ベルノ市内の宿屋の一室。
井上翔太は、ベッドの上で幸せな気分に浸っていた。
隣にはメリーナ上等兵が横になっている。
長い黒髪を枕に広げ、薄い掛け布を胸元まで引き寄せていた。
先ほどまでの情事の余韻が、まだ部屋に残っていた。
「……井上さん」
「はい?」
「今日も、とてもよかったです」
メリーナは満足そうに微笑んだ。
井上は顔を赤くした。
「……ありがとうございます」
「ふふ。どうしてお礼をおっしゃるんですか?」
「いや、その……」
井上は照れくさそうに頭をかいた。
メリーナはくすくす笑った。
そして、井上の肩に頭を寄せた。
「本当に、井上さんと出会えてよかったです」
井上は隣の恋人を見つめた。
黒髪の美しい女性。
整った顔立ちに、上品な物腰。
日本にいた頃なら、こんな女性と付き合うことなど想像もできなかった。
自分は背も高くなく、小太りで、顔立ちも冴えない。
特別に女性に人気があったわけでもない。
むしろ、軍事オタクという趣味もあって、女性とは縁のない人生になるのではないかと思っていたくらいだった。
井上自身、自分の容姿に魅力があるとは思っていない。
別に、そのことでひどく落ち込んでいるわけではなかった。
人にはそれぞれ向き不向きがある。
軍事関係の知識なら、それなりに自信があった。帝国軍に入ってからも、装備の扱いや戦術の習得には真面目に取り組んでいる。
だが、女性に好かれる才能があるかと聞かれれば、まったく自信がなかった。
それが、どういうわけか、こんな美人と恋人同士になっている。
しかも、相手は自分を心から好きだと言ってくれるのだ。
(……人生って、何が起こるかわからないよな)
井上はしみじみと思った。
正直なところ、こんな幸運は人生で二度と訪れないと思っている。
これが最後のチャンスだ。
絶対に大切にしなければならない。
「井上さん?」
「えっ?」
「何を考えていらっしゃるんですか?」
「いや、その……メリーナさんって、本当に綺麗だなと思って」
「あら」
メリーナは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
そして、井上の頬に軽く口づけした。
「井上さんは、いつも褒めてくださいますね」
「本当のことですから」
「ふふ。嬉しいです」
井上は少しためらってから尋ねた。
「……でも、メリーナさん」
「はい?」
「俺なんかで、本当にいいんですか?」
メリーナは目を瞬かせた。
「……どうしてです?」
「いや、俺、別に格好よくないし……」
井上は照れくさそうに笑った。
「もっといい男、いくらでもいるだろ……あ、いや、いると思うんですけど」
メリーナはくすくす笑った。
「井上さん、無理に丁寧にお話ししなくてもいいんですよ」
「いや、でも……」
「ふふ。私は井上さんの、そういうところも好きですから」
井上は少し赤くなった。
「……ありがとう。あ、ありがとうございます」
メリーナは、また笑った。
「井上さん」
「はい?」
「私は、井上さんがいいんですよ」
「……そうですか」
「はい。それに、私は男の人のお顔なんて気にしませんから」
「……本当に?」
思わず地の口調が出た。
井上は慌てて言い直した。
「あっ、いや、本当ですか?」
「ふふ。本当ですよ」
メリーナは井上の胸にそっと手を添えた。
「顔が綺麗だからといって、一緒にいて幸せになれるとは限りませんでしょう?」
「まあ、それは……そうですね」
「私は、井上さんと一緒にいると、とても幸せなんです」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、いけませんか?」
「……いえ!」
井上は慌てて首を振った。
「俺も、メリーナさんと一緒にいると幸せです!」
「ふふ。よかった」
メリーナは、また井上の肩に頭を寄せた。
彼女にとって、男性の容姿はどうでもよかった。
これまでにも何人もの男性と付き合ってきたが、顔立ちや体格で相手を選んだことはほとんどない。
大切なのは、自分を認めてくれること。
男性として、子供を持つことも含めて、共に暮らしていけること。
そして何より、身体の相性がよいことだった。
その点で、井上翔太は申し分のない男性だった。
最初は、真面目で優しい人だと思った。
付き合ってみると、それだけではなかった。
二人きりで過ごす時間は、これまでの恋人たちとは比べものにならないほど心地よかった。
正直なところ、これほど相性のよい男性に出会えるとは思っていなかった。
しかも井上は、何かにつけて自分のことを気遣ってくれる。
自分の希望を伝えれば、きちんと聞いてくれる。
一緒にいると安心できるし、何より楽しい。
最近では、ひとつ困ったことまで起きていた。
井上と会えない日が続くと、寂しくなるのだ。
以前は、そんなことなどなかった。
恋人がいても、会えない日は会えない日で、別に何とも思わなかった。
ところが、井上は違う。
会えないと、顔が見たくなる。
声が聞きたくなる。
つい写真を取り出して、眺めてしまう。
(……不思議ですね)
メリーナは、井上の横顔を見つめた。
(どうして、こんなに好きになってしまったんでしょう)
もっとも、嫌な気分ではなかった。
むしろ、幸せだった。
* * *
「そうでした、井上さん」
しばらくして、メリーナが顔を上げた。
「はい?」
「今日は、ひとつお話があるんです」
「何ですか?」
メリーナは少し照れくさそうに微笑んだ。
「実は、生理が来てないんですよ」
「……え?」
井上は目を瞬かせた。
「予定より、少し遅れているんです」
「……それって」
井上はメリーナを見つめた。
「もしかして、妊娠?」
「ふふ。まだわかりませんけれど」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「明日、軍医の先生に診てもらおうと思っています」
「……マジで?」
思わず口をついて出た。
「あっ、いや、本当ですか?」
「はい」
メリーナはくすくす笑った。
「井上さん、驚きました?」
「そりゃ驚きますよ!」
井上は頭をかいた。
「だって、俺……父親になるかもしれないってことですよね?」
「そうですね」
メリーナはそっと井上の手を握った。
「井上さんは、どう思いますか?」
「……どうって」
井上は少し考えた。
そして、真面目な顔になった。
「嬉しいです」
メリーナの表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「もちろんです!」
井上は大きくうなずいた。
「いや、正直、びっくりしてますけど……もし本当に赤ちゃんができてたら、すごく嬉しいです」
「……よかった」
メリーナはほっとしたように微笑んだ。
「私も、そうだったら嬉しいです」
井上は少し照れくさそうに笑った。
「でも、俺、ちゃんと父親になれるかな……」
「ふふ。まだ気が早いですよ」
「いや、そうなんですけど」
井上は苦笑した。
「俺、まだ軍務も十四年くらい残ってるし、貯金だってそんなにないし……」
「井上さん」
「はい?」
「私もいますよ」
メリーナは優しく微笑んだ。
「もし赤ちゃんができていたら、二人で育てればいいんです。父も母もいますし、何も心配することはありませんよ」
「……そうですね」
井上は少し考えてから、うなずいた。
「もし本当にそうだったら、俺、頑張りますから」
「はい。私も頑張りますね」
メリーナは嬉しそうに井上の手を握り直した。
「明日、結果がわかったら、すぐにお知らせします」
「お願いします」
井上は笑った。
「……でも、何だか落ち着かないな」
「ふふ。私もですよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
* * *
「ところで、メリーナさん」
井上が尋ねた。
「もし妊娠していたら、軍務はどうなるんですか?」
「妊娠中は危険な訓練や重労働が免除されますし、出産や育児の期間も軍務年限に算入されますよ」
「そうなんですね」
「はい。もし赤ちゃんができていたら、しばらく戦場に行かなくて済みそうです」
井上は少し安心した。
「それはよかったです。俺も、メリーナさんが戦場に出るのは心配ですから」
「ふふ。ありがとうございます」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
三月の戦闘で、ベルノ連隊は大きな損害を受けている。
井上自身も、戦場の恐ろしさを十分に理解していた。
「私、戦場はあまり好きではありませんから」
「そりゃ、そうですよね」
井上は真面目にうなずいた。
メリーナは自分のお腹にそっと手を当てた。
「それに、私、以前から赤ちゃんが欲しかったんです」
「そうだったんですか」
「はい」
メリーナは井上の肩に頭を寄せた。
「井上さんなら、きっといいお父さんになってくださると思っていました」
「……そんなに期待されると、緊張しますね」
「ふふ。大丈夫ですよ」
彼女は楽しそうに笑った。
「井上さんは真面目で、優しい方ですから」
井上は照れくさそうに頭をかいた。
「……ありがとうございます」
「それに」
「はい?」
メリーナは少し悪戯っぽく笑った。
「私たち、とても相性がいいでしょう?」
「……えっ?」
井上は顔を赤くした。
メリーナは、そんな井上を見てくすくす笑った。
「私は、とても満足していますよ」
「……そ、そうですか」
井上は少し照れながらも、ほっとしたように笑った。
実は、そのことについても、多少の不安があった。
自分は経験豊富な男ではない。
メリーナには以前にも恋人がいたことを知っている。
だから、彼女に満足してもらえているのか、時々気になっていたのだ。
だが、メリーナはいつも嬉しそうにしている。
それに、こうして自分から言ってくれるのだから、きっと本心なのだろう。
「……それなら、よかったです」
「ふふ。井上さん」
メリーナは微笑んだ。
「もっと自信を持ってくださいね」
「……はい」
「私がこんなに好きになった方なんですから」
井上は顔を赤くした。
「……ありがとう。あ、ありがとうございます」
メリーナは楽しそうに笑った。
「ふふ。どういたしまして」
そして、井上の肩に頬を寄せた。
* * *
「それから、井上さん」
「はい?」
「もし妊娠していたら、父と母にも報告したいんです」
「……ご両親にですか?」
「はい。そのときは、井上さんも一緒に来ていただけませんか?」
井上の背筋が伸びた。
「もちろんです!」
即答したものの、急に緊張してきた。
恋人の両親に挨拶する。
しかも、妊娠の報告である。
