夜のお散歩が好き。誰もいない国道沿いを、推しの音楽を聴きながら、ほろ酔いで。そうしていると思い出す。家に帰りたくなかったあの頃のこと。補導員も、おまわりも、スクールカウンセラーも、みんな大嫌いだったこと。
だから私は思う。結婚するなら、ハンニバル・レクター博士がいい。

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私はハンニバル・レクター博士と結婚したい

 1.

 私はお散歩が好き。夜のお散歩、特に真夜中のお散歩が一番好きだけど。推しの音楽を聴きながらぶらつけるのなら、正直、時間帯にはそこまでこだわらない。朝のお散歩には朝のお散歩の、昼のお散歩には昼のお散歩の良さがある。まあ、私、時間にはそれなりに融通が利くから。それは大学院を辞めて以来の久々の高等教育、すなわち二度目の大学生活を送っているから、というのも大いにあるのだろうけど。

 

 でも、やっぱり私は夜のお散歩が好き。深夜なら尚更だ。ある程度街灯はあるけれど、人は全然いないというのが最高だ。その点国道沿いなどはベストポジション。誰もいない国道沿いを、推しの音楽を聴きながら疲れてくるまで延々と歩き続ける。特に最近は冷えてきたから。お酒を飲んで、ほろよい気分で歩くのが大好き。街灯の光がきらきらふわふわ柔らかく微笑んで。心はポカポカ、身体もポカポカ。

 

 ヘッドフォンもかなりいいやつを選んでいるから。馬鹿でかいヘッドフォンを被り、馬鹿でかい眼鏡をかけている。その二つを被ると頭が膨らんで見えてこけしみたいでなんか面白い。髪の毛は短いし。女性にしてはだいぶ短い。それこそ耳が露出するぐらい短いのに、街灯に照らされる影法師はさながらこけし。自律二足歩行型こけし。なーんて。それに酔っている時の推しの音楽はより一層沁み入ってくる。いいランニングシューズを履いてお散歩しているから、足も全然疲れない。まさに無限に歩けてしまう。

 

 だけど、そういう時って物思いにふける絶好の機会でもあるから。そもそも夜という時間帯が、物思いにふけるのにもってこいな時間帯であるのかもしれないけれど。推しの音楽を聴いて、深夜遅くまで出歩いて。ぼんやりと街灯の光を眺めていると。

 

 あるいは時たま見かける公共の喫煙スペースにふらりと立ち寄って。他に人の居ない、とても静かな喫煙スペースでタバコを吹かしてみたりして。ぼんやりと流れる銀色の紫煙を眺めていると。なんとなく思う。なんとなく思ってしまう。ああ、家に帰りたくないなって。昔みたいに。少なくとも今は一人暮らしで、門限とか帰宅時間とか気にしなくてもいいはずなのに。それでもぼんやりと思ってしまう。ああ、家に帰りたくない。このままどっかに行っちゃおうかな、なんて。私がまだ、ティーンの少女だった頃みたいに。

 

 2.

 私の家は、古い家だった。それこそ最低でも400年以上の歴史があり、家系図があり、先祖代々受け継がれてきた家財道具や壺、香木とかお茶の道具とかもあって。中にはそれこそちょっと名の知れたお客様。歴史の教科書の片隅とかに載っているような方がいらっしゃったときには、せっかくなので屏風にお名前を書いてもらうという習慣があって。見知った名前がちらほらとある屏風が無造作にお茶室の片隅においてあったり。

 

 住み込みの庭師さんとか、通いのお手伝いさんも何人かいたりして。昔よりはだいぶ数を減らしているらしいけれど。子供のころはよく一緒に遊んでもらったりしたような家。庭師さんにその場で竹とんぼを作ってもらって飛ばしたり。中庭でお手伝いさんの娘さんとかくれんぼをしたり。地元では、まあ。知らない人のほうが少ないんじゃないかなという程度には知られていたし、全国的にもご縁のある方、ご存じの方もそれなりにはいるんじゃないかな、みたいな。極端に大きいわけでもないしものすごく有名でもないけれど、まあ、知る人ぞ知るといった規模感の家。

 

 まあ、それらはあくまで本家の話だけど。私の家は分家に過ぎなかったから。一応、筆頭分家ではあるけれど。ただ、前々から本家が途絶えそうで、それを防ぐために分家から人を出そうという話もかなり早い段階からあって。白羽の矢が立ったのが私たち姉妹。厳密には姉のほうの私。将来的には本家に入れて、婿を取らせて子供を産ませようって話は結構昔からあった。ちゃんと男の子を産めよ、みたいに直接言われることも、まあ。それなりにはあったし。期待はされますよね、という話。

 

 期待されるということは、求められる基準も高くなるということ。特に将来的に本家に入り婿を取るとなればなおさら。何しろ家の看板を背負うことになるというか。本家に入り婿を取るまでは当主代行だし、婿を取ってからも内向きのことはすべて取り仕切ることになるのだから。責任重大、決して粗相の許されない立場。私の失態は家の失態。そういう世界だから。そりゃあ、もう。躾も厳しくなるというものです。

 

 正直、躾がどんなものだったかなんて。書いていては日が暮れてしまう。印象的なものだけを拾い集めても相当な量になる。だから詳しくは書かないでおくけれど、それでも私はいつか殺されるって信じていた。物理的に殴り殺されるか、家の外に放り出されての凍死か。はたまたいなくなったように見せかけて殺されるか。どれもがありえる未来だって信じていたし、それができる家だってことは知っていたから。

 

 それに、私を殴る父親とか、殴られて転がってうめいている私を見る母親とか。その瞳の中には強い憤怒と憎悪と、何よりどこまでも深い軽蔑があって。時に嘲笑も。まあ、期待に応えられなかった私の責任と言われれば、それはそうとしか言えないし。何より散々投資してもらって、中高大大学院すべて私立で、何なら中高一貫校だったこととか、たくさんの習い事をさせて貰っていたことを考えれば、相当恵まれていたほうで。恨み言を言うのは筋違いだし、恩知らずもはなはだしいというお話にはなってくるのだけれど。

 

 それこそ、父親が私を殴るときによく言っていたように、私はどうしようもないぐらい、救いようがないぐらい馬鹿で頭が悪くて、本当にできの悪い出来損ないだってこともわかっているけれど。やっぱり痛いのも嫌だし、怖いのも嫌で。何より殺されるのが嫌で。結構自傷をしていた身が言うのもおかしな話だとは思うけど。もう痛いのは嫌だったから。殺されたくはなくて。

 

 このままだといつか殺されるって本気で信じていて。殺されたくなさ過ぎて、寝る前に布団に潜り込んで声が漏れないようにしながら、死にたくない、死にたくない殺されたくないと号泣したり。あるいは殺される夢を見て文字通り泣きながら跳ね起きたり。殺されるぐらいならいっそ安らかに死にたいと思って、寝ているうちに死にたいと思って。当たり前のように朝がきて。自分がまだ生きていることに気づいて泣きそうになったり。

 

 それこそ本当にサンタさんにお祈りしたことだってある。靴下を二重底にして。どうやったって見つかりにくいところにサンタさんへのお手紙を忍ばせて。プレゼントをくださいって書いたのは嘘です。プレゼントはいらないので痛くないように苦しくないように、寝ているうちに起こさないようにして殺してくださいって書いて。サンタさんからのプレゼントは届いていたけれど、私はまだ生きていて。サンタさんって嘘つきなんだって子供のころに思った思い出。

 

 3.

