ベルノ連隊駐屯地に、第4歩兵中隊の兵士たちが再び集まっていた。
休暇を終えた兵士たちは、久しぶりに顔を合わせた仲間と近況を報告し合っている。山田直樹も、その一人だった。
ただし、山田には仲間との再会以上に楽しみにしていたことがあった。
「あっ……」
整列する兵士たちの間から、小柄なエルフの女性が歩いてくるのが見えた。
フレデリカ曹長だった。
いつもの軍服。いつもの厳しい表情。
山田の顔が自然とほころんだ。
(フレデリカ曹長だ……!)
休暇中は好きなだけ寝られたし、誰からも怒鳴られなかった。訓練もなければ、重い装備を背負って走る必要もない。
それなのに、山田は休暇の後半になると、妙に物足りなさを感じていた。
今、その理由がはっきりした。
(やっぱり訓練の方がいいなあ……)
我ながら、少々おかしなことを考えている自覚はあった。
「山田、何をニヤニヤしてるんだ?」
隣にいた永野進が声をかけた。
「いえ、別に」
「……お前、休暇が終わって嬉しいのか?」
「まあ、そうですね」
永野は呆れたように山田を見た。
「変な奴だな、お前」
その理由については、あえて尋ねなかった。だいたい想像がついていたからだ。
* * *
再集結した第4中隊に対し、中隊長から訓示が行われた。
「諸君、休暇は十分に取れたと思う。まずは全員が無事に戻ってきたことを喜びたい」
整列した兵士たちが中隊長の話に耳を傾ける。
「連隊全体の再編成については、まだ具体的な日程が決まっていない。新たな命令があるまで、我々は現状の編成を維持し、通常訓練を継続する」
中隊長は兵士たちを見渡した。
「もっとも、休暇明けだ。いきなり本格的な演習に入るつもりはない。まずは鈍った身体を元に戻してもらう」
何人かの兵士が、嫌な予感を覚えた。
「最初の三日間は、中隊全体で基礎体力訓練を実施する。各小隊長、分隊長はそのつもりで準備するように」
こうして、第4中隊の訓練が再開された。
* * *
訓練初日。
「全員、走れ! 遅れるな!」
駐屯地の外周道路を、第4中隊の兵士たちが走っていた。
休暇で鈍った身体を鍛え直すためのランニングだった。最初のうちは余裕があった山田も、しばらくすると息が上がってきた。
(あれ……?)
休暇前なら、もう少し楽に走れたはずだった。
近くを走っていた永野も、すっかり息が上がっている。
「はあ……はあ……思ったより体力が落ちてましたね……」
「俺もだ……」
二人の足が徐々に遅くなる。
そのときだった。
「山田! 永野! 何をやっている!」
聞き慣れた声が飛んできた。フレデリカ曹長だった。
「たったこれだけで音を上げるな! 休暇中、何をしていた!」
「は、はいっ!」
「返事だけは元気だな! 足を動かせ!」
「はいっ!」
山田は慌てて速度を上げた。
肺が苦しい。足も重い。しかし、不思議なことに気分は悪くなかった。
(ああ……久しぶりだなあ……)
あの声。あの厳しい口調。自分に向けられる叱責。
(やっぱり、戻ってきてよかった……)
山田は疲労で顔を歪めながらも、どこか嬉しそうだった。
「山田! 何を笑っている!」
「い、いえっ! 何でもありません!」
「余裕があるならもっと速く走れ!」
「はいっ!」
山田はさらに速度を上げた。
その様子を見ていた永野が、疲れ切った声で呟いた。
「……山田」
二日目は筋力訓練が中心だった。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。休暇中に怠けていた兵士たちには、なかなか厳しい内容だった。
「山田! 腰が落ちている!」
「はいっ!」
「永野! あと十回!」
「じゅ、十回ですか!?」
「口答えする元気があるなら二十回!」
「はいっ!」
山田は腕を震わせながら、必死に身体を持ち上げた。フレデリカがすぐ近くを歩いている。
「山田! 最後までやれ!」
「はいっ!」
その声を聞くと、もう一回頑張れる気がした。
(やっぱり曹長はいいなあ……)
限界に近い状態なのに、なぜか幸せだった。
三日目も、ランニングと筋力訓練が続いた。
訓練が終わる頃には、山田も永野もすっかり疲れ果てていた。
「山田、大丈夫?」
宍戸亜美兵長が声をかけた。
「はあ……はあ……だ、大丈夫です……」
「顔、真っ赤じゃん」
「ちょっと……疲れました……」
そこへフレデリカがやってきた。
「山田、だらしないぞ。たった三日でその有様か」
「す、すみません!」
「明日からは通常訓練に戻る。しっかり身体を休めておけ」
「はいっ!」
フレデリカが立ち去っていく。山田はその後ろ姿を、嬉しそうに見送っていた。
宍戸はそれを見逃さなかった。
「……山田」
「はい?」
「フレっちに怒られるの、嬉しい?」
「えっ!?」
山田が露骨に動揺した。
「そ、そんなことないですよ!」
「ふーん。でもさ、さっき怒られたとき、笑ってたよね?」
「そ、それは……」
「しかも、疲れてるはずなのに、フレっちが来ると元気になるし」
「いや、あの……」
宍戸は小さくため息をついた。
(……症状、悪化してるわね)
休暇を挟めば少しは落ち着くかと思っていたのだが、どうやら逆効果だったらしい。
