TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:ブリザード
気づいたときには、差し出された名刺を両手で受け取って頭を下げていた。
差し出されたものを受け取る作法なら、向こうで体に染みつくほど覚えている。
考えるより先に体が動いてしまうのは、もう癖のようなものだった。
顔を上げると、スーツの女の人の目がほんの少しだけ丸くなっていた。
あんなにきれいに名刺を受け取る高校生は初めて見た、と篠原さんに言われたのは、それからずっとあとのことだ。
美咲は、まだ私の半歩前に立ったままだった。
莉子も、私の腕をぎゅっとつかんで離さない。
女の人は三人の顔を順番に見てから、もう一度小さく頭を下げた。
「篠原と申します。新しい人を見つけて、アイドルとして育てる仕事をしています」
てきぱきとした、よく通る声だった。
けれど、そのあとに続いた言葉は、少しだけ歯切れが悪かった。
「あの動画は……正直に言うと、何回見たかわかりません。途中で、数えるのはやめました」
まだ四回目だ、と言っていたお父さんのことを、なぜか思い出した。
数えるのをやめるほど見た人に、お父さんはたぶん追いつけない。
「でも、探して会いに来たわけではありません」
篠原さんは、そこだけはきっぱりと言った。
「コメント欄が閉じられて、特定はやめてください、と書き足されたのを見て……探すのはやめようと決めていたんです。そばに、ちゃんと守っている人がいるんだとわかったので」
美咲の肩が、わずかに動いた。
あのコメント欄を莉子に閉じさせたのは、美咲だ。
「今日は仕事の帰りでした。この駅は乗り換えに使っているので……声をかけるかどうか、ずいぶん迷いました」
探すのは、やめていた。
その言葉を聞いたとたん、私の指先は勝手に動き始めていた。
手のひらに小さな光を灯して、細い糸を相手の胸もとにつなぐ、『嘘検知』の術式だ。
向こうでは、聖女の力を欲しがる人ほど丁寧な言葉で嘘をついた。
だから私は丁寧な言葉を聞くたびに、この光で確かめてきたのだ。
「名刺だけでは、信用できないと思います」
組み立てかけた術式より先に、篠原さんが口を開いた。
「会社の代表番号にお電話いただければ、私がそこにいることを確かめていただけますので」
私は、指先の術式をそっと手放した。
光を灯さなくても、確かめる方法はある。
当然だろう。この国には、この国の確かめ方があるのだ。
それに美咲と莉子の目の前で、手のひらを光らせるわけにもいかない。
色々とばれてしまうからだ。
「……それで、あの、ご用件は何でしょうか」
美咲の声は、まだ硬いままだった。
篠原さんは美咲にうなずいてから、まっすぐに私を見た。
「すいませんがうちの事務所で、アイドルとして歌ってみませんか」
アイドル。
テレビの中で、ひらひらした衣装を着て、くるくると踊っている、あの女の子たち。
その言葉が頭に届いた瞬間、私の中の男子の部分は、白旗を上げる暇もなく、ばったりと倒れた。
「アイドル……!」
莉子が小さく叫んで、私の腕をさらに強くつかんだ。
まさかぁ、と笑おうとした。
カラオケの部屋でも教室でも、私はそう言って笑ってきたのだから。
けれど三度目のまさかぁは、喉の奥でつっかえたまま、とうとう声にならなかった。
「……ごめんなさい」
口から出てきたのは、外向きの丁寧な声だった。
「私、平穏に、目立たないように暮らすって決めているので」
断る言葉は、自分でも驚くくらいすんなりと出てきた。
いくらでも断る理由なら並べられる。
真壁さんとの約束も、家族のことも、誰にも言えない私の本当のことも。
でも篠原さんは、当然のように少しも困った顔をしなかった。
「いえ、答えは今日でなくてかまいませんよ。ご家族とも、ご相談ください」
それから、ほんの少しだけ表情をやわらげる。
「もしもう少しお話を聞いていただけるなら、そのときはご家族とご一緒に……よろしければ、お名前を伺っても?」
「それは、おうちの人と相談してからでもいいですよね」
答えたのは、私ではなく美咲だった。
「……おっしゃるとおりです。失礼しました」
篠原さんがあっさりと引き下がると、美咲の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