 まあ、そんな家だったから。家になんてあんまりいたくなくて。中学に上がる頃からは深夜徘徊を繰り返していた思い出。自転車通学だったこともあって、比較的行動の幅が広がった、というのもあるのだろうけれど。自転車をこっそり家の駐車場に止めて。そのまま家には入らずUターン。鞄の底のほうに忍ばせたヘッドフォンとウォークマンを片手にいろいろぶらついてた。住宅街に繁華街、アーケード街に商店街。あとは明らかに荒れているなあという地域とか。

 

 古本屋とかに入り浸るのも好きだったけれど。馬鹿みたいにたくさん漫画があって、立ち読みし放題で。小説もそれなりにはそろってて、やっぱり立ち読みし放題。小説は好きだったから。家で読んでいるのを見つかると、もっと役に立つものを読めってねちねち嫌味を言われるし。部屋が散らかっているとかの理由をつけては強制的に捨てられたりしたけれど。漫画なんてナンセンス。持っているのを見つかっただけで死ぬほど罵倒される未来が見えていて。安心して本を読めるのはここぐらいだったから。市立図書館もあるけれど、やっぱり知り合いの目とかを気にするし。

 

 その点古本屋はよかった。ゲームとかカードとか、ガチャガチャとか色々なものを取り扱っているからか死ぬほどうるさいし、微妙にガラの悪いのもよく出入りしていたけれど。少なくとも私がここにいることを誰もチクったりはしなかったから。それに時たまゲームの体験版で遊ぶこともできて。ゲームなんて死んでも触れさせないし、ゲームがしたいというのなら殺すというのが家の方針だったから。何しろ私は大学生までスマホを持てなかった。ずっとガラケーか子供携帯という筋金入り。ゲームと漫画と小説を一生ぐるぐる回していた思い出。

 

 ただ、あまりにも居心地が良すぎて。閉店時間もやたら遅いし。確か朝の10時に開いて朝の3時に閉じる、みたいな。よくわからないお店。気を抜くと長居しすぎてしまうから。ゲーセンもうろついていた時期もあるけれど。ゲーセンはそこまで好きじゃなかった。うるさすぎるし、柄が悪いのも結構多い。

 

 あと純粋にお金がないので遊べない。お小遣い制という名目だったけれど、まともにお小遣いをもらえた記憶はほとんどないから。一応こっそり蓄えているお金もあったけど。そんなに多くもないし、ゲーセンでは使いたくなかったから。あと、そういう夜遅い時間までいる大人とか、結構変なのが多かったから。率直に言って頭がおかしい人間しかいない。いきなり怒鳴りつけてきたり、あるいはいやらしいことをしようとしたり。相手が同年代なら何とかする自信はあったけれど、大人は苦手。特に怒鳴りつけられるとフリーズするから。だからあんまりゲーセンは好きではなかった。

 

 それに、時々学校指定の教材を買ってもらえないこともあって。なんでそんなの買わなきゃいけないの、それって選択科目だよね。なんでそんな科目選んだの。趣味みたいなもんじゃん。なんであなたの趣味に高いお金出さなきゃいけないの。どうせすぐに使わなくなるのに。自分で何とかしなさい、みたいな。ただ既に選択してしまった以上、ちゃんと出席しないと単位が足りなくて卒業できないし。毎度毎度友達に借りるわけにもいかないから。そういう時は自分で買うしかないわけで。だから本当にお金は無駄遣いできなかったというのもあるし。ゲーセンで遊んでいる場合じゃない、みたいな。

 

 だから、必然的に、古本屋を切り上げたらふらふら歩きまわることになる。ただ制服だから、そういう夜の街では目立つ。地元ではそこそこ有名な中高一貫校だったし。制服を見れば、ああ、あそこのってわかってしまう。そんな感じ。結構いいところの子も多かったから。しかも当時その地域は結構荒れていて。小学校では学級崩壊が多発し、中学校は窓ガラスが割れていて当たり前。直す端からたたき割られるから最終的には業者すら呼ばない、みたいな。

 

 何なら小学校の時点で18禁のエアガンを学校に持ってきて、廊下で机をバリケードのように組み上げて。その隙間から機関銃陣地のようにエアガンを乱射して通行人を狙い撃つ、というのが一番笑える「いたずら」だったから。中学校では中庭に使用済みコンドームが落ちているのが当たり前、何なら空き教室で生でやってたりするのを先生に見つかったりとか。あとは普通に売春している子の噂は何人も聞いた。

 

 そういう荒れている時代だったから。治安が良くないところは本当に良くない。若い女の子一人で歩いていたらどんな目にあわされるか分かったものじゃない、なんて話は地元じゃ公然の秘密だったけど。私はそれを知ったうえでその地域にも足を延ばしていた。まあ、夜のお散歩ってわけで。推しの音楽を聴きながら。なんとなく。別に破滅願望があるわけではなかったのだけれど。

 

 するとやっぱりちょっかいはかけられる。何してんの、どこの学校の子だよね、遊ぼうよ、みたいな。それを無視していたりすれば、だんだん相手もいら立ってくる。無理矢理いうことを聞かせたいな、みたいな気分にもなってくる。あるいはもっと単純に、むかつくな、このガキみたいなところかもしれないけれど。

 

 ただ、これでも私は鍛えていたから。足も自信があったし、護身術も齧ってた。護身術というよりもう少し物騒な、逮捕術よりのやつ。急所への打撃とか関節技とか何でもありって感じの。私は護身術らしい相手の受け流しとか、相手の攻撃を受けての返し、投げがとにかく苦手だった。まだ寝技のほうがマシ。まあ、中高通してBMI17超えたことがないぐらい、がりがりの眼鏡のちびだったから。寝技なんて自殺行為でしかないけど。そもそも寝技というのがあまり実戦的ではない気もするし。

 

 私が得意なのは打撃。特に急所を狙った打撃。人間って意外と脆いから。狙うべき場所を、狙うべきタイミングで、必要な力で打ち抜いてやれば簡単に動けなくなる。沈黙する。それ以上の行動を阻止できる。要は無力化できる。その中でも狙いどころは、喉、腎臓、股間。要はタマ。でも狙うのは基本喉。私は小柄だから一番狙いやすい。それに喉が急所なことってみんなあまり意識しないから。

 

 かなり脆い部位なのに。コツは喉仏を押しつぶすというか、喉仏の隙間を斜め下から突き上げるというか。その角度で刺してしまえば一件落着。悲鳴も上げられずに蹲ることになる。普段は雑に喉仏を潰しておけば基本沈むから狙いが雑でいいし、タフそうなら正確に斜め下から強めに突き上げればいい。それで全部おしまい。悲鳴も上げられずにころころ地べたを転がるお相手さんの出来上がり。