当の山田は、翌日からの通常訓練を楽しみにしていた。
* * *
基礎体力訓練が終わり、第4中隊は通常訓練に戻った。
その日の午前中、山田たちの小隊に割り当てられたのは格闘訓練だった。
「今日は小隊内で組み手をやる。実戦を想定した徒手格闘だ。相手を制圧するか、降参させれば勝ちとする」
小隊長の説明に、兵士たちがざわついた。
訓練場には砂が敷かれ、周囲に兵士たちが集まっている。久しぶりの格闘訓練ということもあり、どこか競技会のような雰囲気になっていた。
「山田、格闘は得意?」
宍戸が声をかけてきた。
「いや、普通だと思いますけど」
「ふーん。じゃ、頑張ってね」
「宍戸兵長は参加しないんですか?」
「アタシは衛生兵だから、今日は怪我人の面倒を見る係。まあ、仕事がない方がいいんだけどね」
宍戸は笑った。
その隣では、メリーナ上等兵がいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
黒髪を後ろにまとめた、上品な顔立ちの女性である。
「山田さん、お互い頑張りましょうね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
山田は軽く頭を下げた。
(メリーナさんか……)
物腰が柔らかく、いつも丁寧な言葉遣いをする女性だった。正直なところ、格闘訓練にはあまり向いていないように見える。
そんなことを考えていた山田だったが、その認識は間もなく覆されることになった。
* * *
最初の数試合が終わり、メリーナの番になった。
相手は小隊の男性兵士だった。体格はメリーナより一回り大きい。
「よろしくお願いします」
メリーナが丁寧に一礼する。
「おう。怪我しないようにな」
相手の兵士も構えを取った。
開始の合図がかかる。
男性兵士が前に出た。
次の瞬間だった。
メリーナが半歩踏み込み、伸びてきた腕を取った。身体を回転させる。
「うわっ!」
男性兵士の身体が宙に浮いた。そのまま背中から砂の上に落ちる。
メリーナは腕を離さず、相手の関節を押さえていた。
「降参しますか?」
「……ま、参った!」
勝負は一瞬だった。
「えっ?」
山田は思わず声を出した。何が起きたのか、よく分からなかった。
メリーナは相手の腕を離すと、手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
男性兵士がその手を取って立ち上がる。
メリーナは何事もなかったように、にこりと笑った。
「ありがとうございました」
(……え?)
山田は呆然としていた。
その後もメリーナは勝ち続けた。
相手が大柄な兵士でも関係なかった。掴みかかってきた腕をかわし、体勢を崩して投げる。組みつかれても、巧みに身体を入れ替えて逆に相手を倒す。
力任せではない。相手の動きをよく見て、わずかな隙を逃さないのだ。
しかも、ほとんど息が乱れていない。
「……メリーナさんって、あんなに強かったんですか?」
山田が呟いた。
隣の永野が、呆れたように答えた。
「お前、知らなかったのか?」
「全然……」
「古参兵だぞ、あの人」
それは分かっている。だが、普段のメリーナからは、あの格闘能力を想像できなかった。
そして次の試合。
山田の相手は、そのメリーナだった。
* * *
「次、山田とメリーナ!」
名前を呼ばれた山田は、思わずメリーナを見た。
メリーナはにこやかに微笑んでいる。
「よろしくお願いしますね、山田さん」
「よ、よろしくお願いします……」
山田が訓練場に出ると、周囲から声が飛んだ。
「おーい、メリーナ! 手加減しろよ!」
「山田はまだ新人みたいなもんだからな!」
「怪我させるなよ!」
どうやら周囲の古参兵たちは、メリーナの強さをよく知っているらしい。
「分かっていますよ」
メリーナは笑顔で答えた。その笑顔を見て、山田は少し安心した。
(まあ、訓練だし……)
開始の合図がかかった。
山田は慎重に構えた。相手が強いことは、もう十分に分かっている。
まずは様子を見よう。
そう考えた瞬間、メリーナが動いた。
速い。
山田が反応したときには、もう間合いに入られていた。
「えっ――」
腕を取られた。次の瞬間、足が地面から離れた。
「うわあっ!」
背中に衝撃が走る。
気がつくと、山田は砂の上に仰向けになっていた。しかも、右腕を完全に押さえられている。
「降参しますか?」
目の前に、メリーナの穏やかな顔があった。
「あ……はい。参りました……」
「ありがとうございました」
メリーナはすぐに手を離した。
周囲から笑い声が上がる。
「おい山田、何もできなかったな!」
「だから言っただろ、メリーナは強いって!」
「ちゃんと手加減してもらってよかったな!」
山田は起き上がりながら、首を傾げた。
(……今、何が起きたんだ?)
本当に何もできなかった。殴るどころか、相手に触れることさえできていない。
「山田さん、大丈夫ですか?」
メリーナが心配そうに尋ねてきた。
「あ、はい。大丈夫です」
「よかったです」
にっこりと微笑む。
(……怖っ!)