私の首の後ろに残っていたひやりとしたものも、少しだけ溶けた気がする。
「ひとつだけ、伺ってもいいでしょうか。歌は、どこかで習っていたんですか?」
少し考えてから、私は答えた。
「……遠くの、教会みたいなところで。毎日のように歌っていました」
嘘ではない。
向こうで聖女として、祈りの歌を、聖歌を数えきれないほど歌ってきたのだから。
「聖歌隊!?」
「うん……そんな感じ、かな」
目を輝かせる莉子に、私は曖昧に笑ってうなずいた。
莉子の口から聖歌という言葉が飛び出したのには、少しだけどきりとしたけれど。
篠原さんは、しばらく黙って私の顔を見て、それから静かに言った。
「あの……歌うのは、好きですか?」
ロータリーを回るバスの音が、ふっと遠くなっていく。
信号ののんびりした電子音もどこか遠くで鳴っているみたいだった。
好きですか。
そんなことを聞かれたのは、たぶん初めてだった。
向こうにいた時は歌うのは、それが聖女の役目だったから。
戦いのあとの礼拝堂で、夜が明けるまで歌い続けた夜も、誰も私に好きかとは聞かなかった。
私自身、そんなことを考えたことは一度もなかった、と思う。
答えようとして口を開いたけれど、言葉はひとつも出てこなかった。
「その答えが出ましたら、連絡をください」
篠原さんはそれだけ言うと、美咲と莉子のほうにも向き直って深く頭を下げた。
「お友達の方々も、驚かせてしまってすみませんでした」
背筋のまっすぐな背中が、改札のほうへ遠ざかっていく。
私は名刺を両手で持ったまま、その背中が人の波に紛れて見えなくなるまでその場から動けなかった。
篠原さんの姿が見えなくなったとたん、莉子が私の腕を両手でぶんぶんと振った。
「アリサ! スカウトだよ、スカウト! 本物の!」
「り、莉子、腕が取れちゃうって……」
「だってアリサ、アイドルだよ!? テレビに出るやつ!」
莉子は跳びはねるようにはしゃいでから、急にぴたりと動きを止めた。
大きな目が、みるみるしぼんでいく。
「でも……あたしの動画のせい、だよね」
「ううん莉子のせいじゃないよ」
それは本当のことだった。
歌ったのは私で、いいよと言ったのも、間違いなく私だ。
「でもね」
莉子は私の腕をつかんだまま、小さな声で続けた。
「あたし、アリサが歌ってるとこ、また見たいな……あ、でも、いやならいやでいいんだからね! ほんとに!」
慌てて付け足す莉子に、私は少しだけ笑ってしまう。
動画を上げてくれたあの夜も、莉子はアリサの歌をみんなに見てほしくて、と書いていた。
たぶん莉子は、あの夜からずっと、同じことを思ってくれているのだ。
「それにアイドルになるなら、なおさら私服をなんとかしないと!」
「まだなるって言ってないよ、莉子」
「あたしなんかね~、親睦会の前に、あの曲をひとりカラオケで練習したんだから!」
「……ひとりで入るの? カラオケって」
「入る入る! ひとり用の部屋もあるし!」
「莉子……練習して、あれなのね」
「ちょっとひどぉい! 美咲ぃ!」
あの曲、親睦会で莉子が歌っていた、今いちばん流行っているというあの曲のことだ。
少し調子っぱずれだったけれど、あの日の莉子は、部屋の誰よりも楽しそうに歌っていた。
莉子をひとしきりからかってから、美咲が前を向いたまま言った。
「……ちゃんとした人、っぽかったわね」
「美咲もそう思った?」
「でも言われたとおり、代表番号で確かめるのよ。おうちの人と一緒に」
美咲は、きっぱりと続けた。
「名刺なんて、今じゃ作ろうと思えば誰でも作れるんだから……もし変な人だったら芹沢さんに連絡して、二人で止めるわ」
「えぇ……」
今日交換したばかりの連絡先が、さっそく役に立とうとしている。
あの二人が組んだら、たぶん私じゃあとても勝てない。
分かれ道で二人と別れると、駅前のにぎやかさが嘘みたいに住宅街は静かだった。
ぽつりぽつりと、街灯がつき始めている。
歩くたびに、ポケットの中の名刺の角が、指先に小さく当たった。
「おかえり! おみやげは!?」
玄関のドアを開けるなり、陽菜が階段を駆け下りてきた。
ただいま、と言う暇もない。
「はい、これ。おそろいの」
