神話ができるまでの千年と30日 作:想像神
プレイ6日目
六日目は仕事の帰りが遅くなり、夕食をコンビニのパスタで済ませた頃には、時計の針はすでに夜の十一時を回っていた。
空になったプラスチック容器を片づけようとすると、愛猫のミロが鼻をヒクヒクさせながら蓋の匂いを嗅ぎにやってきた。クリームソースの残りを舐め取られる前に慌てて取り上げ、流し台へ放り込む。そのまま風呂へ入ればよかったのだが、昨日放ったあの「神託」が一体どうなったのか、どうしても少しだけ気になってしまった。
「…ちょっと画面を見るだけな」
誰に言い訳するでもなくそう呟いて、パソコンの前へ座りゲームを起動した。
《世界ミロは幻想歴73年を迎えました》
画面に躍り出た数字を見て驚いた。昨日の幻想歴四十六年から、一気に二十七年も時が流れていたのだ。
神天地へカメラの視点を移動させると、世界樹の西側と東側に存在していたかつての軍事駐留地は、どちらも小さな街と呼べるほどの広がりを見せていた。西側の防壁には青、緑、黄色の旗がひとつの門に並んで誇らしげに掲げられ、東側の陣営でも様々な形状の角を図案化した部族旗が一列に整然と並んでいた。
《西方駐留団は“三枝盟約”を継続しています》
《東方駐留団は“炉辺諸部族連合”へ移行しました》
《両勢力の関係:警戒》
「あー…そこは相変わらず『警戒』のままなんかい」
昨日の神託の甲斐あって、各陣営の内部では種族や部族の枠を超えて仲良くなったらしい。水場や薪をめぐる泥沼の小競り合いもだいぶ減っていた。俺が本当になだめたかったのは「人間側と魔族側」の二大勢力だったのだが、まあ内紛が収まって前より平和になったのなら、大失敗というほどでもないだろう。
通知ログを順に閉じていると、突然金色の豪華な装飾がついた実績ウィンドウが画面の中央に躍り出た。
《実績“英雄を待つ世界”を解除しました》
《新たな干渉権限“伝説装備の配置”が解放されました》
「……伝説装備!?」
見るだけで終わらせるはずの予定だったが、その魅力的な響きにすっかり目が釘付けになってしまった。
新しくメニューに追加された剣のアイコンをクリックしてみる。今のところ選べる装備はひとつだけのようで、黒い影になっている槍や杖の横で、一振りの両刃の剣だけが神々しく輝いていた。
《勇者にしか抜けない剣》
《世界内で勇者適性を獲得した住民のみ、台座から引き抜き、装備できます》
《適性条件は、住民の経歴と選択に応じて判定されます》
「へえ、RPGの聖剣みたいなやつも置けるのか!」
選択すると、刀身や鍔、柄の形状を自由にカスタムできる簡易カスタマイズ画面が開いた。細身のレイピア風や無骨な片刃の太刀風のパーツもあったが、ここで変に個性を出す必要もないだろう。幅の広い王道な銀色の刀身に、豪華な金色の鍔という、誰もがひと目で「聖剣だ」と認識できる最も標準的な組み合わせをチョイスした。
あとは、これをマップのどこに配置するかを決めるだけだ。
人間の町の中に置けば人間側が真っ先に持っていくだろうし、魔族の町へ置けばその逆になるだろう。せっかく置くのだから、どちらの陣営が先に伝説の勇者を誕生させるのかを対等に観察できる場所がいい。俺は神天地の中央エリアを拡大し、世界樹の太い幹から少しだけ北へ離れたぽっかりと空いた空き地を選んだ。
半透明で表示された重厚な石の台座をマウスでドラッグし、剣の正面が南を向くように角度を回転させる。木の根っこに半分埋まりそうになったので、二度ほど微調整して位置をずらした。
《この位置へ伝説装備を配置しますか》
《消費干渉力:60》
決定ボタンを押す。
画面がグッと引き込まれ、完成した聖剣の姿をアップで確認する画面へと切り替わった。右側のパラメーター欄には細かな設定項目がずらりと並んでいたが、勇者適性は《自動生成》、装備可能な種族制限は《なし》のデフォルトのままで問題なさそうだった。
