蒼穹の異邦人 ~魔王を倒した勇者、1942年のミッドウェー海戦に降り立つ~   作:Monutaka

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第1話 帰還した勇者

 魔王が、消えた。

 

 断末魔も、爆発も、崩れ落ちる巨体もない。

 

 ただ、そこに存在していたはずのものが、跡形もなく消失した。

 

 黒い城の玉座。

 

 その周囲、およそ三キロメートル。

 

 大地も、城壁も、空気さえも。

 

 巨大な円形の空白が、世界にぽっかりと口を開けていた。

 

「…………」

 

 その中心に、一人の少年が浮かんでいた。

 

 天城悠真。

 

 十七歳。

 

 三年前、何の前触れもなく日本から異世界へ召喚された、ごく普通の中学生だった。

 

 ――少なくとも、三年前までは。

 

「……終わった」

 

 悠真は、目の前に広がる光景を眺めた。

 

 世界を恐怖に陥れた魔王。

 

 幾万もの魔物を従え、数え切れない国を滅ぼした存在。

 

 その魔王を、ついに倒したのだ。

 

「……長かったなぁ」

 

 少年は、しみじみと呟いた。

 

 三年間。

 

 剣を習った。

 

 魔法を覚えた。

 

 仲間と旅をした。

 

 死にかけたことも、一度や二度ではない。

 

 そして、最後にたどり着いたのが、空間魔法だった。

 

 距離を無視する。

 

 物体を移動させる。

 

 攻撃を別の場所へ逃がす。

 

 さらには、空間そのものを切り離す。

 

 気づけば悠真は、世界でも類を見ない魔法使いになっていた。

 

 もっとも、本人にその自覚はあまりない。

 

「……まあ、最後はちょっとやりすぎたか」

 

 悠真は、眼下の巨大な空白を見下ろした。

 

「城ごと消しちゃったし」

 

 少しだけ反省する。

 

 しかし、すぐに顔を上げた。

 

「……よし!」

 

 そして、両手を突き上げた。

 

「帰れるぞおおおおお!!」

 

 魔王討伐。

 

 それは、この世界を救うための戦いであると同時に、悠真が日本へ帰るための条件でもあった。

 

 三年間、ずっと夢見ていた。

 

 家族のいる家。

 

 学校。

 

 友達。

 

 ゲーム。

 

 コンビニ。

 

 そして何より――。

 

「……醤油ラーメン」

 

 悠真は、真剣な顔で呟いた。

 

「帰ったら絶対食う。大盛りで」

 

 世界を救った勇者の、最初の願いだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 魔王討伐から数時間後。

 

 悠真は、白い光に包まれた空間に立っていた。

 

 目の前には、一人の女性が浮かんでいる。

 

 金色の髪。

 

 純白の衣。

 

 背中に広がる、光の翼。

 

 神々しい姿をした女神だった。

 

『悠真くん! 本当にお疲れさまでした!』

 

「どうも」

 

『あなたのおかげで、この世界に平和が戻りました!』

 

「それはよかったです」

 

『そして、約束どおり!』

 

 女神は、満面の笑みを浮かべた。

 

『あなたを、元の世界へお送りします!』

 

「……っしゃあ!」

 

 悠真は、思わず拳を握った。

 

 ついに、この瞬間が来た。

 

 異世界へ召喚されたのは十四歳のとき。

 

 それから三年。

 

 家族は、どうしているだろう。

 

 心配しているだろうか。

 

 学校では、失踪したことになっているのだろうか。

 

 考えたいことは山ほどあった。

 

 だが、今はただ帰りたかった。

 

「女神様、一つ確認していいですか?」

 

『はい、何でしょう?』

 

「ちゃんと日本に帰れますよね?」

 

『もちろんです!』

 

「俺がいた時代の日本ですよ?」

 

『お任せください!』

 

「……本当に?」

 

『もう! 心配性ですね、悠真くん!』

 

 女神は、胸を張った。

 

『私を誰だと思っているんですか? 女神ですよ、女神!』

 

