ベルノ駅の構内に、蒸気機関車の長い汽笛が響いた。
ゆっくりと速度を落とした列車が、ホームに滑り込んでくる。
「やっと着いたー!」
山田直樹二等兵は、客車の窓から見慣れた駅舎を眺めて声を上げた。
「おい山田、見ろよ。すげえ人だぞ」
隣にいた永野進一等兵が窓の外を指差す。
駅のホームには、出迎えの人々が詰めかけていた。
軍服姿の兵士だけではない。子供を連れた母親、年配の男女、商人らしい服装の男たち。色とりどりの花束を手にした女性たちの姿もあった。
「うわ、マジかよ。俺たちを迎えに来たのか?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「なんか、すげえな……」
山田は思わず顔をほころばせた。
考えてみれば、ベルノを出発したのは一月末だった。
あれから二か月余り。
雪の残る戦場で塹壕を掘り、夜間警戒に立ち、砲撃に震え、魔族との戦闘も経験した。
そして、こうして生きて戻ってきた。
(俺、ちゃんと戦争に行って帰ってきたんだよな……)
妙な実感が湧いてきた。
「おい、そこの二人!」
背後から鋭い声が飛んできた。
フレデリカ曹長だった。
「荷物をまとめろ! 下車準備だ!」
「はい!」
「山田! 窓の外ばかり見てるんじゃない!」
「は、はい!」
慌てて背嚢を背負う。
その様子を見て、宍戸亜美兵長が笑った。
「直樹、めっちゃ嬉しそうじゃん」
「いや、だって宍戸さん。すごい人ですよ!」
「そりゃ、帰還する兵隊さんを迎えに来てんだから」
「なんか、英雄になった気分ですよ」
「プッ! 英雄って!」
亜美が吹き出した。
「いいじゃん、直樹。今日は英雄ってことで!」
「ちょっと、亜美さん!」
「ただし、英雄様は自分の荷物くらいちゃんと持とうねー」
山田の背嚢から、毛布の端がだらしなく飛び出していた。
* * *
ベルノ駅を出た帰還部隊は、駐屯地まで徒歩で行進することになった。
駅前広場には、さらに大勢の市民が集まっていた。
「ベルノ連隊、万歳!」
「お帰りなさい!」
「兵隊さん、ありがとう!」
歓声が上がった。
沿道には帝国旗とベルノ伯爵家の旗が掲げられ、人々が手を振っている。
子供たちは兵士たちに向かって大きく手を振り、花束を差し出す女性もいた。
部隊の先頭が駅前広場に姿を現すと、歓声はいっそう大きくなった。
軍楽隊が行進曲を演奏している。
山田は思わず背筋を伸ばした。
(うおお……すげえ!)
まるで映画の一場面だった。
戦場から帰還した軍隊。
沿道を埋める市民。
鳴り響く軍楽。
そして、その真ん中を堂々と行進する自分。
(これ、完全に英雄の凱旋じゃん!)
そう思うと、自然に足取りまで力強くなった。
「永野先輩、すごいですね!」
隣を歩く永野に小声で話しかける。
「ああ、すげえな」
「俺たち、映画の主人公みたいじゃないですか?」
「お前はすぐそういうこと考えるな」
そう言いながらも、永野も満更ではなさそうだった。
沿道から若い女性たちの声が聞こえてきた。
「兵隊さーん!」
「お帰りなさーい!」
山田は思わずそちらを向いた。
若い女性が三人、こちらに手を振っている。
(おおっ!)
反射的に手を振り返そうとした、そのときだった。
「山田!」
前方からフレデリカの声が飛んだ。
「前を向け!」
「はいっ!」
「行進中によそ見をするな!」
「すみません!」
山田は慌てて姿勢を正した。
その横で、永野が肩を震わせている。
「笑わないでくださいよ!」
「いや、お前、完全に観光客だぞ」
「だって、あんなに歓迎されたら……」
「気持ちはわかるけどな」
後ろから亜美が小声で割り込んだ。
「直樹、残念だったねー。女の子に手を振りたかったんでしょ?」
「ち、違いますよ!」
「はいはい、英雄様」
さらに後ろを歩いていたメリーナ上等兵が、にこやかに口を開いた。
「山田さん、よかったですね。これだけの女性がいれば、きっと山田さんのお好みの方もいらっしゃいますよ」
「いや、そういう話じゃ……」
「小柄な女性がお好みでしたよね?」
「メリーナさん!」
「ふふふ」
上品な笑顔だった。
山田は思った。
(この人、相変わらず笑顔で人を刺してくるな……)
* * *
行進は市街地へと入っていった。
石畳の大通りには、途切れることなく人々が並んでいる。
二階の窓から手を振る者もいれば、子供を肩車して兵士を見せている父親もいた。
「お父さーん!」
どこかから子供の声が聞こえた。
「お父さん、お帰りー!」
山田がそちらを見ると、一人の幼い男の子が、母親に抱きかかえられながら必死に手を振っていた。
その視線の先には、別の分隊の兵士がいた。
兵士は行進を続けながら、大きく手を振り返していた。
(ああ、家族か……)
山田は少し羨ましくなった。
だが、目の前の歓声が、その思いを押し流していく。
「ベルノ連隊、万歳!」
「よく帰ってきてくれた!」
「ありがとう!」
山田は胸を張った。
(そうだよな。俺たち、生きて帰ってきたんだ)
まだ何か大きな戦果を挙げたわけではない。
自分が倒した魔族だって、いない。
それでも、あの戦場で生き延びた。
仲間と一緒に、こうしてベルノの街を歩いている。
それが、今は何より誇らしかった。
しかし、行進する兵士たちの表情は、必ずしも明るいものばかりではなかった。
帰還部隊の中には、大きな損害を受けた第2中隊の生存者たちもいた。
その人数は、あまりにも少ない。
沿道から、ときおり人の名前を呼ぶ声が聞こえた。
帰還した兵士の中に、夫や息子、恋人の姿を探しているのだろう。
名前を呼ばれた兵士が振り返る。
だが、探している相手が見つからない者もいた。
「ねえ、あの人たち、少なくない?」
沿道の女性が小さくつぶやいた。
その言葉が、山田の耳に届いた。
ふと、三上鈴音の墓が頭に浮かんだ。
戦線を離れる前に花を手向けた小さな墓標。
あの子は、ここにはいない。
山田は少しだけ視線を落とした。
「山田」
前を歩くフレデリカが振り返らずに声をかけた。
「はい」
「顔を上げろ」
「……はい」
「今日は帰還の日だ。胸を張って歩け」
「はい!」
フレデリカは、それ以上何も言わなかった。
* * *
やがて、駐屯地へ向かう大通りに入った。
沿道の人々の数は少しずつ減ってきたが、それでも歓声は続いていた。
山田は、いつの間にか行進の疲れを忘れていた。
背嚢も小銃も決して軽くはない。
けれど、今は不思議と足が前に出る。
(これが凱旋ってやつか……)
心の中で、もう一度つぶやいた。
そのとき、隣の永野が小声で言った。
「なあ、山田」
「はい?」
「お前、なんかニヤニヤしてないか?」
「え? してませんよ」
「いや、してるって」
「気のせいです」
「まだ英雄気分か?」
「……ちょっとだけ」
永野が笑った。
「正直だな、お前」
すると、前方からまた声が飛んできた。
「山田! 永野!」
「はいっ!」
「無駄口を叩くな! 駐屯地に到着するまで行進は終わっていないぞ!」
「はい!」
二人はそろって背筋を伸ばした。
後ろから、亜美の笑い声が聞こえる。
「英雄様、怒られっぱなしじゃん!」
リリア上等兵まで、くすくす笑っていた。
フレデリカは小さくため息をついた。
まったく、うちの分隊は。
戦場から無事に戻ってきたと思ったら、今度はこれだ。
もっとも――。
彼女は一瞬だけ、沿道の人々に目を向けた。
こうして帰ってこられただけでも、十分なのかもしれない。
フレデリカは再び前を向いた。
「全員、歩調を合わせろ!」
その声に、分隊の足音がそろった。
ベルノ駐屯地の門が、ようやく見えてきた。
* * *
ベルノ駐屯地の正門をくぐると、山田はようやく肩の力を抜いた。
駅からここまで、ずっと行進だった。
沿道の市民から歓声を浴びている間は気にならなかったが、駐屯地に入った途端、背嚢の重さがずっしりと肩にのしかかってきた。
「うへえ……疲れた」
「お前、さっきまで英雄気分だったじゃねえか」
永野が笑う。
「英雄だって疲れるんですよ」
「何言ってんだ、お前」
「そこ! 私語を慎め!」
前方からフレデリカ曹長の声が飛んだ。
「はいっ!」
山田は慌てて口を閉じた。
第4中隊は営庭に整列した。
久しぶりに見る駐屯地の建物。
出発した一月末には深い雪に覆われていた営庭も、今では雪がほとんど消えている。
季節はすっかり春になっていた。
第4中隊長が隊列の前に立った。
「諸君、イジューム戦線での任務、ご苦労だった」
中隊長は整列した兵士たちを見渡した。
「我々は全員で帰還することはできなかった。しかし、諸君は与えられた任務を果たし、こうしてベルノへ戻ってきた。まずは、その労をねぎらいたい」
営庭が静まり返る。
「本日をもって、第4中隊は一時解散とする。再集合は二週間後だ。詳細については各分隊長から指示を受けること。それまでは十分に休養を取ってもらいたい」
二週間。
山田の頭に、その言葉が響いた。
(二週間も休み!?)
