ベルノ連隊の駐屯地にも、春らしい暖かさが戻ってきていた。
訓練場の周囲に残っていた雪はすっかり消え、踏み固められた地面も乾き始めている。周囲の木々には若葉が茂り、午後になると、穏やかな風が訓練場を吹き抜けるようになった。
その訓練場で、山田直樹は五キロ走の最後の直線を走っていた。
「山田! あと百メートル!」
フレデリカ曹長の声が飛ぶ。
山田は顔を真っ赤にし、荒い息を吐きながら走っていた。それでも速度を落とす様子はない。
「あと十五秒だ! 急げ!」
山田は残った力を振り絞り、ゴールに飛び込んだ。
「……二十四分三十二秒か」
フレデリカは記録を確認した。
「よし。合格だ」
「ありがとうございます!」
山田は膝に手をつき、肩で息をしていた。しかし、その表情には疲労よりも期待の色が濃かった。
「……ご褒美だ。そこに立て」
「はい!」
山田はすぐさま姿勢を正した。
フレデリカはため息をつくと、山田の尻に加減した蹴りを一発入れた。
「ありがとうございます!!」
山田は満面の笑みを浮かべた。
(……気持ち悪い)
フレデリカは心の中でつぶやいた。
だが、成果が出ているのは事実だった。
射撃訓練で始まったご褒美システムは、いつの間にかほかの訓練にも広がっていた。
射撃の命中率は目に見えて向上し、銃剣術の基本動作も身についてきた。格闘訓練でも、以前のように簡単に転がされることは少なくなった。
もっとも、細身の体格は相変わらずだった。
腕力や筋力ではほかの兵士に及ばず、力任せの格闘ではどうにもならない。それでも、受け身や足運び、防御動作といった技術的な部分では、一般兵士と同じ水準に近づいていた。
持久走も同様だった。
あらかじめ目標タイムとご褒美を明示すると、山田は驚くほどの集中力を発揮した。
しかも最近では、より強いご褒美を求めて自主訓練まで始めたという。
分隊長としては、喜ばしいことである。
以前の山田は、正直なところ、まともな兵士になるのかさえ疑わしかった。
それが今では、技術面に限れば一般兵士と遜色ない水準にまで成長している。
問題は、その原動力だった。
フレデリカは、いつの間にか蹴りの強弱まで調整するようになっていた。
普通に目標を達成したときは軽く、特に優秀な成績を収めたときは少し強く。
山田もそれを理解しているらしく、目標を上回ろうと必死になっていた。
(……私は何をやっているんだ?)
軍歴十三年。
これまで何人もの新兵を育ててきたが、こんな訓練方法は初めてだった。
しかも最近では、山田の自分を見る目が、ますます熱っぽくなっている。
フレデリカは小柄な純血エルフだった。
人間の目には子供と見間違われることさえあるが、実際には十歳の息子を育てる母親である。
息子の父親も同じ純血エルフだったが、今は別々に暮らしている。
純血エルフの男には、一匹狼のような生き方をする者が多い。息子の父親もその一人で、今もどこかで暮らしているはずだが、互いに連絡を取ることはなかった。
平民には結婚という制度もないため、特に珍しい関係というわけでもなかった。
フレデリカは息子と二人で暮らし、親子仲も良好だった。
最近では宍戸亜美が頻繁に家へ遊びに来るようになり、息子ともすっかり仲良くなっている。
宍戸は、フレデリカにとって単なる部下ではなかった。
ほとんど家族のような存在だった。
そんな平穏な私生活を送っているフレデリカにとって、山田の自分に対する執着は、理解しがたいものだった。
正直、不快だった。
それでも、山田は軍務に真面目に取り組み、命令にも従い、訓練成績は向上している。
分隊長として、その努力を認めないわけにはいかなかった。
そこが、何より悩ましかった。
* * *
その日の訓練終了後。
兵士たちが装備を片づけ、三々五々兵舎へ戻り始めていた。
