TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:ブリザード
第6話 聖女アリサ、高校に入学する
姿見の前で、私は届いたばかりのブレザーに袖を通した。
生地はまだ少し固くて、肩のあたりに新しい布の匂いが残っている。
真新しい制服を着るのは、これで三度目になる。
一度目は三年前の春、優として中学に入学したときのズボンの制服。
二度目は、優ひとりのための卒業式の日に借りた、陽菜の中学の制服だ。
白絃アリサの名前で採寸をして、私のために仕立ててもらった制服は、これが初めてだった。
袖の長さも、肩の幅も、ぴったりと私の体に合っている。
鏡の中の銀髪の女の子が、少しだけ得意そうな顔をしていた。
問題は、胸元のリボンだった。
説明書のとおりに結んでいるはずなのに、何度やり直してもどこか斜めに傾いてしまう。
「お姉ちゃん、まだー? 髪やってよー!」
階段の下から、陽菜の声が飛んできた。
私はリボンと格闘するのをあきらめて、一階へ下りていった。
ダイニングでは、制服姿の陽菜が櫛とヘアゴムを握って待っていた。
陽菜の中学の入学式はきのう済んだばかり。
三週間前に私がひと足先に袖を通したあの制服は、ようやく本当の持ち主のものになった。
「ふふ。陽菜の制服、お姉ちゃんのおさがりになっちゃった♪」
「一回しか着てないのに?」
「一回でも、おさがりはおさがりだもん♪」
帰ってから一月を越え、陽菜の髪を結ぶのにももうすっかり慣れた。
結び終えたとたんに、陽菜は椅子から跳び下りて、持たせてもらったばかりのスマホを私に向けた。
シャッターの音が、続けざまに何度も鳴る。
「ちょっと、撮りすぎ」
「だって、お姉ちゃんだけの制服、初めてだもん。家族のグループにも送っとくね」
テーブルの上で、私のスマホが震えた。
家族のグループに陽菜が撮ったばかりの写真が並んでいく。
その下に、向かいの席でコーヒーを飲んでいるお父さんから、『了解しました』と頭を下げる猫のスタンプが届いた。
「……お父さん、それ、気に入ってるでしょう」
「かわいいだろう」
いつもならとっくに家を出ている時間なのに、お父さんはまだ部屋着のままだった。
今日は会社を休んで、入学式に来てくれるのだという。
「有給なら、まだ山ほど残ってるからな」
「それ、前にも聞いた」
お母さんが、台所から一枚の書類を持ってきた。
入学の書類のうち、まだ出していなかった最後の一枚らしい。
「アリサ、これだけは確認しておいてね。髪の色の届け」
「……髪の色の、届け?」
書類のいちばん上には、『頭髪に関する届出書』と書かれていた。
生まれつき髪の色が明るい生徒は入学のときに届けを出しておく決まりなのだという。
お母さんはペンを取ると、『地毛』と書かれた欄に迷わず丸をつけた。
「遺伝子の上では、黒髪のはずなんだけどねえ」
「お母さん、それ、外では絶対に言わないでね」
新入生は、保護者よりひと足先に学校へ行くことになっている。
玄関でローファーを履いていると、お母さんがエプロン姿のまま見送りに出てきた。
「お父さんと、あとから行くわね。あとで、体育館でね」
「うん、あとで」
「いってきまーす!」
陽菜は大きく手を振って、反対方向の中学へ駆けていった。
私もローファーのつま先をとんとんと鳴らしてから、玄関を出た。
角を曲がると、入試の朝と同じように颯太と湊が電柱の横で待っていた。
二人とも、私と同じブレザーを着ている。
中一の教科書の最初のページで手が止まっていた私が、今は二人と同じ制服を着ているのだ。
「おはよ、アリサ様。制服似合うじゃん」
「……リボン、曲がってるぞ」
湊にぼそりと言われて、私は慌てて胸元を押さえた。
やっぱり、ひと目でばれるくらいには曲がっているらしい。
「……あとで直す」
入試の朝に三人で歩いた道に、今日は桜の花びらが舞っていた。
颯太の肩にのった一枚を、湊が黙ってつまんで捨てる。
颯太は気づきもしないで、高校生活の抱負とやらをひとりで熱く語っていた。
