神話ができるまでの千年と30日 作:想像神
プレイ7日目 幻想歴百七年――トゥリエ
プレイ7日目
七日目は、目覚まし時計をかけずにゆっくりと起きた。
時計を見るとすでに午前九時を少し過ぎている。平日ならとっくに家を出て通勤電車に揺られている時間だが、今日は急ぐ用事もない休日だ。ミロへ餌を出し、淹れたてのコーヒーを入れたマグカップをデスクに置いてから、パソコンの電源を入れた。
「…あの剣、誰か引き抜けたかな」
昨日置いたばかりの聖剣なので、少しくらい進展があるかもしれない。
《世界ミロは幻想歴107年を迎えました》
《干渉力:100/100》
「三十四年も経ってれば、流石に誰かしら抜いてるだろ」
カメラを神天地へ移動させ、世界樹の北側に配置したあの剣の周辺を選択してみる。
《名前を入力してください》
《現在の適合者:なし》
「抜かれてないんかい!」
見れば、剣の周囲には立派な屋根つきの建造物が建設され、何人もの住民たちが絶え間なく出入りしていた。建物の外側には長い行列までできている。ズームすれば住民たちが何をしているのか分かりそうだったが、システム上「適合者なし」と出ている以上、誰一人引き抜けてはいないのだろう。
その建物をクリックしてみると、《待剣堂》という威厳のある施設名が表示された。訪問者たちの目的欄には「礼拝」「見学」「抜剣挑戦」とある。データによれば今日だけでも二十人もの猛者たちが柄を握り、全員が虚しく失敗に終わったらしい。
「みんな結構果敢にチャレンジしてんだな……」
剣を引き抜けなかったことで世間の評判を落とした哀れな者もいれば、行列の脇では《抜剣成就の飾り紐》なんて商たくましいお守りを売る露店まで商売を始めていた。聖剣そのものは一微動だにせず、台座の耐久値も一切減っていなかった。
俺は画面を切り替え、初日に雨を降らせてやったあの懐かしい村の様子を見に行くことにした。
マップ一覧から《トゥリエ村》を選択する。村という名前自体は変わっていないものの、視点がぐーっと下りていった先に広がっていたのは、もはや木組みの柵だけではとても囲いきれない巨大な都市だった。
《人口:6,821》
《構成:人間、エルフ、ドワーフ》
《所属勢力:トゥリエ共同領》
「いや、もう村のスケールじゃないだろこれ」
街の中心部にある古い井戸の周りにだけ、初日に見たあのちっぽけな広場の面影が残っていた。その外側には賑やかな市場や無数の工房が立ち並び、川を越えた遥か先までびっしりと家々が連なっている。エルフたちの居住区は立派な大木を傷つけないよう配慮して建物が並び、ドワーフの工房区からは煙突のような穴が幾つも空へ向かって伸びていた。
中央の井戸を選択すると、《最古建築として保存》と表示された。日常の水汲みには新設された別の井戸が使われており、始まりの井戸は厳重な柵で大切に囲われている。初日に人口四十三人しかいなかった頃の建物は、いまやほとんど歴史のログの中にしか残っていないらしい。
集落の歴史ログを古い順にさかのぼってスクロールしてみたが、知っている住民の名前は一人も残っていなかった。百一年も経っているのだから当然だ。代わりに《最初の降雨》《三種族の定住》《神天地街道の開通》という歴史的イベントがずらりと並び、そのたびに人口グラフの線がドカンと跳ね上がっていた。
「あのときの小さな村が、ここまでデカくなったのか…」
しみじみと画面を眺めていると、画面の上にポロンと金色の実績通知が出た。
《実績“ひとつの町、異なる隣人”を解除しました》
《3種族以上が、1つの勢力で人口1,000人を超えました》
《新たな資源“建築用石材”と“結界石”が解放されました》
《新たな施設“観測門”が解放されました》
「おお、ちょうど欲しかったやつが来たな」
