フレデリカ曹長の憂鬱   作:バグスター

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帝国歴232年4〜5月、ベルノ駐屯地


ご褒美システム

ベルノ連隊駐屯地に、第4歩兵中隊の兵士たちが再び集まっていた。

 

休暇を終えた兵士たちは、久しぶりに顔を合わせた仲間と近況を報告し合っている。山田直樹も、その一人だった。

 

ただし、山田には仲間との再会以上に楽しみにしていたことがあった。

 

「あっ……」

 

整列する兵士たちの間から、小柄なエルフの女性が歩いてくるのが見えた。

 

フレデリカ曹長だった。

 

いつもの軍服。いつもの厳しい表情。

 

山田の顔が自然とほころんだ。

 

(フレデリカ曹長だ……!)

 

休暇中は好きなだけ寝られたし、誰からも怒鳴られなかった。訓練もなければ、重い装備を背負って走る必要もない。

 

それなのに、山田は休暇の後半になると、妙に物足りなさを感じていた。

 

今、その理由がはっきりした。

 

(やっぱり訓練の方がいいなあ……)

 

我ながら、少々おかしなことを考えている自覚はあった。

 

「山田、何をニヤニヤしてるんだ?」

 

隣にいた永野進が声をかけた。

 

「いえ、別に」

 

「……お前、休暇が終わって嬉しいのか?」

 

「まあ、そうですね」

 

永野は呆れたように山田を見た。

 

「変な奴だな、お前」

 

その理由については、あえて尋ねなかった。だいたい想像がついていたからだ。

 

* * *

 

再集結した第4中隊に対し、中隊長から訓示が行われた。

 

「諸君、休暇は十分に取れたと思う。まずは全員が無事に戻ってきたことを喜びたい」

 

整列した兵士たちが中隊長の話に耳を傾ける。

 

「連隊全体の再編成については、まだ具体的な日程が決まっていない。新たな命令があるまで、我々は現状の編成を維持し、通常訓練を継続する」

 

中隊長は兵士たちを見渡した。

 

「もっとも、休暇明けだ。いきなり本格的な演習に入るつもりはない。まずは鈍った身体を元に戻してもらう」

 

何人かの兵士が、嫌な予感を覚えた。

 

「最初の三日間は、中隊全体で基礎体力訓練を実施する。各小隊長、分隊長はそのつもりで準備するように」

 

こうして、第4中隊の訓練が再開された。

 

* * *

 

訓練初日。

 

「全員、走れ! 遅れるな!」

 

駐屯地の外周道路を、第4中隊の兵士たちが走っていた。

 

休暇で鈍った身体を鍛え直すためのランニングだった。最初のうちは余裕があった山田も、しばらくすると息が上がってきた。

 

(あれ……?)

 

休暇前なら、もう少し楽に走れたはずだった。

 

近くを走っていた永野も、すっかり息が上がっている。

 

「はあ……はあ……思ったより体力が落ちてましたね……」

 

「俺もだ……」

 

二人の足が徐々に遅くなる。

 

そのときだった。

 

「山田! 永野! 何をやっている!」

 

聞き慣れた声が飛んできた。フレデリカ曹長だった。

 

「たったこれだけで音を上げるな! 休暇中、何をしていた!」

 

「は、はいっ!」

 

「返事だけは元気だな! 足を動かせ!」

 

「はいっ!」

 

山田は慌てて速度を上げた。

 

肺が苦しい。足も重い。しかし、不思議なことに気分は悪くなかった。

 

(ああ……久しぶりだなあ……)

 

あの声。あの厳しい口調。自分に向けられる叱責。

 

(やっぱり、戻ってきてよかった……)

 

山田は疲労で顔を歪めながらも、どこか嬉しそうだった。

 

「山田! 何を笑っている!」

 

「い、いえっ! 何でもありません!」

 

「余裕があるならもっと速く走れ!」

 

「はいっ!」

 

山田はさらに速度を上げた。

 

その様子を見ていた永野が、疲れ切った声で呟いた。

 

「……山田」

 

二日目は筋力訓練が中心だった。

 

腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。休暇中に怠けていた兵士たちには、なかなか厳しい内容だった。

 

「山田! 腰が落ちている!」

 

「はいっ!」

 

「永野! あと十回!」

 

「じゅ、十回ですか!?」

 

「口答えする元気があるなら二十回!」

 

「はいっ!」

 

山田は腕を震わせながら、必死に身体を持ち上げた。フレデリカがすぐ近くを歩いている。

 

「山田! 最後までやれ!」

 

「はいっ!」

 

その声を聞くと、もう一回頑張れる気がした。

 

(やっぱり曹長はいいなあ……)

 

限界に近い状態なのに、なぜか幸せだった。

 

三日目も、ランニングと筋力訓練が続いた。

 

訓練が終わる頃には、山田も永野もすっかり疲れ果てていた。

 

「山田、大丈夫?」

 

宍戸亜美兵長が声をかけた。

 

「はあ……はあ……だ、大丈夫です……」

 

「顔、真っ赤じゃん」

 

「ちょっと……疲れました……」

 

そこへフレデリカがやってきた。

 

「山田、だらしないぞ。たった三日でその有様か」

 

「す、すみません!」

 

「明日からは通常訓練に戻る。しっかり身体を休めておけ」

 

「はいっ!」

 

フレデリカが立ち去っていく。山田はその後ろ姿を、嬉しそうに見送っていた。

 

宍戸はそれを見逃さなかった。

 

「……山田」

 

「はい?」

 

「フレっちに怒られるの、嬉しい?」

 

「えっ!?」

 

山田が露骨に動揺した。

 

「そ、そんなことないですよ!」

 

「ふーん。でもさ、さっき怒られたとき、笑ってたよね?」

 

「そ、それは……」

 

「しかも、疲れてるはずなのに、フレっちが来ると元気になるし」

 

「いや、あの……」

 

宍戸は小さくため息をついた。

 

