静香が発掘現場に顔を出すようになって、数日が経った。
毎日来るわけではない。
昼前に来る日もあれば、午後になってふらっと現れる日もある。
来ない日もある。
だから別に、博繁も気にしてはいない。
「先生」
「はい?」
作業員に呼ばれて、博繁は振り返った。
「今日、来ないんですか?」
「誰が?」
「ほら。最近よく来る人」
「美咲さん?」
「そうそう」
博繁は道路の方を見た。
誰もいない。
「知らないですよ」
「連絡先とか知らないんですか?」
「知りません」
「えっ」
「なんですか、その反応」
「いや……」
作業員は少し考えた。
「先生、意外と遅いですね」
「何が?」
「いえ、別に」
「なんなんだよ」
作業員は笑いながら持ち場へ戻っていった。
博繁は首を傾げた。
何が遅いのか分からない。
分からないまま、仕事に戻った。
*
その日の午後。
静香は来た。
博繁が気づいた時には、いつもの道路脇に立っていた。
「来てるじゃないですか」
声をかけると、静香が振り返った。
「来ちゃダメだった?」
「またそれですか」
「だって先生、毎回聞くから」
「今日は聞いてないでしょう」
「じゃあ何?」
「……来てるなと思っただけです」
「そう」
静香が笑う。
「今日は遅かったですね」
言ってから、博繁は少しだけ後悔した。
「遅い?」
「いや、いつもより」
「待ってたの?」
「待ってません」
「聞いただけなのに」
「その顔が聞いただけの顔じゃないんですよ」
「どんな顔?」
「はるむみたいな顔」
「それはちょっと失礼じゃない?」
「本人には言わないでくださいよ」
「今度会ったら言おう」
「やめてください」
静香が楽しそうに笑った。
そこへ後ろから声がした。
「神代」
「はい?」
綾瀬だった。
資料を数枚持って、こちらへ歩いてくる。
「昨日の三区の記録なんだが――」
そこまで言って、止まった。
「先生?」
綾瀬は答えない。
博繁ではなく、その隣を見ている。
静香だった。
綾瀬の表情が変わった。
驚いた、というのが一番近い。
「……ミヅキ?」
静香が少し首を傾げた。
「ミヅキは、私の母の名です」
「……母?」
「はい」
綾瀬は数秒、静香の顔を見た。
それから、ようやく息を吐いた。
「……そうか」
もう一度、静香を見る。
「いやあ……驚いた」
「そんなに似てます?」
「似てるなんてもんじゃない」
綾瀬は苦笑した。
「君、本当にお母さんそっくりだね」
「よく言われます」
「そうか。ミヅキの娘か」
そこで綾瀬が、何かを思い出したように眉を上げた。
「しかし……まさか、あのミヅキが結婚していたとはな」
博繁が吹き出した。
「そこに驚くんですか?」
「お前は知らんから言えるんだ」
「そんな人だったんですか?」
「研究以外のことに興味があるようには見えなかった」
静香が笑った。
「ひどい言われ様ですね、お母さん」
「いや、褒めてるんだ」
「今のどこに褒めるところがあったんです?」
博繁が聞く。
「研究者としては最大級の褒め言葉だ」
「だから先生はモテないんですよ」
「お前に言われたくない」
「俺は関係ないでしょう」
「似たようなもんだ」
「一緒にしないでください」
「先生」
静香が口を挟んだ。
「ん?」
「お母さんも綾瀬先生のこと、変わった人だって言ってましたよ」
綾瀬が黙った。
博繁は笑った。
「言われてるじゃないですか」
「……あいつ」
「お互い様だったみたいですね」
「うるさい」
静香も笑っていた。
*
「それにしても、懐かしいな」
少しして、綾瀬が言った。
いつの間にか三人で、現場脇の日陰に移動していた。
「お母さんとは大学が一緒だったんですか?」
博繁が聞く。
「いや、大学は違う。研究会で知り合った」
「学生の頃?」
「そうだ」
綾瀬はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「まだ俺が二十代の頃だ」
「先生にも二十代あったんですね」
「当たり前だろ」
「想像できない」
「お前、今日当たり強いな」
「いつもこんなもんですよ」
静香が言った。
「なんで美咲さんが答えるんですか」
「だって見てれば分かるし」
「まだ数日でしょう」
「時間は関係ないんじゃなかった?」
「……覚えてたんですね」
「私、結構覚えてるよ」
綾瀬が二人を見る。
「お前ら、知り合いだったのか?」