思わず顔がほころびそうになる。
「それでは、第4中隊、解散!」
号令とともに、兵士たちが一斉に動き始めた。
あちこちから安堵の声が上がる。
久しぶりに家族のもとへ帰る兵士たちも多いのだろう。
「よーし、うちも解散だ」
フレデリカが分隊員たちを集めた。
「各自、装備を返納してから休暇に入れ。二週間後の集合に遅れるなよ」
「はい!」
「リリア、メリーナ。お前たちは実家に帰るんだったな?」
「はい。久しぶりなので、両親も楽しみにしていると思います」
リリア上等兵が嬉しそうに答えた。
メリーナも穏やかに微笑む。
「私も実家へ戻ります。母から、帰ったら手伝ってほしいことが山ほどあると手紙が来ていました」
「休暇なのに仕事ですか?」
山田が尋ねる。
「ええ。でも、家族と過ごせるのは嬉しいことですから」
「いいですねえ。実家かあ……」
山田は少し羨ましくなった。
日本の実家に帰れるわけではない。
「山田さんも、ゆっくり休んでくださいね」
「はい」
「せっかくの休暇ですから、あまり変なお店に入り浸らないように」
「な、何ですか、それ!」
メリーナは上品に微笑んだ。
「ふふふ。冗談ですよ」
(絶対、冗談じゃねえ……)
山田は確信した。
この人は、笑顔で人を刺すタイプだ。
* * *
「山田、ちょっといいか」
フレデリカに呼び止められた。
「はい、何でしょう?」
「次の集合で、お前は昇進になる」
「えっ?」
思わず聞き返した。
「昇進、ですか?」
「ああ。戦線勤務を経験した二等兵は、原則として一等兵に昇進する。今回、生きて帰った第20期の連中も対象だ」
「おおっ!」
山田は思わず声を上げた。
(ついに俺も一等兵か!)
二等兵から一等兵。
たった一階級ではあるが、山田にとっては大きな出来事だった。
「やったじゃん、直樹!」
亜美が横から肩を叩く。
「ありがとうございます!」
「まだ正式な辞令は出てないぞ」
フレデリカが釘を刺した。
「それから、もう一つ」
「はい?」
「今回の帰還に伴って、人員の配置換えが行われる。必ずしも希望どおりになるとは限らないが、転属を希望することもできる」
「転属、ですか?」
「ああ。書類が回ってくるはずだから、考えておけ」
山田は少し考えた。
転属。
つまり、この分隊から離れて別の部隊に行くこともできるということだ。
(そうか。そういう選択もあるのか……)
召喚されてから、ずっと流されるように軍隊生活を送ってきた。
新兵教育を終え、配属されたのがフレデリカ分隊だった。
最初は怖い曹長だと思った。
いや、今でも十分怖い。
だが、戦場では頼りになった。
小柄な身体で、誰よりも堂々としていた。
命令も的確で、兵士たちの面倒もよく見てくれる。
もっとも、細かい世話を実際に焼いてくれるのは、たいてい宍戸兵長だったが。
それに――。
(やっぱ、かっこいいんだよなあ……)
山田はフレデリカを見た。
「何だ?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「変な奴だな」
フレデリカは首をかしげた。
「まあ、二週間ある。よく考えておけ」
そう言うと、フレデリカは時計に目をやった。
「さて、私は行くぞ」
「どこへですか?」
「託児所だ。息子を迎えに行かないとな」
そうだった。
フレデリカには十歳の息子がいる。
しかも、彼女は一児の母とは思えないほど小柄で、見た目も若い。
山田にとっては、何度考えても不思議な話だった。
「曹長、私も行きまーす!」
亜美が元気よく手を上げた。
「お前も来るのか?」
「もちろん! 久しぶりに会いたいし!」
「まったく……好きにしろ」
そう言いながら、フレデリカも満更ではなさそうだった。
亜美はフレデリカの家にしょっちゅう遊びに行っているらしい。
息子ともすっかり仲良しで、休みの日には一緒に遊んだり、食事をしたりしているという。
「じゃあね、直樹! 進さんも!」
「お疲れさまでした!」
「また二週間後なー!」
亜美は軽く手を振ると、フレデリカの隣に駆け寄った。
二人は並んで託児所の方へ歩いていく。
山田はその後ろ姿を眺めた。
「……何というか、仲いいですね、あの二人」
「ああ。宍戸兵長、曹長の家に入り浸ってるらしいからな」
永野が答えた。
「もう家族みたいなもんなんでしょうね」
「かもな」
山田は少しだけ羨ましくなった。
フレデリカの家。
どんな家なのだろう。
彼女が母親として息子と接しているところなど、想像もつかない。
(見てみたいなあ……)
そんなことを考えていると、永野が肩を叩いた。
「おい、山田」
「はい?」
「何ぼーっとしてんだ?」
「いや、別に」
「また曹長のこと考えてただろ」
「ち、違いますって!」
「わかりやすい奴だな、お前」
永野は呆れたように笑った。
そして、大きく伸びをした。
「あー、疲れた!」
「ですねえ……」
「とりあえずシャワー浴びて飯食おうぜ。疲れたわ」
「そうですね。俺も腹減りました」
二人は兵舎へ向かって歩き出した。
「なあ、山田」
「何です?」
「二週間、どうする?」
「うーん。何しましょうね」
山田は考え込んだ。
休暇は二週間。
日本に帰れるわけでもないし、ベルノに親戚がいるわけでもない。
軍隊生活が始まって以来、これほど長い自由時間を与えられたことはなかった。
「とりあえず、寝ます」
「二週間ずっとか?」
「いや、そこまでは」
永野が笑った。
「しかし、転属かあ……」
山田がつぶやいた。
「お前、希望するのか?」
永野が聞いた。
「いや、まだ何とも。永野先輩は?」
「俺も特に考えてないな」
永野は肩をすくめた。
「まあ、転属希望と書いても、希望どおりに通るのはほんの一部だろうな」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろ。全員の希望を聞いてたら軍隊なんか成り立たねえよ。何か戦功でも挙げてりゃ、優先的に見てくれるんだろうけど」
「ああ、なるほど……」
山田は納得した。
確かに、自分はイジューム戦線で何か特別な手柄を立てたわけではない。
命令されたとおりに戦い、無事に帰ってきただけだ。
「じゃあ、希望を出しても意味ないんですかね?」
「いや、出すだけなら自由だろ。人員の都合が合えば通るかもしれねえし」
「なるほど」
「お前、どっか行きたい部隊でもあるのか?」
「いや、別に……」
山田は少し考えた。
フレデリカ曹長。
宍戸亜美兵長。
リリア上等兵。
メリーナ上等兵。
そして永野。
最初は変わった連中ばかりだと思ったが、今ではすっかり馴染んでいる。
特にフレデリカは、怖い上官ではあるものの、戦場では本当に頼りになった。
(わざわざ転属する理由もないよな……)
「まあ、今の分隊も悪くないですしね」
「そうだな。曹長は怖いけど、面倒見はいいしな」
「ですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「とにかく、今は休みだ。難しいことは後で考えようぜ」
