フレデリカ曹長の憂鬱   作:バグスター

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帝国歴231年11月。ベルノ連隊駐屯地


新兵配属

ベルノ連隊第4歩兵中隊。

 

新兵教育を終えた山田直樹二等兵は、指定された兵舎の前に立っていた。

 

「はあ……とうとう来ちまったか」

 

高橋、井上、川崎とは別々の部隊になってしまった。

 

学校のクラス替えなら、休み時間に顔を合わせることもできる。だが、ここは軍隊だ。配属先が違えば、そう簡単には会えないらしい。

 

山田は眼鏡を直し、兵舎の扉を開けた。

 

身長は百七十センチほど。細身で、顔立ちも特に整っているわけではない。日本にいた頃なら、教室の隅でアニメの話をしている、どこにでもいる高校生だった。

 

それが今では、異世界の軍隊で二等兵である。

 

(異世界召喚って、もっとこう……夢と希望に満ちたものじゃなかったっけ?)

 

もっとも、正確には召喚ではなくコピーなのだが。

 

日本では、何も知らないもう一人の自分が、今日も学校に行っているはずである。

 

「おっ、新入り?」

 

突然、日本語で声をかけられた。

 

振り向くと、若い女性兵士が立っていた。

 

背中まで伸びた茶髪は緩いソバージュ。身長は百六十五センチほどで、軍服の上からでも分かるほどグラマーな体つきをしている。

 

顔には薄く化粧が施され、短く整えられた爪にはネイルまで塗ってあった。

 

(おおっ、ギャルだ! 異世界の軍隊にギャルがいる!)

 

「山田直樹二等兵です! 本日付で第4歩兵中隊に配属されました!」

 

「そんな固くならなくていいって。あたし、宍戸亜美。兵長ね。第16期だから、あんたの四つ先輩」

 

「あ、日本人なんですね!」

 

「そ。よろしくね、山田君」

 

宍戸は明るく笑った。

 

(宍戸亜美兵長。完全にギャル系だな。しかも、なかなかのナイスバディ。こういう人が軍隊にいるんだなあ……)

 

「ほら、こっち。分隊長に紹介するから」

 

宍戸に案内され、山田は兵舎の奥へ進んだ。

 

途中、寝台に腰掛けていた男性兵士が顔を上げた。

 

「お、新入りか?」

 

こちらも日本語だった。

 

「永野進。一等兵だ。第19期だから、お前の一年先輩だな」

 

「山田直樹です。よろしくお願いします!」

 

「おう。よろしくな」

 

永野は気さくに手を差し出した。

 

山田もその手を握る。

 

(永野進一等兵。日本人の先輩か。よかった。日本語で話せる人が二人もいる)

 

そのときだった。

 

「亜美、新兵は来たのか?」

 

奥から女性の声がした。

 

帝国共通語だった。

 

宍戸が振り向く。

 

「うん、フレっち。今、連れてきたよ」

 

そして山田の背中を軽く押した。

 

「ほら、山田君。分隊長だよ」

 

山田は顔を上げた。

 

そこに立っていたのは、小柄なエルフの女性だった。

 

身長は百五十センチほどだろうか。

 

明るい金髪に、澄んだ緑色の瞳。長く尖った耳が、彼女がエルフであることを示している。

 

小柄で華奢な体つき。整った顔立ちは、どこか人形のようにも見えた。

 

(…………え?)

 

山田は思わず固まった。

 

(何この子。めちゃくちゃ可愛いんですけど!)

 

その女性が山田を見上げ、何かを言った。

 

しかし、まだ帝国共通語に慣れていない山田には、ほとんど理解できなかった。

 

「山田君、挨拶」

 

宍戸に促され、山田は慌てて姿勢を正した。

 

「山田直樹二等兵です! よろしくお願いします!」

 

宍戸が帝国共通語で通訳した。

 

女性は小さく頷いた。

 

「フレデリカだ。この分隊の分隊長を務めている。階級は曹長だ」

 

宍戸が日本語に訳す。

 

「フレデリカ曹長だって。あたしは普段、フレっちって呼んでるけどね」

 

(曹長!?)

 

山田は目を丸くした。

 

(この子が曹長!? いやいや、どう見ても中学生くらいじゃん!)

 

エルフは人間とは年齢の重ね方が違うと習っていた。

 

それでも、目の前の女性が軍歴十二年のベテランだとは、とても思えなかった。

 

山田はつい、日本語で呟いてしまった。

 

「……可愛い」

 

「ん?」

 

宍戸が振り向いた。

 

フレデリカも何かを聞き取ったらしく、宍戸に尋ねた。

 

「今、何と言った?」

 

「えーっと……可愛い、って」

 

「可愛い?」

 

「うん。小さくて可愛いって意味」

 

山田は慌てた。

 

「ちょ、宍戸兵長! そこまで言ってません!」

 

しかし、もう遅かった。

 

フレデリカの眉がぴくりと動いた。

 

「亜美。私は子供扱いされているのか?」

 

「いや、まあ……そういう意味じゃないと思うけど」

 

「では、どういう意味だ?」

 

宍戸は困ったように山田を見た。

 

「山田君。説明してくれる?」

 

「えっ!? いや、その!」

 

山田は慌てて首を振った。

 

「そういう意味じゃなくて! ええと、美人というか、綺麗というか!」

 

宍戸が笑いをこらえながら通訳すると、フレデリカは不気味な笑顔で腕を組んだ。

 

「……新兵」

 

「は、はい!」

 

「私はお前の分隊長だ。覚えておけ」

 

宍戸が訳す。

 

山田は反射的に背筋を伸ばした。

 

「はいっ!」

 

フレデリカはさらに何かを言った。

 

宍戸が苦笑した。

 

「えーっとね。『次に私を子供扱いしたら、訓練でたっぷり可愛がってやる』だって」

 

(ひいいっ!)

 

山田は顔を引きつらせた。

 

(何この子! 可愛いけど怖い! めちゃくちゃ怖い!)

 

永野が後ろで笑っていた。

 

「お前、初日からやらかしたな」

 

「笑い事じゃないですよ!」

 

「まあ、頑張れ」

 

(何を頑張れって言うんだよ!)

 

フレデリカは山田の反応を見て、小さくため息をついた。

 

それから宍戸に何かを指示した。

 

「はいはい。じゃあ、残りの隊員も紹介するね」

 

宍戸は山田を連れて、隣に立っていた女性兵士たちの方へ向かった。

 

最初に声をかけてきたのは、エルフの女性だった。

 

「こんにちは!」

 

明るい声とともに、女性が笑顔を向けた。

 

少し赤みのある金髪を、顎の辺りで切り揃えている。身長は百六十センチに届かないくらい。細身で、いかにもエルフらしいすらりとした体つきだった。

 

宍戸が紹介する。

 

「こっちはリリア上等兵。エルフね」

 

「よろしくね、山田!」

 

リリアは山田の名前を聞くと、嬉しそうに繰り返した。

 

「ヤマダ! 覚えた!」

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

山田が頭を下げると、リリアは楽しそうに笑った。

 

そして、早口で何かを話し始めた。

 

「……え?」

 

山田にはほとんど聞き取れない。

 

宍戸が通訳した。

 

「『日本から来たんでしょう? 日本ってどんなところ?』だって」

 

「あ、はい! ええっと……」

 

「リリア、質問は後にして」

 

宍戸がそう言うと、リリアはあっさり頷いた。

 

「はーい!」

 

(リリア上等兵。元気系エルフって感じだな。明るくて話しやすそうだ)

 

山田は少し嬉しくなった。

 

(こういうエルフを待ってたんだよ! 異世界って感じがするじゃないか!)

 

そして、最後の一人に目を向けた。

 

黒髪の女性だった。

 

背中まで真っ直ぐ伸びた美しい黒髪。身長は百六十五センチほどで、体つきはごく普通。

 

しかし、立ち姿や物腰には、どこか上品な雰囲気があった。

 

女性は山田と目が合うと、静かに微笑んだ。

 

「初めまして。メリーナと申します。上等兵です。よろしくお願いいたします」

 

ゆっくりとした帝国共通語だった。

 

山田にも、挨拶だということは分かった。

 

「山田直樹です。よろしくお願いします!」

 

宍戸が紹介を補足する。

 

「メリーナ上等兵。こっちは人間ね。ベルノ領の出身だよ」

 

メリーナは穏やかに頷いた。

 

そして山田に、もう一度何かを尋ねた。

 

山田が困った顔をすると、すぐに宍戸が訳してくれた。

 

「『こちらの言葉は、まだ難しいですか?』だって」

 

「あ、はい。少しなら分かるんですけど」

 

宍戸が伝えると、メリーナは優しく微笑んだ。

 

「でしたら、ゆっくりお話ししますね。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」

 

(おお……)

 

山田は思わず感心した。

 

(メリーナ上等兵。これは完全にお嬢様キャラだな)

 

華やかな宍戸、元気いっぱいのリリアとは、ずいぶん雰囲気が違う。

 

落ち着いた話し方に、控えめな笑顔。

 

(育ちのいいお嬢様って感じだ。なんで軍隊にいるんだろう?)

 

もっとも、ここには本物の貴族もいると聞いている。

 

彼女もそういう家の出身なのだろうか。

 

だが、今の山田には分からない。

 

メリーナは相変わらず、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 

* * *

 

こうして山田直樹二等兵は、フレデリカ分隊の一員となった。

 

分隊長のフレデリカ曹長。

 

小柄で可愛らしいエルフ。だが、とんでもなく怖い。

 

衛生兵の宍戸亜美兵長。

 

見た目はギャルそのもの。明るく、面倒見がよさそうだ。

 

先輩の永野進一等兵。

 

気さくな日本人。ただし、あまり頼りすぎると危険な気もする。

 

リリア上等兵。

 

元気いっぱいのエルフ。今のところ一番話しやすそうである。

 

そして、メリーナ上等兵。

 

上品で物静かな、お嬢様のような女性。

 

(うーん……)

 

山田は改めて分隊員たちを眺めた。

 

(女の人が四人もいる。しかもエルフが二人!)

 

山田の胸に、期待が膨らんできた。

 

(これって、なんか勇者パーティみたいじゃないか!?)

 

面倒見のいい宍戸兵長。気さくな先輩の永野一等兵。明るく元気なエルフのリリア上等兵。そして、清楚なお嬢様のようなメリーナ上等兵。

 

(いいじゃん、いいじゃん! なんだか異世界っぽくなってきたぞ!)