 

 腎臓は正直あまり狙いたくない。狙いづらいのもあるけれど、効きすぎるから。人体に対する打撃で最も苦痛を与えられる部位といううわさは伊達ではない。喉を潰したわけでもないのに悲鳴すら上げられないレベルの激痛に襲われることになる。その痛みのレベルは私自身よく知っているから。大の男が必死に丸まって痛みに耐えていたり、あるいは逆に何度ものたうち回って痛みを逃そうとしているのを見ると、ちょっと申し訳なくなってきてしまう。あー、ごめんね?ちょっとやりすぎちゃったかも。みたいな。

 

 正直、ちゃんと刺さった場合の痛みって、尋常ではなく痛いって言葉を超えてくるから。頭がおかしくなりそうってやつ。しかも気絶出来るタイプの痛みじゃないから鬱陶しいんだよねっていう。だから狙うのは最後の手段。状況を「制圧」しなきゃいけないとき限定。要は不意打ちされた、待ち伏せされた。まあそんなのはレアだけど、時々あるのは私一人対相手複数、もしくは相手たくさんみたいな。私が大嫌いなシチュエーション。そういう時って結構真面目に危ないから。ちょっとやそっとじゃ諦めてくれないし。だから、仕方がないので痛い目に遭ってもらうしかないかなって時だけにしか狙わないようにしていた。

 

 タマは狙いやすいし、攻撃の仕方もバリエーション豊か。しかも簡単に沈んでくれるといいことばっかりで、しかも複数戦の時でも一人タマを潰せば、みんなタマを意識し始めるから積極的に狙ってもいい部位なんだけど。潰した時の感触がなんかぐにゅぐにゅしていてちょっと嫌。あと、昔地元でも顔の利く人にあまり狙わないであげてってお願いされてしまったから。タマって実は内臓の一部なんだよって。急所として狙いやすいし有名だから馬鹿にされがちだけど、実は内臓の一部だから。多分あなただったらいつか潰すか破裂させるか。どちらかはできちゃうと思うんだけど、でもそれって要は内臓破裂だからって。最悪死んじゃうし、何より警察沙汰って面倒でしょ。やめときなさいって。そう言われた思い出。

 

 まあ、実際何か結構いらいらしていて。しつこく付きまとってきた子がいたから。色々はやし立てて。私はもめごとの時基本先手は譲るようにしているんだけど。向こうが先に手を出したのならこっちがやり返しても正当防衛の範疇だし。こちとらか弱いか弱い女の子なので。まあ、ちょっと手が滑って。必要以上に痛めつけることになっても、まあ。事故ですよ事故。私は自分の身を守ろうとしただけ、ちょっと怖かったので思わず強くやり返しちゃいました。ごめんなさーい、みたいな言い訳をするためでもあるんだけど。

 

 まあ、時々、あえて相手がこちらに手を出さざるを得ない状況に持ち込むことはあったけど。この場で手を出さないことそのものがまずい状況に意図的に追い込んで。もちろん挑発なんかはしたりしない。私が挑発したくせに、襲われたので反撃しました、というのはさすがに通らない。言質は取らせない。言質なんか取らせてあげない。

 

 私はただ、どうとでも取れるような言葉やシチュエーションを使って、その人が手を出したくなる状況を作ってみせただけ。本音なんか言わない。言う訳がない。本音なんか絶対に教えてあげない。私は、ただ微笑んで。二言三言話すだけ。ある特定の価値判断に誘導する。間違った価値判断に陥りそうな状況を黙認する。間違った判断を下しそうなときに、そっと背中を押してあげる。

 

 もちろん言質なんか取らせないけど。私はただ、一般論とか、世間話をしただけ。それが最後の一押しになることはわかっているけれど。踏ん切りをつけさせることになることは百も承知だけど。私は顔には出さない。ただ、そっと背中を押してあげるだけ。そっと隙を見せてあげるだけ。ある意味演出してあげた。そこにまんまとのってきたら、晴れて反撃の出番。正々堂々迎え撃ってあげる。わあ、びっくり。どうしたんですか、そんなに怒って。何か嫌なことでもありました?そんな、突然攻撃を仕掛けてくるなんて酷いです。どうしてそんな酷いことするんですか?怖いですよ、話しあいましょう?でもでも、それでも、本当に暴力をふるう気なら、私も自分の身を守らないといけないんですけど。ああ、気が進まないなあ。傷つけたくないなあ、なーんて。

 

 まあ、嘘はついていない。本当のことも言っていないだけで。それに人間はエスパーじゃないから。口から発して言葉になったことしか他者は認識できないし、自分の目で見たことを強く信じる生き物だから。私の大好きな作家で伊藤計劃という人がいて。その人の作品の中で「人は自分の見たいものしか見ないようにできている」みたいなことを言っていたけれど。本当にそう。人は見たいものしか見ないし、信じたいことしか信じないから。目の前に現実を突きつけてみたところでそれは変わらない。頑張って目をそらすだけ。むしろ無理に見たくもないものを見せられたと被害者ぶってくる。そんなもの、見たくもなかったって。

 

 私は優しいから。とってもとっても優しいから。外見からしてか弱さが滲みだしているし。みんなの夢を壊すのも忍びないから。だから私は夢を見させてあげる。その人が見たい夢を。そう信じたい、そう願いたい夢を。だから私はそっと囁いてあげる。言ってほしいだろうことを。私は、その人が一番望む言葉を言ってあげる。背中を押してほしい方向にそっと押してあげる。たまたま、その方向が私の利害と一致していただけ。誰も損はしない。誰も苦しまない。私はただ、夢を見せてあげているだけ。

 

 まあ、必要に応じて現実と向き合ってはもらうけれど。だけど私はそこまでの責任は負えない。だって最終的に決断をしたのは私以外の人だから。自分の行動の責任は自分で取ってもらわないと。自分のツケは自分で払う。それが社会の常識ってやつだから。私はあなたのママじゃない、なんて。そんなのは冗談だけど。まあ、ときおり何故か私に危害を加えようとしてくる人がいるから。私はただ、自分の身を守っているだけ。それに先に手を出してきたのは向こうだし。やっぱり私ってば、か弱いから。身を守るためについついやりすぎてしまうってことも、たまにはあるよね。

 

 むしろ自分から手を出した以上多少痛い目に遭っても仕方がないというか。誰に手を出したのかは理解すべきだし、誰に手を出してはいけないかというのは、やっぱり。経験からしか学べないから。あなたは誰に向かって口をきいているんですか、ということも学んでもらう必要はあるから。その点、私はただ教えてあげているだけ。ただ、それだけ。別に家とか心底どうでもいいけど、私、これでも多少はご縁のある方もいるんですよ。なーんて。なんなら先生って呼んでもいいよ、というのはさすがに冗談。すでに先生って呼ばれている人はいたから。恩のある人でもあるし。そんなことを言ったら怒られてしまうけれど。

