神話ができるまでの千年と30日 作:想像神
プレイ5日目
五日目にゲームを起動すると、世界樹の周辺がずいぶん賑やかになっていた。
《世界ミロは幻想歴46年を迎えました》
昨日は人間側が五人、魔族側が四人しかいなかったあの広大な平地に、今や二つの立派な軍事駐留地が出来上がっていた。世界樹を挟んだ西側には青い天幕、南東側には赤い天幕がずらりと並び、どちらの陣営にも見張り台や頑丈そうな木柵が増築されている。
「あー……結局、仲良くはならなかったか」
画面上の関係性表示をチェックしてみると、《警戒》のままで変わっていなかった。
十九年もの年月が流れれば、流石に最初にあの樹の下で鉢合わせた連中も隊の中心からは退いているらしい。住民一覧を開いて「スカウ」を検索してみると、名前自体はまだ残っていたものの、所属が《アインリト斥候隊》から《北方街道監督所》へと変わっていた。まだ生きていたのかと思ってステータスを見ると、年齢は五十七歳と表示される。魔族という種族は人間よりも少しだけ寿命が長いようだ。
「出世したのか、現場を退いて異動したのか、イマイチ分からんな」
昨日は追跡枠に入れずに放置していたため、彼がこの十九年間でどんな人生を歩んだのかまでは表示されない。確認できるのは現在の役職と、過去に達成した大きな歴史的偉業の数件だけだった。その履歴の中に《中央大樹における最初の接触》という項目があり、昨日俺が画面の前でハラハラしながら見ていたあの場面のことだと分かった。
視点を再び世界樹の周辺へと戻す。
かつての空虚な平地には、《西方駐留団》と《東方駐留団》という立派な領域名がつき、互いの柵から何本もの細い境界線が蜘蛛の巣のように伸びていた。解説によると、これは資源の利用範囲や巡回ルートを示しているらしい。特に水場や、世界樹から落ちた巨大な枝を拾い集める薪拾い場で、青い線と赤い線が何度も不穏に重なり合っていた。
《世界樹周辺で小規模な対立が増えています》
《主な要因:領域、採取権、巡回経路》
カメラをギリギリまで拡大してみたが、すぐに全面戦争が始まりそうな雰囲気ではなさそうだった。双方とも武器は腰に差しているものの、実際にやっていることと言えば、境界の印となる杭を打ち込んだり、相手が夜中に打ち込んできた杭の位置を突き止めて文句を言ったり、道の途中で鉢合わせて睨み合ったりする程度のことだ。
「……使う場所を半分ずつ分ければいいだけの話だろ」
俺が二日前にやらかして作ったあの平地は、二つの小さな集落が共同で使ったところで持て余すくらいには広い。世界樹だって、一抱えで持って帰れるようなサイズでは到底ないのだ。
資源配置のメニューを開き、争いの原因になっている水場を新しくもう一つポンと置けないか調べてみた。だがシステムのアドバイス欄によると、新しい水場を作ったところで「新しく争う対象が増えるだけ」らしく、予測欄には《領有主張が発生する可能性》と冷たい警告が出た。地形編集で崖を新しく作って物理的に道を分けるという力技の案もあったが、そのためには消費干渉力が100必要になる。
「……そこまで大掛かりな土木工事をするような話でもないだろ」
何か住民たちに直接指示を出せるような便利コマンドはないかと探していると、画面の上部に見たことのない星形のアイコンが新しく追加されているのに気づいた。
《実績“隣人を見つけた”により、簡易神託が解放されました》
《指定範囲内にいる、信仰心が一定値以上の住民へ言葉を送れます》
昨日解除された実績の追加特典らしい。
「へえ、神様として直接言葉を届けられるようになったのか」
簡易神託を選択すると、まずはマップ上で神託を響かせる「範囲」を指定するよう求められた。世界樹と二つの駐留団がすっぽり収まるように円の範囲を広げ、次のステップへ進む。
《受信者は指定できません》
《神託は対象者の夢の中へ送られます》
《信仰、言語、文化に応じて解釈が変わる場合があります》
《消費干渉力:25》
「なんか妙に回りくどいな……まあ、世界観重視ってことね」
王様の頭の中にダイレクトに文字をポップアップさせるような、無機質なゲーム的機能ではないらしい。信仰心が低い不信心者には届かないし、届いた相手が都合よく村の偉い人だとも限らないわけだ。それでも今は、範囲内の誰かが夢で受け取って、それを周りの奴らに伝えてくれさえすればそれで十分だった。