 

そして、そんな分隊を率いるのが、金髪で緑の瞳を持つ小柄なエルフ、フレデリカ曹長である。

 

先ほどは恐ろしい顔で睨みつけられたが、容姿だけを見れば、とんでもなく可愛らしい。

 

むしろ、山田にとっては理想そのものだった。

 

(いや、もう完全に俺好みじゃないか! どストライクだよ!)

 

小柄な体、整った顔立ち、長い耳。

 

アニメの中から飛び出してきたような美少女エルフが、自分の分隊長なのである。

 

(これで性格がもう少し優しかったら、最高なんだけどなあ……)

 

もっとも、先ほどの不気味な笑顔を思い出すと、少し背筋が寒くなった。

 

だが、それを差し引いても、この分隊は魅力的だった。

 

(もしかして俺、結構いいところに配属されたんじゃないか?)

 

日本にいた頃、こんな環境で異世界生活を送れると聞かされたら、間違いなく大喜びしていただろう。

 

山田はこれから始まる分隊生活に、希望を膨らませていた。

 

そのときだった。

 

フレデリカが山田に声をかけた。

 

山田は何を言われたのか分からず、宍戸を見た。

 

「訓練場に集合だって。装備を持って、すぐに準備してね」

 

「は、はい!」

 

慌てて荷物を取りに走る山田を見て、永野が笑った。

 

「おーい、山田。そんなに急がなくても大丈夫だぞ」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

「いや、遅れると曹長が怖いけどな」

 

「どっちなんですか!」

 

永野の笑い声が兵舎に響いた。

 

(……まあ、ちょっと怖いけど、きっと楽しい異世界生活になるはずだ!)

 

山田はそう信じながら、初めての分隊訓練へと向かった。

 

* * *

 

ベルノ連隊、第4歩兵中隊訓練場。

 

「全員、装備を持って集合!」

 

フレデリカ曹長の号令で、分隊員たちが訓練場に集まった。

 

山田も支給された小銃を肩に担ぎ、永野の隣に並ぶ。

 

(いよいよ本格的な訓練か……)

 

新兵教育でも散々訓練を受けてきたが、今度は正式な部隊である。

 

山田は周囲の兵士たちを見回した。

 

そこで、あることに気がついた。

 

(あれ?)

 

フレデリカの持っている小銃が、妙に短い。

 

山田に支給されたG11小銃と比べると、明らかに銃身が短かった。

 

「永野さん、あれ、何ですか?」

 

山田が小声で尋ねる。

 

「ああ、曹長の銃か? G11B騎兵銃だよ」

 

「騎兵銃?」

 

「G11を短くしたやつだ。曹長は小柄だからな。体格に合わせてるんだろ」

 

「へえ……」

 

(なるほど。あの体じゃ、普通の小銃は長すぎるのか)

 

山田は改めてフレデリカを見た。

 

小柄な体に短い小銃。

 

(なんか、ますます可愛いな……)

 

その瞬間、フレデリカと目が合った。

 

「山田! 何を見ている!」

 

「い、いえ! 何でもありません!」

 

慌てて姿勢を正す。

 

(怖っ! 目ざといな、この人!)

 

「何やってんの、山田君」

 

隣から宍戸が声をかけてきた。

 

ふと見ると、宍戸もフレデリカと同じ短い小銃を持っていた。

 

「あれ? 宍戸兵長も同じ銃なんですね」

 

「そうだよ。私は衛生兵だからね」

 

「衛生兵だと短い銃なんですか?」

 

「負傷者を運んだり、治療したりするからね。長い銃だと邪魔になることがあるのよ」

 

「ああ、なるほど」

 

(確かに、怪我人を担いだりするなら、短い方が便利そうだ)

 

山田は納得した。

 

今度はリリアの装備が目に入った。

 

リリアが持っているのは普通のG11小銃だったが、銃の上に何やら筒状のものが取り付けられていた。

 

(あれって……)

 

「永野さん、リリア上等兵の銃、スコープが付いてますよね?」

 

「ああ。リリアは狙撃手だからな」

 

「えっ、狙撃手なんですか!」

 

「そうだよ」

 

会話が聞こえたのか、リリアが笑顔で振り向いた。

 

自分の小銃を軽く持ち上げ、スコープを指さす。

 

そして帝国共通語で何かを話した。

 

山田は困った顔で永野を見る。

 

「何て言ったんですか?」

 

「遠くの的を撃つのが得意だってさ」

 

「へえ!」

 

(おおっ! エルフの狙撃手! いかにもファンタジー世界って感じじゃないか!)

 

山田の頭の中では、弓を構えるエルフの美少女が浮かんでいた。

 

もっとも、目の前のリリアが持っているのは弓ではなく小銃なのだが。

 

(弓じゃなくてスコープ付きのライフルか。これはこれで格好いいな!)

 

メリーナは山田や永野と同じ、普通のG11小銃を持っていた。

 

穏やかな表情で、静かに立っている。

 

(メリーナ上等兵は普通の歩兵なのかな?)

 

見た目はどうにも軍人らしくない。

 

黒髪の清楚なお嬢様が、小銃を持って訓練場に立っている。

 

(うーん。なんか不思議な光景だな)

 

そんなことを考えていると、フレデリカが再び号令をかけた。

 

「整列!」

 

全員が素早く並んだ。

 

山田も慌てて姿勢を正す。

 

フレデリカは一人ずつ装備を確認していった。

 

そして山田の前で足を止めた。

 

小柄な分隊長が、じっと山田を見上げる。

 

「山田」

 

「は、はい!」

 

「ここからは新兵教育ではない。お前も正式な連隊の兵士だ。いいな?」

 

宍戸が横から小声で通訳してくれた。

 

「はい! 分かりました!」

 

フレデリカは満足そうに頷いた。

 

「よし。では訓練を始める!」

 

* * *

 

訓練場には、第4歩兵中隊の兵士たちが続々と集まっていた。

 

この日の訓練は小隊単位で行われるらしい。

 

各分隊が整列し、小隊長の号令を待っていた。

 

「今日は行進訓練だってさ」

 

隣に立つ永野が小声で教えてくれた。

 

「行進ですか?」

 

「そう。装備を全部持ってな」

 

山田は自分の背嚢を見た。

 

小銃、弾薬盒、水筒、雑嚢、背嚢。新兵教育でも慣れ親しんだ装備である。

 

(なんだ、行進か。新兵教育でも散々やったし、これなら何とかなるだろ)

 

そう思ったのが間違いだった。

 

小隊長の号令が響き、隊列が動き始めた。

 

最初は訓練場の周囲を歩くだけだった。

 

しかし、しばらくすると小隊長から次々に号令が飛ぶ。

 

「右へ!」

 

「左へ!」

 

「縦隊、組み直せ!」

 

小隊全体が向きを変え、隊列を組み替えていく。

 

新兵教育では何度も練習した動きだったが、今度は古参兵たちと一緒である。

 

しかも、歩く速度が速い。

 

山田は前を歩く兵士の背中を追いかけた。

 

(ちょっと待て! 速くないか!?)

 

曲がるときに少し遅れ、前の兵士との間隔が開いた。

 

その瞬間だった。

 

「山田ぁっ!!」

 

甲高い怒鳴り声が響いた。

 

フレデリカだった。

 

「何をやっている! 間隔を開けるな! 前を見ろ!」

 

山田は慌てて歩調を速めた。

 

「は、はいっ!」

 

「返事だけは立派だな! 足を動かせ、足を!」

 

(ひいいっ!)

 

小柄な体のどこから出てくるのかと思うほど、よく通る声だった。

 

山田の横を歩く永野が、ちらりとこちらを見る。

 

口元が笑っていた。

 

(永野さん! 笑ってないで助けてくださいよ!)

 

もちろん、声には出せない。

 

その後も訓練は続いた。

 

隊列が乱れるたびに、各分隊長から怒声が飛ぶ。

 

なかでもフレデリカの声は、ひときわ鋭かった。

 

「永野! 隣との間隔を合わせろ!」

 

「はい!」

 

「山田! 下を向くな! 前を見ろ!」

 

「はいっ!」

 

「そこ! 歩調が合っていない!」

 

どうやら最後の怒鳴り声は、別の兵士に向けられたらしい。

 

(うわあ……俺だけじゃないのか)

 

山田は少し安心した。

 

だが、その安心も長くは続かなかった。

 

「山田! 余所見をするな!」

 

「は、はいっ!」

 

(なんで分かるんだよ!)

 

午前中いっぱい、行進は続いた。

 

休憩を挟んで、午後もまた行進だった。

 

今度は訓練場を出て、駐屯地の外周路を進む。

 

整備された道ばかりではない。坂道もあれば、足元の悪い場所もあった。

 

それでも小隊は一定の速度を保って進んでいく。

 

(これ、いつまで続くんだ……)

 

昼食を終えたばかりの山田には、背嚢がひどく重く感じられた。

 

前を歩くメリーナは、まったく疲れた様子を見せていない。

 

背筋を伸ばし、淡々と歩いている。

 

(メリーナ上等兵、すごいな。あんなに上品そうなのに、体力あるんだ)

 

その隣では、リリアが軽快な足取りで歩いていた。

 

スコープ付きのG11小銃を肩に掛け、時折楽しそうに周囲を眺めている。

 

(エルフって、やっぱり体力あるのかな?)

 

そう考えながら足を運んでいると、前の兵士との間隔がまた開いた。

 

「山田ぁっ!!」

 

「はいぃっ!」

 

「何度言わせる! 前との間隔を保て!」

 

「はいっ!」

 

「口だけ動かすな! 足を動かせ!」

 

(怖い! 怖い! 怖い!)

 

山田は必死に歩調を合わせた。

 

隣の永野が小声で言った。

 

「お前、目をつけられたな」

 

「勘弁してくださいよ……」

 

「喋るなぁっ!!」

 

今度は二人まとめて怒鳴られた。

 

「「はいっ!!」」

 

フレデリカは不機嫌そうに二人を睨んだ。

 

「新兵も古参兵も関係ない! 隊列を乱す者は容赦しないからな!」

 

山田は思った。

 

(可愛い顔して、鬼だ。この人、絶対に鬼だ!)