「……ですよね」

 

 悠真は、ほっと息を吐いた。

 

「じゃあ、お願いします」

 

『はい! それでは帰還魔法を発動します!』

 

 女神が両手を広げる。

 

 足元に、巨大な金色の魔法陣が浮かび上がった。

 

 幾重もの円環。

 

 無数の文字。

 

 空間を満たす、眩い光。

 

 悠真は、目を細めた。

 

『世界座標、固定!』

 

 魔法陣が回転する。

 

『転送先、地球!』

 

 光が強まる。

 

『国家座標、日本!』

 

「おお……!」

 

『時間座標……』

 

 女神の指先が、わずかに止まった。

 

『……あれ?』

 

「……ん?」

 

『いえ! 何でもありません!』

 

「……今、あれって言いました?」

 

『言ってません!』

 

「絶対言いましたよね?」

 

『大丈夫です! 私、女神ですから!』

 

「……その説明、二回目なんですけど」

 

『それでは、いってらっしゃーい!』

 

「ちょ、ちょっと待っ――」

 

 次の瞬間。

 

 悠真の視界が、真っ白に染まった。

 

◇ ◇ ◇

 

 風の音がした。

 

 潮の匂いがした。

 

 そして、遠くから低い機械音が聞こえてきた。

 

「……ん?」

 

 悠真は、ゆっくりと目を開けた。

 

 青空だった。

 

 雲一つない、どこまでも広がる青空。

 

「……おお」

 

 思わず声が漏れる。

 

「……地球だ」

 

 空気が違う。

 

 魔力の濃度が違う。

 

 異世界とは、明らかに違う感覚だった。

 

「……帰ってきた!」

 

 悠真は、満面の笑みを浮かべた。

 

「日本だああああ!!」

 

 その声は、広い空へ吸い込まれていった。

 

 そして、ふと気づく。

 

「…………」

 

 足元には、何もなかった。

 

 いや。

 

 遥か下方に、青い海が広がっていた。

 

「……あれ?」

 

 悠真は、周囲を見回した。

 

 陸地がない。

 

 山もない。

 

 街もない。

 

 ビルもない。

 

 ただ、海。

 

 どこまでも、海。

 

「…………」

 

 悠真は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……ここ、どこ?」

 

 幸い、落下はしていなかった。

 

 空間魔法によって、無意識に自分の位置を固定していたからだ。

 

 異世界で三年間戦ってきた悠真にとって、空を飛ぶことは歩くのと大して変わらない。

 

 問題は、そこではなかった。

 

「……日本って、海の真ん中だったっけ?」

 

 もちろん、違う。

 

 悠真は、ポケットに手を入れた。

 

 取り出したのは、一台のスマートフォン。

 

 異世界へ召喚されたとき、偶然持っていたものだった。

 

 三年間、魔法で保護し続けてきた。

 

 電池も、空間魔法を応用して維持している。

 

「……電波、ないな」

 

 画面を操作する。

 

 圏外。

 

 当然、インターネットにもつながらない。

 

「……まあ、海の上だし」

 

 悠真は、何気なく日付表示を確認した。

 

 そして。

 

「…………」

 

 動きが止まった。

 

 画面には、こう表示されていた。

 

**1942年6月4日。**

 

「…………」

 

 悠真は、瞬きをした。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

「……は?」

 

 画面を顔に近づける。

 

 もう一度、日付を見る。

 

 1942年。

 

 六月四日。

 

「…………」

 

 悠真は、空を見上げた。

 

「……女神様?」

 

 返事はない。

 

「……女神さーん?」

 

 青空は、どこまでも静かだった。

 

「…………」

 

 悠真は、ゆっくりと息を吸った。

 

 そして。

 

「**時代が違うじゃねえかあああああ!!**」

 

 太平洋の真ん中に、少年の絶叫が響き渡った。

 

◇ ◇ ◇

 

「……落ち着け、俺」

 

 数分後。

 

 悠真は、空中で腕を組んでいた。

 