「高校の目標はな、彼女を作ることだ!」
「……無理だろ」
「なんでだよ! まだ始まってもいねえだろ!」
二人のやりとりは、三年前の通学路で毎朝聞いていたのとほとんど変わらない。
変わったのは、二人の背の高さと、二人を見上げる私の目線くらいだ。
高校の昇降口の前には、もう人だかりができていた。
合格発表の日に、白い布をかけられていたあの掲示板だ。
今日はその掲示板に、新しいクラス分けの名簿が、ずらりと貼り出されている。
掲示板の前のあちこちで、同じクラスだね、とか、離れちゃったね、とかいう声が上がっていた。
どの声も、新しい制服と同じくらい、ぱりっとしている。
あの日は、番号を探した。
今日は、名前を探す。
「お、あった! 湊、俺らA組だぞ。二人そろって」
「……ん」
颯太と湊の名前は、一年A組の列にほとんど並ぶようにして書かれていた。
私は二人の名前の近くに自分の名前を探したけれど、A組の列には最後まで見つからなかった。
合格発表のときと同じで、私の名前は二人から離れた右のほうにあった。
一年C組。
知らない名前ばかりが並んだ列の真ん中あたりに、『白絃アリサ』の五文字が印刷されていた。
受験票で初めて見たのと同じ五文字が、今日は、知らない名前たちに囲まれている。
「……マジかよ」
思わずこぼれた声は、自分でもびっくりするくらい低かった。
すぐ隣で掲示板を見上げていた女の子が、ちらりとこちらを振り向く。
背筋のまっすぐな、きりっとした目の子だった。
その子は何か言いたそうに私を見て、それから何も言わずに昇降口のほうへ歩いていった。
「……別のクラスか」
「まあ、しゃあないって。廊下の端と端だろ」
颯太はからりと笑って、昇降口のほうを顎でしゃくってみせた。
「学食が始まったら、昼は学食な。席は取っとくから」
「……食券も、買っとくよ」
湊がぼそりと付け足して、二人はA組の靴箱のほうへ歩いていった。
颯太の言うとおり、C組の教室は、A組と同じ廊下の端と端にあるだけだ。
それなのに、ひとりで階段を上る足は少しだけ重かった。
一年C組の教室に入ると、ざわめきがほんの一瞬だけ止まった。
それから、さっきよりも少しだけ小さな声で、ひそひそ話が始まる。
銀髪、とか、ハーフかな、とか、きれい、とかいう言葉が、あちこちから聞こえてきた。
黒板に貼られた座席表を確かめて、窓際から二列目の真ん中あたりの席に座る。
大勢の視線を浴びることには、昔から慣れている。
向こうでは聖女として、これよりずっと多くの目の前に立ってきたのだ。
「ねえねえ、その髪って地毛?」
声をかけてきたのは、廊下側の席から、わざわざ歩いてきた女の子だった。
大きな目をきらきらさせて、私の髪を食い入るように見つめている。
「うん……海外の血が入ってて」
その言葉は、自分でも驚くくらいすんなりと口から出てきた。
帰ってきて最初の日曜日に、お母さんが小松さんについた、優しい嘘。
それを自分の口で使うのは、これが初めてだった。
この嘘が誰を守るためのものなのか、今の私には、もうわかっている。
守っているのはたぶん、この教室で始まる私の毎日だ。
「やっぱり! ねえ、ちょっとだけ触っていい?」
「え……あ、うん。いいよ」
返事をするより早く、その子の指が、私の髪をひと房すくい上げた。
思わず体を固くした私にはおかまいなしに、その子は目をまん丸にする。
「うわぁ。さらっさら……なにこれ、ずるい……」
「ええと……ずるいって言われても」
「あたし、小野寺莉子! 莉子でいいよ。そっちはアリサだよね、名簿で見た!」
莉子はそう言って、にかっと笑った。
初対面の相手を呼び捨てにするまでに、一秒もかからない子らしい。
女の子のこういう距離の詰め方には、たぶん、この先もずっと慣れない気がする。
入学式の前に、廊下に出席番号の順で並ぶことになった。
列の途中で後ろから肩をとんとんと叩かれる。
振り返ると、掲示板の前で目が合った、背筋のまっすぐな女の子が立っていた。
「リボン、曲がってる。じっとしてて」