入力欄には《40文字以内》とある。
俺はキーボードに手を置き、少し考えてから、短くストレートに打ち込んだ。
《仲良く使え》
決定ボタンを押すと、すぐには送信されず、《世界観に合わせて文章を変換します》というプロンプトが表示された。数秒後、俺が入力したたった五文字の下に、ずいぶん大げさで荘厳な文章が自動生成される。
《異なる枝よ、ひとつの陰に憩い、その根を分かつことなかれ》
「……おいおい、ずいぶん盛ったな」
枝も、陰も、根も、俺は一言も書いていない。とはいえ、最終的に「喧嘩せずに分かつな(仲良く使え)」と言っているのだから、意味としては大体合っているのだろう。変換後のテキストを確定すると、画面の中の世界樹のてっぺんから、薄い光の輪が波紋のように一度だけ静かに広がっていった。地上のちびキャラたちは誰もその光に気づかず、普段通りトコトコと歩き回っている。
《干渉力:75/100》
《全回復まで:4時間10分》
《受信候補者:6名》
《伝達成功:2名》
《神託の内容は、受信者の行動によって世界へ反映されます》
青い駐留地と赤い駐留地のそれぞれで、一人の頭上に小さな光のアイコンがピカピカと点滅し始めた。どちらも大きな天幕の中にいるらしく、具体的な姿まではここからは確認できない。
ゲームの時間を少し早送りしてみる。
先に動きを見せたのは青い人間側の陣営だった。天幕から飛び出した一人が別の天幕へ猛ダッシュし、そこから呼び出された重鎮らしき連中が、中央の一番大きな幕舎へと続々と集まっていく。赤い魔族側の陣営でも、角の形状が異なる住民たちが一箇所へと集まり始めていた。
《西方駐留団で、三種族会議が始まりました》
《東方駐留団で、諸部族会議が始まりました》
「おお、ちゃんと通じたじゃん!」
その日のうちに不穏な二つの柵が撤去されるような奇跡までは起きなかったが、西側ではこれまで別々の見張り台に掲げられていた青、緑、黄色の旗が、ひとつの見張り台へとまとめられた。東側でも、細々とした部族ごとの旗が中央の大型幕舎へと集められている。
とりあえず、どちらの陣営も争いを止めて話し合いのテーブルに着いたようだ。
《世界樹周辺の対立状況を更新中です》
神託の結果が世界に完全反映されるまでには、世界時間で数日ほどかかると表示された。俺は神託ログに残ったあのやたら詩的な文章をもう一度読み返してから、他の地域で起きている出来事の通知をチェックするためにカメラを引いた。
幻想歴四十六年――神天地
三つ目の検問所で足止めを喰らったとき、メッサは今日中に本陣へ戻ることを完全に諦めた。
「……通行札なら、きちんと所持しています」
メッサは革紐に通した木札を、相手の目の前へ差し出した。人間の駐留隊が焼き印を押し、その上からエルフの監視所が緑の糸を巻き付け、ドワーフの補給隊が端っこに小さな識別穴を開けた特製の品だ。「これ一枚あれば、西方駐留団の全域を自由に往来できる」と、出発前に隊長から太鼓判を押されたはずのものだった。
検問の番をしていた頑固そうなドワーフは、木札を裏返して穴の数をじろりと確かめた。
「……昨日から、穴は『二つ』必要になったんだよ」
「……昨日の段階では、一つで十分だと聞かされていましたが」
「だから『昨日から』だと言っているだろうが。北の荷道を通るなら穴は二つ要る」
メッサは溜息を呑み込み、肩から下げた分厚い鞄の口を開けて、中の巻物の束を見せた。人間の駐留隊長から、エルフの弓兵隊長へと宛てられた最新の巡回計画表だ。メッサ自身に中身を開く権限はないが、封蝋には三種族の紋章がズラリと並んでいる。
「……この道を渡れなければ、今夜の巡回部隊の交接時間に間に合わなくなります」
「……俺が決めたルールじゃないんでね」
ドワーフは顎で道の脇にある小さな小屋をしゃくった。新しい穴を開けるための専用工具は、責任者が鍵のかかった頑丈な箱に保管しているのだという。そしてその責任者は、世界樹の北側へ資材の過不足を確かめに出かけており、夕方まで戻ってこないらしい。
別の迂回路を使えば、半日は余計に時間を食う。ここまで歩いてきた道をわざわざ引き返す時間を計算すれば、どちらを選んだところで巡回表の到着は絶望的に遅れることになる。
メッサは木札を受け取り、検問の横の草地に重い鞄を下ろした。