山田は初めて、メリーナという女性の恐ろしさを理解した気がした。
あの笑顔のまま、人を投げ飛ばせるのだ。
(やっぱりこの人、笑顔で人を刺すタイプなのかもしれない……)
「山田、お疲れー!」
宍戸が笑いながら近づいてきた。
「いやあ、見事に転がされたね!」
「……まったく相手になりませんでした」
「まあ、メリーナは強いからねえ」
「先に教えてくださいよ……」
「聞かれなかったし?」
山田はため息をついた。
* * *
一方、フレデリカ曹長も順調に勝ち上がっていた。
山田は当然、その試合を熱心に見ていた。
次の相手は、小隊でも特に身体の大きな男性兵士だった。身長は百九十センチ近くあるだろうか。
筋骨隆々とした体格で、フレデリカとは頭二つ以上の身長差がある。
「曹長、よろしくお願いします!」
「遠慮はいらんぞ」
フレデリカは平然と言った。
開始の合図がかかる。
大男が両腕を広げ、フレデリカを捕まえようとした。
しかし、フレデリカはその腕の下をするりと抜けた。
「遅い!」
大男が振り向こうとする。
その瞬間、フレデリカの身体が動いた。片腕を取り、相手の重心を崩す。
大男の巨体が傾いた。
「うおっ!?」
次の瞬間には、砂の上に転がされていた。
フレデリカはその背後に回り、腕を固めている。
「参ったか?」
「ま、参りました!」
「よし」
フレデリカが手を離した。
大男は起き上がりながら、苦笑した。
「いやあ、やっぱり曹長には勝てませんね」
「お前は力に頼りすぎだ。相手の動きを見ろ」
「はい!」
フレデリカはそれだけ言うと、訓練場の外へ出た。
山田は目を輝かせていた。
(すごい……!)
あんな大男を、あっという間に倒してしまった。
あの小さな身体のどこに、そんな力があるのだろう。いや、力ではない。技術と経験なのだ。
(やっぱりフレデリカ曹長は最高だ……!)
山田は心の中で拍手していた。
「……山田」
隣で宍戸が呟いた。
「顔、すっごいことになってるよ」
「え?」
「いや、いいけどさ……」
宍戸はそれ以上、何も言わなかった。
(ほんっと、重症だわ……)
* * *
そして、最後の試合となった。
勝ち残ったのは、フレデリカ曹長とメリーナ上等兵だった。
「決勝はフレデリカ曹長とメリーナ上等兵!」
周囲の兵士たちから歓声が上がる。
「おおっ、やっぱりこの二人か!」
「今度こそメリーナが勝つか?」
「いや、曹長だろ!」
どうやら、この組み合わせは小隊では珍しくないらしい。
山田は驚いていた。
(えっ……メリーナさんって、曹長と同じくらい強いの?)
二人が向かい合った。
フレデリカはいつもの厳しい表情。メリーナは穏やかな笑顔のままだった。
「よろしくお願いします、曹長」
「ああ。遠慮はいらんぞ、メリーナ」
「もちろんです」
二人が構えを取った。
開始の合図。
しかし、すぐには動かなかった。互いに少しずつ間合いを詰め、相手の出方を探っている。
それまでの試合とは明らかに違う緊張感があった。
最初に動いたのはメリーナだった。
素早く踏み込み、フレデリカの腕を取ろうとする。
フレデリカは身体を半歩ずらしてかわした。逆にメリーナの手首を掴む。
だが、メリーナもすぐに身体を回転させ、掴まれた腕を外した。
「おっ!」
周囲から声が上がった。
二人が再び向かい合う。
今度はフレデリカが仕掛けた。
低い姿勢から一気に間合いを詰め、メリーナの体勢を崩そうとする。
メリーナは踏みとどまった。そのままフレデリカの腕を取って投げに入る。
しかし、フレデリカは投げられる直前に身体をひねり、足を引いて逃れた。
「すご……」
山田は思わず呟いた。
先ほどまでの試合では、どちらも相手を簡単に倒していた。だが、今は違う。
仕掛けても決まらない。掴んでも逃げられる。互いに次の動きを読んでいるのだ。
「メリーナ、やるな!」
フレデリカが笑った。
「曹長こそ」
メリーナも微笑んだ。
再び二人が組み合う。
今度はメリーナがフレデリカの体勢を崩した。小柄な身体が横に傾く。
「あっ!」
山田が声を上げた。
倒される。
そう思った瞬間、フレデリカは片足を踏み込み、逆にメリーナを引き込んだ。
二人の身体が回転する。
メリーナはすぐに体勢を立て直したが、今度はフレデリカが離さない。
腕を取り、足を払う。
メリーナの身体が浮いた。
「きゃっ!」
砂の上に倒れたメリーナを、フレデリカが素早く押さえ込んだ。腕を固め、逃げ道を塞ぐ。
「どうだ?」
メリーナは一瞬、身体を動かそうとした。しかし、完全に押さえられている。
「……参りました」
フレデリカが手を離した。
「勝者、フレデリカ曹長!」
歓声と拍手が上がった。
「おおーっ!」
「やっぱり曹長か!」
「いやあ、いい勝負だった!」
フレデリカが立ち上がり、メリーナに手を差し伸べた。
「惜しかったな」
メリーナはその手を取って立ち上がった。
「まだまだ曹長には敵いませんね」
「いや、危なかったぞ。最初の投げをまともに食らっていたら終わっていた」
「次は勝たせていただきます」
「ふん。そう簡単にはいかんぞ」
二人は笑い合った。