傾き始めた陽が訓練場を照らし、長い影を地面に落としている。遠くでは、別の小隊の兵士たちが訓練用具を運んでいた。
フレデリカは、銃剣術の訓練用具を片づけていた山田を呼び止めた。
「山田」
「はい! 曹長!」
山田はすぐさま振り返り、姿勢を正した。
その顔を見るだけで、フレデリカは憂鬱になった。
「……お前、私がどれだけお前のことを気持ち悪いと思っているか分かるか?」
「はい! その蔑んだ目も最高のご褒美です!」
「…………」
フレデリカは絶句した。
山田は満面の笑みを浮かべている。
冗談を言っている様子はない。本心から喜んでいるのだ。
「……山田。そんなに私のことが好きか?」
「大好きです!」
一瞬の迷いもなかった。
「私は不快なだけだ!」
「はい! 承知しています!」
「だったら少しは遠慮しろ!」
「申し訳ありません!」
山田は姿勢を正した。
しかし、その顔は相変わらず嬉しそうだった。
フレデリカは眉間を押さえた。
「……お前、私に好かれたいとは思わんのか?」
「もちろん、兵士としては認めていただきたいです!」
「……それ以外は?」
「今のままで最高です!」
「…………」
フレデリカは空を仰いだ。
春の夕空は、腹立たしいほど晴れ渡っていた。
(……駄目だ)
(こいつには何を言っても通じない)
蹴れば喜ぶ。
叱れば喜ぶ。
嫌悪感を示しても喜ぶ。
どうやら、自分に好かれる必要すらないらしい。
「……もういい。下がれ」
「はい! 失礼します!」
山田はきびきびと敬礼し、訓練用具を抱えて駆け去っていった。
軍人としての所作だけは、実に立派だった。
フレデリカは、その後ろ姿を見送りながら深いため息をついた。
(……兵士としては、本当に良くなったんだがな)
それが、なおさら腹立たしかった。
* * *
夕方の分隊休憩室。
窓から差し込む西日が、古びた木製のテーブルを赤く染めていた。
棚には兵士たちの私物や手入れ用具が並び、壁際には訓練を終えたばかりの装備品が置かれている。
勤務を終えた兵士たちが、思い思いにくつろぐ時間だった。
フレデリカはテーブルに腰を下ろし、湯気の立つ茶を前にして腕を組んでいた。
向かいには宍戸亜美兵長。
その隣にはメリーナ上等兵とリリア上等兵、そして永野進一等兵もいた。
山田は、また自主訓練に出かけている。
「……亜美。私は本気で困っているんだぞ」
フレデリカは重々しく口を開いた。
ところが宍戸は、机に突っ伏して笑っていた。
「だ、だって……フレっち……あははは!」
「笑うな!」
「ごめん、ごめん! でも、山田が……あはは!」
「……お前は私の腹心だろう。少しは真面目に考えてくれ」
宍戸は目尻の涙を拭った。
「いや、分かるよ。あれは確かに気持ち悪い」
「分かるのか!」
「うん。すっごく気持ち悪い」
「だったら!」
「でも、面白いじゃん」
「…………」
フレデリカは言葉を失った。
宍戸は茶を一口飲み、ようやく笑いを収めた。
「でもさ、フレっち。山田、最近すっごく頑張ってるじゃん」
「それは認める」
「射撃も上手くなったし、格闘訓練だって前よりずっとまともになったし」
「ああ」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「だから! その訓練方法が問題なんだ!」
フレデリカは思わずテーブルを叩いた。
「私は兵士を育てているんだぞ! あいつの趣味に付き合っているつもりはない!」
宍戸は肩を震わせながら、どうにか笑いをこらえた。
フレデリカは諦めて、今度は永野に顔を向けた。
「永野。お前はどう思う?」
「自分ですか?」
「そうだ。お前は同じ日本人だろう。あいつのこともよく知っているはずだ」
永野は少し考えた。
「……正直、山田があそこまで変な奴だとは思っていませんでした」
