ベルノに、一年で最も過ごしやすい季節が訪れていた。
長い冬はすっかり終わり、街路樹は青々と葉を茂らせている。日中は暖かいが、暑すぎることもない。朝夕には涼しい風が吹き、訓練場で身体を動かす兵士たちにとっても、ありがたい季節だった。
第4歩兵中隊の訓練は、順調に進んでいた。
とりわけ、山田直樹一等兵の成長は目覚ましかった。
射撃、銃剣術、格闘、持久走。
かつては分隊のお荷物になりかねなかった山田が、今では一年先輩の永野進一等兵と、ほぼ同じ水準にまで達していた。
小隊全体で見れば、まだ平均よりやや下というところだが、新兵訓練の頃を考えれば驚くべき成長だった。
その原動力となっているのが、例の『ご褒美システム』である。
先月、フレデリカ曹長は中隊長のレア・ノム大尉に、乗馬用の鞭を使用する許可を申請していた。
その後、条件付きながら許可が下りた。
本人の同意を前提とし、訓練の妨げにならない範囲で使用すること。もちろん、負傷させるような行為は認められない。
フレデリカとしては、直接蹴らずに済むだけでもありがたかった。
そして山田も、この新しいご褒美を大いに喜んだ。
問題は、それからだった。
山田の訓練意欲は、ますます高まっていた。
自主訓練にも熱心に取り組み、休日でさえ訓練場に姿を見せる。
兵士としては、まったく申し分ない。
しかし、フレデリカを見る目が、明らかにおかしくなっていた。
以前から妙に熱っぽい視線を向けてくることはあった。
だが最近では、その視線に何かドロドロした、邪悪なものまで混じっているように感じられるのだ。
フレデリカが近くを通るだけで、山田の目が異様に輝く。
しかも、その視線には隠しきれない期待と欲望がにじみ出ていた。
「……山田」
「はい! 曹長!」
「貴様、何を見ている?」
「曹長です!」
「それは分かっている! なぜそんな目で見る!」
「申し訳ありません!」
山田は勢いよく敬礼した。
その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
「……気持ち悪い」
「ありがとうございます!」
「褒めていない!」
フレデリカは頭を抱えた。
軍歴十三年。
これまで何人もの兵士を育ててきたが、こんな部下は初めてだった。
その日の訓練が終わると、フレデリカは早々に帰宅した。
最近では、兵舎のシャワー室を使うことも少なくなっていた。
自宅には風呂がある。
誰にも邪魔されず、ゆっくり湯につかる方が、はるかに気が休まった。
湯船に身体を沈めながら、フレデリカは深いため息をついた。
(……兵士としては、本当によくなったんだがな)
それだけに、余計に始末が悪かった。
* * *
翌朝。
フレデリカが兵舎へ出勤すると、宍戸亜美兵長が待っていた。
「おはよ、フレっち」
「ああ。何か報告か?」
「うん。ちょっと山田のことで」
フレデリカの表情が曇った。
「……また何かやったのか?」
「いや、別に悪いことしたわけじゃないんだけどさ」
宍戸は少し言いにくそうに頭をかいた。
「最近、山田がシャワー室でずっと勃起してるんだよね」
「…………」
フレデリカは固まった。
「……何だと?」
「だから、シャワー浴びてる間、ずっとなの」
「…………」
「リリアがからかっても、もう全然動揺しないし。本人は平気な顔で身体洗ってるんだけどさ」
「……あいつは何を考えているんだ」
「さあ? もう恥ずかしいとか、そういう感覚もなくなっちゃったんじゃない?」
宍戸は肩をすくめた。
「それにさ、最近ちょっと心配なんだよね」
「何がだ?」
「山田、休日も自主練ばっかりしてるでしょ。永野が遊びに誘っても、全然付き合わないらしいんだ」
「……そうなのか?」
「うん。風俗に誘っても、まったく興味示さないんだって」
フレデリカは眉間にしわを寄せた。
「……以前は、そういう店に行っていたはずだな?」
「そうそう。永野と一緒に遊び回ってたじゃん。でも今は、女の子にも興味ないみたい」
そのとき、横で書類を整理していたメリーナが顔を上げた。
「……壊れちゃいましたかね」
「おい!」
フレデリカが思わず声を上げた。
メリーナは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「だって、曹長。最近の山田さん、少し普通じゃありませんもの」
「そんなことは分かっている!」
「でも、兵士としては本当によくなりましたよね」
「……それはそうだ」
フレデリカは腕を組んだ。
事実、山田の能力向上には目を見張るものがあった。
以前は一つ年上の永野に教えられてばかりだったが、今ではほぼ同じ水準にまで追いついている。
任務への取り組みも真面目で、命令違反もない。
それどころか、訓練目標を達成するためなら、誰よりも努力する。
「……兵士としては、問題ないんだ」
フレデリカは重々しく言った。
「だが、このまま放置していいとは思えん」
「そうだよねえ」
宍戸も今度は真面目な顔でうなずいた。
「ちょっと一回、永野に話聞いてみようか」
「ああ。呼んでこい」
* * *
しばらくして、永野進一等兵が呼ばれた。
「永野。貴様に聞きたいことがある」
「はい、何でしょう?」
「山田のことだ」
「ああ……山田ですか」
永野は、少し困ったような顔をした。
「最近、あいつは休日も自主訓練ばかりしているそうだな?」
「はい。そうなんですよ」
永野は苦笑した。
「俺も、たまには息抜きぐらいした方がいいって言ったんですが、全然聞かないんですよ」
「……そうか」
「この前も、休みに街へ遊びに行こうって誘ったんですけどね。訓練があるからって断られました」
「風俗にも行かないそうだな?」
「ええ。まったく興味ないみたいです」
永野は首を振った。
「正直、ちょっと怖いですよ」
「……私もだ」
フレデリカは深いため息をついた。
「永野。あいつの友人付き合いはどうだ?」
「友人付き合い、ですか?」
「ああ。第20期の連中に、親しい友人がいると聞いていたが?」
永野は少し考えた。
「そうですね……。みんな忙しいみたいですよ」
「忙しい?」
「高橋は浸透偵察小隊だから、なかなか会えませんし。井上は……」
永野はちらりとメリーナを見た。
「……メリーナさんとデートですね」
「あら」
メリーナが嬉しそうに微笑んだ。
「最近は井上さんと、よくお出かけしていますよ」
「……そうなのか」
フレデリカは少し意外そうな顔をした。
永野が続けた。
「川崎なんかとも仲はいいんですけど、最近はあまり会ってないみたいですね」
「ふむ……」
フレデリカは考え込んだ。
自主訓練に熱中すること自体は悪くない。
だが、休日まで訓練場に入り浸り、友人とも遊ばず、ひたすら自分からのご褒美だけを求めている。
それは、健全な状態とは思えなかった。
「……永野」
「はい」
「貴様から、友人たちに声をかけてもらえんか?」
「山田を遊びに誘うんですか?」
「ああ。訓練以外にも、少しは楽しみを持たせてやりたい」
永野はうなずいた。
「分かりました。川崎や井上に声をかけてみます」
「そうしてやってくれ」
フレデリカは、心底疲れたように息を吐いた。
「ここまで育てた兵士に、壊れられたらたまらん」
「……確かに」
永野も苦笑した。
「まあ、同期の連中と飲みにでも行けば、少しは気が紛れるかもしれませんね」
「ああ。頼んだぞ」
「了解しました」
永野は敬礼して部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、フレデリカはようやく少し安心した。
ところが、横からメリーナが穏やかな声で言った。
「でも曹長、山田さんは本当にお幸せそうですよね」
「……何が言いたい?」
「いえ。曹長のために、あそこまで頑張れるなんて素敵だなと思いまして」
「……メリーナ」
「はい?」
「貴様も少し黙っていろ」
「まあ」
メリーナは楽しそうに微笑んだ。
宍戸がとうとう吹き出した。
「ぶっ! あははは! フレっち、ほんと大変だね!」
「笑い事ではない!」
フレデリカの怒声が部屋に響いた。
* * *
その日の夕方。
訓練を終えた永野進は、駐屯地の食堂で井上翔太と川崎を見つけた。
「おう、井上、川崎。ちょっといいか?」
「ん? どうした?」
「山田のことで、ちょっと相談があるんだ」
「山田?」
川崎が顔を上げた。
「そういや、最近あいつ見ないな。元気にしてるのか?」
「元気どころじゃないんだよ。あいつ、最近ちょっとおかしくてさ」
「おかしいって、どういうことだ?」
永野は二人の向かいに腰を下ろした。
「お前ら、最近の山田の訓練成績知ってるか?」
「いや、知らねえけど」
「今じゃ俺とほとんど変わらないところまで来てるんだよ」
「はあ!?」
川崎が驚きの声を上げた。
「ちょっと待て。あの山田が?」
「そうなんだよ。この調子だと、そのうち追い越されそうだ」
「マジかよ!」
井上も感心したように言った。
「まあ、小隊全体じゃまだ平均より少し下だけどな。それでも新兵訓練の頃を考えたら、信じられねえよ」
「……で、何が問題なんだ?」
「その成長の理由が問題なんだよ」
永野は深いため息をついた。
そして、山田のご褒美システムについて説明した。
訓練でよい成績を出すと、フレデリカ曹長からご褒美をもらえること。
最初は叱責や蹴りだったものが、最近では乗馬用の鞭まで登場していること。