その子は私の返事を待たずに、胸元のリボンをするりとほどいた。
指先が、迷いなく動いていく。
私が今朝十分かけてもできなかった結び目が、ものの数秒で、まっすぐにできあがった。
「……ありがとう」
「どういたしまして。私は藤崎美咲。同じクラスだよね、白絃さん」
「うん。よろしくね、藤崎さん」
藤崎さんは小さくうなずくと、自分の場所へ戻っていった。
掲示板の前でこぼした『マジかよ』のことは、何も言われなかった。
聞こえなかったのか、聞かなかったことにしてくれたのかは、わからない。
体育館には、紅白の幕が張られていた。
新入生の席の後ろには保護者の席が並んでいて、そのどこかに、お父さんとお母さんがいるはずだった。
保護者の席のいちばん後ろのほうで、大きなカメラのレンズが、きらりと光った。
私は見なかったことにして、前を向いた。
校長先生の話と来賓の挨拶が終わると、新入生の呼名が始まった。
担任の先生がクラスの名簿を手に、ひとりずつ名前を読み上げていく。
呼ばれた生徒は返事をして、その場で立ち上がる決まりだ。
一年C組の番が来た。
莉子の名前が呼ばれると、元気すぎる返事が、体育館の天井に跳ね返った。
それから何人かの名前のあとで、先生が、名簿の上の私の名前を読んだ。
「白絃アリサ」
三週間ほど前、あの教室で、高梨先生は古い出席簿を開いて、白絃優の名前を呼んだ。
あれが、白絃優としての、最後の返事だった。
そして今日、知らない先生が、知らない人たちの前で、私の新しい名前を呼んでいる。
「はい」
私は立ち上がって、まっすぐ前を向いた。
声は少しも震えなかった。
保護者の席のどこかで、誰かが小さく鼻をすする音がした気がした。
教室に戻ると、ホームルームで自己紹介をすることになった。
出席番号の順に立って、名前とひと言ずつを言っていく。
「小野寺莉子です! 好きなものは、甘いものと、かわいいもの!」
莉子の番では、教室じゅうに笑い声と拍手が起きた。
それから何人かあとに、私の番が回ってきた。
「白絃アリサです。趣味は、ゲームかな」
言い終えて座ろうとしたところで、教室の後ろのほうから、男子の声が飛んできた。
「なんのゲーム?」
「ハンモン。片手剣を使ってて、この前なんか三人で一晩じゅう――」
そこまで言いかけて、私は慌てて口を閉じた。
このまま話し続けたら、絶対に『俺』が出る。
「……いえ、なんでもないです」
教室のあちこちで、くすくすと笑い声が上がった。
銀髪の子がハンモン、という組み合わせが、どうやら意外だったらしい。
最後は、クラス委員決めだった。
誰も手を挙げずに教室が静まり返ったところで、すっと一本の手が挙がる。
藤崎さんだった。
「私、やります」
すんなりとクラス委員に決まった藤崎さんは、教壇の横に立って教室をぐるりと見回した。
「それと、ひとつ提案。せっかく同じクラスになったんだし、金曜の放課後にでも親睦会しない? 駅前のカラオケとか」
教室が、わっと沸いた。
莉子がいちばん大きな声で、行く、と叫んで、なぜか私の腕まで一緒に振り上げた。
「アリサ、連絡先交換しよ!」
「あ、うん」
「親睦会の連絡用に、クラスのグループも作っておくね。白絃さんも入れておくから」
ホームルームが終わるころには、私のスマホのグループが、ひとつ増えていた。
家族と、颯太と湊と、中学のクラス。
その下に、一年C組という新しい名前が並んでいる。
帰りの校門の前には、『入学式』と書かれた大きな看板が立っていた。
その前には写真を撮る家族の列ができていて、お父さんとお母さんも並んで待っていた。
お母さんの目はほんの少しだけ赤かった。
体育館で鼻をすすっていたのが誰だったのかは、聞かないでおくことにした。
「アリサ、こっちだ。看板の横に立ちなさい」
お父さんは、体育館のいちばん後ろで光っていた、あの立派なカメラを構えていた。
一枚撮っては私の立つ位置を直し、もう一枚撮っては自分の立つ角度を変える。
十枚を超えたところで、私は数えるのをやめた。
「お父さんお父さん、後ろの人が待ってるから」
「あと一枚だけだ」
