TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:ブリザード
陽菜に袖をつかまれたまま夕ごはんを食べ終えて、お母さんが食器を片づけ始めたころ、玄関のインターホンが鳴った。
「たぶん颯太くんたちだな、夕方にも一度来てたんだ。お前がいないって言ったら、塾が終わったらまた来るってさ」
お父さんの言葉を最後まで聞く前に、私は椅子を鳴らして立ち上がっていた。
袖をつかんだままの陽菜をほとんど引きずるようにして玄関のドアを開けると、学校指定の紺色のコートを着た男子が二人、街灯の下に並んで立っている。
「よっ、優! 約束どおり来てやったぞ――」
颯太の言葉が、途中でぷつりと途切れた。
その視線が私の顔からゆっくりと下りていって、陽菜に借りた紺色のスカートのところでぴたりと止まる。
「……スカートじゃん」
次の瞬間、颯太は玄関先で体をくの字に折り曲げた。
夜の住宅街に、遠慮のかけらもない笑い声が響きわたる。
「だめだ、腹いてえ! 優が、あの優がスカート……!」
「笑うな! 陽菜に着せられたんだよ!」
「……陽菜ちゃんのか」
「似合ってるでしょ~。陽菜が選んだんだよ」
真顔でうなずく湊の隣で、なぜか陽菜が得意げに胸を張っている。
私は笑い転げる颯太をにらみつけたけれど、その笑い声がやむ気配は、まったくなかった。
湊は何事もなかったような顔で、手に提げていた紙袋を持ち上げてみせた。
中には、見たことのない形のゲーム機と、新作のハンモンのパッケージが入っている。
「明日、ゲーム持ってくって言ったろ」
「……ゲーム機ごと持ってくるとは思わなかったけどな」
「お前のは、三年前のやつだろ。これ、動かない」
言われてみれば、私の部屋の本棚に並んでいるのは、どれも三年前のパッケージばかりだった。
三年という時間は、ゲーム機の世代まで、ひとつ先へ進めてしまっていたらしい。
リビングに通された二人は、お父さんとお母さんに向かって、そろってぺこりと頭を下げた。
三年間、夢を見るたびにこの家へ通っていたというだけあって、二人のほうが今の私よりもよっぽどこの家に馴染んでいるように見える。
「おじさん、おばさん。夜遅くにすみません」
「いいのよ。颯太くんも湊くんも、ゆうべは本当にありがとうね」
「俺らはアリサ様をお届けしただけっすから」
「そうそう、それよ。ゆうべは聞きそびれちゃったんだけど、アリサ様ってなに?」
お母さんが首をかしげると、颯太は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「こいつ、向こうでアリサって呼ばれてたじゃないですか。ゆうべ校庭で『アリサでいい』って決めたんすよ。だから俺らは、アリサ様って呼ぶことにしたんです」
「様はいらないって、ゆうべも言っただろ」
「……そう。自分で決めたのね」
お母さんは、アリサか、と口の中で小さく転がすようにつぶやいて、少しだけ目を細めた。
そのときの私は、それを大して気にも留めていなかった。
リビングのテレビにゲーム機をつなぐと、三年ぶりの狩りが始まった。
私が選んだのは、昔から使い慣れた片手剣だ。
向こうの世界で、私は三年間、本物の剣を振り続けてきた。
純粋な剣の勝負でなら、負けたことはたぶん一度もない。
だから画面の中のモンスターくらい、どうということはないと思っていたのだけれど。
「待て待て待て、今の届いてただろ!」
「判定が違う」
「なんでだよ! 俺の間合いなら、絶対に斬れてたって!」
問題は、本物の剣の間合い、体捌きが体に染みつきすぎていることだった。
モンスターが爪を振り上げるたびに体が勝手に動いて、私はソファの上で上半身ごと横に避けてしまう。
そのくせ画面の中の私は、棒立ちのまま爪をまともに食らっていた。