そして山田が、そのご褒美を目当てに、休日まで自主訓練に励んでいることを。
「…………」
井上と川崎は、しばらく黙っていた。
やがて川崎が口を開いた。
「……ちょっと待て」
「何だ?」
「つまり山田は、女の人に叱られたり、鞭で叩かれたりするために、必死で訓練してるってことか?」
「まあ、そういうことになるな」
「…………」
川崎は頭を抱えた。
「……あいつ、何やってんだよ」
井上も呆然としていた。
「いや、でも……それで訓練成績が上がってるんだろ?」
「ああ」
「だったら別にいいんじゃねえの?」
「いや、それがよくないんだよ」
永野はため息をついた。
「最近じゃ、休みの日も訓練ばっかりでさ。俺が遊びに誘っても、まったく来ないんだ」
「遊びって?」
「そりゃ、女の子のいる店とかだよ」
「……ああ」
「前は一緒に行ってたんだけど、最近じゃ全然興味を示さなくなっちまった」
川崎が眉をひそめた。
「……それは重症だな」
「だろ?」
永野はうなずいた。
「しかも、フレデリカ曹長を見る目が、もう普通じゃないんだよ」
「どんな目だよ?」
「……説明しにくいな。とにかく怖いんだよ」
井上が困ったように笑った。
「山田って、もともとアニメの女の子が好きだったじゃねえか。ああいうのとは違うのか?」
「もうそんな段階じゃないんだ」
永野は首を振った。
「フレデリカ曹長自身も、かなり困ってるんだよ。それで、俺に20期の連中と遊ばせてやってくれって頼んできたんだ」
「曹長が?」
「ああ。せっかくここまで育てた兵士に壊れられたらたまらん、ってさ」
「…………」
川崎はしばらく考えてから言った。
「……山田、もう壊れてないか?」
「俺もそう思うんだけどな」
永野は苦笑した。
井上が口を開いた。
「でもさ、本人は幸せなんだろ?」
「まあ、すごく幸せそうではあるな」
「……難しい問題だな」
三人は顔を見合わせた。
しばらくして、川崎が言った。
「とりあえず、一度あいつを誘ってみるか」
「そうだな。みんなで飯でも食いに行こうぜ」
井上もうなずいた。
「俺も声かけてみるわ。あいつ最近、全然顔見せねえしな」
「助かるよ」
永野はほっとしたように息を吐いた。
「俺一人じゃ、何を言っても聞かないんだよ。お前らからも言ってやってくれ」
「分かった」
そこへ、メリーナが姿を見せた。
「あら、井上さん。こちらにいらしたんですね」
「あ、メリーナさん」
井上は慌てて姿勢を正した。
「どうしたんですか?」
「いえ、そろそろお食事が終わる頃かと思いまして」
メリーナは井上の隣に立つと、永野と川崎にも微笑みかけた。
「皆さん、何のお話をされていたんですか?」
「山田のことですよ」
永野が答えた。
「あいつ、最近訓練ばっかりで、全然遊ばないんです。それで今度、みんなで街へ連れ出そうかって」
「まあ、山田さんを?」
「ええ。たまには女の子のいる店にでも連れていこうかと思って」
メリーナは少し考えるような仕草をした。
「そうですか……」
井上が慌てて口を開いた。
「あ、いや、メリーナさん。俺は別に、その、遊びたいってわけじゃなくてですね」
「ふふっ、分かっていますよ」
「山田がちょっとおかしくなってるんで、息抜きさせてやろうって話なんです」
「ええ。山田さんのことは、私も少し心配していますから」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「一日くらいなら、仕方ありませんね」
「……いいんですか?」
「もちろんです。お友達とのお付き合いも大切ですもの」
井上は明らかにほっとした顔をした。
その様子を見て、川崎が笑いをこらえていた。
「ただし、あとで山田さんのこと、教えてくださいね」
「はい。もちろんです」
「ふふっ。では、ちょっと待っていてくださいね」
そう言うと、メリーナは食堂を出ていった。
「……お前、ずいぶん丁寧にしゃべるんだな」
川崎が呆れたように言った。
「うるせえな。メリーナさんにはちゃんと話すんだよ」
「へえ、そういうもんなのか」
「当たり前だろ」
永野が笑った。
「ま、いいんじゃねえの。彼女公認なら気楽に遊べるだろ」
「だから、俺が遊びたいわけじゃねえって!」
三人がそんな話をしていると、しばらくしてメリーナが戻ってきた。
手には小さな封筒を持っていた。
「お待たせしました」
「あ、メリーナさん。何ですか、それ?」
「これなんですけど」
メリーナは封筒から数枚の券を取り出した。
「知り合いからいただいたものなんですが、女の子のいるお店の優待券なんです」
「……え?」
井上が目を丸くした。
「私が持っていても使い道がありませんし、よろしかったらどうぞ」
「い、いいんですか?」
「ええ。せっかくですから、皆さんで楽しんできてください」
井上は恐縮しながら券を受け取った。
「あ、ありがとうございます。メリーナさん」
「どういたしまして」
横から永野が券をのぞき込んだ。
「おっ、結構いい店じゃねえか!」
「お前、知ってるのか?」
「知ってるも何も、歓楽街じゃ有名な店だぞ。普通に入ったら結構高いんだぜ」
「マジかよ!」
川崎も身を乗り出した。
「すげえな、井上。彼女からこんなもんもらえるなんて」
「だから、山田のためだって言ってんだろ!」
メリーナは三人のやり取りを楽しそうに眺めていた。
「山田さん、少しは元気になってくださるといいですね」
「ええ。そうですね」
井上がうなずいた。
「じゃあ、メリーナさん。行ったら、あとでちゃんと報告します」
「はい。楽しみにしていますね」
メリーナはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見て、井上は少しだけ考えた。
本当に、全部報告していいんだろうか。
だが、せっかくの好意である。
ありがたく受け取っておくことにした。
「……井上」
川崎が小声で話しかけた。
「何だよ?」
「お前の彼女、すげえな」
「……ああ」
井上は手の中の優待券を見つめた。
「俺も、たまにそう思う」
* * *
数日後の夕方。
訓練を終えた山田直樹は、いつものように自主訓練へ向かおうとしていた。
そこへ、井上と川崎、それに永野がやってきた。
「おう、山田。ちょっといいか?」
井上が声をかけた。
「あれ、井上に川崎。久しぶりだね」
「久しぶりじゃねえよ。お前が全然顔出さねえんだろ」
川崎が笑った。
だが、山田の姿を改めて見た井上が、少し驚いた顔をした。
「……おい、山田。お前、身体でかくなったんじゃねえか?」
「えっ? そうかな?」
「いや、絶対変わってるって!」
川崎も山田の身体を見た。
新兵訓練の頃、山田はひょろひょろに痩せていた。
それが今では、肩幅も少し広くなり、腕にもはっきりと筋肉がついている。以前とは明らかに身体つきが違っていた。
「おいおい、すげえな。あのガリガリだった山田が!」
川崎が感心したように言った。
「毎日鍛えてるからね。少しは筋肉もついたかな」
山田は照れくさそうに笑った。
「少しどころじゃねえだろ。新兵訓練の頃なんか、腕なんて棒みたいだったじゃねえか」
井上が山田の肩を軽く叩いた。
「おお、結構硬えな!」
「ははは、ありがとう」
永野が横から口を挟んだ。
「こいつ、最近すごいんだぞ。訓練成績も俺とほとんど変わらなくなってきてるんだ」
「マジかよ!」
川崎が目を丸くした。
「お前、永野さんに追いついたのか?」
「いや、まだまだだよ」
山田は首を振った。
「フレデリカ曹長やメリーナさんには、全然歯が立たないし」
「そりゃ、あの二人と比べたら駄目だろ」
永野が苦笑した。
「小隊全体じゃまだ平均より少し下だけどな。それでも、ここまで伸びたのは大したもんだよ」
「へえ……」
井上は感心したように山田を見た。
「あの山田がなあ。人間、変わるもんだな」
「何だよ、井上。それじゃ僕が昔は駄目だったみたいじゃないか」
「実際、駄目だったじゃねえか!」
川崎が即座に突っ込んだ。
「ひどいなあ!」
四人は笑った。
「それでさ、山田。今度の休日、暇か?」
井上が尋ねた。
「休み? 特に予定はないけど、自主訓練しようと思ってるよ」
「また訓練かよ!」
川崎が呆れた声を上げた。
「お前、休みの日くらい身体休めろよ」
「でも、せっかく時間があるんだから……」
「まあ聞けって」
井上は山田の肩を叩いた。
「久しぶりにみんなで飲みに行こうぜ」
「飲みに?」
「ああ。街で飯食って、酒でも飲もうって話だ」
「うーん……」
山田は少し考え込んだ。
正直なところ、休日は自主訓練に使いたかった。
次の格闘訓練でよい成績を出せば、またフレデリカ曹長からご褒美がもらえるかもしれない。
そのためには、少しでも練習しておきたい。
「……悪いけど、今回は……」
「おいおい、ちょっと待てよ」
川崎が口を挟んだ。
「俺たち20期の同期だろ? たまには付き合えよ」
「そうだぞ、山田」
井上もうなずいた。
「俺たちだって、いつも暇なわけじゃねえんだ。せっかく都合合わせたんだからよ」
「……そうなんだ」
「それに、最近お前と全然話してねえじゃん。たまには昔みたいに馬鹿話でもしようぜ」
山田は二人の顔を見た。
井上も川崎も、新兵訓練の頃からの付き合いだった。
あの頃は、訓練が終わるたびにくだらない話をして、よく一緒に笑っていた。
最近は、確かにそんな時間がなくなっていた。
「……分かったよ」
山田は少し残念そうに笑った。