「中学の入学式のときも、お父さん、こうだったのよ」
お母さんが、くすくすと笑った。
三年前の春、俺が優として中学に入学した日のことだ。
その日の写真に写っているのは、たぶん、ぶかぶかの制服を着た男の子のはずだった。
看板の向こうでは、颯太と湊のお母さんたちも、ちょうど写真を撮り終えたところだった。
三人のお母さんは顔を合わせるなり、そのまま話しこみ始める。
小学校からの付き合いなので、こうなると長い。
「おじさん、おばさん、ちわっす!」
「……こんにちは」
颯太と湊が、お父さんとお母さんに頭を下げた。
お母さんは二人の制服姿を、上から下まで、うれしそうに眺めた。
「颯太くんも湊くんも、すっかり高校生ねえ」
「よし、三人で並べ。最後の一枚だ」
お父さんに言われて、私は颯太と湊のあいだに立った。
それが本当に最後の一枚になったのかどうかは言わないでおく。
学食が始まったのは、入学して三日目のことだった。
四時間目の終わりを告げるチャイムと同時に教室を出ると、学食はもう、お腹をすかせた生徒たちでごった返していた。
窓際の隅のテーブルで、颯太が大きく手を振っていた。
その向かいで、湊が食券を二枚、指に挟んで座っている。
「お、来た来た。アリサ様、お席はこちらでございます」
「えぇ……その『様』、高校でも続けるの?」
「……ほら」
湊が差し出した食券には、カツカレー大盛りと印字されていた。
まだ何を食べたいかも言っていないのに、これだ。
「……なんでわかるのさ」
カウンターで受け取ったカツカレーは、大盛りの名にふさわしい、立派な山になっていた。
ひと口食べただけで、私はこの学食のことが、すっかり好きになった。
「このテーブル、窓際で落ち着くだろ。これから昼は、ここな」
颯太が、得意そうにテーブルを指で叩いた。
こうしてこの窓際の隅のテーブルは、その日から、私たち三人の席になった。
話題は、自然とハンモンのことになった。
帰ってきた翌日の夜に湊が新作を持ってきてくれてから、私たちは三人で、しょっちゅう一緒に遊んでいる。
「でさ、きのうのあれ。最後、お前が尻尾斬ってなかったら、全滅してたよな」
「だろ!? あそこは回避じゃなくて、踏みこむのが正解なんだよ。マジで俺の読み、神がかってたからな!」
「……その前に、二回落ちてたけどな」
「それは言うなよ! ずりーぞ、湊!」
「……白絃さん?」
背後から聞こえた声に、私はスプーンを持ったまま固まった。
おそるおそる振り返ると、紙パックの飲み物を手にした藤崎さんがすぐ後ろに立っていた。
「白絃さん、今、『俺』って言った?」
藤崎さんは小さくため息をつくと、私ではなく、向かいに座る二人のほうへ目を向けた。
「えっと……佐伯くんと、久我くん、だよね? 白絃さんに、変な言葉遣いをうつさないでね」
「えっ、俺ら!?」
颯太が、ちらりと私を見る。
私は顔の前で両手を合わせて、目だけで必死に頼みこんだ。
「……あー、はい。アリサ様に悪い言葉を教えて、すんませんでした」
「アリサ様!? ……佐伯くん、それも禁止」
「……ん。気をつける」
藤崎さんはそれから、私のほうに向き直る。
「それと、白絃さん。金曜の親睦会、来るよね?」
「うん、もちろん行くよ」
藤崎さんの背中が見えなくなってから、私はテーブルにおでこがつきそうなくらい頭を下げた。
「ごめん、二人とも。俺……私のせいで」
「いいって。それよりよかったな、アリサ様。もう友達できてんじゃん」
「……いいやつそうじゃん」
颯太はにやりと笑って、湊はいつもの眠そうな顔のまま、自分のうどんの最後のひと口をすすった。
怒られたことより、私に友達ができたことのほうが、二人には大事らしかった。
ちなみに、二人が私の代わりに美咲に叱られたのは、この日が一回目だ。
二回目と三回目がそれぞれ何日後だったのかは、もう覚えていない。
金曜日の放課後、駅前のカラオケ店には一年C組の二十人ほどが集まった。
受付で人数を数えて、店員さんと部屋の相談をしているのはもちろん藤崎さんだ。