 

* * *

 

夕方。

 

ようやく小隊が訓練場へ戻ってきた。

 

山田の足は棒のようになっていた。

 

(終わった……やっと終わった……)

 

新兵教育でも行軍訓練は経験していた。

 

だが、今日の訓練は少し違った。

 

ただ歩くだけではない。隊列を乱さず、号令に即座に反応し、隣や前の兵士との位置を常に合わせなければならない。

 

しかも、少しでも間違えるとフレデリカの罵声が飛んでくる。

 

肉体的な疲労より、精神的な疲労の方が大きい気さえした。

 

「全員、整列!」

 

フレデリカの号令で分隊が並ぶ。

 

山田は最後の力を振り絞って姿勢を正した。

 

フレデリカは一人ずつ顔を見回し、最後に山田の前で足を止めた。

 

「山田」

 

「はいっ!」

 

「明日からも同じように訓練する。今日のような無様な行進はするなよ」

 

「は、はいっ!」

 

山田には言葉のすべては理解できなかったが、褒められていないことだけは確かだった。

 

隣で宍戸が小さく笑っている。

 

「山田君、明日は頑張ろうね」

 

「……はい」

 

(明日もこれかよ……)

 

* * *

 

夕方、訓練を終えた山田たちは、兵舎のシャワー室へ向かった。

 

シャワーは分隊ごとに使用する決まりだった。

 

新兵教育のときも男女共用のシャワー室だったが、あちらは広かった。特に日本人の新兵たちは、最初の頃、男女でなるべく離れたり、時間をずらしたりしていた。

 

だが、配属先のシャワー室は狭かった。

 

仕切りもなく、六人が並べばそれなりに窮屈である。

 

「えっ……ここ、全員一緒なんですか?」

 

山田が小声で永野に尋ねた。

 

「そうだぞ。分隊ごとだからな」

 

「いや、だって、女性も……」

 

「今さら何言ってんだ。新兵教育でも一緒だったろ」

 

「そうですけど!」

 

永野はさっさと着替え始めた。

 

「ほら、早くしろ。後がつかえてるぞ」

 

山田は仕方なく準備を済ませ、シャワー室に入った。

 

女性陣はすでに体を洗い始めていた。

 

宍戸もリリアも、まるで気にする様子がない。

 

フレデリカに至っては、黙々と髪を洗っている。

 

(うわあ……どうすりゃいいんだ、これ)

 

山田は壁の方を向いた。

 

なるべく誰も見ないようにして、シャワーを浴び始める。

 

「山田君、そんな端っこで何してんの?」

 

宍戸が声をかけてきた。

 

「い、いえ! 別に!」

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん」

 

「いや、普通は恥ずかしいですよ!」

 

宍戸は笑った。

 

「そのうち慣れるって。あたしたちなんか、もう何とも思わないし」

 

(それは宍戸兵長たちが慣れてるからでしょう!)

 

山田は心の中で叫んだ。

 

その様子を、リリアが面白そうに眺めていた。

 

山田は気づかないふりをして、壁に向かったまま体を洗い続けた。

 

そのときだった。

 

「山田さん」

 

穏やかな声がした。

 

メリーナだった。

 

山田が恐る恐る顔を向けると、彼女はいつもと変わらない上品な笑顔を浮かべていた。

 

何かをゆっくりと話しかけてくる。

 

宍戸が訳した。

 

「『そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ』だって」

 

「……はい?」

 

山田は固まった。

 

メリーナは優しく微笑んでいる。

 

まったく悪気のない、穏やかな表情だった。

 

(いや、そういう問題じゃないんですけど!)

 

しかし、何と答えればいいのか分からない。

 

(……この人、本当にお嬢様なのか?)

 

山田には、ますます分からなくなってきた。

 

そのとき、シャワー室に鋭い声が響いた。

 

「山田! いつまでそうしている! 早く洗え!」

 

フレデリカだった。

 

「は、はいっ!」

 

山田は反射的に直立した。

 

その様子を見て、宍戸が吹き出した。

 

「山田君、シャワー室で気をつけしなくていいから!」

 

永野まで笑っている。

 

「お前、初日から大変だな」

 

(誰のせいだと思ってるんだよ!)

 

山田は再び壁に向き直った。

 

少し離れたところでは、リリアがくすくす笑っていた。

 

フレデリカはそんな分隊員たちを見回し、大きくため息をついた。

 

「まったく……」

 

山田はシャワーの湯を頭から浴びながら思った。

 

(異世界のエルフって、もっとこう……神秘的で、清楚で、慎ましやかな存在じゃなかったのか?)

 

少なくとも、リリアは違う。

 

そしてメリーナも、よく分からない。

 

唯一はっきりしているのは、フレデリカ曹長が恐ろしく怖いということだった。

 

* * *

 

シャワーを終えた山田たちは、兵舎に戻って着替えを済ませた。

 

一日中歩き回ったせいで、山田の足はまだ重かった。

 

(ああ、疲れた……。今日はもう何もしたくない)

 

寝台に腰を下ろそうとしたところで、フレデリカが宍戸に声をかけた。

 

「亜美、私はこれで帰る。山田の面倒を頼むぞ」

 

「うん、フレっち。任せて!」

 

「明日の集合時間も教えておけ。遅刻などさせるなよ」

 

「分かってるって」

 

フレデリカは山田をちらりと見た。

 

「山田! 明日も今日と同じだ。しっかり休んでおけ!」

 

「は、はいっ!」

 

山田の返事を聞くと、フレデリカは満足そうに頷き、兵舎を出ていった。

 

山田はその背中を見送った。

 

(……あれ?)

 

「永野さん、フレデリカ曹長、どこに行くんですか?」

 

「ああ、家に帰るんだよ」

 

「家? 自宅ですか?」

 

「そうだよ」

 

「えっ、軍人って兵舎で生活するんじゃないんですか?」

 

永野は笑った。

 

「全員じゃないんだ。上等兵以上なら自宅から通ってもいいんだよ。一等兵でも二年以上勤務していれば許可される」

 

「へえ! そうなんですか!」

 

「曹長はベテランだからな。毎日自宅から通ってるよ」

 

山田は少し驚いた。

 

(そういえば、フレデリカ曹長って軍歴十二年なんだっけ。見た目はあんなに小さいのに……)

 

「じゃあ、リリア上等兵やメリーナ上等兵も自宅から通えるんですか?」

 

「もちろん。だけど、二人とも兵舎暮らしだよ」

 

「なんでですか?」

 

「そりゃ、お前。兵舎にいれば寝るところもあるし、飯もただだからな」

 

「……ああ!」

 

「自宅暮らしだと家賃も食費もかかるだろ? 兵舎にいれば給料をほとんど使わずに済む。そっちの方が金が貯まるんだよ」

 

「なるほど!」

 

山田は感心した。

 

(確かにそうだ。家賃も食費もただなら、かなり貯金できるじゃないか)

 

永野はさらに続けた。

 

「だから、資格があっても兵舎に住んでる兵隊は多いぞ。俺も自宅通いができるようになっても、しばらくは兵舎暮らしかな」

 

「永野さんは、まだ駄目なんですか?」

 

「俺は第19期だから、まだ二年経ってないんだよ。もう少しだな」

 

「なるほど……」

 

山田は兵舎の中を見回した。

 

寝台が並び、各自の荷物が置かれている。

 

決して快適な住まいとは言えないが、寝る場所はある。食事も支給される。

 

(異世界の軍隊って、意外と福利厚生がしっかりしてるんだな)

 

もっとも、その代わりに毎日あの行進訓練があるのだが。

 

山田がそんなことを考えていると、永野が立ち上がった。

 

「さて、飯にいこうぜ」

 

「はい!」

 

山田も立ち上がった。

 

(そういえば腹減ったな。あれだけ歩いたんだから当然か)

 

山田は永野の後について、兵舎を出た。

 

* * *

 

夕食を終えた山田たちは、兵舎へ戻ってきた。

 

しばらくすると、夜の点呼が始まった。

 

分隊員たちは兵舎の前に整列し、上官による人員確認を受けた。

 

山田も背筋を伸ばして返事をする。

 

(やっと一日が終わる……)

 

朝からひたすら行進。フレデリカ曹長には何度も怒鳴られ、シャワー室でも散々恥ずかしい思いをした。

 

(異世界生活って、こんなに疲れるものだったのか……)

 

点呼が終わり、兵舎に戻る。

 

山田は早速、寝台に腰を下ろした。

 

そのとき、メリーナが宍戸に声をかけた。

 

「亜美兵長、行ってきますね」

 

「あれ、メリーナ。今日も?」

 

「はい。今日もです」

 

メリーナはいつもの穏やかな笑顔で答えた。

 

宍戸は少し呆れたように笑った。

 

「はいはい。気をつけてね」

 

「ありがとうございます」

 

メリーナは小さな鞄を手に取った。

 

その隣では、リリアも外出の準備をしていた。

 

「じゃあ、行ってきまーす!」

 

リリアが元気よく手を振る。

 

「気をつけてねー」

 

宍戸が答えると、二人は連れ立って兵舎を出ていった。

 

山田は不思議そうにその背中を見送った。

 

(あれ? もう夜なのに、どこへ行くんだ?)

 

「宍戸兵長、あの二人、どこに行くんでしょう?」

 

「ああ、そっか。二等兵には言っとかないと駄目か」

 

宍戸は山田に向き直った。

 

「メリーナは彼氏のところだよ」

 

「えっ!?」

 

山田は思わず声を上げた。

 

「彼氏!?」

 

「そう。彼氏」

 

「へえ……そうなんですか」

 

(メリーナ上等兵、彼氏がいるんだ……)

 

黒髪で上品な物腰の、お嬢様のような女性。

 

なるほど、あの美人なら恋人がいても不思議ではない。

 

「それって、毎日なんですか?」

 

「山田君」

 

宍戸の声が少し低くなった。

 

「詮索はなし!」

 

「は、はい!」

 

「そういうのは本人の自由だからね。余計なこと聞いちゃ駄目だよ」

 

「分かりました!」

 

宍戸はいつもの笑顔に戻った。

 

「まあ、あんたもそのうち分かるって」

 

(何が分かるんだろう……)

 

山田にはよく分からなかった。

 

ただ、メリーナが恋人のところへ出かけたということだけは理解した。

 

(そういえば、リリア上等兵も一緒に出ていったな。あっちも彼氏なのかな?)

