 

「ありがとうございます、曹長!」

 

山田は嬉しそうに駆け出した。

 

「……おい!」

 

フレデリカが叫んだ。

 

「今のは礼を言うところじゃないだろうが!」

 

しかし山田は、もう反対斜面へ続く通路を走っていた。

 

フレデリカは、その背中を見送りながら深いため息をついた。

 

「……まったく、どうしようもない奴だ」

 

そして、もう一度だけ観測陣地の端に目を向けた。

 

小さな花が、冷たい風に揺れていた。

 

フレデリカは何も言わず、踵を返した。

 

* *

 

夕方。

 

最後の点呼を終えた兵士たちは、反対斜面陣地の掩体壕へ戻っていった。

 

フレデリカ曹長は、泥だらけの部下たちを見回した。

 

「今日の訓練は終わりだ!」

 

疲れ切った兵士たちから、安堵の息が漏れた。

 

「だが、明日も同じ訓練をやるぞ!」

 

一斉に顔が曇った。

 

「今度はもっと速く展開できるようにしろ! 敵はお前らが登り終えるまで待ってくれんからな!」

 

「了解!」

 

山田も元気よく返事をした。

 

その様子を見て、永野が日本語で呟いた。

 

「……お前、明日も楽しみなのか?」

 

「もちろんですよ、先輩!」

 

「……疲れないのか?」

 

「疲れますけど、曹長に怒鳴ってもらえますから!」

 

「……もう何も言わん」

 

永野は肩を落とした。

 

少し離れたところでは、フレデリカが宍戸に尋ねていた。

 

「宍戸。あいつら、また何を話している?」

 

「あー……山田が、明日の訓練も楽しみだって」

 

「……どうしてだ?」

 

「フレっちに怒鳴ってもらえるからだってさ」

 

フレデリカは両手で顔を覆った。

 

「……あの変態野郎……」

 

宍戸は笑いながら、その小さな肩を叩いた。

 

「まあまあ、フレっち。少なくとも訓練には熱心なんだから、いいじゃん」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「でもさ」

 

宍戸は少し真面目な声になった。

 

「今日、山田が花を供えてたの、見た?」

 

「ああ」

 

「三上鈴音って子、同級生だったんだってね」

 

「聞いた」

 

「……そっか」

 

宍戸は稜線の方を振り返った。

 

夕暮れの空の下で、補修された陣地が黒い影になっていた。

 

「あいつ、ああいうところもあるんだね」

 

フレデリカは黙っていた。

 

やがて、ぽつりと言った。

 

「……兵隊としては、真面目な奴だ」

 

「うん」

 

「だが、変態なのは別だ!」

 

宍戸が吹き出した。

 

「あははは! やっぱそこは譲れないんだ!」

 

「当たり前だ!」

 

フレデリカの甲高い声が、夕暮れの陣地に響いた。

 

* * *

 

山田と永野には、まだ仕事が残っていた。

 

後方の補給所まで湯を取りに行くのである。

 

二人は蓋のついた金属容器を持ち、反対斜面の連絡路を歩いていた。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「今日、何回あの坂を登ったと思います?」

 

「数えるのも嫌だよ」

 

「脚が棒みたいです」

 

「俺もだ」

 

補給所で湯を受け取り、二人は来た道を引き返した。

 

湯の入った容器はずしりと重い。

 

足元の泥濘に気をつけながら、慎重に運んでいく。

 

「しかし、お湯ってありがたいですね」

 

「そうだな。身体を拭けるだけでも助かる」

 

ベルノ駐屯地にはシャワー室があった。

 

訓練が終われば、毎日のように温かい湯で汗を流せた。

 

しかし、ここは前線である。

 

風呂もシャワーもない。

 

水は飲料や炊事が優先され、身体を洗うための湯は貴重だった。

 

「先輩、帰ったら思いっきりシャワー浴びたいですね」

 

「まったくだ」

 

二人はようやく掩体壕に到着した。

 

「曹長! お湯を持ってきました!」

 

「遅い!」

 

フレデリカの甲高い声が飛んだ。

 

「何をちんたらやっていた! 湯が冷めるだろうが!」

 

「申し訳ありません!」

 

「さっさと中に入れろ! この役立たずども!」

 

「了解です!」

 

山田は嬉しそうに返事をした。

 

永野は小さくため息をついた。

 

「……お前、元気になったな」

 

「曹長に怒鳴られましたから!」

 

「便利な身体してるな、お前」

 

二人が湯を運び込むと、分隊の女性たちが洗面器を持って集まってきた。

 

「やった! お湯だ!」

 

リリアが嬉しそうに声を上げた。

 

「ありがとうございます。助かりました」

 

メリーナも微笑んだ。

 

宍戸は早速、洗面器に湯を分け始めた。

 

「いやー、やっとさっぱりできるわ!」

 

そう言うと、ためらうことなく軍服を脱ぎ始めた。

 

リリアもメリーナも同じだった。

 

女性たちは男二人がいることなど気にも留めず、湯で濡らした布で身体を拭き始めた。

 

「……え?」

 

山田は思わず立ち止まった。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

「何?」

 

宍戸が振り向いた。

 