入学して四日目にして、藤崎さんはもうすっかりクラス委員の顔になっていた。
案内された大部屋は薄暗くて、壁の大きな画面だけが明るく光っていた。
L字のソファに座ろうとすると、莉子に腕をつかまれてぐいっと隣に引き寄せられる。
「アリサはここね! あたしの隣!」
ソファは、二十人で座るには少し狭かった。
莉子の肩が、私の肩にぴったりとくっついている。
反対側の女の子とも膝が触れていて、私はどこにも逃げ場がなかった。
「ねえアリサ、写真撮ろ! はい、もっと寄ってよ!」
「え、ちょっと……」
莉子がスマホを高く掲げると、両側から女の子たちの顔が、ぎゅっと寄ってきた。
シャンプーの甘い匂いが、四方から押し寄せてくる。
私の中の男子の部分は、さっきからずっとソファの上で正座をしている。
私は画面に流れる店の宣伝の文字を、意味もなく目で追ってどうにかやりすごした。
歌が始まると、部屋の空気はいっきに明るくなった。
マイクが順番に回ってきて、みんなが次々に曲を入れていく。
最初にマイクを握ったのは、入学式のホームルームで、なんのゲーム?、と聞いてきた男子だった。
知らないアニメの曲を、盛大に音を外しながら全力で歌いきって、部屋じゅうを笑わせる。
ところがどっこい、それなのに私はひとつもついていけなかった。
画面に流れる曲も、タッチパネルに並ぶ人気の曲も、知らないものばかりだったのだ。
三年分の流行りが、私の中からはそっくり抜け落ちていた。
こっちは中一で止まってるんだぞ、と颯太に言い返した夜のことを、少しだけ思い出した。
けれど今は、知らない曲でもおかまいなしに、隣の莉子が手拍子のタイミングを教えてくれるのでそれに合わせる。
莉子が入れたのは、ここ最近でいちばん流行っているという曲だった。
イントロが流れたとたんに部屋じゅうが手拍子を始めて、知らないのは、どうやら私だけらしい。
莉子は少し調子っぱずれな声で、それでも楽しそうに最後まで元気よく歌いきった。
明るいメロディーも、跳ねるようなリズムも、サビで少しだけ高くなる音も、一度聞いたらもう頭から離れない。
向こうで長い詠唱を覚えたときと同じで、音なら、一度で入ってしまうのだ。
「はい、次はアリサの番!」
莉子にタッチパネルを押しつけられて、私は画面をのぞきこんだ。
指を何度も滑らせて、ようやく見つけたのは、中学一年生の春に流行っていたアニメの主題歌だった。
三年前の私が、颯太と湊と、何度も口ずさんでいた曲だ。
「あ、これ知ってる! 懐かしー!」
「中一のとき、めっちゃ流行ってたやつじゃん!」
「アリサ、渋っ!」
最後のひと言は、もちろん莉子だった。
「うん。しばらく、テレビ見られないところにいたから」
嘘ではない。
向こうの世界のどこを探しても、テレビなんて一台もなかったのだから。
みんなは、なるほど、という顔でうなずいた。
海外の血が入っている子なら、そういうこともあるのだろう、とでも思ったのかもしれない。
イントロが流れ始めて、私はマイクを握った。
向こうで祈りの歌を歌うときと同じように、ゆっくりと、深く息を吸う。
そういえば向こうで歌うときは、いつも『癒しの聖歌』のスイッチを入れていたっけ。
戦いのあとの村の礼拝堂で、怪我をした人たちのあいだを歩き魔法をかけながら、夜が明けるまで歌い続けたこともある。
心の中で、慌てて『癒しの聖歌』のスイッチを切った。
この日本で、今のカラオケで、『癒しの聖歌』は必要ない。
でも最初の一節を声に乗せて出したとたん、部屋の中がしんと静まり返った。
手拍子が止まった。
タンバリンを持った男子の手が、振り上げた形のまま止まっている。
ストローをくわえたまま、固まっている子もいた。
みんながどうして黙ってしまったのか、私にはよくわからなかった。
やっぱり、古すぎる曲を選んでしまったのかもしれない。
少しだけ心の中で心配になりながら、それでも私は最後まで歌いきった。
最後の音が消えても、部屋の中は静かなままだった。
画面が切り替わって採点の結果が表示される。
真ん中に、大きな数字で、百点と出ていた。