(……症状、悪化してるわね)

 

休暇を挟めば少しは落ち着くかと思っていたのだが、どうやら逆効果だったらしい。

 

当の山田は、翌日からの通常訓練を楽しみにしていた。

 

* * *

 

基礎体力訓練が終わり、第4中隊は通常訓練に戻った。

 

その日の午前中、山田たちの小隊に割り当てられたのは格闘訓練だった。

 

「今日は小隊内で組み手をやる。実戦を想定した徒手格闘だ。相手を制圧するか、降参させれば勝ちとする」

 

小隊長の説明に、兵士たちがざわついた。

 

訓練場には砂が敷かれ、周囲に兵士たちが集まっている。久しぶりの格闘訓練ということもあり、どこか競技会のような雰囲気になっていた。

 

「山田、格闘は得意?」

 

宍戸が声をかけてきた。

 

「いや、普通だと思いますけど」

 

「ふーん。じゃ、頑張ってね」

 

「宍戸兵長は参加しないんですか?」

 

「アタシは衛生兵だから、今日は怪我人の面倒を見る係。まあ、仕事がない方がいいんだけどね」

 

宍戸は笑った。

 

その隣では、メリーナ上等兵がいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

黒髪を後ろにまとめた、上品な顔立ちの女性である。

 

「山田さん、お互い頑張りましょうね」

 

「あ、はい。よろしくお願いします」

 

山田は軽く頭を下げた。

 

(メリーナさんか……)

 

物腰が柔らかく、いつも丁寧な言葉遣いをする女性だった。正直なところ、格闘訓練にはあまり向いていないように見える。

 

そんなことを考えていた山田だったが、その認識は間もなく覆されることになった。

 

* * *

 

最初の数試合が終わり、メリーナの番になった。

 

相手は小隊の男性兵士だった。体格はメリーナより一回り大きい。

 

「よろしくお願いします」

 

メリーナが丁寧に一礼する。

 

「おう。怪我しないようにな」

 

相手の兵士も構えを取った。

 

開始の合図がかかる。

 

男性兵士が前に出た。

 

次の瞬間だった。

 

メリーナが半歩踏み込み、伸びてきた腕を取った。身体を回転させる。

 

「うわっ!」

 

男性兵士の身体が宙に浮いた。そのまま背中から砂の上に落ちる。

 

メリーナは腕を離さず、相手の関節を押さえていた。

 

「降参しますか?」

 

「……ま、参った!」

 

勝負は一瞬だった。

 

「えっ?」

 

山田は思わず声を出した。何が起きたのか、よく分からなかった。

 

メリーナは相手の腕を離すと、手を差し伸べた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「あ、ああ……」

 

男性兵士がその手を取って立ち上がる。

 

メリーナは何事もなかったように、にこりと笑った。

 

「ありがとうございました」

 

(……え?)

 

山田は呆然としていた。

 

その後もメリーナは勝ち続けた。

 

相手が大柄な兵士でも関係なかった。掴みかかってきた腕をかわし、体勢を崩して投げる。組みつかれても、巧みに身体を入れ替えて逆に相手を倒す。

 

力任せではない。相手の動きをよく見て、わずかな隙を逃さないのだ。

 

しかも、ほとんど息が乱れていない。

 

「……メリーナさんって、あんなに強かったんですか?」

 

山田が呟いた。

 

隣の永野が、呆れたように答えた。

 

「お前、知らなかったのか?」

 

「全然……」

 

「古参兵だぞ、あの人」

 

それは分かっている。だが、普段のメリーナからは、あの格闘能力を想像できなかった。

 

そして次の試合。

 

山田の相手は、そのメリーナだった。

 

* * *

 

「次、山田とメリーナ!」

 

名前を呼ばれた山田は、思わずメリーナを見た。

 

メリーナはにこやかに微笑んでいる。

 

「よろしくお願いしますね、山田さん」

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

山田が訓練場に出ると、周囲から声が飛んだ。

 

「おーい、メリーナ! 手加減しろよ!」

 

「山田はまだ新人みたいなもんだからな!」

 

「怪我させるなよ!」

 

どうやら周囲の古参兵たちは、メリーナの強さをよく知っているらしい。

 

「分かっていますよ」

 

メリーナは笑顔で答えた。その笑顔を見て、山田は少し安心した。

 

(まあ、訓練だし……)

 

開始の合図がかかった。

 

山田は慎重に構えた。相手が強いことは、もう十分に分かっている。

 

まずは様子を見よう。

 

そう考えた瞬間、メリーナが動いた。

 

速い。

 

山田が反応したときには、もう間合いに入られていた。

 

「えっ――」

 

腕を取られた。次の瞬間、足が地面から離れた。

 

「うわあっ!」

 

背中に衝撃が走る。

 

気がつくと、山田は砂の上に仰向けになっていた。しかも、右腕を完全に押さえられている。

 

「降参しますか?」

 

目の前に、メリーナの穏やかな顔があった。

 

「あ……はい。参りました……」

 

「ありがとうございました」

 

メリーナはすぐに手を離した。

 

周囲から笑い声が上がる。

 

「おい山田、何もできなかったな!」

 

「だから言っただろ、メリーナは強いって!」

 

「ちゃんと手加減してもらってよかったな!」

 

山田は起き上がりながら、首を傾げた。

 

(……今、何が起きたんだ?)

 

本当に何もできなかった。殴るどころか、相手に触れることさえできていない。

 

「山田さん、大丈夫ですか?」

 

メリーナが心配そうに尋ねてきた。

 

「あ、はい。大丈夫です」

 

「よかったです」

 

にっこりと微笑む。

 

(……怖っ!)