「やはりそうか」
「でも、最近は本当に真面目に訓練してますよね。自分も最初はどうなることかと思ってましたけど、今じゃ普通に任務を任せられますし」
「そうなんだ。兵士としては問題がなくなってきた。だからこそ困っている」
永野は苦笑した。
「まあ、曹長の気持ちも分かりますよ。自分だって、男にあんな目で見られたら嫌ですから」
「だろう!」
フレデリカは思わず身を乗り出した。
ようやく、まともに話が通じる相手が現れた気がした。
「それに、あいつが私に執着しているのも問題だ。私だって、いつまでもあいつの面倒を見られるわけではない。軍なら配置転換だってあるんだぞ」
「……ああ、それは確かに」
永野は腕を組んだ。
「山田の奴、曹長と離れたらどうなるんでしょうね」
「それを聞いているんだ!」
「……死ぬんじゃないですかね」
「おい!」
宍戸が吹き出した。
「ちょっと永野! あははは!」
「いや、冗談ですけど。でも、今のあいつ、曹長に蹴ってもらうことが人生最大の楽しみみたいになってますから」
「そんな理由で生きるな!」
永野も笑いをこらえていたが、やがて少し真面目な顔になった。
「ただ、曹長。自分は無理に続ける必要はないと思いますよ」
「……ほう?」
「曹長が本当に嫌なら、やめてもいいんじゃないですか。山田だって、もうそれなりにできるようになったんですし」
フレデリカはしばらく黙っていた。
それは、何度も考えたことだった。
分隊長として、部下の技量を伸ばす責任がある。
その一方で、個人的な嫌悪感を押し殺してまで続けるべきなのか。
答えは出ていなかった。
「……そう簡単に割り切れれば苦労はせん」
フレデリカは冷めかけた茶を一口飲んだ。
永野も、それ以上は何も言わなかった。
そこで、メリーナが穏やかな声で口を開いた。
「でも曹長、山田さんは本当に努力していらっしゃいますよね。ご本人も幸せそうですし」
「……お前も楽しんでいるだろう」
「何のことでしょう?」
メリーナはにっこり微笑んだ。
黒髪をきれいに整え、背筋を伸ばして椅子に座るその姿は、どこか良家の令嬢を思わせる。
言葉遣いも穏やかで、いつも礼儀正しい。
だが、フレデリカは知っていた。
この娘は、こういう話が大好きなのだ。
「……その顔だ。絶対に楽しんでいる」
「ふふっ」
「否定しろ!」
宍戸が再び笑い転げた。
フレデリカは頭を抱えた。
腹心の宍戸は笑い転げるばかりで、メリーナも明らかに面白がっている。
永野は多少まともな意見を言ったが、結局、解決にはならなかった。
(……誰か、まともな相談相手はいないのか)
フレデリカは深いため息をついた。
そのとき、それまで黙って話を聞いていたリリアが、ぱっと顔を上げた。
「あっ! そうだ!」
「……なんだ、今度は」
「曹長、ちょっと待っててください!」
リリアは明るい声を残して、休憩室を飛び出していった。
「……なんなんだ、あいつは」
「さあ?」
宍戸が首をかしげた。
しばらくすると、廊下から軽い足音が近づいてきた。
「お待たせしました!」
戻ってきたリリアの手には、細長い棒のようなものが握られていた。
黒い革を巻いた柄に、しなやかな細い棒が伸びている。
乗馬用の鞭だった。
「……なんだ、それは?」
「乗馬用の鞭です! 厩舎で借りてきました!」
リリアはにこにこしながら差し出した。
「これ使えばいいじゃないですか!」
「……何にだ?」
「山田さんのご褒美ですよ! これなら蹴らなくてもいいですよね?」
「…………」
フレデリカは鞭を見つめた。
確かに、直接触れずに済むという意味では、理屈が通っている。
「……まあ、距離は取れるな」
「でしょ? 山田さんも喜ぶと思いますよ!」
「それが問題なんだ!」
