京都高専の廊下は、木の匂いがした。
軋む板張りの先、渡り廊下の手すりと柱の間に、深緑の髪をショートカットにした少女が、膝を抱えるようにして腰かけていた。
俺のもう一人の妹、禪院真依だ。
庭に目をやったまま、何かを考え込んでいるらしい。声をかける前に、少しだけ足が止まった。
「やっと来たの? ちょっと遅いんじゃない?」
こちらを見もせずに、真依が言った。
「ごめん。新幹線が遅れてさ」
その一言で、強張っていた肩が少しだけ下りた。眉間の皺がほどけて、息をつくのが見えた。
「……まぁ、別にお兄ちゃんなんか待ってないけど」
「はいはい。そうですか…」
「てか、そもそもなんでアンタが引率なのよ」
「歌姫先生に頼まれてさ」
「歌姫先生が?」
「『宗介は真依たちの面倒を見てたんだから、年頃の女の子の扱いには慣れてるでしょ』だってさ」
「何よそれ」
「まぁ、あとは、真依が中学の頃から俺の任務についてきてたから、連携が取りやすいっていうのもあるんじゃないかな」
「ついて行ったんじゃなくて、アンタに無理矢理連れて行かれたの。そこ、間違えないで」
「ええ? でも、家族旅行も兼ねてただろ。任務の後に温泉に入ったり、旨いもの食ったりさ。結構楽しかったよな」
「……まぁ、楽しくなかったとは言わないわ」
そっぽを向いた横顔が、まんざらでもなさそうに緩んでいる。
中学生になった二人を、あの家から連れ出して、三人で暮らし始めた頃のことを思い出す。直毘人の叔父さんとは、ずいぶん交渉したものだ。二人を立派な呪術師にする、という約束で、ようやく話がついた。
呪術師として鍛えるためという目的も、確かにあった。けれどそれ以上に、あの家で不自由に過ごしてきた二人に、楽しい思い出を作ってやりたかった。任務が終われば、温泉に寄り、旨いものを食べ、時には東西のテーマパークまで足を延ばした。
真依もちゃんと楽しい思い出として記憶してくれていることが嬉しかった。
「どうかした?」
「なんでもないわ!」
食い気味に返す真依に、俺はふふっと笑った。真依は大きくため息をついた。
「あの……」
廊下の角から、控えめな声がした。真依の同級生の三輪霞と、一学年上の西宮桃だ。
珍しい青い髪をロングの姫カットにしたのが三輪で、俵のような金髪ツインテールが特徴的な少女が西宮。どちらも真依と仲が良くオフの日は3人で遊ぶことも多い。
「二人とも、その、任務の時間ですけど」
「ええ、わかってるわ」
真依は柱から腰を上げ、スカートの裾を払う。それから俺を顎で指して、二人に念を押した。
「桃も霞も、あんまりコイツをアテにしないでね? 同じ一級でも、七海さんとか冥さんとは出来が違うんだから。ちょっと術式が特殊なだけで……」
矢継ぎ早に兄を下げる言葉が続く。それを遮るように、二人が口を挟んだ。
「真依ちゃん、言い過ぎだよぉ」西宮が笑いを堪えながら言う。「そんなことないからね。頼りにしてるよ、宗介さん」
「そうだよ、真依ー。宗介さん、凄いって噂は聞いていますよ? お願いしますね?」
「どうだか」
つんと顎を上げる真依の横で、俺は苦笑して、二人に軽く頭を下げた。
***
午後一時。
4WDのハンドルを握る俺の前で、舗装の剥がれた山道が、ゆるやかに蛇行していた。目的地は、この先にある廃墟のリゾートホテルだ。
心霊スポットとして有名な場所で、肝試しに訪れた人たちが行方不明になる、というお決まりのパターン。呪霊が悪さをしているのだろう。というか、行くなよ。
等級は二級案件。今回は補助監督もいないので、完全に俺が先生役だ。まぁ、大丈夫だろう。
助手席には、ちゃっかり真依が座っていた。
「なんで呪霊って、山の中ばっかり出るのよ……。私、虫とか嫌いなんだけど。埃っぽいところも勘弁してほしいわ」
「まぁまぁ。ちゃちゃっと終わらせて、メシでも食いに行こうぜ。この辺、確か旨いしゃぶしゃぶがあったはずだ」
「しゃぶしゃぶ!」
後部座席から、三輪が身を乗り出した。