日本にいた頃には、考えたこともなかった状況だった。
「……お父さん、怒りませんか?」
「どうしてです?」
「いや、その……俺がメリーナさんを妊娠させたとなれば……」
メリーナはきょとんとした。
そして、くすくす笑い始めた。
「井上さん、面白いことをおっしゃいますね」
「え?」
「赤ちゃんは私も欲しかったんですよ。それに、井上さんも嫌ではないとおっしゃったでしょう?」
「それはそうですけど……」
「もし赤ちゃんができていたら、父はきっと大喜びしますよ」
「本当ですか?」
「はい。ずっと孫を楽しみにしていましたから」
井上は少し安心した。
しかし、別の心配が浮かんできた。
(……俺みたいな男で、がっかりされないかな)
メリーナのような美人の父親である。
きっと立派な人物なのだろう。
娘の恋人には、もっと見栄えのする男を期待しているのではないか。
そんなことも考えてしまう。
「……井上さん?」
「あっ、はい!」
「大丈夫ですよ」
メリーナは優しく微笑んだ。
「父も母も、井上さんを気に入ると思います」
「……そうですかね」
「はい。間違いありません」
そう言い切るメリーナには、妙な自信があった。
井上は少し照れくさそうに笑った。
「それなら、ぜひご挨拶に伺います」
「ありがとうございます」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、お父さんは何のお仕事をされているんですか?」
「商売をしています」
「商人さんですか」
「はい。ベルノ市内で、いろいろと」
「へえ。手広くやっているんですね」
「そうですね。従業員もたくさんいますよ」
メリーナは穏やかに答えた。
「退役した軍人さんも、大勢働いています」
「それは立派ですね」
「ありがとうございます。父に伝えたら喜びますよ」
メリーナはにっこり笑った。
井上も笑った。
彼女がこれほど嬉しそうにしているのだから、きっといい家族なのだろう。
そう考えた。
「井上さん」
「はい?」
メリーナは井上の頬にそっと手を添えた。
そして、唇を重ねた。
少し長いキスだった。
唇を離したメリーナは、井上の顔を見つめた。
「ふふ。井上さん」
「……はい?」
「もう、大きくなってますよ」
「えっ!」
井上は真っ赤になった。
メリーナは楽しそうに笑った。
「もう一度、しませんか?」
「……いいんですか?」
「ふふ。もちろんですよ」
メリーナは井上の頬を優しく撫でた。
「今度は、ゆっくり繋がっていたいです」
「……僕もです」
「ふふ。嬉しいです」
メリーナはそっと唇を重ねた。
* * *
窓から差し込む午後の日差しが、薄いカーテンを柔らかく照らしていた。
井上は、隣で幸せそうに微笑むメリーナを見つめていた。
美しい恋人。
自分を心から愛してくれる女性。
そして、もしかすると、そのお腹には自分の子供がいるのかもしれない。
日本にいた頃の自分に話しても、きっと信じないだろう。
恋人ができるだけでも奇跡だと思っていた。
それが今では、こんなにも愛されている。
時々、どうして自分なのだろうと思うことはある。
もっと格好よくて、もっと立派な男だっているはずなのに。
しかし、メリーナはそんな自分を選んでくれた。
しかも、彼女は何度でも好きだと言ってくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「井上さん」
メリーナが優しく名前を呼んだ。
「大好きですよ」
「……俺も。大好きです」
井上は、彼女をそっと抱き寄せた。
メリーナは嬉しそうに目を閉じ、井上の肩に頬を寄せた。
窓の外では、夏の青空に白い雲がゆっくりと流れていた。
井上には、自分の身体までふわふわと浮き上がっていくような気がした。
天にも昇る気持ちとは、きっとこういうことを言うのだろう。
少なくとも、この瞬間の井上翔太にとって、世界で一番幸せな場所は、この小さなベッドの上だった。
* * *
翌日。
軍医の診察を受けたメリーナは、井上に結果を報告した。
「井上さん」
「はい! どうでした?」
「ふふ。赤ちゃんができていましたよ」
「……マジで!?」
井上は目を丸くした。
メリーナは嬉しそうにうなずいた。
「はい。先生にも確認していただきました」
「……すげえ」
井上はしばらく言葉を失った。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「俺、本当に父親になるんですね!」
「はい」
メリーナは井上の手を握った。
「二人の赤ちゃんですよ」
「……嬉しいです」
「ふふ。私もです」
井上は、まだ信じられないような顔でメリーナを見つめた。
「……本当によかった」
「はい」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「それから、軍の方にも報告しました。しばらくは中隊の事務仕事を担当することになりましたよ」
「そうですか。それなら安心ですね」
「ふふ。ありがとうございます」
井上は大きくうなずいた。
「じゃあ、ご両親へのご挨拶も、ちゃんと考えないといけませんね」
「はい。楽しみにしています」
* * *
数日後。
ベルノ連隊の駐屯地。
夕食を終えた山田直樹は、娯楽室の椅子に腰を下ろしていた。
そこへ井上翔太がやってきた。
「山田、ちょっといいか?」
「ん? どうした?」
「相談したいことがあるんだけど」
「俺に?」
山田は意外そうな顔をした。
「何だよ。軍の装備の話なら俺は詳しくないぞ」
「いや、そうじゃない」
井上は空いている椅子を引き寄せ、山田の向かいに座った。
「メリーナさんのことなんだけど」
「ああ、メリーナさん。まだ付き合ってるんだろ?」
「当たり前だろ」
「いや、何となく聞いただけだって」
山田は笑った。
井上は少し周囲を見回した。
そして、声を落とした。
「実はさ……子供ができたんだ」
「…………」
山田は井上を見た。
「……誰の?」
「俺のだよ!」
「ええっ!?」
山田の声が娯楽室に響いた。
「おい、声がでかいって!」
「いや、だってお前! マジで!?」
「そうだよ。軍医にも確認してもらったって」
「うわあ……」
山田は天井を見上げた。
「お前、すげえな。もう父親になるのかよ」
「自分でも驚いてるよ」
井上は苦笑した。
「それで、メリーナさんは?」
「すごく喜んでる」
「ああ……何となく想像できる」
山田の頭に、メリーナ上等兵の笑顔が浮かんだ。
黒髪の美しい女性で、上品な言葉遣いと穏やかな物腰が印象的だった。
ただし、同じ分隊で生活してきた山田は知っていた。
あの人は、見た目ほどおとなしい女性ではない。
むしろ、自分の考えをしっかり持っていて、いつの間にか相手を自分の望む方向へ導いてしまう。
(……笑顔で人を刺すタイプなんだよな、あの人)
もちろん、実際に刺すという意味ではない。
「で、相談って何だ?」
「ああ、それなんだけどさ」
井上は少し姿勢を正した。
「今度、メリーナさんの実家に挨拶に行くことになったんだ」
「実家?」
「うん。ご両親に会うんだよ。それで、何を着ていったらいいと思う?」
「……俺に聞くなよ」
「いや、真面目に聞いてるんだって!」
山田は少し考えた。
「軍服でいいんじゃないか? 変な格好にはならないだろ」
「なるほどな」
「手土産に菓子でも持っていけばいいんじゃね?」
「そうだな。それが無難か」
井上は真剣にうなずいた。
山田は思わず笑った。
「お前、完全に浮かれてるな」
「……まあ、そうかもな」
「そんなにメリーナさんが好きか?」
「好きだよ。めちゃくちゃ好きだよ」
即答だった。
「……お前、少しは照れろよ」
「いや、だってさ」
井上は少し声を落とした。
「俺、背も高くないし、小太りだし、顔だってよくないだろ? それなのに、あんな美人が俺のこと好きだって言ってくれるんだぞ」
「まあ、そうだけど」
「俺、こんな幸運は人生で二度とないと思ってる」
山田は吹き出した。
「お前、そこまで思ってるのか!」
「笑うなよ。本気なんだから」
井上も照れくさそうに笑った。
* * *
「何の話をしている?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、フレデリカ曹長が立っていた。
「曹長、お疲れさまです!」
二人は慌てて姿勢を正した。
フレデリカは井上を見た。
「おまえ、第20期の井上だったな」
「はい!」
「子供ができたことは聞いている。メリーナもずいぶん喜んでいたぞ」
井上は嬉しそうに笑った。
「そうですか」
「それで、何を相談していた?」
「実は、今度メリーナさんの実家に挨拶に行くことになりまして」
フレデリカの動きが止まった。
「……実家?」
「はい。ご両親にお会いするのは初めてなので、服装なんかを相談していたんです」
フレデリカはしばらく井上を見つめていた。
「……なるほどな」
山田が尋ねた。
「曹長、メリーナさんの実家をご存じなんですか?」
「知っている」
「どんな家なんです?」
「商売をやっている家だ」
「それは聞きましたけど……」
「山田。余計な詮索をするな」
「……はい」
井上は少し不安になった。
「あの、何か問題があるんでしょうか?」
「問題というほどのことじゃない」
フレデリカは少し考えた。
「メリーナの父親は、ベルノではそれなりに知られた人物だ」
「大きな商売をされているからですか?」
「……まあ、そうだな」
井上は少し安心した。
「メリーナさんも、お父さんは優しい人だって言ってました」
フレデリカは井上を見た。
「本人がそう言ったのか?」
「はい」
「……そうか。まあ、間違ってはいないな」
フレデリカは小さく息を吐いた。
「井上」
「はい」
「メリーナが連れて行くと言っているなら、心配することはない」
「ありがとうございます!」
「ただし、向こうで余計なことはするなよ」
「はい!」
「挨拶をして、飯を食って、帰ってこい。それで十分だ」
「わかりました!」
井上は大きくうなずいた。
フレデリカは、その顔をしばらく眺めていた。
どうやら、この青年は本当にメリーナに惚れ込んでいるらしい。
「まあ、子供ができたことはめでたい。メリーナを大切にしてやれ」
「はい!」
「それと、あいつは見た目ほどおとなしい女じゃないぞ」
井上は苦笑した。
「それは、最近わかってきました」
「ならいい」
フレデリカは小さく笑った。
「せいぜい尻に敷かれないようにな」
そう言い残して、娯楽室を出ていった。
* * *
ベルノ伯爵家の執務室。
オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐は、机の上に積まれた書類の一枚を手に取った。