 

山田は初めて、メリーナという女性の恐ろしさを理解した気がした。

 

あの笑顔のまま、人を投げ飛ばせるのだ。

 

(やっぱりこの人、笑顔で人を刺すタイプなのかもしれない……)

 

「山田、お疲れー!」

 

宍戸が笑いながら近づいてきた。

 

「いやあ、見事に転がされたね!」

 

「……まったく相手になりませんでした」

 

「まあ、メリーナは強いからねえ」

 

「先に教えてくださいよ……」

 

「聞かれなかったし?」

 

山田はため息をついた。

 

* * *

 

一方、フレデリカ曹長も順調に勝ち上がっていた。

 

山田は当然、その試合を熱心に見ていた。

 

次の相手は、小隊でも特に身体の大きな男性兵士だった。身長は百九十センチ近くあるだろうか。

 

筋骨隆々とした体格で、フレデリカとは頭二つ以上の身長差がある。

 

「曹長、よろしくお願いします!」

 

「遠慮はいらんぞ」

 

フレデリカは平然と言った。

 

開始の合図がかかる。

 

大男が両腕を広げ、フレデリカを捕まえようとした。

 

しかし、フレデリカはその腕の下をするりと抜けた。

 

「遅い!」

 

大男が振り向こうとする。

 

その瞬間、フレデリカの身体が動いた。片腕を取り、相手の重心を崩す。

 

大男の巨体が傾いた。

 

「うおっ!?」

 

次の瞬間には、砂の上に転がされていた。

 

フレデリカはその背後に回り、腕を固めている。

 

「参ったか?」

 

「ま、参りました!」

 

「よし」

 

フレデリカが手を離した。

 

大男は起き上がりながら、苦笑した。

 

「いやあ、やっぱり曹長には勝てませんね」

 

「お前は力に頼りすぎだ。相手の動きを見ろ」

 

「はい!」

 

フレデリカはそれだけ言うと、訓練場の外へ出た。

 

山田は目を輝かせていた。

 

(すごい……!)

 

あんな大男を、あっという間に倒してしまった。

 

あの小さな身体のどこに、そんな力があるのだろう。いや、力ではない。技術と経験なのだ。

 

(やっぱりフレデリカ曹長は最高だ……!)

 

山田は心の中で拍手していた。

 

「……山田」

 

隣で宍戸が呟いた。

 

「顔、すっごいことになってるよ」

 

「え?」

 

「いや、いいけどさ……」

 

宍戸はそれ以上、何も言わなかった。

 

(ほんっと、重症だわ……)

 

* * *

 

そして、最後の試合となった。

 

勝ち残ったのは、フレデリカ曹長とメリーナ上等兵だった。

 

「決勝はフレデリカ曹長とメリーナ上等兵!」

 

周囲の兵士たちから歓声が上がる。

 

「おおっ、やっぱりこの二人か!」

 

「今度こそメリーナが勝つか?」

 

「いや、曹長だろ!」

 

どうやら、この組み合わせは小隊では珍しくないらしい。

 

山田は驚いていた。

 

(えっ……メリーナさんって、曹長と同じくらい強いの?)

 

二人が向かい合った。

 

フレデリカはいつもの厳しい表情。メリーナは穏やかな笑顔のままだった。

 

「よろしくお願いします、曹長」

 

「ああ。遠慮はいらんぞ、メリーナ」

 

「もちろんです」

 

二人が構えを取った。

 

開始の合図。

 

しかし、すぐには動かなかった。互いに少しずつ間合いを詰め、相手の出方を探っている。

 

それまでの試合とは明らかに違う緊張感があった。

 

最初に動いたのはメリーナだった。

 

素早く踏み込み、フレデリカの腕を取ろうとする。

 

フレデリカは身体を半歩ずらしてかわした。逆にメリーナの手首を掴む。

 

だが、メリーナもすぐに身体を回転させ、掴まれた腕を外した。

 

「おっ!」

 

周囲から声が上がった。

 

二人が再び向かい合う。

 

今度はフレデリカが仕掛けた。

 

低い姿勢から一気に間合いを詰め、メリーナの体勢を崩そうとする。

 

メリーナは踏みとどまった。そのままフレデリカの腕を取って投げに入る。

 

しかし、フレデリカは投げられる直前に身体をひねり、足を引いて逃れた。

 

「すご……」

 

山田は思わず呟いた。

 

先ほどまでの試合では、どちらも相手を簡単に倒していた。だが、今は違う。

 

仕掛けても決まらない。掴んでも逃げられる。互いに次の動きを読んでいるのだ。

 

「メリーナ、やるな!」

 

フレデリカが笑った。

 

「曹長こそ」

 

メリーナも微笑んだ。

 

再び二人が組み合う。

 

今度はメリーナがフレデリカの体勢を崩した。小柄な身体が横に傾く。

 

「あっ!」

 

山田が声を上げた。

 

倒される。

 

そう思った瞬間、フレデリカは片足を踏み込み、逆にメリーナを引き込んだ。

 

二人の身体が回転する。

 

メリーナはすぐに体勢を立て直したが、今度はフレデリカが離さない。

 

腕を取り、足を払う。

 

メリーナの身体が浮いた。

 

「きゃっ!」

 

砂の上に倒れたメリーナを、フレデリカが素早く押さえ込んだ。腕を固め、逃げ道を塞ぐ。

 

「どうだ?」

 

メリーナは一瞬、身体を動かそうとした。しかし、完全に押さえられている。

 

「……参りました」

 

フレデリカが手を離した。

 

「勝者、フレデリカ曹長!」

 

歓声と拍手が上がった。

 

「おおーっ!」

 

「やっぱり曹長か!」

 

「いやあ、いい勝負だった!」

 

フレデリカが立ち上がり、メリーナに手を差し伸べた。

 

「惜しかったな」

 

メリーナはその手を取って立ち上がった。

 

「まだまだ曹長には敵いませんね」

 

「いや、危なかったぞ。最初の投げをまともに食らっていたら終わっていた」

 

「次は勝たせていただきます」

 

「ふん。そう簡単にはいかんぞ」

 

二人は笑い合った。

 

山田はその様子を、ただ呆然と眺めていた。

 

(すごい……)

 