おまけに、力みすぎた手の中で、コントローラーがみしりと嫌な音を立てた。
私は慌てて指の力を抜く。
研究所の握力計の二の舞だけは、なんとしても避けなければならない。
画面の中で、私のキャラクターがばたりと倒れて、力尽きたことを告げる文字が無慈悲に浮かび上がった。
「マジかよ! ずりーぞ、今の絶対当たってなかっただろ!」
「当たってたって。まだ始まって五分だぞ~」
「うわぁ……三年分、差があるな」
颯太はソファの背もたれに突っ伏して笑い転げながらも、画面を指さして教えてくれた。
「いいか、こいつは尻尾を振ったあと、必ず右に一回転すんの。そこで足もとに潜りこめ」
「そういうことは先に言えよ!」
私の袖をつかんだまま画面をのぞきこんでいた陽菜が、くすくすと笑い出した。
「お兄ちゃん、弱っ。前は陽菜に、全然手加減してくれなかったくせに」
「うるさいっ! 三年ぶりなんだよ!」
「優、スカートなんだから、あぐらをかかないの」
台所から飛んできたお母さんの声に、私はびくりと固まった。
見下ろせば、いつの間にかソファの上で、どっかりとあぐらをかいているではないか。
慌てて膝をそろえると、颯太がまた盛大に吹き出した。
結局その夜の狩りは、私が三回力尽きてクエスト失敗に終わった。
次の挑戦の準備をしているところで、お母さんがぱんと手を叩く。
「はい、そこまでよ。颯太君も湊君も二人とも受験生でしょう? 入試まで、あと三週間ちょっとなんだから」
「おばさん、あと一回だけ!」
「だめです」
受験、という言葉に、私はコントローラーを持つ手を止めた。
三年前は私とほとんど同じ背丈で、給食の牛乳の早飲み競争をしていた二人が、春からは高校の制服を着るのだ。
この世界の時間の中で、私だけが中学一年生のところに置き去りになっていた。
「なに暗い顔してんだよ。お前も来いよ、同じとこ」
「行けるわけないだろ。こっちは中一で止まってるんだぞ」
「なんとかなるって、たぶんさ」
颯太のいつもの軽口に、私は肩をすくめて笑い返した。
玄関で、私はお母さんがブラシをかけておいてくれた黒いダッフルコートを、湊に差し出した。
ゆうべ校庭で肩にかけてもらってから、ちょうど一日ぶりに、このコートは持ち主のところへ帰っていく。
「サンキュ、湊」
「ん」
「じゃ、また来るわ、アリサ様」
「様はいらない」
並んで帰っていく二人の背中は、ゆうべとまったく同じだった。
ゆうべは明日の自分がどんな顔をしているのかさえわからなかったのに、今夜の私の頭の中は、三回も力尽きた狩りの反省でいっぱいになっていた。
それからの数日、私はほとんど家から出ずに過ごした。
着られる服は陽菜からの借り物しかないし、銀髪の女の子が白絃家に出入りしているところを近所の人に見られたら、何と説明すればいいのかもわからない。
日曜日の買い物までは、おとなしく家の中にいるしかなかった。
毎朝、陽菜は登校前の慌ただしい時間に、洗面所で私の髪を後ろでひとつに結んでいった。
「お兄ちゃんは、自分でできないでしょ」
そう言って櫛を動かす陽菜の手つきを、私は鏡越しにじっと見ていた。
髪をまとめて、ゴムを二重にかけて、最後に毛先を少し引っぱって形を整える。
三年前の私は、陽菜に髪を結んでとせがまれても、一度もやってあげたことがなかった。
ある日のお昼、お母さんが買い物袋から、新しい卓上カレンダーを取り出した。
そのまま私の部屋に上がってくると、机の上の、三年前の日付で止まったままのカレンダーを手に取る。
「これはね、めくれなかったのよ。めくるたびに、優のいない日が一日ずつ増えていく気がして」
お母さんは、まるで天気の話でもするような軽い口調でそう言った。
それから古いカレンダーを捨てずに、大事そうに胸に抱えて部屋を出ていった。
残された新しいカレンダーの日曜日の欄に、私は少し迷ってから『買い物』と書きこんだ。