「違法薬物?」
「はい。領都役所のワーレン所長から報告がありました」
家令のクライスが答えた。
「ここ一か月ほど、ベルノ市内で出回っているようです。民警も捜査を進めていますが、流通経路がつかめておりません」
オリヴィエは書類に目を落とした。
薬物を購入した者の証言、押収された品物、民警による捜査の経過。
報告書には、それなりの調査が行われた形跡があった。
「売人は捕まえているのね?」
「数名を拘束しております。ただ、いずれも末端の人間で、仕入れ先については知らないと供述しています」
「知らない、ねえ」
オリヴィエは書類を机に戻した。
「それで、民警は?」
「引き続き捜査を進めておりますが、手詰まりのようです。ワーレン所長も、これ以上は時間がかかるだろうと」
「そう」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
しばらく考え込んでから、クライスを見た。
「カルヴァーニを呼びなさい」
クライスは一瞬、返答に詰まった。
「……アルド・カルヴァーニですか?」
「ほかに誰がいるの?」
「いえ。しかし、あの男を使われるのですか?」
「何か問題がある?」
クライスは慎重に言葉を選んだ。
「カルヴァーニの商売については、以前から承知しております。ですが、あの男の組織も、決して清廉潔白とは言えません」
「知っているわ」
オリヴィエはあっさり答えた。
「本人に言わせれば、帝国法を守る善良な市民だそうだけど」
「……善良な市民、ですか」
クライスの表情が微妙に変わった。
オリヴィエは苦笑した。
「以前、本人にそう言われたのよ。自分は法の届かない部分で伯爵家に協力する忠実な臣民だ、ってね」
「ずいぶん都合のよい説明ですね」
「本人は大真面目だったわよ。隙間産業の社長なんですって」
クライスは思わずため息をついた。
アルド・カルヴァーニ。
ベルノ市内でさまざまな商売を営む男である。
表向きは商人だが、裏社会にも相当な影響力を持っていた。
その組織には、軍を退役した者も多い。なかでも戦傷によって軍務を続けられなくなった兵士たちの受け皿となっていることは、伯爵家でも把握していた。
当然、彼らの商売には問題もある。
しかし、オリヴィエは彼らを排除していなかった。
「先代から言われているのよ」
「先代伯爵から、ですか?」
「ええ。カルヴァーニについては、上手く使えって」
オリヴィエは窓の外に目を向けた。
「父は、あの男のことをよく知っていたわ。もちろん、やっていることも含めてね」
「……なるほど」
「クライス。ベルノからカルヴァーニを追い出したら、裏社会がなくなると思う?」
「いいえ」
クライスは即答した。
「別の者が入り込むでしょう」
「そういうこと。少なくともカルヴァーニなら、こちらの言うことを聞く。どこまで信用するかは別としてね」
* * *
ベルノ市内の高級住宅街。
井上翔太は、目の前にそびえる大きな屋敷を見上げていた。
「……ここですか?」
「はい。私の実家です」
隣に立つメリーナが、いつもの穏やかな笑顔で答えた。
屋敷は三階建ての立派な洋館だった。
高い石塀に囲まれ、正面には鉄製の大きな門がある。門の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、玄関までは石畳の道が続いていた。
井上は思わず感心した。
「すげえ……あ、いや、すごい家ですね」
「そうですか?」
「いや、そうですよ。こんな家、日本でもなかなか見ませんよ」
「ふふ。父が少し見栄っ張りなんです」
メリーナは楽しそうに笑った。
井上は改めて自分の軍服を見下ろした。
襟元を整え、階級章の位置を確かめる。
手には、山田に相談して購入した焼き菓子の詰め合わせを持っていた。
(……大丈夫かな、俺)
(こんな立派な家のお嬢さんだったのか……)
ただでさえ、メリーナの恋人として自分がふさわしいのか、少し自信がない。
こんな屋敷を見せられると、ますます緊張してしまう。
「井上さん?」
「は、はい!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
メリーナは井上の腕を取った。
「父も母も、楽しみにしていますから」
「……ありがとうございます」
井上は少し安心した。
そして、二人で門へ近づいた。
門の両側には、黒っぽい上着を着た大柄な男が二人立っていた。
一人は四十代ほどで、頬に大きな傷がある。
もう一人は左手の指を何本か失っていた。
二人はメリーナの姿を認めると、すぐに姿勢を正した。
「お嬢! お帰りなさいませ!」
「こんにちは。父はいますか?」
「へい! 旦那は朝からお待ちです!」
男は勢いよく頭を下げた。
「そちらの方が?」
「はい。井上翔太さんです」
メリーナは嬉しそうに井上の腕を取った。
「私の赤ちゃんのお父さんですよ」
「おおっ!」
男たちの顔がぱっと明るくなった。
「こいつはおめでとうございます!」
「お嬢、本当によかったですねえ!」
「ありがとうございます」
メリーナはにっこり笑った。
井上は少し戸惑いながら頭を下げた。
「あ、どうも。井上翔太です」
「へい! お話は伺っております!」
傷のある男が、今度は井上に深々と頭を下げた。
「井上様! ようこそお越しくださいました!」
「ど、どうも……」
井上は妙な気分になった。
(……何だか、映画に出てくるマフィアの屋敷みたいだな)
黒服の男たち。
厳重な門。
そして「お嬢」という呼び方。
しかし、井上はすぐに別のことを考えた。
(……まあ、これだけの金持ちなら、警備員くらいいるよな)
メリーナが隣で微笑んでいる。
「さあ、井上さん。行きましょう」
「はい!」
井上は手土産を抱え直し、屋敷へと足を踏み入れた。
* * *
屋敷の玄関には、さらに数名の男が待っていた。
皆、似たような黒い服装をしている。
中には明らかに軍人上がりとわかる者もいた。
「お帰りなさいませ、お嬢!」
「井上様、ようこそ!」
次々と頭を下げられ、井上はますます恐縮した。
「……メリーナさん」
「はい?」
「皆さん、ずいぶん礼儀正しいですね」
「父が礼儀には厳しいんです」
「そうなんですか」
「はい。挨拶ができない人は、父に叱られますから」
井上は納得した。
軍隊でも礼儀は重要である。
それに、退役軍人が多いという話だった。
厳格な上下関係が残っているのかもしれない。
(……なるほど。元軍人の会社って感じなのかな)
そのときだった。
「メリーナ!」
屋敷の奥から、太い声が響いた。
大柄な男が姿を現した。
五十歳前後だろうか。
背が高く、がっしりとした体格。
黒髪を後ろになでつけ、口元にはよく手入れされた髭を蓄えている。
高価そうな濃紺の上着を着て、指には大きな宝石のついた指輪が光っていた。
井上は思わず背筋を伸ばした。
(……うわっ)
(……完全にマフィアのボスじゃないか)
男は井上を一瞥すると、メリーナに向かって両腕を広げた。
「おお、メリーナ! よく帰ってきた!」
「ただいま、お父様」
「体は大丈夫か? つわりはないか? 軍の仕事はもう休んでいるんだろうな?」
「大丈夫ですよ、お父様。危険な訓練からは外れましたし、今は中隊の事務仕事をしています」
「そうか。それならいいが、無理はするなよ!」
「ふふ。わかっています」
メリーナは笑いながら父親に抱きしめられた。
「心配するに決まっているだろう! お前は俺のたった一人の娘なんだぞ!」
「ふふ。ありがとうございます」
男はようやく娘から離れ、井上の方を向いた。
「……で」
井上は緊張した。
「お前さんが、井上翔太君か」
「は、はい!」
井上は直立不動になった。
「第20期召喚者、ベルノ連隊所属の井上翔太一等兵です!」
男はしばらく井上を見つめた。
鋭い目つきだった。
まるで、値踏みされているような気分になる。
やがて男は、大きくうなずいた。
「そうか!」
そして突然、井上の肩を力強く叩いた。
「よくやった!」
「……はい?」
「よくやってくれた!」
男は満面の笑みを浮かべた。
「俺の娘に子供を作ってくれたんだろう! いやあ、めでたい!」
「えっ、あ、はい!」
「はっはっは!」
男は豪快に笑った。
「俺はアルド・カルヴァーニだ。メリーナの父親だ!」
「は、初めまして!」
井上は勢いよく頭を下げた。
「井上翔太と申します! 本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
「おう! そんなに堅くなるな!」
アルドは井上の肩を抱いた。
「今日からお前さんも家族みたいなもんだ!」
「は、はい!」
井上はまだ状況についていけなかった。
見た目は恐ろしく迫力がある。
しかし、ものすごく歓迎されている。
(……いい人じゃないか)
井上は素直にそう思った。
少なくとも、自分に対して悪意があるようには見えなかった。
それに、メリーナが嬉しそうに父親を見ている。
その姿を見ると、井上も安心できた。
* * *
応接室に案内された井上は、再び驚くことになった。
広い部屋には高価そうな家具が並び、壁には絵画や装飾品が飾られていた。
中央には大きなソファとテーブル。
そして、そのソファに上品な女性が座っていた。
ディオーネ・ネブリス。
メリーナの母親である。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
落ち着いた色合いの服を上品に着こなし、穏やかな微笑みを浮かべていた。
何より井上の目を引いたのは、その美しい黒髪だった。
長い髪を丁寧に結い上げているが、艶やかな色合いはメリーナとよく似ている。
顔立ちにも、どこか娘の面影があった。
(……なるほど)
(メリーナさんの綺麗な黒髪は、お母さん譲りなんだな)
井上は妙に納得した。
「まあ、メリーナ。お帰りなさい」
「ただいま、お母様」
ディオーネは立ち上がり、娘を抱きしめた。
「本当におめでとう。よかったわねえ」
「ありがとうございます」
「体は大事にするのよ。無理しちゃ駄目だからね」
「はい」
ディオーネは娘の顔を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「それにしても、あなたの髪、今日も綺麗ね。ちゃんと手入れしているの?」
「ふふ。もちろんですよ、お母様」
「そう。それならいいわ」
二人が並ぶと、ますますよく似ていた。
「……あの」
井上が思わず口を開いた。
「お二人、本当によく似ていらっしゃいますね」
ディオーネは井上に目を向けた。
「あら、そう?」