「えー? でも、山田さんが喜んで、曹長も楽になるなら、いいじゃないですか!」
リリアは本当に不思議そうだった。
「……お前は本当に何も考えていないな」
「えへへ、そうですか?」
「褒めていない!」
宍戸が吹き出した。
「ちょっと、フレっち! 鞭まで使ったら、もう完全に女王様じゃん!」
「女王様とはなんだ!」
「そういう趣味の人が喜ぶやつ!」
永野が鞭を眺めながら、ぼそりと言った。
「……山田なら、間違いなく喜びますね」
「お前まで言うか!」
「いや、だって、そうでしょう?」
フレデリカは反論できなかった。
リリアは鞭を軽く振ってみせた。
ヒュッ、と乾いた音がした。
「ほら、簡単ですよ!」
「室内で振り回すな!」
「はーい!」
リリアは素直に鞭を下ろした。
フレデリカは四人を見回した。
宍戸は笑っている。
メリーナは上品な笑顔を浮かべている。
リリアはにこにこしながら鞭を差し出している。
永野は何とも言えない表情で、その様子を眺めていた。
(……駄目だ)
(こいつらに相談した私が馬鹿だった)
窓の外から、兵舎へ戻る兵士たちの話し声が聞こえてきた。
夕食の時間が近いのだろう。
フレデリカはしばらく黙っていた。
やがて、決意したように顔を上げた。
「……亜美」
「ん?」
「私は開き直ることにした」
「……え?」
「リリア、鞭をよこせ」
「はい、曹長!」
リリアは嬉しそうに鞭を手渡した。
フレデリカはそれを受け取り、柄の感触を確かめた。
乗馬用だけあって、軽く、扱いやすそうだった。
「……確かに、これなら直接触れなくて済む」
宍戸が目を丸くした。
「えっ、フレっち、本当に使うの?」
「もう何も考えん。私は兵士を育てる。それだけだ」
フレデリカは鞭をテーブルの上に置き、深く息を吐いた。
その様子を見て、宍戸はまた笑いそうになったが、今度はどうにかこらえた。
* * *
そのときだった。
メリーナが茶器を置き、何気ない口調で言った。
「でしたら、そういう趣味の男の人が集まるお店を紹介しましょうか?」
「……なんだ、それは?」
フレデリカが顔を上げた。
宍戸も驚いたようにメリーナを見た。
「えっ! この世界にもそんな店あるの?」
「ええ、ありますよ」
メリーナは、まるで評判のよい菓子店を紹介するかのような口調で答えた。
「女性に叱られたり、鞭で打たれたりすることを喜ぶ男性が通うお店です」
「…………」
フレデリカはテーブルの上の鞭を見た。
「……そんな店があるのか?」
「はい。ベルノの歓楽街にありますよ。黒薔薇館というお店です」
「……黒薔薇館?」
「ええ。日本人の退役兵の方が始めたんです」
「日本人だと?」
「磯貝五月さんという女性の方です。第2期の召喚者で、戦傷退役されたそうですよ」
「……第2期か。ずいぶん古いな」
「退役されてから商売を始められて、今では歓楽街に何軒かお店をお持ちなんです」
永野が感心したように言った。
「へえ。第2期の人ですか。そんな先輩がいるんですね」
「はい。父の親友なんです」
「……お前の父親の親友なのか?」
フレデリカが尋ねた。
「ええ。昔からのお付き合いだそうです」
「それで、なぜそんな特殊な店を?」
「さあ? 商売になると思われたんじゃないでしょうか」
メリーナは涼しい顔で答えた。
「実際、お客さんは結構いらっしゃるそうですよ」
フレデリカは腕を組んだ。
ベルノの歓楽街には、酒場や宿屋、さまざまな娯楽施設が軒を連ねている。
軍人たちも休暇になるとよく足を運ぶ場所だ。
だが、そんな奇妙な店まで存在するとは思わなかった。
そのとき、ふと以前のことを思い出した。
「……待てよ、メリーナ」
「はい?」
「お前が以前教えてくれた、あの放置プレーというのも、その店の特殊なプレーなのか?」