 

 まあ、戯言はさておき。基本私は負けない。ごく稀に間違えてクリーンヒットを貰うこともあるけど、実は私は倒れたことがない。あんまり言うと恥ずかしいけど、いわゆる負けたことがない。最低でも騒ぎに気づいた誰かが介入するか、追いかける気力を失わせるぐらいのダメージを与えた上での離脱に成功している。それは待ち伏せや不意打ち、対多数でも同じなんだけど。足には自信があるし。振り切る気になったら割と自信を持って振り切れるし。対多数って、離脱を目的にするのなら弱そうな奴を派手に沈めればいいだけなので。お仲間が何人か派手に痛がってくれれば多少はビビってくれるし。あとはすたこらさっさと逃げるだけ。

 

 それはこちらから誘いをかける時も同じ。そもそもお相手を比較的選べるわけだから、わざわざ勝てないお相手を誘う義理もない。まあ、暇つぶしというか。退屈しのぎとか。イライラしてたから、みたいな。退屈が一番嫌いだから。死にたくなるし、自分が生きているのか死んでいるのかよくわからなくなるから。他にもしつこいちょっかいがウザいから。一発黙らせておくか、みたいな。色々理由はあるわけだけど。勝てるとわかってるから誘ってる。なんなら怪我ひとつ負わない自信どころか、服すら汚さない、なんなら乱さない自信があるから誘ってる。ムカつくし、ここで叩くことが私の利益になるから、みたいな。弱いものいじめと言われたら否定はできないけど。

 

 でも、私は私に悪影響を及ぼさない奴には手を出さない。私に関係してこないなら頼まれたって手は出さない。口は出すかもしれないけど。まあ、広い意味で私は私を守っているだけ。やむを得ず護身術を使っている。そう言い張る為にも、先手は譲らないといけないし。先手をあげないと私が仕掛けられないでしょう?みたいな。私は私の身を守っているだけなんだからさあ、なーんて。

 

 それに、まあ。相手に先手をあげたほうがこちらも色々動きやすいし。基本相手は私のことをなめているから。初手が結構雑。雑じゃなかったとしても、仕掛けてくるのが分かっていたら、まあ。やりようはある。私は短期決戦しかできないし。ちびだし体重もないから。スタミナもない。出来るのは相手の隙をついて急所を潰すだけ。急所を潰すにはコツがある。それは相手の意識の隙間を縫うことなんだけど。人間って相手を見ているときでも、全身にくまなく意識を向けているわけじゃないので。

 

 腹が立っていたり、はたまた相手に攻撃をしようとしたりするとき。意識にどこかムラができる。相手に払っていた注意に濃淡が生まれる。庇わなきゃいけない場所の防御がおろそかになる。あとは、そこを潰すだけ。そういう意識の向き方とか意識の濃淡って、昔からなんとなくわかるような気がしたから。相手に先手を譲ったほうがイージーモードだったりする。

 

 ついでに先手を譲ってからの反撃でも、基本私は全力を出さない。必要な力で必要な場所を打ち抜くだけ。急所を狙う以上あまり大きな力は必要ない。むしろ脆い急所に必要以上の力を与えれば壊してしまう。要はケガ。ケガは面倒くさいから。記録が残る。それに、私は急所を狙うことを躊躇えない人だから。なんの躊躇いもなく急所を打ち抜けてしまう。どれほど痛くて苦しいかはわかっているつもりなんだけど。でも、無力化するためなら仕方がないかな、みたいな。

 

 もちろん言葉の上では、ごめんねー、痛そー、みたいな罪悪感を感じないわけでもないんだけど。大好きなお汁粉の缶が自販機で売っているのを見つけたらすぐに忘れちゃうというか。そんなレベル。少なくとも寝たら忘れちゃう。あー、そういえばそんなこともありましたっけ、懐かしいですねー。みたいに。多分どっかのネジが抜けてるか、必要な頭の回線が焼き切れているのだとは思うのだけど。多分下手したらケガをする、もしくはケガじゃ済まされないとわかっていても急所を狙うのを躊躇えない。それこそ意図的に目は狙わないようにしているぐらい。

 

 だから基本私は全力を出さない。それで十分に無力化できるから。だから意図的に手を抜くというか、手加減しているというか。全力を出さないように常に意識してセーブしてるつもりだった。

 

 だけどその日は苛ついていたから。そのついてくる子もなかなかしつこかったし。ついうっかり、こっちから先手を取ってしまった。喉を潰せる距離でもなかったから、珍しく膝蹴り。そこで沈んどけ、しばらくそこでのたうち回ってろ、床でもペロペロなめておけ、ぐらいの怒りを込めて。うるさいなあ、みたいなことを言いながら、まあ。ほぼフルパワーで蹴ったら、物の見事に潰しちゃって。文字通り泡を吹いてビクンビクンしてた。静かにぽろぽろ涙をこぼして。のたうち回る元気も出ないって感じで。あ、やっちゃったって思って。ごめん、八つ当たりしちゃった、みたいな。

 

 そこにたまたまその地元でも顔の利く人が居合わせて。先生って呼ばれていた人なんだけど。介抱もしてくれて。多分大事にはなってないし、どこにも言うつもりはないけどって。でもあまり股間は狙わないほうがいいし、狙わないであげてほしいなって言われて。なんとなく先生との約束は守り続けた思い出。それこそ後ろから羽交い絞めにされて、このままだとまずいみたいな例外的な状況を除いて、だけど。それに、潰した時、大体みんな馬鹿みたいな悲鳴を上げるから。少しうるさい。あとやっぱり潰すときの感覚が嫌い。だから極力狙わないようにしていたな、なんて思い出。

 

 私は、そういう風に護身術を使うのが嫌いではなかった。なんか使えば使うほど経験値が貯まっていっている気がするし。使えば使うほど適切な使い方っていうのが分かってくる気がする。そうやって自分がレベルアップしていく感覚は楽しかった。んー、この前のバトルでのあの動き、あまりうまくなかった。もう少しああしておけば、もっとクリーンでスマートだったんじゃないかな、とか。いやー、結構粘られちゃった。もう少し簡単に沈められると思ってたんだけど、とか。惜しかった、もう少しでワンターンキルだったのに。目指せパーフェクトゲームかな、みたいな。要はゲーム。全部ゲームのノリで片付く世界でしかなかったから。

 

 まあ、そもそも人生自体ゲームみたいなものだと思っているし。人生なんかに意味はないし、価値もない。真面目にやるほうが馬鹿みたいというか。人生に現実感なんて感じたことなんか一度もない。全部曇りガラスの向こう側の世界での出来事。私はあくまでゲームの世界のアバターに過ぎない、みたいな。遠くから本当の私がコントローラーを握って肉体の私を操作している。だから、両親に怒鳴られ殴られ地面の上でうめいているのも全部別の私、みたいな。本当の私には傷一つついていないんだから、みたいな。さながら私の出ている劇をもう一人の私として観客席から見ているというか。観客席の二階席から。退屈そうに。オペラグラスすら使わずに。あくびを噛み殺しながら。