紙袋から、淡い色の小さなリボンが結び目についたヘアゴムを取り出す。
同じものが二つ、私の手のひらの上に並んでいた。
「かわいいー! お姉ちゃん、ありがとう!」
陽菜は、私の首にぎゅっと抱きついた。
それから体を離して、ぱちぱちとまばたきをする。
「……お姉ちゃん、その髪!」
「え? ああ、これ? 莉子が結んでくれたんだ」
「すっごくかわいい! その星のも! 明日、陽菜もそれやって! おそろいで!」
その日の夕ごはんは、鶏のからあげだった。
大皿のからあげの山を、私がひとりで半分にしたところで、お母さんが聞いた。
「アリサは好きなもの、買えたのかしら?」
朝、お小遣いを握らせてくれたときと、同じ声だった。
「うん、これだよ」
私は髪から星のヘアピンを外して、テーブルの上にそっと置いた。
細いピンの先で、銀色の小さな星が、ダイニングの明かりを受けて光っている。
「あら、いいじゃない。アリサが選んだの?」
「そうだよ。自分で選んだんだ」
お母さんは、なんだかとてもうれしそうに目を細めた。
私は少しだけ迷ってから、ポケットの中のものを取り出した。
「それとね……今日の帰りに、駅前で声をかけられて」
星のヘアピンの隣に、一枚の名刺を置く。
聞いたことのある、大きな芸能事務所の名前が印刷された名刺だ。
「芸能事務所の人……アイドルにならないかって」
「アイドル!? お姉ちゃんが!?」
陽菜は箸を持ったまま、椅子の上で跳び上がった。
「すごいすごい! 陽菜、学校で自慢する!」
「陽菜、まだ何も決まってないから」
「だって、陽菜のお姉ちゃんだもん!」
お父さんは、しばらく黙って名刺を見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「……その人は、動画を何回見たって?」
「え? ……数えるのは、やめたって。それくらい見てたって」
「……そうか」
お父さんは、それきり黙りこんだ。
陽菜がにんまりと笑う。
「お父さん、負けてるー」
お父さんは何も言わずに、お茶碗を顔の前まで持ち上げた。
新聞がないときは、お茶碗だ。
「でも、断ろうと思ってるんだ」
言うと、陽菜が、えーっ、と声を上げた。
「真壁さんに、平穏に暮らしてくださいって言われたでしょ。目立たないように暮らすって、決めてたし」
言いながら、私は指を折っていった。
断る理由なら、駅前からの帰り道でもう全部数えてある。
「それに、下手に目立ったら……昔のことを調べようとする人が、出てくるかもしれない。三年前に、私がいなくなったこととか」
町内の人たちは、三年前に白絃家の息子がいなくなったことを、みんな知っている。
親戚の子を引き取った、というお母さんの話をみんなが信じてくれているのは、誰もそれ以上を調べようとしないからだ。
「お父さんたちにも、陽菜の学校にも、迷惑がかかるかもしれないし……」
お母さんが、静かに箸を置いた。
「アリサ」
いつもののんびりした声とは、少しだけ違っていた。
「お母さんが聞いてるのは、周りの理由じゃない。アリサがやりたいかどうかだけよ」
私は何も言えなくなった。
やりたいかどうか。
聞かれてみると、その答えだけは、私の中のどこにも見当たらなかった。
お父さんが、お茶碗をテーブルに戻して私の方を向きなおす。
今度は顔を隠さなかった。
「……アリサ。お前が、もし誰かのためにやるって言うなら、お父さんは当然反対だ」
静かな声だった。
あの日、優がクラスのみんなの代わりにひとりで行ったことを、お父さんは知っている。
帰ってきたあの夜、私が三年分の話を全部したのだから。
「でも、お前がやりたいって言うなら……話を聞きに行く日には、お父さんが有給を取る。有給なら、まだ……」
「……山ほど残ってるんでしょ」
私が先に言ってしまうと、陽菜がぶはっと吹き出した。
お父さんは少しだけ口をへの字にしてから、黙ってからあげに箸を伸ばした。
三人とも、私の答えを待っているようだ。
誰も私の道をふさいではいない、ただの魔王軍の包囲網なら逃げ道を探せばよかった。
どこへでも行けるはずなのに、どこへも進めない――決められないのは、たぶん初めてだった。
「すぐに決めなくていいわ」
お母さんは、テーブルの上の星のヘアピンに目を落とした。