三年前の日付で止まっていたこの部屋の時間が、また一枚ずつ、めくられ始める。
ほかにも、家の中でしかできない練習はいくらでもあった。
たとえば、スカートのまま階段を一段飛ばしで駆け上がろうとしたときは、下から陽菜の悲鳴が飛んできた。
「お兄ちゃん、見えるってば!」
「……誰に」
「陽菜に!」
向こうでは聖女として、人前での立ち居振る舞いは完璧にこなしていたはずなのに。
住み慣れた家に帰ってきたとたん、三年分の気がまとめて抜けてしまったらしい。
日曜日は、朝からよく晴れていた。
買い物には、お父さんの運転する車で出かけることになった。
「隣の駅のモールなら、ご近所さんに会うこともないでしょ」
お母さんの判断に、反対する人は誰もいなかった。
服も靴も陽菜の借り物で、その上から、少しだけ大きいお母さんのコートを羽織っている。
玄関で靴を履こうとしたとき、私の指先は勝手に動いていた。
向こうの世界では三年間、外に出る前には必ず、身を守る加護を確かめてから扉をくぐってきたのだ。
研究所で採血のために切った『守りの加護』は、あれから一度もかけ直していない。
組み立てかけた術式を、私は少し考えてから、そっと手放した。
この国は加護をまとって歩かなければならないほど、物騒な場所ではない。
それに、採血の針がくにゃりと曲がったときのように、何がきっかけでばれるかわかったものではないのだ。
思えば、加護なしで外に出るのは、三年ぶりのことだった。
モールの中は、日曜日らしい家族連れでにぎわっていた。
歩き出してすぐに、すれ違う人たちの視線が、私の銀髪にちらちらと集まり始める。
「……みんな見てるね」
「見てるな」
平然と答えたのは、強がりではなかった。
向こうでは聖女として、大勢の人の前に立つことには慣れているのだ。
むしろ陽菜のほうが、なぜか自慢げに私の腕にしがみついて歩いている。
エスカレーターを上がったところで、私の足は自然と右へ向かっていた。
その先にあるのは、三年前にお母さんと何度か来たことのある、紳士服の売り場だ。
「ちょっと、どこ行くの。こっちよ」
「そっち、男の人の服しかないってば!」
左右から両腕をがっちりとつかまれて、私は売り場の入り口から引き戻された。
魔王軍の包囲網よりも、よっぽど逃げ場がない。
連れていかれた婦人服の売り場で、私はおそるおそるお母さんの顔をうかがった。
「……母さん、ズボンは」
「考えておいたわよ」
お母さんはにっこりと笑って、人さし指を一本だけ立ててみせた。
「一本だけね」
一本でも、ゼロよりはずっといい。
私は勇んでズボンの棚へ向かった――のだけれど。
試着室で穿いてみたジーンズは、私の知っているジーンズではなかった。
太ももから足首まで肌に吸いつくように細くて、前のポケットには指が二本入るかどうかもあやしい。
結局、店員さんにすすめられた、すとんとした形のものに落ち着いたけれど、同じズボンでも、女の子のズボンはどうやらまったく別の生き物らしい。
そこから先は、陽菜とお母さんの独壇場だった。
二人は売り場を行ったり来たりしながら、スカートやワンピースを次々と腕に抱えて戻ってくる。
「絶対、この水色のほうが似合うって!」
「あら、こっちの白のほうが、髪の色が映えるわよ」
「水色!」
「白」
試着室のカーテンの内側で、私は黙って両方を受け取った。
こういう二人の言い合いには、口を挟まないに限る。
何着目かのワンピースに着替えてカーテンを開けると、通りかかった店員さんが目を丸くして足を止めた。
「わあ……モデルさんですか?」
「いえ、違います」
外向きの声でにっこりと答える私の後ろで、なぜかお母さんが誇らしげにうなずいていた。
これでようやく終わりかと思ったら、最後にもうひとつ、とんでもない場所が待っていた。
「さ、次は下着ね」
「……え」
