「おはようございます」
受付のお姉さんに笑顔でそう言われて、私は思わず窓の外を見た。
大きなガラスの向こうで、都心のビルの群れが、夕焼けの色に染まっている。
時計の針お、ちょうど夕方の五時を指していた。
「え……おはよう、ございます?」
もう夕方なんですけど、という言葉は、どうにか喉の奥に押しこんだ。
「あら……おはようございます」
隣のお母さんは、一秒で何かを察したらしく、のんびりと笑って頭を下げた。
その反対側で、緊張しているお父さんがぎくしゃくと背筋を伸ばす。
「お、おはようございます」
お父さんは今日のために、わざわざ有給を取ってくれていた。
それなのに、なぜか会社に行くときと同じスーツを着ている。
電車の中から数えて、父さんがネクタイを直すのはこれで五回目だったと思う。
「……お父さん。有給なのになんでスーツなの」
「娘の大事な日だからな」
受付のお姉さんが、来客用の事務所のパンフレットを一部ずつ渡してくれた。
お父さんは名刺のようにそれを両手で受け取って、深々と頭を下げている。
篠原さんが下りてくるのを待つあいだ、パンフレットを眺めながら私はこの三日間のことを思い出していた。
月曜日の朝、教室で決めたことを美咲と莉子に話すと、莉子は教室じゅうに聞こえる声で叫びかけて、美咲に口をふさがれた。
美咲は莉子の口をふさいだまま、訝しそうな目で私のほうを見ている。
「……代表番号は、ちゃんと確かめたのよね?」
美咲は、その日のうちに、同じことを三回聞いた。
もちろん代表番号には、月曜日のお昼にお母さんが電話をかけてくれた。
篠原さんはちゃんとそこに、その事務所にいることは間違いない。
その夜には真壁さんからも電話があって、研究所でも念のため確かめておきました、とだけ言われた。
陽菜は今朝学校に出かけるまで一緒に行きたがっていたけれど、中学から帰ってきてからでは流石に間に合わないので、留守番と言うことにになった。
「帰ったら、全部話してね!」
玄関でそう言った陽菜のハーフアップは、今朝もまだ少しだけ右に寄っている、難しいものだ。
ロビーの壁には、事務所に所属している人たちのポスターが、ずらりと並んでいた。
テレビで見たことがありそうな顔もあるのに、今私が見てすぐに名前が出てくる顔は大分少ない。
三年分の流行りは、こんなところにも並んでいるらしい。
その中に、四人組のバンドのポスターが一枚あった。
真ん中で笑っている女の人の上に、『ルーメン』という名前が書かれている。
それもやっぱり、私の知らない名前だった。
「おはようございます、白絃さん」
エレベーターのほうから、聞き覚えのある、よく通る声がした。
篠原さんは今日もスーツ姿で、髪をきっちりとまとめていた。
「ご両親の方もお忙しいところに来ていただき、ありがとうございます」
「いえ、今日は有給ですので」
それ、言わなくていいやつだよ、お父さん。
心の中でつっこむ私の隣で、お母さんの肩が小さく震えていた。
篠原さんは少しだけ目を丸くしてから、私のほうを見て、くすりと笑った。
「驚かれましたよね。この業界ではその日に初めて会ったときは、何時でもおはようございます、なんですよ」
「……夜でも、ですか?」
「ええ。夜でも、です」
篠原さんに案内されて、エレベーターで上の階へ上がった。
扉が開くとまっすぐな廊下の両側に、同じような扉がいくつも並んでいる。
足もとから、低い音楽がかすかに伝わってきた。