 

聞いてみようかと思ったが、宍戸の「詮索はなし!」という言葉を思い出してやめた。

 

やがて消灯時間になった。

 

兵舎の明かりが落とされ、部屋は薄暗くなった。

 

山田は寝台に潜り込んだ。

 

全身が重い。

 

(ああ……やっと寝られる)

 

隣の寝台から永野の声がした。

 

「山田、初日はどうだった?」

 

「最悪ですよ……」

 

「ははは。まあ、最初はそんなもんだ」

 

「明日も行進なんですかね?」

 

「さあな。曹長次第じゃないか?」

 

(うわあ……)

 

山田は天井を見上げた。

 

フレデリカ曹長。

 

あの小柄で可愛らしいエルフが、今日一日で最も恐ろしい存在になってしまった。

 

一方、宍戸兵長は気さくで面倒見がいい。

 

リリア上等兵は明るく、少々人をからかうのが好きらしい。

 

そしてメリーナ上等兵。

 

(優しい人なんだろうけど……まだよく分からないな)

 

初めての正式配属。

 

分隊の仲間たちとは、まだ出会ったばかりだった。

 

「おやすみなさい、永野さん」

 

「おう。おやすみ」

 

山田は目を閉じた。

 

(明日は怒鳴られないようにしよう……)

 

そう決意した数分後、山田直樹二等兵は深い眠りに落ちていた。

 

* * *

 

配属されてから、初めての休日がやってきた。

 

分隊の仲間たちは、それぞれ外出していった。

 

しかし、二等兵の山田には、まだ外出許可がなかった。

 

(せっかくの休みなのに、どこにも行けないのかよ……)

 

もっとも、外出できたとしても、遊びに行く元気があったかどうかは怪しい。

 

この一週間、毎日のようにフレデリカ曹長の罵声を浴び続けていた。

 

「山田! 何度言ったら分かる!」

 

「そんな無様な動きで戦場に出るつもりか!」

 

あまりに動きが悪いと、容赦なく蹴りまで飛んできた。

 

(あの小さい体のどこに、あんな力があるんだよ……)

 

山田は寝台に横たわり、天井を見上げた。

 

体のあちこちが痛い。

 

新兵教育も厳しかったが、正式配属後の訓練はさらに厳しかった。

 

しかも、あの可愛らしいエルフの曹長が、毎日鬼のように怒鳴り散らしているのだ。

 

(異世界に召喚されて、美少女エルフと同じ分隊になったと思ったら、毎日怒鳴られて蹴られる生活かよ……)

 

山田は寝返りを打った。

 

(とんでもないところに配属されちまったな、俺……)

 

そう思いながら、再び目を閉じた。

 

結局、その休日はほとんど一日中、寝台の上で過ごすことになった。

 

* * *

 

翌朝。

 

一日休んだおかげか、山田の体はかなり楽になっていた。

 

(いやあ、やっぱり休みって大事だな。昨日は一日寝てたからなあ)

 

朝食を済ませ、いつものように装備を整えていると、フレデリカが山田を呼んだ。

 

「山田! ちょっと来い!」

 

「はいっ!」

 

山田が駆け寄ると、フレデリカは宍戸に何かを話し始めた。

 

「山田君、今日は午前中、補習だって」

 

「補習?」

 

フレデリカは腕を組み、山田を見上げた。

 

「これまでお前を見てきたが、帝国共通語はもう少し覚えた方がいい。命令が理解できないまま戦場に行けば、確実に死ぬぞ」

 

宍戸が通訳する。

 

「……はい」

 

山田は思わず真顔になった。

 

確かに、フレデリカの号令も、宍戸や永野が通訳してくれなければ理解できないことが多い。

 

「午前中は語学補習だ。午後から訓練に合流しろ」

 

「はい!」

 

宍戸が訳すと、フレデリカは満足そうに頷いた。

 

「それとね、山田君」

 

宍戸が続けた。

 

「今回の補習は第20期だけじゃないんだって。日本人兵士の中には、何年もこっちにいるのに帝国共通語が苦手な人もいるらしくてね」

 

「へえ、そうなんですか」

 

「そういう人たちを心配して、高梨伍長が講義を開いてくれるんだって」

 

「高梨伍長!?」

 

山田の顔が明るくなった。

 

高梨梓伍長。

 

第20期の新兵教育で、帝国共通語を教えてくれた日本人の女性教官である。

 

「高梨伍長なら知ってます! 新兵教育でお世話になりました!」

 

「そうでしょ。だから、しっかり勉強してきなさい」

 

「はい!」

 

「ただし、やる気のない人は、その場で元の部隊に戻されるそうだからね」

 

「えっ?」

 

「せっかくの補習だから、真面目に受けなさいってこと」

 

山田は頷いた。

 

(なるほど。まあ、高梨伍長なら安心だな)

 

フレデリカのように怒鳴られることもなさそうだ。

 

そう考えたところで、フレデリカが再び口を開いた。

 

「山田!」

 

「はいっ!」

 

「語学補習だからといって、遊びに行くわけじゃないぞ。しっかり覚えてこい!」

 

宍戸が通訳する。

 

「は、はい! 頑張ります!」

 

フレデリカはそれを聞くと、ようやく山田から離れた。

 

「亜美、残りの者を集合させろ!」

 

「了解、フレっち!」

 

宍戸は山田に向き直った。

 

「じゃあ、山田君。午後から合流ね」

 

「はい! 行ってきます!」

 

山田は敬礼し、兵舎を出た。

 

(いやあ、今日は午前中、あの鬼曹長から解放されるのか!)

 

思わず足取りが軽くなる。

 

(それにしても、語学ができないと戦場で死ぬ、か……)

 

山田は歩きながら、フレデリカの言葉を思い出した。

 

これまで、号令が分からなければ誰かが教えてくれた。

 

しかし、戦場でもそうしてもらえるとは限らない。

 

(確かに、撃ち合いの最中に通訳してもらうわけにはいかないよな……)

 

そう考えると、今回の補習はありがたかった。

 

(よし。ちゃんと勉強しよう)

 

山田は新兵教育以来となる、高梨伍長の講義へ向かった。

 

* * *

 

語学補習が始まってから、山田の生活は少し楽になった。

 

午前中は高梨伍長の講義を受け、午後から分隊の訓練に合流する。

 

訓練が半日になったおかげで、体力にも余裕ができていた。

 

(いやあ、勉強って素晴らしいな。少なくとも蹴られることはないし)

 

そんなことを考えながら、その日も分隊の仲間たちとシャワー室へ向かった。

 

相変わらず狭いシャワー室だった。

 

山田も少しは慣れてきたつもりだったが、女性陣が平然と体を洗っている光景には、まだ目のやり場に困ってしまう。

 

しかも今日は、訓練が半日だったせいか、妙に元気が余っている。

 

(まずい……これはまずい!)

 

山田は慌てて前かがみになった。

 

その様子を、少し離れたところで体を洗っていたリリアが見つけた。

 

「ふふっ……」

 

リリアは山田を見て、楽しそうに笑っている。

 

(リリア上等兵! 笑わないでくださいよ!)

 

しかし、声には出せない。

 

そのときだった。

 

「山田さん、大丈夫ですか?」

 

メリーナだった。

 

山田が顔を上げると、すぐ目の前にメリーナが立っていた。

 

「うわっ!」

 

慌てて顔を背ける。

 

しかし、一瞬目に入った光景が頭から離れない。

 

(うわああ! 駄目だ! ますます収まらない!)

 

メリーナは心配そうに山田を見つめた。

 

そして、穏やかな声で何かを言った。

 

「えっと……宍戸兵長、何て言ったんですか?」

 

宍戸は笑いをこらえながら答えた。

 

「『山田さん、若いんだから仕方ないですよ』だって」

 

「いや、そういう問題じゃ……!」

 

メリーナは相変わらず優しく微笑んでいる。

 

(この人、分かって言ってるのか!?)

 

少し離れたところでは、リリアが口元を押さえて笑っていた。

 

そこへ、フレデリカの鋭い声が飛んだ。

 

「山田! いつまでそうしている!」

 

「は、はいっ!」

 

フレデリカは呆れたように山田を見た。

 

「お前の粗末なものを見ても、誰も気にせん! 時間を守れ!」

 

宍戸が笑いながら通訳した。

 

「フレっちがね、誰も気にしないから早く洗えって」

 

「いや、今、もっとひどいこと言ってませんでした!?」

 

「気のせい、気のせい!」

 

山田は助けを求めるように永野を見た。

 

「永野さん……」

 

永野は肩をすくめた。

 

「あきらめろ」

 

「ええっ!?」

 

「そのうち慣れる」

 

(絶対に慣れないと思います!)

 

しかし、これ以上騒げば、またフレデリカに怒鳴られる。

 

山田は観念した。

 

妙な体の反応はまだ収まっていなかったが、もう気にせず体を洗うことにした。

 

そのときだった。

 

「あら、ちょっと小さいですね」

 

メリーナが、いつもの上品な口調で何かを呟いた。

 

宍戸は一瞬メリーナを見て、それから何事もなかったかのように自分の髪を洗い始めた。

 

山田は首を傾げた。

 

(あれ? 今、何て言ったんだ?)

 

帝国共通語はまだ十分に理解できない。

 

しかし、一つだけ聞き覚えのある単語があった。

 

(……小さい?)

 

山田は恐る恐るメリーナを見た。

 

メリーナはにっこりと微笑んだ。

 

(えっ? 何が!? 何が小さいんですか!?)

 

宍戸は振り向かなかった。

 

ただ、その肩が小刻みに震えていた。

 

(宍戸兵長! 絶対に何か隠してるでしょう!)

 

山田直樹二等兵は、この日、帝国共通語をもっと真剣に勉強しようと心に誓った。

 

* * *

 

翌日の語学補習。

 

山田は珍しく、授業が始まる前から教科書を開いていた。

 

「高梨伍長、ちょっと質問してもいいですか?」

 

「あら、山田君。どうしたの?」

 

「帝国共通語で『小さい』って、ほかに意味がありますか?」

 

「小さい? そうねえ。程度が低いとか、些細な、といった意味でも使うけど」

 

「……褒め言葉にはなりませんか?」

 

「普通はならないわね」

 

「…………」

 

山田は黙り込んだ。

 

「山田君?」

 

「いえ、何でもありません……」

 

高梨は不思議そうな顔をした。

 

「どうしたの? 誰かに何か言われた?」

 

「いや、その……一般的な語学の質問です!」

 

「そう。じゃあ、どんな場面で使われたの?」

 

「それが分からないから聞いてるんです!」

 

「……山田君、何かあったの?」

 

「何もありません!」

 

高梨はしばらく山田を眺めていたが、やがて笑った。

 

「まあ、言葉は前後の文脈が大切だからね。単語だけ覚えても、誤解することがあるわよ」

 

「はい……」

 

(やっぱり、あれは悪口だったのか!?)

