蒼穹の異邦人 ~魔王を倒した勇者、1942年のミッドウェー海戦に降り立つ~ 作:Monutaka
昭和十七年六月四日、午前五時五十五分。
太平洋、ミッドウェー島北西海域。
日本海軍第一航空艦隊、旗艦『赤城』。
「……異世界から帰ってきた、だと?」
「はい! 魔王を倒したんで、ようやく日本に帰れたんですけど……」
艦橋の窓の外で、少年が困ったように笑った。
「なんか、時代を間違えちゃったみたいで」
第一航空艦隊司令長官、南雲忠一中将は、目の前の少年を凝視していた。
十七歳ほどの少年。
見慣れない服装。
武器らしいものは持っていない。
そして何より。
**何の支えもなく、空中に浮いている。**
「……源田」
「はっ」
「あれは、本当に人間なのか」
「少なくとも、外見は人間です」
源田実中佐の返答は、慎重だった。
少年には翼もなければ、飛行装置もない。
強い海風に髪を揺らしながら、平然と会話している。
「……君は、どうやって空を飛んでいる?」
「ああ、これですか? 空間魔法ですよ」
「……魔法?」
「自分のいる場所を固定してるだけです。簡単ですよ?」
南雲は源田を見た。
源田は小さく首を振った。
どうやら、自分たちの知っている物理法則は、この少年には通用しないらしい。
「あのー!」
少年が手を振った。
「中に入ってもいいですか? 風が強くて話しにくいんですよ」
南雲は一瞬迷った。
正体不明の存在を艦橋に招き入れるなど、通常なら考えられない。
だが、窓の外を自在に飛び回る相手を、どうやって拘束するというのか。
「……よかろう。ただし、妙な真似はするな」
「ありがとうございます!」
少年が笑った。
次の瞬間、その姿が消えた。
「なっ!?」
「お邪魔しまーす!」
声は背後から聞こえた。
振り返ると、少年が艦橋の中央に立っていた。
扉も窓も開いていない。
「貴様、どうやって入った!」
警備の水兵が銃に手をかける。
少年は慌てて頭を下げた。
「あ、すみません! 靴、脱いだ方がよかったですか?」
「そういう問題ではない!」
源田の声が、思わず裏返った。
◇ ◇ ◇
「名前は?」
「天城悠真です!」
「年齢は?」
「十七歳です」
「出身は?」
「東京です」
南雲は少年を見据えた。
「では、なぜミッドウェー沖にいる?」
「女神様の転送ミスです」
「…………何?」
「本当は二十一世紀の日本に帰る予定だったんですけど、一九四二年に送られちゃって」
源田が眉をひそめた。
「二十一世紀……未来から来たというのか?」
「そうなりますね」
悠真はあっさり頷いた。
南雲は腕を組んだ。
話だけなら、到底信じられない。
だが、空中に浮かび、閉ざされた艦橋へ一瞬で侵入した少年が目の前にいる。
単なる虚言として片づけることもできなかった。
「……未来から来た証拠はあるか?」
「あ、これとかどうです?」
悠真がポケットから取り出したのは、薄い板だった。
「何だ、それは」
「スマートフォンです。電話ですよ」
「……電話?」
悠真が画面に触れると、鮮やかな写真が浮かび上がった。
源田が思わず身を乗り出す。
「写真が……動いた?」
「動画です。映画みたいなものですね。ゲームもできますよ」
指先一つで映像が切り替わる。
見たこともない精細な画面に、将校たちが息を呑んだ。
「ちなみにインターネットは……あー、圏外か」
「……長官」
源田が声を落とした。
「少なくとも、我々の知る技術ではありません」
「うむ」
南雲は頷いた。
しかし、未知の技術を持っていることと、未来から来たことは別の話だ。
何より、今は戦闘中である。
少年の素性を調べる時間はない。
「天城君。一つ聞きたい」
「はい?」