「数日前にここで」
「へえ」
今度は綾瀬が博繁を見る。
「なんですか」
「別に」
「最近それ流行ってるんですか?」
静香が笑った。
綾瀬は再び静香へ視線を戻した。
「ミヅキはなあ……よく人を振り回す奴だったよ」
「綾瀬先生を?」
「そうだ」
「それは見てみたかったな」
博繁が言う。
「今と大して変わらん」
「先生が?」
「ミヅキが」
「ああ」
「なんだ、その納得は」
「いえ」
綾瀬は少し笑った。
「頭は良かった。妙なところに気づく奴でな。こっちが何日も考えてることを、横から来てひと言でひっくり返したりする」
「嫌な人ですね」
「お前と一緒にするな」
「俺、そこまで言ってませんけど」
「顔に書いてある」
静香が口元を押さえて笑う。
「お母さん、楽しそうに話してましたよ。昔の研究会のこと」
「そうか」
綾瀬の声が少しだけ柔らかくなった。
「先生の話も」
「俺の?」
「はい」
「何て?」
静香は少し考えた。
「頑固だったって」
「……それだけか?」
「細かかったとも」
博繁が堪えきれずに笑った。
「今と同じじゃないですか」
「神代」
「はい」
「仕事に戻れ」
「昼休みでもないのに話し込んでるの先生でしょう」
「いいから戻れ」
「はいはい」
静香が笑う。
綾瀬も呆れたように笑った。
しばらくして、綾瀬が静香に聞いた。
「お母さんは元気か?」
静香は首を横に振った。
「お母さんは亡くなりました」
「……そうか」
綾瀬の顔から笑みが消えた。
「知らなかった。すまない」
「いえ」
静香はそれだけ答えた。
少しだけ間が空いた。
遠くで、土を掻く音が聞こえる。
作業員の笑い声もした。
綾瀬はペットボトルを置いた。
「そうか……」
もう一度だけ呟いた。
それから、
「君は今、こっちに住んでるのか?」
と普通の調子で聞いた。
「はい。この辺に」
「そうか」
会話はそのまま続いた。
*
夕方。
静香が帰ったあと、博繁は綾瀬を見つけた。
現場の隅で記録用紙を確認している。
「先生」
「なんだ」
「ちょっと聞いていいですか」
「仕事の話なら」
「仕事の話ですよ」
「なら聞く」
博繁は隣に立った。
「美咲さんのお母さんって、研究者だったんですか?」
綾瀬の手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……お前」
「はい」
「美咲ミヅキを知らないのか?」
「いや」
名前には覚えがある。
どこかで読んだ。
あるいは、論文の参考文献で見たのかもしれない。
「聞いたことはあります」
「聞いたことはある」
「はい」
「読んだことは?」
博繁は黙った。
「……ちゃんとは」
綾瀬がため息をついた。
「お前なあ」
「なんですか」
「卑弥呼と天照大神を同一線上で論じてるくせに、美咲ミヅキをまともに読んでないのか?」
博繁は眉を寄せた。
「……そっちの人なんですか?」
「そっちの人ってなんだ」
「いや、俺と研究分野が近いって意味です」
「近いどころじゃない」
綾瀬は記録用紙をテーブルに置いた。
「読め」
「そんなに?」
「読め」
「分かりましたよ」
「今日読め」
「今日?」
「今日だ」
「先生、もう夕方ですよ」
「大学に戻れば資料がある」
「明日じゃダメですか」
「三十三歳は勉強しろ」
「また年齢ですか」
「便利だからな」
「五十八歳は後輩を褒めて伸ばしてくださいよ」
「褒めるところがあったらな」
「帰ろうかな」
「その前に読め」
博繁はため息をついた。
「……そんなに凄い人だったんですか?」
綾瀬はすぐには答えなかった。
少しだけ考える。
「凄かったよ」
「どのくらい?」
「そうだな」
綾瀬は、片づけの始まった発掘現場へ目を向けた。
「お前より、ずっと先を歩いてた」
博繁は黙った。
「……それ、結構腹立ちますね」
「だったら読め」
「読みますよ」
「今日な」
「分かりましたって」
博繁は記録用紙をまとめ始めた。
美咲ミヅキ。
美咲静香のお母さん。
綾瀬が若い頃に知っていた研究者。
そして、自分よりずっと先を歩いていたという女。
「……そんな人の娘だったのか」
独り言のつもりだった。
「何か言ったか?」
「何も」
「そうか」
綾瀬はまた記録用紙に目を落とした。
博繁も片づけに戻る。
明日はまた、いつもの発掘作業がある。
その前に今夜、読むものが一つ増えた。
ただ、それだけだった。