「この階はレッスン室とスタジオです。お話は、奥にある会議室の一つでさせていただきますね」
歩きながら、篠原さんが手のひらで扉を順番に示していく。
いちばん手前の扉には、小さな窓がついていた。
窓の向こうでは、レッスン着の女の子たちが大きな鏡の前で踊っていた。
先生の手拍子に合わせて、何人もの体がいっせいにくるりと回る。
たぶん、私と同じくらいの年の子たちだ。
私は思わず、足を止めていた。
私も、あれをやるのだろうか。
くるりと回るいかにもかわいらしい振り付けを見ただけで、私の中の男子の部分はもう白旗の準備を始めていた。
私は覚悟を決めたのだからそんなに早く降伏しないでほしい、と自分に言い聞かせる。
「白絃さん?」
「あ……すみません。今、行きます」
廊下の突き当たりの少し手前で、ひとつ、重そうな扉が半分開いていた。
中から、ギターとベースの音が漏れてくる。
同じ短いフレーズを、確かめるように何度もくり返していた。
その扉から、ちょうど男の人がひとり出てきた。
三十代くらいで、手には二本のスティックをまとめて握っている。
ロビーのポスターで、いちばん端に立っていた人だった。
「篠原さん! ちょうどよかった」
「どうしたんですか、そんな顔をして?」
男の人は、がしがしと頭をかいて口にする。
「橘がまだ着かないんだよ。地方の仕事の帰りで、乗ってた新幹線が止まったって。マネージャーと一緒に新幹線の車内に缶詰めで、着くのは一時間以上あとなんだ」
「明日のライブ、ですよね」
「そう。明日初めてライブでやる新しいアレンジを、今日のうちにエンジニアさんと詰めておきたかったんだ。朝からずっと合わせる作業をしてて、あとは歌だけなんだけど……エンジニアさんは、六時には次の現場に行きたいって」
男の人は、半分開いた扉の中を、ちらりと振り返った。
「楽器だけなら、いくらでも合わせられる。でも、歌が入ったときの楽器の音量とか、足もとの返しとかは、歌がないと決められなくてさ。さっき、うちのギターが一オクターブ下で歌ってみたんだけど」
「……俺じゃ、無理だった」
扉の奥から、ぼそりとした声が返ってくる。
「声の高さが違いすぎて、聞こえ方がぜんぜん違ってくるんだ。誰か歌える子いないか?……って言っても、一時間だと知らない曲を覚えてもらって歌える子なんて、いないよな」
篠原さんは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。今日は来られているお客様をご案内していて……」
男の人の視線が、篠原さんの後ろにいる私たち三人に移った。
そのとき扉の中で、ベースの低い音が鳴った。
その音は、床を伝って足もとから上がってきて、私の胸の真ん中まで届いた。
ギターがその上に明るいフレーズを重ねていく。
知らない曲だった。
私がいなかった三年のあいだに、私の知らないところで生まれた曲のひとつなのだろう。
日曜日のカラオケのタッチパネルにも、そういう曲がずらりと並んでいた。
気づいたら、私の足は、半歩前へ出かけていた。
困っている人の前に出るのは、向こうでは聖女の役目だったから。
考えるより先に、体が勝手にそう動いてしまう。
けれど、その足はそこで止まった。
お前が、もし誰かのためにやるって言うなら、お父さんは当然反対だ。
いつかのお父さんの静かな声に応えるように私は胸の前で、そっと手を握った。
これは、誰かを助けたいから?