「賛成です!」
山田は大きく伸びをした。
まずはシャワーだ。
それから食事。
そして、今夜は思いっきり眠ろう。
二週間の休暇。
山田直樹にとって、召喚されて以来、初めてのまとまった自由時間が始まろうとしていた。
* * *
翌日。
山田直樹が目を覚ましたのは、昼近くになってからだった。
「……ん?」
薄く目を開ける。
天井が見えた。
見慣れた兵舎の天井だった。
(ああ……ベルノに帰ってきたんだっけ)
寝ぼけた頭で、昨日のことを思い出す。
駅から駐屯地までの行進。
沿道を埋め尽くした市民。
そして、二週間の休暇。
(そうだ。今日は休みなんだ)
そう思うと、もう一度布団をかぶりたくなった。
戦線では、まともに眠れない日も多かった。
夜間の警戒勤務、砲撃、突然の非常呼集。
いつ何が起こるかわからない緊張感の中で、眠っていても気が休まらなかった。
だが、ここはベルノ駐屯地だ。
今は敵の砲撃を心配する必要もない。
「……最高だな」
思わず声が漏れた。
「おう、起きたか」
隣から声がした。
永野進一等兵だった。
すでに起きていたらしく、寝台に腰掛けて靴を履いている。
「永野先輩、おはようございます」
「もう昼だぞ」
「えっ?」
山田は慌てて時計を見た。
十一時四十分。
「うわ、マジか。こんな時間まで寝てたのか」
「よく寝てたな。死んでるんじゃないかと思ったぜ」
「いやあ、久しぶりにぐっすり眠れました」
「俺もだ。昨日は飯食って、そのまま寝ちまった」
山田は大きく伸びをした。
身体のあちこちが痛い。
昨日の行進が原因なのか、それとも戦線での疲労がまだ抜けていないのか。
とにかく、身体が重かった。
「腹減りましたね」
「食堂に行けば何かあるだろ」
「昼飯、まだですよね?」
「そろそろだな」
山田は寝台から降りた。
軍服を着なくてもいい。
訓練もない。
いつものような朝の集合もない。
何という素晴らしい日なのだろう。
「休暇って最高ですねえ」
「お前、昨日からそればっかりだな」
永野が笑った。
* * *
食堂で昼食を済ませた二人は、兵舎の談話室でくつろいでいた。
窓の外では、春の日差しが営庭を照らしている。
兵士たちの姿は普段より少ない。
実家のある者は、昨日のうちに帰ってしまったのだろう。
山田は椅子に深く腰掛けた。
「いやあ、平和ですねえ」
「そうだな」
永野は茶を飲みながら答えた。
「なあ、山田」
「はい?」
「たまには外泊でもするか?」
「外泊?」
「ああ。休暇中だから、総務科に行けば許可もらえるぞ?」
山田は少し考えた。
「外泊って、街の宿に泊まるってことですか?」
「そうだよ。二週間も兵舎にいる必要はないだろ」
「まあ、そうですね」
「せっかくベルノに帰ってきたんだ。街でうまいもの食って、酒でも飲んで、のんびりしようぜ」
「いいですねえ!」
山田は身を乗り出した。
思えば、ベルノに来てから街を自由に歩き回る機会はあまりなかった。
新兵教育中は外出にも制限があったし、正式配属されてからも訓練続きだった。
そして、そのままイジューム戦線へ出発してしまった。
「そういえば、ベルノの街って、あんまり見てないんですよね」
「俺もだよ。駐屯地の周りくらいしか知らねえ」
「宿屋って高いんですかね?」
「ピンキリだろ。安いところなら何とかなるんじゃねえか?」
「給料、結構残ってますしね」
「そりゃ、戦場じゃ使い道がなかったからな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「でも、外泊の許可って簡単にもらえるんですか?」
「休暇中だし、行き先と宿泊先を書けばいいはずだ。まあ、総務科で聞いてみようぜ」
「なるほど」
山田は頷いた。
「それにしても、二週間かあ……何して過ごしましょうね」
「とりあえず街を歩いてみるか。飯屋も探したいしな」
「いいですね。あ、風呂のある宿とかないですかね?」
「風呂?」
「日本みたいに湯船につかりたいんですよ。シャワーばっかりじゃなくて」
「それは俺も思うなあ」
永野はしみじみと頷いた。
「温かい湯につかって、うまい飯食って、ふかふかの布団で寝る。最高じゃねえか」
「まさに天国ですね!」
山田は目を輝かせた。
その様子を見て、永野がにやりと笑った。
「まあ、夜の楽しみもあるしな」
「夜の楽しみ?」
「お前、忘れたのか? 帝都で曹長に教えてもらったところ」
「あっ!」
山田は思わず声を上げた。
帝都アウグステンでの一夜。
フレデリカ曹長に市場裏の風俗街の場所だけ教えられ、二人で出かけたのだった。
しかも、まともな説明もなく、その場に放り出された。
当時の二人は、帝国共通語の看板もろくに読めなかった。
その結果、とんでもない失敗をしたのである。
「ベルノにも似たようなところ、あるんですかね?」
「そりゃ、あるだろ。七万人も住んでる街だぞ」
永野は茶を一口飲んだ。
「まあ、さすがに帝都の二の舞は嫌だけどな」
「……ああ」
山田は遠い目になった。
あの夜、二人が入ったのは、男の娘が相手をしてくれる店だった。
看板に何と書いてあったのか、当時の二人には理解できなかったのだ。
「今度はちゃんと看板を確認しましょうね」
「お前、読めるようになったのか?」
「前よりは読めますよ。宍戸さんに散々しごかれましたから」
「ああ、そういや補習やってたな」
「ええ。おかげで、普通の会話ならだいぶわかるようになりました」
「じゃあ、今度はお前に任せるわ」
「えっ、俺ですか?」
「責任重大だぞ、山田」
「嫌ですよ! 永野先輩も確認してください!」
永野は笑った。
「まあ、早口で話されたら、お前も怪しいけどな」
「……それは否定できません」
「とにかく、今度はちゃんと確認しようぜ」
「そうですね。あ、でも永野先輩好みの巨乳はいますかね?」
「……山田」
永野は妙に真剣な顔になった。
「はい?」
「今なら女であれば貧乳でもいい」
「えっ?」
山田は思わず永野の顔を見た。
「永野先輩……あんなに巨乳が好きだって言ってたじゃないですか」
「ああ、好きだよ。今でも大好きだ」
「じゃあ、なんで?」
「贅沢言ってる場合じゃねえんだよ!」
永野は力説した。
「いいか山田。巨乳か貧乳かなんてのは、二の次だ。まず女かどうか! そこが一番大事なんだ!」
「……なるほど」
山田は神妙に頷いた。
(この人、帝都で相当懲りたんだな……)
「それに、顔が好みなら胸なんか小さくても構わねえ」
「ずいぶん守備範囲が広くなりましたね」
「人間、戦場を経験すると価値観が変わるんだよ」
「いや、それ絶対、戦場のせいじゃないですよね?」
「うるせえ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「よし、山田。まずは総務科だ!」
「はい!」
永野は勢いよく立ち上がった。
その表情には、イジューム戦線から帰還した兵士らしい決意が満ちていた。
もっとも、決意の向かう先は戦場ではなく、ベルノの歓楽街だった。
* * *
その日の夕方。