「君が未来から来たというなら、この戦争の結末も知っているのか?」
悠真の笑顔が消えた。
「……日本とアメリカの戦争、ですよね」
「そうだ」
「……日本が負けます」
艦橋の空気が張り詰めた。
「一九四五年に」
「何だと……?」
南雲の声が低くなる。
「ただ、俺が知ってる歴史では、です。俺がここに来たせいで変わるかもしれません」
源田がすかさず尋ねた。
「では、現在進行中のミッドウェー作戦については?」
「ミッドウェー……」
悠真は首を傾げた。
その言葉には聞き覚えがある。
学校の授業。
歴史の資料集。
戦争映画。
そして――。
「あっ!」
悠真が声を上げた。
「ミッドウェー海戦!」
「知っているのか!」
「詳しくはないんですけど……」
悠真は、窓の外へ目を向けた。
巨大な飛行甲板。
整然と並ぶ艦載機。
周囲を航行する軍艦。
そして、自分が今いるこの空母。
「確か、日本の空母が四隻沈むんですよね?」
南雲の表情が変わった。
「……四隻?」
「はい。赤城、加賀、蒼龍、飛龍……だったと思います」
源田が息を呑んだ。
まさに、この海域に展開している主力空母の名だった。
「いつだ?」
南雲が問い詰める。
「それが起こるのは、いつだ!」
悠真は申し訳なさそうに答えた。
「……今日です」
◇ ◇ ◇
「今日だと……?」
南雲は海図へ視線を落とした。
四隻の空母が沈む。
それが事実なら、機動部隊は壊滅する。
敵はどこにいる。
いつ攻撃してくる。
何を見落としている。
「敵の攻撃方向はわかるか?」
源田が尋ねた。
「すみません。そこまでは……」
「そうか……」
源田が歯を食いしばった。
悠真は二人の様子を見比べた。
「……あの」
「何だ?」
「空母が沈まなければ、いいんですよね?」
「……何?」
「いや、爆弾とか魚雷とか、当たらないようにすればいいんじゃないですか?」
南雲は眉をひそめた。
「それができれば苦労はせん」
「え?」
悠真は不思議そうな顔をした。
「できますよ?」
「…………」
「爆弾を別の場所に移すとか、船ごと攻撃から逃がすとか」
源田が目を見開いた。
「……君は、何を言っている?」
「えっと……魔法で」
悠真は少し考えた。
「実際に見てもらった方が早いですね」
◇ ◇ ◇
午前六時二十分。
赤城の艦橋から、飛行甲板が見下ろせる。
整備員たちが慌ただしく行き交い、零戦が出撃準備を整えていた。
「じゃあ、あの飛行機をちょっと動かしますね」
悠真が指差した。
「待て、あれは――」
南雲が言い終えるより早く。
ぱちん。
乾いた音が響いた。
飛行甲板の端にあった零戦が、消えた。
「なっ!?」
次の瞬間。
その零戦は、赤城の右舷上空に浮かんでいた。
エンジンは停止したまま。
プロペラも回っていない。
それなのに、機体は微動だにしない。
「零戦が空を飛んでいるぞ!」
「いや、飛んでいない! 浮いているんだ!」
甲板から悲鳴に近い声が上がった。
「はい、戻しますね」
ぱちん。
零戦は元の位置へ戻った。
まるで何事もなかったかのように。
南雲は双眼鏡を握りしめた。
「……源田。今のは手品ではあるまいな」
「手品で零戦が浮くなら、海軍は苦労しません」
源田の声は、かすかに震えていた。
「天城君……あのようなことが、他のものにもできるのか?」
「はい」
「例えば……この赤城にも?」
「できますよ」
「……乗員ごとか?」
「もちろん」
「……どこまで移動させられる?」
「場所さえわかれば、東京湾でも」
南雲は言葉を失った。
巨大な航空母艦を、乗員ごと一瞬で東京湾へ移動させる。
そんなことが可能なら、海軍が積み重ねてきた戦術も、常識も、根底から覆る。
航続距離。
燃料。