ううん、違う。
ギターがもう一度前奏を鳴らしたとき、私の喉は、勝手にその上の音を探していた。
困っている人がいるからじゃない。
あの音の中に、私の声を置いてみたいのだ。
今なら、自分の胸に糸をつないでも、光はきっと白いままだと思えた。
知らない曲を、知らない人たちの前で歌う。
失敗したら、と考えなかったわけではない。
けれどここでは、間違えてもやり直せることを、私はもう知っていた。
「あの……私、歌ってみてもいいですか?」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
外向きの丁寧な声には違いないけれど、駅前で断ろうとしたときの声とは、まるで違っていた。
「え?」
「白絃さん?」
男の人と篠原さんの声が、ほとんど同時に重なった。
男の人は私の顔をまじまじと見て、それから目を見開いた。
「……あぁ、もしかして、あのカラオケの動画の子? 篠原さんが、事務所じゅうに見せて回ってた」
篠原さんが、こほん、と小さく咳払いをした。
途中で数えるのをやめた、というのは、どうやら本当のことだったらしい。
「でも、うちの曲、知らないよね?」
「知りません。でも……一回だけ、聞かせてもらえますか? 多分それで行けます」
男の人は、半信半疑という顔で、篠原さんを見た。
篠原さんは、少しだけ迷うように私を見てから、静かに口を開いた。
「白絃さん。今日は、お話を伺うだけの日です。無理はしなくてもいいんですよ」
「いえ、無理じゃないですよ。歌ってみたいんです」
篠原さんの目が、ほんの少しだけ色を変えた。
駅前で、歌うのは好きですか、と私に聞いたときと、同じ色だった。
篠原さんは、お父さんとお母さんのほうへ向き直った。
「ご両親は……いかがですか?」
私は、お父さんを振り返った。
スーツ姿のお父さんは、パンフレットを持ったまま、じっと私の顔を見ていた。
「お父さん……これは頼まれたからじゃないよ。私が、歌ってみたいの」
お父さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと一度だけ、うなずいた。
篠原さんは小さく息を吐いて、男の人のほうを向いた。
「録音はしないでもらえますか、あくまで今日の調整のためだけ。それなら事務所の人間として、私が責任を持ちましょう」
「そうだな……時間もないし。やってみよう」
男の人は腕時計を見てそう言うと、半分開いていた扉を大きく開けた。
扉の向こうへ一歩踏み出した私の背中に、お母さんの声が届いた。
「いってらっしゃい、アリサ」
家の玄関で聞くのと、まったく同じ声だった。
重い扉が閉まると、廊下の音がふっと消えた。
扉には、レッスン室と同じような、小さな窓がついていた。
スタジオの中は、思っていたよりずっと広かった。
壁は分厚い防音の素材で覆われていて、床の上を、何本ものケーブルが這っている。
奥にはドラムセットと、大きなアンプがいくつも並んでいた。
部屋のいちばん奥には、つまみのたくさんついた大きな机があって、エンジニアさんらしい男の人が座っていた。
篠原さんとお父さんとお母さんは、その横の壁ぎわに並んで立った。
ギターの人とベースの人が、手を止めてこちらを見た。
ギターの人は、さっき扉の奥から返事をした、口数の少なそうな男の人だ。
ベースの人は、三十歳くらいの、明るそうな女の人だった。
「白絃アリサです。よろしくお願いします」
頭を下げると、ベースの人がひらひらと手を振ってくれた。
ギターの人は、黙って小さくうなずいた。
ドラムの人が、一枚の紙を私に差し出した。
歌詞が印刷された紙のあちこちに、赤いペンで、矢印やメモが書きこまれている。
「これが歌詞カードだからまずは歌詞と曲を覚えて。じゃあ音源、流してもらえるかな?」
ドラムの人が声をかけると、エンジニアさんが机のつまみに手を伸ばした。
天井のスピーカーから、イントロが流れ出す。
私は、目を閉じた。
明るいギターに、寄り添うベース、そして跳ねるようなドラム。
その上で、少しかすれた、まっすぐな女の人の声が歌っていた。
ロビーのポスターの真ん中で笑っていた、あの人の声なのだろう。