そのパラメーター群の一番下に、横長のテキスト入力欄がぽつんと設置されていた。
枠の中には薄いグレーの文字で《名前を入力してください》と初期表示されている。俺は単なる入力フォームの説明文(プレースホルダー)だと思い込み、何も打ち込まないままそのまま「次へ」ボタンを押して進めてしまった。
《伝説装備を配置しました》
《干渉力:40/100》
《全回復まで:10時間》
《名前を入力してください》
《種別:聖剣》
《現在の適合者:なし》
「……あ」
どうやら、さっきの入力枠はプレースホルダーではなく、剣の名前を決定する欄そのものだったらしい。
マップ上にドロップされた聖剣をカメラで最大まで拡大してみる。重厚な石の台座へ深く突き刺さった銀色の刀身に、細かな文字が一列にびっしりと刻み込まれていた。デザインの装飾模様かと思ってさらにカメラを近づけると、そこには日本語で、ハッキリとこう刻まれていたのだった。
『名前を入力してください』
焦って変更できないか装備管理画面を開き直してみたが、一度フィールドに配置してしまった伝説装備は、一度回収して消去しない限り名前の再編集はできない仕様らしい。回収してしまうと、せっかく使った干渉力60ポイントが無駄になり、設置やり直しになってしまう。
「まあ、俺以外がプレイするわけじゃないし、いっか」
設置された剣を選択状態にしたまま、ゲームの時間を少し早送りしてみた。
夜の静けさに包まれた神天地を、松明を持った見張りと思われる住民が何人か通り過ぎていく。聖剣は世界樹の巨大な根が作る暗い影の中に隠れており、すぐ近くを通りかかった住民の一人も、足元の剣の存在にまったく気づかないまま立ち去っていってしまった。
《現在の適合者:なし》
「まあ、そのうち誰か適性のあるやつが現れて引き抜くだろ」
オートセーブが完了したのを確認してゲームを終了すると、デスクの端でミロがじっとこちらを待っていた。起動前に取り上げたパスタ容器の蓋の匂いを、まだ諦め切れていないような目つきだった。
幻想歴七十三年――神天地
スクリバが世界樹の北側にある現場へ到着したとき、話題の剣の周囲には厳重に三重のロープが張り巡らされ、その外側で三人の男たちが激しい口論を繰り広げていた。
「最初に見つけたのは俺だ! 夜明けの第二鐘が鳴るより前に、この目で確かに見た!」
西方駐留団の夜間見張り番をしている人間が、興奮気味に自分の胸をドカンと叩いた。
「…『見つけた』という定義なら私の方が先だ。お前が大声で騒ぎ立てる前から、あの木の根の影に不可思議な光を放つ存在があることに私は気づいていた」
静かに言い返したのは、早朝の巡回に同行していたエルフの書記リテラだった。残る一人、炊事場から大釜の水を運んできたドワーフは、二人の間で太い腕を組んで鼻を鳴らした。
「俺が通りかかった時には、そこの夜番がすでに柄を両手で握りしめていたぞ。第一発見者の時刻を競うより、誰が最初にその聖なる柄に触れたかを記録に残すべきだ」
ドワーフに暴露され、夜番の威勢が一気に衰えた。
スクリバは三人の顔を順番に見つめてから、脇に抱えてきた分厚い木製の記録板を静かに開いた。
「誰が第一発見者かを決めるために呼ばれたのではありません。いつまでそこには何も存在せず、いつからそこに存在していたのかを正確に検証するのが私の仕事です。三人とも、まずは昨夜の巡回日誌を見せてください」
スクリバは、手の手柄を立てたがっている者たちの顔を立てるためにここにやってきたわけではなかった。
神天地の西方記録所に勤務するようになってから、今年で九年になる。かつての軍事駐留団から活気ある都市へと急変しつつあるこの土地では、新しい資材倉庫がひとつ建つたびに通りの名称が塗り替えられ、昨日まで一本だった水路が翌月には三本に分岐する。日々の泥臭い記録を怠れば、ほんの数年後には「その水路が一体誰の畑に水を引くために掘られた溝だったのか」すら誰も分からなくなってしまうのだ。