左右から腕を取られて連れていかれたのは、色とりどりの布が並ぶ、男子の魂にはあまりにもまぶしすぎる売り場だった。
魔王軍の大軍を前にしても一歩も引かなかった私の足が、入り口の前でぴたりと止まる。
「ちゃんと測ってもらわないとだめよ。陽菜のセーター、きつかったでしょう?」
「……なんで知ってるのよ」
「お母さんだもの」
試着室で店員さんにメジャーを当てられているあいだ、私はひたすら天井の照明を見つめていた。
こういうときは、何か別のことを考えるに限る。
しちいちがしち、しちにじゅうし、しちさんにじゅういち、しちしにじゅうはち、しちごさんじゅうご、しちろく――しちろく、いくつだっけ。
「はい、お疲れさまでしたー」
店員さんの明るい声で、私はようやく七の段から解放された。
結局、しちろくがいくつだったのかは、最後まで思い出せなかった。
店員さんがお母さんに告げた数字を聞いて、陽菜がぴしりと固まった。
それから私の袖を引っぱって、ほかのお客さんには聞こえないくらいの小声で抗議してくる。
「……お兄ちゃんのくせに、ずるい」
「知らないよ、そんなの」
紙袋が両手に余るほどになったころ、私たちは、店の前のベンチで荷物番をしていたお父さんのところへ戻った。
お父さんの足もとには、すでにいくつもの紙袋が積み上がっている。
「お待たせ、お父さん。これもお願いね」
「はいはい……っと」
新しい紙袋を受け取ろうと腰を浮かせた瞬間、お父さんの動きがぴたりと止まった。
片手で腰を押さえたまま、中腰の姿勢で固まっている。
「……父さん?」
「いや……腰が、な」
研究所でお母さんが言っていたことが、ふと頭をよぎった。
私はお父さんの後ろに回りこむと、通りかかる人たちから見えないように体で隠しながら、その背中にそっと手のひらを当てた。
短い詠唱を口の中で転がすと、手のひらにほんのりとした温かさが灯る。
光が漏れないように指を閉じたまま、私はそれをお父さんの腰へと流しこんだ。
「……ん?」
お父さんはおそるおそる背筋を伸ばして、それから左右に腰をひねった。
何度ひねっても、さっきまでの中腰には戻らない。
「……治った。何年ぶりだ、こんなに腰が軽いのは」
「あら、よかったわねえ。じゃあ、まだまだ持てるわね」
お母さんはにっこりと笑って、お父さんの腕に紙袋を三つ追加した。
お父さんは紙袋をまとめて抱えなおすと、私の顔を見て、しみじみと言った。
「娘に腰を治してもらう日が来るとはなあ」
私は聞こえなかったふりをして、お父さんの腕から紙袋をひとつ取り上げた。
お昼は、モールの真ん中にあるフードコートで食べることになった。
私がラーメンとカツ丼を両方とも頼むと、お父さんは何も言わずに、トレーをもう一枚取ってきてくれた。
湯気の立つラーメンをすすって、カツ丼をかきこむ。
隣のテーブルの家族連れが、私の前に積み上がっていく空の器を二度見していったけれど、気にしない。
三年分の日本の味を取り戻すのに、遠慮なんかしていられないのだ。
ラーメンのスープを飲み干したところで、向かいの陽菜が身を乗り出してきた。
朝からはしゃぎっぱなしの陽菜の声は、いつもよりひと回り大きい。
「お兄ちゃん、それひと口ちょうだい!」
その瞬間、まわりの話し声が、すっと遠のいた気がした。
隣のテーブルの家族連れも、トレーを持って通りかかった人も、いっせいにこちらを振り返る。
その視線の先にいるのは、スカートをはいた銀髪の女の子だった。
陽菜がはっとして、両手で口を押さえた。
お母さんも何か言いかけて、私の名前を途中で飲みこむ。
「ゆ……口のまわり、ついてるわよ」
まわりの人たちはすぐに興味をなくして、自分たちの食事に戻っていった。
けれど私たちのテーブルには、しばらく妙な沈黙が残った。
家の外では、『優』とも『お兄ちゃん』とも呼べない。