「たまにはいいか。僕も行くよ」
「おっ、そうこなくっちゃ!」
川崎が嬉しそうに山田の背中を叩いた。
永野もほっとした顔をした。
「よかった。お前、俺が誘っても全然来ないからな」
「すみません。最近、訓練のことばかり考えてて……」
「まあ、頑張るのはいいけどさ。たまには息抜きもしろよ」
「はい」
そこで井上が、思い出したように口を開いた。
「そういや、いいもんがあるんだ」
「何?」
井上は懐から数枚の券を取り出した。
「女の子のいる店の優待券だ。これがあれば結構安く遊べるらしいぜ」
「へえ、そんなの持ってるんだ」
山田が券をのぞき込んだ。
「どうしたの、これ?」
「メリーナさんがくれたんだよ」
「……え?」
山田が顔を上げた。
「メリーナさんが?」
「ああ。俺たちが山田を遊びに連れていくって話したら、知り合いからもらった券があるって、わざわざ持ってきてくれたんだ」
「…………」
山田はしばらく考えてから言った。
「井上、それって大丈夫なの?」
「何がだよ?」
「彼女から、そういう店の優待券もらうって……」
川崎が吹き出した。
「ははは! 俺もそう思った!」
「うるせえな! 別にいいだろ! メリーナさんが使ってくれって言ったんだから!」
「いや、まあ、そうだけど……」
山田は苦笑した。
永野が横から口を挟んだ。
「とにかく、結構いい店らしいぞ。せっかくだから楽しもうぜ」
「そうですね」
山田はうなずいた。
「じゃあ、久しぶりにみんなで飲もうか」
「よし、決まりだな!」
井上が満足そうに笑った。
「次の休み、夕方に駐屯地の門のところで集合な」
「分かった」
「遅れるなよ、山田」
「大丈夫だよ、川崎」
三人が帰ろうとすると、山田がふと思い出したように尋ねた。
「あ、そうだ。井上」
「何だ?」
「その店、何時くらいまでやってるの?」
「は? 夜の店だから遅くまでやってるだろ。何でだ?」
「いや、午前中は自主訓練できるかなと思って」
「…………」
井上と川崎は顔を見合わせた。
永野が深いため息をついた。
「……山田」
「はい?」
「お前、少しは休めって」
「でも、午前中くらいなら……」
「だから、そういうところだよ!」
川崎が思わず叫んだ。
* * *
休日の夕方。
ベルノの歓楽街は、仕事を終えた人々で賑わい始めていた。
石畳の通りには酒場や料理店が軒を連ね、店先の灯りが次々とともされている。
井上、川崎、山田、永野の四人は、その一角にある高級店の前に立っていた。
「……おい、本当にここか?」
川崎が立派な建物を見上げた。
「ああ、間違いねえよ。優待券に書いてある店だ」
井上が懐から券を取り出した。
「すげえな。こんな店、普通だったら俺たちの給料じゃ入れねえぞ」
永野が感心したように言った。
店の入口には上品な装飾が施され、磨き上げられた扉の前には、きちんとした服装の従業員が立っていた。
「……本当に入っていいのかな」
山田が少し不安そうに言った。
「何言ってんだよ。せっかくの優待券だぞ」
川崎はすっかり乗り気だった。
「よし、行こうぜ!」
四人は店内へ入った。
案内されたのは、一階の広々とした酒席だった。
落ち着いた照明の下に、いくつもの卓が並んでいる。壁には装飾が施され、調度品も高級そうなものばかりだった。
四人が席につくと、ほどなくして女性たちが現れた。
「いらっしゃいませ。今夜はごゆっくりお楽しみくださいね」
華やかな衣装に身を包んだ女性たちが、それぞれの隣に腰を下ろす。
ヒト族の女性もいれば、エルフの女性もいた。
若々しい美貌の女性、落ち着いた雰囲気の女性、明るく愛嬌のある女性。
さすがは高級店だけあって、容姿も接客も申し分なかった。
「……おお」
川崎が思わず声を漏らした。
永野も目を輝かせている。
「すげえな、ここ……」
女性たちは慣れた手つきで酒を注ぎ、四人に話しかけた。
「皆さん、軍人さんなんですか?」
「そうなんだよ。今日は久しぶりに仲間で遊びに来たんだ」
川崎が嬉しそうに答えた。
「まあ、そうなんですね。いつもお疲れさまです」
「いやあ、そんなこと言われると照れるな!」
永野もすっかり上機嫌だった。
しばらくすると、女性たちが席を離れ、別の女性たちがやってきた。
この店では、最初に一階で酒を楽しみながら、何人もの女性と話すことができる。
気に入った相手がいれば指名し、そのまま二階の個室で一緒に過ごす仕組みだった。
もちろん、個室の利用には別料金がかかる。
「いやあ、いい店だな!」
川崎は満面の笑みだった。
「だろ? 俺も名前は聞いたことあったけど、ここまでとは思わなかったぜ」
永野も上機嫌で酒を口に運んだ。
「井上、お前の彼女、すげえな! こんな店の優待券くれるなんて! いったい何者だよ!」
川崎が驚きを隠せない様子で言った。
「だから、メリーナさんが知り合いからもらったやつだって言ってるだろ」
井上は苦笑した。
「でも、ありがてえよな。普通なら絶対来られねえぞ」
「まったくだ!」
永野も大きくうなずいた。
そのとき、隣の女性が井上に尋ねた。
「お客様は、もうお気に入りの方はいらっしゃいますか?」
「えっ? ああ、いや……」
井上は少し困った顔をした。
「俺、彼女いるんだよな」
「まあ、そうなんですか?」
「今日は友達の付き合いで来ただけなんだ」
川崎がすかさず口を挟んだ。
「こいつの彼女が、ここの優待券くれたんだぜ!」
「まあ!」
女性は驚いたように目を丸くした。
「それは、ずいぶん理解のある彼女さんですね」
「……そうですね」
井上は少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺も、そう思います」
酒席が始まってから、しばらく時間が経った。
川崎と永野はすっかり上機嫌になり、次々と席につく女性たちとの会話を楽しんでいた。
山田も、最初のうちはおとなしく酒を飲んでいたが、少し酔いが回ってきたのか、次第に口数が増えていた。
「山田様、もう一杯いかがですか?」
「あ、いただきます!」
山田の隣には、小柄なエルフの女性が座っていた。
整った顔立ちに、長い耳。背丈はフレデリカ曹長と同じくらいだろうか。
山田はその女性と、楽しそうに話をしていた。
やがて女性が尋ねた。
「山田様、よろしかったら、このあと私と二階でお過ごしになりませんか?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです。ご指名いただければ、ご案内いたしますよ」
山田は少し考えたあと、笑顔で答えた。
「じゃあ、お願いします!」
そのやり取りを聞いた井上が顔を上げた。
「おう! 山田、いい子見つけたじゃねえか!」
「うん!」
「お前好みだな!」
井上は女性を見て、納得したようにうなずいた。
「確かに小柄なエルフだ。お前、ほんと分かりやすいな!」
「ははは、そうかな!」
山田も笑った。
少し酔いが回ったせいか、普段よりずっと調子がよかった。
永野が嬉しそうに声をかけた。
「よかったじゃねえか、山田! 楽しんでこいよ!」
「はい!」
山田は立ち上がった。
「じゃあ、みんな! 行ってくるよ!」
「おう! 頑張れよ!」
川崎が笑いながら手を振った。
「楽しんでこい!」
井上も声をかけた。
山田は小柄なエルフの女性に案内され、上機嫌で二階へ向かっていった。
その後ろ姿を、三人は見送った。
「……いやあ、よかったな」
川崎がほっとしたように言った。
「ああ。どうなるかと思ったぜ」
永野も大きくうなずいた。
「正直、あいつが女の子を指名するとは思わなかったよ」
「何だよ、普通じゃねえか」
井上が笑った。
「結局、小柄なエルフが好きってだけなんだろ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
永野は苦笑した。
「最近の山田、フレデリカ曹長のことしか頭にないみたいだったからな」
「これで少しは気が紛れるんじゃねえの?」
川崎が酒を口に運んだ。
「そうだといいんだけどな」
永野は二階へ続く階段を見上げた。
少なくとも、今夜の山田は楽しそうだった。
久しぶりに仲間と酒を飲み、自分から女性を指名した。
それだけでも、大きな前進に思えた。
「よし! 俺たちも楽しもうぜ!」
川崎が威勢よく言った。
「おう!」
永野も笑顔で応じた。
井上は二人を見ながら、満足そうにうなずいた。
(……これならメリーナさんにも、いい報告ができそうだな)
三人はすっかり安心していた。
* * *
店を出た頃には、すっかり夜も更けていた。
六月のベルノは、日中こそ暖かいものの、夜になると少し肌寒い。
四人は歓楽街の石畳を、駐屯地へ向かって歩いていた。
「いやあ、いい店だったな!」
川崎は上機嫌だった。
「本当だよ。あの値段で遊べるなんて、井上には感謝しないとな」
永野も満足そうだった。
「俺じゃねえよ。メリーナさんに感謝してくれ」
「ははは! そうだったな!」
三人が笑う中、山田だけは黙って歩いていた。
店に入った時の陽気さは、すっかり消えている。
それに気づいた井上が声をかけた。
「おい、山田。どうした?」
「……え?」
「何か元気ねえじゃねえか。楽しくなかったのか?」
「いや、楽しかったよ」
山田は無理に笑顔を作った。
「女の子も優しかったし、いい店だったと思う」
「だったら何だよ。そんな暗い顔して」
川崎も振り返った。