「……ここで帰りを待ちます」
「……夜になるぞ?」
「……夜の巡回計画表ですから」
ドワーフは何か呆れたように言いかけたが、最終的には焚き火のそばにある丸太の腰掛けを譲ってくれた。
人間、エルフ、ドワーフの三種族が、聖なる大樹の西側に巨大な陣を構えるようになってから、今年で十二年になる。
最初は「魔族が世界樹を奪いにやってくる」と危機感を募らせ、三種族がそれぞれ独自に探索隊と警戒部隊を現地へ送り込んだのだった。だが、現地に留まる人数が増えるにつれ、魔族以前の問題として、西側陣営内部での「水場の確保」「荷道の優先権」「薪を拾うエリアの割り振り」を厳密に定めなければならなくなった。魔族と刃を交える以前に、「誰がどの見張り台を担当するか」という内輪の議論だけで一日が潰れることも珍しくなかったのだ。
争っているとは言っても、互いに剣を抜いて血を流すわけではない。人間側が打ち立てた境界杭を、エルフ側が夜の間にこっそり二歩ぶんずらし、ドワーフ側がその隙間にちゃっかり石垣を積み上げる。翌朝、人間側が石垣ごと杭を元の位置へと叩き戻す。そうした不毛で陰湿な押し引きが十二年間積み重なった結果、今や西方駐留団の内側だけで、なんと六種類もの異なる通行札が乱立する事態に陥っていた。
メッサは、その複雑怪奇な陣営の間を日々駆け回る「専属の伝令」だった。
トゥリエの西にある古い宿場町で育ち、十五の時から隊商の伝令として飯を食ってきた。特別足が速いわけではない。だが、どんなに複雑な抜け道でも一度走れば完璧に記憶すること、そして預かった伝言を一切の主観を交えずに正確に届ける誠実さを買われていたのだ。
検問の焚き火で温かい豆の煮込みを分けてもらい、すっかり日が落ちてから、ようやく木札に二つ目の穴が開けられた。
エルフの監視所へと辿り着いた頃には、夜の巡回はすでに始まってしまっていた。弓兵隊長は遅れて届いた巡回表を受け取り、封蝋の無事を確認すると、メッサを責めるどころか疲れ果てた彼女に天幕の寝床を快く貸してくれた。
「……明け方に本陣へ戻るのはやめておいた方がいい。東の魔族どもの見張りが急に増えている」
「……魔族に何か動きがあったのですか?」
「……あいつら、部族ごとにバラバラだった旗をひとつにまとめていた。何らかの重大な決定を下したのかもしれん」
監視所の天幕は、世界樹の巨大な根の側面へ寄り添うように張られていた。床に敷いた毛布の下にも極太の根が脈打つように走っており、横になると背中に硬い突起がゴリゴリと当たる。だが贅沢を言っていられる状況ではなかったので、メッサは重い鞄を枕代わりにして横になった。
眠りにつく前には、幼い頃からの習慣として必ず短い祈りを口の中で唱える。
朝の火の恵みに感謝し、今日無事に歩き通せた道に感謝し、預かった重要な言葉を途中で失うことなく届けられたことに感謝する。そして最後に、明日もまた預かったメッセージを何ひとつ損なうことなく運べますようにと願うのだ。村の祭司から教わったこの祈りを、彼女は旅に出るようになってから一日たりとも欠かしたことはなかった。
その夜は、祈りの途中で深い眠りへと落ちていった。
――夢の中でも、メッサは世界樹の下に立っていた。
軍事天幕も、煩わしい検問所も、聳え立つ見張り台もそこにはなく、巨大な根の間を満たす透き通った浅い水だけが、天空の幻想的な光を静かに反射していた。風ひとつ吹いていないというのに、頭上に広がる無限の葉が、さやさやと一枚ずつ揺れていた。
……誰の姿も見えなかった。
誰かの声を聞いたのか、それとも自分自身で空の光を読み取ったのかすら分からなかった。ただ、ひと続きの不可侵な言葉が、預かった大切な文書と同じように、完璧な順序を保ったまま彼女の心に直接刻み込まれたのだった。
――『異なる枝よ、ひとつの陰に憩い、その根を分かつことなかれ』――
ハッと目を覚ましたとき、天幕の外はまだしじまに包まれた暗闇だった。
メッサは跳ね起きると、鞄から巡回表の控えに使っていた小さな木板と炭筆を取り出した。夢の記憶が摩耗してしまう前に、その言葉を一字一字、震える手で書き留める。最後まで書き終えてから再び冒頭へと戻り、声に出して三度確かめた。
隣の毛布で眠っていたエルフの見張りが、ガサゴソと顔を出した。
「……伝令、こんな夜中に何をガリガリ書いているのだ?」
