TS聖女、現代に帰還しアイドルになる 作:ブリザード
週明けの月曜日、玄関でローファーを履いていると指先が勝手に動いていた。
向こうの世界で三年間、外に出る前には必ず確かめてきた、身を守る加護の術式だ。
帰ってきて最初の日曜日にやめたはずの癖が、どうして今ごろ顔を出したのかはわかっている。
金曜の夜に見た、どこの高校?、という知らない人の書きこみ。
あの一行が、首の後ろのあたりにまだうっすらと残っているのだ。
組み立てかけた術式を、私はそっと手放した。
いくらなんでも大げさだ。
見られているのは、声と顔だけなのだから。
『守りの加護』を本当にかけ直すことになるのは、それからしばらくあとのことだ。
通学路の桜は、もうほとんど散っていた。
道の端に寄せられた花びらを、ローファーのつま先が、ときどき蹴散らしていく。
途中ですれ違ったよその高校の制服の子が、スマホの画面と私の顔を二度見して見比べていった。
気づかなかったふりをして、私は少しだけ歩く速さを上げた。
角を曲がると、いつもの電柱の横で、颯太と湊が待っていた。
颯太は私の顔を見るなり、にやりと笑った。
「おはようアリサ様。すっかり有名人じゃん」
「……おはよー。有名人ってなんだよ」
「うちのクラスのグループ、金曜の夜からお前の話ばっかだったぞ。C組の銀髪の子で全員に通じてた」
「……百万、超えた」
湊は、それだけ言ってスマホをポケットにしまった。
金曜の夜からずっと、湊はこうして、数字だけを教えてくれる。
「数字だけで言うなよ」
「……ん」
数字が増えるたびに、平穏という言葉が少しずつ遠ざかっていく気がするのは、たぶん気のせいではない。
「それより聞いてくれよ。A組の女子に、佐伯くんって銀髪の子と知り合いなの? って、話しかけられたんだぜ」
「人をダシにすんなよ」
「……で、彼女はできそうなのか」
「うっせー、聞かれただけだっつの!」
颯太の高校の目標は、思っていたのとは少し違う方向から、近づいてきているのかもしれない。
湊は眠そうな顔のまま、ほんの少しだけ口の端を上げていた。
「ていうか、その『様』、禁止されたんじゃなかったっけ」
「いや。藤崎さん、ここにいねーし」
颯太はけろりとした顔で言って、湊に脇腹を小突かれた。
三年前の通学路と同じやりとりに、私の肩から少しだけ力が抜けた。
昇降口で二人と別れて、私はひとりで階段を上った。
C組の教室のドアの前で、小さく息を吸う。
ドアを開けたとたん、教室のざわめきがぴたりと止まった。
入学式の日と同じだ、と思ったのは、ほんの一瞬だけだった。
「アリサだ!」
「見たよ、動画!」
「百万だって、百万!」
次の瞬間には、私はクラスの子たちに、すっかり囲まれてしまっていた。
入学式の日のひそひそ話とは違って、今日の声はどれも、遠慮なく大きい。
「うちのクラスの誇りだよ」
「隣のクラスの子に、あれってC組の子でしょって聞かれたんだけど」
「私なんか、部活の見学で先輩に聞かれた!」
「白絃、そのうちほんとに歌手デビューとかすんじゃねえの?」
「まっさかぁ」
声をかけてきたのは、入学式のホームルームで、なんのゲーム?、と聞いてきた男子だった。
笑って首を横に振りながら、私はカラオケの部屋で同じ返事をしたことを思い出していた。
二度目のまさかぁは、一度目より少しだけ声が小さかった気がする。
廊下のほうに目をやると、知らない顔がいくつもドアの窓からこちらをのぞいていた。
目が合うと、あの子だ、とささやき合ってぱたぱたと走っていく。
その日は休み時間のたびに、同じことが何度も続いた。
大勢の視線を浴びることには、昔から慣れている。
けれど、のぞきこんでくる目は、向こうで聖女に向けられていた目とは、少しだけ違っていた。
何かを頼みに来る目ではなく、ただ見に来る目だ。
それがなんだかくすぐったくて、少しだけ落ち着かなかった。