「まず状況を整理しよう」

 

 日本には帰ってきた。

 

 いや、正確には日本の近くかもしれない。

 

 しかし、時代が違う。

 

 それも、少しどころではない。

 

「……一九四二年って」

 

 悠真は、眉をひそめた。

 

「……第二次世界大戦中じゃん」

 

 さすがに、それくらいは知っている。

 

 日本がアメリカと戦争をしていた時代。

 

 教科書で習った。

 

 映画でも見たことがある。

 

 ただし、詳しい知識があるわけではない。

 

「……えーっと」

 

 悠真は、指を折って考えた。

 

「真珠湾攻撃が一九四一年で……」

 

 そこまで言って、動きを止めた。

 

「……あれ?」

 

 六月。

 

 一九四二年。

 

 太平洋。

 

 その三つの言葉が、頭の中でつながった。

 

「……いや、まさか」

 

 悠真は、慌てて周囲を見回した。

 

 何もない海。

 

 青い空。

 

 だが、遠くから聞こえていた機械音が、少しずつ大きくなっている。

 

 悠真は、目を閉じた。

 

 空間認識魔法。

 

 周囲の空間に存在する物体の位置、形状、移動方向を把握する魔法だ。

 

 その範囲を広げる。

 

 十キロ。

 

 五十キロ。

 

 百キロ。

 

 そして――。

 

「……うわ」

 

 悠真は、目を開いた。

 

 海上に、巨大な物体がいくつも存在していた。

 

 しかも、移動している。

 

 長大な船体。

 

 複数の砲塔。

 

 艦上に並ぶ航空機。

 

 その周囲を、大小さまざまな軍艦が航行していた。

 

「……軍艦?」

 

 悠真は、首を傾げた。

 

 そして、少し考えた。

 

「……見に行ってみるか」

 

 次の瞬間。

 

 少年の姿が、空中から消えた。

 

◇ ◇ ◇

 

 昭和十七年六月四日。

 

 午前五時五十分。

 

 太平洋。

 

 ミッドウェー島北西海域。

 

 日本海軍第一航空艦隊。

 

 旗艦『赤城』。

 

 艦橋では、緊張した空気が漂っていた。

 

 空母の飛行甲板には、艦載機が並んでいる。

 

 整備員たちが慌ただしく動き、搭乗員が出撃準備を進めていた。

 

 日本海軍が誇る機動部隊。

 

 その中枢にいるのが、第一航空艦隊司令長官、南雲忠一中将である。

 

「……索敵機からの報告は?」

 

 南雲が、低い声で尋ねた。

 

 参謀が答える。

 

「現在のところ、敵艦隊発見の報告はありません」

 

「……そうか」

 

 南雲は、海図へ目を落とした。

 

 ミッドウェー島。

 

 太平洋の小さな島。

 

 だが、その島を巡る戦いが、日本とアメリカの戦争の行方を大きく左右することになる。

 

 もちろん、この時点で彼らがその結末を知るはずもなかった。

 

 日本海軍は、数々の勝利を重ねてきた。

 

 真珠湾。

 

 インド洋。

 

 南方作戦。

 

 世界屈指の航空戦力を擁する機動部隊は、無敵に近い存在だと考えられていた。

 

 だが、その無敵の艦隊に。

 

 今、誰も予想していなかった存在が近づいていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「……おおお!」

 

 赤城の上空。

 

 悠真は、目を輝かせていた。

 

「……すっげえ!」

 

 眼下には、巨大な航空母艦。

 

 長い飛行甲板。

 

 ずらりと並ぶ航空機。

 

 その周囲を、護衛の軍艦が航行している。

 

「……本物の空母じゃん!」

 

 悠真は、思わず笑った。

 

 異世界では、巨大な竜も見た。

 

 空飛ぶ城も見た。

 

 魔王の軍勢も見た。

 

 だが。

 

 本物の第二次世界大戦の空母を見るのは、当然ながら初めてだった。

 

「……やっべえ、映画みたい」

 

 少年は、空母の周囲をゆっくりと飛んだ。

 