 

山田はメリーナの穏やかな笑顔を思い出した。

 

(いや、でも、あの人がそんなこと言うはず……)

 

考えれば考えるほど、分からなくなった。

 

結局、その日の山田は、軍事用語よりも形容詞の勉強に熱中することになった。

 

* * *

 

それからというもの、山田は帝国共通語の勉強に真剣に取り組むようになった。

 

午前中は高梨伍長の語学補習、午後は分隊での訓練。

 

兵舎に戻ってからも、習った単語や文法を復習した。

 

「山田君、最近ずいぶん熱心ね」

 

ある日の講義が終わった後、高梨が声をかけてきた。

 

「はい! やっぱり言葉って大事だなと思いまして!」

 

「そうね。最初からそのくらい頑張ってくれたら、もっとよかったんだけど」

 

「うっ……」

 

高梨は笑った。

 

「でも、ずいぶん上達したわよ。フレデリカ曹長の命令も、だいぶ分かるようになったんじゃない?」

 

「はい! 怒鳴られている内容が分かるようになりました!」

 

「……それはよかったわね」

 

高梨は苦笑した。

 

実際、山田の帝国共通語は目に見えて上達していた。

 

分隊員との会話も、簡単な内容なら通訳なしで理解できるようになってきた。

 

山田は、召喚されたばかりの自分を呪いたくなった。

 

(くそっ! 最初から真面目に勉強しておけばよかった!)

 

異世界に召喚され、魔法やエルフの存在に浮かれ、語学の勉強をどこか軽く考えていた。

 

だが、今なら分かる。

 

言葉が通じなければ、せっかく異世界に来た意味がないではないか。

 

(考えてみろよ! 本物のエルフと普通に話ができるんだぞ! しかも、同じ分隊に二人もいる!)

 

リリアともっと話してみたい。

 

メリーナとも、宍戸の通訳なしで会話してみたい。

 

そして何より、帝都にはどんな店があるのか、どんな文化があるのか。知りたいことはいくらでもあった。

 

(言葉さえ分かれば、もっと異世界を堪能できるじゃないか!)

 

軍務上の必要性よりも、そちらの方が山田にとっては大きな動機になっていた。

 

もちろん、フレデリカから怒鳴られている内容も、以前よりはっきり理解できるようになった。

 

そして山田は、あることに気が付いた。

 

(……あれ? 俺、今までかなりひどいこと言われてたんじゃないか?)

 

どうやら、言葉が分からなかった頃の方が幸せだったらしい。

 

* * *

 

十一月も半ばを過ぎたある日の夕方。

 

語学補習を終え、午後の訓練にも参加した山田は、兵舎へ戻る途中だった。

 

(ああ、今日も疲れた……)

 

それでも、配属されたばかりの頃に比べれば、随分と体が慣れてきた。

 

帝国共通語も少しずつ分かるようになり、分隊員たちとの会話も増えていた。

 

何より、フレデリカの命令を通訳なしで理解できることが多くなっていた。

 

もっとも、怒鳴られている内容まで分かるようになったのは、必ずしも喜ばしいことではなかったが。

 

そんなことを考えながら歩いていると、前方から聞き覚えのある声がした。

 

「おい、山田じゃねえか」

 

山田は顔を上げた。

 

そこには、日本人の男女四人が立っていた。

 

佐々木健、中村拓也、加藤真由、吉田麻衣。

 

第20期の召喚者で、新兵教育でも何かと問題を起こしていた連中だった。

 

(……うわ、佐々木たちかよ)

 

できれば関わりたくない相手だった。

 

しかし、向こうはそう思っていないらしい。

 

「お前、今どこの部隊だっけ?」

 

佐々木が近づいてきた。

 

「第4歩兵中隊だけど」

 

「ああ、そうだったな。どうよ、軍隊生活は?」

 

「別に……普通だけど」

 

「普通だってよ!」

 

中村が笑った。

 

「お前、よくこんな馬鹿みたいな生活に我慢できるな」

 

「……まあ、軍隊だからな」

 

「軍隊だから、だってさ。すっかり帝国の犬じゃねえか」

 

佐々木たちが笑った。

 

山田は黙っていた。

 

(面倒くせえ……)

 

「お前さ、何とも思わねえの?」

 

佐々木が続けた。

 

「勝手にこんな世界に連れてこられて、兵隊なんかやらされてんだぞ?」

 

「いや、まあ……思うところはあるけど」

 

「だったら何で大人しくしてんだよ」

 

「何でって……」

 

山田は答えに困った。

 

佐々木は鼻で笑った。

 

「お前みたいな奴がいるから、あいつらが調子に乗るんだよ」

 

そのとき、加藤が口を挟んだ。

 

「そういえば山田、第4中隊なんでしょ? あそこ、ちっちゃいエルフの女が分隊長やってるって聞いたけど」

 

「……フレデリカ曹長のこと?」

 

「そうそう!」

 

吉田が笑った。

 

「何か、すごく偉そうなんだって?」

 

「いや、偉そうっていうか……実際に曹長だし」

 

「はあ? そんなの関係ないでしょ」

 

中村が肩をすくめた。

 

「どうせ見た目だけのガキだろ。あんなのに怒鳴られて、お前ら大人しく従ってんの?」

 

山田は少しむっとした。

 

「ガキじゃないよ。軍歴十二年のベテランだぞ」

 

「十二年?」

 

佐々木が笑った。

 

「お前、それ信じてんのかよ」

 

「エルフだから、見た目と年齢が違うんだよ」

 

「はいはい。すっかり洗脳されちゃって」

 

中村が山田の肩を小突いた。

 

「お前、昔からそうだったよな。アニメばっかり見て、現実が分かってねえんだよ」

 

山田は眉をひそめた。

 

「……アニメは関係ないだろ」

 

「何だよ、その顔」

 

中村がもう一度、山田の肩を押した。

 

「文句あんのか?」

 

山田は一歩後ずさった。

 

(くそっ、面倒なことになったな……)

 

そのときだった。

 

「おい、何をしている?」

 

背後から、女性の声がした。

 

帝国共通語だった。

 

山田が振り向く。

 

そこに立っていたのは、小柄なエルフの女性だった。

 

明るい金髪に、澄んだ緑色の瞳。

 

しかし、いつもの軍服姿ではなかった。

 

落ち着いた色合いの上着に、膝丈のスカート。肩には小さな鞄を掛けている。

 

勤務を終え、自宅へ帰る途中のフレデリカ曹長だった。

 

(……えっ? 曹長!?)

 

山田は慌てて姿勢を正した。

 

「フレデリカ曹長!」

 

フレデリカは山田を見た。

 

「山田? 何をしている」

 

少し早口だった。

 

山田は意味を理解しようとしたが、すぐには答えられなかった。

 

「え、ええと……」

 

その様子を見て、フレデリカの眉が動いた。

 

「そいつらに絡まれているのか?」

 

「えっと……」

 

山田が答えに詰まっていると、中村が割り込んできた。

 

「何だ、このチビ」

 

フレデリカが中村を見上げた。

 

「……何?」

 

中村は山田に向かって笑った。

 

「おい、もしかしてこいつが、お前の分隊長か?」

 

「お、おい、中村……」

 

「何だよ。こんなちっこい女が曹長だって?」

 

中村はフレデリカを見下ろした。

 

身長差は二十センチ以上あった。

 

しかも、フレデリカは私服姿である。

 

どう見ても、自分たちを叱りつけるような軍人には見えなかった。

 

「お嬢ちゃん、悪いけど、今こいつと話してんだよ」

 

中村は日本語でそう言った。

 

フレデリカには言葉の意味が分からなかった。

 

しかし、その態度だけで十分だった。

 

「お前、所属と階級を言え」

 

フレデリカが帝国共通語で命じた。

 

中村は首を傾げた。

 

「は? 何言ってんだ、こいつ」

 

フレデリカはもう一度言った。

 

「所属と階級を言えと言っている」

 

山田にも、そこまでは聞き取れた。

 

「中村、やめろって! この人、本当に曹長なんだぞ!」

 

「うるせえな!」

 

中村が山田を睨んだ。

 

そして、フレデリカに向き直った。

 

「邪魔なんだよ。どけ、チビ」

 

中村はそう言うと、フレデリカを押しのけようと右手を伸ばした。

 

次の瞬間だった。

 

「ぐっ!?」

 

フレデリカの右拳が、中村のみぞおちに突き刺さった。

 

ほとんど予備動作のない、鋭い一撃だった。

 

中村の体が折れ曲がる。

 

その右腕をフレデリカが掴んだ。

 

小柄な体が一歩踏み込み、腰が沈む。

 

「うわっ!?」

 

中村の体が宙を舞った。

 

どさっ!

 

背中から地面に叩きつけられる。

 

「がはっ!」

 

中村は何が起きたのか理解できないまま、咳き込んだ。

 

そして、何とか起き上がろうとした。

 

その横腹に、フレデリカの蹴りが入った。

 

「ぐえっ!」

 

中村は再び地面に崩れ落ちた。

 

「……馬鹿が」

 

フレデリカは冷たく吐き捨てた。

 

中村は腹を押さえ、地面にうずくまったまま動けなくなっていた。

 

「…………」

 

佐々木たちは固まっていた。

 

今、何が起きた?

 

自分たちよりずっと小さい女が、中村を殴り、投げ飛ばし、さらに蹴りまで入れた。

 

それも、ほんの数秒の出来事だった。

 

「な……何だよ、こいつ……」

 

佐々木が声を震わせた。

 

加藤と吉田も、顔色を変えて後ずさっていた。

 

フレデリカは残る三人を見回した。

 

「次は誰だ?」

 

低い声だった。

 

帝国共通語が理解できなくても、その意味は伝わったらしい。

 

三人とも動かなかった。

 

* * *

 

(…………すげえ)

 

山田は呆然としていた。

 

目の前で起きた出来事が、信じられなかった。

 

フレデリカ曹長。

 

身長百五十センチほどの小柄なエルフ。

 

普段は口が悪く、怒鳴り声が大きく、何かと怖い分隊長。

 

しかし、その実力は本物だった。

 

中村は決して小柄な男ではない。

 

それなのに、フレデリカは一瞬で地面に叩きつけてしまった。

 

しかも、その後の蹴りにもまったく躊躇がなかった。

 

(強え……!)

 

山田は思わず息を呑んだ。

 

(何この人! めちゃくちゃ格好いいじゃん!)