都市のステータス表示を確認すると、黄色い注意マークの付いた項目がいくつか並んでいた。その中で特に数値が低いのが「防衛力」だった。人口が増えすぎたせいで木組みの柵を継ぎ足し続けているらしく、町の北側では民家のすぐ後ろに外壁が迫っている。建設予定リストには《外周防壁》と《北門》が入っていたが、どちらも深刻な「石材不足」で工事が完全にストップしていた。
新しく解放された資源配置メニューを開く。
「建築用石材」は、道路や建造物の基礎に使える標準的な灰色の石で、配置量を小・中・大の三段階から選べるようになっていた。「結界石」は魔力を帯びやすく、防壁の防護属性を底上げするのに向いているらしい。
せっかく大きくなった都市のすぐ真隣に、いきなり巨大な岩山を置くのも景観的に不自然だ。俺は町の北西に位置する小高い丘を選択し、建築用石材を《大》の規模でドロップした。
《消費干渉力:30》
《干渉力:70/100》
続けて、その石層の端っこに結界石を《中》の規模で重ねて配置する。
《消費干渉力:20》
《干渉力:50/100》
《全回復まで:8時間20分》
《周辺の地質へ資源を反映します》
画面の中の丘の色合いがわずかに濃くなり、茂る草の隙間からゴツゴツした灰色の岩肌が顔を出した。派手なエフェクトや地鳴りなどは一切ない。引いたカメラで見れば、まるで最初からそういう地層の丘だったかのように自然に馴染んでいる。
「よし、これで頑丈な壁でも立派な城でも、好きなのを建ててくれ」
ゲームの時間を少し早送りしてみると、丘のすぐそばを通りかかった荷車がピタリと足を止めた。御者が荷台から飛び降りて露出し岩肌に駆け寄り、手にした木棒で何度かコンコンと叩いている。そのうち街道の反対側からも人々が集まり始め、町へ向かって猛ダッシュで引き返していく住民の頭上に《資源発見》の小さなアイコンが点滅した。
《トゥリエ共同領が“大規模石材層”を発見しました》
《国家形成の進行度が上昇しました》
「へえ、ついに国になるのか」
進行度の表示をクリックしてみたが、《評議中》としか表示されない。正式な結果が出るまでには、世界時間でしばらくかかりそうだ。
余っている干渉力を使って、もう一つの新解放項目も試してみることにした。
《観測門》
《周辺地域の地図情報と出来事を、離れた場所から観測できます》
マップ全体を限界まで引いてみると、アインリトのさらに遥か東側に、未だ漆黒のモヤに包まれたままの広大な荒野が残っていた。既存の集落からも街道からも完全に隔離された未開の地だ。今すぐ何か面白いイベントが起きるかは分からないが、置くなら生活圏の邪魔にならない場所がいい。
ゴツゴツした岩場の広がる未開の平地に、半透明の門のモデルを重ね合わせる。デザインは、古代の石柱を二本立てて、その上を円形の石の輪でつないだだけのシンプルな造りだった。
《消費干渉力:20》
決定ボタンを押す直前、またしてもあの横長のテキスト入力欄がポップアップした。
《名前を入力してください》
「…観測門にまでいちいち名前が必要なのか?」
聖剣ならまだしも、単なるマップ開拓用の観察施設だ。どうせ俺以外のゲーム内キャラが施設名を直接読むわけでもないだろうと高を括り、デフォルトのまま「確定」を押した。
《観測門を配置しました》
《干渉力:30/100》
《全回復まで:11時間40分》
《名前を入力してください》
「あ、また『名前を入力してください』になっちゃった」
東の荒野に重厚な石門がドカンと現れ、その周囲だけマップの黒いモヤがすーっと薄くなった。門の頂点には小さな石の名称板が設置されている。カメラで限界まで拡大してみると、やはり昨日の聖剣とまったく同じ日本語が精細に刻み込まれていた。
「…まあ、聖剣とお揃いってことでいいか」
