蒼穹の異邦人 ~魔王を倒した勇者、1942年のミッドウェー海戦に降り立つ~ 作:Monutaka
昭和十七年六月十五日。
午前九時。
東京、海軍省。
「……大臣。アメリカ側から返答がありました」
山本五十六は、一通の書類を机に置いた。
嶋田繁太郎は、静かに顔を上げた。
「……例の非公式接触についてかね?」
「はい。第三国を通じて、対話に応じる用意があるとのことです」
「……そうか」
嶋田は、書類に目を落とした。
数日前、ワシントンのホワイトハウスに二隻の戦艦が垂直に浮かぶという、前代未聞の事件が起きた。
その直後、山本が送った非公式の書簡。
アメリカ側は、それを無視しなかった。
「……もっとも、喜ぶには早いでしょうな」
山本が言った。
「……うむ。対話に応じることと、講和に応じることは別だ」
「ええ」
嶋田は、書類を置いた。
「……真珠湾の件がある。向こうの国民感情も、相当厳しかろう」
「……当然です」
山本は、静かに頷いた。
開戦から、わずか半年余り。
アメリカにとって、日本は突然戦争を仕掛けてきた敵国だった。
たとえ戦艦を垂直に浮かべる少年が現れたとしても、その事実は消えない。
「……まずは、向こうの条件を聞くしかありませんな」
「……そうだな」
そのとき。
「おはようございまーす!」
ぱちん。
部屋の中央に、悠真が現れた。
「…………」
山本は、時計を見た。
「……天城君。今朝は早いな」
「はい! 朝ご飯を食べてきました!」
「……そうか」
「醤油ラーメンです!」
「……朝からかね?」
「はい!」
嶋田が、小さく笑った。
「……元気なものだな」
悠真は、二人の顔を見比べた。
「あれ? 何かいいことありました?」
山本は、書類を持ち上げた。
「……アメリカが、話し合いに応じるそうだ」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、まだ非公式なものだ」
「……おお!」
悠真は、目を輝かせた。
「じゃあ、もうすぐ戦争が終わるんですね!」
「……そう簡単にはいかんよ」
「……え?」
「……戦争を終わらせるには、双方が納得できる条件が必要だ」
悠真は、少し考えた。
「……じゃあ、僕がアメリカに行って、直接聞いてきましょうか?」
「…………」
山本は、ゆっくりと書類を置いた。
「……天城君」
「はい!」
「……今度は、戦艦を持っていかないでくれよ」
「……あっ!」
悠真は、慌てて首を振った。
「大丈夫です! 今日は手ぶらで行きます!」
「……今日は、というのが気になるな」
◇ ◇ ◇
同日。
アメリカ合衆国。
ワシントンD.C.。
ホワイトハウス。
「……日本側は、本気で戦争を終わらせたいと考えているようです」
フランク・ノックス海軍長官の報告を聞き、ルーズベルト大統領は静かに頷いた。
「……そうか」
机の上には、日本側から届いた非公式の書簡が置かれていた。
そこには、戦闘行為の停止と、和平に向けた対話を望む旨が記されていた。
しかし。
「……大統領」
ノックスは、慎重に言葉を選んだ。
「……日本が戦争を終わらせたいというのなら、まず中国から撤退すべきです」
「……同感だ」
「……満州についても、現状のまま認めるわけにはいきません」
「……もちろんだ」
ルーズベルトは、書簡を見つめた。
「……問題は、日本政府が本当にそれを実行できるかどうかだ」
ノックスは、頷いた。
「……日本の陸軍が、簡単に応じるとは思えません」
「……だろうな」
大統領は、椅子にもたれかかった。
「……それに、我々にも事情がある」
真珠湾攻撃。
太平洋で失われた命。
国民の怒り。
議会の反応。
どれも、無視できるものではなかった。
「……日本との講和を口にしただけで、激しく反発する者もいるだろう」
「……はい」
「……だが」
ルーズベルトは、窓の外へ目を向けた。
数日前。
そこには、巨大な戦艦が垂直に浮かんでいた。
「……あの少年がいる限り、これまでと同じ戦争を続けることはできん」
「……はい」
「……彼は、我々の艦隊を破壊せずに無力化した」
「……ええ」
「……ホワイトハウスにも、自由に干渉できることを示した」
ノックスの表情が、わずかに険しくなった。
「……その点は、極めて深刻な問題です」
「……そうだな」
大統領は、静かに頷いた。
「……だからこそ、交渉の席で確かめねばならん」
「……何を、でしょうか?」
「……日本が、あの少年の力をどう使うつもりなのか。そして、あの少年自身が何を望んでいるのかだ」
◇ ◇ ◇
六月十七日。
東京。
海軍省。
「……中国からの全面的な撤兵、か」
嶋田は、書類を読みながら呟いた。
第三国を通じて届いた、アメリカ側の予備的な見解。
そこには、講和の前提となる条件が示されていた。