「僕たち、まだここにいるんですけど……」

 

「だから?」

 

「いや、その……」

 

宍戸は笑った。

 

「裸見たいならどうぞ。減るもんじゃないしね!」

 

「ええっ、宍戸先輩!」

 

そのやり取りを聞いたリリアも、からからと笑った。

 

「別にいいじゃない! 自慰のおかずぐらいにはなってあげるわよ!」

 

「リ、リリア先輩!」

 

リリアは笑いながら布を絞った。

 

メリーナも穏やかな笑顔で口を開いた。

 

「山田さん、あまり気にしなくていいんですよ。ここにはお風呂もありませんから」

 

「そ、そうですけど……」

 

「それに、山田さん。勃起しても皆さん見て見ぬふりしますから、大丈夫ですよ」

 

「ええっ!? メリーナ先輩!」

 

山田は真っ赤になった。

 

宍戸が吹き出した。

 

「あははは! メリーナ、あんた本当に遠慮ないね!」

 

「え? 何かおかしなことを言いましたか?」

 

「いや、間違ってないんだけどさ!」

 

すると、リリアがまた笑い出した。

 

「あはは! 日本人の男の新兵って、みんな最初の頃勃起してるんだよね! 股間押さえて前かがみになってるの、笑えるよね!」

 

「ちょ、ちょっと! リリア先輩まで!」

 

「別に珍しいことじゃないって! そのうち慣れるわよ!」

 

山田はすっかり困り果てていた。

 

そのとき、フレデリカが洗面器の前にやってきた。

 

彼女もほかの女性たちと同じように衣服を脱ぎ、身体を拭き始めた。

 

山田は慌てて視線を逸らした。

 

「山田!」

 

甲高い声が響いた。

 

「は、はい!」

 

「おまえもさっさと身体を洗え!」

 

フレデリカはいつもと変わらぬ調子で怒鳴った。

 

「何をグズグズしている! 湯が冷めるだろうが、この馬鹿者!」

 

「了解です、曹長!」

 

「身体を洗ったら、その辺の茂みで抜いてこい! それぐらい自分で折り合いつけろ!」

 

「は、はいっ!」

 

宍戸が吹き出した。

 

「あははは! フレっち、言い方!」

 

「何がおかしい! そんなことでいちいち騒がれてたまるか!」

 

山田は赤い顔のまま、困ったように永野を見た。

 

ところが永野は、何事もないように軍服を脱ぎ、洗面器に湯を分けていた。

 

「……先輩?」

 

「なんだ?」

 

「平気なんですか? 皆さん、あんなに堂々と……」

 

永野は呆れた顔で山田を見た。

 

「俺は去年、戦線にいたからな。もう慣れたよ」

 

そして、思い出したように続けた。

 

「というか、おまえだって駐屯地のシャワー使ってただろ? 女と一緒だったじゃないか。今さら何言ってる?」

 

「そ、それはそうですけど!」

 

「しかも、仕切りもなかっただろ?」

 

「でも、シャワー室はもっと広かったじゃないですか! こんな狭い掩体壕で、目の前で平然とされると……」

 

「……広さの問題かよ」

 

永野は深いため息をついた。

 

「おまえ、軍隊でいちいち女の裸を意識してたらやってけないぞ」

 

「……そういうものですか?」

 

「そういうもんだ。駐屯地の共用シャワーも、こういう生活に慣れさせる意味があったのかもしれないな」

 

「……なるほど」

 

「それに、ここじゃ風呂もシャワーもない。お前だって、さっき湯を運んできただろ」

 

「はい……」

 

「男女別々に洗う時間も場所も足りないんだよ。お互い気にしないのが一番だ」

 

すると、二人の日本語を聞いていた宍戸が横から口を挟んだ。

 

「こっちだって、男のチンコも見慣れたわよ!」

 

宍戸はけらけらと笑った。

 

「ええっ、宍戸先輩!」

 

「だって衛生兵だよ? 大腿部を負傷した兵隊なんか、ズボンを切り裂いて治療するんだから!」

 

「……そ、そうですよね」

 

「そうそう。昔なんか、ある兵隊が自分のモノを心配してさ。『頼む! 握ってくれ!』って言うのよ!」

 

永野が思わず吹き出した。

 

「……それで、どうしたんですか?」

 

「『そんなことより命が先でしょ!』って怒鳴って、止血を続けたわ!」

 

宍戸は肩をすくめた。

 

「まったく、太ももから血を流してるっていうのに、そっちの心配なんだから!」

 

「……すごいですね、宍戸先輩」

 

山田は呆気に取られていた。

 

宍戸はあっけらかんと答えた。

 

「ま、治療が終わったら握ってあげたけどね」

 

「えええっ!?」

 

山田が素っ頓狂な声を上げた。

 

永野も思わず振り向いた。

 

「……宍戸先輩、そこまでしたんですか?」

 

「だって、あんまり心配してるんだもん。無事だって分かったら、安心したみたいよ」

 

宍戸はけらけらと笑った。

 

掩体壕には笑い声が響いていた。

 

外では冷たい風が吹き、稜線の向こうには魔族の陣地がある。

 

いつ砲撃が始まるかも分からない。

 