考えてみれば当たり前のことなのに、私も家族も、今の今までそれをちゃんと考えていなかったのだ。
「……帰ったら、ちゃんと考えようか」
お父さんがぽつりと言って、陽菜がこくこくとうなずいた。
本当の事件が起きたのは、帰りぎわのことだった。
紙袋を抱えて出口の自動ドアをくぐろうとしたとき、向こうから歩いてきた女の人が、ぱっと顔を輝かせたのだ。
「あら、白絃さん! まあ、奇遇ねえ」
三軒隣に住んでいる、小松さんの奥さんだった。
話好きで、町内のことなら何でも知っていると評判の人で、私が小学生のころは、会うたびにお菓子をくれた。
隣の駅まで来れば知り合いには会わないというお母さんの読みは、見事に外れたらしい。
小松さんの目が、お母さんの隣に立つ私の上で、ぴたりと止まった。
「そちらの、きれいなお嬢さんは?」
体が、勝手に動いていた。
私は半歩前に出て、お母さんを背中で隠せる位置に立つ。
研究所の二人が訪ねてきた朝と同じ、三年間で染みついた癖だった。
けれど、私が口を開くより早く、お母さんがすっと私の前に一歩出た。
いつもののんびりとした笑顔のまま、お母さんはさらりと言ってのける。
「親戚の子でね。ちょっと事情があって、うちで引き取ることになったの。ほら、海外の血が入ってるから、きれいな髪でしょう? アリサちゃんっていうのよ」
「まあ、そうなの! アリサちゃん、よろしくね」
「……はじめまして。アリサです」
お菓子のお礼も言えないまま、私は小松さんに『はじめまして』と頭を下げた。
小松さんは満足そうにうなずくと、今度は陽菜のほうに笑いかける。
「陽菜ちゃん、お姉ちゃんができてよかったわねえ」
「……うん」
それから小松さんは、お母さんの顔を少しだけ気づかうように見つめた。
この町の人たちは、三年前に白絃家の息子がいなくなったことを、みんな知っている。
「白絃さんのおうちも、にぎやかになるわね」
小松さんはそれだけ言うと、手を振って去っていった。
自動ドアの外に出ると、二月の風が頬に冷たかった。
もし今、『嘘検知』を使っていたら、お母さんの言葉は、ひとつ残らず光を赤黒く濁らせていただろう。
向こうの世界で、嘘はいつも、聖女の力を欲しがる人たちが使うものだった。
丁寧な言葉と立派な肩書きの陰で、何度も私を利用しようとしたのも、たいていは嘘だった。
誰かを守るための、こんなに優しい嘘を、私はたぶん初めて聞いた。
それなのに、胸の奥に、小さな棘のようなものが引っかかっていた。
帰りの車の中で、お母さんはいつもののんきな声で言った。
「小松さんに話したから、明日には町内中に広まってるわね。手間が省けたわ」
実際、翌日にはもう、白絃さんの家に海外の血が入った女の子がやってきたという話が、町内のほとんどの家に届いていたらしい。
お母さんは、私が思っていたよりも、ずっとしたたかな人なのかもしれない。
家に帰ると、リビングのソファは、あっという間に紙袋の山で埋まってしまった。
夕ごはんの食卓には、お母さんが手早く作ってくれた豚の生姜焼きと、お味噌汁が並んだ。
いつもどおりにご飯をおかわりしながら、私は今日一日のことを思い返していた。
モールにいるあいだ、お父さんもお母さんも陽菜も、何度も私を呼ぼうとしては、そのたびに名前を飲みこんでいた。
『優』と言いかけて口をつぐむ家族の顔を、私は今日だけで、いったい何回見ただろう。
お茶碗を置いて、私は三人の顔を見回した。
「あのさ。外では、アリサでいいよ。今日みたいなことがあると困るし。でも、家では今までどおり、優でいい」
三年間、この家の人たちが待っていたのは、白絃優だ。
帰ってきた夜、校庭からの帰り道で、私はそのことばかり考えて、家の前で足が動かなくなった。
だからせめてこの家の中でだけは、三年間待たせた分の優を、ちゃんと返してあげたかった。
お母さんが、静かにお箸を置いた。