「そうだぞ。さっきまであんなに楽しそうだったじゃねえか」
「……うん」
山田は再び黙り込んだ。
永野も心配になって声をかけた。
「山田、何かあったのか?」
「……いえ、別に」
「別にって顔じゃねえだろ。何でもいいから話してみろよ」
三人に促され、山田はしばらく迷っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……実はさ、最近ちょっとおかしいんだ」
「おかしい?」
井上が聞き返した。
「何がだよ?」
山田は周囲を気にするように見回した。
「……笑わないで聞いてくれる?」
「何だよ、今さら。俺たちの仲じゃねえか」
川崎が答えた。
山田は少しためらってから、話し始めた。
「……勃起はするんだ」
「……は?」
井上が目を丸くした。
「でも、最後までできないんだよ」
「…………」
三人は黙った。
「今日も、女の子はすごくよくしてくれたんだけど……どうしても駄目で」
山田はうつむいた。
「最近、ずっとそうなんだ」
「……お前、それ、いつからだ?」
永野が尋ねた。
「はっきりとは分からないけど、ここしばらくかな」
「一人の時はどうなんだ?」
川崎が聞いた。
「……それも駄目なんだ」
「自慰でもか?」
「うん。勃起はするんだけど、最後までいけないんだよ」
「…………」
今度は誰も笑わなかった。
井上が心配そうに尋ねた。
「お前、それで医者には相談したのか?」
「いや、まだ……」
「何でだよ」
「だって、訓練には支障がないし……」
「いや、そういう問題じゃねえだろ」
山田は困ったように頭をかいた。
「でもさ、訓練してる時は気にならないんだよ」
「……どういうことだ?」
永野が聞き返した。
「走ったり、射撃の練習したり、格闘のこと考えてると、そういうことを忘れられるんだ」
山田は少しだけ表情を明るくした。
「だから、休みの日もなるべく訓練するようにしてるんだよ」
「…………」
「それに、頑張れば曹長にも褒めてもらえるし」
その言葉に、永野の顔が曇った。
「……山田」
「はい?」
「お前、休みの日まで訓練してるのは、そのせいなのか?」
「まあ、それだけじゃないですけど……」
山田は少し照れくさそうに笑った。
「訓練してると、余計なこと考えなくて済みますから」
川崎が頭をかいた。
「……おい、井上」
「何だよ」
「これ、俺たちが思ってたより深刻なんじゃねえか?」
「……ああ」
井上も真面目な顔になっていた。
「山田、お前、無理してんじゃねえのか?」
「いや、そんなことないよ」
「だったら何でそんな暗い顔してんだよ」
「…………」
山田は答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて井上が、山田の肩を軽く叩いた。
「まあ、今日はもう帰ろうぜ。あんまり考え込むなよ」
「……うん」
「それと、一度医者に相談してみろよ。そういうの、放っといていいもんじゃねえだろ」
「……そうだね。考えてみるよ」
山田は小さくうなずいた。
駐屯地へ戻る道すがら、永野は考え込んでいた。
山田の訓練成績は、確かに大きく向上している。
しかし、その裏で山田に何が起きているのか。
休みの日まで自主訓練に明け暮れ、女性にも興味を示さなくなった理由が、ようやく分かった気がした。
単に訓練が好きになったわけではない。
訓練に打ち込むことで、何かを紛らわせようとしているのだ。
そして、その先には必ずフレデリカ曹長がいる。
(……こりゃ、重症だな)
永野は小さくため息をついた。
フレデリカ曹長は、せっかく育てた兵士に壊れられたらたまらないと言っていた。
だが、山田はもう、相当おかしな状態になっているのかもしれない。
(……曹長に、どう報告したもんかな)
永野は隣を歩く山田を見た。
山田は何事もなかったように、明日の訓練の話を井上としていた。
その姿が、かえって永野には心配だった。
* * *
翌朝。
第4歩兵中隊の兵舎で、フレデリカ曹長は永野と井上から報告を受けていた。
部屋にはメリーナと宍戸も同席している。
「それで、どうだった? 山田は少しは息抜きできたのか?」
「はい。最初はあまり乗り気じゃなかったんですが、酒が入ったら結構楽しそうにしてました」
永野が答えた。
「結局、小柄なエルフの女の子を指名して、二階の個室にも行きました」
「ほう。それならよかったではないか」
フレデリカは少し安心した。
「それがですね……」
永野は困ったような顔をした。
「店を出たあと、山田の様子がおかしかったんです」
「どういうことだ?」
「何か落ち込んでるみたいで。井上が心配して聞いたんですよ」
「それで?」
井上が口を開いた。
「いや、あいつ、最初は何でもねえって言ってたんですが……あ、いや、何でもないって言ってたんですけど」
隣にメリーナがいることに気づき、慌てて言い直した。
「別に構わん。普段どおり話せ」
「はあ。じゃあ……」
井上は少し言いにくそうに頭をかいた。
「実は山田のやつ、最近、勃起はするんだけど、最後までいけねえらしいんですよ」
「…………」
フレデリカは眉をひそめた。
「……どういう意味だ?」
「いや、だから、その……射精できねえってことです」
その瞬間。
「ぶっ!」
宍戸が吹き出した。
「ちょっ……あはははは!」
「宍戸!」
「だ、だって! あははは!」
宍戸は腹を抱えて笑い始めた。
「それであいつ、シャワー室じゃいつもあんな状態なの!? あははは!」
「宍戸! 静かにしろ!」
「ひっ、ひいっ! 駄目、無理! あははは!」
フレデリカは深いため息をついた。
「……宍戸。貴様は席を外せ」
「えっ? ちょっと、フレっち!」
「命令だ! 出ていけ!」
「は、はいっ!」
宍戸は笑いをこらえながら敬礼し、部屋を出ていった。
廊下からも、しばらく笑い声が聞こえていた。
「……まったく」
フレデリカは額に手を当てた。
「続けろ」
「はい」
永野が話を引き取った。
「本人が言うには、一人でやっても駄目らしいんです」
「……一人でもか?」
「ええ。それで、気になって仕方がないらしくて」
フレデリカは腕を組んだ。
「……それと自主訓練に、何の関係がある?」
「訓練してると忘れられるそうです」
「忘れられる?」
「はい。走ったり、射撃や格闘の練習をしてると、余計なことを考えなくて済むって」
「…………」
「だから休日も、なるべく訓練してるらしいんですよ」
フレデリカは黙り込んだ。
なるほど。
山田が異常なほど自主訓練に打ち込んでいた理由が、ようやく分かった。
だが、それだけではないはずだった。
「……それで、あいつは他に何か言っていなかったか?」
永野は少しためらった。
「……頑張れば曹長に褒めてもらえるから、とも言ってました」
「…………」
フレデリカの顔が引きつった。
「……そうか」
井上が口を挟んだ。
「でも、曹長。あいつ、別に訓練が嫌なわけじゃねえんです。むしろ楽しそうなんですよ」
「それは知っている」
「だから余計に、どうしていいか分かんねえというか……」
フレデリカは椅子に深く腰を下ろした。
「……厄介だな」
兵士としての山田は、確実に成長していた。
まだまだ熟練兵には遠く及ばないが、成長の速さは目を見張るものがあった。
それだけに、今の状態を放置するわけにはいかない。
「……医者には相談したのか?」
「それも勧めたんですが、まだ行ってないそうです」
井上が答えた。
「そうか。そこは一度、軍医に相談させる必要があるな」
「はい」
そのとき、黙って話を聞いていたメリーナが口を開いた。
「でも、少し不思議ですね」
「何がだ?」
「山田さん、普段はあんなに元気なのに、女の人と二人きりになると駄目なんですね」
「……そうらしいな」
「それに、あんなに可愛らしいエルフの方を指名されたんでしょう?」
メリーナは井上に尋ねた。
「あ、はい。メリーナさん。結構かわいい子でしたよ」
「そうですか」
メリーナは少し考え込んだ。
「……もしかすると、普通の女の人では満足できなくなっているのかもしれませんね」
「普通の女では満足できん?」
フレデリカが聞き返した。
「ええ。山田さん、最近は曹長から叱られることを、とても楽しみにしているでしょう?」
「……ああ」
「だから、優しくしてくれる女性では、物足りないのかもしれません」
「…………」
フレデリカは嫌そうな顔をした。
「……つまり、もっと叱ってほしいということか?」
「さあ。そこまでは分かりませんけど」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「ただ、少し特殊な好みになっている可能性はありますね」
「……特殊な好みか」
井上と永野は顔を見合わせた。
「……なあ、永野さん」
「何だ?」
「そっちの分隊長も大変だな」
「……本当にそう思うよ」
二人は小さくため息をついた。
フレデリカはしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「分かった。報告ご苦労だった」
「はい」
「山田については、私の方でも考える。貴様らも引き続き、友人として様子を見てやってくれ」
「了解しました」
永野が敬礼した。
井上もそれにならった。
「それと、井上」
「はい?」
「今回は助かった。感謝する」
「いえ、別に。同期ですから」
井上は少し照れくさそうに答えた。