 

金髪の小柄なエルフが、地面にうずくまる男を見下ろしている。

 

それも軍服ではなく、私服姿で。

 

(うわあ……)

 

胸が妙に高鳴った。

 

(……ちょっと惚れたかもしれない)

 

そんなことを考えていると、フレデリカが振り向いた。

 

「山田!」

 

「は、はいっ!」

 

「こいつらは何者だ? なぜ絡まれていた?」

 

早口だった。

 

山田は必死に聞き取ろうとした。

 

(ええと……何者? 絡まれた?)

 

だいたいの意味は分かった。

 

だが、うまく帝国共通語で説明できない。

 

「えっと……同じ、第20期の……日本人で……」

 

「それは見れば分かる!」

 

「は、はいっ!」

 

フレデリカは眉をひそめた。

 

「なぜ揉めていた? こいつらが先に手を出したのか?」

 

「ええと、その……」

 

山田がしどろもどろになっていると、駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 

「曹長!?」

 

宍戸亜美兵長だった。

 

訓練を終えて兵舎へ戻る途中、騒ぎに気づいたらしい。

 

「ちょっと、何やってるんですか!?」

 

宍戸は地面にうずくまる中村を見て、目を丸くした。

 

「えっ!? 何これ!?」

 

「亜美、ちょうどいい」

 

フレデリカは中村を顎で示した。

 

「こいつらが山田に絡んでいた。あの馬鹿が私に手を出そうとしたから、叩きのめした」

 

「……ええ?」

 

宍戸は中村を見た。

 

それから、私服姿のフレデリカを見た。

 

「曹長……またやったんですか?」

 

「何だ、その言い方は!」

 

「いえ、何でもありません!」

 

宍戸は慌てて姿勢を正した。

 

フレデリカは山田を指さした。

 

「山田に事情を聞け。私にも分かるように説明させろ」

 

「はい。山田君、何があったの?」

 

山田はほっとした。

 

「宍戸兵長! 助かりました!」

 

「で、どうしたの?」

 

「いや、この四人に絡まれて……」

 

山田は事情を説明した。

 

同じ第20期の日本人であること。

 

新兵教育の頃から問題を起こしていたこと。

 

軍隊生活への不満を口にしていたこと。

 

そして、今日は帰り道で呼び止められ、言い争いになったこと。

 

宍戸はそれを帝国共通語でフレデリカに伝えた。

 

フレデリカは腕を組んだ。

 

「なるほどな」

 

そして中村を見下ろした。

 

「馬鹿な連中だ」

 

中村はまだ起き上がれずにいた。

 

宍戸がしゃがみ込み、容態を確かめた。

 

「ちょっと、動ける?」

 

「う……うるせえ……」

 

「口は利けるみたいね」

 

宍戸は呆れた顔をした。

 

「でも、無理に立たない方がいいわ。ちょっと診るから」

 

「亜美、そいつは任せた」

 

フレデリカはそう言うと、残る三人に向き直った。

 

「お前たちも、こんな馬鹿な真似はやめておけ。ここは軍隊だ。気に入らないからといって、何をしてもいいわけではない」

 

宍戸が日本語に訳した。

 

佐々木は何か言い返そうとした。

 

しかし、地面にうずくまる中村を見ると、口を閉じた。

 

フレデリカは最後に山田を見た。

 

「山田」

 

「はいっ!」

 

「お前も、こういう連中に付き合うな。何かあれば私か亜美に報告しろ」

 

今度は比較的ゆっくりした帝国共通語だった。

 

山田にも理解できた。

 

「はい! ありがとうございます!」

 

フレデリカは小さく頷いた。

 

「よし。さっさと兵舎へ戻れ」

 

そして、肩に掛けていた鞄を直した。

 

「私は帰る」

 

「はい! お疲れさまでした!」

 

フレデリカは片手を軽く上げ、何事もなかったように歩き去っていった。

 

山田はその後ろ姿を見送った。

 

金髪を揺らしながら歩く、小柄な私服姿のエルフ。

 

(……格好いい)

 

先ほどまでの出来事を思い出す。

 

拳の一撃。

 

鮮やかな投げ。

 

そして容赦のない蹴り。

 

(あれが十二年軍隊にいるベテランの強さか……)

 

山田は改めて思った。

 

(しかも、あの見た目で!)

 

胸の高鳴りが、まだ収まらなかった。

 

そんな山田の顔を、宍戸がじっと見ていた。

 

「……山田君?」

 

「はい?」

 

「何で、そんなに嬉しそうなの?」

 

「えっ!? い、いや、別に!」

 

「ふーん?」

 

宍戸は首を傾げた。

 

山田は慌てて表情を引き締めた。

 

(危ない危ない……)

 

しかし、もう一度フレデリカの去った方向を見てしまう。

 

(……やっぱり、格好いいよなあ)

 

一方、地面にうずくまったままの中村は、ようやく呻き声を上げた。

 

「くそ……何なんだよ、あの女……」

 

宍戸が呆れたように答えた。

 

「ベルノ連隊第4歩兵中隊、フレデリカ曹長。軍歴十二年のベテランよ」

 

「…………」

 

「次からは、相手をよく見て喧嘩を売りなさいね」

 

中村は何も言い返せなかった。

 

山田は心の中で呟いた。

 

(……うん。俺も絶対に逆らわないようにしよう)

 

もっとも、フレデリカに叱られるのは明日も変わらないのだろうが。

 

* * *

 

そんな日々が続くうちに、歩兵部隊恒例の四十八時間行軍の日が近づいてきた。

 

訓練の数日前、フレデリカから分隊員たちに説明があった。

 

「四十八時間行軍は、ただ歩くだけの訓練ではない。装備を背負って長時間移動し、途中で休息を取りながら、最後まで部隊として行動する訓練だ」

 

山田にも、今では説明の大部分が理解できた。

 

「目的地は山間部の訓練用駐屯地だ。そこで一泊し、翌日は別の経路で戻ってくる」

 

(うわあ……二日間かよ)

 

フレデリカは分隊員を見回した。

 

「途中で食事も取るし、休息もある。ただし、十分に休めるとは思うな!」

 

さらに説明を続ける。

 

「足に異常があれば必ず報告しろ。靴擦れを放置するな。水もきちんと飲め。具合が悪くなったら隠さず申告しろ!」

 

そして山田を見た。

 

「特に山田! お前はまだ体ができていない。無理をして倒れるくらいなら、さっさと報告しろ!」

 

「はい!」

 

「ただし、怠けるための口実にしたら承知しないぞ!」

 

「はいっ!」

 

(やっぱり最後はそれかよ……)

 

フレデリカはさらに、靴の状態や背嚢の調整、予備の靴下まで細かく確認していった。

 

山田は少し意外に感じていた。

 

この曹長、口はかなり汚い。

 

帝国共通語が分かるようになって、今まで自分がどれほどひどい言葉で罵倒されていたのかも理解できた。

 

しかも手が早い。動きがあまりに無様だと蹴りまで飛んでくる。

 

だが、その一方で兵士の健康状態には驚くほど気を配っていた。

 

訓練中も、誰かの動きがおかしくなるとすぐに気づく。疲労がひどい兵士には休息を命じ、怪我をした者には宍戸を向かわせる。

 

ただ怒鳴り散らしているわけではないのだ。

 

(……この人、ちゃんと俺たちのこと見てるんだな)

 

山田はフレデリカを見つめた。

 

小柄な体。長い耳。明るい金髪に、整った顔立ち。

 

外見だけなら、まさに山田が思い描いていた理想のエルフそのものだった。

 

しかも、軍歴十二年のベテランで、部下の面倒もしっかり見ている。

 

そして、先日目撃したあの強さ。

 

(いや、もう理想そのものじゃないか……)

 

ただし、一つだけ重大な問題がある。

 

(……口が悪すぎるんだよなあ)

 

「山田! 何をぼけっとしている!」

 

「は、はいっ!」

 

「装備の確認は終わったのか!」

 

「今やります!」

 

(そして怖い! とにかく怖い!)

 

* * *

 

四十八時間行軍の当日。

 

山田は背嚢を担ぎ、訓練場に集合した。

 

「山田、靴は大丈夫か?」

 

フレデリカが声をかけてきた。

 

「はい! 大丈夫です!」

 

「背嚢の紐は緩んでいないな?」

 

「はい!」

 

「よし。途中で異常があれば必ず報告しろ。いいな?」

 

「はい!」

 

フレデリカは頷くと、他の分隊員の装備を確認しに行った。

 

その背中を見ながら、山田は思った。

 

(本当に、黙っていれば最高なんだけどなあ……)

 

隣にいた永野が笑った。

 

「山田、何ぼけっとしてんだ?」

 

「いえ、何でもありません」

 

「四十八時間、長いぞ。覚悟しとけよ」

 

「……はい」

 

山田は背嚢を担ぎ直した。

 

まもなく小隊長の号令が響いた。

 

四十八時間行軍が始まった。

 

* * *

 

四十八時間行軍の初日。

 

ベルノの町を出発した歩兵部隊は、山間部へと進んでいた。

 

十一月も後半となり、山々の木々はすっかり葉を落としていた。

 

山田は重い背嚢を背負い、必死に前の兵士について歩いていた。

 

(きつい……これはきつい……)

 

新兵教育でも行軍は経験していた。

 

しかし、今回は装備の重量も違えば、歩く距離も違う。

 

しかも山道だった。

 

登り坂では息が切れ、下り坂では膝が痛む。

 

そして、少しでも隊列が乱れると、あの声が飛んでくる。

 

「山田ぁ! 遅れるな! さっさと歩け!」

 

「は、はいっ!」

 

「何だその情けない歩き方は! 足を動かせ、このへなちん野郎!」

 

(ひいいっ! また始まった!)

 

帝国共通語が上達したおかげで、罵声の内容まで理解できるようになってしまった。

 

(……やっぱり、分からなかった頃の方が幸せだったかもしれない)

 

隣を歩く永野が苦笑した。

 

「山田、頑張れよ。まだ先は長いぞ」

 

「勘弁してくださいよ……」

 

「無駄口を叩く余裕があるなら、歩調を合わせろ!」

 

「はいっ!」

 

フレデリカの怒声が飛んできた。

 

山田は慌てて口を閉じた。

 

それでも、休憩になるとフレデリカは真っ先に山田の足の状態を確認した。

 

「山田、靴擦れはないか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「水は飲んでいるな?」

 

「はい」

 

「よし。無理に歩いて足を潰すなよ。異常があったらすぐに亜美に言え」

 

「分かりました」

 

(……本当に、面倒見はいいんだよなあ)

 

山田は改めて思った。

 

口の悪ささえなければ、理想の分隊長なのに。

 

夕方。

 

山田たちは、ようやく山間部の訓練用駐屯地に到着した。

 

「……着いた」

 

山田は思わず声を漏らした。

 

(助かった……やっと終わった……)

 

しかし、フレデリカの声が飛んできた。

 

「山田! 何を突っ立っている! さっさと野営の準備をしろ!」

 

「は、はいっ!」

 

(まだ終わってなかった!)