外泊許可を受け、宿を確保した二人は、夜のベルノ市街へ繰り出した。
街灯に照らされた大通りには、昼間とは違う賑わいがあった。
酒場からは笑い声が漏れ、飲食店の前には客が並んでいる。
その中でも、とりわけ目立つのが軍人たちだった。
ベルノ連隊の帰還に伴い、まとまった休暇を与えられた兵士たちが一斉に街へ繰り出していたのである。
そして、兵隊の考えることは、だいたい同じだった。
「……満員ですか?」
山田が尋ねると、店の主人は申し訳なさそうに首を振った。
「悪いね。今日はもういっぱいなんだ。予約も全部埋まっちまってるよ」
「ええっ!」
隣で永野が露骨に肩を落とした。
これで三軒目だった。
一軒目は入口で断られた。
二軒目は順番待ちが十人以上。
そして三軒目も満員。
しかも、店の前で待っている客のほとんどが兵士だった。
「参ったなあ……」
永野がため息をつく。
「みんな考えること同じなんですね」
「そりゃそうだろ。二か月も戦場にいたんだぞ」
「まあ、そうですけど」
永野は未練がましく店の看板を見上げた。
「せっかく帰ってきたってのに……」
「永野先輩、かなり残念そうですね」
「当たり前だろ!」
即答だった。
山田は思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃねえぞ。俺はこの日をどれだけ楽しみにしてたと思ってるんだ」
「いや、俺だって楽しみにしてましたよ」
「まったく……」
永野はもう一度店の入口を眺めた。
そして、諦めたように肩をすくめた。
「しょうがねえ。とりあえず飲むか」
「そうですね。腹も減りましたし」
「どっか空いてる酒場でも探そうぜ」
二人は大通りへ戻った。
* * *
少し歩いたところに、賑やかな酒場があった。
木製の扉を開けると、酒と焼いた肉の匂いが鼻をくすぐった。
店内はかなり混雑していたが、幸い空席がいくつかあるようだった。
「ここにしましょうか」
「ああ、もう歩き疲れた」
二人が席を探していると、奥の方から声が飛んできた。
「おーい! 山田じゃないか!」
「えっ?」
振り向くと、見覚えのある二人が手を振っていた。
「井上! 川崎!」
第20期召喚者の井上翔太と川崎晴斗だった。
二人とも第1中隊に所属している。
「お前ら、いつ帰ってきたんだ?」
井上が尋ねる。
「昨日だよ。お前らは?」
「四日前。第1中隊は先に帰ってきたんだ」
川崎が答えた。
「そっか。お疲れ!」
「お前もな。そっちは永野先輩だろ?」
「ああ。久しぶりだな」
永野が片手を上げた。
「二人とも、一緒にどうです?」
川崎が隣の空席を指差した。
「いいのか?」
「もちろんですよ」
「じゃあ、お邪魔するか」
四人は同じ卓を囲んだ。
ほどなくして、麦酒の入ったジョッキと料理が運ばれてきた。
「とりあえず、無事帰還を祝って!」
井上がジョッキを持ち上げた。
「乾杯!」
四人のジョッキがぶつかった。
山田は冷えた麦酒を一気に喉へ流し込んだ。
「ぷはーっ! うまい!」
「いやあ、生き返るなあ」
永野も満足そうだった。
卓には焼いた肉、ソーセージ、じゃがいも料理が並んでいる。
「そういや、お前らも昇進するんだろ?」
山田が尋ねた。
「ああ。第20期で今回の戦線から生還した奴は、全員一等兵になるらしい」
川崎が答えた。
「うちの中隊でも説明があったよ。次の集合のときに正式な辞令が出るって」
「こっちも同じだ」
山田が頷いた。
「やっと二等兵卒業か」
井上が嬉しそうに言った。
「まあ、一等兵になったからって、急に何か変わるわけでもないけどな」
「給料は上がるだろ?」
「それはありがたい」
永野が笑った。
「お前らもようやく俺と同じ階級になるわけか」
「永野先輩、追いついちゃいますね」
「馬鹿野郎。軍歴は俺の方が一年長いんだぞ」
「はいはい、先輩」
山田が適当に答えると、永野に小突かれた。
* * *
しばらくは戦線での話になった。
「そういや第4中隊、南側の陣地に移ったんだろ?」
井上が尋ねた。
「ああ。最後の方はな」
「こっちも結構砲撃がひどかったんだよ。特に三月に入ってからは……」
井上はそこまで話して、言葉を止めた。
山田も、あの戦闘を思い出していた。
砲撃。
塹壕。
負傷者の叫び声。
そして、帰ってこなかった仲間たち。
「……第2中隊は、大変だったらしいな」
川崎がぽつりと言った。
誰もすぐには答えなかった。
第20期の仲間も大勢失われていた。
ベルノに帰ってきたからといって、その事実が消えるわけではない。
永野がジョッキを置いた。
「なあ、やめようぜ。戦線の話は」
三人が顔を上げた。
「せっかく休暇になったんだ。今夜くらい別の話をしようや」
「……そうですね」
山田が頷いた。
井上も苦笑した。
「悪い。つい話しちまった」
「いや、俺もだよ」
川崎が答えた。
四人はもう一度ジョッキを合わせた。
今度は静かな乾杯だった。
* * *
「ところで、お前ら」
永野が話題を変えた。
「女の話でもしようぜ」
「いきなりですね、先輩!」
川崎が吹き出した。
「いいじゃねえか。せっかく街に出てきたんだし」
「そういや、二人とも何かいいことあった?」
山田が尋ねた。
井上は首を横に振った。
「いや、別に。帰ってからは飯食って寝てばっかりだな」
「川崎は?」
「俺も似たようなもんだよ。昼間は街を歩いたりしてるけど」
「彼女でも作らないのか?」
「簡単に言うなよ」
川崎が笑った。
永野は大きくため息をついた。
「実は俺たち、さっきまで店を探してたんだよ」
「店?」
井上が首をかしげる。
山田が小声で説明した。
「あっちの店ですよ。夜の」
「ああ!」
井上はすぐに理解した。
「なるほどな」
「ところが、どこも満員でさ」
永野がぼやく。
「三軒回って全部駄目だった」
「そりゃ無理だろ」
川崎が笑った。
「俺たちが四日前に帰ってきたときも、そんな感じだったぞ」
「マジかよ!」
「ベルノ連隊の兵隊が一斉に休暇になってるんだ。みんな考えること同じだって」
井上も頷いた。
「しかも今は第1中隊も第4中隊も戻ってるしな。しばらく混んでると思うぞ」
「くそー……」
永野は心底残念そうだった。
「永野先輩、そんなに行きたかったんですか?」
井上が尋ねた。
「当たり前だろ! 二か月も戦場にいたんだぞ!」
「あははは!」
川崎が笑った。
山田は思いついたように口を開いた。
「そうだ。井上、川崎。お前ら、帝都の話って知ってる?」
「帝都?」
「俺と永野先輩が、出発前に行った店の話」
永野が慌てた。
「おい山田! その話はいいだろ!」
「えっ、何? 何があったんだ?」
井上が身を乗り出した。
「いや、実はですね……」
山田が事情を説明すると、井上は腹を抱えて笑い始めた。
「ぶははは! お前ら、男の娘の店に入ったのか!」
「笑うな!」
永野が怒鳴った。
「だって、看板が読めなかったんですよ!」
山田が弁解する。
川崎まで笑っていた。
「いやあ、それは災難だったな」
「お前、全然そう思ってねえだろ!」