「はい。特に髪が……」
井上は少し照れくさそうに笑った。
「メリーナさんの髪、すごく綺麗だと思っていたんですけど、お母さん譲りなんですね」
ディオーネは嬉しそうに笑った。
「まあ、お上手ねえ」
「いえ、本当に」
「ふふ。ありがとうございます」
メリーナも嬉しそうに微笑んだ。
「井上さん、いつも私の髪を褒めてくださるんですよ」
「あら、そうなの?」
「はい」
ディオーネは井上を見つめた。
そして、にっこり笑った。
「あなたが井上さんね?」
「はい! 井上翔太です!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
ディオーネは穏やかに笑った。
「メリーナから、あなたのお話はたくさん聞いています」
「そうなんですか?」
「ええ。とても真面目で、優しくて、かわいらしい方だって」
「お母様!」
メリーナが珍しく声を上げた。
ディオーネは楽しそうに笑った。
「ふふ。いいじゃないの。本当のことでしょう?」
井上は顔を赤くした。
アルドが豪快に笑った。
「はっはっは! 娘が惚れた男だ! 悪い奴のはずがない!」
「お父様、井上さんが困っていますよ」
「おお、そうか! すまんな!」
アルドは笑いながらソファに腰を下ろした。
「まあ、座れ座れ!」
井上は手土産を差し出した。
「あの、これ、つまらないものですが……」
「おお、土産まで持ってきたのか!」
アルドは菓子箱を受け取った。
「気が利くじゃないか!」
「ありがとうございます」
「おい! これを厨房へ持っていけ!」
脇に控えていた男がすぐに進み出た。
「へい、旦那!」
井上は少し気になった。
(……旦那、か)
日本の映画やドラマで、似たような呼び方を聞いたことがある。
しかし、その考えはすぐに頭から消えた。
メリーナが隣に座り、そっと井上の手を握ったからだ。
「井上さん、緊張しています?」
「いや、まあ……少し」
「ふふ。大丈夫ですよ」
そう言って微笑むメリーナを見て、井上は思った。
(……ああ、もう)
(こんな綺麗な人が俺の恋人なんだよなあ)
それだけで、先ほどまでの緊張が少し和らいだ。
* * *
しばらくして、お茶と菓子が運ばれてきた。
アルドは上機嫌だった。
「いやあ、しかし、めでたい!」
すでに何度目かわからない言葉だった。
「俺はな、ずっと孫の顔を見たかったんだ!」
「お父様、まだ生まれていませんよ」
「わかってる! だが、めでたいものはめでたい!」
アルドは大きく笑った。
「しかも、これでお前がしばらく戦場に出なくて済む!」
その言葉に、井上は顔を上げた。
アルドの表情が少し真剣になった。
「俺はな、メリーナが軍に入ったときから気が気じゃなかった」
「……そうなんですか」
「ああ。軍務は帝国臣民の義務だ。それはわかっている。だがな……」
アルドは娘を見た。
「たった一人の娘を、魔族との戦場に送り出す親の気持ちも考えてみろ」
井上は何も言えなかった。
ベルノ連隊は、今年三月の戦闘で大きな損害を受けている。
戦死者も多かった。
メリーナは幸い無事だったが、次の戦場でも無事でいられる保証はない。
「今回、子供ができたと聞いてな」
アルドは大きく息を吐いた。
「嬉しかったよ。本当に」
ディオーネもうなずいた。
「私も、やっと安心できました」
メリーナは両親を見て、優しく微笑んだ。
「心配をかけてごめんなさい」
「馬鹿を言うな」
アルドは首を振った。
「お前が謝ることじゃない。軍務は仕方がないことだ。それでも、こうして帰ってきてくれただけで十分だ」
井上は、ようやく少し理解した気がした。
この男は、確かに怖い。
だが、娘のことを心から大切にしている。
そして、ディオーネも同じだった。
穏やかな微笑みの奥に、娘を心配する母親の気持ちが見えた。
「井上君」
「はい!」
アルドは井上を見た。
「娘を頼むぞ」
「はい。大切にします」
井上は真剣に答えた。
アルドはしばらくその顔を見つめた。
そして、満足そうにうなずいた。
「うむ。いい返事だ!」
* * *
「ところで、井上君」
アルドが茶を飲みながら尋ねた。
「お前さん、軍務はあと何年残っている?」
「ええと、まだ十四年ほどあります」
「そうか。長いな」
「はい」
「外住資格は、まだ先か?」
「そうですね。今のところ兵舎住まいですから」
アルドは腕を組んだ。
「ふむ。まあ、仕方がないな」
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「資格を取ったら、うちに住め!」
「……はい?」
「部屋ならいくらでもあるぞ!」
井上は固まった。
アルドは構わず続けた。
「メリーナと子供の部屋も用意する! 何なら屋敷の別棟を使ってもいい!」
「い、いや、そこまでしていただくわけには……」
「遠慮するな!」
アルドは大きく手を振った。
「どうせ部屋は余っているんだ!」
「でも……」
「なあ、母さん!」
アルドがディオーネに声をかけた。
「どうだ? いい考えだろう?」
ディオーネはにっこり笑った。
「ええ。私は賛成ですよ」
「ほらみろ!」
アルドは得意げだった。
井上はメリーナを見た。
彼女は楽しそうに微笑んでいた。
「井上さん、よかったですね」
「えっ?」
「外住資格が取れたら、一緒に暮らせますね」
「いや、その……」
「お部屋も広いですし、子育ても楽になりますよ」
井上は少し困った。
あまりにも話が早い。
しかし、メリーナは本当に嬉しそうだった。
(……まあ、いいか)
(メリーナさんが喜んでるんだし)
そこで、アルドがさらに言い出した。
「子供は何人でも作れ!」
「ぶっ!」
井上は危うく茶を吹き出すところだった。
「お、お父さん!?」
「おう! 何だ!」
「いや、その、まだ一人目も生まれてませんし!」
「何を言ってる! 若いんだから二人でも三人でも作ればいい!」
アルドは豪快に笑った。
「実はな、俺は大家族を作るのが夢だったんだ」
「そうだったんですか?」
「ああ。だが、商売が忙しくてな。結局、子供はメリーナ一人になっちまった」
アルドは娘を見て、少し照れくさそうに笑った。
「だからな、井上君。ぜひ頼むよ!」
「……は、はい?」
「五人でも十人でも構わんぞ! うちは金ならある!」
「十人!?」
井上は目を丸くした。
ディオーネも楽しそうに笑っていた。
「あなたったら、またそんなことを言って」
「いいじゃないか、母さん! 賑やかな家族は楽しいぞ!」
「ふふ。そうねえ。でも、産むのはメリーナなんですから、本人たちに任せましょうね」
「おお、そうだったな!」
メリーナは少し困ったように笑った。
「もう、お父様ったら……」
だが、嫌そうではない。
「井上さん」
「は、はい」
「私は、子供がたくさんいてもいいと思っていますよ」
「……そうなんですか」
「はい。賑やかな家族って、素敵でしょう?」
井上は、そんなメリーナを見つめた。
自分と一緒に暮らし、子供たちに囲まれているメリーナ。
そんな未来を想像しただけで、胸がいっぱいになった。
「……そうですね」
井上は笑った。
「俺も、そういう家庭がいいです」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
その様子を見て、アルドが満足そうにうなずいた。
「うむ! いい男だ!」
* * *
その後、井上は夕食までご馳走になった。
食卓には、見たこともないような料理が並んだ。
ディオーネは終始穏やかで、井上の日本での暮らしや軍務について興味深そうに質問した。
アルドは相変わらず豪快だったが、井上が話し始めると意外なほど熱心に耳を傾けてくれた。
軍隊の話になると、井上も少しずつ緊張が解けてきた。
戦傷によって退役した軍人を大勢雇っているという話にも感心した。
「それは、すごいですね」
「そうか?」
「はい。軍を辞めた後の仕事が見つからない人もいるでしょうし」
「まあな」
アルドはうなずいた。
「うちで働いている連中には、戦場で手足を失った奴もいる。だが、仕事ができないわけじゃない」
「そうですよね」
井上は真面目に答えた。
「軍隊で培った経験が役立つ仕事も多いと思います」
アルドは満足そうに笑った。
「おう! その通りだ!」
井上は、ますますこの男を気に入った。
(……見た目は怖いけど、本当にいい人だな)
やがて、帰る時間になった。
玄関ではディオーネが、わざわざ見送りに出てきた。
「井上さん。またいらしてくださいね」
「ありがとうございます」
「メリーナのこと、よろしくお願いします」
「はい!」
井上は深く頭を下げた。
ディオーネは、娘の肩にそっと手を置いた。
「メリーナも、身体を大切にするのよ」
「はい、お母様」
「何か困ったことがあれば、すぐに連絡しなさい」
「ふふ。わかっています」
ディオーネは満足そうにうなずいた。
アルドも井上の肩を叩いた。
「井上君! いつでも遊びに来い!」
「ありがとうございます!」
「娘と孫のこと、頼んだぞ!」
「はい!」
アルドは豪快に笑った。
「はっはっは! いい返事だ!」
井上はもう一度頭を下げ、メリーナと一緒に屋敷を出た。
門のところでは、例の男たちが待っていた。
「お嬢! 井上様! お気をつけて!」
「ありがとうございました!」
井上は頭を下げた。
メリーナは軽く手を振った。
「皆さん、またね」
「へい! お嬢!」
二人が門を出ると、後ろで大きな鉄門が閉じられた。
* * *
しばらく歩いてから、井上は長い息を吐いた。
「……緊張したあ」
メリーナがくすくす笑った。
「そんなに緊張しました?」
「そりゃしますよ。お父さん、すごい迫力でしたし」
「ふふ。でも、優しかったでしょう?」
「ええ。それは本当に」
井上はうなずいた。
「すごく歓迎してもらえて、嬉しかったです」
「よかった」
メリーナは井上の腕に自分の腕を絡めた。
「父も母も、井上さんをとても気に入ったみたいですよ」
「そうですか?」
「はい。間違いありません」
井上は少し照れた。
「それにしても、お母さん、本当に綺麗な方ですね」
「あら。ありがとうございます」
「メリーナさんと、よく似てました」
「ふふ。母にそう伝えたら、きっと喜びますよ」
「特に、あの黒髪が……」
井上はメリーナの髪を見た。
夕方の日差しを受けて、長い黒髪が艶やかに輝いている。
「やっぱり、お母さん譲りなんですね」
「はい。子供の頃から、よく母に似ていると言われました」
メリーナは嬉しそうに笑った。
井上も微笑んだ。
「でも、すごいお父さんですね。あんな大きな屋敷に住んで、従業員もたくさんいて……」
「父は商売が好きなんです」