ひと区切りついたので、俺はゲームを自動進行モードに戻し、温かいコーヒーを淹れ直すために席を立った。
幻想歴百七年――トゥリエ
初代の「王」を戴くために招集されたはずの歴史的会議で、レグスは終始、老朽化した北門の惨めな修理費用について怒鳴り合っていた。
不眠不休の議論は、今日でついに四日目を迎えていた。
初日に用意された豪勢な果物はとっくに平らげられ、円卓の中央にはカチカチに乾燥したパンのクズと、削り取りや修正の墨跡だらけになった一枚の盟約書だけが寂しく残されていた。羊皮紙の上に刻まれた『王』という高貴な文字はすでに三度書かれ、その都度、血の滲むような議論によって容赦なく二重線で削り消されていた。レグス自身の手で打ち消した線も、その中にひとつ混ざっている。
レグスは、黄金の王冠が欲しくてこの欲望渦巻く席に座ったわけではなかった。人間側の最高評議会において、異なる種族や党派の過激な意見に耳を傾けつつ、感情的に声を荒らげることなく冷静な着地点を見出せる人物が、他にいなかったからに過ぎない。彼は六年前から三種族合同会議の議長を任され、井戸の夜間使用時間、荷車の通行税率、夜間警備の持ち場といった泥臭い利害対立を、ひとつひとつ粘り強く解きほぐしてきたのだ。
しかし、意見を聴取すべき対象も、正式な判を捺してもらわなければならない各種ギルドの数も、六年前とは比べものにならないほど膨れ上がっていた。井戸の使用時間の調整程度であれば半日の議論で決着がついたが、「町全体を囲い込む巨大な外壁」となれば、三つの自治区から全く異なる設計図面が提出されて泥沼化するのだ。
「現在の木組みの柵にこれ以上の丸太を継ぎ足したところで、あと三年持ちこたえられるかどうかです!」
レグスは卓上に広げたトゥリエの詳細図面を、指先で強く叩いた。トゥリエの北側エリアでは、かつて外壁だった古い柵の外側に溢れ出した民家が立ち並び、その周りを囲むように新しい柵が何重にも継ぎ足され続けていた。古い門を残したまま道幅だけを強引に拡張したため、大型の交易荷車が通りかかるたびに、守備兵が手作業で片側の門扉を取り外すという滑稽な事態に陥っていたのだ。
「だからこそ、頑丈な『石の防壁』が不可欠だという話は、もう嫌というほど聞かされたよ」
対面に座るドワーフ工房区の最高代表メゾルは、すっかり冷め切ったお茶を一口だけすすり、苦虫を噛み潰したような顔で素焼きの杯を置いた。
「だが石がねえんだよ、石が! 近くの川から拾ってくる丸石は表面がツルツルしていて加工しにくく、積んでもすぐ崩れる。かと言って南の遠い採石場から切り出して運ばせるとなれば、石の重みで壁を作る前に街道が全滅しちまう」
「…ならば、私たちの結論は最初から何ひとつ変わりませんね」
エルフ森区の長老代表であるシルヴェが、図面の端に置かれていた重厚な木札をすっと元の位置へ戻した。
「北門は今年も木材で補修する。一人の『王』を擁立するか否かの議題は、その作業が終わった後にゆっくりと考えましょう」
ドワーフのメゾルが力任せに卓をドカンと叩いた。
「その『後で』をダラダラと六年引き延ばした結果が、あの不格好に三重に重なった歪な柵だろうが!」
会議室の窓から見下ろせる町の北側には、メゾルの言葉通り、高さも丸太の太さもバラバラな不揃いの柵が何列も無様に並んでいた。どれが町全体を守るための本外壁で、どれが昔の家畜小屋の囲いだったのか、遠目からでは専門家でも区別がつかない有様だった。
トゥリエの街に、人間以外の異種族が正式に定住し始めてから、今年で半世紀近くが過ぎようとしていた。
かつて世界樹の西側で結ばれたあの伝説的な《三枝の誓い》により、人間、エルフ、ドワーフの三種族は街道と水場を全面的に共有するようになった。聖なる神天地へと向かう大交易ルートの要衝となったここトゥリエにも、技術の高い工房を構えるドワーフや、貴重な薬草と木材取引を仕切るエルフたちが続々と移住してきたのだ。