いつもならここで冗談のひとつも飛んでくるところなのに、お母さんはしばらく何も言わずに、私の顔を見つめていた。
「颯太くんたちがね、夢の話をしに来てくれるたびに聞いてたのよ。アリサっていう女の子の話。傷だらけになって、それでも立ち上がって戦ってる女の子の話」
お母さんの声は、少しも揺れていなかった。
けれど、テーブルの上で重ねられたお母さんの手には、指先が白くなるほど力がこもっていた。
「お母さんね、毎回最後に『優は元気だった?』って聞いてたの。でも本当はね、その女の子のことも、ずっと抱きしめてあげたかった。私の子なのに、三年間、一度も抱きしめてあげられなかったんだもの」
お母さんはそこで言葉を切って、ふっと笑った。
帰ってきた夜、玄関で私を抱きしめたときと同じ、泣き笑いの顔だった。
「だから、その子にも、ちゃんとおかえりって言わせてちょうだい」
お母さんはテーブル越しに手を伸ばして、私の髪にそっと触れた。
「おかえり、アリサ」
昼間、モールの出口で聞いたのと、同じ名前のはずだった。
けれど今の『アリサ』には、嘘の色がどこにもなかった。
何か言わなければと思うのに、喉の奥がつかえて、声にならない。
待っていてもらえたのは、優だけではなかったのだ。
向こうで傷だらけになっていた私のことも、この人は、ずっと待っていてくれた。
向かいの席では、お父さんがお茶碗を持ったまま、しばらく黙りこんでいた。
それから、こほんとひとつ咳払いをする。
「……アリサ。醤油、取ってくれるか」
生姜焼きに醤油はいらないはずなのに、と思いながら、私は醤油差しに手を伸ばした。
その手が少しだけ震えているのを、お父さんは見ないふりをしてくれた。
「……はい、お父さん」
醤油差しを渡しながら、私はそう呼んでいた。
父さん、ではなく、お父さん。
たった一文字ちがうだけなのに、口にしてみると、それはもう優の言葉ではなかった。
それから私は、お母さんのほうに向き直った。
「ありがとう、お母さん」
お母さんは両手で口もとを押さえて、何度も何度もうなずいた。
お父さんはといえば、なぜかお茶碗を顔の前まで持ち上げて、ご飯を食べるふりをしながら顔を隠している。
どうやら新聞がないときは、お茶碗で隠すことにしたらしい。
陽菜だけは、ずっとうつむいたままだった。
テーブルの下で私の袖をつかむ小さな手が、いつもよりずっと強く握られている。
その夜、歯を磨いて二階に上がると、陽菜が自分の部屋のドアの前で振り返った。
「……おやすみ、お兄ちゃん」
ひと言ずつ区切るような、わざとはっきりした言い方だった。
陽菜はそれだけ言うと、私の返事を待たずに、ぱたんとドアを閉めてしまう。
私は、その理由を聞かなかった。
三年間、玄関で颯太たちを待ちながら『お兄ちゃんの話して』とせがんでいた陽菜にとって、その呼び方は、きっとそう簡単に手放せるものではないのだ。
階段の下から様子を見ていたらしいお母さんが、小さな声で言った。
「陽菜は、陽菜のペースでいいのよ」
「……うん」
月曜日の朝、すっかり腰の軽くなったお父さんは、珍しく鼻歌まじりで一番に家を出ていった。
その直後に、二階から陽菜の悲鳴が聞こえてきた。
「寝坊したあぁっ!」
ばたばたと階段を駆け下りてきた陽菜の髪は、あちこちに跳ねて、鳥の巣のようになっていた。
台所のお母さんは、朝ごはんの支度で両手がふさがっている。
洗面所の鏡の前で、陽菜は泣きそうな顔で櫛を握りしめていた。
この数日、毎朝この時間に私の髪を結んでくれていたのは、陽菜のほうだったのに。
私は陽菜の手から、そっと櫛を取り上げた。
「貸して。やってあげる」
「……お兄ちゃん、できるの?」
「たぶん。毎朝、見てたから」
この数日、鏡越しに何度も見てきた陽菜の手つきを、私は頭の中でなぞった。