山田はその様子を、ただ呆然と眺めていた。
(すごい……)
フレデリカが強いことは知っていた。しかし、メリーナもここまで強いとは思わなかった。
しかも、あのフレデリカを相手に、ほとんど互角に渡り合っていたのだ。
「……メリーナさんって、小隊でも一、二を争う強さなんですね」
山田が呟くと、隣の永野が答えた。
「そういうことだな。まあ、曹長にはなかなか勝てないけどな」
「全然知りませんでした……」
「お前は人を見る目を鍛えた方がいいぞ」
永野は笑った。
そのとき、フレデリカが山田たちの方を向いた。
「おい、山田!」
「はいっ!」
「何をぼさっとしている! 訓練はまだ終わっていないぞ!」
「はいっ!」
山田は反射的に背筋を伸ばした。
(ああ……やっぱり曹長はかっこいいなあ……)
小柄な身体で大男を投げ飛ばし、メリーナとの激戦にも勝利する。そして自分に向かって、いつものように叱責を飛ばしてくれる。
山田にとっては、実に充実した午前中だった。
「……ねえ、永野」
宍戸が小声で話しかけた。
「ん?」
「山田、さっきメリーナに投げられたときは普通に落ち込んでたよね?」
「ああ」
「でもフレっちに怒鳴られると、あの顔になるんだよねえ……」
二人は山田を見た。山田は、まだ嬉しそうにフレデリカの方を見ていた。
「……完全に病気だな」
永野が言った。
「でしょ?」
宍戸は深く頷いた。
「休暇中に少しは治るかと思ったんだけどねえ。むしろ悪化してるわ」
「治る見込みは?」
「……ないんじゃない?」
二人は顔を見合わせ、揃ってため息をついた。
* * *
格闘訓練が終わると、兵士たちは汗を流すためにシャワー室へ向かった。
山田も永野と一緒にシャワー室に入った。
相変わらず狭いシャワー室だった。男女の兵士が一緒に身体を洗っている。
配属されたばかりの頃は、この光景だけで動揺したものだった。
しかし、今では山田もすっかり慣れていた。少なくとも、本人はそう思っていた。
「山田、今日は散々だったね」
背後から声をかけてきたのは、リリア上等兵だった。
「いやあ、メリーナさんがあんなに強いとは思いませんでした」
「ふふっ。あの子、ああ見えて怖いのよ」
リリアは楽しそうに笑った。そして、山田のすぐ横にやってきた。
「ねえ、山田。背中、流してあげようか?」
「え? いや、自分でできますよ」
「遠慮しなくてもいいのに」
リリアはわざと身体を寄せ、山田の耳元で囁いた。
「それとも、私に触られると困る?」
以前なら、この時点で山田は真っ赤になって慌てふためいていただろう。
実際、身体は正直だった。山田は勃起してしまった。
しかし、今回は違った。
(……まあ、仕方ないか)
山田は何事もなかったように石鹸を泡立て、そのまま身体を洗い続けた。
リリアが不思議そうに山田を見た。
「……あれ?」
「何ですか?」
「山田、恥ずかしくないの?」
「別に。男なんですから、そういうこともありますよ」
山田は平然と答えた。
リリアは少し不満そうな顔をした。
「……堂々とされると、つまんない」
そう言って、唇を尖らせる。
山田は心の中で拳を握った。
(勝った……!)
ついにリリアのいたずらを撃退したのである。
以前はからかわれるたびに動揺し、周囲から笑われていた。だが、今日は違う。
(僕だって、いつまでも初心者じゃないんだ!)
山田は密かに勝利を噛みしめていた。
そのときだった。
「あら、山田さん」
隣で身体を洗っていたメリーナが、穏やかな声をかけてきた。
「精神だけは、成長しましたね。いいことですよ」
「ありがとうございます!」
山田は素直に喜びかけた。しかし、ふと引っかかった。
「……あれ?」
メリーナが首を傾げる。
「どうしました?」
「メリーナさん、精神だけってどういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ」
にっこり。
山田は少し考えた。そして、自分の身体に視線を落とした。
「……僕の、小さいですか?」
余計な一言だった。
リリアが吹き出した。
「ぷっ!」
メリーナはまったく動じなかった。
「大丈夫ですよ。人それぞれですから」
「…………」
山田は固まった。それは否定になっていなかった。
「……えっと、メリーナさん?」
「はい?」
「正直に答えて下さい。僕、小さいんですか?」
「ですから、気になさらなくていいんですよ」
メリーナは優しく微笑んだ。
「大切なのは、そこだけではありませんから」
「…………」
山田は返す言葉を失った。
リリアはとうとう声を上げて笑い出した。
「あははは! 山田、よかったじゃない! 精神は成長したって!」
「リリアさん! 笑わないでくださいよ!」
「だって、あははは!」
少し離れた場所で身体を洗っていた宍戸も、会話を聞いていたらしい。
「……山田」
「はい……」
「せっかくリリアに勝ったのに、なんで自分から負けに行くのよ」
「僕だって、そんなつもりじゃ……」
宍戸は呆れたようにため息をついた。
「ま、精神的には成長したってことでいいんじゃない?」
「……そうですかね」