「……好きなものは、自分で選べたんでしょう?」
それからいつもの調子に戻って、のんびりと言った。
「そうだ。真壁さんにも聞いてみたら、どう? 平穏に、って言ってくれたのは、真壁さんなんだし」
その夜、私は机の引き出しを開けた。
いちばん上に入っているのは、名前の欄に『白絃優』と書かれた卒業証書だ。
その下から、帰ってきた次の日にもらった、一枚の名刺を取り出す。
『異世界召喚対策研究所』と、『真壁』の文字。
篠原さんの名刺を、その隣に並べてみた。
片方には、ずいぶんそのまんまな名前の機関。
もう片方には、聞いたことのある、大きな芸能事務所。
平穏に暮らしてください。
歌うのは、好きですか。
二枚の名刺は、まるで反対のことを言っているみたいに見えた。
ベッドに寝転がって、天井を見上げる。
「好きかどうか、なんて……」
そんなこと、考えたこともなかった。
向こうで歌うのは、聖女の役目だった。
祈りの歌も、鼓舞するための歌も、歌えば誰かの傷が癒えて、誰かが立ち上がれたから歌ってきた。
名前も、役目も、歌も、全部誰かの望みで、誰かから受け取ったものだった。
それに、アイドルという言葉には、どこか覚えがあった。
大勢の人に見上げられて、名前を呼ばれて、手を振られる。
向こうで聖女と呼ばれていた私も、そうだった。
けれど、向こうで私を見上げていたのは、いつも何かを頼みに来る目だった。
助けてください、聖女様。
守ってください、聖女様。
救ってください、聖女様。
アイドルになったら、私はまた、誰かの願いを映すための飾りになるのだろうか。
駅前で組み立てかけた術式のことを、思い出す。
篠原さんの言葉なら、会社の代表番号で確かめられる。
けれど、私自身が歌うのが好きかどうかは、誰に聞いても、どんな魔法を使っても、確かめられない。
『嘘検知』の光は、嘘をつけば赤黒く濁る。
でも、答えを持っていない人の胸に糸をつないでも、光は何も教えてくれないのだ。
答えが出ないまま、私は起き上がって、部屋の明かりを消した。
暗くなった机の上で、星のヘアピンだけが、窓から差しこむ街灯の明かりを受けて、小さく光っていた。
日曜日の朝、洗面所の鏡の前で、私は陽菜の髪を手に取った。
「おそろいのやつね! 昨日のやつ!」
「はいはい」
昨日、莉子がやってくれた手つきを思い出しながら、髪の上のほうだけをすくい上げる。
くるりとまとめて、陽菜に買ってあげたおみやげのリボンのヘアゴムで留めると、それらしい形になった。
……なった、はずだったんだけど。
「……お姉ちゃん、ちょっと右に寄ってるよ」
「あれ?」
「へたっぴー」
鏡の中の陽菜は、そう言って笑ったけれど、髪をほどこうとはしなかった。
そう言えば帰ってきて最初の月曜日に初めて陽菜に結んだポニーテールも、こんなふうに傾いていた気がする。
私も同じように自分の髪をまとめて、もう一つのリボンのヘアゴムで留めた。
鏡の中に、少しだけ傾いたおそろいのハーフアップが、二つ並んだ。
「お姉ちゃん」
陽菜が、鏡の中の私に向かって言った。
「アイドルになっても、朝の陽菜の髪はお姉ちゃんがやってね」
「あのね……まだ、なるって決めてないよ」
「なっても、だよ♪」
陽菜はそれだけ言うと、満足そうに結び目のリボンを指でつついた。
真壁さんへの電話は、日曜日の朝から電話をかけるのは流石に失礼な気がした。
だからお昼ごはんを食べて、少しだけ宿題とか勉強をして、何度も時計を見てから私はようやくスマホを手に取る。
番号は、すでにお母さんに聞いておいている。
電話をかけると、呼び出し音が二回鳴った。
「はい、真壁です……アリサさん?」
「お休みのところすみません。少しだけ、相談したいことがありまして」
私は、昨日の駅前でのことを話した。
篠原さんのこと、名刺のこと、アイドル、という言葉のこと。
真壁さんは、ひとことも口を挟まずに、最後まで聞いてくれた。
「なるほど……あの動画のことは、存じています」
少し間を置いてから、真壁さんは言った。
「日比野が、毎晩のように見ていますので」
「え……毎晩、ですか」
「測定させてほしいと言って、聞きませんよ」
日比野さんらしいなと思って、私は少しだけ笑ってしまった。