髪をまとめて、ゴムを二重にかけて、最後に毛先を少し引っぱって形を整える。
見るのとやるのとでは大違いで、指はなかなか思うように動いてくれなかったけれど。
できあがったポニーテールは、どう見ても少し左に傾いていた。
陽菜は鏡の中の自分をじっと見つめて、それから小さく吹き出した。
「……へたっぴ」
けれど陽菜は、そのポニーテールをほどこうとはしなかった。
三年前、何度せがまれても一度も結んであげなかった陽菜の髪を、私は今、初めて結んだのだ。
「ほら陽菜、遅刻するわよ!」
お母さんの声に急かされて、陽菜はランドセルを背負って玄関に飛び出した。
靴を履いてドアノブに手をかけたところで、陽菜はくるりとこちらを振り返る。
この玄関で、陽菜に『陽菜が帰ってきたら、ちゃんといるよね?』と聞かれたのは、ほんの数日前のことだ。
あのときの小さな声を思い出しながら、私は陽菜の言葉を待った。
「いってきます、お姉ちゃん!」
早口でそれだけ言うと、陽菜は返事も待たずにドアを開けて、通学路を駆けていった。
走っていく背中で、傾いたポニーテールがぴょこぴょこと揺れている。
ちらりと見えた陽菜の耳は、真っ赤になっていた。
私はしばらく、閉まったドアの前から動けなかった。
後ろから、お母さんのくすくすという笑い声が聞こえてくる。
陽菜の髪を毎朝結ぶのが私の仕事になったのは、この朝からだ。
もっとも、まっすぐなポニーテールが結べるようになるまでには、それからずいぶんかかったのだけれど。
その余韻にひたる間もなく、リビングの電話が鳴った。
受話器を取ったお母さんが、すぐにそれを私のほうへ差し出してくる。
「アリサ、真壁さんから」
受話器を耳に当てると、聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。
「おはようございます、優くん。真壁です。手続きのことで、いくつか確認させてください。まず、お名前ですが……書類の上では、どうしましょう。優のままにするか、変えるか。これは、ご本人に決めていただきたいんです」
迷う時間は、一秒もいらなかった。
ほんの数日前の私なら、きっと答えられずに黙りこんでいただろう。
「アリサで、お願いします」
「……わかりました。白絃アリサさん、ですね」
受話器の向こうで、真壁さんが少しだけ笑ったような気がした。
それから真壁さんは、いつもの落ち着いた口調に戻って続けた。
「それと、学校のことです。中学校は、三月で卒業という扱いにしていただけることになりました。高校も四月から通えるようには手配します。ただし――」
真壁さんは、そこで少しだけ言葉を区切った。
「入試だけは、ご本人に受けていただく必要があります。事情が事情なので色は付けてもらえるかもしれませんが、あまり期待しないでください」
「……にゅうし」
「はい、入試です。アリサさんの希望の高校はありますか」
「ええと……颯太と湊と同じところがいいです」
「ああ、佐伯くんと久我くんの。わかりました。そうなると入試の日は二人と同じになりますね」
電話を切った私は、二階の自分の部屋へ駆け上がった。
机の上の新しいカレンダーをめくって、颯太たちと同じ入試の日に、赤いペンで丸をつける。
指で数えてみると、その日まで、あと十八日しかなかった。
私は壁のフックに掛かったままの中学のかばんから、三年前の数学の教科書を引っぱり出した。
表紙をめくって、最初の単元の練習問題に目を落とす。
何もわからない……いや待て、なんでこうなるんだ。
マイナスにマイナスをかけるとプラス?
教科書をぱらぱらとめくり次の内容へと進めていく。
方程式、なんだこれ?
さっぱり意味が分からない。
ちょっと待ってこれはやばい、と血の気がサーっと引いていくのが自分でも分かる。
魔王軍よりも、邪神よりも手強い相手は、どうやら私の机の上にいたらしい。