中国からの撤兵。
軍事的拡張の停止。
占領地の扱いの見直し。
捕虜の保護と帰還。
そして、戦後の安全保障。
「……予想していたとはいえ、容易ではありませんな」
山本が言った。
「……うむ」
嶋田は、書類を置いた。
「……特に中国だ」
「……ええ」
「……陸軍が、簡単に納得するとは思えん」
山本は、しばらく考えた。
「……ですが、これを避けては、講和そのものが難しくなります」
「……わかっておる」
嶋田は、窓の外へ目を向けた。
「……問題は、陸軍をどう説得するかだな」
そのとき。
「……あの!」
悠真が、手を挙げた。
「……何だね?」
「……中国から帰ってくるだけですよね?」
「……簡単に言えば、そうだ」
「じゃあ、僕が全部運びますよ!」
「…………」
山本は、少年を見つめた。
「……天城君」
「はい!」
「……兵士を運ぶことと、軍が撤退に同意することは別の問題だ」
「……あっ、そうか」
悠真は、少し考えた。
「……でも、運ぶのは一瞬ですよ?」
「……それはわかっている」
「……戦車も、大砲も、全部まとめて!」
「……うむ」
「……お弁当も!」
「……なぜ弁当まで?」
「だって、お腹空いちゃうじゃないですか!」
「…………」
嶋田が、小さく笑った。
「……山本君。輸送計画だけなら、実に心強いな」
「……ええ。輸送計画だけなら、ですが」
◇ ◇ ◇
六月十八日。
東京。
首相官邸。
東條英機首相のもとに、陸海軍の関係者が集められていた。
議題は、対米講和に向けた予備的な方針について。
会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
「……中国からの撤兵だと?」
一人の陸軍将官が、低い声で言った。
「……それでは、これまでの戦いは何だったのだ」
「……アメリカとの講和には、避けて通れぬ問題です」
海軍側の説明に、将官は眉をひそめた。
「……講和、講和と言うが、なぜ今になって、そのような話になる?」
別の将官が口を開いた。
「……ミッドウェーで、我が軍が勝利したからではないのか?」
「……あの少年の力によるものだ」
「……ならば、なおさらではないか」
将官は、机を叩いた。
「……それほどの力があるなら、アメリカと戦い続けても勝てるのではないか!」
会議室が、静まり返った。
山本は、ゆっくりと顔を上げた。
「……確かに、あの少年の力は圧倒的です」
「……ならば!」
「……しかし」
山本は、静かに続けた。
「……彼は、戦争を続けるために我々へ協力しているのではありません」
「……何?」
「……彼が望んでいるのは、戦争を終わらせることです」
「…………」
「……その意思を無視して、我々の都合で利用することはできません」
将官は、不満そうに腕を組んだ。
「……少年一人の意思で、国家の方針を決めるというのか?」
山本は、首を横に振った。
「……いいえ。国家の方針は、我々が決めるべきものです」
そして、静かに言った。
「……だからこそ、今ここで、我々自身が判断しなければならないのです」
◇ ◇ ◇
会議は、長時間に及んだ。
陸軍側からは、強い反発が続いた。
中国からの撤兵は、軍の威信に関わる。
現地の日本人居留民の安全はどうするのか。
満州の扱いはどうなるのか。
撤兵後の中国情勢が不安定になれば、再び軍事介入が必要になるのではないか。
それらの問題は、簡単に片づけられるものではなかった。
だが、海軍側にも譲れない事情があった。
アメリカとの戦争を続けることは、国家にとって大きな危険を伴う。
悠真の力があるとはいえ、それを前提に戦争を続けることは、あまりにも不確実だった。
さらに、北海道に出現した巨大油田。
全国各地に移設された鉱物資源。
それらの存在は、日本の将来を考えるうえで、新たな選択肢となっていた。
「……つまり」
東條が、静かに口を開いた。
「……資源を確保するために戦争を続ける必要は、以前よりも小さくなったということか」
「……そのとおりです」
山本が答えた。
「……ただし、資源を手に入れたからといって、すぐに国が豊かになるわけではありません」
「……うむ」
「……採掘設備も、工場も、輸送網も必要です。それらを整えるには、平和な環境が望ましい」
東條は、しばらく考えた。
「……なるほど」
だが、陸軍将官の一人が口を開いた。
「……しかし、関東軍が納得するとは思えません」
会議室に、再び沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
同日夜。
満州。
関東軍の司令部。
「……東京は、何を考えている!」
一人の将校が、机を叩いた。
「中国から撤兵だと!? 冗談ではない!」
「……まだ正式な命令ではありません」
部下が、慎重に答えた。