「また何かあったら、声かけてください」
「ああ。頼む」
二人が部屋を出ていくと、フレデリカは大きく息を吐いた。
「……まったく。どうしてこうなった」
メリーナは書類を片づけながら、穏やかに言った。
「でも曹長、山田さんは本当に頑張っていらっしゃいますから」
「それは分かっている!」
「せっかくですから、何とかしてあげたいですね」
「ああ。だが、どうすればいいのか……」
メリーナは少し考えた。
「曹長、以前お話しした黒薔薇館のこと、覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ。あの店か」
フレデリカは顔をしかめた。
「まさか、山田をあそこへ連れていくつもりか?」
「山田さんの好みを考えると、案外合っているかもしれませんよ」
「…………」
「少し心当たりがありますので、聞いてみましょうか?」
フレデリカはしばらく考え込んだ。
「……任せる。ただし、妙なことにはするなよ」
「はい。承知しました」
メリーナはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見て、フレデリカは何となく嫌な予感がした。
* * *
次の休日。
メリーナは久しぶりに実家へ帰っていた。
昼食を済ませ、居間へ顔を出すと、見覚えのある女性が父親と話をしていた。
「あら、五月さん。いらしてたんですね」
「こんにちは、メリーナちゃん。今日はお休み?」
「はい。久しぶりに帰ってきました」
磯貝五月は、細身の落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。
左腕は義手である。
かつて帝国軍に所属していた第2期召喚者で、戦傷によって退役したという。現在はベルノの歓楽街で、いくつもの店を経営している。
メリーナが幼い頃から知っている、父親の古い友人だった。
「あ、そうだ。五月さん、ちょうどよかった。相談したいことがありまして」
「あら、何かしら?」
五月は穏やかに微笑んだ。
「実は、私の分隊にいる日本人の男の子のことなんですけど」
「日本人? 第20期の子かしら?」
「はい。山田直樹さんというんです」
「それで、その山田君がどうかしたの?」
メリーナは、山田のことを説明し始めた。
小柄なエルフの分隊長に夢中になっていること。
訓練でよい成績を出すと、その分隊長から叱られたり、鞭で叩かれたりするのをご褒美として喜んでいること。
そして、最近では普通の女性と過ごしても、最後まで満足できなくなっているらしいこと。
五月は黙って話を聞いていた。
「……なるほどね」
「それで、分隊長も困っていまして。何かよい方法はないかと相談されているんです」
「その分隊長さんは、エルフなのね?」
「はい。フレデリカ曹長という方です。とても小柄なんですけど、軍歴十三年のベテランなんですよ」
「ふうん……」
五月は少し考えたあと、微笑んだ。
「だったら、うちの店に連れていらっしゃい」
「黒薔薇館ですか?」
「ええ。小柄なエルフの女の子がいるから」
五月はそこで、少し笑った。
「まあ、女の子と言っていいのか分からないけど、腕は確かよ」
「まあ、そうなんですか?」
「ええ。お客さんの扱いには慣れているし、評判もいいの。エルフの歳なんて、見た目じゃ分からないでしょう?」
「確かに、山田さんには分からないでしょうね」
メリーナも微笑んだ。
「それなら、気に入っていただけるかもしれません」
「メリーナちゃんの頼みなら、安くしとくわ」
「ありがとうございます、五月さん」
「それで、その分隊長さんも困ってるんでしょう?」
「ええ。山田さんの訓練成績はずいぶんよくなったそうなんですけど、最近は自分を見る目がおかしくなってきたって」
「ふふっ。それは大変ね」
五月は右手でカップを持ち上げ、コーヒーを一口飲んだ。
「だったら、その曹長さんも一緒に来るといいわ」
「曹長も、ですか?」
「ええ。うちには見学室があるの。マジックミラーになっているから、お客さんの方からは見えないのよ」
「まあ、そんなものまであるんですか?」
「そう。だから、山田君がどういうことを喜ぶのか、実際に見て勉強できるわよ」
メリーナは感心したようにうなずいた。
「それはいいですね。曹長も参考になるかもしれません」
「でしょう?」
五月はにっこりと微笑んだ。
「まあ、初めて見る人は、結構驚くみたいだけどね」
「そうなんですか?」
「ええ。でも、百聞は一見にしかず、って言うでしょう?」
「なるほど……」
メリーナはしばらく考えた。
「では、曹長に相談してみますね」
「ええ。いつでも連れていらっしゃい」
五月は穏やかな口調で答えた。
「それにしても、最近の召喚者にも、ずいぶん変わった子がいるのね」
「ふふっ。山田さんは、ちょっと特別かもしれません」
「そうみたいね」
二人は顔を見合わせて笑った。
メリーナは、これでフレデリカ曹長の悩みも少しは解決するのではないかと考えていた。
もっとも、五月の言った「初めて見る人は結構驚く」という言葉が、どれほどの意味を持っているのか。
この時のメリーナは、まだ知らなかった。
* * *
休日明けの朝。
第4歩兵中隊の兵舎で、フレデリカ曹長はいつものように書類に目を通していた。
そこへ、メリーナが声をかけた。
「曹長、先日ご相談いただいた山田さんの件ですが」
「ん? 何か分かったのか?」
「はい。ちょうどよい方にお会いできまして」
フレデリカは書類から顔を上げた。
「ほう。聞かせろ」
「以前お話しした黒薔薇館、覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ。あの店か」
フレデリカは眉をひそめた。
「実は、先日実家へ帰った際に、そこの経営者の方とお会いしたんです。父の古い友人で、私も子供の頃からお世話になっている方なんですよ」
「そうだったのか」
「ええ。それで山田さんのことを相談したところ、ぜひ店に連れていらっしゃい、と」
「……山田をか?」
「はい。小柄なエルフの女性がいるそうです」
「小柄なエルフ……」
「五月さんがおっしゃるには、女の子と呼んでいい年齢かどうかは分からないけれど、腕は確かだそうです」
「……なるほど」
フレデリカは少し考え込んだ。
山田が自分に異常な執着を見せていることは、もはや疑いようがない。
だが、同じような体格のエルフの女性が相手なら、少しは気が紛れるかもしれない。
「それで、費用はどうなる?」
「私の紹介なら、安くしてくださるそうです」
「そうか。それは助かるな」
フレデリカはうなずいた。
「それなら一度、山田を連れていくのも悪くないかもしれん」
「それと、曹長」
「まだ何かあるのか?」
「実は、見学もできるそうですよ」
「……見学?」
「はい。マジックミラーというものがありまして、隣の部屋から中の様子を見ることができるそうです」
「マジックミラーだと?」
「ええ。こちらからは見えますけど、向こうからは見えないそうです」
フレデリカは首をかしげた。
「……そんな設備があるのか」
「はい。ですから、山田さんに気づかれずに、どんなことを喜ぶのか見学できるそうですよ」
そのときだった。
横で話を聞いていた宍戸が、勢いよく顔を上げた。
「えっ! それ、マジ!?」
「宍戸?」
「ちょっと待って、メリーナ。それって、山田が何されてるか、全部見られるってこと?」
「ええ。そういうことになりますね」
「へええ!」
宍戸の目が輝いた。
「それ、面白そうじゃん!」
「……宍戸。貴様、何を考えている?」
「だってフレっち、山田がどんなことを喜ぶのか、実際に見られるんでしょ?」
「……そうらしいな」
「だったら、今後のご褒美システムの参考になるじゃん!」
「……何?」
フレデリカは嫌そうな顔をした。
宍戸は構わず続けた。
「ほら、最近の山田、普通のご褒美じゃ物足りなくなってるみたいだしさ」
「そんなことは分かっている!」
「だったら一回、プロのやり方を見てみるのもいいんじゃない?」
「……プロのやり方だと?」
「そうそう! 山田の好みも分かるし、勉強になるって!」
メリーナもうなずいた。
「五月さんも、百聞は一見にしかず、とおっしゃっていました」
「…………」
フレデリカは腕を組んだ。
確かに、山田の状態は心配だった。
兵士としての能力は順調に伸びている。新兵訓練の頃を考えれば、驚くほどの成長である。
だが、精神面は明らかにおかしくなっている。
何とかしてやりたいとは思う。
しかし、だからといって、そんな店の見学まで必要なのだろうか。
「……分かった。一度、見学してみるか」
「やった!」
宍戸が嬉しそうに声を上げた。
「宍戸、お前は遠慮しろ。興味本位で来られたらたまらん」
「ええっ! なんでよ、フレっち!」
「今の反応が答えだ!」
「いやいや、あたしだって山田のこと心配してるんだって!」
「貴様、さっきから面白そうだとしか言っておらんだろう!」
「だって、実際面白そうじゃん!」
「……帰れ」
「ひどっ!」
メリーナが二人のやり取りを見ながら、穏やかに微笑んだ。
「でも曹長、宍戸兵長も山田さんのことをよくご存じですし、一緒に見ていただいた方が参考になるかもしれませんよ」
「メリーナ! 貴様まで何を言い出す!」
「ふふっ。せっかくですから」
「そうそう! メリーナもこう言ってるし!」