人の輪の外側で、莉子が珍しく、しゅんとした顔をしていた。
私と目が合うと、ちょこちょことそばへ寄ってくる。
「ごめんねー、アリサぁ。こんなに広がっちゃうなんて思わなくて……」
「ううん。いいよって言ったのは、私だし」
莉子はほっとしたように笑ったけれど、眉はまだ少しだけ下がっていた。
いつの間にか隣に来ていた美咲が、小さな声で言った。
「土曜のうちに莉子にはコメント欄を閉じさせたから。『どこの高校』とか書かれてたでしょ? ああいうのは、放っておくと危ないの」
「……美咲も見てたんだ」
「見るでしょ、普通。友達のことなんだから」
金曜の夜、私の首の後ろをひやりとさせた、あの一行。
同じ書きこみを、美咲も見ていたのだ。
そう思ったら、首の後ろに残っていたものが少しだけ軽くなった。
「うえーん。土曜の朝、美咲から電話かかってきて、めっちゃ怒られたよ……」
「怒ってないわ。ただ注意しただけ」
「フォロワーも一晩で千人増えちゃったし、コメントなんか半分くらい英語だったし……」
しょんぼりと指を折る莉子の頭を、美咲がぽんと軽く叩いた。
二人のいつもどおりのやりとりに、私はようやく少しだけ笑えた。
朝のホームルームで、担任の先生は写真や動画をネットに上げるときは扱いに気をつけるように、とだけ言った。
誰の名前も出なかったけれど、莉子は自分の席で目に見えて小さくなっていた。
でも一時間目が終わるころには、莉子はすっかり元気を取り戻していた。
休み時間になるなり、私の席の後ろに回りこんでいつものように髪をいじり始める。
「今日もさらっさらの銀髪……ねえアリサ、今日はあたしが結んであげる~」
返事をするより早く、莉子の指が私のヘアゴムをするりと抜き取った。
その手のひらにのっていたのは、黒くて飾りのない、ただのゴムだった。
「……アリサ。ヘアゴムって、いっつもこれだよね」
「うん。これしか持ってないから」
「……えぇ?」
莉子の手が、ぴたりと止まった。
近くの席でおしゃべりしていた女子たちが、何事かとこちらを振り向き始める。
「シュシュは?」
「……シュシュって何?」
一瞬、教室のその一角だけ、時間が止まった。
「シュシュっていうのは、布でできた、ふわふわのヘアゴムのこと!」
「なるほど……布の、ヘアゴム」
「そう! くしゅってなってるやつ!」
説明を聞けば聞くほど、頭の中の絵はぼやけていった。
私の知っているヘアゴムは、黒くて、細くて、くしゅっとはしていない。
「バレッタは?」
「ばれ……?」
「ピンとか、カチューシャとかは?」
「ない」
「ネックレスは? 休みの日は?」
「別に、何もつけないけど」
「ひとつも!?」
「「「その顔で!?」」」
最後のひとことは、何人分もの声がそろっていた。
その顔で、という言葉には、どうも縁があるらしい。
帰ってきた夜の校庭でも、同じことを言われた。
「じゃあ、毎朝その髪を、黒いゴムだけで結んで来てたってこと……?」
「うん」
「罪深い……」
私の髪を結ぶものは、この黒いヘアゴムが三本だけだ。
一本は、帰ってきた翌朝に陽菜が貸してくれて、そのまま返しそびれているもの。
残りの二本は、ドラッグストアで買い足した。
帰ってきてからの二か月は、受験と、卒業式と、入学の準備でいっぱいだった。
髪留めのことまで、考えている余裕はなかったのだ。
三年前の私は、髪留めの名前なんて、ひとつも知らなかった。
アクセサリーらしいものといえば、向こうで聖女の証として授かった首飾りくらいだろうか。
けれどあれは、流石にどう考えても、人前でつけられる代物ではない。
「これは事件だよ!!」
莉子が、私の黒いヘアゴムを高々と掲げた。
まるで証拠品みたいな扱いだった。
「……さすがに、ひとつもないのは困るわね」
美咲まで、腕を組んで眉を寄せている。
それから小さくため息をついて、ついでのように私の制服のリボンを結び直した。