それは、神の威光や奇跡と呼ばれる現象に関してもまったく同じだった。
記録所の地下保管庫には、かつてトゥリエの村に最初の恵みの雨が降った日の記録が、なんと三種類も保管されている。最も古い聞き書きの記録では「プレアという少女が古い穀物小屋で一度だけ切なく願い、その日のうちに雨が降った」とある。三枝神殿の公式な祭礼文では「少女の祈りは七日七晩続き神を動かした」とされ、吟遊詩人が歌う旅の歌では「少女が干上がった井戸を欠けた土の杯で叩くと、一瞬で湧き水が溢れ出した」と劇的に脚色されている。
見習い時代のスクリバは、そのバラバラな三冊をひとつにまとめた「もっともらしい美しい歴史」を意気揚々と作成したことがあった。しかし翌朝、指導教官から返却された原稿には、最初から最後まですべて真っ赤な墨で二重線が引かれており、余白に厳しくこう殴り書きされていたのだ。
『正しい物語を勝手に捏造するな。誰が、いつ、何を語ったのかという生の事実だけを遺せ』
その赤ペンだらけの原稿は、今でもスクリバの自席の引き出しの奥に大切に保管されている。それ以来、話が美しく整っていれば整っているほど、彼は真っ先に「記録の日付」と「書き手の主観」を疑うようになったのだった。
夜番から受け取った巡回記録板には、夜半の巡回において『異常なし』と綺麗に記されていた。次の定時巡回は夜明け前で、その間には鐘ひとつ分ほどの時間的な空白が存在する。文字を書いたのは目の前にいる夜番自身だが、前半の記録は眠気と戦うような細く力ない文字で書かれているのに対し、問題の箇所だけは板からはみ出さんばかりの巨大な殴り書きになっていた。
《世界樹北側ニ石台ト剣現ル》
「『現れた』その瞬間を、あなたはこの目撃したのですか?」
「…いや。さっきまで何もなかったはずの場所に、ポツンと置いてあったんだ」
「では、『発見ス』と訂正させていただきます」
「…チッ、意味なんて同じようなものだろうが」
「まったく違います」
スクリバは炭筆で『現ル』の文字の上に静かに細い二重線を引き、その横に『発見ス』と正確に書き加えた。夜番は不満そうに鼻を鳴らしたが、記録板を強引に取り返そうとはしなかった。
ロープの張り巡らされた内側には、真っ白な巨石を綺麗に正方形に切り出したような豪勢な台座が鎮座していた。高さはスクリバの膝上ほどで、地面に埋まっている基礎部分まで継ぎ目が一切存在しない。その中央に、一振りの美しい剣が垂直に突き刺さっていた。
刀身は驚くほど幅広く、朝の眩しい光を白い反射光となって弾き返している。鍔と柄には見たこともない上質な金色の金属が使われていたが、雨風や泥に晒されたような汚れや傷は微塵も見当たらない。台座の周囲の草は綺麗な正方形に押し分けられていたが、刃物で切られた根や、人間がシャベルで掘り返したような乱された土の跡はどこにも存在しなかった。
剣が存在するこの場所は、人が足を踏み入れない神聖な不可侵エリアなどではない。北の水路と見張り塔を結ぶ人通りの多い巡回路のすぐ脇であり、資材を載せた荷車も一日に何度も行き交う場所だ。わずか三ヶ月前に水路を延伸した際、スクリバ自身がここで精密な測量記録を作成していた。その際、位置特定のために地面に打ち込んだ短い木杭が、台座からわずか三歩離れた草むらの中に倒れていた。杭自体は折れておらず、それが打ち込まれていた穴も土で塞がれてはいなかった。
…少なくとも、三ヶ月前の測量の時点では、ここにこんな巨大な台座など存在しなかった。そして夜半の巡回日誌を信じるならば、昨夜の夜半過ぎまで存在しなかったことになる。スクリバはそのふたつの事実を同じ客観性として扱うことはせず、それぞれの根拠となる測定データを添えて記録板にメモした。