住民の数がまだ少なかった時代であれば、三つの自治区がそれぞれの独自の法律やルールを運用していても特に問題は起きなかった。しかし今や、たった一本の街道に三種類の異なる荷車税が課せられ、街で火事が発生すれば三人の責任者がそれぞれの井戸の鍵を抱えて権利を主張し合う。果ては街の外から野生の魔物が押し寄せてきた際、「一体誰の警告鐘を真っ先に鳴らすべきか」で深刻な揉め事に発展したことすらあった。
前年の過酷な冬の夜、北の深い森から巨大な「岩角猪」の群れが街の柵へ向かって突進してきたことがあった。人間の警備隊は鐘を二度、エルフの森区は角笛を長く一度、ドワーフの工房区は鉄板を連続で叩くという避難ルールになっていたため、街中に三種類の不協和音が同時に響き渡る大混乱となった。人間の守備隊は慌てて北門へ集結し、エルフの弓兵は住民を安全な南へ避難させ、ドワーフの戦士たちは工房区の頑丈な門を完全に閉ざして籠城したのだった。
三つの部隊がそれぞれの正しいルールに従って完璧に動いた結果――手薄になった古い柵を猪の群れがあっさりと打ち破り、街の貴重な冬越し用のカブ畑の半分が荒らされて食い散らかされた。奇跡的に死傷者こそ出なかったものの、その日の夜から三つの自治区は「自分たちだけが完璧に正しく行動した」「他の二つが足を引っ張った」とお互いを激しく非難し合ったのだ。
四日前、人間区の最高評議会、森区の長老会、工房区のギルド組合は、全種族に適用される『共通の法律』と『統一守備隊』を設立するために、満を持して代表者をこの場へ送り込んできたのだった。そこまでは三者とも満場一致で賛成していた。……最大の対立点は、その最高頂点に「一人の絶対的な王」を置くか否かだった。
トゥリエにおける人口の絶対多数は人間であり、レグスは人間側の代表を長年務めてきた実力者だ。そのため当然のように彼が「初代トゥリエ王」の筆頭候補として名を与えられたのだが、エルフのシルヴェが頑なに警戒する理由も、レグスには痛いほど理解できていた。人間の街で、人間の血を引く王が即位してしまえば、今日どれほど崇高で平等な盟約を交わしたところで、百年後の人間の王が同じように異種族を尊重してくれる保証などどこにもないからだ。
「一人の王を置かなければ、緊急時の命令系統が永遠に三つに分裂したままだぞ!」
ドワーフのメゾルが吠えた。
「一人の王を置けば、その命令を下す権力を握るのは常に人間になるではないですか!」
エルフのシルヴェも譲らない。
両者の言い分にレグスが口を挟もうとしたその瞬間、重厚な会議室の扉が「バンッ!」と音を立てて豪快に開け放たれた。
泥と汗に塗れた布包みを大切に抱えた一人の伝令兵が、肩で息を切りながら立っていた。息を整えるよりも早く卓の前へとつかつかと進み出ると、その包みを卓上に勢いよく広げてみせた。
中から転がり出てきたのは、大人の頭ほどもあるずっしりと重い灰色の岩塊だった。
「北西の丘で発見されました! 地面にむき出しになっていた場所を掘り返してみたところ、地下の地層がすべてこれだったのです!」
メゾルが勢いよく椅子を引いて立ち上がり、その岩へ顔を近づけた。腰から持参の小槌をサッと抜き取ると、表面をコツンと叩いて注意深く耳をすませた。続いて岩の縁に鋭い鑿(ノミ)をあてがうと、薄い岩の欠片が一枚、まるで紙を裁断したかのように真っ直ぐ綺麗に割れ落ちた。
「目が恐ろしく詰まっている! 切り出しやすく、しかも破格に頑丈な最上級の石材だ!」
「街の壁に使えますか!?」
「壁どころか! 百年経ってもびくともしねえ立派な城門が建てられるぞ!」