フレデリカは深いため息をついた。
「……駄目だ。宍戸は留守番だ」
「ええっ!」
「命令だ!」
「……はーい」
宍戸は不満そうに口をとがらせた。
メリーナは楽しそうに微笑んでいた。
「では、五月さんに連絡しておきますね」
「ああ。頼む」
フレデリカは再び書類に目を落とした。
これで山田の問題が少しでも改善すればいい。
その時は、まだそう考えていた。
* * *
翌日の午後。
訓練を終えたフレデリカは、山田を呼び出した。
「山田、少しいいか」
「はい! 曹長!」
山田は嬉しそうに駆け寄ってきた。
その顔を見て、フレデリカは早くも気が重くなった。
「……貴様、最近は休日も自主訓練ばかりしているそうだな」
「はい! 少しでも早く上達したいと思っています!」
「その意欲は評価する。だが、休養も訓練のうちだ。身体を休めることも覚えろ」
「はい!」
「……それと、永野たちから話を聞いた」
「えっ?」
山田の表情が変わった。
「先日、街へ遊びに行ったそうだな」
「……はい」
「そこで、少々問題があったと聞いている」
山田は顔を赤くした。
「……すみません」
「謝る必要はない。だが、放置していい問題とも思えん」
フレデリカは腕を組んだ。
「それでだ。メリーナが、貴様に合いそうな店を見つけてきた」
「……店、ですか?」
「ああ。黒薔薇館という店だ」
「黒薔薇館……?」
「少々特殊な趣味の客を相手にする店らしい。貴様の好みに合いそうな、小柄なエルフの女性もいるそうだ」
「…………」
山田は目を丸くした。
「それって……そういうお店ですか?」
「そうだ」
フレデリカは少し顔をしかめた。
「私も詳しくは知らん。だが、メリーナによれば、腕のいい者がいるらしい」
「……はあ」
「費用についても、メリーナの紹介で安くしてもらえるそうだ」
山田は黙っていた。
フレデリカは、その様子を見て少し心配になった。
「……どうした? 嫌なら無理に行く必要はないぞ」
「い、いえ!」
山田は慌てて首を振った。
「そうじゃないんです!」
「なら、何だ?」
山田はしばらくフレデリカの顔を見つめていた。
そして、少し声を震わせながら言った。
「……曹長、僕のことを、そこまで心配してくださってたんですね」
「……ん?」
「わざわざ、そんなお店まで探してくださるなんて……」
山田の目が潤んでいた。
「僕、感動しました!」
「……おい、山田」
「ありがとうございます! 曹長!」
山田は勢いよく頭を下げた。
「僕、必ず行ってきます!」
「……そうか」
フレデリカは、何とも言えない顔になった。
「いや、別にそこまで感謝されることではない。貴様の状態が心配だっただけだ」
「はい! そのお気持ちが嬉しいんです!」
「…………」
(……また妙な方向に受け取っていないだろうな)
フレデリカは不安になった。
だが、ともかく山田は店に行くことを承諾した。
それだけでも一歩前進だろう。
「分かった。では、詳しい日時はメリーナから聞け」
「了解しました!」
「それと、山田」
「はい!」
「貴様は少し訓練以外のことにも目を向けろ。分かったな?」
「はい! 曹長!」
山田は満面の笑みで敬礼した。
「これからも、曹長の期待に応えられるよう頑張ります!」
「……だから、そういう話ではない!」
しかし山田は、嬉しそうな顔のままだった。
フレデリカは深いため息をついた。
山田が立ち去ったあと、フレデリカは一人で考え込んでいた。
実は、見学室のことは話していなかった。
最初は説明するつもりだったのだが、あの妙に熱っぽい目で感謝された瞬間、嫌な予感がしたのである。
自分が見学すると知ったら、山田はどういう反応をするだろう。
ますます喜ぶかもしれない。
いや、ひょっとすると、また何かおかしな方向に暴走するかもしれない。
(……余計なことは言わん方がいいな)
フレデリカはそう判断した。
そもそも、山田の趣味を理解するために、自分がそこまで付き合わなければならないというのも、納得しかねる話だった。
だが、せっかくここまで育てた兵士である。
何とか正常な状態に戻してやりたい。
(……これで少しは落ち着いてくれるといいんだが)
フレデリカは、心底そう願っていた。
* * *
次の休日。
ベルノの歓楽街を、山田とメリーナが歩いていた。
六月の夕暮れはまだ明るく、石畳の通りには仕事を終えた人々が行き交っている。
「山田さん、こちらですよ」
「あ、はい!」
山田はメリーナの後ろをついて歩いていた。
「それにしても、メリーナさん。今回はありがとうございます」
「いえいえ。曹長から頼まれたことですから」
「曹長が僕のために、そこまで心配してくださるなんて……」
山田は感慨深そうに言った。
「僕、もっと訓練を頑張ろうと思います!」
「……そうですか」
メリーナはにっこりと微笑んだ。
「でも山田さん、今日は訓練のことを忘れて楽しんでくださいね」
「はい!」
二人は歓楽街の一角にある、落ち着いた雰囲気の建物の前で足を止めた。
入口には、黒い薔薇をかたどった看板が掲げられている。
「こちらです」
「……ここが、黒薔薇館ですか」
「ええ。五月さんのお店です」
そのとき、店の扉が開いた。
中から、細身の女性が顔を出した。
「メリーナちゃん、いらっしゃい」
「あ、五月さん。こんにちは」
女性はメリーナに微笑みかけると、隣に立つ山田へ視線を移した。
「あなたが山田さん? 初めまして」
流暢な日本語だった。
「……えっ?」
山田は目を丸くした。
「に、日本語?」
「ええ。私、日本人だから」
女性は穏やかに微笑んだ。
「磯貝五月といいます。第2期召喚者よ」
「だ、第2期!?」
山田は思わず声を上げた。
「そんな昔からいらっしゃるんですか!?」
「ふふっ。昔って言われると、ちょっと傷つくわね」
「あっ! す、すみません!」
山田は慌てて頭を下げた。
五月は楽しそうに笑った。
「冗談よ。もうずいぶん長くこっちにいるからね」
山田は改めて五月を見た。
細身で、落ち着いた雰囲気の女性だった。
派手な衣装でもなく、歓楽街の店の経営者というより、どこか上品な商家の奥方といった印象である。
ただ、左腕だけが普通ではなかった。
義手だった。
山田の視線に気づいた五月が、何でもないことのように言った。
「ああ、これ? 昔、戦場でね」
「……そうだったんですか」
「もうずいぶん前のことよ。気にしないで」
五月は微笑んだ。
「それより、今日は楽しんでいってね。メリーナちゃんから話は聞いているわ」
「は、はい!」
「うちには、あなたの好みに合いそうな子がいるから」
「……そうなんですか?」
「ええ。腕は確かよ」
五月は店の中へと山田を招いた。
「さあ、どうぞ。遠慮しないで」
五月に案内され、山田は店の奥にある応接室へ通された。
落ち着いた照明の室内には、上等な調度品が並んでいた。山田が少し緊張しながら椅子に腰掛けると、五月が声をかけた。
「それじゃあ、紹介するわね。マーレ、入ってきて」
「はい」
扉が開き、一人のエルフの女性が姿を現した。
山田は思わず目を見開いた。
小柄な女性だった。
背丈はフレデリカ曹長とほとんど変わらない。すらりと伸びた耳と整った顔立ちが印象的で、穏やかな笑みを浮かべている。
「初めまして。マーレと申します」
「あ、初めまして! 山田直樹です!」
山田は慌てて立ち上がった。
その様子を見て、五月が微笑んだ。
「どう? 山田さん。気に入ったかしら?」
「は、はい! とても綺麗な方ですね!」
「まあ、ありがとうございます」
マーレは上品に微笑んだ。
「五月さんから、お話は伺っています。今日はよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
山田は勢いよく頭を下げた。
五月はメリーナに視線を向けた。
「どう? メリーナちゃん。分隊長さんと背丈は同じくらい?」
「ええ。本当にそっくりな体格ですね」
メリーナは感心したようにうなずいた。
「山田さん、よかったですね」
「はい!」
山田は嬉しそうだった。
五月はマーレに向き直った。
「それじゃあ、あとはお願いね」
「はい。お任せください」
マーレは山田に向かって微笑んだ。
「山田様、こちらへどうぞ」
「あ、はい!」
山田はすっかり上機嫌で、マーレの後について部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、五月がメリーナに小声で尋ねた。
「……あの子、本当にそんなに変わってるの?」
「ふふっ。とても真面目な方なんですけどね」
「そうなの?」
「ええ。少し、方向性がおかしくなってしまっただけなんです」
「……なるほどね」
五月は小さく笑った。
「それじゃあ、腕の見せどころかしら」
* * *
山田がマーレに案内されて部屋を出ていったあと、五月はメリーナを奥の廊下へ案内した。
そこには、もう一人の女性が待っていた。
フレデリカ曹長である。
「曹長、お待たせしました」
「ああ。山田はどうした?」
「今、マーレさんと一緒にお部屋へ入りましたよ」
「そうか」
フレデリカは短くうなずいた。
五月が穏やかに微笑みながら、フレデリカへ向き直った。
「初めまして。磯貝五月と申します。黒薔薇館の経営者です」
「フレデリカ曹長だ。第4歩兵中隊で分隊長を務めている」
「メリーナちゃんからお話は伺っています。山田さんのことで、ずいぶんお困りだそうですね」