それでも兵士たちは、ようやく手に入った温かな湯で、一日の汗と泥を落としていた。

 

身体を拭き終えた山田は、軍服を着直すと立ち上がった。

 

「では、ちょっと行ってきます!」

 

永野が顔を上げた。

 

「……おい、どこ行くんだ?」

 

「曹長の命令を遂行してきます!」

 

「……は?」

 

山田は元気よく敬礼すると、掩体壕を出ていった。

 

永野はしばらく考え、ようやく先ほどのフレデリカの言葉を思い出した。

 

「……おい、まさか!」

 

宍戸が吹き出した。

 

「あははは! 本当に行っちゃった!」

 

「……あいつ、冗談も分からんのか?」

 

永野が呆れると、宍戸は笑いながら答えた。

 

「違うって。フレっちの命令だからよ!」

 

フレデリカは顔をしかめた。

 

「……私はあいつの頭をどうにかしろと言ったつもりなんだが」

 

永野は深いため息をついた。

 

「……曹長の命令にだけは、絶対服従なんですよ。あいつ」

 

宍戸がフレデリカにその意味を伝えると、小柄な曹長はますます顔をしかめた。

 

「それが一番困るんだ!」

 

フレデリカの甲高い怒声が、掩体壕に響き渡った。

 

しばらくして、山田が何事もなかったような顔で戻ってきた。

 

「ただいま戻りました!」

 

フレデリカは顔を上げた。

 

「……おい、山田」

 

「はい、曹長!」

 

「お前、どこまで行っていた?」

 

「反対斜面の茂みです! もちろん陣地の外には出ていません!」

 

「そういうことを聞いているんじゃない!」

 

「申し訳ありません!」

 

フレデリカは額を押さえた。

 

「……もういい。とにかく座っていろ」

 

「了解です!」

 

山田は嬉しそうに腰を下ろした。

 

その顔を見て、永野が日本語で呟いた。

 

「……お前、曹長に言われたら本当に何でもするんだな」

 

山田は不思議そうに答えた。

 

「当然じゃないですか。曹長の命令ですよ?」

 

「……もういい。俺が悪かった」

 

宍戸は笑いをこらえきれず、寝台に突っ伏していた。

 

ひと騒ぎが終わり、掩体壕はようやく落ち着きを取り戻した。

 

兵士たちは軍服を着直し、使った湯を片づけていた。

 

ストーブの上に置かれた湯沸かしから、白い湯気が立っている。

 

「さて、そろそろ交代の時間だな」

 

フレデリカ曹長が懐中時計を確認した。

 

三上陣地では、反対斜面陣地に兵士たちが退避している間も、稜線の監視を欠かすわけにはいかなかった。

 

夜の監視は交代制である。

 

歩兵分隊と機銃分隊は、それぞれ監視要員を出していた。

 

朝方にはフレデリカの歩兵分隊から山田とメリーナの二名が監視に当たることになっている。機銃分隊も別の持ち場で監視を続ける。

 

監視に当たらない兵士たちは反対斜面の掩体壕で休憩し、警報があれば直ちに稜線の射撃陣地へ展開する。

 

「今夜の最初の監視はリリアだったな」

 

「はーい!」

 

リリア上等兵が元気よく返事をした。

 

「じゃあ行ってくるわ!」

 

軍服を整え、小銃を肩に掛ける。

 

「交代時間は守れよ。それと、敵側に頭を出すな。観測兵に見つかるぞ」

 

「分かってるって、曹長!」

 

「返事!」

 

「了解!」

 

リリアは笑いながら掩体壕を出ていった。

 

機銃分隊からも別の兵士が監視に出る。

 

「よし。残りは休憩だ。だが、装備はすぐに持ち出せるようにしておけ」

 

「了解!」

 

フレデリカの指示を受け、兵士たちはそれぞれ寝台や腰掛けに腰を下ろした。

 

山田は毛布を膝に掛け、大きく息を吐いた。

 

「……やっと休めますね、先輩」

 

「そうだな」

 

永野は軍靴を緩めながら答えた。

 

「ただし、警報が鳴ったらまたあの坂を登るんだぞ」

 

「……夜中でもですか?」

 

「当たり前だろ」

 

山田は昼間の展開訓練を思い出した。

 

重い装備を背負い、何度も登ったあの斜面。

 

「……できれば朝まで何も起きてほしくないですね」

 

「俺もそう思うよ」

 

永野は苦笑した。

 

そのとき、メリーナが外套を手に取った。

 

「曹長、私もちょっと出かけて来ますね」

 

フレデリカは懐中時計を見た。

 

「ああ。交代までに戻れよ」

 

「はい。大丈夫ですよ」

 

メリーナはいつもの穏やかな笑顔で答え、小さな包みを持って掩体壕を出ていった。

 

山田はその背中を見送った。

 

「……どこに行くんですか?」

 

宍戸がにやりと笑った。

 

「察しなさいな。逢引よ。……いや、妊活かな?」

 

「に、妊活!? こんな前線でですか?」

 

「こんな前線だからでしょ。みんな必死なのよ」

 

宍戸は少しだけ真面目な表情になった。

 