伝令兵は、さらにもうひとつ小さな布包みを卓上に置いた。中には、黒に近い深い青色に輝く不思議な石が三つ入っていた。
「あの灰色の石層のさらに奥深くから、こちらも大量に出土いたしました!」
エルフのシルヴェが、その青い石へそっと指先を近づけた。直接触れるよりも早く、石の表面に繊細で美しい光の文様がサーッと浮かび上がった。彼女が短い解読の呪文を唱えると、光の文様は生き物のように枝分かれし、卓上にうっすらとした幻想的な光の輪を描き出した。
「素晴らしい魔力伝導率です。街の防衛結界の杭に組み込めば、現在の術者の数だけでも街全体を完璧な結界で覆い尽くせます!」
レグスは、北西の丘の情景を思い浮かべた。先月、狩人たちが兎を追って何度も足を踏み入れた場所であり、岩肌が剥き出しになっているという報告など一度も上がっていなかった。採石場を必死で探していたドワーフの専門調査隊だって、先週までに二度もあの丘を通過しているはずなのだ。
「…一体いつから、あんな地層があそこに存在していたんだ?」
「わかりません! 今朝、荷車の車軸を直すために街道を少し外れた御者が、たまたま発見したのです!」
メゾルは石の欠片を窓からの光にかざし、感嘆の溜息をついた。
「これほど見事な石材層を二度も見落とすほど、うちの採石師どもの目は腐っちゃいねえ。……まるで、天からいきなり降って湧いたみたいだ」
レグスは、ずっと揉め続けていた盟約書を静かに閉じた。
「最高幹部全員で、すぐに現場を視察しましょう」
シルヴェは「また議論を先延ばしにするおつもりですか」と問い詰めたが、レグスは静かに首を横に振った。これから自分たちの国家の基礎となる運命の石なのだとするならば、薄暗い会議室の卓上に乗るちっぽけな欠片だけで全てを決めたくはなかったのだ。ドワーフのメゾルも、その提案には珍しく大賛成だった。
最高幹部4人は伝令の案内のもと、すぐさま北西の丘へと向かった。
街の門を出た頃には、「北西の丘で夢のような石材が発見された」という噂が街中に広まり切っていた。丘へ続く街道は荷車や興奮した見物人たちで埋め尽くされ、警備の守備兵たちが必死で両側に押し戻していた。現場に到着すると、鮮やかな灰色の岩肌が緑の草地の途中から斜めに豪快に突出し、そのまま丘の奥深くへと地層となって続いていた。
メゾルの工房から駆けつけた熟練の採石師たちは、すでにロープを張り巡らせて石脈の方向を精密に測定し始めていた。少し離れた場所では、エルフの術者が青い結界石の反応を確かめるため、細い木の枝を一定間隔で地面に突き立てていた。
人間の荷運び人たちは、掘り出された重い石を街へ運ぶため斜面の草を必死で刈り取っていたが、採石師から「そんな急勾配じゃ一台目で荷車の車軸が叩き折れるぞ!」と怒鳴られ、慌てて新しい道を切り開き直していた。しかし新しく選んだルートの先にはエルフ術者の枝が並んでおり、今度は「聖なる結界石の脈を踏みつけるな!」と追い払われていた。
「…あの暗い会議室で怒鳴り合っているより、こちらの方が遥かに建設的ですね」
シルヴェがぽつりと呟いた。
メゾルは返事をせず、むき出しになった巨大な石層へ直接両手を叩きつけた。欠片ではなく丘全体の命脈を自分の肌で確かめてから、採石師たちへ石の切り出し角度と、最初に建設すべき作業道路のルートを的確に指示していった。
青い結界石は、灰色の広大な層を横切るように細く鮮やかに伸びていた。シルヴェが地面に立てた枝へ魔力を注ぎ込むと、遥か離れた三本の枝が順々に美しく発光した。街の外周に一定間隔でこの石を埋め込めば、結界の術式を次の杭まで完璧に伝導できるという。