「……ああ。兵士としては順調に成長しているんだが、少々問題があってな」
「ふふっ。そうみたいですね」
フレデリカは五月の左腕に目を向けた。
「五月殿は第2期の召喚者だと聞いた。戦傷退役したそうだな」
「ええ。最初の戦闘で負傷してしまいましてね。早々に軍を辞めたんですよ」
「そうだったのか。それから、ここまでの店を持つには、だいぶ苦労したのではないか?」
「ええ。最初は旧王宮前の広場で、屋台なんかやったんですよ」
「屋台?」
「はい。サンドイッチやコーヒーを売っていたんです。今では当たり前になっていますけど、あの形式の屋台をベルノで初めてやったのは私なんですよ」
「ほう。それは知らなかった」
フレデリカは感心したようにうなずいた。
「商才があったんだな」
「いえ、違うんですよ」
五月は小さく笑った。
「日本の真似をしただけなんですよ」
「日本の真似?」
「ええ。日本では珍しくもない商売なんです。でも、当時のベルノにはなかったんですよ。だから、結構繁盛したんです」
「なるほど。召喚者ならではの発想というわけか」
「そうですね。私たちの頃は、日本では当たり前のことでも、こちらでは誰も知らないものがたくさんありましたから」
五月は懐かしそうに微笑んだ。
「そういえば、エルデの方に日本人が集まって暮らしている一画があるのは、ご存じですか?」
「……いや、初耳だな」
「日本人街とでも言うんでしょうか。日本人が始めたお店なんかもあって、結構面白いものがあるんですよ」
「ほう。そんな場所があるのか」
「ええ。もちろん、日本人ばかりが住んでいるわけではありませんけどね」
五月は楽しそうに続けた。
「日本では珍しくないものでも、こちらの人には新鮮だったりしますから。なかなか面白いところですよ」
「なるほど。一度見てみたいものだな」
「機会があれば、ぜひ。私も時々、顔を出すんですよ」
フレデリカは感心したようにうなずいた。
「……しかし、そこからここまで事業を大きくしたのは、立派なものだ」
「ありがとうございます」
五月は穏やかに頭を下げた。
「まあ、運にも恵まれましたから」
フレデリカは改めて五月を見た。
戦傷によって軍を離れ、異国の地で商売を始め、今ではいくつもの店を経営している。
本人は日本の真似をしただけだと言うが、それだけでここまで来られるものでもないだろう。
五月は、そんなフレデリカの考えを知ってか知らずか、穏やかな笑みを浮かべていた。
「それにしても、確かに小柄な方ですね。マーレとほとんど背丈が変わらないわ」
「……そうか」
フレデリカは少し複雑な表情を浮かべた。
「ところで、五月殿」
「はい?」
「本当に、ここから山田の様子が見えるのか?」
「ええ。こちらへどうぞ」
五月は二人を見学室へ案内した。
部屋の壁一面には、大きな鏡のようなガラスがはめ込まれていた。
その向こうには、山田とマーレがいる部屋が見える。
「これがマジックミラーです」
五月が説明した。
「こちらからは向こうが見えますけど、向こうからはこちらが見えない仕組みになっています」
「ほう……」
フレデリカは興味深そうにガラスを見つめた。
「こんなものがあるのか」
「ええ。お客様のご希望に合わせて、こういう設備も用意しているんですよ」
メリーナも感心したようにガラスを眺めていた。
「本当に、向こうからは見えないんですね」
「そうよ。こちらの照明を落としておけば、まず気づかれないわ」
フレデリカはガラスの向こうに目を向けた。
山田はマーレと何やら話をしていた。
その顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「……まったく。あいつは」
フレデリカは小さくため息をついた。
五月が隣から声をかけた。
「フレデリカ曹長」
「何だ?」
「今日は、山田さんがどういうことを好まれるのか、よく見ていってくださいね」
「……ああ。そのつもりだ」
「マーレは経験豊富ですから、きっと参考になると思いますよ」
「そうか。それは助かる」
フレデリカは真面目な顔でうなずいた。
その様子を見て、五月は小さく微笑んだ。
「それでは、始めてもらいましょうか」
五月は壁際に設けられた呼び鈴へ手を伸ばした。
マジックミラーの向こうで、マーレがゆっくりと立ち上がった。
フレデリカは腕を組み、真剣な表情でその様子を見つめていた。
メリーナも隣で、興味深そうにガラスの向こうを眺めている。
五月だけが、これから何が始まるのかを知っていた。
* * *
しばらくして、マジックミラーの向こうでのプレーが終わった。
山田は寝台の上で気を失っていた。
マーレがすぐに山田の状態を確認し、必要な手当てをしている。
見学室には、妙な沈黙が流れていた。
「……最後、踏みつぶしていましたよね」
最初に口を開いたのはメリーナだった。
「ええ。でも、ちゃんと加減してるわよ。そこはプロだもの」
五月は何でもないことのように答えた。
「そうなんですか……」
メリーナは感心したようにうなずいた。
「それに、山田さん、ちゃんと射精してますね」
「さすがマーレね。あの子、こういうお客様の扱いは本当に上手なのよ」
「なるほど。勉強になりますね」
その隣で、フレデリカは完全に固まっていた。
「…………」
先ほどの山田の歓喜の叫び声が、まだ耳から離れなかった。
あんな声を出す人間がいるとは思わなかった。
ましてや、それが自分の部下だとは。
確かに山田の好みを知りたいとは思っていた。
だが、まさかあんなものを見せられるとは。
「……メリーナ」
「はい、曹長?」
フレデリカがゆっくりと振り向いた。
「貴様……」
「はい?」
「こんなこと、私にできるはずがないだろう!」
突然の怒声に、メリーナが目を丸くした。
「まあ、曹長」
「ふざけるな! あんな真似ができるか!」
フレデリカは顔を真っ赤にしていた。
「貴様、知っていたんじゃないのか!?」
「いえ、私も直接見るのは初めてでした」
メリーナはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょっと世界が広がった気がしますね」
「広げるな! そんな世界!」
五月が思わず小さく笑った。
「ふふっ。曹長さん、ずいぶん驚かれたみたいですね」
「当たり前だ!」
フレデリカは五月に向き直った。
「私は、山田の状態を改善する方法を知りたかっただけだ! あんなことを覚えるつもりはない!」
「ええ、もちろん。それでいいんですよ」
五月は落ち着いた声で答えた。
「マーレは仕事としてやっているんですから。曹長さんが同じことをする必要はありません」
「……そうなのか?」
「ええ。山田さんには、こういう場所で気分転換してもらえばいいんです」
フレデリカは少しだけ表情を緩めた。
「……そうか」
「それに、あの子は慣れていますけど、普通の方が真似するようなことではありませんからね」
「……当然だ!」
メリーナが横から口を挟んだ。
「でも曹長、山田さんは本当に満足されたみたいですね」
「それは分かった!」
「これで休日も少しは楽しめるようになるといいですね」
「……ああ。それが目的だからな」
フレデリカは再びガラスの向こうを見た。
山田はまだ寝台の上でぐったりしている。
「……しかし、あいつは本当に大丈夫なのか?」
五月が穏やかに答えた。
「マーレがついていますから、状態を確認させましょう」
「……ああ。頼む」
フレデリカは深いため息をついた。
兵士としての山田は、ようやく一人前に近づいてきた。
それを何とか維持したい。ただ、それだけだったはずなのに。
(……なぜ私がこんなものを見なければならんのだ)
フレデリカは心底後悔していた。
五月がそんなフレデリカを見て、穏やかに微笑んだ。
「でも、曹長さん。こういう趣味の方、案外多いんですよ」
「……そうなのか?」
「ええ。結構、兵隊さんも来るんですよ。おかげで繁盛してますわ」
「……兵士が?」
「はい。軍隊は何かとストレスがたまるでしょうからね。階級の高い方もいらっしゃいますよ」
「…………」
その瞬間、フレデリカの脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。
レア・ノム大尉。
以前、中隊長の執務室で見かけた黒薔薇館のマッチ。
あの時、妙に慌てて隠そうとしていたような気がする。
(……まさかな)
フレデリカは小さく首を振った。
(いや、考えるな。余計なことは考えるな)
五月が不思議そうに尋ねた。
「どうかされました?」
「……いや、何でもない」
「そうですか?」
「……五月殿。一つ聞いていいか?」
「はい、何でしょう?」
フレデリカは一瞬迷った。
だが、結局口を閉じた。
「……いや、やはり何でもない」
五月は穏やかに微笑んだ。
「ふふっ。お客様の秘密は守りますから、ご安心ください」
「…………」
フレデリカは、それ以上何も聞かないことにした。
知らなくていいこともある。
少なくとも、軍歴十三年の経験から、それだけは確かだった。
* * *
翌朝。
第4歩兵中隊の訓練場には、いつものように兵士たちが集まっていた。
六月のベルノは、朝から穏やかな晴天だった。
「山田! 構え!」
「はい!」
フレデリカの号令に、山田が素早く反応した。
その動きを見ながら、フレデリカは少し違和感を覚えた。
(……ん?)