「……夢で預かった言葉です」
「……誰からだ?」
メッサは寝ぼけた頭のまま、握りしめていた炭筆を見つめた。いくら答えを探してみても、指先に黒い炭粉が付着するだけだった。
「……それが、分かりません」
答えながらも、メッサの心の中では明確な確信が芽生え始めていた。
この聖なる世界樹の根元で、姿なき大いなる存在から直接賜った不可侵の言葉。「異なる枝」「ひとつの陰」「分けてはならない根」。単なる偶然見せた夢として片付けるには、今の自分たち西方駐留団が直面している愚かな状況へ、あまりにも完璧に合致しすぎていた。
メッサは夜明けを待つことなく、監視所に併設された祭司の天幕へと突撃した。
そして午前のうちに、人間の駐留隊長、エルフの弓兵隊長、ドワーフの補給長という、西方陣営の最高幹部三人がひとつの大型幕舎へと緊急招集された。
メッサは入口近くの席に姿勢を正して座り、夢で受け取ったその言葉を何度も何度も正確に繰り返した。祭司がそれを聞き取り、書記が羊皮紙に書き写し、三人の最高幹部たちが代わる代わる質問を浴びせてくる。夢の中で枝は何本見えたか。聞こえた声は男か女か。根は一本だったか、何本にも分かれていたか。
……答えられる客観的事実は、酷く少なかった。
「……枝の数までは見ていません。声だったのかすら判別できませんでした。ただ……言葉だけが明確に残っていたのです」
ドワーフの補給長が、太い腕を組んで唸った。
「……『異なる枝』というのは、間違いなく俺たちのことだろう。人間、エルフ、ドワーフ。三つの種族でちょうど数が合う」
「……『三つ』とは言葉に出ておりません」
メッサが即座に訂正すると、補給長は腕を組んだまま考え込んだ。
「……言われてはいないが、否定もされていないだろう」
エルフの弓兵隊長は、《ひとつの陰》という表現を「この世界樹が与えてくれる庇護」のことだと解釈した。人間の隊長は、《根を分かつことなかれ》という一文を「三種族で一致団結して世界樹防衛の根を固めよ」という神の厳命だと受け取った。
ただ一人、祭司だけが「東の魔族どもすらも、その『異なる枝』の中に含まれているのではないか」という可能性を口にした。
祭司の発言を記録していた書記が、思わず手を止めて顔を上げた。天幕の外からは、正午の交代時刻を告げる木板の乾いた音がカアンカアンと響いていた。
「……創世の神が、あの野蛮な魔族どもと我々を、等しく同じ『枝』として例えられると思うか?」
人間の隊長が酷く険しい顔で問いただした。
「……分からん。だからこそ可能性の話をしているのだ」
「……東の魔族どもは、昨日から部族旗をひとつに集めて戦力を結集させている。奴らは我々の巡回路にまで土足で踏み込んできたのだぞ? 今ここでそんな解釈を採れば、『根を分かつな』という神の言葉を理由に、西側の貴重な水場まで奴らに明け渡すことになりかねん!」
ドワーフの補給長は卓上の詳細地図を引き寄せ、自分たちの水場の印の上に太い親指をドカンと叩きつけた。エルフの弓兵隊長も、祭司の方を向こうとはしなかった。
メッサ自身も、東方の魔族駐留団の姿を思い浮かべた。街道の先で見かける角の生えた不気味な見張りたちは、言葉を交わす対等な相手というよりは、「巡回計画表の備考欄に書き込まれる警戒対象」でしかなかった。
それに、彼女が昨日足止めを喰らったあの煩わしい三つの検問所も、魔族ではなく同じ西側の仲間たちが勝手に作り出したものなのだ。
「……少なくとも、私たち三種族が内部でいがみ合い、別々に動いている場合ではない……という意味であることは間違いありません」
メッサが意を決してそう告げると、祭司はしばらくの間、神託の写しをじっと見つめていた。……少なくともその解釈であれば、彼女が夢で受け取った言葉の核心から外れてはいない。それ以上の反対意見は誰からも上がらず、その日の午後には歴史的な《三枝の誓い》と題された統一協定文書が作成された。
――人間、エルフ、ドワーフは世界樹の西側における巡回路と水場を全面的に共有する。三つの指揮所は一本化し、魔族の侵攻に対して個別撃破されることなく即座に連動する。煩わしかった通行札はたった一種類に統一し、三種族の紋章をひとつにまとめた新しい封蝋を押すこと――。
文書の冒頭には、メッサが夢で受け取ったあの言葉が、そのまま輝かしく刻み込まれた。