「そうそう」
その隣では、メリーナがいつもの上品な笑顔を浮かべていた。
「山田さん、自信を持ってくださいね」
「……はい」
「私、応援していますから」
「……ありがとうございます」
山田は再び身体を洗い始めた。
先ほどまでの勝利の喜びは、どこかへ消えていた。
(……なんだろう)
(慰められるほど、負けた気がする……)
リリアのいたずらには勝った。しかし、メリーナには一言も言い返せなかった。
山田は改めて思った。
(……やっぱりこの人、笑顔で人を刺すタイプだ)
メリーナは、そんな山田の心中など知る由もなく、鼻歌交じりに髪を洗っていた。
いや。
もしかすると、全部分かっているのかもしれなかった。
* * *
格闘訓練の翌日。
山田たちの小隊は、駐屯地の射撃場に集まっていた。
この日の訓練は小銃射撃だった。
ベルノ連隊に配属されてから、山田もそれなりの期間が経っている。すでに実戦も経験した。
しかし、山田直樹には、どうにも改善しない問題が一つあった。
射撃が絶望的に下手なのである。
訓練開始前、フレデリカ曹長が山田に声をかけた。
「山田」
「はい!」
「今日は少しはまともに当てろよ」
「頑張ります!」
「頑張るだけなら誰でもできる。結果を出せ」
「はいっ!」
威勢のいい返事だけは、いつも通りだった。
そして射撃が始まった。
* * *
「……山田」
射撃結果を確認したフレデリカは、低い声で名前を呼んだ。
「はい!」
「お前、何発撃った?」
「十発です!」
「的に何発当たった?」
「……二発です」
「しかも、かすっただけだな」
「はい……」
フレデリカはしばらく標的を見つめた。そして大きくため息をついた。
「……お前なあ」
山田の射撃成績が悪いことは、小隊では周知の事実だった。
初めて銃を握った新兵なら、まだ分かる。だが、山田はすでに何か月も訓練を受け、戦場にも出ている。
それなのに、相変わらず射撃成績は小隊の最下位争いだった。
「どうやったら、ここまで当たらないんだ?」
「すみません……」
「狙って撃っているんだろうな?」
「もちろんです!」
「だったら、なぜ当たらん!」
「それが、自分でもよく分からなくて……」
フレデリカは額に手を当てた。
その様子を見ていた宍戸が、隣の永野に囁いた。
「……相変わらずだねえ、山田」
「あいつ、銃より剣でも持たせた方がいいんじゃないか?」
「昨日の格闘訓練、見たでしょ?」
「ああ……そっちも駄目か」
二人は揃ってため息をついた。
* * *
「よし、決めた」
フレデリカが言った。
「山田。お前の射撃は、基礎からやり直す」
「はい!」
「幸い、今は連隊の再編成待ちで時間がある。徹底的に直してやる」
山田の表情が明るくなった。
「本当ですか!?」
「何を喜んでいる。お前の場合は撃つだけ弾の無駄だ!」
「はいっ!」
「まずは射撃姿勢からだ。銃を持ってこい。弾は抜け!」
「はいっ!」
山田は小銃から弾倉を外した。薬室が空であることも確認し、フレデリカに銃を見せる。
フレデリカは自分でも確認すると、頷いた。
「よし。伏せ撃ちの姿勢を取れ」
山田は地面に伏せた。
「違う!」
いきなり叱責が飛んだ。
「肘の位置が悪い! もっと身体を安定させろ!」
「はい!」
「銃床をしっかり肩に当てろ! そんな構え方だから狙いがぶれるんだ!」
「はいっ!」
フレデリカは山田の腕を掴み、位置を直した。続いて肩の角度を修正し、銃の持ち方を確認する。
「この姿勢を維持しろ」
「はい!」
「動くなよ」
「はいっ!」
山田は懸命に姿勢を保った。しかし、しばらくすると銃口がわずかに揺れた。
「動くなと言っただろう!」
ごつん。
フレデリカの軍靴が山田の尻を小突いた。
「はいっ!」
山田は慌てて姿勢を直す。
「腕が下がっている!」
ごつん。
「はいっ!」
「肩に力を入れすぎだ!」
ごつん。
「はいっ!」
しばらくして、フレデリカは妙なことに気づいた。
山田が、やたらと嬉しそうなのである。
「……山田」
「はいっ!」
「お前、何を笑っている?」
「えっ?」
「さっきからニヤニヤしているだろう!」
「い、いえ! そんなことは!」
「嘘をつけ!」
山田は慌てて表情を引き締めた。だが、内心では大喜びだった。
(すごい……!)
フレデリカ曹長が、自分一人のために射撃を教えてくれている。しかも、すぐ隣で。
腕を直してくれる。肩の位置も直してくれる。姿勢が崩れれば、叱ってくれる。
(こんな贅沢な訓練があっていいのか……!)
山田にとっては、まさに夢のような個人授業だった。
「山田! また銃口が下がっている!」
「はいっ!」
ごつん。
山田の顔が、またほころんだ。
フレデリカの眉間に深い皺が寄った。
「……お前、本当に何がそんなに嬉しいんだ?」
「い、いえ、その……」
「答えろ!」
「曹長に直接教えていただけるのが、嬉しくて……!」
一瞬、沈黙が流れた。
「……は?」
フレデリカが山田を見下ろした。
山田は伏せたまま、満面の笑みを浮かべている。
フレデリカのこめかみが引きつった。
「この変態が!」
どごっ!