「それって、私たちも、ですか?」
「勿論」
「マジですかぁ! 私、頑張ります!」
目を輝かせる三輪の横で、西宮が頬に手を当てる。
「しゃぶしゃぶかぁ。いいよね。ああいうお店で食べるアイスとか、好きなんだぁ」
「わかる!」
思わず声が弾んだ。バックミラーの中で、西宮と目が合って、二人で小さく頷き合う。
「本当、甘いわよねアンタは」
真依が窓の外を見たまま、呆れたように言った。
「まぁ。霞には、少しくらいいい思いさせてやらないとね」
三輪の家が裕福ではないことは、真依もよく知っている。素直には言わないけれど、その一言に、同級生への気遣いが滲んでいた。
「ああ」
俺は短く答えて、アクセルを少しだけ踏み込んだ。
***
廃墟のリゾート地は、想像していたよりずっと広かった。
遊園地、ゴルフ場、プール、そして中央にそびえるホテル本館。さまざまな建物が並んでいるが、計画の途中で頓挫したのか、骨組みのまま放置されたものも多い。錆びた観覧車は片側に傾き、ひび割れたプールには枯れ葉と雨水が溜まっている。壁という壁に、地元の不良たちが残したであろう落書きが踊っていた。
バブル期の夢の残骸、といったところか。
その時、肌がちりつくような感覚が走った。
呪霊の気配だ。それも一体や二体ではない。建物の影という影に、ひしめいているのがわかる。
「なんか、数、多くないですか?」
三輪が刀の柄に手をかけたまま、声をひそめた。
「資料で読んだわ」真依が淡々と言う。「バブルが崩壊して、建設時の莫大な借金の金利が払えなくなって、運営会社が倒産したらしいの。社長はこのホテルの屋上から投身自殺。地元では有名な話だって」
「負の感情が溜まっていても、おかしくないですね……」
「それに、きっと、たくさんの人の思い出の場所でもあったんだろうな」
俺は錆びた観覧車を見上げて言った。
学校や病院のように、大勢の記憶に残る場所は、負の感情の受け皿になりやすい。呪霊が発生しやすい土地の条件だ。ここも、そういう場所なのだろう。
「ねぇ。私たちより、東堂とかメカ丸のほうが適任だったんじゃないの?」
「大丈夫。数が多いだけだよ。術式持ちはたぶんいないし、いたら俺が相手をする。安心して。それに、みんなならやれるだろ?」
「やります」三輪が即答した。「弟たちのためにも、稼がないといけないので」
「だろ?」
「それに、しゃぶしゃぶもありますし」
「せっかくいい話だったのに。台無しね」
真依が額を押さえて嘆息する。その口元が、わずかに緩んでいるのを俺は見逃さなかった。
上空から、箒に乗った西宮が舞い降りてきた。
「ただいまー。なんかうじゃうじゃ湧いてるよ。ザコはあっちの遊園地側。それで、ホテル本館に大物がいるっぽい」
「わかった。みんな、離れないで。ここは連携していこう」
四人は頷き合い、まず遊園地のゲートをくぐった。
途端、空気が一段重くなった。
メリーゴーラウンドの馬は首が折れ、ゴーカートのコースには雑草が這っている。その影から、這い出すように呪霊が湧いた。四級から三級程度の雑魚が、十、二十。
「来るよ。霞ちゃん、前!」
「はい!」
三輪が抜刀して踏み込む。居合の一閃が三体をまとめて裂いた。型は崩さず、刃を返して次の一体へ。
「桃ちゃん、上から崩して!」
「りょーかい!」
西宮の箒が風を巻き起こす。突風が呪霊の群れの体勢を崩し、そこへ真依の銃声が重なった。
乾いた音。一発、また一発。呪力を籠めた市販弾が、頭部を正確に撃ち抜いていく。
俺はその外側、群れの縁を受け持った。
「変造(へんぞう)」
(防御を下げて、速度を上げる)
数字が入れ替わる感覚。足が軽くなる。
地面を蹴った瞬間、景色が後ろに流れた。逆手のナイフが、すれ違いざまに核を断つ。一体、二体、三体。三輪の死角に回り込もうとした個体を、背後から斬り伏せる。
「は、はやい……!?」
三輪が目を見開いた。
「何が起こったんですか? 速度特化の術式…?」
「違うわよ」
銃を構えたまま、真依が答えた。