レグスは丘の頂から、眼下に広がるトゥリエの街を見下ろした。何重にも継ぎ足された不格好な柵の内側に、人間区の赤い屋根、森区の高い木々、工房区の煙突の煙が混ざり合っていた。街の境界線は地上にいれば明確だったが、こうして高い場所から見下ろすと、どこの道がどこの自治区へ入っているのかなど判別がつかなかった。
「この奇跡の石は、一体誰のものになるのですか?」
案内した伝令兵が、ふと尋ねてきた。
レグスはすぐには答えず、シルヴェとメゾルを見つめた。人間区に最も近い丘なのだから「人間のものだ」と強弁してしまえば話は早かった。しかし斜面では三つの自治区からやってきた住民たちが泥だらけになって交ざり合って作業を進めており、切り出した石を街へ運ぶための道路は、どの自治区も避けて通ることは不可能な構造になっていたのだ。
再び会議室へ戻るまで、誰ひとりとしてその石の所有権を主張しようとはしなかった。
会議室の隅で待機していた三枝神殿の老祭司が、灰色の石と青い石を交互に愛おしそうに見つめた。
「…三つの枝が、ひとつの大樹(国)となろうと模索している歴史的な朝です」
「まだ、国になったわけではありません」
シルヴェが即座に言葉を挟んだ。
「だからこそ、創世の神が我々に『選べ』と示されたのかもしれません」
老祭司は断定しなかった。円卓の上には、三つの代表印を押すために用意されたあの虚しい盟約書が広がっている。その横には、メゾルが割った灰色の石と、シルヴェの魔力に応えた青い石が誇らしげに並んでいた。灰色の石の断面には作業の跡が残り、青い石はシルヴェが指を近づけるたびに淡く青く輝く。図面に新しく引き直された採石道路は、三つの自治区をすべて跨ぐようにして北門へと伸びていた。
レグスは、卓上の図面へ灰色の石の欠片を静かに置いた。……ちょうど、崩れかけていたあの惨めな北門の真上に重なるように。
「これで、頑丈な壁が作れます」
メゾルが力強く頷いた。
「完璧な結界も張れます」
シルヴェも青い石を手元に残したまま、はっきりと答えた。
「ならば、残された問題はただひとつ。『誰の街を守るための壁にするか』です」
レグスは二人をまっすぐに見つめた。
「人間だけの街を囲い、森区と工房区を壁の外に置き去りにする壁であるならば、私は絶対に王にはなりません。……三つの自治区をひとつの対等な街として囲い込む壁であるならば、私は喜んで王冠を受けます」
最初に図面へと手を伸ばしたのは、ドワーフのメゾルだった。古い不格好な柵に沿って置かれていた木札を乱暴にはじき飛ばすと、自分の工房区のさらに外側へ、力強い新しい防壁の線を引いた。シルヴェはしばらくその線を見つめた後、森区で最も古い聖なる大樹の手前だけ、壁のラインを内側へと優しく曲げた。
「この大樹だけは、絶対に切らせません」
「だったら、そこに立派な門を作ればいいだけの話だ」
メゾルは線の途中に、太い門の印をひとつ描き足した。
それから日が沈むまで、「王の具体的な権限」について激しい議論が交わされた。
三種族共通の軍事守備隊、街道の管理権、そして全エリア共通の市場法だけを王へ全面的に委任する。森区と工房区の内部における独自の伝統や決まりはそのまま尊重し、新しい課税と兵の徴用には必ず三つの代表印を必要とする。そして次の王の選出も、三者の完全な承認なしには行えない――。
そこまで決定した後、乱立していた三種類の荷車税をひとつに統合する具体的な税率の計算だけで、さらにたっぷり小一時間が費やされた。
そして最後に、この新しき国家の名称が決定された。
――『トゥリエル王国』――
レグスの著名の横に、シルヴェとメゾルがそれぞれの種族の代表印を固く捺した。その三つの印を包み込むようにして、老祭司が世界樹の枝をかたどった神殿印を重々しく押印した。
北西の丘から巨大な石を運ぶための専用道路が完成し、記念すべき最初の防壁用石材が街へと運び込まれるまでには、それから丸一ヶ月がかかった。