先ほどまでより、明らかに強い蹴りが山田の尻に入った。
「ありがとうございます!」
山田は反射的に叫んだ。
「……はあ!?」
フレデリカが固まった。周囲で訓練していた兵士たちまで振り向いた。
「……お前、今、何と言った?」
「ありがとうございます!」
「礼を言うところじゃないだろう!」
「す、すみません!」
「まったく……!」
フレデリカは頭を抱えた。
* * *
それでも訓練は続いた。
「山田! 銃口を安定させろ!」
「はいっ!」
「頬付けが甘い!」
「はいっ!」
「引き金を引くときに銃まで動かすな!」
「はいっ!」
「違う!」
ごつん。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな!」
どごっ!
「はいっ! ありがとうございます!」
「だから礼を言うなと言っているだろう!」
もはや射撃訓練なのか、別の何かなのか、分からなくなってきた。
山田は汗だくになりながら、必死に姿勢を維持している。しかし、その表情は妙に幸せそうだった。
フレデリカはというと、明らかに苛立っている。
その様子を少し離れた場所から眺めていた宍戸は、とうとう呆れ果てた。
「……いやあ、これはひどいわ」
隣で永野が頷いた。
「ひどいな」
「アタシ、いろんな患者を見てきたけどさ」
「うん」
「ここまで嬉しそうに怒られる人間、初めて見たかも」
「俺もだ」
宍戸は腕を組んだ。
「しかも、フレっちも本気で困ってるし」
「あいつ、曹長に蹴られるたびに元気になるんだぞ」
「……もう治療法、ないんじゃない?」
永野は遠い目をした。
「放っておこう」
「だね」
* * *
その日の夕方。
訓練を終えたフレデリカ曹長は、宍戸亜美兵長とメリーナ上等兵を呼び止めた。
「二人とも、少し相談がある」
「ん? どうしたの、フレっち?」
「山田のことだ」
宍戸は露骨に嫌そうな顔をした。
「あー……山田ね」
「どうすれば、あいつをまともな歩兵にできると思う?」
フレデリカは真剣だった。
山田直樹は、決して怠け者ではない。訓練には真面目に参加するし、命令にも素直に従う。多少体力が足りないところはあるが、それは訓練で改善できる。
問題は射撃だった。
いくら教えても上達しない。それどころか、最近は叱れば叱るほど嬉しそうにするという、訳の分からない状態になっている。
「アタシはもう無理だと思うよ」
宍戸があっさり言った。
「おい、諦めるのが早すぎないか?」
「だってさあ、フレっち。怒鳴っても駄目、蹴っても駄目。むしろ喜ぶんだよ? どうしろっていうの?」
「……それなんだ」
フレデリカは腕を組んだ。
「私も軍歴十三年になるが、さすがにここまでの兵隊は見たことがない」
「でしょ?」
「射撃が下手な兵士なら何人も見てきた。根性のない奴も、命令を聞かない奴もいた。だが、叱られて喜ぶ奴は初めてだ」
宍戸は深く頷いた。
「しかも、フレっち限定だからね」
「……何?」
「アタシが怒っても、あそこまで喜ばないもん」
フレデリカは額を押さえた。
「……救いようがないな」
そのやり取りを、メリーナは穏やかな笑顔で聞いていた。
そして、ふと思いついたように口を開いた。
「曹長、少し発想を変えてみてはいかがでしょう?」
フレデリカが顔を上げた。
「発想を変える?」
「はい」
宍戸もメリーナを見た。
「どういうこと?」
メリーナはにっこりと微笑んだ。
「放置プレーですよ」
「…………」
「…………」
フレデリカと宍戸が、揃って黙った。
「……何だ、それは?」
フレデリカが尋ねた。
「山田さんは、曹長に叱られること自体が嬉しいのでしょう?」
「まあ、そうみたいだけど……」
宍戸が答える。
「でしたら、叱るのをやめればいいんです」
メリーナはさらりと言った。
「失敗しても、曹長は相手にしない。射撃姿勢が悪くても、いちいち口を出さない。山田さんが自分から努力して、きちんとできたときだけ相手をしてあげればいいんです」
「……なるほど」
フレデリカが考え込む。
確かに、今までとは逆の方法だった。山田は叱られるのが嬉しくて、わざと失敗しているのではないか。もしそうなら、叱ること自体が逆効果になっている可能性がある。
「でもさ、メリーナ」
宍戸が首を傾げた。
「山田、褒められたくらいで頑張るかな?」
「そうですねえ……」
メリーナは少し考えた。そして、いつもの上品な笑顔で言った。
「うまくいったときだけ、お尻を蹴ってあげればいいんですよ」
「…………」
再び沈黙が流れた。
宍戸がゆっくりとメリーナを見た。
「……え?」
「ご褒美です」
メリーナは微笑んだ。
「山田さんにとっては、曹長に蹴っていただけることが嬉しいのでしょう? でしたら、それを報酬にすればよろしいのでは?」
「……お前」
フレデリカが低い声を出した。
「私に何をさせるつもりだ?」
「射撃訓練の指導です」
メリーナは即答した。
「もちろん、怪我をさせない程度にですよ」
宍戸は口元を押さえた。肩が震えている。
「……ぷっ」
「宍戸!」
「いや、ごめん、フレっち……!」
とうとう宍戸が吹き出した。
「あははは! 駄目、想像したらおかしくって!」
「笑い事じゃない!」