「いやいや、思ってるって!」
四人の卓はすっかり賑やかになっていた。
「でも、今は大丈夫ですよ」
山田が胸を張った。
「宍戸さんに補習してもらって、帝国共通語もだいぶ上達しましたから」
「じゃあ、今度は間違えないな」
井上が言った。
「もちろん!」
「本当か?」
永野が疑わしそうに見る。
「……早口で言われなければ」
「駄目じゃねえか!」
また笑い声が上がった。
* * *
料理もだいぶ減り、四人のジョッキも何度か空になっていた。
永野は相変わらず未練があるらしい。
「しかし、せっかく外泊許可まで取ったのになあ」
「宿はもう決めてるんですか?」
川崎が尋ねた。
「ああ。安いホテルに一部屋取ってある」
「なら、別に今日じゃなくてもいいじゃないですか」
「わかってねえなあ、川崎」
永野が首を振る。
「こういうのは、気分が大事なんだよ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんだ」
そこで山田が、ふと思いついた。
「……じゃあ、ナンパでもします?」
三人が山田を見た。
「ナンパ?」
永野が聞き返す。
「はい。店がいっぱいなら、普通に女の子に声かければいいじゃないですか」
「お前、できるのか?」
「えっ?」
「ナンパだよ。女の子に声かけられるのか?」
山田は少し考えた。
「……やったことないです」
「おい!」
井上が吹き出した。
「言い出しっぺがそれかよ!」
「いや、日本じゃそういう機会なかったんですよ!」
「こっちでもないだろ」
川崎の指摘は容赦がなかった。
「まあ、そうだけど……」
永野は腕を組んだ。
「でも、悪くないかもしれねえな」
「えっ、やるんですか?」
「そりゃ、酒場なら女の子もいるだろ。話しかけてみるくらいはいいんじゃねえか?」
「なるほど」
井上が店内を見回した。
奥の方には、若い女性たちが数人で酒を飲んでいる卓があった。
別の卓では、男女の客が楽しそうに談笑している。
「でも、帝国共通語でナンパって、難しくないか?」
井上が言った。
「それな」
山田も頷いた。
「普通に話すだけなら何とかなるけど、冗談とか言われるとわかんないんだよな」
「山田、お前はまず言葉の問題か」
永野が呆れた。
「先輩だって似たようなもんでしょう!」
「俺はお前より一年長くいるんだぞ」
「じゃあ、先輩が声かけてくださいよ」
「……いや、そこは若い奴が」
「一年長いんじゃなかったんですか?」
川崎が笑い出した。
「先輩、逃げましたね」
「うるせえ!」
井上はまだ女性たちの卓を眺めていた。
「まあ、四人いれば何とかなるんじゃないか?」
「そうだな」
永野が頷く。
「一人で声かけるより、気が楽だろ」
「でも四人でぞろぞろ行ったら、警戒されませんかね?」
川崎がもっともなことを言った。
「確かに」
山田が頷いた。
四人はしばらく考え込んだ。
やがて永野が口を開いた。
「よし。とりあえず一人ずつ声をかけよう」
「誰から行くんです?」
山田が尋ねる。
永野は三人を見渡した。
「……ジャンケンで決めるか」
「そこは先輩が率先するところじゃないんですか?」
「馬鹿野郎! こういうのは公平に決めるんだよ!」
「さっきまで先輩面してたのに!」
井上と川崎が腹を抱えて笑った。
「よし、決めるぞ!」
永野が右手を差し出した。
「最初はグー!」
四人の声が重なった。
「ジャンケン、ポン!」
そして、最初に女性へ声をかける役が決まった。
井上翔太だった。
「クッソ! 俺かよ!」
井上は思わず頭を抱えた。
「ははは! 決まりだな!」
永野が嬉しそうに笑った。
「いや、ちょっと待てよ。俺、ナンパなんてやったことねえぞ!」
「みんな同じだって」
川崎が肩を叩いた。
「お前、帝国共通語だいぶ上手くなったからイケるって!」
「……そうか?」
「ああ。俺たちの中じゃ、お前が一番まともに話せるんじゃないか?」
井上はしばらく考えていたが、やがて勢いよく立ち上がった。
「よし! おう、やってやる!」
「おおっ!」
山田が拍手した。
「頑張れ、井上!」
「成功したら俺たちにも紹介してくれよ!」
永野が声をかける。
「うるせえ! まず俺が成功してからだ!」
井上は服装を整えた。
そして店内を見渡す。
「……あの人にするか」
井上が目をつけたのは、店の奥に座っている若い女性だった。
黒髪の、なかなか綺麗な女性だった。
淡い色のワンピースを着て、上品な雰囲気を漂わせている。
一人で食事をしているようだった。
「おお、いいじゃん!」
山田が小声で言った。
「結構美人だな」
永野も頷く。
「でも、ちょっと上品すぎないか? お前、大丈夫かよ」
川崎が心配そうに尋ねた。
「大丈夫だって! 見てろよ!」
井上は胸を張って歩き出した。
残された三人は、少し離れた席からその様子を観察した。
* * *
井上が女性の卓に近づいた。
軽く会釈して、何かを話しかけている。
女性が顔を上げた。
そして、にっこりと微笑んだ。
「おっ、反応いいぞ」
永野が身を乗り出す。
「断られてないですね」
山田も目を凝らした。
井上は女性に向かって何かを説明している。
おそらく、ベルノ連隊の兵士であることや、戦線から帰ってきたばかりだという話をしているのだろう。
女性は楽しそうに話を聞いていた。
「……あれ?」
山田は首をかしげた。
どこかで見た顔のような気がした。
しかし、店の奥は照明が少し暗い。
それに、あんな上品な服装の女性に知り合いがいただろうか。
「おい、見ろよ!」
永野が小声で叫んだ。
女性が席を立ったのだ。
井上は嬉しそうに何かを話している。
女性は笑顔で頷いた。
「えっ、もう?」
川崎が驚いた。
「早すぎないか?」
「マジかよ……」
永野が呆然とした。
二人が話し始めてから、まだ数分しか経っていない。
それなのに、女性は井上と一緒に店を出るつもりらしい。
「すげえ……」
山田も感心した。
「井上って、あんなにナンパ上手かったんだ」
「いや、あいつ自身も初めてだって言ってたぞ」
「じゃあ、才能ですかね?」
「そんな馬鹿な……」
永野は納得がいかない様子だった。
その間にも、井上と女性は並んで出口へ向かっていた。
井上は三人の席の近くを通りかかると、得意満面の笑みを浮かべた。
そして親指を立てた。
「悪いな、お前ら! 俺、先に行くわ!」
「お、おう……」
永野が間の抜けた返事をする。
「勘定頼むな!」
「はあっ!?」
山田が声を上げた。
「ちょっと待てよ! 自分の分くらい払ってけよ!」
だが、井上は聞こえないふりをしている。
女性はそんなやり取りを見て、口元に手を添えて上品に笑っていた。
「まったく、あいつ……」
川崎が呆れたように笑った。
「でも、すごいな。あっさり成功しちゃったよ」
「くそっ! 俺だって……」
永野は悔しそうにジョッキを握った。
一方、山田は女性の横顔をじっと見つめていた。
黒髪。
整った顔立ち。
上品な微笑み。
そして、どこか人をからかっているような、あの目。
(……あれ?)