「はい。以前、五月さんから、そんなプレーもあるって聞いたことがあったので」
「…………」
フレデリカは固まった。
しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「……つまり、あれは」
「はい?」
「私は知らずに、その店のまねをしていたのか!」
宍戸が吹き出した。
「ぶっ! あははは! フレっち、そういうことだったんだ!」
「笑うな!」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「でも曹長、山田さんには効果があったんですよね?」
「……あった」
「でしたら、よかったじゃありませんか」
「よくない!」
フレデリカは頭を抱えた。
「私は軍歴十三年の下士官だぞ! なんでそんな店の技術を使って兵士を教育しているんだ!」
永野が困ったように口を開いた。
「……でも、曹長。山田には効果抜群でしたからね」
「それが余計に腹立たしいんだ!」
宍戸は、もう笑いすぎて声も出なくなっていた。
メリーナだけが、何事もなかったかのように茶を飲んでいる。
フレデリカはその横顔をじっと見た。
「……メリーナ」
「はい?」
「お前、最初から知っていたんだな?」
「何をでしょう?」
「私が何も知らずに、そんなことをやっていると!」
メリーナは少し考えてから、にっこり微笑んだ。
「ふふっ。山田さんが喜んでくださって、何よりです」
「答えになっていない!」
永野は、メリーナの笑顔を見ながら小さく首を振った。
「……メリーナさん、結構ひどいですね」
「まあ、そうでしょうか?」
「いや、褒めてませんから」
メリーナは楽しそうに笑った。
フレデリカは深いため息をついた。
考えてみれば、メリーナの提案を採用した時点で、何かがおかしかったのかもしれない。
だが、あのときは山田の訓練成績を上げることしか考えていなかった。
まさか、歓楽街の特殊な店の知識を参考にしていたとは。
(……知らない方が幸せだったな)
窓の外では、夕日が兵舎の屋根を赤く染めていた。
フレデリカはテーブルに置かれた鞭を見つめた。
「……しかし、そんな店があるなら、山田を一度行かせてみる価値はあるかもしれんな」
「えっ! フレっち、本気!?」
宍戸が顔を上げた。
「私の負担が減るなら、何でも試す!」
永野も少し考えた。
「……まあ、そういう店があるなら、山田には向いてるかもしれませんね」
「そうだろう?」
「ただ、あいつの場合、曹長じゃないと駄目なんじゃないですかね」
「…………」
宍戸もうなずいた。
「そうそう。山田って、フレっちのこと大好きだもんね」
メリーナも小さくうなずいた。
「そうですね。山田さんの場合、曹長ご本人がお好きなようですし」
「……それは、店に行ってみなければ分からんだろう」
「まあ、そうですね」
メリーナは微笑んだ。
「では、今度五月さんに聞いておきますね」
「……頼む」
フレデリカは鞭を手に取った。
これなら山田と直接触れずに済む。
山田の趣味を理解する気はないが、訓練への意欲が維持できるなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせたところで、ふと別の問題に気づいた。
「……待てよ」
「ん?」
宍戸が顔を上げた。
「これを使ったら、私は何をしていることになるんだ?」
「……ご褒美?」
「違う!」
フレデリカは鞭を掲げた。
「兵士を鞭で叩くんだぞ! 事情を知らない者が見たら、私が部下を虐待していると思われるではないか!」
「……ああ、確かに」
宍戸がうなずいた。
永野も真面目な顔になった。
「……それはまずいかもしれませんね。事情を知らない人が見たら、完全に体罰ですから」
フレデリカは鞭をテーブルに置いた。