 

分隊員たちは割り当てられた場所へ移動し、天幕を設営した。

 

リリアとメリーナは慣れた手つきで作業を進めている。

 

山田も永野に教わりながら、何とか設営を手伝った。

 

夕食を済ませ、夜の点呼が終わると、ようやく休息となった。

 

山田が寝具を広げていると、天幕の入口から声がした。

 

「山田、いるか?」

 

フレデリカだった。

 

「は、はい!」

 

山田が体を起こすと、フレデリカが入口から顔を覗かせた。

 

「少し話がある。外に出ろ」

 

今度はゆっくり話してくれたので、山田にも理解できた。

 

(えっ? 何だろう。また何かやらかしたか?)

 

山田は慌てて立ち上がった。

 

外では、冷たい風が吹いていた。

 

天幕の間には小さな灯火が点り、遠くから兵士たちの話し声が聞こえてくる。

 

フレデリカは腕を組み、山田を見上げた。

 

「この前、お前に絡んできた四人組のことだ」

 

「あ、はい」

 

「亜美から事情は聞いたが、少し確認したい」

 

フレデリカはそう言うと、山田に質問を始めた。

 

四人は以前から一緒に行動していたのか。

 

新兵教育中から問題を起こしていたのか。

 

軍務に不満を持っている様子はあったのか。

 

山田は、覚えている範囲で答えた。

 

「はい。日本にいた頃から、いつも一緒にいたと思います」

 

「ふむ」

 

「新兵教育でも、よく教官に怒られてました。それで……軍隊なんか嫌だとか、そんなことは言ってました」

 

フレデリカは眉をひそめた。

 

「まったく、しょうもない連中だな」

 

山田は苦笑した。

 

「……そうですね」

 

「だが、軍務に不満があるだけなら珍しくはない。問題は、ああいう馬鹿な真似をすることだ」

 

少し早口になったため、山田には後半が聞き取れなかった。

 

「すみません、もう一度お願いします」

 

フレデリカは一瞬、面倒そうな顔をした。

 

しかし、今度はゆっくりと言い直した。

 

「軍隊が嫌だと思うのは自由だ。だが、他人に手を出すのは許されん。分かったか?」

 

「はい!」

 

「それと、あの連中について何か気づいたことがあれば、報告しろ」

 

「分かりました」

 

フレデリカは頷いた。

 

「よし。さっさと寝ろ。明日も長いぞ」

 

「はい。お疲れさまです!」

 

フレデリカは片手を上げると、中隊本部の方へ歩いていった。

 

山田はその後ろ姿を見送った。

 

(こんなところでも、ちゃんと気にかけてくれるんだな……)

 

自分が絡まれた件を、まだ覚えていたらしい。

 

もっとも、あのとき一番派手なことをしたのは、ほかならぬフレデリカなのだが。

 

(……でも、やっぱり格好いいよなあ)

 

山田は小さく笑い、天幕へ戻った。

 

寝具に潜り込むと、すぐに全身の疲労が押し寄せてきた。

 

(ああ……もう無理。動けない……)

 

明日も同じように歩かなければならない。

 

考えるだけで気が滅入る。

 

(フレデリカ曹長……あんなに小さいのに、なんであんなに元気なんだよ……)

 

そんなことを考えているうちに、山田は眠りに落ちた。

 

* * *

 

翌朝。

 

「起床! 全員集合!」

 

号令で山田は目を覚ました。

 

(うう……足が痛い)

 

寝具から這い出し、何とか立ち上がる。

 

外に出ると、地面には薄く霜が降りていた。

 

朝の点呼が始まった。

 

フレデリカ分隊は全員揃っていた。

 

ところが、しばらくすると周囲が妙に騒がしくなってきた。

 

将校や下士官たちが、慌ただしく行き来している。

 

「……何かあったんですかね?」

 

山田が永野に尋ねた。

 

「さあな。何だろうな」

 

そのうち、各中隊に再点呼の命令が下された。

 

「全員、整列! 武器と装備も確認しろ!」

 

フレデリカの表情が険しくなっていた。

 

山田たちも再び整列し、人員と装備の確認を受けた。

 

やがて、第20期の日本人新兵が四人、姿を消したことが伝わってきた。

 

しかも、小銃と弾薬を持ったままだという。

 

「……脱走か?」

 

永野が小さく呟いた。

 

山田は驚いて顔を上げた。

 

「脱走って、軍隊から逃げたってことですか?」

 

「そういうことだろうな」

 

その隣で、宍戸がため息をついた。

 

「はあ……今年も馬鹿が出たわね」

 

「今年も?」

 

山田が聞き返した。

 

「毎年いるのよ。軍隊が嫌になって逃げ出す馬鹿が」

 

「そうなんですか……」

 

「まったく。何考えてんだか」

 

いつもは明るい宍戸も、さすがに呆れた表情をしていた。

 

間もなく、行方不明者の名前が分隊にも伝わってきた。

 

第1歩兵中隊、中村拓也。

 

第2歩兵中隊、佐々木健。

 

第4歩兵中隊、加藤真由、吉田麻衣。

 

全員が第20期の日本人召喚者だった。

 

(……えっ?)

 

山田は耳を疑った。

 

(佐々木たちじゃないか!)

 

つい数日前、自分に絡んできた四人組だった。

 

しかも、昨夜フレデリカに聞かれたばかりである。

 

(あいつら……まさか本当に逃げたのかよ)

 

山田が考え込んでいると、フレデリカが近づいてきた。

 

「山田!」

 

「は、はい!」

 

「お前は第20期だったな。脱走した連中について、何か知っていることはないか?」

 

山田は質問の意味を理解したが、どう説明すればいいのか迷った。

 

「ええと……知っています。同じ日本人で……」

 

「亜美、通訳してやれ」

 

「了解、フレっち」

 

宍戸が山田に向き直った。

 

「山田君、知り合いなの?」

 

「はい。あの、数日前に俺に絡んできた四人です」

 

「……え?」

 

宍戸は一瞬、目を丸くした。

 

「あの四人?」

 

「そうです。曹長が中村を投げ飛ばしたときの」

 

宍戸は呆れた顔になった。

 

「ちょっと待って。それって、全員?」

 

「はい。あの四人全員です」

 

宍戸が帝国共通語で説明すると、フレデリカの眉が跳ね上がった。

 

「何!? あの四人か!」

 

「そう、あの四人だって、フレっち」

 

フレデリカは腕を組み、しばらく黙っていた。

 

そして、大きなため息をついた。

 

「……馬鹿だとは思ったが、これほどまでとは思わなかった」

 

宍戸も苦笑した。

 

「ほんと、どうしようもないね」

 

フレデリカは山田を見た。

 

「山田。あの連中は、以前から脱走を考えていたのか?」

 

「いえ、そこまでは知りません。ただ、軍隊が嫌だとか、訓練なんかやりたくないとか、いつも文句は言っていました」

 

宍戸が通訳する。

 

「なるほどな……」

 

フレデリカは考え込んだ。

 

昨夜も山田から話を聞いたが、まさかその四人が翌朝には脱走者になるとは思ってもいなかった。

 

「それで、ほかに何か変わったことはなかったか?」

 

「いえ。特には……」

 

「そうか」

 

フレデリカは頷いた。

 

「山田、他に何か気づいたことがあったら、すぐに報告しろ」

 

「はい!」

 

今度は山田も、通訳なしで理解できた。

 

フレデリカは宍戸に向き直った。

 

「亜美、分隊を頼む。私は中隊本部へ行ってくる」

 

「了解、フレっち」

 

フレデリカは足早に中隊本部の方へ歩いていった。

 

山田はその後ろ姿を見送りながら、思った。

 

(あいつら、何やってんだよ……)

 

軍隊が嫌なのは分かる。

 

自分だって、何度も逃げ出したいと思った。

 

だが、本当に脱走するとは。

 

しかも武器まで持ち出している。

 

(……これ、相当まずいことになってるんじゃないか?)

 

つい数日前、地面にうずくまっていた中村の姿が脳裏に浮かんだ。

 

(……あのとき、素直に謝っておけばよかったのに)

 

山田は小さくため息をついた。

 

* * *

 

しばらくして、フレデリカが分隊に戻ってきた。

 

「全員、聞け!」

 

兵士たちが姿勢を正した。

 

「脱走の件は軍警が引き継ぐことになった。我々は予定どおり行軍を再開する。全員、装備を点検しろ!」

 

分隊員たちが一斉に動き出した。

 

山田も背嚢を開き、装備を確認する。

 

(軍警か……。やっぱり大ごとになったんだな)

 

佐々木たちのことが気にならないわけではなかった。

 

だが、自分にできることは何もない。

 

山田が背嚢を担ぎ直していると、フレデリカが近づいてきた。

 

「山田」

 

「はい!」

 

「つらいか?」

 

意外な質問だった。

 

「……はい。正直、かなりきついです」

 

フレデリカは山田の顔をじっと見た。

 

「そうか。だが、馬鹿な真似だけはするなよ」

 

山田にも、その言葉は理解できた。

 

いつもの罵声ではなかった。

 

「はい。大丈夫です。逃げたりしません」

 

フレデリカは小さく頷いた。

 

「それならいい。足は大丈夫か?」

 

「はい。問題ありません」

 

「よし。遅れるなよ!」

 

そう言い残すと、フレデリカは次の兵士のところへ向かった。

 

山田はその小さな背中を見送った。

 

(……やっぱり、ちゃんと心配してくれてるんだな)

 

口は悪いし、すぐ怒鳴る。蹴りまで飛んでくる。

 

だが、部下の様子はよく見ている。

 

そして、自分より大きな男を一瞬で叩きのめすほど強い。

 

(あんなに可愛くて、面倒見もよくて、強いのに……どうしてあんなに怖いんだろう)

 

山田がそんなことを考えていると、フレデリカの声が響いた。

 

「山田! いつまでぼけっとしている! 整列しろ!」

 

「は、はいっ!」

 

(……やっぱり怖い!)