今朝の私は、リボンも三回結び直して、まだ曲がっていたらしい。
「今度の土曜、買いに行こ! 駅ビルにかわいいお店あるの! 一時に改札ね!」
「私も行くわ。莉子にだけ任せたら、とんでもないのを買わされそうだし」
「えー、美咲ひどーい!」
「いいなー、私も行きたい」
「土曜、部活の見学なんだよね……」
「写真、絶対送ってね!」
私が何か言う前に土曜日の予定は、もうすっかり決まってしまっていた。
昼休みの学食では、颯太がまたA組の女子に話しかけられていて、湊に脇腹を小突かれていた。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、知らない女の先輩に呼び止められた。
リボンの色からすると、相手は三年生らしい。
冗談半分の顔で差し出されたのは、ノートの切れ端とボールペンだった。
「記念に、サインもらえるかな?」
「サインって……名前を書けばいいんですか?」
私は少し考えてから、切れ端のまんなかに、普通の漢字で『白絃アリサ』と書いた。
先輩は、真面目か、と笑いながら、それを大事そうに生徒手帳に挟んでいった。
今では一日に何枚も書くサインの、あれがいちばん最初の一枚だ。
その夜、私は部屋のカレンダーの土曜日の欄に、『買い物』と書きこんだ。
このカレンダーに同じ字を書くのは、帰ってきて最初の日曜日以来だった。
あのときの買い物は、お母さんと陽菜に両腕をつかまれて、婦人服の売り場へ連れていかれる買い物だったけれど。
土曜日の朝も、陽菜の髪を結ぶのは私の仕事だった。
帰ってきてから、もうすぐ二か月になる。
洗面所の鏡に映る陽菜のポニーテールは、もうどこも傾いていない。
「お姉ちゃん、今日どこ行くの?」
「友達と、アクセサリーの買い物」
「えー、陽菜も行くー」
「今日はだめ、友達との買い物だし」
鏡の中の陽菜が、ぷうっと頬をふくらませた。
それから、何かを思いついたように、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、おみやげちょうだい! お姉ちゃんとおそろいのやつ!」
「おそろいって、何の?」
「なんでもいいの。お姉ちゃんとおそろいなら♪」
「うーん。何か、ほしいのとかはある?」
「かわいいリボンがついてるの!」
「なんでもだと、よくないじゃん」
鏡の中の陽菜が、えへへ、と笑った。
洗面所をのぞいたお母さんが、エプロンのポケットから、小さく折りたたんだお札を取り出した。
それを私の手に握らせて、にっこりと笑う。
「はい、お小遣い。好きなものを買ってきなさいね」
「……好きなもの?」
「そう、好きなものよ」
お母さんの声は、なんだかとてもうれしそうだった。
高校で友達ができたことを、もしかしたら私よりも喜んでいるのかもしれない。
こうして手渡しでお小遣いをもらうのは、ずいぶん久しぶりだった。
中学一年の優がもらっていた額より、少しだけ多い気がする。
着ていく服は、少し迷ってから、すとんとした形のズボンにした。
帰ってきて最初の日曜日に、お母さんが一本だけ許してくれた、あのズボンだ。
「お姉ちゃん、またそれ~?」
「……でも動きやすいんだよ」
陽菜は不満そうだったけれど、今日のところはこれで勘弁してほしかった。
女の子の友達と買い物に行くというだけでもう十分に緊張しているのだ。
台所から顔を出したお母さんも、何か言いたそうな顔をしたけれど、結局くすりと笑っただけだった。
リビングでは、土曜日で会社が休みのお父さんが、新聞を広げていた。
「……気をつけて行きなさい」
「うん。いってきます」
新聞の陰から、聞き覚えのある歌声が、小さく流れていた。
聞き覚えがあるどころか、私の声だった。
「……お父さん、それ、何回目?」
お父さんは何も答えずに、テーブルの上のスマホをそっと伏せた。
玄関を出るとき、いってらっしゃい、という声が背中のほうで二つ重なった。