「立派な人ですね。退役軍人の面倒まで見ているなんて」
メリーナは微笑んだ。
「父にそう伝えておきますね」
「ぜひ」
井上は笑った。
「しかし、あの従業員の皆さん、軍隊みたいでしたね」
「そうですか?」
「ええ。皆さん、ものすごく礼儀正しくて」
「父は上下関係に厳しいんです」
「ああ、なるほど」
井上は納得した。
そして、ふと思い出した。
「あ、そういえば」
「はい?」
「皆さん、メリーナさんのことを『お嬢』って呼ぶんですね」
「はい。昔からそうなんです」
「お父さんのことも『旦那』って呼んでましたね」
「そうですね」
メリーナは平然と答えた。
井上は少し考えた。
(……やっぱり、何かヤクザっぽいよなあ)
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
(……まあ、あんな大きな商売をしてるんだから、普通の会社とは違うんだろう)
メリーナが井上の腕に少しだけ強く抱きついた。
「井上さん」
「はい?」
「今日は来てくださって、本当にありがとうございました」
「いえ。こちらこそ」
「私、とても嬉しかったです」
井上は隣を見た。
メリーナは、幸せそうに微笑んでいた。
(……ああ、もう)
(こんな笑顔を見せられたら、何でもよくなるよな)
井上は心の中で苦笑した。
多少変わった家族でも構わない。
自分はメリーナが好きなのだ。
そして彼女も、自分を好きでいてくれる。
それだけで、十分ではないか。
井上はそう考えた。
* * *
数日後。
ベルノ市内の商業地区。
井上翔太は、メリーナと並んで石畳の通りを歩いていた。
「それにしても、井上さん。父はずいぶん喜んでいましたよ」
「そうなんですか?」
「はい。井上さんは礼儀正しくて、なかなか見どころのある青年だって」
井上は照れくさそうに笑った。
「いやあ、あんなに歓迎してもらえるとは思いませんでした」
「ふふ。父は井上さんのことが気に入ったみたいです」
「それならよかったです」
井上は心から安心していた。
実家訪問の前は、メリーナの父親に気に入ってもらえるか、かなり不安だった。
何しろ、彼女は驚くほどの美人である。
一方、自分は背も高くなく、小太りで、顔立ちも冴えない。
裕福な商家の主人なら、娘の相手にはもっと立派な男を望んでいるのではないか。
そんなことを考えていた。
ところが、実際に会ってみれば、アルド・カルヴァーニは驚くほど気さくな人物だった。
確かに見た目は怖い。
だが、娘を心から大切にしていることもよくわかった。
しかも、戦傷退役兵を大勢雇っているという。
井上は、その点にも感心していた。
「お父さん、本当にいい人ですね」
「ありがとうございます」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「井上さんにそう言っていただけると、私も嬉しいです」
井上は照れくさそうに頭をかいた。
(……まあ、ちょっとマフィアの親分みたいだったけど)
あの大きな屋敷。
黒服の男たち。
そして、妙に厳格な上下関係。
多少気になるところはあったが、井上は深く考えないことにしていた。
何より、メリーナがあれほど嬉しそうだったのだ。
「井上さん」
「はい?」
「今日は、あちらのお店に寄ってみませんか?」
メリーナが通りの向こうを指さした。
小さな洋菓子店だった。
店先には焼き菓子や果物を使った菓子が並んでいる。
「いいですね。行きましょう」
井上は笑って答えた。
そのときだった。
「どけっ!」
突然、怒鳴り声が響いた。
* * *
通りの向こうから、一人の男が走ってきた。
三十代ほどの痩せた男だった。
顔は青ざめ、何度も後ろを振り返っている。
男は通行人を突き飛ばしながら、必死の形相で走っていた。
「何だ?」
井上が足を止めた。
その直後、さらに三人の男たちが通りに飛び出してきた。
黒っぽい上着を着た、屈強な男たちだった。
「待ちやがれ!」
「逃がすんじゃねえ!」
先頭の男が怒鳴った。
逃げていた男は、背後を振り返った拍子に道端の荷車にぶつかった。
積まれていた木箱が崩れ落ちる。
「うわっ!」
男がよろめいた。
その瞬間、追いかけてきた男の一人が追いついた。
「捕まえたぞ!」
襟首をつかみ、そのまま石畳に引き倒した。
「ぐあっ!」
倒れた男の腹に、容赦なく蹴りが入った。
さらに別の男が、逃げようとする男の背中を踏みつけた。
「てめえ、ベルノで好き勝手しやがって!」
「ま、待ってくれ!」
「今さら遅えんだよ!」
鈍い音が響いた。
男の顔が横に跳ねた。
「もう売らねえ! 二度とベルノには来ねえから!」
「当たり前だ、この野郎!」
再び蹴りが入った。
「ぐっ……!」
倒れた男は身体を丸めた。
顔から血が流れ、もはや抵抗する力も残っていないようだった。
しかし、黒服の男たちは手を緩めようとしない。
「よそから来て、好き勝手な商売しやがって!」
「旦那のところへ連れていくぞ!」
一人が倒れた男の髪をつかみ、無理やり顔を上げさせた。
「ひっ……!」
男は怯えきっていた。
井上は呆然と立ち尽くしていた。
(……何だよ、これ)
目の前で、人が袋叩きにされている。
軍隊に入ってから戦闘訓練は受けている。
三月には実際の戦場も経験した。
しかし、街中で屈強な男たちが一人の人間を殴り続ける光景は、それとはまったく別の恐ろしさがあった。
周囲の通行人たちは、慌てて距離を取っていた。
誰も止めようとしない。
井上にも、割って入る勇気などなかった。
(……やばいだろ、これ)
(誰か民警を呼ばないのかよ……)
井上は思わず周囲を見回した。
そのとき、殴っていた男の一人がこちらを振り返った。
「何見てやがる!」
井上の身体がびくりと震えた。
男の視線が、まっすぐ自分たちに向けられている。
(……まずい!)
井上は反射的に一歩前へ出た。
「メリーナさん、下がってください」
「……井上さん?」
井上は、メリーナを背後に庇うように立った。
相手は三人。
いずれも自分より体格がよく、明らかに喧嘩慣れしている。
まともに相手をすれば、まず勝ち目はない。
井上にもそれくらいはわかっていた。
心臓が激しく鼓動している。
怖くないわけがなかった。
正直なところ、今すぐ逃げ出したかった。
だが、背後にはメリーナがいる。
しかも、彼女は自分の子供を身ごもっているのだ。
(……メリーナさんだけは)
井上は拳を握った。
(……絶対に危ない目には遭わせられない)
何かあれば、自分が時間を稼ぐしかない。
その程度のことしかできないかもしれないが、彼女だけでも逃がしたかった。
井上は男たちから目を離さなかった。
その背後で、メリーナは少し驚いた顔をしていた。
自分より大きな男たちを前にして、明らかに緊張している井上。
その背中は決して大きくない。
体格も、目の前の男たちとは比べものにならなかった。
それでも、彼は自分を守ろうとしている。
メリーナは、その背中をじっと見つめた。
(……井上さん)
胸の奥が、温かくなった。
彼が喧嘩に強いなどとは、メリーナも思っていない。
むしろ、怖がっていることは十分にわかっていた。
それなのに、自分の前に立ってくれた。
(……本当に、素敵な人)
メリーナは思わず微笑んだ。
この人を好きになって、本当によかった。
そう思った。
そのときだった。
「……あ?」
黒服の一人が、井上の背後にいるメリーナに気づいた。
男の表情が凍りついた。
「お、おい!」
慌てて仲間の肩をつかむ。
「何だよ!」
「お嬢だ!」
「……は?」
「お嬢がいらっしゃる!」
その言葉を聞いた途端、男たちの動きがぴたりと止まった。
全員がメリーナを見た。
「お、お嬢!」
先ほどまで凄んでいた男が、慌てて姿勢を正した。
「これは! お嬢、お出かけでしたか!」
メリーナは井上の背後から、ひょいと顔を出した。
「こんにちは、皆さん」
いつもの穏やかな笑顔だった。
「……え?」
井上は思わず振り返った。
メリーナは嬉しそうに微笑んでいる。
そして、井上の腕をそっと取った。
「井上さん」
「は、はい?」
「守ってくださって、ありがとうございます」
「……えっ?」
「ふふ。とても嬉しかったです」
井上は顔を赤くした。
「いや、その……当然ですよ」
メリーナは、その返事を聞いてますます嬉しそうに笑った。
一方、黒服の男たちは顔面蒼白だった。
「お、お嬢! みっともねえところをお見せしちまって、申し訳ありません!」
「お連れの方までいらっしゃるとは知らず……!」
一人が井上を見た。
「……あっ!」
さらに顔色が変わった。
「井上様!」
「へ?」
「これは、とんだ失礼を!」
男は深々と頭を下げた。
「旦那からお話は伺っております! まさかこんなところでお会いするとは!」
井上は口を開けたまま、男たちを見つめていた。
(……何なんだ、これ)
つい先ほどまで、男たちは道端で人を半殺しにしていた。
ところが今は、メリーナと自分に向かって、まるで上官に接する兵士のように頭を下げている。
「皆さん」
メリーナが穏やかな声で言った。
「こんな往来で騒ぎを起こしてはいけませんよ」
「へ、へい!」
「小さな子供も歩いているんですから」
「申し訳ありません!」
メリーナは倒れている男をちらりと見た。
男は血を流しながら、苦しそうにうめいていた。
「その方は?」
黒服の男が慌てて答えた。
「ちょっと、うちに迷惑をかけた野郎でして!」
「そうですか」
「へい! 旦那のところへ連れていく途中だったんですが、逃げ出しやがりまして……」
「まあ」
メリーナは少し眉を寄せた。
「それは困りましたね」
「へい!」
「でも、もう逃げられそうにありませんよ」
「……へ?」
メリーナは倒れた男を見た。
「そのままでは歩けないでしょう?」
男たちは顔を見合わせた。
「……へい」
「これ以上乱暴してはいけませんよ。きちんと手当てを受けさせて、民警の方にお任せしてください」
「承知しました!」
黒服の男たちは慌てて倒れた男を抱え上げた。
男は意識こそあったが、まともに立つこともできない状態だった。
「お、お嬢!」
黒服の一人が再び頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした!」
「いいえ。でも、次からは気をつけてくださいね」
「へい!」
「それから」
「はい!」
メリーナはにっこり笑った。
「父には、今日のことをお話ししておきますね」
男たちの顔から血の気が引いた。
「……お、お嬢!」
「何でしょう?」
「いや、その……!」
男は助けを求めるように仲間を見た。
誰も目を合わせようとしなかった。
「どうか、旦那には……」