向こうで、長い詠唱を覚えたときと同じだった。
音は、細かい要素も含めて一度で体の中に入ってくる。
一曲が終わるころには、メロディも言葉も、全部そこにあった。
目を開けると、ベースの人が、少しだけ首をかしげていた。
「……ほんとに、一回でいいの?」
「はい」
ベースの人は、ドラムの人と顔を見合わせて、肩をすくめた。
マイクの前に立つと、足もとに、斜めに傾いた黒いスピーカーが置かれていた。
エンジニアさんが、机の向こうから声をかけてくる。
「返し、もうちょっと上げようか?」
「……かえし?」
思わず聞き返すと、ベースの人が吹き出した。
「足もとのスピーカーのこと。自分の声が、ちゃんと聞こえるようにするやつ」
「あ……じゃあ、お願いします」
ギターの人が、確かめるように、弦をひとつ鳴らした。
その音が、スタジオの空気をびりびりと震わせる。
レッスンを見た時は白旗の準備をしていたくせに、私の中の男子の部分は、今は高揚して拳を突き上げていた。
「じゃあ、一回目。いくよ」
ドラムの人が、頭の上でスティックを四回打ち鳴らした。
次の瞬間、音が、正面から体ごと押してきた。
カラオケのスピーカーとは、まるで違う。
ドラムの一打ちごとに胸を叩かれて、ベースの低い音が、床から足を伝って上がってくる。
一番は、音源を再現するように歌えた。
二番も、問題なく音源のとおりに歌えた。
そして二番のサビが終わって、間奏に入る。
そして私は、音源で聞いた通り間奏後に再び歌い出ししたのだが、どうやらここがアレンジした箇所だったらしい。
間奏がまだ続いていた。
ギターとベースが、ばらばらと止まった。
ドラムの人が、シンバルを手で押さえて音を消す。
スタジオの中が、しんと静かになった。
頬がかっと熱くなった。
向こうでは、私が歌い出せば、礼拝堂じゅうが私に合わせてくれた。
カラオケの機械は、私が先に行っても待ってくれない代わりに、文句も言わない。
ここは、そのどちらとも違っていた。
「ごめん、本当にここまで歌えると思ってなかったから、アレンジ箇所の指示を言ってなかった。今のは音源のとおりだったね」
ドラムの人の声は、責めるような声ではなかった。
スティックの先で、私の持っている歌詞カードの赤い矢印を指してみせる。
「でも、明日のはここの間奏が倍あるんだ。ここからは音源じゃなくて俺らの音を聞いて。入る前に、俺がシンバルで合図するから」
その声はもう、歌えるか半信半疑のそれではなく、一人の歌手として『使える』と判断したものになっていた。
それから、スティックの先を、ドラムの人の自分の顔に向けた。
「あと、顔はこっちを見て。俺も、そっちの息を見てるから」
「はい」
誰かが、私の息を見ている。
そんなふうに思ったのは、たぶん初めてだったのかもしれない。
「もう一回、いくよ」
スティックが、四回鳴った。
今度は、ドラムの人のほうを向いて歌った。
一番のサビに入るとき、ドラムの人が、ほんの少しだけうなずいた。
ベースの人が、弦をはじきながら、にっと笑う。
ギターの人は、目を閉じて集中していた。
けれど、私が息を吸うたびに、ギターの音がほんの少しだけ道をあけてくれる気がした。
足もとのスピーカーから、私の声が返ってくる。
カラオケのときとは違って、自分の声が、ドラムやベースと同じ高さで聞こえた。
私の声も、この部屋の音のひとつとして、ちゃんとそこで鳴っている。
二番のサビが終わって、また、あの間奏が来た。
私は小節を数えるのをやめて、代わりに、耳を澄ませた。
ドラムが、ベースが、ギターが、それぞれの音で、同じ場所へ向かっていく。
ドラムの人の目が、ちらりと私を見た。
シンバルが、鳴った。
息を吸うのと、その音が、ぴたりと重なった。
私の声が、音の中に入っていく。
ドラムとベースとギターのあいだに、ちょうどいい場所が、ひとつだけ空いていた。
私の声は、そこに、すとんと収まった。
向こうでは、私の声はいつも真ん中にあって、まわりがそれに合わせていた。
今は、違う。
私の声も、この音の中の、ひとつだった。
胸の奥が、ドラムと同じ速さで鳴っていた。