 

永野が隣で小さく笑った。

 

「行くぞ、山田。あと一日だ」

 

「はい……」

 

山田は重い背嚢を担ぎ直した。

 

小隊長の号令が響き、隊列が動き始めた。

 

四十八時間行軍の二日目が始まった。

 

* * *

 

山田の足取りは、昨日にも増して重くなっていた。

 

(きつい……マジできつい……)

 

朝から歩き続け、足の裏は痛み、肩には背嚢の紐が食い込んでいる。

 

前を歩く永野の背中を、ただひたすら追いかけていた。

 

(あと何時間だ……)

 

もはや、佐々木たちの脱走事件を考える余裕などなかった。

 

今の山田にとって重要なのは、次の一歩を踏み出すことだけだった。

 

しかし、疲労で集中力が落ちていた。

 

足元の石に気づかず、つまずいた。

 

「うわっ!」

 

体が前に傾く。

 

何とか転倒は免れたが、隊列から遅れてしまった。

 

その瞬間だった。

 

「山田ぁっ! この馬鹿野郎!」

 

フレデリカの怒声が響いた。

 

「何をやっている! 足元も見えんのか!」

 

「す、すみません!」

 

「そんな無様な歩き方で戦場に出るつもりか!」

 

次の瞬間、山田の尻に蹴りが飛んできた。

 

「痛っ!」

 

思わず背筋が伸びた。

 

「さっさと歩け! この役立たず!」

 

「は、はいっ!」

 

山田は慌てて歩調を合わせた。

 

(痛え……! あの曹長、本当に容赦ないな!)

 

だが、不思議なことに、蹴られた直後から頭がはっきりしていた。

 

疲労でぼんやりしていた意識が、一気に覚醒したようだった。

 

(……あれ?)

 

先ほどまで重かった足が、少しだけ軽くなった気がする。

 

もちろん、疲労が消えたわけではない。

 

ただ、意識がはっきりしている。

 

(なんだこれ。目が覚めたぞ……)

 

山田は首を傾げながら歩き続けた。

 

それからも、行軍は続いた。

 

疲労が限界に近づくたびに、山田の注意力は散漫になった。

 

そして、隊列が乱れる。

 

「山田! 何度言わせる、この間抜け!」

 

罵声が飛び、ときには尻を蹴飛ばされた。

 

そのたびに山田は飛び上がり、慌てて歩調を合わせた。

 

(痛い! 痛いって!)

 

しかし、何度か繰り返すうちに、山田は妙なことに気がついた。

 

フレデリカに怒鳴られ、蹴飛ばされた直後は、不思議と気分がすっきりするのだ。

 

そればかりか、あの小柄な曹長が自分を睨みつけている姿を見ると、妙に胸が高鳴る。

 

(……ん?)

 

山田は考えた。

 

(いやいや、違うだろ。疲れすぎて頭がおかしくなってるだけだ)

 

そう自分に言い聞かせた。

 

だが、しばらくすると、また足元がおろそかになる。

 

「山田ぁっ!」

 

「は、はいっ!」

 

今度は怒鳴り声だけだった。

 

山田は慌てて歩調を戻した。

 

(……あれ?)

 

なぜか、少し物足りない気がした。

 

(…………え?)

 

山田は自分の考えに驚いた。

 

(いや、待て待て! 俺、何を期待してた!?)

 

そんなことを考えていると、再びフレデリカの声が飛んだ。

 

「山田! 余計なことを考えるな! 前を見て歩け!」

 

「はいっ!」

 

山田は慌てて前を向いた。

 

(やばい……俺、どうしちゃったんだろう……)

 

* * *

 

その後も、行軍は続いた。

 

日が暮れ、周囲が暗くなっても、部隊は歩みを止めなかった。

 

休憩はあったものの、十分な睡眠を取る余裕はない。

 

山田の足は、もはや自分のものではないようだった。

 

(痛い……足が痛い……)

 

それでも、隊列から遅れそうになるたびに、フレデリカの罵声が飛んできた。

 

「山田! 足を止めるな! あと少しだ!」

 

「は、はいっ!」

 

「その程度でへばるな、この根性なし!」

 

「はいっ!」

 

ときには尻を蹴飛ばされた。

 

そのたびに、山田は不思議と元気を取り戻した。

 

(……あれ?)

 

もはや痛みよりも、フレデリカの声が聞こえてくることの方が気になっていた。

 

(俺、どうしちゃったんだろう……)

 

* * *

 

翌朝。

 

出発から四十八時間後、歩兵部隊はようやくベルノ駐屯地へ帰還した。

 

訓練場に到着した兵士たちは、中隊ごとに整列した。

 

山田は足を震わせながら、何とか姿勢を保っていた。

 

(終わった……やっと終わった……)

 

周囲の兵士たちも疲労困憊だった。

 

さすがのフレデリカも、顔に疲労の色が浮かんでいた。

 

それでも背筋を伸ばし、分隊員たちを確認している。

 

(曹長も疲れるんだな……)

 

当たり前のことなのだが、山田には少し意外だった。

 

やがて、第4歩兵中隊長が前に出た。

 

「諸君、ご苦労だった! これをもって四十八時間行軍を終了する!」

 

中隊長が兵士たちを見回した。

 

「各自、十分に休息を取れ! 解散!」

 

号令が響いた。

 

兵士たちから安堵のため息が漏れた。

 

「終わったぁ……」

 

永野が大きく伸びをした。

 

「山田、生きてるか?」

 

「……何とか」

 

「よく頑張ったな。ほら、戻ろうぜ」

 

「はい……」

 

山田は背嚢を担ぎ直そうとして、ふと手を止めた。

 

(……あれ?)

 

確かに、体は限界だった。

 

足も肩も痛い。今すぐ寝台に倒れ込みたい。

 

疲労のピークなど、とっくに越えているはずだった。

 

なのに。

 

(……もう終わりなのか?)

 

山田は妙な寂しさを感じていた。

 

(もう、曹長に怒鳴られないのか……)

 

自分でも信じられない考えだった。

 

(もっと罵声を浴びたい……)

 

(……もっと蹴られたい)

 

山田は思わずフレデリカを見た。

 

小柄な金髪のエルフ。

 

口が悪く、手が早く、容赦がない。

 

それなのに、部下の健康状態には誰よりも気を配る。

 

そして、あの佐々木たちとの騒動で見せた圧倒的な強さ。

 

自分の理想をそのまま形にしたような女性だった。

 

(……俺、もしかしておかしくなったのか?)

 

普通なら、あれほど怒鳴られて蹴られれば、嫌いになるはずだ。

 

なのに、今は違う。

 

(また怒鳴ってくれないかな……)

 

そう考えた瞬間、山田の頬が緩んだ。

 

「……ん?」

 

フレデリカが山田を見た。

 

疲労でふらふらになっている新兵が、なぜか自分を見ながら笑っている。

 

「なんだ、こいつ笑ってるぞ」

 

フレデリカは怪訝な顔をした。

 

宍戸も振り向いた。

 

「え? 山田君?」

 

山田は笑っていた。

 

自分でも気づかないうちに、にやにやしていた。

 

「ちょっと、山田君。大丈夫?」

 

宍戸が心配そうに顔を覗き込んだ。

 

「えっ? あ、はい! 大丈夫です!」

 

「本当に? なんか変な顔してるけど」

 

「い、いえ! 何でもありません!」

 

宍戸は山田の額に手を当てた。

 

「熱はなさそうだけど……疲れすぎておかしくなっちゃった?」

 

「大丈夫ですって!」

 

そのやり取りを見ていたフレデリカが、呆れたように言った。

 

「亜美、そいつはさっさと寝かせろ。頭までおかしくなったら面倒だ」

 

「はいはい。山田君、行くよ」

 

「はい!」

 

山田は元気よく返事をした。

 

フレデリカが眉をひそめた。

 

「……なんだ、まだそんな元気が残っていたのか」

 

「い、いえ! もう限界です!」

 

「だったらさっさと行け、この馬鹿!」

 

「はいっ!」

 

山田は思わず笑顔になった。

 

(……ああ、いいなあ)

 

(…………)

 

(いや、待て! 何がいいんだよ!?)

 

自分の中で何かが変わってしまった。

 

いや、もしかすると、今まで自分でも知らなかった何かが、目を覚ましたのかもしれない。

 

山田はもう一度、フレデリカの後ろ姿を見た。

 

そして、また笑ってしまった。

 

その様子を見ていた宍戸は、ある疑念を抱いていた。

 

(……あれ? もしかして山田君って……)

 

そこへメリーナが、いつもの穏やかな笑顔で声をかけた。

 

「山田さん、なんか幸せそうですね」

 

「えっ? いや、そんなことは……」

 

永野も心配そうに山田の顔を覗き込んだ。

 

「おまえ、本当に大丈夫か?」

 

「大丈夫です! 次の訓練も楽しみです!」

 

「……は?」

 

永野が固まった。

 

その言葉を聞きつけたフレデリカが振り返る。

 

「ほう。山田、まだ訓練が足りないようだな?」

 

「い、いえ! そういう意味では!」

 

「よし! 明日から特別に鍛えてやろう!」

 

「ありがとうございます!」

 

山田は反射的に敬礼した。

 

「…………」

 

フレデリカが眉をひそめた。

 

「亜美」

 

「はい?」

 

「こいつを医務室へ連れていけ。どうやら頭をやられたらしい」

 

「フレっち、あたし衛生兵だけど……これは専門外かもしれない」

 

永野が呆れたように言った。

 

「おまえ、四十八時間歩いた後に追加訓練を喜ぶ奴なんて、初めて見たぞ」

 

山田は慌てて首を振った。

 

「違いますって! そういうんじゃないんです!」

 

すると、メリーナがにっこり微笑んだ。

 

「あら、よかったですね、山田さん。曹長が特別に面倒を見てくださるそうですよ」

 

「えっ!?」

 

山田の顔が、また嬉しそうに緩んだ。

 

「……あ」

 

宍戸はその顔を見逃さなかった。

 

(……やっぱり)

 

フレデリカは腕を組んで、満足そうに頷いた。

 

「ふん。ようやく軍人らしい根性がついてきたようだな」

 

「はいっ!」

 

山田は満面の笑みで返事をした。

 

永野が小さく呟いた。

 

「……駄目だ、こいつ」

 

どうやら、山田直樹の中で何かが開花したようだった。

 

そしてフレデリカは、まだ知らなかった。

 

自分が今、とんでもなく厄介な新兵を育て始めてしまったことを。

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