フレデリカが強いことは知っていた。しかし、メリーナもここまで強いとは思わなかった。

 

しかも、あのフレデリカを相手に、ほとんど互角に渡り合っていたのだ。

 

「……メリーナさんって、小隊でも一、二を争う強さなんですね」

 

山田が呟くと、隣の永野が答えた。

 

「そういうことだな。まあ、曹長にはなかなか勝てないけどな」

 

「全然知りませんでした……」

 

「お前は人を見る目を鍛えた方がいいぞ」

 

永野は笑った。

 

そのとき、フレデリカが山田たちの方を向いた。

 

「おい、山田!」

 

「はいっ!」

 

「何をぼさっとしている! 訓練はまだ終わっていないぞ!」

 

「はいっ!」

 

山田は反射的に背筋を伸ばした。

 

(ああ……やっぱり曹長はかっこいいなあ……)

 

小柄な身体で大男を投げ飛ばし、メリーナとの激戦にも勝利する。そして自分に向かって、いつものように叱責を飛ばしてくれる。

 

山田にとっては、実に充実した午前中だった。

 

「……ねえ、永野」

 

宍戸が小声で話しかけた。

 

「ん?」

 

「山田、さっきメリーナに投げられたときは普通に落ち込んでたよね?」

 

「ああ」

 

「でもフレっちに怒鳴られると、あの顔になるんだよねえ……」

 

二人は山田を見た。山田は、まだ嬉しそうにフレデリカの方を見ていた。

 

「……完全に病気だな」

 

永野が言った。

 

「でしょ?」

 

宍戸は深く頷いた。

 

「休暇中に少しは治るかと思ったんだけどねえ。むしろ悪化してるわ」

 

「治る見込みは?」

 

「……ないんじゃない?」

 

二人は顔を見合わせ、揃ってため息をついた。

 

* * *

 

格闘訓練が終わると、兵士たちは汗を流すためにシャワー室へ向かった。

 

山田も永野と一緒にシャワー室に入った。

 

相変わらず狭いシャワー室だった。男女の兵士が一緒に身体を洗っている。

 

配属されたばかりの頃は、この光景だけで動揺したものだった。

 

しかし、今では山田もすっかり慣れていた。少なくとも、本人はそう思っていた。

 

「山田、今日は散々だったね」

 

背後から声をかけてきたのは、リリア上等兵だった。

 

「いやあ、メリーナさんがあんなに強いとは思いませんでした」

 

「ふふっ。あの子、ああ見えて怖いのよ」

 

リリアは楽しそうに笑った。そして、山田のすぐ横にやってきた。

 

「ねえ、山田。背中、流してあげようか?」

 

「え? いや、自分でできますよ」

 

「遠慮しなくてもいいのに」

 

リリアはわざと身体を寄せ、山田の耳元で囁いた。

 

「それとも、私に触られると困る?」

 

以前なら、この時点で山田は真っ赤になって慌てふためいていただろう。

 

実際、身体は正直だった。山田は勃起してしまった。

 

しかし、今回は違った。

 

(……まあ、仕方ないか)

 

山田は何事もなかったように石鹸を泡立て、そのまま身体を洗い続けた。

 

リリアが不思議そうに山田を見た。

 

「……あれ?」

 

「何ですか?」

 

「山田、恥ずかしくないの?」

 

「別に。男なんですから、そういうこともありますよ」

 

山田は平然と答えた。

 

リリアは少し不満そうな顔をした。

 

「……堂々とされると、つまんない」

 

そう言って、唇を尖らせる。

 

山田は心の中で拳を握った。

 

(勝った……!)

 

ついにリリアのいたずらを撃退したのである。

 

以前はからかわれるたびに動揺し、周囲から笑われていた。だが、今日は違う。

 

(僕だって、いつまでも初心者じゃないんだ!)

 

山田は密かに勝利を噛みしめていた。

 

そのときだった。

 

「あら、山田さん」

 

隣で身体を洗っていたメリーナが、穏やかな声をかけてきた。

 

「精神だけは、成長しましたね。いいことですよ」

 

「ありがとうございます!」

 

山田は素直に喜びかけた。しかし、ふと引っかかった。

 

「……あれ?」

 

メリーナが首を傾げる。

 

「どうしました?」

 

「メリーナさん、精神だけってどういう意味ですか?」

 

「そのままの意味ですよ」

 

にっこり。

 

山田は少し考えた。そして、自分の身体に視線を落とした。

 

「……僕の、小さいですか?」

 

余計な一言だった。

 

リリアが吹き出した。

 

「ぷっ!」

 

メリーナはまったく動じなかった。

 

「大丈夫ですよ。人それぞれですから」

 

「…………」

 

山田は固まった。それは否定になっていなかった。

 

「……えっと、メリーナさん?」

 

「はい?」

 

「正直に答えて下さい。僕、小さいんですか?」

 

「ですから、気になさらなくていいんですよ」

 

メリーナは優しく微笑んだ。

 

「大切なのは、そこだけではありませんから」

 

「…………」

 

山田は返す言葉を失った。

 

リリアはとうとう声を上げて笑い出した。

 

「あははは! 山田、よかったじゃない! 精神は成長したって!」

 

「リリアさん! 笑わないでくださいよ!」

 

「だって、あははは!」

 

少し離れた場所で身体を洗っていた宍戸も、会話を聞いていたらしい。

 

「……山田」

 

「はい……」

 

「せっかくリリアに勝ったのに、なんで自分から負けに行くのよ」

 

「僕だって、そんなつもりじゃ……」

 

宍戸は呆れたようにため息をついた。

 

「ま、精神的には成長したってことでいいんじゃない?」

 

「……そうですかね」

 

「そうそう」

 

その隣では、メリーナがいつもの上品な笑顔を浮かべていた。

 

「山田さん、自信を持ってくださいね」

 

「……はい」

 

「私、応援していますから」

 

「……ありがとうございます」

 

山田は再び身体を洗い始めた。

 