ギターの人が、目を閉じたまま、口の端だけで笑った。
たぶん私たちは今、四人で同じ音を聞いている。
最後のサビ。
ドラムが強くなる。
ベースが走る。
ギターが、天井を突き抜けるみたいに伸びていく。
もう一回。
くり返しのサビに、迷わず入る。
気づいたら、足でリズムを取っていた。
最後の音が、スタジオの壁に吸いこまれていった。
気づくと、私は肩で息をしていた。
礼拝堂で夜通し歌っても、こんなふうに息が上がったことは、一度もなかったのに。
少しの静けさのあとで、奥の机のエンジニアさんが、こちらに向かって親指を立てた。
「いいね、バランスはこれでいいんじゃないか?」
ドラムの人が、スティックを下ろして、長く息を吐いた。
「おいおい……二回目で合わせてきたな」
それから、少しだけ笑った。
「息が見えやすいんだな。こっちが合わせやすい」
「ねえ、バンドで歌うのは、ほんとに初めて?」
「はい。初めてです」
ベースの人に聞かれて、私はうなずいた。
嘘ではない。
向こうには、アンプもスピーカーも、ひとつもなかったのだから。
そのときになって、ようやく気がついた。
歌っているあいだ、私は『癒しの聖歌』のスイッチのことを、一度も思い出さなかった。
朝からずっと曲合わせを続けていたバンドの人たちが、汗をぬぐいながら笑っている。
スイッチには、指一本触れていないのに。
壁ぎわでは、お母さんが小さく手を振っていた。
お父さんは、受付でもらったパンフレットで、顔を半分隠していた。
新聞もお茶碗もないところでは、どうやらパンフレットになるらしい。
篠原さんは腕を組んだまま、何かを確かめるように、ゆっくりとうなずいていた。
ぱちぱち、と扉のほうから拍手が聞こえた。
振り返ると、いつの間にか開いていた扉のところに、女の人がひとり立っていた。
大きなキャリーケースの持ち手を握ったまま、肩で息をしている。
ロビーのポスターの真ん中で笑っていた、あの人だった。
「……間に合った、のかな? それとも間に合ってないのかな」
「橘!」
ドラムの人が声を上げると、女の人の後ろから、スーツ姿の男の人が、汗をふきながら顔を出した。
バンドのマネージャーさんらしい。
橘さんはキャリーケースを壁ぎわに置くと、まっすぐ私のところへ歩いてきた。
「最後のところ、扉の外で聞いてたわ。代わりに歌ってくれて、ありがとうね。おかげで、明日、困らずに済むわ」
「いえ……私が、歌ってみたかっただけなので」
橘さんは、私の手の中の歌詞カードに目を落とした。
赤いペンの矢印だらけの、あの紙だ。
「うちの曲、知らなかったでしょ」
「……はい。しばらく、すごく遠くにいたので」
嘘ではない。
三年のあいだ、私は世界ひとつぶん、遠くにいたのだから。
「音源、一回聞いただけだぞ」
ドラムの人が横から言うと、橘さんは目を丸くした。
「一回で? ……それはちょっと、悔しいなぁ」
橘さんは、そう言って笑った。
悔しい、と言うわりに、その顔はちっとも嫌そうではなかった。
「最後のサビのくり返し、よく入れたね。そこ、私もまだ一回も合わせてないのに」
それから、ドラムの人のほうを横目で見る。
「うちのドラム、合図だけはうまいでしょ」
「だけ、ってなんだよ」
ベースの人が吹き出して、ギターの人の肩が、小さく揺れた。
「時間、あと五分ないです!」
エンジニアさんの声に、橘さんは上着を脱ぎながら、マイクの前に立った。
私は、壁ぎわのお母さんたちの隣まで下がった。
ドラムの人が、スティックを四回打ち鳴らす。
橘さんの声は、音源で聞いたのと同じ、少しかすれた、まっすぐな声だった。
けれど、すぐ近くで聞くと、それだけではないのがわかった。
ドラムの人が合図を出すより先に、橘さんは、もう息を合わせていた。
橘さんの体が、バンドの音のほうへ、ほんの少しだけ傾く。
すると、バンドの音のほうも、橘さんへ寄っていくのだ。
さっきまで私の息を見ていたドラムの人の目が、今は、当たり前のように橘さんの背中を見ていた。
橘さんは、一度も後ろを振り返らない。
それでも四人の音は、四人だけの呼吸で、ひとつの形になっていく。
ひとつひとつの言葉が、紙に書かれた歌詞ではなく、橘さん自身の言葉として出てくる。