 

 だから、というべきか、それに、というべきなのかもわからないけれど。私は自分自身の肉体についても微妙にリアリティを持てないし。いや、生物学的に女性であることはわかるしよく知っている。

 

 それこそ鏡を見ればよくわかる。髪は短いし、耳は髪から露出しているとはいえ、柔らかで滑らかな髪質は女性のもの。結構サラサラだし、いい手触りは間違いなく女性のもの。それこそ学校では同じクラスの友達が休み時間に触りに来るぐらい。女性らしいからというより、純粋に癖になる触り心地だからお気に入りの髪。目鼻立ちも、まあ普通。普通の女性。よく言って中の上。よく言わなくて中の中。強いてあげるなら意識しないと目つきが結構悪く見えるぐらい。気を抜いていると、ちょっとびっくりするぐらい目つきが鋭くなる、らしい。だから意図的に目を見開いて常に微笑んでいるようにしているけれど。

 

 それに体つきだって。かなり細身だけど、一応胸だってないわけではないから。ほとんど膨らみなんてないけれど。Aに届くかどうか。正直A未満といったほうが正確というレベルの、微妙な膨らみでしかないけれど。一応、膨らみは膨らみだから。男性のものとはやっぱり違う。腰だって微妙にくびれてはいるし。肌も、まあ。柔らかさとか白さとかは女性っぽいと思う。自傷痕はたくさんついているけれど。見えるところにも、見えないところにも。中には決して消えないんだろうな、なんてものもあったりするけれど。少なくとも外見は女性。肉体的には紛れもなく女性。

 

 でも中身は。男とも女ともいえない。言いきれない。男に寄ってる気がするなって時もあれば、女に寄ってる気がするという時もある。一時期は男でもあり女でもあるみたいな奇妙な気持ちとかもあったりした。そうした男性より、女性より、はたまた両性という気分が時とタイミングによって入れ替わる、みたいな。そんな変な生き物。

 

 だから私にとって肉体とは、ただ「私」が入っているだけの肉の器で。その私自体、別にいる本体の「私」の操作を受けて動くだけのアバターでしかないんだよねっていう。まあ、そんな変な感じ。そんな変な感じは物心ついたころからずっとあるんだけど。

 

 だから、まあ。なんか護身術を使うのって楽しいよね、みたいな。小説を読むのも好きだし書くのも好き。勉強するのも好きだけど、それらとはまた違った楽しさがあるっていうか、なんか生きているって感じがして。なんか楽しかったなっていう思い出。

 

 まあ、後々親友だと思っていた古い友達の家に入り浸るようになって。家にいづらかったから。ある日、お前なんか急にかわいく見えてきたわ、とか言って無理矢理押し倒されてレイプされたとき。護身術なんて何の役にも立たなかったし、身体を鍛えていることなんて何の役にも立たなかったわけだけど。まあ、それは別の話。

 

 4.

 まあ、そうやって夜の街をぶらついていると、次第に顔なじみとか、顔なじみのグループも出来てくるから。一緒につるんだりして。色々喋ったりして。時たま一緒に遊びに行ったり。カラオケとかボウリングとか。それこそコンビニの前でたむろったりしていて。あとは夜の公園のベンチとかでゴロゴロくつろいだりとか。

 

 まあ、みんな似たようなものだったよねっていう。家がいづらい、家にいたくないという思いはみーんな一緒。どこの学校に行ってるとか、行ってないとか。どこの家の生まれだとか。親がいるとかいないとか片親だとか、そんなのは関係ない。ただ、家にいたくないだけ。家にいるのがつらいだけ。家にいるのが苦しいだけ。

 

 理由だって様々だ。私の家みたいに躾が厳しい家。教育熱心が行き過ぎて、平気で手を上げる家。親がアル中で感情のコントロールができない家。単純にモラハラ気質で立場の弱い相手にきつく当たる家。DV気質で他人に暴力をふるうことを悪いことだと思っていない家。機嫌が悪ければ何を壊しても、誰を殴ってもいいと思っている家。自分のおかげで家族は生活出来ているのだから、自分は敬われて当然だと思っている家。敬わないのなら罰を下して当然だと考えている家。

 

 母親が男をとっかえひっかえしている家。父親が女をとっかえひっかえしている家。彼氏彼女を連れ込んで昼間から盛っている家。盛っているところを見せつける家。盛っている場で帰ってくると怒り出す家。娘を売ろうとする家。娘に客を取らそうとする家。すでに定期的に客を連れてくる家。時に複数のお客を連れてくる家。一晩おいくらで娘を貸し出す家。

 

 まあ、そんな家ってたくさんあるよねって話で。たくさんあるよねって話でしかなくて。まだ私たちは幸せ者で。だって夜に家を抜け出せるから。夜の街をぶらつく自由ぐらいは持っているから。まあ、お行儀はよくないけれど。バカ騒ぎするし、変なところにたむろっているし。私のつるんでた連中で、物を盗むようなやつはいなかったけれど。そういうそぶりを見せるやつには個人的にお話していたりもした。やめときなよ、そういうの。面倒くさいことになるって。まあ、本当は私がそういうグループにいるとみなされるのが面倒くさいことになるわけだけど。色々お願いしてやめてもらって。とはいえ、まあ。他の連中の中には手癖の悪い奴もいたし。

 

 身体を売っている奴もいた。理由は様々。親に客を取らされていたから。親に客を取らされそうだったから。親は帰ってこないし、ご飯食べないといけないから。妹たちを食わせてやらないといけないから。妹か本人が身体を売って金を稼いでくるように言われて、妹に身体を売らせるのはなんか嫌だったから。施設に戻りたくないから。施設にいるときに手を出されたから。施設にいるときマワされたから。別にそんな特別な理由のない子もいたけれど。別に、なんとなく。お金欲しいし。金稼ぐ方法これぐらいしか知らないし、みたいな。

 

 まあ、仕方がないよねという話ではある。そうやって生きていくしかないんだし。それ以外の生き方なんて知らないし、みたいな。私だって敷かれたレールを走っているだけだから。他の人の人生にとやかく言える資格なんてないよねっていう。大体そういうのムカつくし。何にも知らない癖に綺麗ごとばかりいう連中とか。出来もしない夢物語ばかり語る連中とか。あるいは私たちみたいに夜出歩く子たちを底辺と蔑む連中とか。どいつもこいつも屑ばかり。

 

 たむろっているだけで何、あの子たちみたいな目で見てくる地域の爺さん婆さんとかも。育ちが悪いのね、みたいなことを囁きながら行きかう癖に、私たちがなぜそこにいるのかを考えようともしない。外に逃げ出す前に、私たちの悲鳴とか私たちを痛めつける音とか、あるいは両親の怒鳴り声だって聞いているはずなのに。私だってよく真夜中に家を追い出されていたし。時にはシャワー中に追い出されて。とっさにつかんだ下着一枚で、みぞれの降る真夜中に、なんてこともあったりして。見てたはずですよねっていう。でも助けなかった。見て見ぬふりをした。見殺しにすることを選んだし、死んでも構わないと思った。むしろ素行が悪いんだったら仕方がないと積極的に見殺しにした。