先ほどまでの勝利の喜びは、どこかへ消えていた。

 

(……なんだろう)

 

(慰められるほど、負けた気がする……)

 

リリアのいたずらには勝った。しかし、メリーナには一言も言い返せなかった。

 

山田は改めて思った。

 

(……やっぱりこの人、笑顔で人を刺すタイプだ)

 

メリーナは、そんな山田の心中など知る由もなく、鼻歌交じりに髪を洗っていた。

 

いや。

 

もしかすると、全部分かっているのかもしれなかった。

 

* * *

 

格闘訓練の翌日。

 

山田たちの小隊は、駐屯地の射撃場に集まっていた。

 

この日の訓練は小銃射撃だった。

 

ベルノ連隊に配属されてから、山田もそれなりの期間が経っている。すでに実戦も経験した。

 

しかし、山田直樹には、どうにも改善しない問題が一つあった。

 

射撃が絶望的に下手なのである。

 

訓練開始前、フレデリカ曹長が山田に声をかけた。

 

「山田」

 

「はい!」

 

「今日は少しはまともに当てろよ」

 

「頑張ります!」

 

「頑張るだけなら誰でもできる。結果を出せ」

 

「はいっ!」

 

威勢のいい返事だけは、いつも通りだった。

 

そして射撃が始まった。

 

* * *

 

「……山田」

 

射撃結果を確認したフレデリカは、低い声で名前を呼んだ。

 

「はい!」

 

「お前、何発撃った?」

 

「十発です!」

 

「的に何発当たった?」

 

「……二発です」

 

「しかも、かすっただけだな」

 

「はい……」

 

フレデリカはしばらく標的を見つめた。そして大きくため息をついた。

 

「……お前なあ」

 

山田の射撃成績が悪いことは、小隊では周知の事実だった。

 

初めて銃を握った新兵なら、まだ分かる。だが、山田はすでに何か月も訓練を受け、戦場にも出ている。

 

それなのに、相変わらず射撃成績は小隊の最下位争いだった。

 

「どうやったら、ここまで当たらないんだ?」

 

「すみません……」

 

「狙って撃っているんだろうな?」

 

「もちろんです!」

 

「だったら、なぜ当たらん!」

 

「それが、自分でもよく分からなくて……」

 

フレデリカは額に手を当てた。

 

その様子を見ていた宍戸が、隣の永野に囁いた。

 

「……相変わらずだねえ、山田」

 

「あいつ、銃より剣でも持たせた方がいいんじゃないか?」

 

「昨日の格闘訓練、見たでしょ?」

 

「ああ……そっちも駄目か」

 

二人は揃ってため息をついた。

 

* * *

 

「よし、決めた」

 

フレデリカが言った。

 

「山田。お前の射撃は、基礎からやり直す」

 

「はい!」

 

「幸い、今は連隊の再編成待ちで時間がある。徹底的に直してやる」

 

山田の表情が明るくなった。

 

「本当ですか!?」

 

「何を喜んでいる。お前の場合は撃つだけ弾の無駄だ!」

 

「はいっ!」

 

「まずは射撃姿勢からだ。銃を持ってこい。弾は抜け!」

 

「はいっ!」

 

山田は小銃から弾倉を外した。薬室が空であることも確認し、フレデリカに銃を見せる。

 

フレデリカは自分でも確認すると、頷いた。

 

「よし。伏せ撃ちの姿勢を取れ」

 

山田は地面に伏せた。

 

「違う!」

 

いきなり叱責が飛んだ。

 

「肘の位置が悪い! もっと身体を安定させろ!」

 

「はい!」

 

「銃床をしっかり肩に当てろ! そんな構え方だから狙いがぶれるんだ!」

 

「はいっ!」

 

フレデリカは山田の腕を掴み、位置を直した。続いて肩の角度を修正し、銃の持ち方を確認する。

 

「この姿勢を維持しろ」

 

「はい!」

 

「動くなよ」

 

「はいっ!」

 

山田は懸命に姿勢を保った。しかし、しばらくすると銃口がわずかに揺れた。

 

「動くなと言っただろう!」

 

ごつん。

 

フレデリカの軍靴が山田の尻を小突いた。

 

「はいっ!」

 

山田は慌てて姿勢を直す。

 

「腕が下がっている!」

 

ごつん。

 

「はいっ!」

 

「肩に力を入れすぎだ!」

 

ごつん。

 

「はいっ!」

 

しばらくして、フレデリカは妙なことに気づいた。

 

山田が、やたらと嬉しそうなのである。

 

「……山田」

 

「はいっ!」

 

「お前、何を笑っている?」

 

「えっ?」

 

「さっきからニヤニヤしているだろう!」

 

「い、いえ! そんなことは!」

 

「嘘をつけ!」

 

山田は慌てて表情を引き締めた。だが、内心では大喜びだった。

 

(すごい……!)

 

フレデリカ曹長が、自分一人のために射撃を教えてくれている。しかも、すぐ隣で。

 

腕を直してくれる。肩の位置も直してくれる。姿勢が崩れれば、叱ってくれる。

 

(こんな贅沢な訓練があっていいのか……!)

 

山田にとっては、まさに夢のような個人授業だった。

 

「山田! また銃口が下がっている!」

 

「はいっ!」

 

ごつん。

 

山田の顔が、またほころんだ。

 

フレデリカの眉間に深い皺が寄った。

 

「……お前、本当に何がそんなに嬉しいんだ?」

 

「い、いえ、その……」

 

「答えろ!」

 

「曹長に直接教えていただけるのが、嬉しくて……!」

 

一瞬、沈黙が流れた。

 

「……は?」

 

フレデリカが山田を見下ろした。

 

山田は伏せたまま、満面の笑みを浮かべている。

 

フレデリカのこめかみが引きつった。

 

「この変態が!」

 

どごっ!