女性がふと山田の方を向いた。
一瞬、目が合った。
女性はにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、山田はようやく気づいた。
「あ……」
「どうした、山田?」
永野が尋ねた。
山田は店の出口へ向かう二人を指差した。
「あ、メリーナさんだ」
「……は?」
永野が振り返った。
「あれ、メリーナさんですよ」
「……マジかよ!」
永野は思わず声を上げた。
そして、二人が店を出ていくのを呆然と見送った。
「これであいつも彼氏の一人か……」
「えっ?」
川崎が首をかしげた。
「誰? 知り合い?」
「ああ。うちの分隊のメリーナ上等兵だよ」
山田が答えた。
「ええっ! 軍人なのか、あの人!」
「はい。今日は私服だから、すぐにわかりませんでしたけど」
川崎は感心したように出口を見た。
「へえ……かなりの上物だよな。すげえ美人じゃん」
「ああ、確かに美人ではあるんだが……」
永野は何とも言えない表情を浮かべた。
山田も腕を組んだ。
「……この場合、成功と言えるんですかね?」
「さあなあ……」
永野は大きくため息をついた。
「俺、やる気が失せた」
「僕もです」
二人は揃ってジョッキに口をつけた。
川崎だけが、話についていけていなかった。
「ちょっと待てよ。どういうこと?」
「いや、あの人はなあ……」
永野は言葉を探すように天井を見上げた。
「何て言えばいいんだろうな。男を子種を出す道具ぐらいにしか思ってないよ」
「……は?」
川崎が固まった。
「いやいや、どういう意味だよ、それ!」
「言葉どおりの意味だよ」
「そんな女いるのか?」
「いるんだよ。しかも、うちの分隊にな」
山田が苦笑した。
「それに、メリーナさん、僕たちのこと見てましたね」
「ああ。間違いなく気づいてたな」
永野も頷いた。
「こっちを見て笑ってたもんな」
「ええ。あの笑顔、間違いありません」
山田は思い出していた。
店を出る直前、こちらに向けられたあの微笑み。
あれは間違いなく、山田たちに気づいたうえでの笑顔だった。
(あの人、絶対楽しんでるよな……)
「ちょっと詳しく教えろよ」
川崎が身を乗り出した。
「何がどうなってんだ?」
山田と永野は顔を見合わせた。
「……話すか?」
「まあ、井上のこともあるしな」
山田はジョッキを置いた。
「帰りの汽車で、メリーナさん、彼氏の数を把握していないって言ってましたよね」
「ああ、市内には3人あとはわからないってな」
永野が頷いた。
「第2中隊が全滅したから少し減りました、とも言ってたな」
「……え?」
川崎の表情が止まった。
「ちょっと待て」
「何だ?」
「今、何て言った?」
「第2中隊が全滅したから、彼氏が少し減ったって」
「……それ、冗談だよな?」
「いや、本人は普通に言ってたぞ」
山田も頷いた。
「ええ。いつもの笑顔で」
川崎はしばらく黙っていた。
第2中隊の惨状は、もちろん知っている。
同じ第20期の仲間も、大勢帰ってこなかった。
その戦死者の中に、彼女の交際相手が複数いたというのか。
しかも、それを人数が減ったという程度の調子で話したという。
「……すげえ女だな」
川崎はようやくそう言った。
「だろ?」
永野が頷く。
「美人だし、性格も普段は穏やかなんだよ。仕事もちゃんとするし、別に悪い人じゃない」
「そうなんですよね」
山田が続けた。
「誰にでも優しいし、いつも上品で、怒ってるところなんて見たことないです」
「じゃあ、いい人なんじゃないのか?」
「いや、そうなんですけど……」
山田は困ったように頭をかいた。
「何というか、男に対する考え方が、僕たちと根本的に違うんですよ」
「どう違うんだ?」
「……たぶん、井上のことも、気に入ったから連れていったんだと思います」
「そりゃ、ナンパなんだからそうだろ」
「そうなんですけど、井上が考えてるような付き合いとは、ちょっと違うかもしれません」
川崎は腕を組んだ。
「うーん……」
まだ納得できないらしい。
「でもさ、別に独身同士なんだろ? 何人と付き合おうが本人の自由じゃないか?」
「まあ、そうなんだけどな」
永野が頷いた。
「問題は、本人が何人いるか覚えてねえってことだよ」
「……ああ」
ようやく川崎も苦笑した。
「それは確かに、すげえな」
「しかも、さっきの井上を見ただろ?」
山田が言った。
「あいつ、完全に自分がナンパに成功したと思ってましたよね」
「ああ、得意満面だったな」
「でも、メリーナさんは僕たちに気づいてました」
「つまり?」
「……どっちが誘ったのかわかりませんよね」
永野が吹き出した。
「ははは! 確かにな!」
川崎もようやく笑い出した。
「何だよ、それ! 井上、逆に引っかかったのか?」
「たぶんな」
永野はジョッキを持ち上げた。
「まあ、本人が喜んでるならいいんじゃねえか?」
「そうですね」
山田も頷いた。
「でも、明日井上に会ったら、何て言えばいいんですかね?」
「何も言わなくていいだろ」
永野は笑った。
「あいつ、絶対自慢してくるぞ」
「でしょうねえ……」
「そのときは、黙って聞いてやろうぜ」
三人は顔を見合わせた。
そして、一斉に笑い出した。
「しかし、あいつ運がいいのか悪いのか……」
川崎がつぶやく。
「少なくとも、今夜は運がいいと思ってるだろうな」
永野が答えた。
「明日も同じこと言ってるかは知らねえけど」
「いやあ、どうでしょうね」
山田は苦笑した。
(井上、お前、相手が誰だかわかってるのかな……)
そのとき、給仕が空になった皿を下げに来た。
「追加のご注文は?」
永野は一瞬考えてから答えた。
「麦酒、三つ追加で」
「かしこまりました」
給仕が立ち去る。
川崎がふと思い出した。
「そういや、井上の勘定どうする?」
三人は顔を見合わせた。
「……あ」
山田が声を漏らした。
永野が額を押さえた。
「あの野郎! 女だけじゃなくて、勘定まで俺たちに押しつけていきやがった!」
「はははは!」
川崎が腹を抱えて笑った。
「まあ、今夜は井上の祝儀ってことで!」
「ふざけんな! 明日絶対取り立ててやる!」
永野はそう叫んで、残った麦酒を飲み干した。
山田はもう一度、店の出口を眺めた。
井上とメリーナは、とうに姿を消している。
(……しかし、メリーナさんって、本当に何考えてるんだろうな)
いつも穏やかで、誰にでも優しい。
そして、笑顔で人を刺す。
あの上品な微笑みを思い出し、山田は小さく身震いした。
今夜のベルノは、どうやら思っていた以上に刺激的な街らしかった。
* * *
翌日の昼前。
山田と永野は、昨夜から泊まっているベルノ市内のホテルで、のんびりと過ごしていた。
昨夜は結局、酒場でかなり飲んでしまった。
二人ともまだ少し頭が重い。
「いやあ、昨日は飲みましたねえ」
山田が寝台に腰掛けながら言った。
「ああ。おまけに井上の分まで払わされたしな」
永野は苦々しい顔をした。
「あいつ、次に会ったら絶対取り立ててやる」
そのときだった。
コンコン。
部屋の扉が叩かれた。
「おーい! 山田! 永野先輩! いるかー!」
聞き覚えのある声だった。
「あれ、井上?」
山田が扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた井上翔太が立っていた。
「よう!」
「……お前かよ」
永野が呆れたように言った。
井上は勝手に部屋へ入ると、空いていた椅子に腰を下ろした。
「いやあ、昨日は悪かったな!」
まったく悪びれた様子がない。
「お前、わざわざ俺たちのホテルに自慢しに来たわけ?」
永野が尋ねた。
「当たり前だろ! これ自慢しなかったら、いつ自慢するんだよ!」
井上は胸を張った。
「いやあ、昨日は最高だったぜ!」
「はいはい、よかったな」
永野の返事は投げやりだった。
「しかもさ、あの子、ベルノ市民なんだって。今日も会ってくれるってさ!」
「へえ……」
山田が頷いた。
「確かにメリーナさん、ベルノ市に実家があるって言ってましたね」
「……え?」
井上の動きが止まった。
「おい、山田。なんだ、お前、知り合いかよ?」
「ええ。まあ」
永野が横から口を挟んだ。
「知り合いも何も、うちの分隊の上等兵だよ」
「……は?」
「メリーナ上等兵。第4中隊の古参兵だ」
井上は目を丸くした。
「マジかよ! あの子、軍人だったのか!」
「お前、知らなかったのか?」
「いや、昨日はそんな話しなかったぞ。ベルノに住んでるとは聞いたけど」
「まあ、私服だったからな」
永野は肩をすくめた。
「でも、よかったじゃねえか。彼女にはなってくれるんじゃないかな」
「だろ!?」
井上が嬉しそうに身を乗り出す。
永野は真顔で続けた。
「たぶんセックスは上手いと思うぞ」
「……え?」
「経験豊富なのは確かですね」
山田も頷いた。
「お、お前ら、何なんだよ!」
「いや、別に褒めてるんだよ」
永野が答えた。
「ただし、お試し期間は一か月だ。頑張れよ」
「……一か月?」
井上が首をかしげた。
「何だよ、そのお試し期間って」
「まあ、いろいろあるんだよ。詳しくは本人に聞いてみろ」
「何だよ、それ!」
永野はにやりと笑った。
「ところで井上。お前、アレ大きい方か?」
「……は?」
井上が固まった。
あまりにも唐突な質問だった。
「いや、その……たぶん大きい方だとは思う」
「なら大丈夫だ!」
永野は勢いよく膝を叩いた。
「山田なんか小さいって言われたからな! 最初から門前払いだ!」
「ぶはははは!」
永野は腹を抱えて大笑いした。
「ちょっと! 永野先輩!」
山田が真っ赤になった。
「今ならシャワー室で言われた言葉はわかるだろう?」
「そりゃ、わかりますけど!」
山田は顔をしかめた。
「あの話、心に刺さって、ダメージ大きいんですから! ほじくり返さないでくださいよ!」
「はははは! 悪い悪い!」
永野は笑いが止まらなかった。
井上まで吹き出した。
「おい山田! お前、そんなこと言われたのかよ!」
「……言われましたよ!」
「ぶははは!」
「井上! お前まで笑うな!」
山田はますます不機嫌になった。
(くそっ! せっかく忘れようとしてたのに!)