補給。
敵の包囲網。
そのすべてを無視できるというのか。
源田は少年を見つめた。
これは、単なる新兵器ではない。
**戦争の仕組みそのものを変えてしまう存在だ。**
そして、その存在が口を開いた。
「あのー、一つ聞いてもいいですか?」
南雲は身構えた。
「……何だ?」
「この船、ラーメンってあります?」
「…………は?」
「醤油ラーメンです! 俺、三年間食べてなくて!」
南雲は天を仰いだ。
源田は、何とも言えない顔になった。
今、自分たちは世界の軍事常識を覆す少年と話している。
その少年が、真剣に求めているもの。
それは、醤油ラーメンだった。
◇ ◇ ◇
午前六時三十五分。
「敵機接近!」
見張員の鋭い声が艦橋に響いた。
「南東方向より複数機!」
空気が一変した。
南雲は即座に命じる。
「対空戦闘用意! 各艦へ警戒を徹底させよ!」
「はっ!」
将校たちが動き出す。
艦橋には命令が飛び交い、赤城の対空火器が敵機の接近に備えた。
先ほどまでの奇妙な会話は、完全に吹き飛んでいた。
ここは戦場だ。
敵が来れば迎え撃つ。
躊躇すれば、味方が死ぬ。
南雲にとって、それは疑う余地のない現実だった。
一方、悠真は窓の外を眺めていた。
「……あ、来てますね」
目を閉じ、空間認識魔法を広げる。
十キロ。
二十キロ。
三十キロ。
南東方向に、二十七機。
編隊を組んだ航空機が、赤城へ向かっている。
「二十七機ですね」
源田が振り返った。
「……数までわかるのか?」
「はい。もうすぐ来ますよ」
南雲が双眼鏡を構えた。
敵機は、まだ肉眼では確認できない。
だが、少年が嘘をついているとは思えなかった。
「天城君。ここは危険だ。艦内へ下がっていたまえ」
「え? ああ、大丈夫ですよ」
悠真は笑った。
「それより、俺が何とかしましょうか?」
「……何とか?」
「飛行機、どこかに移せばいいんですよね?」
南雲は一瞬、言葉に詰まった。
だが、すぐに思い出す。
先ほど目の前で消えた零戦。
空中に静止した機体。
そして、元の位置への帰還。
「……敵機を排除できるというのか?」
「はい」
「確実にか?」
「大丈夫です」
南雲は、少年を見据えた。
常識ではあり得ない。
だが、常識では説明できない現象を、すでに目撃している。
そして今は、艦隊の安全が最優先だった。
「……よし。頼む」
「はい!」
悠真は頷き、何気なく付け加えた。
「あ、パイロットの人たちも、無事にしておきますね」
「……何?」
南雲の眉が動いた。
「敵の搭乗員をか?」
「はい。殺さなくても、攻撃できなくすればいいんですよね?」
南雲は少年を見つめた。
敵機を撃墜する。
それは、艦隊を守るための当然の行為だ。
敵が攻撃してくる以上、こちらも全力で迎え撃つ。
だが、この少年は違う。
敵の攻撃を止めることと、敵兵の命を奪うことを、別の問題として考えていた。
「……本当に、そのようなことが可能なのか?」
「できますよ」
悠真は当然のように答えた。
「誰も死なない方が、後味いいじゃないですか」
南雲は、短く息を吐いた。
「……任せる」
それ以上は聞かなかった。
重要なのは、敵の攻撃を防ぐことだ。
その方法が何であれ、艦隊を守れるのならば。
悠真は窓際へ歩み寄った。
南東の空を見つめる。
まだ敵機の姿は見えない。
だが、二十七機の位置は、はっきりと捉えていた。
「じゃあ……」
右手を上げる。
人差し指と親指を合わせる。
南雲と源田が、息を呑んだ。
悠真は、何でもないことのように呟いた。
「……ちょっと、どいてもらいますね」
ぱちん。
乾いた音が、艦橋に響いた。
その瞬間。
太平洋の空で、誰も見たことのない現象が起ころうとしていた。