それから、いちばん言いにくかったことを口にした。
「平穏に暮らしてくださいって、言われたのに……ごめんなさい。私、目立たないように、普通に暮らすつもりだったんです」
電話の向こうが、私の言葉の後しばらく静かになった。
「アリサさん、それは違います」
真壁さんの声は、帰ってきた次の日に、車の中で聞いたのと同じ声だった。
「私があのとき言った平穏というのは、目立たずに、世間から隠れて、世捨て人のように暮らすことではありません」
私は、思わずスマホを握り直した。
「それは学校に行って、友達と遊んで、ご家族とご飯を食べる……あなたが、あなたの毎日を誰にも取り上げられず、あなたとして暮らすことです。それを守るのが私たちの仕事だと、あのときも申し上げました」
少しだけ、間があった。
「それがあなたが自分で選んだ日々ならば、なおさらですよ」
その言葉で、胸の奥にずっと固く結ばれていた何かが、少しだけゆるんだ気がした。
「でも……目立ったら、私の昔のことを調べる人が、出てくるかもしれません」
「それは、私たちが考えることです。あなたが心配すべきことではありません」
真壁さんの声は、きっぱりとしていた。
三年間、私を捜し続けてくれた刑事さんの声だった。
「アリサさんが考えるのは、やりたいかどうか、それだけで十分です」
電話の向こうで、かさり、と紙を開くような音がした。
私は、ちらりと時計を見た。
ちょうど、三時だった。
「……真壁さん。もしかして今、どら焼き食べてます?」
「……日曜日も、三時は三時ですので」
私は、とうとう声を出して笑ってしまった。
電話を切ると、部屋の中が、急に静かになった。
周りの理由は、真壁さんが引き受けてくれた。
誰かのためという理由は、お父さんが先にふさいでしまった。
残ったのは、私がやりたいかどうか。
それだけだった。
それを確かめる方法を、私はひとつしか思いつかなかった。
「お母さん、ちょっと出かけてくる」
「あら、どこへ行くの?」
「ちょっと……駅前まで」
台所から顔を出したお母さんは、私の顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。
「いってらっしゃい、アリサ」
玄関で靴を履きながら、私は小さく息を吸った。
ひとりで、知らない場所へ向かう、それは三年前のあの日と同じだ。
けれど今日の私は、誰かの身代わりでも、誰かの象徴でもない。
白絃アリサである、私自身だった。
向かった駅前のカラオケのお店は、親睦会で来たのと同じところだった。
受付のお兄さんは、私の顔を見てほんの一瞬だけ手を止める、やはりここでも話題にはなっていたらしい。
「ええと、今日は……おひとりさま、ですか?」
「はい。ひとりでお願いします」
案内された部屋は、思っていたよりずっと狭かった。
親睦会の大部屋の、半分のそのまた半分くらいしかない。
一回小さなソファに座って、マイクを握る。
画面の端の採点の表示については、少し迷ってから消した。
今日の歌に、点数なんかは必要ない。
最初に入れたのは、中学一年の春に流行っていた、アニメの主題歌だった。
親睦会で、最初に歌ったのと同じ曲だ。
イントロが流れ出すと、私はいつものように、深く息を吸った。
向こうで、人々のための祈りの歌を歌う前と同じように。
そのとき指先が胸の中にあるスイッチへ、勝手に伸びかけた。
『癒しの聖歌』。
向こうで歌うときは、いつもこのスイッチを入れていた。
けれどこの狭い部屋には、癒す相手などひとりもいない、必要ない。
行き場をなくした指を、私はそっとマイクに戻した。
歌い出しの声が、狭い部屋の壁に跳ね返って、思ったよりずっと大きく聞こえた。
誰も手拍子をしない。
誰もタンバリンを鳴らさないし、誰も泣かない。
私の声だけが、この小さな部屋の中を、行ったり来たりしていた。
二曲目は、莉子が親睦会で歌っていた、今の流行りの曲にした。
一度聞いただけなのに、メロディも歌詞も、ちゃんと頭の中に残っている。
調子っぱずれでも、あの日の莉子は、本当に、心から楽しそうに歌っていた。
それから私は、タッチパネルの曲の一覧を、上から順にめくっていった。
知らない曲ばかりだった。