 

 私たちだってただ殺されるのは嫌だから。家を抜け出した。少しでも息のしやすいところに行きたかった。当たり前に呼吸がしたかった。そうやって逃げ出した先で、たまたま似たような連中がいて。そいつらは別に偉そうな口もきかなかったし、そいつらとつるんでいるのは悪い気分じゃなかったから。あだ名か下の名前でしか呼ばなかったけれど。あだ名か下の名前しか知らなかったけれど。苗字を名乗ったやつもいたのかもしれないけれど、みんな忘れた。そういう似たような連中とつるむのは楽しかった。どこへでも行ける気がした。学校は学校で楽しかったけれど。仲のいい子もいたけれど。幼馴染もいたし。でも何でも話せるわけじゃない。学校は学校でいろんな目が光っているから。誰がどこにチクるか分かったものじゃないから。

 

 でも夜の街は自由で。もちろん危ないこともあったけれど。喧嘩でボコられた、身体を売りに行ったら料金を踏み倒された。料金を回収しようと食い下がったらボコられた挙句中に生で出された。生NGなのに。そんな話も結構聞いた。でも、そこには自由があったから。

 

 でも大人はそういうの見ないようにするよねっていう。私たちをまるで危ない連中みたいに。何をしでかすかわからない連中みたいに。不良って呼んでみたり。もっとひどい言葉で呼んでみたり。まるで地域の鼻つまみ者、みたいな。何にも知らない癖に。

 

 だから補導員とか大嫌いだったんだよねっていう。地域の防犯パトロール隊みたいに名乗っていることもあったけれど。お揃いのパーカーを着たり、腕章をこれ見よがしにつけてみたり。そういう補導員が近づいてくるのを見ると私たちは逃げた。捕まったらたいていろくな目に遭わないから。学校に連絡がいったり、家に連絡がいったり。そしてそういう連中って無駄に職務熱心だから。おうちにつくまでが遠足です、ではないけれど。家に帰すまでがお仕事です、みたいな顔して。親が引き取りに来るとかしない限り帰してくれない。自分で帰れるからって言っても絶対聞かない。

 

 むしろ心底馬鹿にした顔して笑ってくる。そしてまたどっか行くのか、みたいな。お父さんが悲しむぞ、とか。おうちの人をあまり心配させるな、とか。あんまり家の人に恥をかかすんじゃない、とか。あんまり家の人に迷惑をかけないように、なんて。どこかで聞いたような台詞、あまりに陳腐な台詞。ありふれすぎていてこちらが恥ずかしくなってくるような台詞。人はどこまで恥知らずになれるのか、という限界に挑戦しているかのような台詞。

 

 まるで自分たちが地域の治安を守っている、みたいな自己陶酔。警察の力が行き届かないところを我々が補っているのだ、みたいな。道を誤った若者を正しい道に連れ戻すのも我々の役目、みたいな。私たちは間違っていない、私たちは正しいことをしている。私たちはよき行いを行っている。そう信じて疑わない。そういう自分が正義であることを信じて疑わない人間というのは顔を見ればわかる。

 

 とても気持ち悪い、醜い顔をしているから。正義に酔いしれているのが丸わかり。どことなく誇らし気でゆがんだ笑顔。その笑顔の気持ち悪さは盗撮犯とか痴漢魔の顔によく似ている。目はどことなく緩んで、鼻の穴はぴくぴく膨らんだり閉じたり。口元はどこか無理に笑みを閉じ込めているかのように歪んでいる。そういう笑顔。鏡見ろ鏡。性犯罪者の写真集作ってみたとして、お前の今の顔混ぜてもきっとばれないさ。

 

 そんなどこまでも歪んだ、支配欲の入り混じった顔。自分は何も間違ってないっていう。間違っているのはお前のほうだ、みたいな。私は正しい行いをしているのになぜお前はわかろうとしない、みたいな。私を躾けるときの両親の顔にそっくりだ。それとも私を押し倒した時のあいつの顔かな。私の短く切った髪を愛おしむように何度も撫でつけて。まるでよしよしでもするように。もしくは自慢の髪の毛を何度もとかすように、すかすように触ってきたあいつ。私の膨らみのない胸をなめて、乳首立ってきたよ、感じてんのって言い放ったあいつ。あとは、色々触って。つねって。濡れてきたよ、とかすごく締まる、とか。可愛いね、とか。

 

 聞きたくもないような。耳をふさいでもずっと聞こえてくるような、あいつの声。うるさくて、うるさくて。うるさい、やめて。うるさい、黙れ。そう叫んでも、怒鳴っても。もう黙って。お願いだから静かにして。お願いだから、どうか。もう、やめて。お願いだからやめて。近づかないで。お願いだから私を一人にして。触らないで。私をそんな目で見ないで。お願いだからそんな目で見ないで。私をその目で見るのをやめて。私は誘ってない。私は受け入れてない。感じてない。身体が勝手に。いうことを聞かないだけ。痛いのも苦しいのももう嫌。もう、痛いのは嫌。苦しいのも嫌。もうやめてよ。お願いだから。一人にして。せめて殺して。楽にさせて。どうか、お願いだから解放してください。もう、許してください。勘弁してよ、もう。許して。やめて。たすけて。たすけて。たすけて。ころして。もう、だれでもいいから。たすけてなんていわないから。いいこにするから。だれか、おねがいだからころして。

 

 そう願っても。いつまでたっても私の中で響き続けるあの声。私をとらえて離さないあの瞳。決して途切れないあいつの声。どれだけやめて、放せと叫んで泣いてもやめなかったあいつ。必死に暴れても絶対手を緩めなかったあいつ。あいつの顔にそっくりだ。あんたらは同類だよ。同じ穴の狢だ、なーんて。

 

 だからおまわりも嫌いなんだけど。お揃いの青の制服。赤い回転灯がゆっくり通っていくのを見ると今でもドキドキする。咄嗟に視界を遮れるものを探してしまう。おまわりが警戒している時の目線の向け方とか癖とかも覚えてるし。もちろん、さりげなく見えるようにはしているのだろうけど。私がどれだけおまわりを見てきたと思ってるのって話でしかない訳で。

 

 それに、昔知り合ったおじさん。過激派の中でも特に過激なグループにいたことがあるという噂のおじさんが言っていた。警官には動き方に独特の癖がある。多分マニュアル化されて一律訓練されているから。だからおまわりの警戒してる様子とか、誰を見ているかは簡単にわかる。そのうち私服警官か一般人かの見分けもつくようになるし、慣れてきたら私服警官か、それとも公安関係者かもなんとなくわかるようになる。要は目つきとか雰囲気がなんというか違うんだ。独特の気配がある、なんて。

 