これは、何年もこの人たちとこの曲を歌ってきた人の歌だった。
「……すごい」
私の歌は、今日一日で覚えた歌だった。
間違ってはいなかったとは思う、再現できたとも思う。
けれど、まだ借りてきた歌で、積み重ねた年月までは再現できない。
向こうでは、私はいつも合わせてもらう側だった。
誰かの音に、自分から合わせにいったことなんて、一度もなかった気がする。
何年も同じ人たちと歌い続けて、やっとたどり着ける場所があるなんて、考えたこともなかった。
気づいたら、手の中の歌詞カードを握りしめていた。
いつか私も、誰かと、あんなふうに歌えるだろうか。
最後の音が消えると、エンジニアさんが立ち上がって、両手で大きな丸を作った。
ほぼ六時だった。
篠原さんが橘さんに歩み寄って、手のひらで私のほうを示した。
「これから、うちの子になる……かもしれない子です」
かもしれない、のところで、篠原さんはちらりと私を見た。
頬が、少しだけ熱くなる。
橘さんは、私の顔をじっと見てから、にっと笑った。
「あなたの歌もいい歌だったよ。じゃあ、また会いましょうね」
スタジオを出ようとしたところで、バンドのマネージャーさんに呼び止められた。
差し出されたのは、スタジオに届いていたお弁当の包みだった。
それも、二つ。
「本当に助かりました。せめて、これだけでも」
私は包みを両手で受け取って、深く頭を下げた。
会議室の大きな机の上に、お弁当の包みが二つ並んでいた。
「よかったら、召し上がってからにしましょうか」
篠原さんがそう言ってくれたので、私は、ありがたくいただくことにした。
ひとつめの包みを開けると、ハンバーグと卵焼きと、俵型のおにぎりがぎっしりと詰まっている。
歌ったあとのお腹には、それが、とてもまぶしく見えた。
ひとつめを食べ終えて、二つめの包みに手を伸ばす。
二つめも、すぐにきれいに空になった。
「すみません。この子、よく食べるんです」
お母さんが、のんびりと頭を下げた。
篠原さんは何も言わずに、少しだけ遠くを見ていた。
篠原さんがあの顔をするのを見たのは、たぶん、これが最初だったと思う。
今ではもう、すっかり見慣れた顔になってしまったけれど。
お弁当の包みを片づけると、篠原さんは、机の上に何枚かの書類を並べた。
「では、改めて、お話をさせてください」
篠原さんの説明は、てきぱきとしていて、わかりやすかった。
最初は、レッスン生として事務所に所属して、歌とダンスのレッスンを受けること。
いつデビューできるかは、まだ約束できないこと。
お父さんは、いつの間にか胸ポケットから手帳を出して、篠原さんの言うことを一つずつ書きとめていた。
会社の会議でも、きっとこんな顔をしているのだろう。
「学校が、いちばん優先です。それに、高校生の方は、夜の十時より前にお仕事を終える決まりになっています」
篠原さんは、そこで少しだけ、声の調子を変えた。
「それと、あの動画のことです。ネットの書きこみや学校やご自宅を探ろうとする動きには、事務所としてもきちんと目を光らせます」
美咲が聞いたら、きっと深くうなずいただろう。
動画が広がった週末に、莉子にコメント欄を閉じさせてくれた美咲の心配に、ちゃんとした大人の答えが返ってきた気がした。
お母さんが、少しだけ姿勢を正す。
「あの……この子には、ちょっと事情があって。うちで引き取った子なんです」
帰ってきて最初の日曜日に、お母さんが小松さんについた、あの優しい嘘だ。
篠原さんは、お母さんの顔をまっすぐに見て、うなずいた。
「わかりました。お話しいただいた分だけで、十分です」
篠原さんは、それ以上、何も聞かなかった。
駅前で、探すのはやめようと決めていた、と言ったときと同じだった。
「……ひとつだけ、よろしいですか?」
お父さんが、口を開いた。
膝の上のパンフレットは閉じたままで、顔を隠さなかった。
「この子は、誰かのためになると、自分のことを平気で後回しにする子です」
静かな声だった。
あの日、優がクラスのみんなの代わりにひとりで行ったことを、お父さんは知っている。
「だから、さっき、スタジオの前で手を挙げたとき……正直に言うと、止めようかと思いました」