「メリーナ、子供が欲しいんだって。いつ死ぬか分かんないから、会えるときに会っておきたいってさ」

 

「……なるほど」

 

山田は少し考え込んだ。

 

「メリーナ先輩、彼氏いたんですね」

 

「詮索しない。帝国軍では、本人から言わない限り私生活に踏み込まないのが暗黙の了解よ」

 

「は、はい!」

 

永野も頷いた。

 

「そういうことだ。余計なことは聞くなよ」

 

そのとき、フレデリカが宍戸を振り返った。

 

「おい、宍戸。今度は何を話している?」

 

「あー、山田が他人の私生活をあれこれ聞こうとしてたの」

 

フレデリカは山田を睨みつけた。

 

「山田! 他人の色恋沙汰に首を突っ込むな!」

 

「了解です、曹長!」

 

「おまえも朝方の当番だろう、さっさと寝ろ!」

 

「はい! おやすみなさい、曹長!」

 

「まったく、世話の焼ける奴だ!」

 

山田は嬉しそうに毛布を肩まで引き上げた。

 

宍戸は呆れて笑った。

 

「……ほんと、あんたって幸せな奴ね」

 

* * *

 

 

夜明け前。

 

三上陣地の掩体壕では、ストーブの火が小さくなっていた。

 

寝台には毛布にくるまった兵士たちが横になり、ときおり寝返りを打つ音だけが聞こえていた。

 

そのとき、入口の扉が静かに開いた。

 

「ただいま戻りました」

 

メリーナ上等兵だった。

 

外套には夜露がつき、頬は冷たい外気で少し赤くなっていた。

 

当番の交代を確認していたフレデリカ曹長が、懐中時計を見た。

 

「戻ったか。時間どおりだな」

 

「はい、曹長」

 

「次はお前と山田だったな」

 

「ええ。起こしてきます」

 

朝方の監視は、歩兵分隊から二名を出すことになっていた。

 

当番はメリーナと山田である。

 

メリーナは山田の寝台へ向かった。

 

山田は毛布を頭まで被り、ぐっすり眠っていた。

 

「山田さん」

 

返事はない。

 

「山田さん、起きてください。交代の時間ですよ」

 

メリーナは山田の肩を軽く揺すった。

 

「……ん……」

 

「朝方の監視当番です。私と一緒ですよ」

 

山田がようやく目を開けた。

 

「……あ、メリーナ先輩……」

 

「おはようございます」

 

メリーナはにっこり微笑んだ。

 

「……おはようございます」

 

山田は寝ぼけた顔で身体を起こした。

 

そして、何かを思い出した。

 

「あれ? 先輩、帰ってきたんですか?」

 

「ええ、つい先ほど」

 

「……あ、そうか。お出かけしてたんですよね」

 

「はい」

 

メリーナは何事もなかったように答えた。

 

山田は少し迷ってから尋ねた。

 

「……楽しかったですか?」

 

「ええ、とても」

 

「……そうですか」

 

メリーナは嬉しそうに微笑んだ。

 

「山田さんも、いい人が見つかるといいですね」

 

「は、はい……」

 

山田は少し赤くなった。

 

そのとき、背後から甲高い声が飛んだ。

 

「山田! いつまで寝ぼけている!」

 

フレデリカだった。

 

「監視交代だぞ! さっさと装備を整えろ!」

 

「了解です、曹長!」

 

山田は慌てて寝台から飛び起きた。

 

「交代を待っている奴がいるんだ! 急げ!」

 

「はい!」

 

「まったく! 朝から世話を焼かせるな、この馬鹿者!」

 

「ありがとうございます、曹長!」

 

「礼を言うな!」

 

フレデリカは額に手を当てた。

 

メリーナは口元を押さえて笑っていた。

 

二人は小銃と装備を携え、掩体壕を出た。

 

外はまだ薄暗い。

 

東の空がわずかに白み始めていたが、森林の向こうは黒い影のままだった。

 

三上陣地の反対斜面から稜線へ向かう通路には、昨夜の冷え込みで薄い霜が降りている。

 

「寒いですね」

 

山田が小声で言った。

 

「そうですね。でも、もう少しで夜が明けますよ」

 

メリーナは落ち着いた足取りで進んでいた。

 

山田は隣を歩きながら、ふと尋ねた。

 

「……メリーナ先輩」

 

「はい?」

 

「先輩、あまり寝てないですよね?」

 

「そうですね。ほとんど寝ていませんね」

 

「大丈夫なんですか?」

 

「ええ。監視が終わったら休ませてもらいますから」

 

山田は少し考えてから尋ねた。

 

「でも、先輩。こんなに忙しいのに、いつ恋人と会ってるんですか?」

 

メリーナは微笑んだ。

 

「こうやって時間を作るんですよ。山田さんも慣れればわかりますよ」

 

「……なるほど」

 

「軍務が終わってからなんて考えていたら、十五年も待たなくちゃいけませんからね」

 

「確かにそうですね……」

 

「それに、会えるときに会っておかないと、次はいつ会えるかわかりませんし」

 

メリーナはいつもの穏やかな口調で答えた。

 

「山田さんも、好きな人ができればわかりますよ」

 