永野は目尻の涙を拭った。
「いやあ、笑った。まあ、そういうわけだ。メリーナさんにとっては顔よりアレが重要なんだよ。お前、さっさとやらないと捨てられるぞ」
「そんなに!?」
井上が驚いた。
「男として役に立たなければ、メリーナさんにとっては意味ないですしね」
山田が真顔で付け加えた。
永野は呆れたように笑った。
「しかし、お前、昨日のナンパは大成功だったと思ってるんだろうな」
「当たり前だろ!」
「俺は逆だと思うけどな。メリーナさんの方がお前を捕まえたんだよ」
「何だよ、それ!」
「昨日、あの人は俺たちに気づいてたぞ」
井上は少し考えた。
そして、にやりと笑った。
「じゃあ、俺に一目惚れしたってことか?」
「お前、どこまで前向きなんだよ!」
永野が叫んだ。
山田も思わず笑ってしまった。
「まあ、いいじゃねえか。今日も会ってくれるんだから」
井上は満足そうだった。
「ところで井上」
永野が手を差し出した。
「何です?」
「昨日の酒代」
「……え?」
「お前の分、俺たちが払ったんだよ」
「あっ」
井上の顔から笑みが消えた。
「勘定頼むなって言って出ていっただろ!」
「いやあ、あれは勢いで……」
「勢いで済むか!」
井上は渋々財布を取り出した。
「わかったよ! 払うよ!」
「最初からそうしろ!」
紙幣を受け取ると、永野はようやく満足した。
「じゃあ、俺、そろそろ行くわ!」
井上が立ち上がった。
* * *
その日の夕方。
井上翔太は、メリーナとの待ち合わせ場所に向かっていた。
ホテルで山田と永野から聞かされた話が、少しだけ頭に引っかかっていた。
一か月のお試し期間。
それに、男は顔よりアレが重要だという話。
(……まあ、いいか)
井上は考えるのをやめた。
何しろ、相手はあの美人だ。
昨日は自分から声をかけたとはいえ、まさか今日も会ってくれるとは思っていなかった。
待ち合わせ場所には、すでにメリーナが来ていた。
淡い青色のワンピースを着た彼女は、井上に気づくと嬉しそうに微笑んだ。
「井上さん、こんにちは」
「あっ、こんにちは!」
「ふふっ。そんなに緊張なさらなくてもいいんですよ」
「いや、別に緊張なんか……」
「そうですか?」
メリーナは楽しそうに笑った。
そして、ごく自然に井上の腕を取った。
(うおお……!)
井上は内心で歓声を上げた。
日本にいた頃、女性にこんなことをされた記憶はない。
しかも、相手はとびきりの美人だった。
(やっぱり、俺って運がいいんじゃねえか?)
井上はすっかり上機嫌になった。
* * *
二人は街で食事を楽しんだ。
井上が日本の軍事技術について話すと、メリーナは興味深そうに耳を傾けた。
戦車や航空機の話など、普通の女性なら退屈するような話題にも、彼女は笑顔で質問してくれる。
「井上さん、本当に軍隊のことがお好きなんですね」
「まあ、日本にいた頃からの趣味みたいなもので……」
「ふふっ。好きなことを楽しそうに話す方って、私、好きですよ」
井上は照れくさくなった。
(……いい人だなあ)
美人なだけではない。
優しくて、話もよく聞いてくれる。
山田たちは何やら警戒していたが、井上には何が問題なのか、さっぱりわからなかった。
食事を終える頃には、二人の距離はすっかり縮まっていた。
そして、その夜。
二人はホテルの一室で結ばれた。
* * *
「井上さん」
隣で横になっていたメリーナが、柔らかな声で呼びかけた。
「はい?」
「よかったですよ」
「えっ?」
「私も、久しぶりに相性のいい方と会えて嬉しいです」
メリーナは満足そうに微笑んだ。
井上は顔が熱くなるのを感じた。
(……マジかよ)
こんな美人に、そんなことを言ってもらえるなんて。
天にも昇る気持ちだった。
「いや、俺の方こそ……」
うまく言葉が出てこない。
メリーナはそんな井上を見て、くすくす笑った。
「井上さんって、可愛らしい方ですね」
「か、可愛らしいですか?」
「ええ。とても素直で」
井上はますます照れてしまった。
しばらくして、メリーナが思い出したように口を開いた。
「そういえば、井上さん」
「はい?」
「山田さんから、私のことを聞いてますよね?」
井上はぎくりとした。
「……ええ、まあ」
「ふふっ。やっぱり」
メリーナは楽しそうに微笑んだ。
「昨日、お店に山田さんと永野さんがいらしたでしょう?」
「あっ、気づいてたんですか?」
「もちろんです。同じ分隊の仲間ですもの」
「じゃあ、俺があいつらと一緒にいたのも……」
「ええ。知っていましたよ」
井上は思わず苦笑した。
(あいつらの言ったとおりじゃねえか……)
「それで、何か気になることでもありました?」
メリーナが尋ねた。
井上は少し迷った。
しかし、思い切って聞いてみることにした。
「……一か月って、本当ですか?」
「一か月?」
「その、付き合う期間です。一か月くらいで彼氏を替えるって……」
「ああ、そのことですか」
メリーナは納得したように頷いた。
そして、いつもの穏やかな笑顔で答えた。
「そんなことないですよ」
「えっ?」
「井上さんなら、長くお付き合いできると思います」
「……本当ですか?」
「ええ。身体の相性がいい方って、なかなかいないですからね」
さらりと言ってのけた。
井上は返事に困った。
(……なるほど)
永野が言っていたことも、まったくの冗談ではなかったらしい。
メリーナは続けた。
「私、子供が欲しいんです」
「……子供ですか?」
「はい。ですから、いろいろな方とお付き合いしています」
その口調は、夕食の献立でも話すように自然だった。
「それって……今も、ほかに彼氏がいるってことですか?」
「ええ」
メリーナは少しも悪びれずに頷いた。
「でも、しばらくは井上さんだけですよ。父親が誰かわからなくなるのは嫌ですからね」
「……えっ?」
井上は思わずメリーナの顔を見た。
「それって、俺との子供を……?」
「お嫌ですか?」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「い、いや! そんなことないです!」
井上は慌てて答えた。
「ふふっ。よかった」
メリーナは、さりげなく井上の同意を取り付けた。
井上は改めて、隣にいるメリーナを見つめた。
艶やかな黒髪、整った顔立ち、上品な物腰。
どう見ても、自分には不釣り合いなくらいの美人だった。
日本にいた頃の自分なら、声をかけることすらためらっただろう。
軍事の話ばかりして、女の子に相手にされなかった自分。
そんな自分を、この美人は気に入ってくれた。