スクリバはロープを跨ぐことなく、外側から慎重に台座の正確な位置を測定した。世界樹の太い幹から真北へ二十四歩。西の見張り塔から引いた直線からは七歩ほどずれており、東西の境界を示す境界石の列からは、わずかに西側エリアへと寄っていた。
「それで、実際に柄に触れたと?」
記録板に目を落としたまま、スクリバは静かに尋ねた。
「東の魔族どもが夜中に仕掛けた罠かもしれないと思ったんだ。確かめる必要があった」
夜番は咄嗟にそう弁明したが、彼が両手で力任せに剣を抜こうとしていた事実は、すでにドワーフによって暴露されている。
「微動だにしましたか?」
「ピクリともしなかった」
ドワーフが太い鼻を鳴らして吐き捨てた。
「両足を台座にドカンと乗っけて必死で引っ張っていたからな、見かねた俺が後ろから首根っこを掴んで止めたんだ。敵の罠を警戒している奴の動きじゃねえよ」
「目の前に凄い剣があったら、抜けるかどうか試したくなるのが男だろうが!」
「その『試した』という人間の欲望の行動結果も、すべて公式記録として残します」
スクリバが淡々と告げると、夜番は気まずそうに台座から半歩後ざさった。
西方駐留団の最高指揮所から正式な調査許可が下りたのは、太陽が世界樹の巨大な枝の上へと高く登り切った頃だった。ロープの周囲には、警備の兵士だけでなく、近くの水路工事で働いていた作業員や通りがかりの商人たちまで大勢集まり、人山ができていた。三枝神殿から派遣された祭司が二人、ドワーフの腕利き鍛冶師、そして古代文字を解読するエルフの書記リテラも立ち合いとして呼び出された。
真っ先に台座に近づいたドワーフの鍛冶師は、刀身に軽々しく触れることはせず、柄と鍔の構造を様々な角度からじっくりと観察した。
「見たこともない仕立てだ。鍔には槌で叩いた痕跡が一切ねえ。刀身にも砥石で研ぎ澄ませた筋目が一筋も残っちゃいねえんだ」
「魔法によって錬成された武器ということか?」
「『魔法です』と言っちまえば大抵の不気味な現象は説明がつくが、一体どんな属性の、どれほど途方もない術式で作られたのかまでは俺の目じゃサッパリ分からん」
許可を受けた人間の兵士が、厚手の革手袋をはめて固く柄を握りしめた。最初は片手で、続いて全身の体重をかけて両手で全力で引き抜こうとしたが、剣は嫌な金属音ひとつ立てない。兵士が顔を真っ赤にして諦めて下がると、今度は炊事場のドワーフが名乗りを上げた。彼は腰を深く落とし、靴底を泥に深く食い込ませて死に物狂いで踏ん張ったが、台座そのものを揺らすことすら叶わなかった。
「…石の台座と刀身が、最初から完全に同一の分子として一体化しているのではないか?」
見物人の一人からそんな声が上がった。
ドワーフの鍛冶師は台座と刀身の極小の隙間へ極細の金具を差し込もうと試みた。しかし金具の先端は一ミリたりとも潜り込まず、白い台座にも銀の刀身にも擦り傷ひとつ付かなかった。
立ち会っていた三枝神殿の年長の祭司が、静かにロープの前へと進み出た。
「人間の腕力や物理的な技巧によって引き抜くための剣ではないのだ、これは」
その重々しい一言によって、騒がしかった見物人たちの声が引き潮のように静まり返った。
あの神からの夢の神託が三つの種族をひとつに束ねてから、今年で二十七年が過ぎていた。その聖なる世界樹のすぐ目と鼻の先に、土を掘り返した形跡すら一切残さず突如として現れた神秘の剣。「創世の神が、自らの意に叶う『真の勇者』を待つためにこの地に遣わされた聖剣なのだ」と捉える者が出始めるまで、時間はまったくかからなかったのだ。
スクリバは、その宗教的な解釈を記録板の端に小さな文字でメモした。もちろん、客観的な事実を記載する欄とは明確に一段の空白を空けて。
人垣の外から「一体どんな英雄なら抜けるんだ!?」と興奮気味な声が上がり、夜番がチラチラと未練がましそうに柄を見つめた。だが祭司が兵士たちに指示してロープの範囲をさらに広げさせたため、二度目の力試しをする機会は永遠に失われた。