山田は少し考えた。

 

「……僕にはフレデリカ曹長がいますけど」

 

メリーナは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 

「ふふっ。それはちょっと違うと思いますよ」

 

「……そうですか?」

 

「ええ。たぶん」

 

二人は再び稜線へ向かって歩き始めた。

 

稜線陣地に到着すると、先の監視当番が持ち場で待っていた。

 

「交代です」

 

メリーナが小声で告げた。

 

「異常なし。夜明け前だから、敵側の動きには気をつけてくれ」

 

「了解しました」

 

引き継ぎを終え、山田とメリーナは監視区域を確認した。

 

二人の持ち場は少し離れており、互いの姿は直接見えない位置にある。

 

持ち場へ別れる前、二人は補修された観測陣地の脇を通った。

 

そこに、昨日山田が供えた小さな花があった。

 

冷たい風に揺れながら、まだそこに残っていた。

 

山田は思わず足を止めた。

 

メリーナもその視線に気づいた。

 

「あのお花、山田さんが?」

 

「……はい」

 

「どなたかのために?」

 

「同級生だった人です。先月、ここで戦死しました」

 

「……そうでしたか」

 

メリーナは静かに頷いた。

 

「きっと、喜んでいると思いますよ」

 

「……そうだといいんですけど」

 

山田は小さく答えた。

 

メリーナはそれ以上尋ねなかった。

 

やがて二人は、別々の監視所へ向かうことになった。

 

別れ際、メリーナが小さな声で言った。

 

「山田さん」

 

「はい?」

 

「私たちも、生きて帰りましょうね」

 

山田はメリーナを見た。

 

彼女はいつもの穏やかな表情で、双眼鏡を手にしていた。

 

「……はい」

 

山田は頷いた。

 

「もちろんです」

 

そして、二人はそれぞれの監視位置についた。

 

三上陣地の朝が始まろうとしていた。

 

夜明けが近づいていた。

 

東の空が薄く明るくなり始め、森林の輪郭が少しずつ浮かび上がってきた。

 

山田直樹二等兵は、稜線の観測口から敵側を監視していた。

 

メリーナ上等兵は少し離れた別の監視位置についている。互いの姿は見えなかった。

 

稜線には、それぞれの監視所のすぐ後ろに小さな掩体壕が設けられていた。

 

工兵が新たに構築したもので、太い木材で天井を支え、その上には厚く土が盛られている。

 

入口は狭く、内部は兵士が二人ほど身を寄せればいっぱいになる程度だった。

 

小さいながらも、頑丈な造りだった。

 

メリーナの監視所にも、同じような掩体壕が備えられている。

 

三上鈴音が戦死した砲撃を教訓に、稜線上に残る監視兵を守るために設けられたものだった。

 

山田は双眼鏡を下ろした。

 

「……異常なし、と」

 

少し眠気が残っていた。

 

昨夜は疲れ切って眠ったものの、夜明け前に起こされて、まだ十分に頭が働いていない。

 

しかし、敵のいる方向から目を離すわけにはいかなかった。

 

山田は再び双眼鏡を構えた。

 

そのときだった。

 

遠くで、低い音がした。

 

――ドン。

 

山田は双眼鏡を下ろした。

 

「……え?」

 

続いて、聞き慣れない音が空を渡ってきた。

 

ひゅうううう――。

 

次の瞬間。

 

ドガァァン!

 

稜線の向こう側で土煙が上がった。

 

「うわっ!」

 

山田は思わず身をすくめた。

 

さらに別の砲弾が飛んできた。

 

今度は音が近い。

 

その瞬間、山田の頭に永野の言葉が浮かんだ。

 

砲撃だけは別だ。敵が見えないところから飛んでくる。

 

ドンッ!

 

すぐ近くで爆発が起こった。

 

地面が揺れ、観測口の周囲に土が降り注いだ。

 

「ひっ!」

 

山田は反射的に小銃を抱えた。

 

そして、監視所のすぐ後ろにある掩体壕へ飛び込んだ。

 

狭い入口に肩をぶつけながら、転がるように中へ入る。

 

「うわあっ!」

 

直後、轟音が響いた。

 

ドガァァン!

 

地面が激しく揺れた。

 

天井から細かい土がぱらぱらと落ちてくる。

 

山田は小銃を抱えたまま、掩体壕の床に身を伏せた。

 

「はあっ……はあっ……!」

 

心臓が激しく打っていた。

 

外では砲弾が次々と炸裂している。

 

ドン! ドガン!

 

爆発音が重なり、どこに落ちているのかも分からない。

 

狭い掩体壕の中で、山田は両手で頭を覆った。

 

「……うそだろ……」

 

声が震えた。

 

昨日まで何度も登った稜線。

 

三上鈴音が戦死した場所。

 

そこで、今度は自分が砲撃を受けている。

 

「……三上さん……」

 

思わず名前が口をついた。

 

その瞬間、ひときわ大きな爆発音が響いた。

 

ドガァァン!