「……しかし、講和に向けた協議が進んでいるのは事実のようです」
「……ふざけるな!」
将校は、地図を睨みつけた。
長年にわたり、日本が軍事的な影響力を広げてきた地域。
そこから撤退するなど、到底受け入れられなかった。
「……東京の連中は、現地の事情を何もわかっておらん」
「……では、どうされますか?」
将校は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……まずは、状況を確かめる」
「……はっ」
「……それからだ」
将校は、窓の外へ目を向けた。
「……必要ならば、我々自身で行動する」
◇ ◇ ◇
六月十九日。
東京。
海軍省。
「……関東軍の一部で、不穏な動きがあるそうです」
山本の報告に、嶋田は静かに頷いた。
「……やはりか」
「……ええ。まだ具体的な行動には出ていませんが、強硬な意見が広がっているようです」
「……正式な命令が下れば、反発はさらに強まるだろうな」
山本は、窓の外へ目を向けた。
「……できれば、武力衝突は避けたいものです」
「……うむ」
そのとき。
「……あの!」
悠真が、手を挙げた。
「……何だね、天城君」
「……もし、戦争をやめたくない人が暴れたら」
「……うむ」
「……僕が止めます!」
山本は、少年を見つめた。
「……ああ。そのときは、頼むかもしれん」
「はい!」
悠真は、元気よく頷いた。
「……でも、山本さん」
「……何だ?」
「……できれば、誰もケガしないほうがいいですよね」
「……もちろんだ」
「……じゃあ、武器だけ取り上げます!」
「…………」
嶋田が、静かに呟いた。
「……実に簡単に言うな」
山本は、苦笑した。
「……彼にとっては、簡単なのでしょう」
悠真は、にっこり笑った。
「はい!」
そして。
「……あっ!」
「……どうした?」
「……そういえば、関東軍って、満州にいるんですよね?」
「……ああ」
「……じゃあ、帰ってくるの大変じゃないですか!」
「……そうだな」
「……僕が運べば、一瞬ですよ!」
「……それはありがたいが、まずは正式な命令が出てからだ」
「……了解です!」
◇ ◇ ◇
同じころ。
ワシントンD.C.。
ホワイトハウス。
ルーズベルト大統領は、最新の報告書を読んでいた。
「……日本政府内部で、意見が割れているようだな」
ノックスが頷いた。
「……はい。特に中国からの撤兵について、陸軍側の反発が強いようです」
「……予想どおりだ」
大統領は、静かに書類を置いた。
「……しかし、日本が本当に撤兵を実行するなら、交渉を進める余地はある」
「……はい」
「……問題は、実行できるかどうかだ」
ノックスは、少し考えた。
「……例の少年が、軍内部の反発を抑える可能性もあります」
「……そうだろうな」
ルーズベルトは、窓の外へ目を向けた。
「……だが、我々が見極めるべきなのは、少年の力ではない」
「……と、申しますと?」
「……日本という国家が、自らの意思で戦争を終わらせる覚悟を持っているかどうかだ」
ノックスは、静かに頷いた。
「……そのとおりです」
◇ ◇ ◇
六月二十日。
満州。
関東軍の司令部。
一通の電報が届いた。
東京からの指示だった。
対米講和に向けた協議を進めるため、中国大陸に展開する日本軍の配置と撤収計画について、準備を開始せよ。
まだ正式な撤兵命令ではない。
だが、明らかに方向は変わり始めていた。
「…………」
将校は、電報を握りしめた。
「……本気なのか、東京は」
部下が、慎重に口を開いた。
「……どうされますか?」
将校は、しばらく黙っていた。
そして。
「……部隊の状況を確認しろ」
「……はっ」
「……武器と弾薬の管理を徹底させろ」
「……はっ」
「……それから」
将校は、窓の外を見た。
「……東京の命令に、どこまで従うべきか……考えねばならんな」
◇ ◇ ◇
東京。
海軍省。
夜。
山本五十六は、一人、机の前に座っていた。
目の前には、アメリカとの非公式な対話に関する書類。
そして、陸軍内部の動向をまとめた報告書。
戦争を終わらせる道は、ようやく見え始めた。
だが、その道は決して平坦ではなかった。
山本は、静かに息を吐いた。
「……天城君」
「はい?」
悠真が、顔を上げた。
「……君は、戦争を終わらせることが、これほど難しいとは思わなかっただろう」
「……はい」
悠真は、少し考えた。
「……でも」
「……うむ?」
「……難しくても、やめたほうがいいですよね」
山本は、少年を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……ああ」
窓の外には、静かな東京の夜景が広がっていた。
だが、その遠く離れた満州では。
新たな火種が、静かに生まれようとしていた。