三年分の流行が、私の知らないところで生まれて、流れて、ここに並んでいた。
試しに、題名だけで選んだ曲を、ひとつ入れてみる。
イントロが終わったとたん、メロディがまったくわからないことに気づいた。
歌詞の文字が画面をどんどん流れていくのに、私の声はひとつも追いつけない。
盛大に、音を外した。
それはもう、自分でもびっくりするくらい、思いきり外した。
「……ふふっ、あははは」
気づけば、ひとりで声を出して笑っていた。
マイクを通した私の笑い声が、狭い部屋いっぱいに響く。
そういえば向こうでは、ひとつの間違いが誰かの命に関わるものだった。
けれどここでは、どれだけ音を外しても、何も不発しないし暴走しない。
誰も傷つかないし、誰も困らない。
私は、もう一度同じ曲を入れた。
同じ曲を入れても歌っても誰も顔をしかめないし、間違えてもやり直すことができる。
そんな事すら、私は忘れていた。
二回目に歌った時は、気が楽になったのかちゃんと歌えた。
部屋の電話が鳴ったのは、それから何曲目のことだったかもう覚えていない。
「お時間、終了の十分前です。延長いたしますか?」
「……あ、延長で、お願いします」
受話器を置いてから、自分の言ったことに、少しだけ驚いた。
もう少しだけ。
そんなふうに、自分のための時間を自分で延ばしたのは、私としてはたぶん初めてだった。
延長後は、ソファから立ち上がって歌った。
半歩前へ出るのは、いつも、誰かを背中で隠すためだった。
誰もいない部屋で、自分のために前へ出たのは、随分と久しぶりだったような気がする。
最後の音が消えると、部屋の中がしんと静かになった。
曲の合間の真っ黒な画面に、マイクを握った銀髪の女の子が映っている。
得意そうな顔でも、泣きそうな顔でもない。
ただ、笑っていた。
誰も聴いていない部屋で、誰のためでもなく歌った、初めての歌だった。
『癒しの聖歌』のスイッチには、指一本触れていない。
それなのに、いつの間にか軽くなっていたのは、私の胸のほうだった。
「歌うのは、好きですか?」
篠原さんの声が、耳の奥で、もう一度聞こえた気がした。
「うん……好きなんだ。歌が」
声に出してから、自分で少しびっくりした。
私の中の男子の部分も、歌っているあいだはひとことも文句を言わなかった。
お店を出ると、駅前のロータリーは夕焼けの色に染まっていた。
親睦会の帰りにも、昨日の帰りにも見た景色だ。
昨日、篠原さんに呼び止められたのも、ちょうどこのあたりだった。
私はスマホを取り出して、いつもの三人のグループを開いた。
少し考えてから、文字を打ち始める。
『昨日、駅前でスカウトされた』
『アイドルの』
既読は、すぐに二つ付いた。
『はぁ!?』
『ちょっと待て、情報量!!』
颯太の書きこみが、続けざまに流れてくる。
私は、もう一行だけ打った。
『やってみようと思うんだ』
『優がアイドル……』
『だめだ、腹いてえ』
帰ってきた次の日の夜、スカート姿の私を見て、颯太は玄関先で笑い転げていた。
たぶん今も、部屋のどこかで、同じように転げているのだろう。
少しして、湊の書きこみが届いた。
『……ちゃんと自分で決めたのか』
夕焼けの中で、私はその一行をしばらく見つめていた。
湊が聞きたいのは、たぶん、誰が決めたのか、ではない。
誰のために決めたのか、だ。
『うん、自分で決めたよ』
送ると、すぐに返事が来た。
『ん』
『なら、いいんだ』
その下に、颯太の書きこみが続く。
『いいじゃん、やれよアリサ様。でも、チケットはお願いな』
最後に、湊から、もう一行だけ届いた。
『いや……チケットは自分で買うから、ねだるな颯太』
私は夕焼けのロータリーで、ひとりで小さく吹き出した。
聖女は、頼まれてなるものだった。
ならアイドルは、なってみたいから、なってみるものなのかもしれない。
家に帰ると、リビングにはもう夕ごはんのいい匂いが漂っていた。
お父さんはソファで新聞を広げていて、お母さんは台所、陽菜はソファの端でクッションを抱えている。
陽菜のハーフアップは、朝のまま、少しだけ右に寄っていた。
「ただいまー」
「おかえり、アリサ」
私はリビングの真ん中に立って、小さく息を吸った。
「お父さん、お母さん」
お母さんが、台所から顔を出した。