 その気持ちはなんとなくわかる気がする。さすがに公安は見抜けないし、そもそもお世話になる機会がないけど。でも私服警官ぐらいはわかる。なんならデモとかに出くわした時、ああ、あの人私服かぁってわかる程度には。時たま私服にしてはなんか妙というか、変な雰囲気を持っている人もいて。あれが公安関係者なのかな、なんて思うこともあるけれど。まさかあなた公安の人ですよね、こんにちは!なんて挨拶するわけにもいかないし。私まで監視対象にされちゃう。やめてー、私は善良な一般市民ですよ。なーんて。それは冗談にしても。おまわりが私を見ているかどうかも、まあ、わかる。

 

 だから見られていると分かれば、そのエリアを離れればいい訳だけど。おまわりって、自分を見て逃げ出す手合いをとりあえず追いかけるよう調教されているから。何気なさを装って距離を取り、さりげなく追跡をまくルートを脳内で検索する癖は今でも残ってる。まきかたぐらいは似たような世界で、ある程度生きていたら自然と身につくものだし。

 

 でもまあ、彼らはお仕事でやっているだけだから。少なくともくだらない正義感とかで追いかけてくるわけでもなさそうだからまだ可愛げがある。捕まった時の対応ももっとドライだし。淡々としている。あくまでお仕事をしているだけです、みたいな。まあ、そのお仕事の中には悲鳴を上げている子供や怒鳴り声の相次ぐ家の確認、もしくは全裸同然の格好でみぞれの中、家を追い出された少女の保護は職務に含まれていないみたいだけど。

 

 まあ、それは別にいい。許す。許してあげる。私は別に期待したことないから。お巡りさんに期待したことなんてない。強いて言えばあとをつけられている気がするなって時は交番の前を通ったりもするけれど。まあ、それぐらいは期待してもいいのかなって。でも本当の意味で助けてくれるとは考えたこともない。そういう理想の警察官とか、正義の味方の警察官というのに憧れるのは小学生で終わりかなっていう。しょせんお金をもらって勤務時間中にお仕事をしているだけのサラリーマンだ。ただのサラリーマンに助けてください、このままだと親に殺されますって言って助けてくれるわけがない。実際門前払いされた子いるの知ってるし。ですよねっていうところではあるのだけれど。

 

 こう、最近のニュースを見ていると、国の教育の方針として国を愛せ地域を愛せ、郷土に誇りを祖国に誇りをというのがブームみたいだけれども。どの口が言うのかなとはよく思う。愛してほしければ愛される努力をしなさいよ、というお話。それに仮に私が国を愛したところで、国は私を愛してくれないんだよねっていう。平気で社会的地位で見るもんね。まさかあの家の人が娘さんを殴るわけがないって。実は私も相談したことがあるんだけど。冗談だって思われたもんね。まあ、そういう世界。

 

 個人が国を愛するのは止めないけど。勝手にしたらっていう話だし。国を愛して、私は日本人だって誇りを持てば。他に何も取り柄がなかったとしても。本当は自分に生きている価値がない人間だってわかっていたとしても。まるで生きている価値があるように、認められたような気持ちになれるもんねって。分かるよ。だって昔の私がそうだったから。

 

 でも、やっぱり私がどれだけ国を愛しても、国は振り向いてはくれないから。当然守ってもくれない。だったら期待するだけ無駄だよねっていう。初めから期待しなければ少なくとも傷つかない。期待したところでどうせ裏切られるだけ。期待した分悲しみは大きい。救いなんか求めないほうがいい。期待がゼロで興味もゼロ。それが一番いいんだよって。そんな簡単なことに気が付くのに30年もかかっちゃった。おまわりも同じ。最初から期待なんかしなければ。助けてくれるって信じなければ。嫌いにもならなかったのかもしれないけどね、なーんて。

 

 それ関係で行けばスクールカウンセラーも大嫌いだったなって。私たちの年にようやく全国にスクールカウンセラーが配備され始めたころだったけれど。当時はまだ、誰かを信じることのできるお年頃だったから。大人っていうのは子供を助けてくれるものだって信じていたから。夢を見たいお年頃だったって訳。それに学校のことでも家のことでも、困っていることがあったら何でも相談してっていうから。あなたの秘密は絶対に外には漏らしません。あなたの話した内容は絶対にここだけの秘密にしますって。当時の私はあまりに無垢で。人を疑うってことを知らなかったから。だから私はスクールカウンセラーに駆け込んだ。予約制で、結構先まで予約が入っていて。それでも一生懸命何度も予約を入れて相談に通った。

 

 そこで私は必死に訴えた。毎日親の指導が厳しくて辛いです。頭をつかんで何度も何度も壁とかでっぱりに叩きつけられます。悪いことをすると家の外に追い出されます。気違いとか出来損ないとかよく言われます。土下座した頭を踏まれたり蹴られたりします。正直死にたいです。死にたくて死にたくてたまりません。殺されそうで怖いです。このままだといつか殺されます。殺されたくありません。殺されるのが怖くて夜中に起きたりします。

 

 いつか殺してやるって思ってしまう自分が怖いです。でも本当に死んでほしいです。殺される前に殺したい。正面からは勝てないので寝込みを襲って殺したい。皆殺しにしたいです。昔使ってた野球のバットでみんなの頭を滅多打ちにしたいです。妹も道連れです。私が殴られているとき黙ってみているだけで助けてくれないからです。それに一人でこれから生きていくのはきっと大変ですから。姉が殺人犯で家族もいないとか可哀そうです。だから一緒に送ってあげます。この間そんなことを考えていたら気が付いたら枕を小型のナイフでめった刺しにしていました。自分が自分でなくなってしまいます。私が私じゃなくなりそうで、どうにかなってしまいそうで怖いです。助けてください、なんて。

 

 まあ、まるで無駄だったけれど。家族なんだから大切にしなさいとか、ご両親なりにあなたのことが心配なのよ、とか。簡単に死にたいとか言っちゃダメ。生きたくても生きられない人なんてたくさんいるの。もしそんな人があなたの死にたいって言葉を聞いたらどう感じるか考えてみたら。親御さんの言う成績に届かないあなたにも落ち度があるんじゃないのかな。ちゃんと練習とか対策はしているの?みたいな。もっと頑張ってみて、それでも無理なら目標を下げてもらうとか、一度腹を割って親御さんと話しあってみなよ。大丈夫。親は子供を愛するものなんだから。

 

 どんなに厳しいことを言っても、本当は親御さんはあなたのことを愛しているのよ。あなたが死んだらそうした周りの人が悲しい思いをすることになる、それでもいいの?色々今までお世話してもらったり、ちゃんと学校とか習い事もさせて貰っているんでしょう。世界にはそうしたことがしたくても出来ない人のほうが多いのよ。自分は恵まれているんだって自覚を持たないと。親を殺したいとか、そんなことを軽々しくいってはいけないよ。親があなたを殺そうとするわけなんてない。何かの勘違いに決まっている。自分を棚に上げてあまり他人のことばかり悪く言うのはよくないと思うなみたいなことを言って。

 