「だってさあ! 普通は射撃がうまくなったら褒められるんだよ!? 山田は上達したらお尻を蹴ってもらえるの!?」
「そういうことになりますね」
メリーナが真顔で頷いた。
「やめろ! そんな訓練方法があるか!」
フレデリカが怒鳴った。しかし、メリーナは動じなかった。
「ですが曹長、今までの方法ではうまくいかなかったのでしょう?」
「それは……そうだが」
「でしたら、一度試してみる価値はあると思います」
「……本気で言っているのか?」
「もちろんです」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「山田さんは、きっと一生懸命練習してくださいますよ」
宍戸は笑いすぎて涙を拭いていた。
「……いやあ、メリーナ。あんた、ほんっと恐ろしいこと考えるね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!」
メリーナは不思議そうに首を傾げた。
フレデリカは深いため息をついた。
「……分かった。とりあえず、明日から叱るのはやめてみる」
「いいと思います」
「だが、蹴るのはなしだ!」
「そうですか。残念ですね」
「何が残念なんだ!」
メリーナは答えず、にっこりと微笑んだ。
宍戸はその顔を見て、また笑い出した。
* * *
翌朝。
射撃場で山田は、いつものようにフレデリカの指導を待っていた。
「曹長! よろしくお願いします!」
「ああ」
フレデリカは短く答えた。
「昨日教えた姿勢を取れ」
「はいっ!」
山田が伏せ撃ちの姿勢を取る。
フレデリカは一度だけ確認すると、何も言わずに離れた。
「……あれ?」
山田は首を傾げた。
いつもなら、ここで何かしら叱責が飛んでくるはずだった。腕の角度が悪いとか、肩に力が入りすぎているとか。
しかし、今日は何も言われない。
山田がちらりとフレデリカを見る。曹長は少し離れた場所で、別の兵士の指導をしていた。
(……あれ?)
山田はもう一度、銃を構え直した。今度はわざと少し肘をずらしてみた。
何も言われない。
銃口を下げてみた。
やはり何も言われない。
(……おかしいな)
昨日までなら、確実に叱られていたはずだった。
しばらくして、山田は我慢できなくなった。
「曹長!」
「何だ?」
「自分の姿勢、どうでしょうか!」
フレデリカはちらりと見た。
「昨日教えたとおりにやれ」
「は、はい!」
それだけだった。
山田は呆然とした。
(……曹長が冷たい)
少し離れた場所では、宍戸とメリーナがその様子を観察していた。
「……効いてるねえ」
宍戸が呟いた。
「そうですね」
メリーナは微笑んだ。
「山田、すっごい寂しそう」
「では、そろそろ次の段階でしょうか」
「次の段階?」
「はい。今度は、きちんとできたときだけ相手をしてあげるんです」
宍戸はフレデリカの方を見た。
「……フレっち、本当にやるかなあ」
そのとき、山田が再び声を上げた。
「曹長! これでどうでしょうか!」
フレデリカが歩み寄った。
山田の射撃姿勢を確認する。肘の位置。肩への銃床の当て方。頬付け。
昨日まで何度言っても直らなかった部分が、ずいぶん改善していた。
「……ふむ」
フレデリカが頷いた。
「今の姿勢は悪くない」
「本当ですか!?」
「ああ。ようやく少しはまともになったな」
山田の顔が輝いた。
「ありがとうございます!」
フレデリカは一瞬、迷った。そして、背後にいるメリーナをちらりと見た。
メリーナは笑顔で、小さく頷いた。
フレデリカは額に青筋を浮かべた。
(……本当にこれでいいのか?)
だが、確かに山田の姿勢は改善している。
フレデリカは諦めたようにため息をついた。
「……よし、山田」
「はいっ!」
「今のはよくできた」
軽く、山田の尻を軍靴で小突いた。
ぽん。
「ありがとうございます!」
山田は満面の笑みで答えた。
フレデリカは顔をしかめた。
(……やっぱり変態だ)
少し離れた場所では、宍戸が腹を抱えて笑っていた。
「だ、駄目……! ほんとに効果あるじゃん……!」
メリーナは満足そうに頷いた。
「よかったですね、曹長」
「……何がだ!」
フレデリカの怒声が射撃場に響いた。その声を聞いて、山田はさらに嬉しそうな顔をした。
フレデリカは天を仰いだ。
* * *
メリーナの提案した「放置プレー」は、予想以上の成果を上げていた。
それから数日。
山田直樹の射撃成績は、目に見えて改善していた。
以前は十発撃って二発当たればいい方だったのが、今では六発、調子がよければ七発は標的に命中するようになっていた。
もちろん、まだ小隊の平均には届かない。しかし、最下位を独走していた頃と比べれば、驚異的な進歩だった。
何より、山田自身が自主的に練習するようになった。
以前は射撃訓練になると、どこか苦手意識を見せていた。それが今では、暇さえあれば銃の構え方を確認している。
フレデリカに教えられたことを思い出しながら、何度も何度も姿勢を取り直す。
そして、命中率が上がる。
すると、フレデリカからご褒美がもらえる。
山田にとっては、実に分かりやすい仕組みだった。
「……六発命中か」
フレデリカ曹長は、山田の射撃結果を確認した。
「はい!」
「前回より一発増えたな」