「ふふ。大丈夫ですよ」
メリーナは優しく答えた。
「きちんと謝っていらっしゃいましたから」
男たちはほっとした。
だが、次の言葉で再び固まった。
「父も、きっとお話を聞いてくださいますよ」
「…………」
その笑顔に、誰一人として返事ができなかった。
「では、失礼しますね」
メリーナは軽く頭を下げた。
「井上さん、行きましょう」
「えっ、あ、はい……」
井上は呆然としたまま歩き始めた。
背後では、男たちが一斉に頭を下げていた。
「お嬢! お気をつけて!」
「井上様! 失礼いたしました!」
二人が通りを曲がるまで、男たちはその場で頭を下げ続けていた。
* * *
しばらく歩いてから、井上はようやく口を開いた。
「……メリーナさん」
「はい?」
「さっきの人たち……」
「父のところで働いている方たちですよ」
「……ですよね」
井上は立ち止まった。
「……あの人たち、何をしてたんですか?」
メリーナも足を止めた。
「何かお仕事で揉めたんでしょうね」
「仕事って……」
井上は言葉に詰まった。
「いや、あれ、普通じゃないですよ。あんなに殴って……」
「そうですね」
メリーナはうなずいた。
「人前であんなことをするのは、よくありませんね」
「いや、人前とかじゃなくて!」
井上は思わず声を大きくした。
メリーナは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……井上さん?」
「人をあそこまで殴ること自体が問題でしょう!」
「……そうですね」
メリーナは少し考え込んだ。
そして、困ったように微笑んだ。
「父のところにも、少し気の荒い方がいるんです」
「少しって……」
井上は言葉を失った。
あれは少しどころではない。
どう見ても、暴力団のやり方だった。
いや。
そもそも。
井上は先日訪れた屋敷を思い出した。
大きな屋敷。
門に立つ屈強な男たち。
「お嬢」と呼ばれるメリーナ。
「旦那」と呼ばれるアルド。
誰もがアルドに絶対服従している様子。
そして、今日の出来事。
(……まさか)
井上の背中に冷たい汗が流れた。
(……いや、完全にヤクザじゃないか)
軍事オタクである井上は、組織の上下関係や指揮系統というものに敏感だった。
あの男たちは、単なる従業員ではない。
命令に従うことが身体に染みついている。
しかも、メリーナに対する態度。
あれは社長の娘に対する礼儀というだけでは説明できなかった。
「……メリーナさん」
「はい」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろんですよ」
「お父さんって……本当に、普通の商人なんですか?」
メリーナは首をかしげた。
「普通、ですか?」
「ええ」
「そうですね……」
彼女は少し考えた。
「商売は確かにしていますよ。酒場や飲食店もありますし、倉庫や運送のお仕事もしています」
「……それだけですか?」
「ほかにも、いろいろありますよ」
「いろいろ?」
「はい。父は、とても顔が広いんです」
井上は黙った。
その説明は、何の安心材料にもならなかった。
「……メリーナさん」
「はい?」
「日本には、ヤクザっていう人たちがいるんです」
「ヤクザ?」
「ええ。表向きは会社を経営したり、商売をしたりしてるんですけど……」
井上は慎重に言葉を選んだ。
「裏では、暴力を使って商売をしたり、他の人たちを従わせたりするんです」
メリーナは静かに聞いていた。
「なるほど」
「それで……」
井上は思い切って尋ねた。
「お父さんの仕事って、それに近いんじゃないですか?」
メリーナはしばらく井上を見つめていた。
やがて、にっこりと笑った。
「……そうかもしれませんね」
「…………」
井上は固まった。
「えっ?」
「日本のヤクザという組織を、私はよく知りませんけれど」
メリーナは穏やかに続けた。
「父も、少し特殊なお仕事をしていますから」
「……特殊?」
「はい」
井上は天を仰いだ。
(……やっぱり!)
今までの疑問が、一気につながった。
フレデリカ曹長の妙な忠告。
屋敷で出会った男たち。
アルドの圧倒的な迫力。
そして、先ほどの暴行事件。
(何が立派な商人だよ!)
井上は心の中で叫んだ。
(完全にヤクザの親分じゃないか!)
しかし、その直後だった。
「井上さん」
メリーナが、そっと井上の腕を取った。
「はい?」
「怖い思いをさせてしまいましたね」
「えっ、いや……」
「ごめんなさい」
彼女は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「父には、きちんと注意してもらいますから」
「……あ、はい」
「それに……」
メリーナは少し頬を染めた。
「さっき、井上さんが私の前に立ってくださったとき、とても嬉しかったんです」
「……え?」
「怖かったでしょう?」
「いや、その……まあ、正直、怖かったです」
井上は苦笑した。
「相手、三人もいましたし。俺じゃ勝てないだろうし……」
「ふふ」
メリーナは優しく微笑んだ。
「それでも、私を守ろうとしてくださったんですね」
「そりゃ、そうですよ」
井上は真面目な顔になった。
「メリーナさんに何かあったら、俺、絶対に嫌ですから」
メリーナは黙って井上を見つめた。
そして、そっと彼の手を握った。
「……ありがとうございます」
その声には、普段とは少し違う響きがあった。
「私、本当に井上さんと一緒になれてよかったです」
「…………」
井上は言葉を失った。
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「赤ちゃんもできましたし、これからが楽しみですね」
「……そうですね」
井上は思わず笑った。
メリーナも嬉しそうに笑った。
「ふふ。よかった」
そして、通りの向こうを指さした。
「それより井上さん、さっきのお菓子屋さんに行きませんか?」
「……あ、はい!」
井上は即答した。
「行きましょう!」
二人は再び歩き始めた。
井上は、隣で楽しそうにしているメリーナを見た。
(……まあ、いいか)
(メリーナさんが悪いわけじゃないし)
(それに、こんなに嬉しそうなんだから……)
そう考えた。
先ほどの危機感は、いつの間にかどこかへ消えていた。
* * *
菓子店では、メリーナが焼き菓子をいくつか選んだ。
井上は彼女の買い物に付き合いながら、店内を眺めていた。
「井上さん、こちらはどうですか?」
メリーナが小さな菓子を手に取った。
「美味しそうですね」
「では、これも買いましょう」
「そんなに食べられます?」
「ふふ。赤ちゃんの分もありますから」
「いや、まだ赤ちゃんは食べられないでしょう」
「そうですね」
メリーナは楽しそうに笑った。
井上も笑った。
先ほどまでの出来事が嘘のようだった。
二人は菓子を買い、その後、近くの喫茶店に入った。
メリーナは赤ちゃんが生まれた後のことを話した。
子供の服。
寝台。
実家で用意する部屋。
そして、井上が休暇を取ったときには、できるだけ一緒に過ごしたいという希望。
井上は、その話を聞いているだけで幸せだった。
「井上さん」
「はい?」
「赤ちゃん、男の子と女の子、どちらがいいですか?」
「うーん……どっちでも嬉しいですけど」
井上は少し考えた。
「女の子だったら、メリーナさんに似てほしいですね」
「あら」
「きっと、すごく可愛いですよ」
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ。ありがとうございます」
「男の子だったら、俺に似るのかなあ」
「そうですね」
メリーナは井上を見つめた。
「井上さんに似た男の子なら、きっと優しい子になりますよ」
井上は顔を赤くした。
「……そうですかね」
「はい」
メリーナはにっこり笑った。
その笑顔を見て、井上は思った。
(……やっぱり、この人しかいないよな)
これほど綺麗で、優しくて、自分を大切にしてくれる女性。
そんな人が、自分との将来を楽しそうに話している。
井上にとって、それ以上の幸せはなかった。
* * *
夕方。
メリーナを送り届けた井上は、ベルノ連隊の駐屯地へ戻った。
兵舎に入り、着替えを済ませる。
夕食までは少し時間があった。
井上は自分の寝台に腰を下ろした。
「……ふう」
楽しい一日だった。
メリーナは今日も綺麗だった。
赤ちゃんの話もたくさんできた。
次の休暇の約束もした。
井上は自然と笑顔になった。
しかし。
しばらくして、ふと思い出した。
(……あれ?)
昼間の光景が頭に浮かんだ。
石畳に倒れた男。
男を殴り続ける黒服たち。
そして、その男たちがメリーナを見た途端、一斉に頭を下げた光景。
(……いや、待てよ)
井上は顔を上げた。
(今日のあれ、どう考えても普通じゃないだろ)
一人になったことで、ようやく冷静に考えられるようになった。
(……完全に暴力団のやり方じゃないか)
井上は腕を組んだ。
軍事オタクとして、組織というものには興味があった。
命令系統。
上下関係。
構成員の統制。
あの男たちの動きは、軍隊と似ている部分が多かった。
ただし、軍隊とは決定的に違う。
(……あいつら、民警でも軍警でもないんだぞ)
(それなのに、街中で勝手に人を捕まえて、殴って、連れていこうとした)
井上は頭を抱えた。
(……完全に私的制裁じゃないか)
そして、改めてカルヴァーニ邸のことを思い出した。
厳重な門。
屈強な男たち。
「お嬢」と呼ばれるメリーナ。
「旦那」と呼ばれるアルド。
そして、アルドに対する絶対的な服従。
(……何で気づかなかったんだ、俺)
いや。
正確には、気づいていた。
あの屋敷を見たときから、妙だとは思っていた。
アルドの風貌にも、違和感はあった。
(……でも)
井上はメリーナの笑顔を思い出した。
(……あんな美人が、俺のことを好きだって言ってくれてるんだぞ)
(しかも、俺の子供まで産んでくれるんだ)
(そんな幸運、人生で二度とないだろ……)
井上はしばらく黙った。
そして、自分で自分に突っ込んだ。
(いやいや、そういう問題じゃない!)
寝台に倒れ込む。
(……俺、何を考えてるんだ)
井上は天井を見上げた。
メリーナが好きなのは間違いない。
子供ができたことも嬉しい。
父親になる覚悟もある。
しかし、それと彼女の実家の問題は別である。
(……別、なんだよな)
井上はしばらく考えた。
(でも、メリーナさん本人は悪い人じゃないし……)
(アルドさんだって、俺にはすごく優しかったし……)
(戦傷退役兵の面倒まで見てるんだぞ)
そこまで考えて、また頭を抱えた。
(……いや、だから!)
(そういう問題じゃないって!)