お母さんと、陽菜の声だった。
待ち合わせは、駅の改札の前だった。
カラオケに行った日と同じ駅だけれど、私服で来るのは初めてだ。
改札の前には、もう莉子と美咲が来ていた。
莉子は春らしい花柄のワンピースで、美咲は細身のパンツにシャツをすっきりと合わせている。
「アリサ! 私服は初めて見た!」
駆け寄ってきた莉子は、それから私の足もとを見て目をぱちぱちさせた。
「……ズボンなんだ」
「動きやすそうでいいじゃない」
「でも、髪が黒ゴムでひとつ結び……素材がいいのに、もったいないよ! ……というわけで、今日はアリサ改造計画です!」
「改造って言わないの」
莉子の言う計画には、どうやら私の意見を聞くという工程は含まれていないらしい。
莉子に手を引かれて入ったのは、駅ビルの二階にある雑貨のお店だった。
入り口をくぐったとたん、私は思わず足を止めた。
棚という棚に、色とりどりの小さなものが、びっしりと並んでいる。
リボンに、花に、きらきらしたアクセサリーに、名前もわからない形のものまで。
向こうで見た宝物庫も、ここまで細かく、大量ではなかった。
「まずはこれ! アリサ、ちょっと頭貸してー」
莉子が最初に持ってきたのは、両手のひらくらいある大きなリボンのバレッタだった。
私の頭にそれを当てて、莉子は満足そうにうなずく。
「うーん、かわいい! 次はこれ!」
レースのシュシュ。
フリルのついたカチューシャ。
次々に頭に当てられるたびに、聖女の時は気にならなかった私の中の男子の部分が、小さく悲鳴を上げた。
カラオケの時ソファの上で正座していた男子の部分は、今日はとうとう、頭を抱えてうずくまっている。
鏡に映った私は、たしかにかわいかった。
かわいかったけれど、それが私だと思うと、どうにも落ち着かないのだ。
「じゃあ、これは? ハートのやつ!」
「ハートは……ハートは流石にちょっと……」
ピンク色のハートが三つも並んだヘアクリップを前に、私の中の男子の部分は、とうとう白旗を上げた。
向こうでどんな強敵と向き合ったときも、ここまで追いつめられたことはなかった気がする。
「莉子、そんなに装飾多いと学校にはつけていけないでしょ」
美咲が、別の棚から、紺と黒の飾りの少ないヘアピンを手に取った。
「学校につけていくなら、これくらいね。校則でも、これなら大丈夫」
「美咲、校則まで覚えてるの?」
「入学のときにもらった冊子に、書いてあったでしょ」
あったっけ。
確かに読んだけど、その辺りの下りは関係ないかと思い流していた。
美咲は、選んだヘアピンを一本だけ手に取ると、私の前髪を横に流して、ぱちんと留めた。
おでこが半分だけ出て、鏡の中の女の子の顔が、急に明るくなる。
「ほら。前髪を留めるだけでも、ずいぶん違うでしょ」
「うわぁ……知らない人みたい」
「あのねぇ、アリサよ」
あきれたように言われて、私は鏡の中の知らない人と、もう一度だけ目を合わせた。
「それと、髪が長いなら、これもあると楽よ。ぱっとまとめられるから」
美咲が差し出したのは、ぎざぎざの歯が向かい合った、大きなヘアクリップだった。
開いたり閉じたりするその形を見て、私の頭に最初に浮かんだのは、クワガタだった。
クワガタを髪に止めるのかぁ、と思ったけど、さすがにそれは口に出さなかった。
私は、手に取っていたヘアゴムの値札を、そっと裏返してみた。
小さな数字が、思っていたよりずっと大きい。
このヘアゴム一本で、学食のカツカレー大盛りが、一杯半は食べられる。
気づけば私は、指を折って数えていた。
「……アリサ、今なにで数えてたの?」
「カツカレー」
「なんでカツカレーで数えるのよ!?」
ふと見ると、美咲が小さな花のついたピンを、そっと自分のかごに入れていた。
「あ、美咲、それかわいい!」
「……たまたま、目に入っただけよ」