 まあ、要はそういう綺麗ごとしか返ってこなくって。まあ、がっかりしたよねっていう話。結局お説教かよ、みたいな。相談に乗ってくれるって嘘だったんだ、みたいな。それでも頼れるのはスクールカウンセラーしかいないって思いこんでしまっていたから。このままだと殺される、先生は何もわかってない。このままだと私が殺されるか私が殺すかの二つに一つなんだ。私は殺したくない。妹だけは殺したくない。でもこのままだと殺しちゃう。きっと私はとまれない。先生、お願いだから助けて。どうか私が止まれるようにして。それが無理ならせめて殺して。もうこれ以上苦しいのも痛いのももう嫌って縋り付いて。きっと泣いてすがって。

 

 結局根負けしたスクールカウンセラーが担任と連携して対策を取ってくれるという話にはなった。最後まで親御さんなんだから大事にしたほうがいいと思うけどな、とか色々言われたけれど。それでも連携して対策してくれるって言ってくれたから。これで少なくとも少しは楽になる、私だって救われるかもしれないと思って。ありがとうございます先生、本当にありがとうって言って。

 

 スクールカウンセラーから連携を受けた担任がお宅の娘さんからこんな相談が上がってると連携を受けたんですが、実際のところどうですかって。よりにもよって三者面談の席で。私の目の前で、笑顔で父親に問いかけて。父親の横顔が凍り付く姿をいまだによく覚えている。全身から殺意というか、怒りがあふれ出すさまも。先生は、のほほんとほほ笑んでいたけれど。

 

 そうして分かったんだよね。スクールカウンセラーというのは屑の集まりだって。実際のちに夜の街でつるむようになった連中にも似たような経験をした子は少なからずいたから。

 

 スクールカウンセラーというのはそこにいるだけ、生きているだけで周りを不幸にする。周りに迷惑しかかけない。優し気な言葉で子供たちを誘惑して、肝心かなめの最後の局面で後ろから刺して子供たちを破滅させる。優し気な言葉で人を誘惑する姿はさながら悪魔。メフィストフェレスもびっくりというところ。職業に貴賎なし、とは言うけどスクールカウンセラーはその例外だって信じている。

 

 綺麗ごとを言ってまず子供の心を傷つけ、助けてあげると希望の光を鼻先でちらつかせた挙句に、もっとひどいところに突き落とす。ド級の人格破綻者の集まり。人が苦しむ姿に喜びを見出すいかれ野郎。人でなしの集まり。それがスクールカウンセラーなんだって。スクールカウンセラーに相談して状況がよくなった、なんて話は噂にすら聞いたことがない。スクールカウンセラーに相談した子はみんな前よりひどい目に遭っている。国とかはこんなに効果がありました、なんて言うのだろうけれど。データなんていくらでも嘘をつけるんだから。

 

 そしてその癖その後どうですか、なんて笑顔で聞けるんだから大したものだ。そこまで徹底しているともはや感心する。ただ二度は騙されてあげないから。にっこり笑って。だいぶ良くなりました、先生のおかげです。助かりました、ありがとうございますとは言うけれど。ひょっとしたらそうした声ばかり国は集めているのかな、なーんて。

 

 正直、ハンニバル・レクター博士。人喰いハンニバルと名高い、かのレクター博士とスクールカウンセラー、どちらと友達になる?って聞かれたら。私は喜び勇んでレクター博士とお友達になる。レクター博士も絶対に信じてはいけない人だけど。信用させて最悪の局面で刺してくる手合いだけど。嘘っぱちでも相談には乗ってくれそうだし、私が辛いよ、苦しいよと言ったら、それは可哀そうに、みたいに同情はしてくれそうだから。だから私はレクター博士とお友達になりたい。

 

 なーんて。そんなことを言ってみたところで仕方がないんだけど。結局私は大学へ進み、一度は家を離れることができたんだから。そこでも仕送りが極端に少なかったりして、バイトを複数入れてもとても生活なんてできそうになかったから。だったら身体でも売ろうかと思って。どうせ一度汚されたこの身体、二度も三度も変わらないでしょと思っていたし。身体を売っている子とか普通に周りにいたし。大学でも売春グループからお金困ってるんだったら入らない?顔悪くないし、細身でシュッとしているから売れると思うってオファーも受けていたから。だったら別にいいか。売れるんだったら何でも売ってしまえ、なんて。

 

 結局売れなかったんだけど。色々昔のことを思いだしてパニックになってしまったから。だいぶ迷惑もかけたし、だいぶ叱られたけど。事情を話して何とかグループに残ることを許してもらって。そこからは裏方としてバイトして日銭を稼いで生活してた。まあ、要は交渉役。あんまりおいたをしないようにお話したり。お話は昔から苦手ではなかったから。お話するのって、なんか。将棋とかチェスみたいだから。とは言っても、将棋はあまり強くないんだけど。チェスは弱い。まあ、それでも。変わったことと言えば小道具としてタバコを使うようになったことぐらい。

 

 結局はなめられないようにしつつ、なめたり余計なちょっかいをかけてくるようなら痛い目に遭う。そういうことを教えてあげるだけ。それだけの簡単なお仕事。まあ、昔みたいには身体も動かないし、動かすべきでもないけれど。何しろ大学はかなり有名な大学だったから。その分野を勉強したいんだったら目指す価値はあるし、なんだったら、この国で国立私立合わせても5本の指には必ず入る。そんな大学だったから。あんまり暴れて知られたら退学じゃすまされない。だから、あくまでそういう能力を持っていると教えてあげるだけ。

 

 それでもそこでのバイトはそれなりには楽しかった。昔の雰囲気を感じて。大学は、思ってたよりキラキラしすぎていたから。親から殴られたり気違いって言われたことなさそう、人を殴ったことなさそう、みたいな。別に悪い子たちではないけれど、ずっと一緒にいると息がつまるというか。それでも友達には似たような経歴の子が多かったからまだマシだったけど。でも、バイトはいい息抜きにはなった。

 

 それから大学院に進み、途中でやめ社会人に。その後再びの大学生。もう、キラキラの大学生を見てもなんとも思わない。息苦しくもなったりもしない。

 

 でも、時折こうしてお散歩をしていると昔のことを思い出す。夜の空気は昔も今も変わらないから。どことなく騒々しくて。どことなく静か。違うのはアルコールで火照った身体と、咥えたタバコだけ。馬鹿みたいに大きな眼鏡も、大きなヘッドフォンも変わらない。何も。何も変わらない。結局、私は昔も今も前に進めていないのだと思う。私はずっととまったまま。このままだと皆殺しにしてしまうと怯えていたあの頃のまま。そんな気持ちを引きずって私は本家に入る。婿を取る。

 

 でもやっぱり思ってしまう。婿を取るなら。友達になるなら。やっぱりハンニバル・レクター博士のほうがよっぽどいいって。私はハンニバル・レクター博士となら結婚できる。

 

 むしろ私は、ハンニバル・レクター博士と結婚したい。そんなことをつくづく思う。


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