 

掩体壕の壁が震え、天井から土が降った。

 

山田は身体を丸めた。

 

「うわああっ!」

 

小さな掩体壕は、びくともしなかった。

 

しかし、その中にいる山田には、天井が今にも崩れ落ちてくるように感じられた。

 

怖い。

 

頭に浮かんだのは、それだけだった。

 

フレデリカ曹長に怒鳴られて嬉しかったことも、重い装備を背負って何度も坂を登ったことも、すべて吹き飛んでいた。

 

こんなの、どうしようもないじゃないか。

 

敵の姿は見えない。

 

撃ち返すこともできない。

 

ただ、砲弾が自分のところに落ちないことを祈るしかなかった。

 

永野が言っていたことを、ようやく理解した。

 

「……先輩……」

 

山田は震える声で呟いた。

 

「……本当に、怖いですね……」

 

そのとき、ふとメリーナのことを思い出した。

 

「……メリーナ先輩!」

 

彼女は別の監視所にいた。

 

そこにも同じような掩体壕がある。

 

しかし、ちゃんと逃げ込めただろうか。

 

山田は入口の方を見た。

 

外は土煙に覆われ、砲撃の音が絶え間なく続いている。

 

とても外へ出られる状況ではなかった。

 

「……メリーナ先輩……」

 

声を張り上げても、届くはずがない。

 

山田は拳を握りしめた。

 

そして、ようやく思い出した。

 

昨日、フレデリカ曹長が自分に言った言葉。

 

だったら、生き残ることを考えろ。

 

山田はもう一度、身体を低くした。

 

目の前の狭い入口から、薄明かりと爆発の閃光が交互に差し込んでくる。

 

その向こうに、メリーナがいる。

 

そして、昨日供えた三上鈴音への花もある。

 

「……頼むから、早く終わってくれ……」

 

山田は小銃を抱きしめた。

 

三上陣地への砲撃は、まだ続いていた。

 

砲撃が始まってから、どれほど時間が経ったのだろう。

 

山田には、もう分からなかった。

 

狭い掩体壕の中で小銃を抱え、ただひたすら身体を丸めていた。

 

やがて、爆発音の間隔が長くなった。

 

遠くで一発。

 

さらに、もう一発。

 

そして、静かになった。

 

「……終わった?」

 

山田は恐る恐る顔を上げた。

 

耳がじんじんしていた。

 

掩体壕の中には細かな土埃が漂い、軍服も頭も土まみれになっている。

 

外からは風の音が聞こえてきた。

 

だが、山田は動けなかった。

 

また砲弾が飛んでくるかもしれない。

 

今度こそ、この掩体壕に直撃するかもしれない。

 

「……メリーナ先輩、大丈夫かな……」

 

山田は入口を見つめた。

 

外へ出て確認したい。

 

しかし、身体が言うことを聞かなかった。

 

そのときだった。

 

「山田ーっ! 生きているか!」

 

聞き慣れた甲高い声が響いた。

 

「……曹長?」

 

「山田! 返事をしろ! この馬鹿野郎!」

 

フレデリカ曹長だった。

 

「は、はいっ! 生きてます!」

 

「だったらさっさと返事をせんか!」

 

「申し訳ありません!」

 

入口から小柄な影が覗いた。

 

フレデリカだった。

 

その後ろには、永野の姿も見えた。

 

「山田! 怪我はないか!」

 

「……はい。大丈夫です」

 

「本当だな? どこか痛いところはないか?」

 

「ありません!」

 

フレデリカは掩体壕の内部を覗き込んだ。

 

太い木材で組まれた天井は健在だった。

 

壁から多少の土が落ちているものの、目立った損傷はない。

 

「よし。壕は無事だな」

 

フレデリカは山田を見た。

 

「お前も外傷はなさそうだ」

 

「はい……」

 

山田は立ち上がろうとした。

 

しかし、膝に力が入らなかった。

 

「あれ……?」

 

思わず壁に手をついた。

 

永野が入口から顔を出した。

 

「おい、山田。大丈夫か?」

 

「先輩……」

 

永野は山田の顔を見て、少し表情を和らげた。

 

「……怖かっただろ」

 

山田は頷いた。

 

「……はい」

 

「そうだろうな」

 

「先輩が言ってたこと、分かりました……」

 

山田は震える手を見つめた。

 

「……あれ、どうしようもないですね」

 

永野は小さく頷いた。

 

「ああ。そういうもんだ」

 

そのとき、フレデリカが二人を遮った。

 

「おい! 立てるなら外へ出ろ。ただし監視所から勝手に頭を出すな!」

 

「了解です!」

 

山田は小銃を持ち、ゆっくりと掩体壕から這い出した。

 

稜線陣地は土煙の匂いに包まれていた。

 

砲撃で新たな穴がいくつも開き、一部の土嚢が崩れている。

 

幸い、山田の監視所は大きな損傷を受けていなかった。

 

「メリーナ先輩は!?」

 

山田は思わず尋ねた。

 

フレデリカが答えるより早く、少し離れた連絡通路から声がした。

 

「山田さーん!」

 

メリーナだった。

 

彼女の監視所へ確認に向かっていた宍戸とリリアも一緒だった。

 

メリーナは軍服を土埃で汚していたが、怪我をした様子はなかった。

 

「メリーナ先輩!」

 