美咲はそっぽを向いたけれど、耳の先がほんの少しだけ赤くなっていた。
そうやって見ているうちに棚の端に、小さなリボンのついたヘアゴムが並んでいた。
淡い色のリボンが、結び目のところにころんとついている。
陽菜が好きそうだ、と思った次の瞬間には、もう手に取っていた。
陽菜の分を選ぶのに、迷う理由はなかった。
陽菜が何を好きなのかは、毎朝、髪を結びながら、いやというほど聞かされているのだ。
「妹ちゃんの?」
「うん。陽菜はこういうのが好きだから。おそろいって言われたから、同じのを二つ買おうかなって」
「……即決だ」
「アリサって、妹さんの話になると顔が変わるのね」
美咲にくすりと笑われて、私は少しだけ顔が熱くなった。
通りかかった店員さんに妹さんへのプレゼントですか、と聞かれて、私はなぜか背筋を伸ばして、はい、と答えた。
「で、アリサのは?」
「莉子が選んだのでいいよ」
莉子がぱっと顔を輝かせかけたところで、美咲が首を横に振った。
「だめよ。アリサが、どれがいいかって聞いてるの」
どれがいいか。
そう聞かれて、私は棚の前で何も言えなくなった。
服を選んでくれたのは、お母さんと陽菜だった。
制服は、採寸をして、仕立ててもらった。
向こうで身につけていたものは、どれも聖女の役目として、誰かから授かったものだった。
差し出されたものを受け取る作法なら、向こうで体に染みつくほど覚えた。
けれど、自分で手を伸ばして選ぶ作法は、どこでも習わなかった。
もしかしたら自分のために自分の好きなものを選んだことなんて、もしかしたら一度もなかったのかもしれない。
「あ、あっちに新作ある! ちょっと見てくる!」
私が考えていると、莉子はそう言ってぱたぱたと奥の棚へ駆けていった。
「……アリサちゃん?」
後ろから聞こえた声に、私は振り返った。
肩で切りそろえた髪の女の子が、小さな買い物かごを提げて立っている。
「芹沢さん……」
「やっぱり。新しい学校で使うものを買いに来たの。アリサちゃんは?」
答えるよりも早く、芹沢さんの目が私のズボンと黒いゴムでひとつに結んだだけの髪を、さっと往復した。
「……なるほど。それで、このお店なんだ」
中学のときのクラスメートの芹沢さんだった。
あの教室で、白絃優ひとりのための卒業式の司会をしてくれてから、まだ一か月ほどしかたっていない。
真相を知っている中学の世界と、何も知らない高校の世界が、ひとつの棚の前でばったり出会ってしまった。
私の背中を、冷たい汗がひとすじ流れていった。
「アリサ、知り合い?」
「う、うん。中学の同級生の芹沢さん。芹沢さん、こっちは高校で同じクラスの美咲」
「藤崎美咲です」
「芹沢です。アリサちゃんがお世話になってます」
芹沢さんは、なぜか保護者みたいな顔で頭を下げた。
それから私のほうを見て、くすりと笑う。
「あの動画見たよ。中学のクラスのグループは大騒ぎだったんだから」
中学のクラスのグループ。
三年間、みんなが私の夢の話を書きこんできた、あのグループだ。
あの夜、あそこがどんなことになっていたのかは、想像がついたので控えめに見てた。
「アリサって、中学はこっちだったの?」
美咲が、少し意外そうに首をかしげた。
私が答えるより先に、芹沢さんが口を開く。
「途中でしばらく遠くに行っちゃってたんだけどね、卒業式は一緒にやったんだ」
芹沢さんの言葉も、何ひとつ嘘ではなかった。
しばらく遠くに行っていたのも、卒業式を一緒にやったのも、本当のことだ。
美咲にはたぶん、海外に引っ越していた子が帰ってきた、という話に聞こえているのだろう。
そのとき、手の中でずっと握っていたバレッタの値札がくるりと裏返った。
小さな石のついた、銀色のバレッタだった。
値札に書かれていた数字は、さっきのヘアゴムよりゼロがひとつ多い。
「……マジかよ」
口からこぼれた声は、入学式の朝にクラス分けを見たときと同じくらい、低かった。
「アウト」