 

先ほどまでより、明らかに強い蹴りが山田の尻に入った。

 

「ありがとうございます!」

 

山田は反射的に叫んだ。

 

「……はあ!?」

 

フレデリカが固まった。周囲で訓練していた兵士たちまで振り向いた。

 

「……お前、今、何と言った?」

 

「ありがとうございます!」

 

「礼を言うところじゃないだろう!」

 

「す、すみません!」

 

「まったく……!」

 

フレデリカは頭を抱えた。

 

* * *

 

それでも訓練は続いた。

 

「山田! 銃口を安定させろ!」

 

「はいっ!」

 

「頬付けが甘い!」

 

「はいっ!」

 

「引き金を引くときに銃まで動かすな!」

 

「はいっ!」

 

「違う!」

 

ごつん。

 

「ありがとうございます!」

 

「礼を言うな!」

 

どごっ!

 

「はいっ! ありがとうございます!」

 

「だから礼を言うなと言っているだろう!」

 

もはや射撃訓練なのか、別の何かなのか、分からなくなってきた。

 

山田は汗だくになりながら、必死に姿勢を維持している。しかし、その表情は妙に幸せそうだった。

 

フレデリカはというと、明らかに苛立っている。

 

その様子を少し離れた場所から眺めていた宍戸は、とうとう呆れ果てた。

 

「……いやあ、これはひどいわ」

 

隣で永野が頷いた。

 

「ひどいな」

 

「アタシ、いろんな患者を見てきたけどさ」

 

「うん」

 

「ここまで嬉しそうに怒られる人間、初めて見たかも」

 

「俺もだ」

 

宍戸は腕を組んだ。

 

「しかも、フレっちも本気で困ってるし」

 

「あいつ、曹長に蹴られるたびに元気になるんだぞ」

 

「……もう治療法、ないんじゃない?」

 

永野は遠い目をした。

 

「放っておこう」

 

「だね」

 

* * *

 

その日の夕方。

 

訓練を終えたフレデリカ曹長は、宍戸亜美兵長とメリーナ上等兵を呼び止めた。

 

「二人とも、少し相談がある」

 

「ん? どうしたの、フレっち?」

 

「山田のことだ」

 

宍戸は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「あー……山田ね」

 

「どうすれば、あいつをまともな歩兵にできると思う?」

 

フレデリカは真剣だった。

 

山田直樹は、決して怠け者ではない。訓練には真面目に参加するし、命令にも素直に従う。多少体力が足りないところはあるが、それは訓練で改善できる。

 

問題は射撃だった。

 

いくら教えても上達しない。それどころか、最近は叱れば叱るほど嬉しそうにするという、訳の分からない状態になっている。

 

「アタシはもう無理だと思うよ」

 

宍戸があっさり言った。

 

「おい、諦めるのが早すぎないか?」

 

「だってさあ、フレっち。怒鳴っても駄目、蹴っても駄目。むしろ喜ぶんだよ? どうしろっていうの?」

 

「……それなんだ」

 

フレデリカは腕を組んだ。

 

「私も軍歴十三年になるが、さすがにここまでの兵隊は見たことがない」

 

「でしょ?」

 

「射撃が下手な兵士なら何人も見てきた。根性のない奴も、命令を聞かない奴もいた。だが、叱られて喜ぶ奴は初めてだ」

 

宍戸は深く頷いた。

 

「しかも、フレっち限定だからね」

 

「……何?」

 

「アタシが怒っても、あそこまで喜ばないもん」

 

フレデリカは額を押さえた。

 

「……救いようがないな」

 

そのやり取りを、メリーナは穏やかな笑顔で聞いていた。

 

そして、ふと思いついたように口を開いた。

 

「曹長、少し発想を変えてみてはいかがでしょう?」

 

フレデリカが顔を上げた。

 

「発想を変える?」

 

「はい」

 

宍戸もメリーナを見た。

 

「どういうこと?」

 

メリーナはにっこりと微笑んだ。

 

「放置プレーですよ」

 

「…………」

 

「…………」

 

フレデリカと宍戸が、揃って黙った。

 

「……何だ、それは?」

 

フレデリカが尋ねた。

 

「山田さんは、曹長に叱られること自体が嬉しいのでしょう?」

 

「まあ、そうみたいだけど……」

 

宍戸が答える。

 

「でしたら、叱るのをやめればいいんです」

 

メリーナはさらりと言った。

 

「失敗しても、曹長は相手にしない。射撃姿勢が悪くても、いちいち口を出さない。山田さんが自分から努力して、きちんとできたときだけ相手をしてあげればいいんです」

 

「……なるほど」

 

フレデリカが考え込む。

 

確かに、今までとは逆の方法だった。山田は叱られるのが嬉しくて、わざと失敗しているのではないか。もしそうなら、叱ること自体が逆効果になっている可能性がある。

 

「でもさ、メリーナ」

 

宍戸が首を傾げた。

 

「山田、褒められたくらいで頑張るかな?」

 

「そうですねえ……」

 

メリーナは少し考えた。そして、いつもの上品な笑顔で言った。

 

「うまくいったときだけ、お尻を蹴ってあげればいいんですよ」

 

「…………」

 

再び沈黙が流れた。

 

宍戸がゆっくりとメリーナを見た。

 

「……え?」

 

「ご褒美です」

 

メリーナは微笑んだ。

 

「山田さんにとっては、曹長に蹴っていただけることが嬉しいのでしょう? でしたら、それを報酬にすればよろしいのでは?」

 

「……お前」

 

フレデリカが低い声を出した。

 

「私に何をさせるつもりだ?」

 

「射撃訓練の指導です」

 

メリーナは即答した。

 

「もちろん、怪我をさせない程度にですよ」

 

宍戸は口元を押さえた。肩が震えている。

 

「……ぷっ」

 

「宍戸!」

 

「いや、ごめん、フレっち……!」

 

とうとう宍戸が吹き出した。

 

「あははは! 駄目、想像したらおかしくって!」

 

「笑い事じゃない!」

 