しかも、長く付き合いたいと言ってくれている。
ふと、永野の言葉が頭をよぎった。
『あの人にとって男は顔よりアレだよ』
(……まあ、いいか。俺、もともと顔には自信ねえし)
井上は妙に納得した。
そして、心の中で確信した。
(こんなチャンス、二度と来ないぞ……)
そのとき、メリーナが井上の様子に気づいた。
「あら、元気になりましたね」
彼女はいつもの上品な笑顔で、さらりと尋ねた。
「もう一度します?」
「はい!」
井上は反射的に答えた。
メリーナはくすりと笑うと、そっと井上に顔を近づけた。
そして、優しく唇を重ねた。
井上は、天にも昇るような幸せを感じていた。
* * *
それから数日後。
山田と永野は、ようやく念願を果たしていた。
あれほど混雑していたベルノの歓楽街も、帰還兵たちの休暇が進むにつれて、少しずつ客足が落ち着いてきたのである。
二人は無事に店へ入ることができた。
しかも、今度は看板をしっかり確認した。
帝都の失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
* * *
店を出た二人は、近くの酒場に入った。
「いやあ、よかったなあ!」
永野は実に満足そうだった。
席に着くなり、上機嫌で麦酒を注文する。
「山田、どうだった?」
「ええ。可愛い女の子でしたよ」
「そうかそうか!」
永野は嬉しそうに頷いた。
「アレも付いてませんでした」
「……お前なあ」
永野の笑顔が消えた。
「せっかくいい気分だったのに、台無しだよ!」
「いや、重要な確認事項でしょう?」
「もう帝都の話は忘れろ!」
「永野先輩だって、店に入る前に看板を三回も確認してたじゃないですか」
「うるせえ!」
山田は笑った。
しかし、永野はふと首をかしげた。
「……で、お前、何か不満でもあったのか?」
「えっ?」
「いや、何となく元気がねえからさ」
「そんなことないですよ」
「そうか?」
永野は麦酒を一口飲んだ。
「俺は大満足だったぞ。お前も可愛い子だったんだろ?」
「ええ。すごく可愛かったです。優しかったですし」
「じゃあ、何が不満なんだよ?」
「いや、別に不満ってわけじゃ……」
山田は腕を組んだ。
確かに、相手の女性に不満はなかった。
むしろ、予想以上に可愛らしい女性だった。
それなのに、何となく物足りない。
永野はしばらく山田を眺めていたが、やがて呆れたように口を開いた。
「なあ、山田」
「はい?」
「お前、女と遊ぶより曹長に蹴られる方がいいのか?」
「……あ」
山田は思わず顔を上げた。
フレデリカ曹長。
小柄な身体に可愛らしい顔立ち。
それなのに軍歴十二年の歴戦の軍人で、しかも十歳の子持ち。
そして、あの容赦のない蹴り。
(……ああ、あれだ)
山田は納得した。
そして、真顔で答えた。
「……そうみたいです」
「…………」
永野は固まった。
「おい、山田」
「はい?」
「俺、冗談で言ったんだぞ」
「僕は真面目に答えましたけど」
「……お前、重症だな」
「自分でも、ちょっとそう思います」
永野は深いため息をついた。
「曹長は子持ちだぞ?」
「知ってますよ」
「しかも、お前の上官だぞ?」
「それも知ってます」
「おまけに、あの人の蹴りは本気で痛えぞ?」
「……ですよね。でも、気持ちいいのも確かなんですよね。あの一発を喰らうと、覚醒するような気がするんですよ」
「…………」
永野はしばらく山田を見つめていた。
「……お前、何に覚醒するつもりなんだ?」
「いや、もう覚醒してるのかもしれません」
「自分で言うな!」
山田は真剣な顔で頷いた。
「だって、あんなに小柄で可愛いエルフの女性が、歴戦の軍人で曹長なんですよ。しかも子持ちですよ!」
「いや、それは知ってるけどよ」
「属性マシマシじゃないですか!」
「何の属性だよ!」
「しかも、あの可愛い顔で怒鳴るんですよ! 容赦なく蹴ってくるんですよ!」
山田は目を輝かせた。
「最高じゃないですか!」
「……駄目だ、こいつ」
永野は天井を仰いだ。
「お前、曹長が何のために蹴ってると思ってんだ?」
「もちろん、部下を鍛えるためですよ!」
「わかってるならいいけどよ……」
「だからいいんじゃないですか! 曹長は真剣なんですよ!」
永野はとうとう言葉を失った。
* * *
山田はしばらく黙ってジョッキを眺めていた。
そして、何かを決心したように顔を上げた。
「永野先輩」
「何だ?」
「僕、分隊に残ろうと思います」
「……は?」
永野はジョッキを持ったまま固まった。
「転属希望、出さないことにします」
「お前……」
永野は呆れたように山田を見た。
「お前、風俗でそれ決めるか? 重症だな」
「いや、そう言われると困るんですけど……」
「普通、転属するかどうかって、もうちょっと真面目に考えるもんだろ!」
「僕は真面目ですよ!」
「どこがだよ!」
永野はとうとう吹き出した。
「ははは! 駄目だ! お前、本当に曹長に惚れてるんだな!」
「そ、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、何だよ?」
山田は少し考えた。
「……やっぱり、今の分隊が好きなんですよ」
「ほう?」
「宍戸さんも、リリアさんも、メリーナさんもいますし。永野先輩だっているじゃないですか」
「お、俺も入ってるのか」
「そりゃ、もちろんですよ」
「そうかそうか」
永野は満更でもなさそうに頷いた。
「で、一番は曹長なんだろ?」
「もちろんです!」
即答だった。
「……お前、もう隠す気もねえのか」
永野は呆れたように笑った。
「まあ、俺も転属希望はねえからな。また一緒だな」
「はい!」
二人はジョッキを合わせた。
山田は麦酒を一口飲むと、しみじみと言った。
「しかし、早く訓練再開しませんかね。僕、曹長の顔が見たいです」
「……お前、まだ休暇が一週間以上残ってるんだぞ」
永野は呆れたように山田を見た。
「こりゃ、曹長の方が転属願い出しそうだな」
「それは困ります!」
山田は真剣な顔になった。
「たぶん、曹長がいないと僕は死ぬと思います」
「…………」
永野はしばらく山田を見つめていた。
そして、深いため息をついた。
「……曹長も大変だな」
山田は不思議そうに首をかしげた。
「何がです?」
「いや、何でもねえよ……」
永野は黙って麦酒を飲んだ。
こうして山田直樹は、二週間の休暇の最中、ベルノの歓楽街で今後の軍人生活について一つの決断を下した。
第4中隊、フレデリカ曹長の分隊に残る。
本人としては、至って真面目な決断だった。