「アリサ」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
芹沢さんの『アウト』は、帰ってきた夜の校庭で聞いたのと、まったく同じ響きだった。
「はぁ。この子、たまにこうなのよ。高校の友達の男子がうつしたみたいで」
「ふぅん……もしかして佐伯くんと、久我くん?」
「知ってるの?」
「あの二人、中学も一緒だったから」
芹沢さんはほんの一拍だけ、私の顔を見た。
それから、わざとらしいくらい深いため息をついてみせる。
「……あの二人は、中学のときからほんとにもう」
颯太と湊の罪状が、本人たちのいないところでまたひとつ増えた。
二人には、あとで詫びを兼ねてジュースでもおごっておこう。
「その顔で『俺』はないわよね」
「ないわね」
「中学のときも禁止してたのよ」
「わかる。私も、毎回言ってる」
二人は、まるで十年来の友達みたいに、うなずき合った。
リボンを直してくれる人と、『俺』を禁止した人。
似た者どうしが出会ってしまったのだと、私はそのとき悟った。
「藤崎さんって、クラス委員でしょ」
「どうしてわかるの?」
「なんとなく。私も中学で、まとめ役みたいなことしてたから」
それだけで、二人のあいだには、何かが通じ合ったらしかった。
同類の勘、というものなのかもしれない。
「藤崎さん、よかったら、連絡先交換しない?」
「いいわ。アリサのことで何かあったら、連絡して」
「こっちも。アリサちゃんが『俺』って言ったら、報告するわね」
「うげぇ……」
芹沢さんがぱんと手を叩いて、話はあっという間にまとまった。
二人のスマホが、私の目の前で、ぴろんと軽い音を立てる。
「アリサ、それもダメよ」
「そうねアウト」
まずい、魔王軍の包囲網よりもよっぽど逃げ場がない。
「なになに、何の話?」
奥の棚から戻ってきた莉子が、私たちの顔を順番に見回した。
それから芹沢さんに気づいてぱっと目を輝かせる。
「アリサの友達? あたし、小野寺莉子! 莉子でいいよ!」
「芹沢です。よろしくね」
「よろしく、せりちゃん!」
一秒もかからなかった。
芹沢さんは少しだけ目を丸くしてから、小さく笑った。
「アリサが、たまに男子みたいな言葉遣いになるって話」
「えー! それって、アリサの男子モードじゃん!」
美咲の説明に、莉子はぴょんと跳ねて、私の腕にしがみついた。
「聞きたい聞きたい! 男子モードのアリサ、絶対かっこいいもん!」
「かっこよくないわよ」
「アリサ、ちょっと言ってみて!」
「言いません」
「「言わせない」」
美咲と芹沢さんの声が、今度はきれいにそろった。
莉子は、ちぇー、と唇をとがらせた。
ちなみに、莉子が私の男子モードを生で聞くことになるのは、それから一年半もあとのことだ。
「ねえねえ、せりちゃん。中学のときのアリサってどんなだった!?」
一瞬、私の心臓が跳ねた。
芹沢さんは、ほんの一拍だけ考えるような顔をしてから、あっさりと言った。
「……ゲームばっかりしてた」
「今と同じじゃん!」
莉子は、お腹を抱えて笑い出した。
それも、嘘ではなかった。
中学一年の白絃優は、本当に、ゲームばっかりしていたのだから。
「写真ないの!? 中学のときのアリサの写真!」
「写真なら、卒業式の……」
芹沢さんはスマホを取り出しかけて、そこでぴたりと手を止めた。
卒業式の集合写真の、あの黒板には、男子の太い字で『卒業おめでとう 優!』と書いてあるのだ。
「……これは、内緒のやつ」
「えー、なんでー!」
内緒のやつ、と言って望月さんを止めたのは、芹沢さんのほうだったはずだ。
芹沢さんは何食わぬ顔で、スマホをポケットにしまった。
「せりちゃんは、何買いに来たの?」
「学校につけていけるピン。うちの学校、校則が厳しいの」
「わかる。紺か黒か茶色で、飾りなしでしょ」
「そう、それ」
校則の話で、美咲と芹沢さんはまた深くうなずき合った。