「だってさあ! 普通は射撃がうまくなったら褒められるんだよ!? 山田は上達したらお尻を蹴ってもらえるの!?」

 

「そういうことになりますね」

 

メリーナが真顔で頷いた。

 

「やめろ! そんな訓練方法があるか!」

 

フレデリカが怒鳴った。しかし、メリーナは動じなかった。

 

「ですが曹長、今までの方法ではうまくいかなかったのでしょう?」

 

「それは……そうだが」

 

「でしたら、一度試してみる価値はあると思います」

 

「……本気で言っているのか?」

 

「もちろんです」

 

メリーナは穏やかに微笑んだ。

 

「山田さんは、きっと一生懸命練習してくださいますよ」

 

宍戸は笑いすぎて涙を拭いていた。

 

「……いやあ、メリーナ。あんた、ほんっと恐ろしいこと考えるね」

 

「そうでしょうか?」

 

「そうだよ!」

 

メリーナは不思議そうに首を傾げた。

 

フレデリカは深いため息をついた。

 

「……分かった。とりあえず、明日から叱るのはやめてみる」

 

「いいと思います」

 

「だが、蹴るのはなしだ!」

 

「そうですか。残念ですね」

 

「何が残念なんだ!」

 

メリーナは答えず、にっこりと微笑んだ。

 

宍戸はその顔を見て、また笑い出した。

 

* * *

 

翌朝。

 

射撃場で山田は、いつものようにフレデリカの指導を待っていた。

 

「曹長! よろしくお願いします!」

 

「ああ」

 

フレデリカは短く答えた。

 

「昨日教えた姿勢を取れ」

 

「はいっ!」

 

山田が伏せ撃ちの姿勢を取る。

 

フレデリカは一度だけ確認すると、何も言わずに離れた。

 

「……あれ?」

 

山田は首を傾げた。

 

いつもなら、ここで何かしら叱責が飛んでくるはずだった。腕の角度が悪いとか、肩に力が入りすぎているとか。

 

しかし、今日は何も言われない。

 

山田がちらりとフレデリカを見る。曹長は少し離れた場所で、別の兵士の指導をしていた。

 

(……あれ?)

 

山田はもう一度、銃を構え直した。今度はわざと少し肘をずらしてみた。

 

何も言われない。

 

銃口を下げてみた。

 

やはり何も言われない。

 

(……おかしいな)

 

昨日までなら、確実に叱られていたはずだった。

 

しばらくして、山田は我慢できなくなった。

 

「曹長!」

 

「何だ?」

 

「自分の姿勢、どうでしょうか!」

 

フレデリカはちらりと見た。

 

「昨日教えたとおりにやれ」

 

「は、はい!」

 

それだけだった。

 

山田は呆然とした。

 

(……曹長が冷たい)

 

少し離れた場所では、宍戸とメリーナがその様子を観察していた。

 

「……効いてるねえ」

 

宍戸が呟いた。

 

「そうですね」

 

メリーナは微笑んだ。

 

「山田、すっごい寂しそう」

 

「では、そろそろ次の段階でしょうか」

 

「次の段階?」

 

「はい。今度は、きちんとできたときだけ相手をしてあげるんです」

 

宍戸はフレデリカの方を見た。

 

「……フレっち、本当にやるかなあ」

 

そのとき、山田が再び声を上げた。

 

「曹長! これでどうでしょうか!」

 

フレデリカが歩み寄った。

 

山田の射撃姿勢を確認する。肘の位置。肩への銃床の当て方。頬付け。

 

昨日まで何度言っても直らなかった部分が、ずいぶん改善していた。

 

「……ふむ」

 

フレデリカが頷いた。

 

「今の姿勢は悪くない」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。ようやく少しはまともになったな」

 

山田の顔が輝いた。

 

「ありがとうございます!」

 

フレデリカは一瞬、迷った。そして、背後にいるメリーナをちらりと見た。

 

メリーナは笑顔で、小さく頷いた。

 

フレデリカは額に青筋を浮かべた。

 

(……本当にこれでいいのか?)

 

だが、確かに山田の姿勢は改善している。

 

フレデリカは諦めたようにため息をついた。

 

「……よし、山田」

 

「はいっ!」

 

「今のはよくできた」

 

軽く、山田の尻を軍靴で小突いた。

 

ぽん。

 

「ありがとうございます!」

 

山田は満面の笑みで答えた。

 

フレデリカは顔をしかめた。

 

(……やっぱり変態だ)

 

少し離れた場所では、宍戸が腹を抱えて笑っていた。

 

「だ、駄目……! ほんとに効果あるじゃん……!」

 

メリーナは満足そうに頷いた。

 

「よかったですね、曹長」

 

「……何がだ!」

 

フレデリカの怒声が射撃場に響いた。その声を聞いて、山田はさらに嬉しそうな顔をした。

 

フレデリカは天を仰いだ。

 

* * *

 

メリーナの提案した「放置プレー」は、予想以上の成果を上げていた。

 

それから数日。

 

山田直樹の射撃成績は、目に見えて改善していた。

 

以前は十発撃って二発当たればいい方だったのが、今では六発、調子がよければ七発は標的に命中するようになっていた。

 

もちろん、まだ小隊の平均には届かない。しかし、最下位を独走していた頃と比べれば、驚異的な進歩だった。

 

何より、山田自身が自主的に練習するようになった。

 

以前は射撃訓練になると、どこか苦手意識を見せていた。それが今では、暇さえあれば銃の構え方を確認している。

 

フレデリカに教えられたことを思い出しながら、何度も何度も姿勢を取り直す。

 

そして、命中率が上がる。

 

すると、フレデリカからご褒美がもらえる。

 

山田にとっては、実に分かりやすい仕組みだった。

 

「……六発命中か」

 

フレデリカ曹長は、山田の射撃結果を確認した。

 

「はい!」

 

「前回より一発増えたな」

 

「はいっ!」

 

山田は期待に満ちた目でフレデリカを見ていた。

 