次の瞬間、部屋が爆発したみたいに沸いた。
「百点!?」
「うそでしょ、百点とか初めて見た!」
「え、プロ? 歌手の子?」
「今の、撮っとけばよかったー!」
「アリサ、やばすぎーっ!」
莉子が叫びながら、正面から私に飛びついてきた。
ふわりと甘い匂いがして、私は莉子の腕の中でかちんと固まる。
「莉子、くっつきすぎ。白絃さんが困ってるでしょ」
藤崎さんが莉子の襟首をつかんで、私から引きはがしてくれた。
それでも莉子は、私の手を握ったまま、ぶんぶんと振り回している。
小テストで百点満点の十二点だった私が、帰ってきてから初めて取った百点はカラオケの採点だった。
みんながこんなに騒いでいるのは、百点がめったに出ないから、それは分かる。
私だって、優の頃はカラオケくらい行っていたから。
「……え、そんなに?」
「そんなにだよ! アリサ、自分の歌、聞いたことないの!?」
えーと、聞いたことなら、たぶんある。
向こうでは聖女として、数えきれないほどの祈りの歌を、鼓舞するための歌を、『聖歌』を歌ってきた。
私が歌うと、いつも誰かが泣いていた。
けれどそれは、『聖歌』の力のせいだと思っていたのだ。
傷ついた人も、疲れきった人も、聖歌を聞けば楽になる。
だからみんな泣くのだと、私はずっとそう思っていた。
「白絃さん、アイドルとか目指せるんじゃない?」
「まさかぁ」
私は笑って、軽く首を横に振った。
このときの私は、それを本気でただの冗談だと思っていたのだ。
「もう一曲! アリサ、もう一曲!」
誰かが言い出すと、部屋じゅうから声が上がった。
私はタッチパネルを受け取って、少しだけ迷ってから、さっき莉子が歌った曲を探した。
「さっき莉子が歌ってたやつなら、歌えると思う」
「え、知ってたの?」
「ううん、でもさっき聞いたから」
「一回聞いただけで!?」
部屋の中がざわりとした。
莉子はばっとスマホを取り出すと、画面をこちらに向けて構えた。
「撮る! これは撮らねばならない!」
「莉子。撮るなら、ちゃんと白絃さん本人に聞きなさいよ」
藤崎さんに言われて、莉子は、はっとしたように私を見た。
「アリサ、撮ってもいい? あたしのに上げてもいい?」
「うん、いいよ」
上げる、というのがどういうことなのか、私はよくわかっていなかった。
スマホを持ち直して、まだ一か月。
私が使っていたのは、家族と、颯太と湊と、中学のクラスと、できたばかりの一年C組のグループのメッセージくらいだった。
グループ内で上げるくらいなら、問題ないだろうとしか思ってなかったのだ。
莉子が歌った曲のイントロが再び流れはじめた。
さっき一度聞いただけの曲なのに、メロディーはもう、体の中に入っている。
サビで音が上がるところで、自分の声が薄暗い部屋の天井まで伸びていくのがわかった。
歌いながら、私は部屋の中の顔をひとつずつ見ていった。
目を閉じて聞いている子がいる。
口を半分開けたまま、こちらを見つめている男子がいる。
藤崎さんは、まばたきを忘れたような顔をしていた。
隣の莉子は、スマホを構えたまま、目にいっぱい涙をためている。
いつの間にか、誰もタンバリンを鳴らしていなかった。
その顔を、私は知っていた。
向こうで私の聖歌を聞いていた人たちの顔と、同じだった。
あの礼拝堂で、包帯だらけの騎士が、兜を胸に抱えたまま泣いていた。
あの騎士も、今の藤崎さんと同じように、まばたきを忘れたような顔をしていた。
けれど今の私からは聖歌の力なんて、この部屋のどこにも流れていないのだ。
それなのに、みんなは、あのときと同じ顔をしている。
向こうで人が泣いていたのは、聖歌の力のせいだけでは、なかったのかもしれない。
卒業式の日、私の声が重なったとたんに何人かが振り向いたのも、たぶん、こういうことだったのだ。
これは聖女の力じゃない。
たぶん、私の声のせいだ。
最後の音が消えると、今度は誰も騒がなかった。
少しの間があって、それから、ぱちぱちと拍手が起きる。
拍手はだんだん大きくなって、最後には部屋じゅうが手を叩いていた。