「霞は、アイツの術式を見るの初めてだったわね。あれは技の一部。そういう能力じゃないの」
「技の、一部?」
「自分の能力を配り直してるのよ。多分、今は速度を上げた分、防御を落としてる」
「??? でも、ただの技なんですよね?」
「この際だから教えるわ。アイツの術式は、兌換呪法(だかんじゅほう)っていうの。ようは等価交換をする術式よ」
「等価交換?」
「対価を払って、今ある状態Aを、望む状態Bに交換する。対価は縛りみたいなものよ。払った分の重さに比例して、効果が大きくなる。それだけ」
「それだけって……雑だなぁ。ていうか、そんな術式、聞いたことないんですけど」
「もっと凄いのもあるし、いちいち驚いてたらキリがないわよ」
納得したようなしていないような顔の三輪に、近くの呪霊を片付けた俺が、肩越しに声を投げた。
「おいおい、人の術式のことベラベラ喋りすぎだろ」
生得術式の内容を他人に明かすのは、呪術師の間ではプライバシーの侵害に近い。普通は、本人の許可なくやらないことだ。
「別にいいでしょ。背中を預ける仲間には情報を共有しておかないと。そうでしょ?」
「普通は本人がやるんだけどなぁ」
苦笑しながら、ふと思う。真依の言う「もっと凄いの」を、俺はまだ三輪の前で使ったことがない。使わずに済むなら、それが一番いい。
「はいはい。雑談は後。みんな、本館に行くよ」
西宮が手を挙げた。群れの最後の一体が崩れ、遊園地に静けさが戻る。
歩きながら、俺は真依の隣に並んだ。
「真依。弾は何発残ってる?」
「霞たちに頑張ってもらったから、まだ二発残ってるわ。それに、術式もまだ使ってない。大物に備えておいたの」
「いい判断だと思うよ」
そう言って、手を伸ばし、頭をぽんぽんと撫でる。
「ちょっと、やめてよ! バカ。嬉しくないから」
真依はぷいと顔を背けて、足を速めた。けれど、耳の先が少し赤いのを、俺は見逃さなかった。
***
ホテル本館のロビーは、外よりもさらに暗かった。
吹き抜けの天井から、割れたシャンデリアが鎖一本で垂れ下がっている。受付カウンターは崩れ、床には剥がれた絨毯の切れ端が散らばっていた。
その絨毯の端が、じゅう、と音を立てて黒く縮んでいる。
「……何これ」
真依が眉をひそめた。壁の化粧板も、柱の金属飾りも、ところどころが飴細工のようにどろりと溶け落ちている。ただの経年劣化ではない。溶け方が新しい。
「酸……か?」
俺は足元の水たまりを避けながら言った。白い煙が薄く立ちのぼっている。
「みんな、床に気をつけて。何かが撒き散らしてる」
奥の大広間から、湿った音が聞こえた。ぬちゃり、ぬちゃり、と重いものが床を這う音。
扉のない入口から、それが姿を現した。
家ほどもある、巨大なカエルのような呪霊だった。ぶよぶよの皮膚は黄緑色に濁り、顎の下の喉袋が、風船のように膨らんでは縮んでいる。開いた口の端から、粘つく液体がだらだらと垂れ、落ちた先の床が白煙を上げた。
「うわ、最悪……」
「同感」
真依の呟きに、三輪が刀を構えながら答える。
「二級の上位ってところかな。みんな、あの喉袋に注意。来るよ」
言い終わらないうちに、呪霊の喉が大きく膨らんだ。
ぶしゅっ、と吐き出されたのは、霧状に広がる胃酸の奔流だった。
「霞ちゃん、下がって!」
とっさに三輪の前に踏み込む。背後で、三輪が息を呑む気配がした。
「手違い(てちがい)」
呪力を流す。
その瞬間、目の前の光景にノイズが走った。映像が乱れるように、迫っていた酸の奔流が一瞬だけ歪み、ぶれ、そして、修正されていく。
酸は、そこになかったことになった。
俺の周囲だけ、床が溶けていない。服にも、肌にも、一滴の痕もない。背後の三輪にも、飛沫ひとつ届いていなかった。
「え……」
三輪が、ぽかんと口を開けている。
「い、今、何が……? 攻撃が、消えた……?」
「"もっと凄い奴"ってのがコレなんだ」
「へ?」
呪霊が怒ったように咆哮した。喉袋が再び膨らみ始める。