フレデリカは、その視線の意味をすでに理解していた。

 

「…………」

 

「…………」

 

しばらく沈黙が続く。

 

「……尻を出せ」

 

「はいっ!」

 

山田は嬉々として姿勢を正した。

 

「そんなに喜ぶな!」

 

ごつん。

 

フレデリカの軍靴が、山田の尻を軽く蹴った。

 

「ありがとうございます!」

 

「礼を言うな!」

 

フレデリカが怒鳴った。山田は満面の笑みを浮かべている。

 

少し離れた場所で、宍戸が肩を震わせていた。

 

「……くっ……ふふっ……」

 

「宍戸! 笑うな!」

 

「わ、笑ってないよ、フレっち……!」

 

「肩が震えているぞ!」

 

「だ、だって……!」

 

宍戸は口元を押さえた。

 

「射撃がうまくなったご褒美に、お尻を蹴ってもらう兵隊なんて……!」

 

「私だってやりたくてやっているわけじゃない!」

 

フレデリカは真っ赤になって怒鳴った。

 

* * *

 

その日の訓練終了後。

 

フレデリカは、宍戸とメリーナを呼び止めた。

 

「……二人とも、ちょっといいか」

 

「ん? どうしたの、フレっち?」

 

フレデリカは腕を組み、険しい表情をしていた。

 

「山田の射撃成績だが……」

 

「上がってるねえ」

 

宍戸が答える。

 

「ああ。認めたくはないが、かなり改善している」

 

「よかったじゃん!」

 

「よくない!」

 

フレデリカが即座に怒鳴った。

 

宍戸が目を丸くする。

 

「え? なんで?」

 

「なんでじゃない!」

 

フレデリカは顔を赤くした。

 

「これでは私が変態みたいじゃないか!」

 

一瞬、沈黙が流れた。

 

宍戸の肩が、小刻みに震え始めた。

 

「……くっ……」

 

「宍戸!」

 

「ご、ごめん……!」

 

宍戸は必死に笑いをこらえた。

 

「だ、だって……フレっちが……自分から……!」

 

「笑うなと言っているだろう!」

 

「む、無理……ふふっ……!」

 

宍戸はとうとう顔を背けた。

 

その隣で、メリーナは平然としていた。

 

「ですが曹長、効果は絶大ですよ」

 

「……お前はなあ!」

 

「山田さんの射撃成績は、明らかに改善しています。しかも、以前よりずっと熱心に訓練に取り組んでいらっしゃいます」

 

メリーナは穏やかな口調で続けた。

 

「指導方法としては、大成功ではないでしょうか」

 

「成功かどうかの話をしているんじゃない!」

 

「では、何が問題なのでしょう?」

 

メリーナは不思議そうに首を傾げた。

 

フレデリカは絶句した。

 

「……何が問題って、お前……!」

 

宍戸の肩が、ますます激しく震えた。

 

「……くっ……ふふふっ……!」

 

「宍戸! いい加減にしろ!」

 

「ご、ごめん、フレっち……でも……!」

 

宍戸は涙目になりながら言った。

 

「射撃が上達したらお尻を蹴ってあげるって……完全に変なご褒美システムじゃん……!」

 

「それを考えたのはメリーナだろう!」

 

「そうですね」

 

メリーナがあっさり認めた。

 

「ですが、実行してくださっているのは曹長ですから」

 

「お前なあ!」

 

フレデリカは思わず頭を抱えた。

 

メリーナはいつもの上品な笑顔を浮かべている。

 

「私では、あれほどの効果は出なかったと思います」

 

「……どういう意味だ?」

 

「山田さんは、曹長に蹴っていただくことが嬉しいのでしょうから」

 

「…………」

 

フレデリカは黙り込んだ。

 

宍戸はとうとう耐えきれず、声を上げて笑い出した。

 

「あはははは! もう駄目! お腹痛い!」

 

「宍戸!」

 

「だって、フレっち! メリーナの言うとおりなんだもん!」

 

フレデリカは二人を交互に見た。

 

片方は笑い転げている。もう片方は、何事もないように微笑んでいる。

 

「……お前たち、面白がっているだろう」

 

「そんなことありませんよ」

 

メリーナは即答した。

 

「私は山田さんの射撃技術の向上を、心から喜んでおります」

 

「……本当か?」

 

「もちろんです」

 

にっこり。

 

フレデリカは深いため息をついた。

 

この女は、絶対に面白がっている。だが、証拠はない。

 

* * *

 

翌日の射撃訓練。

 

山田は十発中八発を命中させた。自己最高記録だった。

 

「曹長! 八発です!」

 

山田が嬉しそうに報告する。

 

フレデリカは標的を確認した。確かに八発命中している。着弾も以前よりまとまっていた。

 

「……よくやった、山田」

 

「ありがとうございます!」

 

山田は期待に満ちた表情でフレデリカを見つめた。

 

「…………」

 

「…………」

 

フレデリカはしばらく考えた。そして、苦々しげに言った。

 

「……尻を出せ」

 

「はいっ!」

 

ごつん。

 

「ありがとうございます!」

 

「……まったく」

 

フレデリカは呆れたように呟いた。

 

その様子を見ていたメリーナが、宍戸に小声で言った。

 

「ほら、また上達しましたね」

 

「……うん」

 

宍戸は口元を押さえた。

 

「もう、笑うしかないよね……」

 

二人の視線の先では、山田が幸せそうに射撃結果を眺めていた。

 

一方のフレデリカは、心底疲れた顔をしている。

 

軍歴十三年。

 

数々の新兵を鍛え、戦場を経験してきたフレデリカ曹長だったが、これほど指導に苦労した兵士は初めてだった。

 

しかも、困ったことに、その指導は確実に成果を上げている。

 

「……なんで、こんなことになったんだ」

 

フレデリカが呟いた。

 

誰も答えなかった。

 

ただ、宍戸の肩だけが、いつまでも震えていた。

 

 

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