山田は思わず駆け寄ろうとした。

 

「山田! 待て!」

 

フレデリカの声に足を止めた。

 

「連絡路を通れ! 敵側に姿をさらすな!」

 

「了解です!」

 

山田は慌てて身を低くし、連絡路を通ってメリーナのところへ向かった。

 

「先輩! 無事だったんですね!」

 

「ええ。山田さんも無事でよかったです」

 

メリーナはいつものように微笑んだ。

 

「私もすぐ後ろの掩体壕に逃げ込みました。あそこ、本当に頑丈ですね」

 

「はい……」

 

山田は大きく息を吐いた。

 

「よかった……」

 

宍戸が山田の顔を覗き込んだ。

 

「ちょっと山田。あんた、顔真っ白じゃん」

 

「……そうですか?」

 

「そうだよ。すごい顔してる」

 

宍戸は山田の肩を軽く叩いた。

 

「ま、初めて本格的に砲撃食らったんでしょ。仕方ないよ」

 

「……はい」

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「気分は? 吐きそうとか、頭が痛いとか」

 

「大丈夫です。ちょっと膝が震えるだけで……」

 

「耳は? 聞こえにくくない?」

 

「少し、キーンとしています」

 

「そっか。あとでちゃんと確認するからね。今は少し休みな」

 

宍戸は頷いた。

 

そこへフレデリカがやって来た。

 

「全員、無事だな?」

 

「はい、曹長」

 

メリーナが答えた。

 

「私も山田さんも、怪我はありません」

 

「よし!」

 

フレデリカは二人の監視所を見回した。

 

どちらの掩体壕も無事だった。

 

砲弾が近くに着弾した形跡はあるが、分厚い覆土と丈夫な支柱が兵士たちを守ってくれたらしい。

 

「……工兵ども、いい仕事をしたな」

 

フレデリカが小さく呟いた。

 

先月、この高地で三上鈴音が戦死した。

 

その後、稜線の監視所には小さいながらも強固な掩体壕が設けられた。

 

その改修が、今回の砲撃ではっきりと役に立ったのである。

 

「曹長」

 

メリーナが口を開いた。

 

「監視はどうしますか?」

 

「当然、続ける。だが、今の砲撃で観測口が傷んでいるかもしれん。まずは安全な位置から確認するぞ」

 

「了解です」

 

「それと、砲撃が再開する可能性もある。全員、掩体壕の位置を忘れるなよ!」

 

「了解!」

 

フレデリカは、兵士たちに監視位置と連絡通路の点検を指示した。

 

機銃分隊も持ち場の監視を続けている。

 

そして、山田の前で足を止めた。

 

「山田!」

 

「はい、曹長!」

 

「砲撃が始まったら、すぐ掩体壕に入ったんだな?」

 

「はい!」

 

「よし。それでいい」

 

山田は少し驚いた。

 

フレデリカは続けた。

 

「敵が見えないときに、ぼさっと突っ立っている必要はない。生き残るための掩体壕だ。遠慮なく使え!」

 

「……はい!」

 

「分かったら、次もちゃんと逃げ込め! お前みたいな馬鹿でも、死なれたら困るんだ!」

 

「了解です、曹長!」

 

山田は嬉しそうに敬礼した。

 

しかし、その手はまだ少し震えていた。

 

フレデリカはそれを見て、今度は怒鳴らなかった。

 

「……永野!」

 

「はい!」

 

「山田を連れて反対斜面へ戻れ。少し休ませろ。宍戸にもあとで診せる」

 

「了解です、曹長」

 

「山田! お前は一旦休憩だ!」

 

「……はい」

 

山田は頭を下げた。

 

「ありがとうございます、曹長」

 

「……今回は礼を言ってもいい」

 

フレデリカはそう言って、稜線の状況確認へ戻っていった。

 

永野と山田は、反対斜面陣地へ続く連絡通路を歩いていた。

 

山田はまだ足に力が入りきらず、永野より少し遅れていた。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「僕、何もできませんでした」

 

「何もできなかった?」

 

「はい。ただ掩体壕に逃げ込んで、震えていただけです」

 

永野は少し考えてから答えた。

 

「それでいいんだよ」

 

「……え?」

 

「お前、ちゃんと掩体壕に逃げ込んだだろ」

 

「はい」

 

「それで生き残った。十分だよ」

 

山田は黙っていた。

 

「砲撃されてる最中に何かできると思うな。できることなんて、身を守るくらいしかないんだ」

 

「……そうですね」

 

「それに、今回お前が無事だったから、曹長も助かったんだぞ」

 

「曹長が?」

 

「そうだよ。部下が死んだり怪我したりしたら、あの人だって大変なんだから」

 

山田は少し考えた。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……そうですね」

 

永野は山田の肩を軽く叩いた。

 

「まずは生き残ることだ。ほかのことは、その後で考えろ」

 

「はい、先輩」

 

二人は歩き始めた。

 

昨日、何度も駆け上がった坂道だった。

 

しかし、今の山田には、その坂が昨日までとは違って見えていた。

 

あの厳しい展開訓練も、稜線のすぐ後ろに造られた小さな掩体壕も、すべて兵士たちを生き残らせるためのものだった。

 

山田はふと立ち止まり、稜線を振り返った。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「三上さんが守ってくれた気がする」

 

永野も足を止めた。

 

「……そうだな、あの掩体壕は犠牲の教訓だからな」

 

山田は黙って頷いた。

 

先月、あの稜線で三上鈴音が戦死した。

 

その後、監視所のすぐ後ろに頑丈な掩体壕が造られた。

 

そして今朝、その掩体壕が自分とメリーナの命を守ってくれた。

 

「……三上さん、ありがとう」

 

山田は小さく呟いた。

 

永野は何も言わず、山田の肩を軽く叩いた。

 

そのときだった。

 

――ドォン!