書記が協定書の表題の下で、ふと羽ペンを止めた。
「……隊長方、この歴史的協定を結ぶ『場所の名』は、どのように記載いたしますか?」
机の上に広げられていた古い地図には、平地の輪郭と、異常に巨大な樹木の記号だけが描かれている。伝説の測量師テラの名と正確な測定値は残されていたが、土地の名を記すべき欄だけが空白のまま残されていたのだ。
祭司は、古い地図と神託の写しを交互に見比べた。
「……天より直接の御言葉が降り、聖なる世界樹が地に根を張る約束の地だ。『神天地』と記すがよかろう」
書記が羽ペンにインクを浸し、長年空白だった欄に力強く『神天地』の三文字を書き込んだ。
メッサは完成した協定書を三通、大切に鞄へ収めた。今朝まで自分を酷く足止めしていたあの検問所へと引き返し、最初の一通をドワーフの責任者へ手渡した。
「……穴は一つでよくなったそうです」
「……はあ!? 昨日二つに増やす決定が出たばかりだぞ!?」
「……今日から、一つになりました」
責任者は鍵箱から穴開け工具を取り出し、しばらく呆然と眺めてから、静かに蓋を閉めた。
続いて人間の本陣へ二通目を、最後の一通をエルフの監視所へと届け終えた。日が西の山並みに沈む前には、三種族の旗が中央の一番高い見張り台の上に誇らしげに並び立っていた。
それで彼女の伝令としての仕事は終わるはずだった。しかし、メッサはさらにもう一通の重い文書を託されたのだった。
それは――東方駐留団へと送りつける、事実上の「宣戦布告兼最終通告」だった。
『神天地の西側においては、三種族が一つの指揮系統のもとで聖なる世界樹を防衛する。境界の杭を無断で越えることは断じて許さない。水場および世界樹の落枝の採取権については、後日あらためて対等な交渉の場を設けること』――。
翌朝、メッサは世界樹の南側に位置する緊張感漂う境界線へと向かった。
青い布を結んだ境界杭から十歩ほど離れた泥の上に、東方の魔族からの使者がすでに待機していた。額から左右へと複雑に枝分かれした立派な角を持つ、灰色の外套を纏った男だった。名をレガトといい、拙い共通交易語を話した。
メッサは文書を朗々と読み上げ、境界石の上に静かに置いた。レガトはその内容を目で確かめると、自分の外套の懐から革で包まれた巻物を取り出して差し出した。
「……東の諸部族も、ひとつにまとまった」
「……何か特別なことがあったのですか?」
「……天より御言葉を受けた者がいる。東においては、『異なる角と血を持つ者は、ひとつの炉辺に集え』という意味として解された」
メッサは、自分の鞄に残っている神託の控えの上に、そっと手を置いた。
「……こちらにも、夢で言葉を受け取った者がいます」
「……ならば、そちらにも試練に備えよと神が命じられたのだろう」
レガトは振り返り、東の魔族陣営を見つめた。昨日まで部族ごとにバラバラに立っていた異形の旗が、一本の太い大柱の上に集められ、強風にたなびいていた。
「……世界樹は、創世の神が我ら魔族へ残し賜うた『聖なる炉の印』だ。東の部族は、これを何者にも奪わせない」
メッサは、返すべき言葉に詰まった。
鞄の中の文書が、急に鉛のように重くなった気がした。レガトが語った東側の経緯は、気持ち悪いほど自分たち西側の決定と酷似していた。それなのに――どちらの陣営も「神の言葉」を免罪符にして自陣営の団結を高め、目の前にいる相手だけを「神の庭から排除すべき敵」として切り捨てていたのだ。
「……私たちも、命をかけて世界樹を守るよう命じられました」
レガトは、ようやく意思が疎通したという風に満足げに頷いた。双方の協定文書は、それぞれの陣営の最高指揮所へと持ち帰られた。
その日から、メッサが西側エリアで足止めされる検問所はたった一つに統一された。東側の魔族陣営でも部族ごとの見張り台が共同運用され始めたらしいと、次の巡回計画表の備考欄に小さく記載されていた。メッサの所持する通行札には、三種族の紋章が綺麗にひとつに合体した、新しい特製の封蝋が押されていた。
次に彼女が東方の魔族陣営へと外交文書を運んだとき、その宛名には『中央大樹の平地』ではなく――
『神天地西方駐留団より、神天地東方駐留団へ』
と、明確な境界線を引く恐ろしい文字が刻まれていた。
境界線の上に打ち立てられた青い杭と、黒い鉄板は――どちらも以前とまったく同じ場所で、静かに相手を睨みつけ合っていた。