歴史的な戴冠式は、その最初の壁石を北門の基礎へと据え付ける記念すべき日に合わせて執り行われた。
早朝から中央広場へ集まった膨大な人々の中には、人間だけでなく、森区のエルフや工房区のドワーフたちも大勢交ざり合っていた。かつて三つの自治区で別々に掲げられていた異なる旗は、新しく作られた誇り高き『トゥリエル王国旗』の下にひとつに並べられていた。
初代国王となったレグスは広場の中央に誇り高く立ち、祭司たちがうやうやしく運んでくる一箱の木箱を静かに待った。
その木箱は王冠を収めるにはあまりにも小さく、蓋を開けると、何重にも重ねられた上質な布の中に――古いひとつの陶器の杯が大切に収められていた。
フチの片側が少しだけ欠け、そこから底に向かって極細のヒビが伸びている。表面の釉薬はところどころ剥げ落ちており、王国の神聖な祭具というよりは、長年庶民の家庭で使い古された庶民の道具に見えた。
レグスは幼い頃、祭りの日に遠くからこの伝説の杯を見上げたことがあった。その時は大人たちの頭越しだったため、両手で抱えるほど巨大な聖杯なのだと思い込んでいた。しかし今目の前にある実物は、大人の片手でもすっぽり包み込めてしまえそうなほどの慎ましさしかなかった。
「…これが、あの伝説の『プレアの杯』ですか?」
「左様でございます。お持ち上げになる際は、必ず底へ優しく手を添えてください」
祭司の横に控えていた祭具番が、布の位置を丁寧に整えた。どれほど壮大な神話の始まりに使われた聖物であっても、その取り扱い自体は古い陶器と何ら変わりないらしい。
100年以上も昔、干魃の苦しみに喘ぐここトゥリエの地に、最初の恵みの雨を受け止めたと伝えられる少女の杯。神殿で代々の布を替えながら大切に保管され、大掛かりな盟約や建国の儀式においてのみ、聖水を満たされてきた至高の存在だ。
老祭司は杯を高く掲げるような大げさな振る舞いはせず、箱に収めた状態のまま広場に集まった民衆へと静かに向けた。
「三つの枝が同じ聖なる土へ根を下ろしたことを、創世の神は『大いなる石』をもって祝福し認められた。我らはその奇跡をこのように受け止めます」
「…王よ、手を」
祭司に促され、レグスは両手を前へ静かに差し出した。
杯には、トゥリエのあの最古の共同井戸から汲み上げられた冷たい聖水が入っていた。老祭司は欠けたフチの箇所をそっと避けて杯を傾け、レグスの指先へと聖水を少しずつ注ぎかけた。冷涼な水が手のひらを伝い、式服の袖口へと静かに染み込んでいく。
老祭司は空になった杯を布の中へ優しく戻すと、今度は美しい金属の輪で作られた王冠を持ち上げた。正面には、三本の枝が互いに交差する王国の紋章が誇らしく刻まれていた。
レグスは、先ほど聖水で清めたばかりの手で王国の盟約書へと触れた。
「この固き壁の内に住まう者を、種族のいかんによって外へ弾き出すことは絶対にしない。三つの評議会とともに定めた法を固く遵守し、私の後に立つ歴代の王にもこれを必ず守らせることを、創世の神に誓う」
誓いの言葉が朗々と響き渡ると、重厚な王冠が彼の頭上へと静かに戴かれた。
広場全体から割れんばかりの嵐のような歓声が巻き起こり、その大歓声は北門の外で石を黙々と削っていた職人たちの元へまで届いた。ドワーフのメゾルは式の途中で現場へと戻って指示出しを開始しており、エルフのシルヴェも結界石を埋め込む正確な配置を確かめるために現場へ向かっていた。
王冠を戴いた初代国王レグスは、そのまま静かに北門の現場へと歩みを進めた。豪華な式服の裾を泥で汚すのも構わず、三つの種族の職人たちが力を合わせて支える記念すべき『最初の壁石』へ、王国の紋章を力強く打ち刻んだのだった。
新しき王のための輝かしい宮殿を一体どこに建設すべきかは、まだ誰も決めてはいなかった。