井上は深いため息をついた。
(……駄目だ)
(俺一人じゃ、まともに考えられない)
しばらく天井を眺めてから、ようやく起き上がった。
(……山田に相談しよう)
同じ第20期召喚者。
しかも、メリーナと同じ分隊に所属している。
山田なら、多少は事情を知っているかもしれない。
井上は寝台から立ち上がった。
(……あいつなら、少なくとも俺よりは冷静に考えられるだろ)
そう思いながら、山田を探しに行くことにした。
もっとも、その判断が正しかったかどうかは、少々疑わしかった。
* * *
ベルノ伯爵家の執務室。
オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐は、机に積まれた書類を処理していた。
そこへ、家令のクライスが入ってきた。
「伯爵様。例の違法薬物事件について、ご報告がございます」
「何かわかったの?」
「はい。民警が、薬物を流通させていた元締めの男を逮捕いたしました」
オリヴィエは顔を上げた。
「あら、ずいぶん早かったわね」
「市外から入り込んだ商人で、雑貨の卸売業を装って薬物を売りさばいていたようです。関係する倉庫からも、相当量の薬物が押収されました」
「そう。それで、どうやって捕まえたの?」
クライスは少し言葉を選んだ。
「……カルヴァーニから、情報提供がありました」
「やっぱり」
オリヴィエは小さく笑った。
「何か知っていると思ったのよ」
「元締めの身柄も、カルヴァーニの組織から民警に引き渡されたそうです」
「そう。素直に協力してくれたのね」
「……ただ、少々問題がございまして」
「何?」
「男は引き渡された時点で、かなりの怪我を負っておりました」
オリヴィエの眉が動いた。
「……誰がやったの?」
「カルヴァーニの部下たちのようです。街中で男を追いかけ回し、捕まえたところで暴行を加えたとのことです」
「…………」
オリヴィエは深いため息をついた。
「まったく、あの男は……」
「民警は、暴行についても調べを進めております」
「当然よ。そこはきちんと調べなさい」
「承知しております」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
「まあ、役に立つ男ではあるわね」
「そのようです」
クライスは静かに答えた。
「ただし、少々手綱を締め直す必要がありそうですが」
「そうね」
オリヴィエは苦笑した。
「近いうちに、また呼び出しましょうか」
クライスは一礼した。
「承知いたしました」
オリヴィエは再び書類に目を落とした。
ベルノ市内を騒がせていた違法薬物事件は、ひとまず解決に向かった。
もっとも、その解決に一役買った男のことで、伯爵家の仕事がまた一つ増えたのだった。
* * *
ベルノ連隊の駐屯地。
山田直樹は、訓練場で自主練習に励んでいた。
間もなく第21期召喚者がやってくる。
駐屯地では、受け入れの準備が進められていた。
山田たち第20期も、もうすぐ召喚から一年になる。
もっとも、だからといって急に古参兵になったわけではない。
山田自身、まだ覚えなければならないことは山ほどあった。
その山田が、最近は暇を見つけては自主練習を続けていた。
理由は単純だった。
フレデリカ曹長のご褒美が欲しいのである。
格闘戦も射撃も、腕を上げればご褒美に近づく。
そのためなら、多少の努力など苦にならなかった。
以前の山田を知る者なら、その熱心さに驚いたことだろう。
もっとも、努力の方向性が正しいかどうかは、別の問題だった。
「おーい、山田!」
声をかけられて振り返ると、井上翔太が歩いてきた。
「井上。どうした?」
「まだ自主練やってたのか?」
「ああ。もう少し上達したくてさ」
井上は感心したようにうなずいた。
「すごいな。俺も見習わないとな」
「お前、最近忙しいんだろ?」
「ああ。第21期の受け入れ準備を少し手伝ってるからな」
井上は苦笑した。
「装備の点検とか、兵舎の準備とか。結構やることがあるんだよ」
「へえ。もうすぐ後輩が来るんだな」
「そうだな。俺たちも、もう一年になるんだよなあ」
「早いよな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「しかし、お前、最近ずいぶん真面目だよな」
「まあ、目標があるからな」
「目標?」
「……いろいろと」
山田は曖昧に答えた。
井上は首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。
「ところで山田、ちょっといいか?」
「ん? どうした?」
「相談したいことがあるんだけど」
山田は井上を見た。
「何だよ。またメリーナさんのこと?」
「……うん」
「お前、最近そればっかりだな」
山田は苦笑した。
だが、井上の表情が妙に真剣だったので、練習を切り上げることにした。
「わかった。娯楽室に行こうぜ」
「ああ、助かる」
二人は訓練場を後にした。
* * *
娯楽室に入ると、山田は茶を入れ、井上の向かいに腰を下ろした。
「で、何があった?」
井上は一度、大きく息を吐いた。
「メリーナさんの実家についてなんだけどさ……」
「実家?」
「ああ」
井上は少しためらってから、口を開いた。
「……俺、何かとんでもない家のお嬢さんと付き合ってるんじゃないかと思ってさ」
「……は?」
山田は目を瞬かせた。
「いや、聞いてくれよ。今日、ちょっと変なことがあって……」
* * *
「……というわけなんだ」
井上が一通り話し終えると、山田はしばらく黙っていた。
「……お前、それ完全にヤクザじゃん」
「やっぱりそう思うか?」
「思うも何も、ほかに何があるんだよ!」
山田は呆れた。
「でっかい屋敷に黒服の男たちがいて、お嬢だの旦那だの呼んでるんだろ? しかも街中で人を半殺しって……」
「そうなんだよなあ……」
井上は頭を抱えた。
「いや、俺も最初から何か変だとは思ってたんだよ。でもさ……」
「でも?」
「メリーナさんが笑うと、どうでもよくなるんだよなあ」
「……重症だな」
山田は深いため息をついた。
「いや、だって相手はメリーナさんだぞ?」
「だから何だよ」
「あんな美人が俺のことを好きだって言ってくれるんだぞ? しかも子供までできたんだぞ?」
井上は大真面目だった。
「俺、これを逃したら一生彼女なんてできなかったと思うんだよ」
「お前、そこまで自分を低く評価することないだろ」
「いや、俺の顔を見てから言ってくれよ」
「…………」
山田は井上を見た。
背は高くなく、小太りで、顔立ちも冴えない。
「……まあ、確かに」
「おい!」
山田は吹き出した。
「いや、お前が言い出したんだろ!」
「少しは否定しろよ!」
二人は笑った。
だが、井上はすぐに真面目な顔に戻った。
「……でも、今日のあれは、さすがにまずいだろ」
「そりゃそうだ」
「どう考えても私的制裁だぞ。民警でも軍警でもない連中が、勝手に人を捕まえて半殺しにしてるんだから」
井上は腕を組んだ。
「あの人たち、完全に軍隊みたいな上下関係だったんだよ。メリーナさんが現れた途端、全員直立不動になってさ」
「へえ……」
「しかも、メリーナさんがお父さんに報告するって言ったら、顔面蒼白だぞ」
山田は少し考えた。
そして、ぼそりと言った。
「……まあ、メリーナさんだしな」
「どういう意味だよ」
「いや、同じ分隊にいるとわかるんだよ」
山田は少し声を落とした。
「あの人、怒っても笑顔なんだぞ」
「……そうなの?」
「そう。しかも、にっこり笑いながら相手の逃げ道を塞ぐんだよ」
井上は黙った。
山田は肩をすくめた。
「俺、前から思ってたんだ。あの人、笑顔で人を刺すタイプだって」
「……おい、怖いこと言うなよ」
「いや、性格の話だって!」
そのときだった。
「何? メリーナの話?」
背後から声がした。
振り返ると、宍戸亜美兵長が立っていた。
「宍戸さん」
「あんたたち、何をそんなに深刻な顔してんのよ」
宍戸は空いている椅子に腰を下ろした。
「井上が、メリーナさんの実家のことで悩んでるんですよ」
山田が答えた。
「ああ、カルヴァーニの家ね」
宍戸は納得したようにうなずいた。
井上は身を乗り出した。
「宍戸さんも、やっぱりご存じなんですか?」
「そりゃ知ってるわよ。あの子と同じ中隊なんだから」
「……普通の商人じゃないんですよね」
「まあ、そうね」
宍戸はあっさり答えた。
「フレっちも知ってるわよ」
「……曹長もですか」
「当たり前じゃん。ベルノでカルヴァーニの名前を知らない方が珍しいって」
井上は頭を抱えた。
「……教えてくれてもよかったのに」
「教えたところで、あんたどうしたの?」
「え?」
「メリーナと別れた?」
「いや、それは……」
井上は考えた。
そして、首を振った。
「……ないですね」
「でしょ?」
宍戸はにやりと笑った。
「だったら同じじゃん!」
山田も笑った。
「……まあ、それはそうなんですけど」
井上は困ったように頭をかいた。
* * *
「でもさ、井上」
宍戸は椅子の背にもたれた。
「あんた、そんなことより自分の心配した方がいいわよ」
「……え?」
「あの子、相当あんたに惚れてるから」
井上は顔を赤くした。
「いや、そんな……」
「いやいや、マジで!」
宍戸は笑った。
「あんた、メリーナが胸ポケットにあんたの写真入れてるの知ってる?」
「……写真?」
「そう。今は中隊の事務仕事してるでしょ? 仕事の合間に取り出して眺めてるのよ」
井上は目を丸くした。
「……初めて聞きました」
「しかも、すっごく幸せそうな顔してさ!」
宍戸は思い出したように笑った。
「妊娠がわかってから、あの子、ずっとご機嫌なのよ。事務仕事も楽しそうにやってるし」
井上は少し安心したように笑った。
「……そうですか」
「そうよ。私、あんなメリーナ見たことないからね」
山田が井上を見た。
「……お前、すごいな」
「いや、俺も知らなかったよ」
井上は少し照れた。
自分の写真を、毎日大切に眺めてくれている。
そんなことを聞かされると、嬉しくないはずがなかった。
「……そうかあ」
井上は思わず笑顔になった。
宍戸は、その顔を見てにやりと笑った。
「まだあるわよ」
「……何ですか?」
「この間、メリーナが私に何て言ったと思う?」
「さあ……」
宍戸はわざと背筋を伸ばし、上品な声を作った。
「『亜美さん、私、初恋しちゃいました』って!」
「…………」
井上は固まった。
山田も目を丸くした。
「……初恋?」
「そう! 初恋!」
宍戸は吹き出した。
「あの子、今まで散々男と遊んできたのよ? それが今さら初恋って!」
山田も笑い始めた。
「……確かに、順番がおかしいですね」
「でしょ!」
宍戸は大げさに両手を広げた。
「やることやって、子供まで作って、今さら初恋よ! 私、何て返事すればいいのよ!」
井上はぽかんとしていた。
「……本当に、そう言ったんですか?」
「言った言った! しかも大真面目!」
宍戸は笑いながら続けた。
「だから私も聞いたのよ。『あんた、今まで付き合ってた男たちは何だったの?』って」
「それで?」
山田が尋ねた。
宍戸は再びメリーナの口調を真似た。
「『皆さん、いい方でしたよ。でも、井上さんは特別なんです』だって!」
「……へえ」
「それでね、井上と会えないと寂しいとか、写真を見ると嬉しくなるとか、ずっと一緒にいたいとか……」
宍戸は肩を震わせた。
「もう、完全に恋する乙女! あのメリーナがよ!」
井上は黙っていた。
これまでメリーナに交際経験があることは知っていた。
自分よりも、ずっと恋愛に慣れている女性だということも理解している。
だからこそ、時々不安になることがあった。
自分で本当に満足してもらえているのだろうか。
いつか、もっといい男を見つけてしまうのではないだろうか。
しかし。
(……メリーナさんが、初恋って……)
井上は、じわじわと嬉しくなってきた。
自分のような男を、そこまで好きになってくれたのか。
(……すげえな)
(俺、そんなに好かれてたんだ……)
井上の頬が緩んだ。
その様子を見て、宍戸は笑った。
「だからね、井上」
「はい?」
「あんた、かなり執着されてるわよ」
「……執着、ですか?」
「そう。あの子、絶対にあんたを手放す気ないと思う」
井上は少し考えた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……それは、ありがたいですね」
「…………」
宍戸は井上を見た。
それから山田を見た。
「……山田」
「はい」
「こいつ、相当重症だね」
「俺もそう思います」
宍戸は呆れたようにため息をついた。
「あんたに言われたらおしまいだわね」
「……え? どういう意味ですか?」
山田は不思議そうに首をかしげた。
宍戸は何も答えなかった。
井上も意味がわからず、二人の顔を交互に見ていた。
* * *
「でもね、井上」
宍戸は急に真面目な顔になった。
「ひとつ忠告しておくわ」
「……何ですか?」
「あんた、別れるなんて言ったら、その場で刺されるわよ」
「…………」
井上の笑顔が消えた。
「……え?」
「メリーナ、いつも笑ってるでしょ?」
「はい」
「あの笑顔のまま刺してきそうなのよね、あの子」
山田が真顔でうなずいた。
「……わかります」
「おい、山田!」
宍戸はさらに続けた。
「それにね、井上。歩兵としてはあんたなんかよりよっぽど強いからね、あの子」
「……え?」
「格闘戦ならフレっちといい勝負するのよ」
「……曹長と!?」
井上は目を丸くした。
フレデリカ曹長は、軍歴十三年の古参下士官である。
小柄なエルフの女性だが、その格闘能力の高さは井上も聞いていた。
山田が横から口を挟んだ。
「僕なんか手も足も出ませんでした。小隊でも屈指の強さですよ」
「……マジかよ」
井上は思わずつぶやいた。
「メリーナさんって、そんなに強いの?」
「強いなんてもんじゃないよ。妊娠する前の訓練では、何度も投げ飛ばされたんだから」
山田は苦笑した。
「普段はあんなにおしとやかなのに、格闘訓練になると別人みたいなんだよ」
「そうそう!」
宍戸が笑った。
「あの子、見た目で判断すると痛い目に遭うわよ」
井上は昼間の街角での出来事を思い出した。
屈強な男たちを前に、必死になってメリーナを庇った自分。
(……あれ?)