スクリバがその刀身に刻まれた「謎の文字」の存在に気づいたのは、ドワーフの鍛冶師が日光を遮るための日除けの布を張らせた後のことだった。
直射日光の眩しい反射が遮られると、銀色の刀身の中央に、極細の溝が整然と並んでいるのがハッキリと浮かび上がってきたのだ。刀身の傷にしては深さや幅があまりにも均一で、刃に近づくことも背に逃げることもなく、柄の根元から切っ先に向かって美しい一列となって収まっていた。
「装飾模様などではないな」
エルフの書記リテラが、膝を折ってロープのすぐ脇に屈み込んだ。早朝の定時巡回を終え、弓の代わりに羊皮紙の文字見本の束を抱えて戻ってきていたのだ。
「…リテラ殿、これは文字ですか?」
「おそらく。ひとつひとつの記号の間に、意図的なわずかな間隔が存在する」
そこには、全部で「十一」の記号が整然と刻み込まれていた。
『名前を入力してください』
スクリバには、その十一の記号のどれひとつとして読むことができなかった。
トゥリエの人間たちが日常的に使う文字でもなければ、エルフたちが古代の神聖な歌を書き残す繊細な文字でもない。ドワーフの石刻文字は直線と鋭角を多く用いるが、この剣に刻まれた文字には、途中で優美に折れ曲がり、円を描いて戻り、最後に繊細に払われた極めて高度な線描が混ざり合っていた。東方の魔族たちとの外交文書に押される不気味な部族印とも、似ても似つかない形状だった。
リテラは文字見本を地面に広げ、古代から現代に至るあらゆる既知の書体と順番に見比べ始めた。炊事場のドワーフは反対側に回り込み、頭を傾げて「上下を逆に読むものではないか」と持論を述べた。しかし角度を変えてみたところで、誰の知る言語にも該当しなかった。
「スクリバ、これを羊皮紙に完全に書き写せるか?」
年長の祭司が尋ねてきた。
「お時間をしっかりいただければ」
「…その意味まで解読できるか?」
「『正確に写し取ること』と『意味を解読すること』は、全く別の作業です」
スクリバは記録所から、正確な格子状の升目を薄く引いた高品質な羊皮紙と、極細のイタチ毛の筆を持ってこさせた。剣の刀身に直接紙を押し当てて魚拓のように拓本を取れば一瞬で済む話だったが、誰もまだこの聖なる刀身に直接何かを触れさせてよいか判断がつかなかったのだ。彼は台座の横に低い作業椅子を置き、文字の高さを細い糸で慎重に測定し始めた。
最初の文字(名)は、上半分と下半分で構造が大きく異なる複雑な形状をしていた。二つ目の文字(前)には四角く囲まれた構造が存在し、三つ目の文字(を)は流れるような曲線に小さな点が添えられている。自分の見慣れた既知の文字へと無意識に似せてしまわないよう、線と線が交差する位置を升目の座標の数値として厳密に確認しながら筆を進めた。
昼過ぎになる頃には、集まってきた見物人たちを遠ざけるための頑丈な木柵が周囲に建設されていた。見習いの給仕が温かいスープの碗を運んできてくれたが、スクリバは筆を止めることはなかった。湯気が消え、豆と麦のスープの表面に薄い膜が張ってから、ようやく匙で二口だけ口に含んだ。
最初の一枚目を書き終えると、リテラが原文の刀身と写しの紙を交互に見比べた。
「スクリバ、この六番目の文字(し)の曲線は、もう少し下まで伸びているように見えるぞ」
「日除けの布の位置を少し動かしてください」
布の位置をずらすと、刀身を走る光の屈折も移動した。文字の線の終わりだと思っていた箇所がただの影だったと判明し、スクリバは一枚目の紙を潔く脇に置いた。ナイフで表面を削って修正すれば紙は再利用できるが、後から「どこをどう誤って修正したのか」というプロセスが分からなくなってしまうからだ。
二枚目の完璧な清書が完成するまでに、丸一日が費やされた。
十一の文字をすべて寸分漏らさず書き終えた時、スクリバは一度だけ作業椅子から立ち上がった。目を瞑る代わりに巨大な世界樹の幹を見上げ、樹皮の複雑な割れ目を端から端まで目で追っていく。近くの極小の物体を凝視し続けた目を休める際、彼はいつもそうしていたのだ。