山田の動きは悪くない。
むしろ、いつもより集中しているように見えた。
「よし! 次!」
「はい!」
山田は真剣な表情で訓練に取り組んでいた。
最近の山田は、フレデリカと目が合うだけで、何とも言えない熱っぽい視線を向けてきた。
何かドロドロした、邪悪なものまで感じさせる、あの気味の悪い視線である。
ところが今日は、それがなかった。
「……山田」
「はい! 曹長!」
「今日は調子がいいようだな」
「はい! おかげさまで!」
「……そうか」
山田は満面の笑みを浮かべた。
だが、以前のような異様な熱っぽさは感じられない。
(……なるほど)
フレデリカは、昨日の出来事を思い出した。
思い出したくもなかったが。
* * *
午前の訓練が終わった。
山田は汗を拭いながら、フレデリカのところへやってきた。
「曹長!」
「何だ?」
「今日の訓練、どうでしたか?」
「ああ。悪くなかった。よく動けていたぞ」
「ありがとうございます!」
山田は嬉しそうに敬礼した。
そして、少し期待するような顔をした。
「……それで、曹長」
「何だ?」
「今日のご褒美は……」
フレデリカは眉をひそめた。
「……貴様、まだそれを要求するのか」
「はい!」
即答だった。
「…………」
フレデリカは深いため息をついた。
だが、不思議と以前ほどの嫌悪感はなかった。
ご褒美を欲しがるのは相変わらずである。
しかし、以前のように自分をじっと見つめ、何かを期待しているような異様な雰囲気は薄れていた。
「……分かった。今日の成績なら、規定どおりだ」
「ありがとうございます!」
山田は嬉しそうに頭を下げた。
(……まったく)
フレデリカは呆れながらも、少し安心していた。
少なくとも、以前よりはずっと扱いやすい。
* * *
昼休み。
兵舎に戻ったフレデリカは、椅子に腰を下ろして大きく息を吐いた。
「……どうだった、フレっち?」
宍戸が尋ねた。
「何がだ?」
「山田だよ。今日、何か雰囲気違わなかった?」
「……ああ」
フレデリカは腕を組んだ。
「確かに違ったな」
「でしょ? シャワー室でも、今日は普通だったんだよね」
「そうなのか?」
「うん。変な感じがなくなってた」
宍戸は笑いながら続けた。
「いやあ、何があったのか知らないけど、よかったじゃん!」
「……そうだな」
フレデリカは短く答えた。
横で書類を整理していたメリーナが顔を上げた。
「やっぱり、昨日のお店がよかったんでしょうか」
「……メリーナ」
「はい?」
「昨日のことは、もう思い出させるな」
「まあ」
メリーナは楽しそうに微笑んだ。
「でも曹長、山田さんが落ち着かれたなら、よかったじゃありませんか」
「……それはそうだ」
フレデリカは認めざるを得なかった。
昨日、黒薔薇館で見せられた光景は、今でも思い出すだけで頭が痛くなる。
あんな店に、世の中で需要があるなどとは思いたくなかった。
ましてや、そこに自分の部下が通うことになるとは。
だが、結果は目の前に出ている。
山田は以前より落ち着き、訓練にも集中している。
ご褒美を欲しがること自体は変わらないが、あの異様な執着はずいぶん薄れていた。
(……まあ、あれで気が済むというなら)
フレデリカは小さく息を吐いた。
自分があんな真似をするなど、絶対に御免だった。
だが、専門の店に任せることで山田が落ち着くなら、それはそれで構わない。
(……これなら、何とかやっていけるかもしれんな)
そう思うと、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
「……メリーナ」
「はい、曹長?」
「五月殿には、礼を伝えておいてくれ」
「はい。もちろんです」
「ただし!」
フレデリカは鋭い目でメリーナを見た。
「私は二度と、あの見学室には入らんからな!」
「ふふっ。承知しました」
「……本当だろうな?」
「ええ。必要がなければ」
「必要などあるか!」
フレデリカの怒声が、兵舎に響いた。
宍戸は何のことか分からず、二人の顔を交互に見ていた。
「……ねえ、フレっち。昨日、何があったの?」
「貴様は知らんでいい!」
「ええっ! 何それ! 余計気になるじゃん!」
メリーナは口元に手を当てて、小さく笑った。
窓の外では、六月の穏やかな風が木々を揺らしていた。
フレデリカにとっても、久しぶりに穏やかな一日になりそうだった。
もっとも、山田のご褒美システムが終わったわけではない。
ただ、少なくとも当分の間は、あの気味の悪い視線に悩まされずに済みそうだった。
それだけでも、十分な成果だった。
* * *
それから、しばらく経ったある日。
フレデリカが兵舎で書類を整理していると、メリーナが声をかけてきた。
「そういえば曹長、山田さんのことなんですけど」
「……また何かあったのか?」
「いえ。五月さんから聞いたんですが、あれから黒薔薇館の常連さんになられたそうですよ」
「……何?」
フレデリカは顔を上げた。
「常連だと?」
「はい。すっかりお気に入りになったみたいです」
「…………」
フレデリカは何とも言えない表情を浮かべた。
あの店で見た光景が、嫌でも脳裏によみがえってくる。
「……あんなことを、何度もやっているのか?」
「さあ、詳しくは聞いていませんけど」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「五月さんも、いいお客様ができたと喜んでいらっしゃいました」
「……そうか」
フレデリカは深いため息をついた。
確かに、山田は以前よりずっと落ち着いていた。
訓練への意欲は相変わらず高いし、ご褒美も要求してくる。
だが、あの異様な視線はすっかり影を潜めていた。
兵士としても、順調に成長を続けている。
「……まあ、本人が満足しているなら構わん」
「ふふっ。そうですね」
フレデリカは書類に目を戻した。
世の中には、理解できない趣味を持つ人間もいる。
軍歴十三年。
これまで随分と多くの兵士を見てきたが、今回ばかりは勉強になった。
できれば、二度としたくない勉強だったが。
(……まあ、あれで山田がまともに訓練できるなら)
フレデリカは小さく息を吐いた。
(……それでよしとするか)
* * *
それから数日後。
フレデリカは、中隊本部へ書類を届けた帰りだった。
廊下の向こうで、見覚えのある二人が何やら話し込んでいるのが目に入った。
レア・ノム大尉と山田直樹一等兵だった。
「……ほう、マーレか」
「はい! 大尉もご存じなんですか?」
「ああ。なかなか腕のいい者だろう?」
「はい! 最高でした!」
二人は妙に意気投合している様子だった。
「それでな、山田。次に行くなら……」
レア大尉が声を潜め、山田に何かを教えていた。
山田は真剣な表情でうなずいている。
「なるほど! 勉強になります!」
「うむ。まあ、あまり人には話すなよ」
「はい! 了解しました!」
「…………」
フレデリカは、その場で足を止めた。
以前、中隊長の執務室で見かけた黒薔薇館のマッチ。
見学室で五月が言っていた、軍人の客も多いという話。
そして、今の会話。
すべてがつながった。
(……そういうことか)
フレデリカは無言で踵を返した。
山田には、どうやら新しい仲間ができたらしい。
しかも、よりによって自分の直属の上官だった。
(……知らん)
フレデリカは廊下を歩きながら、心の中でつぶやいた。
(私は何も見なかった。何も聞かなかった)
軍歴十三年。
世の中には、知らない方が幸せなこともある。
フレデリカは、それを改めて実感していた。
だが、フレデリカ曹長の憂鬱が幾分か減ったのは、紛れもない事実だった。