「喋ってるヒマないみたいだよ?」
「桃ちゃん、気を引いて」
「了解!」
西宮が箒で舞い上がり、広間の天井近くをかすめる。突風が巻き起こって、シャンデリアが大きく揺れ、割れたガラスの破片が降り注いだ。呪霊の無数の眼が、その動きに釣られて上を向く。
「真依、今」
「わかってる」
真依が一歩前に出た。残る二発の市販弾ではなく、握り込んだ掌の中に、一粒の弾丸が生まれる。呪力で形作られた、淡い光を帯びた閃光弾だ。構築術式で作った特別な弾。
「目、閉じてなさいよ」
引き金を引いた。
乾いた銃声と同時に、弾が呪霊の顔面の手前で炸裂した。
世界が白く染まる。
呪霊が絶叫して、のたうち回る。眼という眼が焼かれ、四方に酸を撒き散らして暴れた。
「今です!」
「ああ!」
俺は三輪と並んで駆け出した。飛んでくる酸の飛沫は、手違いで順に書き換えていく。
「霞ちゃんは、左の脚を。俺は右から」
「はい!」
三輪の居合が閃いた。迷いのない一閃が、呪霊の左前脚を断ち切る。巨体がぐらりと傾いた。
そこへ俺が、傾いた胴の下に滑り込む。
「変造」
(攻撃を上げて、防御を捨てる)
ナイフを下から振り上げ、喉袋の根元から、核のある胸の奥まで、一息に斬り裂いた。
呪霊が、喉の奥から泡を吹いて、崩れ落ちていく。
溶けた床に、静けさが戻った。
「……終わり、ですか?」
「ああ。終わりだ」
三輪が、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「ありがとうございます、宗介さん。さっきは、助けてもらって……」
「いや、霞ちゃんの一閃がなかったら、あそこまで綺麗にいかなかった。いい居合だった」
「えへへ……」
「桃ちゃんも気を引いてくれて助かったよ」
「あれくらい、当たり前だよ」
「ってか。アレ、マジでなんなんですか? 」
「ああ。アレ? 手違いって言って、敵の攻撃を無効化するんだ。さっきは呪霊が吐いた酸を霞ちゃんに当たらなかったことした。そういう結果に書き換えたんだ」
「書き換える? そ、そんなのアリなんですか」
ちょっと引いている三輪
「こいつには"ソレ"ができるのよ。まぁ、意味はわからないけどね」
「私も初めて見たときは驚いたなぁ…もう見慣れちゃったけど」
「でも、上には上にはいるから。そもそも攻撃が当たらない五条さんの無下限とかも、考えてみたら意味わかんないでしょ?」
「まぁ。そうですけど。宗介さんから見てもやっぱ五条悟… 五条さんは格が違うんですか? 私、まだ会ったことなくて」
「全然、上だよ」
「やっぱり、そうなんですね。いつか会えないかなー」
「ねぇ、こんな埃っぽいところさっさと抜け出さない? こんなとこに長い間いたら、お肌に悪いんだけど…」
「私もお腹すいちゃったなぁ…」
「そうだね。しゃぶしゃぶ、行こうか」
「はい!」
三輪の元気な声が、静かなロビーに響く。三輪と西宮が歩き出す。真依は何故かそっと俺に近づく。
「私のことは、ほめてくれないんだ?」
真依は小さく呟く。
「真依が、閃光弾で目くらまししてくれて隙ができたから、あの呪霊を祓えたんだ。感謝してるよ」
「ふーん」
「それに残りの二発も俺たちが仕留めきれなかった時のためにとっておいてくれた。違うかな?」
「考えすぎよ」
そう言って、くるりと背を向ける。けれどその背中は、少しだけ誇らしげに見えた。
***
個室の座敷に通されて、俺たちは四人で鍋を囲んだ。
メニューを開くより先に、真依が身を乗り出してページの端を指さした。
「一番高いのでいいわよ」
細い指の先にあったのは、黒毛和牛の食べ放題コースだった。値段の欄を二度見する。
「ちょっ、おい」
「あら? 一級術師として稼いでるのに、これくらいも払えないの? かっこ悪いわねぇ」
頬杖をついて、意地の悪い笑みを浮かべる。ナチュラルボーン煽リストの本領だった。
「……わかったよ」
観念して手を挙げる。
「すみません、この黒毛和牛の食べ放題コースを、四人分で」