お父さんの新聞が、ほんの少しだけ下がる。
いまでも怖い理由なら、いくらでも言える。
また誰かの役目になるかもしれないこと。
知らない人たちに見られること。
帰ってきたばかりの毎日が、変わってしまうこと。
けれど、怖い理由ばかり並べているあいだは、私は自分の本当の気持ちを、ずっと後ろのほうに隠していたのだ。
星のヘアピンを選んだときのことを思い出す。
誰かのためでも、役目のためでもなく、手を伸ばした小さな星。
あのとき胸の奥がきゅっとなったのは、女の子の私でも、男の子だった私でもなく、ただの私だった。
今も、同じだった。
「私、歌うのが好きみたい」
言ってから、少しだけ息を吸った。
「カラオケで歌ったとき、聖女の力を使ってないのにみんなが聞いてくれて、それが嬉しかった。だから……」
お父さんも、お母さんも、陽菜も、何も言わなかった。
急かす人も代わりに決める人もいない。
だからこそ、最後は私が言わなければいけなかった。
「私、やってみたいんだ。誰かに頼まれたからじゃなくて、私が、私自身が歌を歌ってみたいの」
言い終えると、部屋が急に静かになった気がした。
自分の声が、思っていたよりはっきりと響いていた。
「……後悔しないのか」
お父さんの問いに、私はすぐに首を横に振った。
「ううん。逆にこのままやらなかったら、きっと後悔する」
それは、考えてから出した答えじゃなかった。
口に出してから、ああ本当に私はそう思っているんだと、自分でわかった。
そんな私を見て、お母さんはただふわりと笑って、そう、とだけ言った。
「……そうか」
お父さんは、それだけ言って、また新聞を持ち上げた。
陽菜はクッションを放り出して、ソファの上で跳びはねた。
「やったー! お姉ちゃんがアイドル!」
「まだ、話を聞きに行くだけだってば、なれるとは限らないから」
ポケットから、篠原さんの名刺を取り出す。
昨日はうまく頭に入ってこなかった文字が、今日はちゃんと読めた。
名刺の番号を一つずつ押していくあいだ、リビングはしんと静かだった。
お父さんの新聞は、さっきから一枚もめくられていない。
呼び出し音が、一回、二回と鳴る。
「はい、篠原です」
「もしもし……昨日、駅前で名刺をいただいた者です」
ほんの少しだけ、間があった。
「……はい。お電話いただきまして、ありがとうございます」
篠原さんの声は、昨日と同じようにてきぱきとしていた。
けれど、どこかほっとしたような響きがまじっていた気がする。
「私、白絃アリサです」
昨日、駅前で美咲が止めてくれた名前を、今度は私が、自分で名乗った。
「白絃、アリサさん……ですね」
篠原さんが、確かめるようにゆっくりとくり返す。
帰ってきてすぐのころ、真壁さんも電話の向こうで、同じように私の名前をくり返した。
書類の上の名前を、私が自分で決めた日のことだ。
「昨日の、答えです」
私は、名刺を持つ手に、少しだけ力をこめた。
「……歌うのは好きです、好きなんです。だから、やってみたいです」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
「……ありがとうございます」
その声が、ほんの少しだけ震えているように聞こえたのは、たぶん気のせいではないと思う。
数えるのをやめるほど、あの動画を見た人の声だった。
「では、ご家族とご一緒に、一度事務所へいらしてください」
篠原さんはそこで言葉を切ったので、お母さんに電話を代わってもらって、事務所へ行く日を決めてもらう。
はい、はい、来週の水曜日ですね、と弾むお母さんの声を聞きながらソファのほうを見ると、お父さんはもう新聞を畳んで、スマホで何かを打ちこんでいた。
「……お父さん、何してるの?」
「有給の申請だ」
陽菜が、また吹き出した。
その夜、私は部屋のカレンダーの、来週の水曜日の欄に、『事務所』と書きこんだ。
『買い物』と書いたときより、少しだけ字が大きくなった。
そこから先は、あれよあれよという間だったと思う。
けれど、いちばん最初の一歩だけは、ちゃんと自分で、自分自身で選んだ。
机の上で、星のヘアピンが小さく光っている。
あの星を選んだ次の日に、私は歌うことを選んだ。
それが、私が私として自分で選んだ、二つ目のものだった。