(……もしかして、俺よりメリーナさんの方が強かったのか?)
「……俺、今日、メリーナさんを守ろうとしたんですけど」
「へえ?」
宍戸が興味深そうに身を乗り出した。
「それで?」
「いや、俺じゃ勝てないと思ったけど、メリーナさんだけでも逃がそうと思って……」
宍戸は少し驚いた顔をした。
そして、にやりと笑った。
「ああ、それは嬉しかったでしょうねえ!」
「……そうなんですか?」
「そりゃそうよ! 自分より弱い男が、必死になって守ろうとしてくれたんでしょ?」
井上は複雑な顔になった。
「……弱い男って」
「事実じゃん!」
山田が吹き出した。
宍戸も笑った。
「まあ、あんたの気持ちはちゃんと伝わったんだから、それでいいのよ」
「……そうですか」
「そうそう。あの子、そういうのに弱いと思うよ」
宍戸はそこで、再びにやりと笑った。
「ただし、井上」
「……はい?」
「本気で怒らせたら、格闘戦じゃ絶対に勝てないからね」
「…………」
井上はしばらく黙っていた。
父親は裏社会の大物。
屋敷には屈強な男たち。
しかも、恋人自身が格闘戦の達人。
「……メリーナさんって、本当にすごい人なんですね」
井上はしみじみと言った。
宍戸は呆れた。
「……あんた、怖くないの?」
「いや、怖いですけど」
「けど?」
「でも、メリーナさんは俺に優しいですから」
「…………」
「それに、俺、メリーナさんと別れるつもりなんてありませんし」
井上は当然のように答えた。
山田は思わず笑った。
「お前、さっきまで散々悩んでたじゃん!」
「実家のことだよ! メリーナさんのことじゃないって!」
「……ああ、そういうこと」
宍戸は納得したようにうなずいた。
「じゃあ、何も問題ないじゃん」
「いや、問題はあると思うんですけど……」
「でも、別れる気はないんでしょ?」
「ありません!」
井上は即答した。
「……じゃあ、何を相談してたのよ」
宍戸は呆れたようにため息をついた。
「いや、だから! メリーナさんは大好きですけど、実家のことは別問題でしょう!」
「まあ、それはそうだけどね」
山田も苦笑した。
そして、ふと思いついたように腕を組んだ。
「……何か、こういうアニメがあった気がするんだけどな」
「アニメ?」
井上が顔を上げた。
「ああ。普通の男が、ヤクザの娘と付き合う話」
「……それ、参考になるのか?」
「いや、でも何か違うんだよな……」
山田は首をひねった。
「こういう話って、だいたい父親が猛反対したり、組の連中が邪魔してきたりするんだよ」
「……まあ、そうだろうな」
「でも、お前の場合、お父さんもお母さんも大歓迎なんだろ?」
「ああ。ものすごく歓迎された」
「組の連中も?」
「俺のこと、井上様って呼ぶんだよ……」
「……へえ」
山田は少し考えた。
「で、メリーナさんはお前にベタ惚れで、子供までできたんだよな?」
「……そうだけど」
「…………」
山田は井上を見た。
「……だったら、問題ないんじゃない?」
「いや、あるだろ! 実家がヤクザなんだぞ!」
「そりゃ、実家の商売は問題だけどさ」
山田は肩をすくめた。
「お前とメリーナさんが付き合うことには、誰も反対してないじゃん。むしろ全員応援してるんだろ?」
「……まあ、そうなんだけど」
宍戸が吹き出した。
「あはは! 確かにそうね!」
「それに、お前だって別れる気はないんだろ?」
「ありません!」
井上は即答した。
「……ほら」
山田は呆れたように笑った。
「何で悩んでんだよ」
「だから! 実家のことだって!」
「でも、メリーナさんが好きなんだろ?」
「大好きだよ!」
「……じゃあ、いいじゃん」
「よくないから相談してるんだろ!」
井上は頭を抱えた。
「……本当に、どうしたらいいんだろう」
そのときだった。
「井上さん?」
娯楽室の入口から、穏やかな声がした。
三人が振り返った。
メリーナが立っていた。
長い黒髪を背中に流し、いつもの上品な笑顔を浮かべている。
手には、小さな菓子の包みを持っていた。
「あっ! メリーナさん!」
井上の顔がぱっと明るくなった。
先ほどまでの深刻な表情は、一瞬で消えた。
「探していたんですよ。少しお時間ありますか?」
「もちろんです!」
井上は即座に立ち上がった。
山田は、その変わり身を呆然と見つめていた。
(……おいおい)
(さっきまでの悩みはどこに行ったんだよ)
メリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ。よかった」
そして、山田たちに視線を向けた。
「皆さん、何のお話をされていたんですか?」
「いや、別に……」
井上は照れくさそうに笑った。
「大した話じゃないですよ」
「…………」
山田と宍戸は顔を見合わせた。
ついさっきまで、人生の重大問題だと言っていた男である。
メリーナは井上の腕にそっと手を添えた。
「井上さん。よろしければ、一緒にお茶にしませんか?」
「はい! 行きましょう!」
即答だった。
メリーナは嬉しそうにうなずいた。
「ありがとうございます」
そして、井上の顔を見つめた。
「井上さん」
「はい?」
「大好きですよ」
「…………」
井上は顔を真っ赤にした。
「……俺も。大好きです」
メリーナは満足そうに笑った。
「ふふ。嬉しいです」
二人は仲良く並んで娯楽室を出ていった。
しばらく沈黙が流れた。
「……宍戸さん」
山田が口を開いた。
「何?」
「似たようなアニメが思い浮かばない理由、わかりました」
「へえ。何?」
「普通、こういう話って、誰かが二人の邪魔をするんですよ」
「そうなの?」
「でも、あいつの場合、誰も邪魔してないんです。まったくその逆で、歓迎されてるじゃないですか」
「確かにねえ」
宍戸は思わず笑った。
「しかも本人、メリーナさんの顔を見た途端、悩みなんか全部忘れてるし……」
山田は深いため息をついた。
「……これ、恋愛の話としては、もう終わってません?」
「始まったときには、もうハッピーエンド?」
「そういうことです。相談に乗ってる我々がピエロなんですよ」
宍戸は一瞬、ぽかんとした。
そして、腹を抱えて笑い始めた。
「あははは! 何それ! 確かにそうじゃん!」
山田は深いため息をついた。
「……まったく、人騒がせな奴ですよ」
* * *
ベルノ伯爵家の執務室。
オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐は、机に向かって書類を処理していた。
その向かいでは、アウレリア大尉が連隊の人事関係の書類を整理している。
「そういえば、オリヴィエ大佐」
「何?」
「メリーナ・カルヴァーニ上等兵のことですが」
「ああ、カルヴァーニの娘さんね。妊娠したんですってね」
「はい。お相手は第20期召喚者の井上翔太一等兵だそうですよ」
オリヴィエは顔を上げた。
「井上?」
少し考えてから、何かを思い出したように笑った。
「ああ! あのG13の面白い子ね。覚えてるわ」
「はい。その井上一等兵です」
「へえ。あの子がカルヴァーニの娘をねえ」
オリヴィエは少し感心したようにうなずいた。
「世の中、わからないものね」
アウレリアは微笑んだ。
「それにしても、第20期は召喚されて一年足らずで、おめでたが二人ですね」
「そうねえ」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
そして、しみじみと言った。
「……私も男欲しいわ」