お父さんは、そこで少しだけ言葉を切った。
「でも歌っている顔を見てわかりました。あれは、誰かのための顔じゃなかった」
篠原さんは、少しだけ目を伏せた。
「ええ……私も同じです。あの動画を最初に見たとき目が離せなかったのは、声より先に歌っている顔のほうでした」
お父さんは、篠原さんの顔をしばらく見ていた。
それから椅子を立つと、篠原さんに向かって、深く頭を下げる。
「娘を、よろしくお願いします」
篠原さんも立ち上がって、同じだけ深く、頭を下げた。
「はい、娘さんをお預かりします」
テーブルの下で、私はスカートを、ぎゅっと握りしめていた。
そうしていないと、何かがこぼれてしまいそうで。
顔を上げた篠原さんが、今度は私のほうを向いた。
「最後にもう一度だけ、伺ってもいいですか?」
篠原さんは、駅前のときと同じようにまっすぐに私を見た。
「歌うのは、好きですか?」
駅前では答えられなかったが、電話では、好きです、と答えた。
今日は、ちゃんと向かい合って答えられる。
「はい、好きです」
言ってから、今日のスタジオの音を思い出した。
ドラムの合図と、足もとから上がってくるベースと、道をあけてくれたギター。
「ただ……ひとりで歌うより、もっと楽しいものがあるんですね」
その声に篠原さんはほんの少しだけ目を細めた。
私は椅子から立ち上がって、自分から頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
篠原さんはそう言ってから、少しだけ照れたように付け足した。
「あの……アリサさん、とお呼びしてもいいですか?」
「ええ、こちらこそお願いします」
今では毎日のように聞いている篠原さんのアリサさん、という呼び方は、この日のこの会議室から始まった。
帰りぎわ、篠原さんは分厚い封筒を、お父さんに手渡していた。
中には、契約書と保護者の同意書が入っているらしい。
「ご家族で、ゆっくり読んでから、お返しください」
「全部、読みます」
お父さんは封筒を受け取って、まじめな顔で言った。
たぶん本当に、一字残らず読むのだろう。
「おかえり! どうだった!?」
玄関のドアを開けるなり、陽菜が階段を駆け下りてきた。
もうパジャマに着替えていたが、目だけがぱっちりと冴えている。
「……歌ってきた」
「え、もう!?」
陽菜は、玄関の上がり口で目をまん丸にした。
靴を脱いでいたお母さんが、お父さんの持っている封筒を指さす。
「契約書も、もらってきたのよ」
「もうアイドル!?」
「ちがうわ。まだ、レッスン生」
私が言うと、陽菜は、なにそれ?、と言いながら、私の腕にしがみついてきた。
「ねえ、何歌ったの?」
「……知らない曲」
「知らない曲なのに!?」
今日あったことを全部話し終わるまで、たぶん、離してはもらえない。
その夜、部屋に戻ってから、私は三人のグループに書きこんだ。
『事務所に入ることになった』
既読は、すぐに二つついた。
『マジか!』
『で、チケットは!?』
颯太の書きこみに、湊がすかさず返す。
『……だから、自分で買えって』
それから、湊から、もう一行だけ届いた。
『で、歌ったのか』
私は少し考えてから、短く打った。
『うん。バンドと』
『ん』
湊の返事は、いつものひと文字だった。
けれど、画面の向こうで、少しだけ笑っているような気がした。
部屋のドアの隙間から、一階の明かりが、まだ細く漏れていた。
お父さんがダイニングのテーブルで、契約書を一枚目から読んでいるらしい。
全部読みます、というのは、やっぱり本当だった。
あの日の代役のことを、篠原さんは今でも、アリサさんの最初の仕事でした、と言う。
お給料は出なかったけれど、お弁当は二つもらった。
それから、これはずっとあとで聞いた話だけど、あの日、スタジオの扉の小さな窓に、レッスン着のまま張りついていた女の子が、二人いたらしい。
ひとりは、最後まで黙って聞いていたという。
もうひとりは、そのときのことを、あとで何度も、ものすごい早口で話してくれた。
その二人と私が、三人で同じ歌を歌うことになるのは、それからもう少しだけ先の話。