「やった!」
「宗介さん、ごちそうさまです!」
西宮と三輪が両手を合わせた。真依は何食わぬ顔でお茶をすすっている。勝ち誇った横顔が、ちょっと憎らしい。
運ばれてきた大皿には、霜降りの肉が花びらのように並んでいた。
「いただきます!」
真っ先に箸を伸ばしたのは三輪だった。薄切りの肉を出汁にくぐらせ、色が変わった瞬間に、ごまだれへ。
「んん〜〜っ!」
目を閉じて、肩を震わせる。
「おいしい……! こんなお肉、初めてです……!」
言い終わるが早いか、次の一枚をくぐらせている。ご飯をかき込み、肉を追加して、また鍋へ。皿が空くたびに、店員さんを呼んでおかわりを頼む。手際には、迷いが一切なかった。
「霞、少しは噛みなさいよ」
「ひゃい、ひゃんでまひゅ」
「飲み込んでから喋りなさいよ」
「はーっ!うめぇ!」
「霞ったら、どんだけお腹空いてたのよ? ていうか、本性でちゃってるよ?」
「お、美味しいです……」
「ふふっ。ホント、いい食べっぷりね」
確かに三輪の食べっぷりは、見ていて気持ちいい。頑張って稼いで、こうしてちゃんと食べて、また頑張る。そういう人が、ちゃんと報われる場所がひとつでもあるなら、財布くらいいくらでも軽くしていい。
「宗介さん、食べてます?」
「ああ、食べてるよ。霞ちゃんの分、足りなくなったら遠慮なく言って」
「ありがとうございます! あ、すみません、おかわりお願いします!」
「せっかくならもっといいの頼みましょう?」
真依が指さしたのは食べ放題の中には入っていない"霜降り黒毛和牛"だった
「ちょ。おい! それコースに入ってない奴だろ?」
「ん?...... すみませんー!」
真依は聞こえなかったとでもいうように俺を無視して店員を呼び出す
「霜降りの入った黒毛和牛。そんなものまでいいんですか!?」
三輪の目は輝いている。断る訳にはいかない。
「いいよ。食え食え! みんな頑張ったんだし」
「宗介さん。マジ神ですっ!」
「じゃあ、私も頂こう~っと」
想定外である霜降りの黒毛和牛を堪能した後。最後に、〆のうどんと、人数分の抹茶アイスが運ばれてきた。
「わ、アイス!」
「言ってたやつだ。しかも抹茶だ、当たりじゃん」
西宮が嬉しそうにスプーンを握る。俺と目が合うと、二人でこっそり頷き合った。
「……ほんと、甘いのが好きね、アンタたち」
真依が呆れたように言って、自分のアイスをスプーンですくった。
「ちょっと? お兄ちゃん。こっち向いて?」
「ん? どうし――むぐっ」
振り向いた瞬間、口の中に冷たいものが突っ込まれた。抹茶の甘くてほろ苦い味が、舌の上でじわりと溶ける。
「どう? おいしい?」
「……おいしいけど、急に何するんだよ」
「隙だらけだったから」
真依はスプーンを引き抜くと、涼しい顔で自分の口に運んだ。
「あ、それ、間接……」
「桃、何か言った?」
「いえ、何も!」
西宮が慌てて口を押さえる。三輪はアイスに夢中で、まったく気づいていない。
「ほんと、アンタってわかりやすいわね。口開けてる顔、間抜けだったわよ」
「ひどいな」
「事実でしょうが」
そう言い捨てて、真依はそっぽを向いた。けれど、耳の先がほんのり赤い。
***
食後の座敷。空いた皿が下げられて、湯呑みだけが残ったところで、真依がスマホを取り出した。
「写真撮りましょう」
「また真希に送りつけるのか?」
「送りつける? 失礼ね。お姉ちゃんと『楽しい』思い出を共有しているだけよ。家族なんだから、それくらいするでしょ?」
澄ました顔で言い切る。わかっててやってるな、こいつ。真希が悔しがる顔を想像して、楽しんでいるのだ。でもまあ、それも結局は「好き」だからできることなんだろう。
「ものは言いようだな」
「ほら、撮ってよ」
差し出されたスマホを、俺は素直に受け取った。カメラマン役に徹する。
「霞ちゃん、桃ちゃん、もうちょっと寄って」
「はーい」
「えへへ、なんか照れますね」