自席に戻り、原文の銘文と写しの紙を一画一画、狂いがないか入念に照合する。リテラにも反対側からトリプルチェックしてもらい、二人の指摘する指が同じ箇所で一切止まらないことを確認して、ようやく筆を置いた。
「これが、創世の神が直接地上に残された『御言葉』なのですね」
後ろで見守っていた若い祭司が、感極まった声で呟いた。
しかし、年長の祭司は完成した写しの紙をすぐには受け取ろうとはしなかった。
「これまでの神託は、すべて愚かな人間の夢の中に降り、人間の拙い口を通して伝えられてきた。誰かが聞き間違え、己に都合よく解釈を折り曲げていたとしても、我々にはそれを確かめる術がなかったのだ」
老祭司は、静寂の中に佇む聖剣を見つめた。
「…だがこれは、人間の穢れた口を一切通っていない」
文字の真の意味を読むことは、今の誰にもできない。それでも、この剣と台座が人間の浅はかな手によって設置された痕跡は一切存在せず、世界のあらゆる民族の文字とも異なっている。祭司たちは、この十一の文字を――《創世の神が地上へ直接残された最初の原文》と定義することにした。
スクリバは、その宗教的な名称も、事実を記載する欄とは明確に一段の空白を空けて記録した。
完成した正本の羊皮紙を木板に固定し、リテラと記録所の書記が、その左右で一部ずつ慎重に複写を作成した。今度は刀身の光を追う必要がなく、升目の座標ごとに線の位置を正確に移していくだけで済む。日が暮れる前に完璧な三部が揃い、一部は三枝神殿の最奥へ納められ、一部は最高指揮所から本国のトゥリエへと送られた。そして残る一部は、西方記録所の最も頑丈な石箱の奥深くへと収められることになった。
「清書の段階では、見栄えが良く整うように線を綺麗に打ち直した方が良いのではないでしょうか?」
若い祭司が、失敗した一枚目と完成した二枚目を見比べながら提案した。見慣れない未知の文字は、線の長さも曲がり具合も意図的にアンバランスに見えたのだ。毛筆で高貴に書き写すのであれば、美しく補正したくなる箇所は幾つも存在した。
「整って見えないのは、単に私たちがこの文字の正しい『読み方』を知らないからに過ぎません」
スクリバは二枚目の完璧な写しを木板へ固く固定した。
「意味もなく長く引き伸ばされたように見える一本の線にも、そう書かれなければならない絶対の理由があるものとして、ありのままを寸分違わず書き写します」
若い祭司はそれ以上反論せず、清書用の最高級の羊皮紙を黙って追加で差し出したのだった。
聖剣は一微動だに抜けないまま、世界樹の北側の静けさの中に遺された。夜間の警戒警備には新たに二人の精鋭が加わり、台座の周囲を囲む木柵には三つの種族の紋章が固く刻み込まれた。噂を聞きつけて遠方から見物に訪れた者たちの中には、ロープの外側からひざまずいて祈りを捧げる者もいた。しかし、第一発見者であるあの夜番だけは、自分の巡回記録板に残されたあの恥ずかしい巨大な殴り書きを気にして、「何とか書き直してくれないか」と記録所へ何度も懇願しにやってきた。
スクリバは、訂正した『発見ス』の文字を絶対に消さなかった。
その夜、彼は今回の一連の調査記録を一冊の分厚い帳面へと丁寧にまとめた。聖剣が発見された正確な時刻、台座の位置測定値、剣を動かせなかった者たちの具体的な試行内容、そして刀身の文字を写し取った精確なプロセスまでを事細かに記し、最後に帳面の末尾にふたつの項目欄を残した。
《剣の由来》の欄には、三枝神殿の公式見解として『創世の神が、未だ現れぬ真の担い手(勇者)のためにこの地に遺し賜うた聖剣』と記した。
そして――《名称》の欄はあえて完全に空白のまま残し、その下の大きな記録枠の中に、あの十一の聖なる文字を、もう一度正確に書き写したのだった。