本人が望んでいるとはいえ、上官が部下を叩く行為である。
しかも、軍務とは無関係な特殊な趣味が関わっている。
分隊長として、勝手に判断してよい問題ではなかった。
しばらく考え込んだ末、フレデリカは椅子から立ち上がった。
「……決めた。中隊本部で許可を取る」
「えっ?」
「事情を説明して、正式に判断してもらう。後から問題になってはかなわん」
フレデリカは鞭を握った。
「亜美、メリーナ。二人ともついてこい」
「えー! 私も?」
「当たり前だ。お前はこれまでの経緯を知っているだろう」
「……まあ、そうだけど」
「メリーナ。お前もだ。その店について説明してもらう」
「承知しました」
フレデリカは永野に顔を向けた。
「永野。お前は残っていていい」
「はい」
「それから、山田には余計なことを言うなよ」
「分かりました」
永野は苦笑した。
「……あいつ、鞭の話を聞いたら大喜びするでしょうからね」
「だから言うなと言っている!」
フレデリカは鞭を手に、宍戸とメリーナを従えて休憩室を出た。
残された永野は、三人の後ろ姿を見送った。
「……山田の奴、幸せ者だな」
リリアが不思議そうに顔を向けた。
「そうですか?」
「ええ。あそこまで真剣に面倒を見てくれる上官なんて、そうはいませんよ」
「そうですね!」
リリアは明るくうなずいた。
永野は少し考えてから付け加えた。
「……ただ、曹長には本当に同情しますけどね」
* * *
第4歩兵中隊本部。
古い石造りの建物の一角に、中隊長の執務室があった。
廊下には磨き込まれた木の床が続き、壁には連隊の訓示や勤務予定表が掲げられている。
執務室の扉の前で、フレデリカは一度立ち止まった。
手には乗馬用の鞭。
背後には宍戸とメリーナ。
(……何だ、この組み合わせは)
一瞬、自分でも妙な気分になった。
だが、ここまで来た以上、引き返すわけにもいかない。
フレデリカは扉を叩いた。
「入れ」
中から声がした。
「失礼します」
三人が入ると、中隊長のレア・ノム大尉は執務机に向かって書類を整理していた。
机の上には報告書や書簡が積まれ、壁には中隊の訓練予定表が掛けられている。
窓から差し込む夕日が机の片側を照らし、書類の束に長い影を落としていた。
レア大尉は顔を上げた。
「どうした、フレデリカ曹長。何か問題でも起きたのか?」
「はい。部下の教育方法について、ご相談があります」
「教育方法?」
「少々、特殊な事情がありまして……」
フレデリカは山田のことを説明した。
訓練成績が向上していること。
その理由が、自分に蹴られることを報酬とする奇妙な訓練方法にあること。
そして、直接蹴る代わりに乗馬用の鞭を使う案が出ていること。
レア大尉は、最初こそ不思議そうな顔で聞いていたが、話が進むにつれて表情を変えていった。
最後には腕を組み、難しい顔で黙り込んでしまった。
「……以上です」
フレデリカは説明を終えた。
しばらく沈黙が続いた。
壁掛け時計の針が、規則正しい音を立てていた。
「……なるほど」
レア大尉がようやく口を開いた。
「……世の中には、いろいろな人間がいるものだな」
「まったくです」
フレデリカは深くうなずいた。
「自分としては、兵士の育成に効果がある以上、継続する価値はあると考えています。しかし、鞭まで使用すれば、事情を知らない者から虐待と受け取られかねません。そこで、ご判断を仰ぎに参りました」
「ふむ……」
レア大尉は顎に手を当てた。
「確かに、問題になりかねんな。本人が望んでいるとはいえ、上官が部下を鞭で叩くわけだからな」
「はい」
「その件は、少し検討させてくれ」
「承知しました」
レア大尉は机の上の書類を整えながら、ふとメリーナに目を向けた。
「ところで、なぜメリーナ上等兵まで連れてきたんだ?」