 艦首。

 

 飛行甲板。

 

 艦橋。

 

 そして、艦尾。

 

「……これ、何て船なんだろ」

 

 悠真は、艦橋の側面に視線を向けた。

 

 しかし、そこに都合よく船名が書かれているわけではない。

 

「……うーん」

 

 少し考えた。

 

「……直接聞けばいいか」

 

 そして。

 

 艦橋の窓へ、ゆっくりと近づいていった。

 

◇ ◇ ◇

 

「……長官!」

 

 赤城艦橋。

 

 一人の見張員が、突然叫んだ。

 

「……何事だ!」

 

「……右舷上空に、不明物体!」

 

 南雲が顔を上げた。

 

「……航空機か?」

 

「……いえ!」

 

 見張員の声が震えていた。

 

「……人間です!」

 

「…………」

 

 艦橋に、奇妙な沈黙が落ちた。

 

「……何?」

 

「……人間が、飛んでおります!」

 

 南雲は、眉をひそめた。

 

「……何を言っている」

 

「……しかし!」

 

 見張員は、窓の外を指差した。

 

 南雲が、そちらへ視線を向ける。

 

 そして。

 

「…………」

 

 動きを止めた。

 

 そこにいた。

 

 確かに、人間がいた。

 

 十代と思われる少年。

 

 見慣れない服装。

 

 武器らしいものは持っていない。

 

 そして。

 

 何の支えもなく、空中に浮かんでいた。

 

「…………」

 

 南雲は、ゆっくりと双眼鏡を下ろした。

 

 隣にいた源田実中佐も、言葉を失っていた。

 

「……源田」

 

「……はっ」

 

「……私にも、あれが人間に見える」

 

「……私にも、そう見えます」

 

「……そうか」

 

「……はい」

 

 しばらく、誰も動かなかった。

 

 そして。

 

 少年が、こちらに気づいた。

 

「あ!」

 

 笑顔になった。

 

 手を振る。

 

「……おーい!」

 

「…………」

 

 艦橋の将校たちは、呆然とした。

 

 少年は、さらに近づいてくる。

 

 窓の向こう。

 

 手を伸ばせば届きそうな距離。

 

 そして、満面の笑みで言った。

 

「……すみませーん!」

 

 南雲は、黙って少年を見つめた。

 

 少年は、少し申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「……ちょっと、道を聞きたいんですけど!」

 

「…………」

 

 誰も答えなかった。

 

 少年は、首を傾げた。

 

「……あれ?」

 

 そして。

 

「……ここ、日本ですよね?」

 

 南雲忠一は、このとき初めて理解した。

 

 目の前にいる少年は、敵の新兵器でも、偵察機でもない。

 

 それどころか。

 

 自分たちが何者なのかさえ、知らないらしい。

 

 南雲は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……貴様」

 

 低い声だった。

 

「……何者だ」

 

 少年は、少し考えた。

 

 そして、笑顔で答えた。

 

「……あ、俺ですか?」

 

 胸に手を当てる。

 

「天城悠真っていいます!」

 

 それから、少し照れくさそうに笑った。

 

「……異世界から帰ってきたんですけど」

 

「…………」

 

「……なんか、時代を間違えちゃったみたいで」

 

 南雲は、何も言わなかった。

 

 源田も、何も言わなかった。

 

 艦橋にいる誰もが、少年の言葉を理解できずにいた。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 この日。

 

 この海で。

 

 日本海軍は、歴史に存在しないはずの少年と遭遇した。

 

 そして、その出会いが。

 

 日本海軍の運命を。

 

 アメリカ太平洋艦隊の運命を。

 

 さらには、世界の歴史そのものを変えることになるとは。

 

 このとき、まだ誰も知らなかった。

 

 もちろん。

 

 当の本人も。

 

「……あの」

 

 悠真は、困ったように笑った。

 

「……できれば、東京に帰りたいんですけど」

 

 南雲忠一は、生涯忘れることのできない一日を迎えていた。

 

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