「はいっ!」
山田は期待に満ちた目でフレデリカを見ていた。
フレデリカは、その視線の意味をすでに理解していた。
「…………」
「…………」
しばらく沈黙が続く。
「……尻を出せ」
「はいっ!」
山田は嬉々として姿勢を正した。
「そんなに喜ぶな!」
ごつん。
フレデリカの軍靴が、山田の尻を軽く蹴った。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな!」
フレデリカが怒鳴った。山田は満面の笑みを浮かべている。
少し離れた場所で、宍戸が肩を震わせていた。
「……くっ……ふふっ……」
「宍戸! 笑うな!」
「わ、笑ってないよ、フレっち……!」
「肩が震えているぞ!」
「だ、だって……!」
宍戸は口元を押さえた。
「射撃がうまくなったご褒美に、お尻を蹴ってもらう兵隊なんて……!」
「私だってやりたくてやっているわけじゃない!」
フレデリカは真っ赤になって怒鳴った。
* * *
その日の訓練終了後。
フレデリカは、宍戸とメリーナを呼び止めた。
「……二人とも、ちょっといいか」
「ん? どうしたの、フレっち?」
フレデリカは腕を組み、険しい表情をしていた。
「山田の射撃成績だが……」
「上がってるねえ」
宍戸が答える。
「ああ。認めたくはないが、かなり改善している」
「よかったじゃん!」
「よくない!」
フレデリカが即座に怒鳴った。
宍戸が目を丸くする。
「え? なんで?」
「なんでじゃない!」
フレデリカは顔を赤くした。
「これでは私が変態みたいじゃないか!」
一瞬、沈黙が流れた。
宍戸の肩が、小刻みに震え始めた。
「……くっ……」
「宍戸!」
「ご、ごめん……!」
宍戸は必死に笑いをこらえた。
「だ、だって……フレっちが……自分から……!」
「笑うなと言っているだろう!」
「む、無理……ふふっ……!」
宍戸はとうとう顔を背けた。
その隣で、メリーナは平然としていた。
「ですが曹長、効果は絶大ですよ」
「……お前はなあ!」
「山田さんの射撃成績は、明らかに改善しています。しかも、以前よりずっと熱心に訓練に取り組んでいらっしゃいます」
メリーナは穏やかな口調で続けた。
「指導方法としては、大成功ではないでしょうか」
「成功かどうかの話をしているんじゃない!」
「では、何が問題なのでしょう?」
メリーナは不思議そうに首を傾げた。
フレデリカは絶句した。
「……何が問題って、お前……!」
宍戸の肩が、ますます激しく震えた。
「……くっ……ふふふっ……!」
「宍戸! いい加減にしろ!」
「ご、ごめん、フレっち……でも……!」
宍戸は涙目になりながら言った。
「射撃が上達したらお尻を蹴ってあげるって……完全に変なご褒美システムじゃん……!」
「それを考えたのはメリーナだろう!」
「そうですね」
メリーナがあっさり認めた。
「ですが、実行してくださっているのは曹長ですから」
「お前なあ!」
フレデリカは思わず頭を抱えた。
メリーナはいつもの上品な笑顔を浮かべている。
「私では、あれほどの効果は出なかったと思います」
「……どういう意味だ?」
「山田さんは、曹長に蹴っていただくことが嬉しいのでしょうから」
「…………」
フレデリカは黙り込んだ。
宍戸はとうとう耐えきれず、声を上げて笑い出した。
「あはははは! もう駄目! お腹痛い!」
「宍戸!」
「だって、フレっち! メリーナの言うとおりなんだもん!」
フレデリカは二人を交互に見た。
片方は笑い転げている。もう片方は、何事もないように微笑んでいる。
「……お前たち、面白がっているだろう」
「そんなことありませんよ」
メリーナは即答した。
「私は山田さんの射撃技術の向上を、心から喜んでおります」
「……本当か?」
「もちろんです」
にっこり。
フレデリカは深いため息をついた。
この女は、絶対に面白がっている。だが、証拠はない。
* * *
翌日の射撃訓練。
山田は十発中八発を命中させた。自己最高記録だった。
「曹長! 八発です!」
山田が嬉しそうに報告する。
フレデリカは標的を確認した。確かに八発命中している。着弾も以前よりまとまっていた。
「……よくやった、山田」
「ありがとうございます!」
山田は期待に満ちた表情でフレデリカを見つめた。
「…………」
「…………」
フレデリカはしばらく考えた。そして、苦々しげに言った。
「……尻を出せ」
「はいっ!」
ごつん。
「ありがとうございます!」
「……まったく」
フレデリカは呆れたように呟いた。
その様子を見ていたメリーナが、宍戸に小声で言った。
「ほら、また上達しましたね」
「……うん」
宍戸は口元を押さえた。
「もう、笑うしかないよね……」
二人の視線の先では、山田が幸せそうに射撃結果を眺めていた。
一方のフレデリカは、心底疲れた顔をしている。
軍歴十三年。
数々の新兵を鍛え、戦場を経験してきたフレデリカ曹長だったが、これほど指導に苦労した兵士は初めてだった。
しかも、困ったことに、その指導は確実に成果を上げている。
「……なんで、こんなことになったんだ」
フレデリカが呟いた。
誰も答えなかった。
ただ、宍戸の肩だけが、いつまでも震えていた。