三人が肩を寄せる。真依は少し顎を上げて、いつもの澄まし顔を作った。シャッターを切ると、画面の中の三人は、ちゃんと笑っていた。
「撮れたよ」
「ん。……お兄ちゃんも入って」
さらりと言われて、手が止まった。
「え?」
「聞こえなかった? アンタも入りなさいって言ってるの」
真依はこちらを見ない。三輪が嬉しそうに手招きし、西宮が「宗介さん、こっち」と自分の隣を叩く。
「……じゃあ、失礼して」
スマホを内カメラに切り替えて、腕を伸ばす。真依の隣に収まると、肩が少しだけ触れた。
「もっと寄って。入らないでしょ」
「はいはい」
「いくよー。はい、チーズ」
シャッター音が鳴る。画面には、笑う三輪と西宮、すました真依、少し間抜けな顔の俺が、窮屈そうに収まっていた。
「ちょっと、アンタ目つぶってるわよ」
「え、嘘」
「もう一枚」
結局、三枚撮った。
真依が写真を選んで送信すると、ほどなくして、スマホが震えた。
『またかよ』
『つーか兄貴もいんじゃねぇか?』
『なんか、いいもん食ってんな。私の時はラーメンだったぞ?』
『決めた。今度兄貴に焼肉とか寿司とかおごらせる!』
「ふふっ」
真依が画面を見て、堪えきれないように笑った。
「効いてる効いてる。真希、怒ってるわよ」
「また俺の財布が犠牲になる流れじゃないか、これ」
「当然でしょ。アンタが私たち姉妹を甘やかすって決めたんだから」
そう言って、真依はスマホを胸元に抱えた。画面の中の、四人の笑顔を、一度だけ見つめる。
「……ほんと、わかりやすいんだから」
誰のことを言ったのかは、聞かなかった。
***
しゃぶしゃぶの店先で、満腹の三人を車に送り出した。
「先に乗ってて。ちょっと電話してくる」
「はーい。ごちそうさまでした、宗介さん」
「ごちそうさまでした!」
「早くしなさいよ」
駐車場の隅に寄ってスマホを見ると、画面には「歌姫さん」とあった。通話ボタンを押す。
「歌姫さん。お疲れ様です」
『お疲れー。どう、宗介? そっちの様子は』
「みんな大活躍で終わりましたよ」
『もう?』
「ええ。三人とも連携が取れてるし、バッチリです」
『なら、よかったけど。……寄り道してないでしょうね?』
「ギクッ」
『何よ、その間』
「ええと……ちょうどいい時間に終わったんで、みんなでしゃぶしゃぶを……」
『しゃぶしゃぶ? ったく、また。あの子たちを甘やかして』
「す、すみません」
『それに、こっちはまだ仕事残ってるのに。ちょっとずるいじゃない』
「すみません……」
受話器の向こうで、ため息が聞こえた。怒っているというより、呆れ半分、羨ましさ半分の声だった。
『まぁ、いいけど。……ねえ、宗介。今度、飲みに行きましょ?』
「え?」
『最近ストレス溜まっててさ、飲み明かしたい気分なの。いいでしょ?』
「は、はぁ」
『新田とか、他の子も呼んでさ。アンタなら、いい店知ってるでしょ? お願いできる?』
(……ああ、幹事をやれってことか)
一瞬、胸が跳ねた自分が恥ずかしい。そうだよな、二人きりなわけがない。というか、俺、みんなに都合よく使われてないか?
「わ、わかりました。手配しておきます」
『よろしく。ちゃーんと三人を送り届けるのよ? 帰ってきたら、報告書もちゃんと書いてね?』
「はい」
通話が切れた。スマホを下ろして、小さく息をつく。それから、気を取り直して車に戻った。
運転席に乗り込み、エンジンをかける。シートベルトを締めていると、助手席から視線を感じた。
「……なんだかガッカリしてない?」
「そんなことないよ」
「嘘ね。アンタ、すぐ顔に出るもの」
「はは。そうかな」
後部座席の西宮が、ミラー越しにこちらを見て、口を押さえて肩を震わせている。三輪は満腹で、早くも船を漕ぎ始めていた。
真依はフロントガラスの先を見たまま、ぶっきらぼうに言った。
「早く車出して」
「はいはい」
ハンドルを切る。夜の山道に、ヘッドライトが細く伸びた。
横目で見た真依の頬が、ほんの少しだけ、機嫌よく緩んでいる気がした。