 

遠くで大きな砲声が響いた。

 

「うわっ!」

 

山田は反射的に身をかがめた。

 

「せ、先輩! また砲撃です!」

 

永野は足を止め、耳を澄ませた。

 

――ドォン! ドォン!

 

続けて砲声が響いた。

 

しかし、永野は慌てなかった。

 

「落ち着け、山田。今のは味方だ」

 

「……え?」

 

「後ろから聞こえるだろ。味方の砲兵が撃ってるんだよ」

 

山田は恐る恐る顔を上げた。

 

確かに、先ほどの砲撃とは違っていた。

 

砲声は連隊の後方から聞こえてくる。

 

地面を揺らすような低い音だったが、近くに砲弾が落ちてくる様子はない。

 

「……味方の砲兵ですか?」

 

「ああ。ベルノ連隊の百二十ミリ榴弾砲だろうな」

 

再び砲声が響いた。

 

――ドォン!

 

少し間を置いて、もう一発。

 

「撃ち返してるんですね」

 

「そうらしいな。どこを狙ってるのかまでは分からんけど」

 

永野は後方の森林に目を向けた。

 

ベルノ連隊の砲兵中隊は、八門の榴弾砲を二門ずつ四か所に分散配置している。

 

そのどこかから発射された砲弾が、今頃、魔族側へ飛んでいるのだろう。

 

「……先輩」

 

「なんだ?」

 

「水野先生も、あの砲兵中隊にいるんですよね」

 

「ああ、そうだな」

 

永野は頷いた。

 

「どの砲で働いてるのかは知らんけどな」

 

山田は後方から響く砲声を聞いていた。

 

つい先ほどまで、自分は狭い掩体壕の中で震えていた。

 

敵の姿も見えず、ただ砲撃が終わるのを祈るしかなかった。

 

だが、今は味方の砲兵が撃ち返している。

 

「……何だか、心強いですね」

 

永野は小さく笑った。

 

「そうだな。砲兵がいるってのは、ありがたいことだよ」

 

――ドォン!

 

また砲声が響いた。

 

山田は一瞬肩をすくめたが、今度は身を伏せなかった。

 

永野がその様子を見て言った。

 

「まあ、味方の砲声と敵の着弾音くらいは、早く聞き分けられるようになれよ」

 

「……はい」

 

「ただし、敵の砲撃が終わったとは限らんからな。また飛んできたら、すぐ退避しろ」

 

「了解です、先輩」

 

二人は再び歩き始めた。

 

後方からは、断続的に砲声が響いている。

 

山田はもう一度だけ稜線を振り返った。

 

三上鈴音が戦死した場所。

 

今朝、自分たちが砲撃を受けた場所。

 

そして、その犠牲を教訓に造られた掩体壕が、自分とメリーナの命を守ってくれた場所だった。

 

「……先輩」

 

「今度はなんだ?」

 

「戦場って、やっぱり怖いところですね」

 

「ああ」

 

永野は短く答えた。

 

「だから、俺たちは生き残ることを考えるんだ」

 

「……はい」

 

山田は真剣な顔で頷いた。

 

しばらく、二人は無言で歩いた。

 

やがて山田が、何かを決意したように口を開いた。

 

「……先輩」

 

「なんだよ、今度は」

 

「僕もいつ死ぬかわからないですよね」

 

「ああ。まあ、そうだな」

 

「やはり、思いを曹長に告白しようと思います」

 

永野は足を止めた。

 

「……は?」

 

「後悔したくありませんから!」

 

山田の表情は真剣そのものだった。

 

永野はしばらくその顔を見つめ、大きなため息をついた。

 

「……やめておけ。一生秘めた方が分隊の平和に貢献する」

 

「ええっ! どうしてですか!」

 

「どうしても何も、曹長の気持ちを考えろ!」

 

「でも先輩、明日死ぬかもしれないんですよ!」

 

「告白したら今日死ぬかもしれんぞ!」

 

山田は少し考えた。

 

そして、晴れやかな笑顔で答えた。

 

「曹長になら殺されても本望です。いや、むしろ究極のご褒美かもしれません」

 

永野は絶句した。

 

目の前の男は、ほんの少し前まで、砲撃の恐怖で膝を震わせていたのである。

 

ようやく実戦の恐ろしさを理解したと思ったのに。

 

「……おまえ、さっきまでの話は何だったんだ? 砲撃で頭がおかしくなったか?」

 

永野の怒声が、三上陣地の連絡通路に響き渡った。

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