採点の点数は、もう誰も見ていなかった。
藤崎さんが、少しだけ照れたように、私の顔を見る。
「……すごいね、アリサ」
白絃さん、ではなかった。
私は少しだけびっくりして、それから胸の奥がなんだかくすぐったくなった。
「ううん、ありがとうね……美咲」
美咲は一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。
その隣で莉子が、なぜか自分のことみたいに、得意げに胸を張っていた。
店を出ると、駅前のロータリーは、もう夕焼けの色に染まっていた。
分かれ道まで、莉子はずっと私の腕にしがみついていて、美咲はそのたびに、莉子を引きはがしていた。
名前で呼び合うようになっただけで、二人との距離は、さっきまでとまるで違って見えた。
その夜、夕ごはんのあとで、莉子からメッセージが届いた。
『動画上げたよ〜!』
『アリサの歌、みんなに見てほしくて!』
貼られていたリンクを開くと、カラオケの部屋で歌っている私が、画面の中に映っていた。
動画の下には、再生された回数を示す数字が並んでいる。
最初に見たときは三桁だったその数字が、お風呂から上がってもう一度見たときには、五桁になっていた。
「……え?」
三人のグループメッセージが、続けざまに震えた。
『おい、これアリサ様だろ!?』
『なんで知らないやつから回ってくんの!?』
『中学の校庭で誰か言ってたよな。テレビのアイドルより可愛いって』
湊からは、数字だけが届いた。
『三万』
少しして、もうひとつ。
『五万』
私はようやく、『なにこれ、どうなってんの』とだけ打ちこんだ。
『バズってんだよ、アリサ様!』
『……コメント欄は、あんまり見ない方がいい』
見るなと言われると、見たくなるのが人の性だ。
コメント欄には、知らない人たちの言葉が、次々に並んでいた。
声やば、うますぎ、この子だれ、どこの高校?
最後のひとつを見たとき、首の後ろが、少しだけひやりとした。
同時にばたばたと階段を駆け上がる足音がして、ノックもなしに部屋のドアが開いた。
「お姉ちゃん! これ、お姉ちゃんでしょ! 陽菜のクラスのグループに回ってきた!」
陽菜はスマホの画面を私の顔の前に突きつけて、ぴょんぴょんと跳ねた。
画面の中では、さっきと同じ動画の私が、同じように歌っている。
「みんなが、この人きれいって言うから、陽菜のお姉ちゃんだよって言っちゃった」
「えぇ……言っちゃったの」
「だって、陽菜のお姉ちゃんだもん!」
陽菜に引っぱられてリビングに下りると、お母さんがソファで、自分のスマホをのぞきこんでいた。
どうやら、家族のグループにも、陽菜が動画を貼ったらしい。
「あらまあ。アリサ、上手ねえ」
その隣で、お父さんは何も言わずに、自分のスマホを見つめていた。
動画が終わると、画面を指で戻して、また最初から再生する。
それが終わると、また最初から。
「……お父さん、それ、何回目?」
「まだ、四回目だ」
部屋に戻って、私はベッドの上で、もう一度だけ動画を開いた。
画面の中の銀髪の女の子は、知らないはずの曲を、知っている曲みたいに歌っている。
再生の数字は、見るたびに増えていた。
ふと、帰ってきた翌日の、真壁さんの車の中のことを思い出した。
平穏に暮らしてください、と真壁さんは言った。
学校に行って、友達と遊んで、家族とご飯を食べて、と。
今日の私は、ちゃんとそのとおりに過ごしたはずだった。
なのに、再生の数字が増えていく画面は、平穏という言葉からは、少しだけ、いや、かなり遠い気がする。
でも、カラオケの部屋で見たみんなの顔を、私はもう一度思い出した。
聖女の力を使わなくても、私の声は、誰かに届くのかもしれない。
そう思ったら、胸の奥が、ほんのりとあたたかくなった。
あとで聞いた話だけど、その夜、同じ動画をお父さんよりもっと何度も見返していた大人が、もうひとりいたらしい。
私がその人に会うのは、それからもう少しだけ先の話。
駅前で呼び止められたその日から、私の毎日は、ほんの少しだけ忙しくなるのだ。