「はい。実は、同様の趣味を持つ男性を相手にした店が市内にあるそうでして、彼女がその店について詳しいとのことです」
「……店?」
「はい。日本人の退役兵が経営しているそうです」
レア大尉がわずかに眉を動かした。
「……ほう。そういう店があるのか」
そこでメリーナが口を開いた。
「黒薔薇館というお店です。父の親友が経営しているんですよ」
「……黒薔薇館?」
レア大尉は一瞬、動きを止めた。
「……いや、知らんな」
誰も、知っているかとは尋ねていなかった。
フレデリカは少し不思議に思ったが、特に気には留めなかった。
「中隊長殿。その店を利用させることについても、ご意見をいただければと」
「う、うむ。それは本人の私生活の問題だろう。軍として口を出すことではないな」
「……そうですね」
「とにかく、鞭の使用については後日判断する。それまでは今の訓練方法も含めて、問題にならんよう慎重に扱ってくれ」
「承知しました」
フレデリカは姿勢を正した。
相談はこれで終わりだろう。
そう思った、そのときだった。
「あら?」
メリーナが、机の端に置かれた小さな箱に目を留めた。
黒地に薔薇の絵が描かれた紙製のマッチ箱だった。
「どうした、メリーナ上等兵」
「このマッチ……」
メリーナは箱を指さした。
「黒薔薇館のものですね」
「…………」
レア大尉の動きが止まった。
「このお店です。先ほどお話しした、磯貝五月さんのお店」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「このマッチ、お客様にお配りしているものなんですよ」
「……そ、そうなのか」
「ええ。五月さんが作らせた特注品なんです」
宍戸が机の上をのぞき込んだ。
「へえ、黒薔薇館って書いてある。ほんとだ」
フレデリカはゆっくりと中隊長を見た。
「……中隊長殿」
「な、なんだ?」
「こちらのお店を、ご存じなのですか?」
「知らん!」
あまりにも素早い返答だった。
「……そうですか」
「うむ。どこかでもらったのだろう。覚えておらん」
レア大尉は、何気ない仕草を装ってマッチ箱を手元に引き寄せた。
しかし、その動作がかえって不自然だった。
メリーナが小首をかしげた。
「でも、このマッチは店内でお客様にお渡しするものなんですけど……」
「…………」
沈黙が流れた。
窓から差し込む夕日が、執務机の上のマッチ箱を赤く照らしていた。
宍戸は口元を押さえた。
肩が小刻みに震えている。
レア大尉は書類を一枚取り上げ、何事もなかったかのように目を落とした。
だが、その書類は上下が逆だった。
フレデリカは、それを見てしまった。
(……ああ)
(これは、聞かない方がいいやつだ)
フレデリカは静かに姿勢を正した。
「……中隊長殿。鞭の使用については、後日ご判断いただければ結構です」
「う、うむ。それがよかろう」
「失礼いたします」
三人は敬礼して退出した。
廊下に出ると、重い木の扉が背後で閉まった。
少しの間、誰も口を開かなかった。
やがて宍戸が、こらえきれないように小声で言った。
「ねえ、フレっち……」
「言うな」
「でも、あのマッチ……」
「言うなと言っている!」
メリーナが穏やかに微笑んだ。
「五月さんに、中隊長もいらっしゃるのか聞いてみましょうか?」
「絶対に聞くな!!」
フレデリカの怒声が、夕方の廊下に響いた。
宍戸はとうとう笑い転げた。
メリーナは、相変わらず上品な笑顔を浮かべている。
フレデリカは足早に廊下を歩いた。
山田の教育方針について相談に来ただけのはずだった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
(……もう、誰にも相談するまい)
フレデリカ曹長の憂鬱は、ますます深まるばかりだった。