莉子は、校則って何だっけ、という顔をしていた。
「じゃあ、私はそろそろ行くね」
芹沢さんは買い物かごを持ち直して、私の背中をぽんと叩いた。
帰ってきた夜、卒業証書を頼んだ私の背中を叩いてくれたのと、同じ手だった。
「アリサちゃん、自分の分、ちゃんと選びなよ。いっつも人のことばっかりなんだから」
美咲と莉子は、優しい子への小言だと思ったのか、顔を見合わせてくすくす笑っていた。
けれど私には、それが、あの日のことの話に聞こえた。
受験の前に『あの日、白絃さんは一人で行っちゃったでしょ』と言ったときと、同じ声だったから。
芹沢さんの背中が雑貨の棚のあいだに見えなくなるまで、私はなんとなく、その場から動けなかった。
芹沢さんが帰ってしまうと、私はもう一度、ひとりで棚の前に立った。
美咲と莉子は少し離れたところで、私の分の候補を、ああでもないこうでもないと相談している。
端の棚から、ひとつずつ、ゆっくりと見ていく。
自分の分をちゃんと選ぶ。
芹沢さんにもそう言われてしまったからには、選ばないわけにはいかなかった。
いちばん端の、小さなかごの中で、何かがきらりと光った。
細いヘアピンの先に、銀色の小さな星が、ひとつだけついている。
向こうの夜空には、日本で見たことのある星が、ひとつもなかった。
野営の火の番をしながら、知っている星を探して、ひとつも見つけられないまま朝を待った夜もある。
ぱちぱちとはぜる火の粉だけが、知らない星のあいだへ、のぼっては消えていった。
それから、卒業式の日の、あの教室の黒板。
光の陣が浮かんだあの黒板いっぱいに、みんながチョークで、向こうの星空を描いてくれていた。
手を伸ばしかけて、指が一度だけ止まった。
髪留めを選ぶのは、女の子のすることだ。
けれど、この星を見て胸の奥がきゅっとなったのは、女の子の私でも、男の子だった私でもなく、ただの私だった。
「……これがいいかな」
声に出してから自分で少しびっくりした。
誰かのためでも、役目のためでもなく、私が自分で選んだ初めてのものだった。
中の男子の部分も、星なら文句を言わなかった。
「かわいい!」
「いいじゃない。アリサらしい」
いつの間にか、莉子と美咲が、両側から私の手もとをのぞきこんでいた。
二人はたぶん私のことを星が好きな子なんだと思っているのだろう。
それで、いいのだと思う。
レジには、陽菜とおそろいのヘアゴムを二つと、美咲が選んでくれた紺のヘアピンと、星のヘアピンを並べた。
お母さんにもらったお小遣いで払いながら、好きなものを買ってきなさいね、という声を思い出す。
星のヘアピンだけは、カツカレー大盛りに換算するのを、すっかり忘れていた。
「せっかくだからつけていこうよ! あたしが結んであげる」
店の隅の鏡の前で、莉子は私の髪をいったんほどくと、手際よく上のほうだけをすくい上げた。
黒いヘアゴムでくるりとまとめて、残りの髪は背中に流す。
最後に結び目を隠すように、星のヘアピンをぱちんと留めた。
莉子の指が髪のあいだを通るたびに、首筋がくすぐったくて、私は鏡の中で何度もまばたきをした。
中の男子の部分は、ずっと天井の照明を見つめて、九九を唱えている。
「はい、ハーフアップ! アリサ、こういうの絶対似合うと思ってた!」
鏡の中の銀髪の女の子が、少しだけ得意そうな顔をしていた。
入学式の朝、仕立ててもらったばかりの制服を着たときと、同じ顔だった。
違うのは、この小さな星を私が自分で選んだということだ。
今では目をつぶっていても結べるハーフアップを、最初に結ってくれたのは、この日の莉子だった。
莉子が鏡の中の私を、スマホで何枚も撮った。
美咲も自分のスマホで一枚だけ撮って、交換したばかりの芹沢さんの連絡先に送る。
返事は、すぐに届いた。
『似合ってる』
『星なんだ、いいね』
美咲が、画面をこちらに向けて見せてくれた。
芹沢さんは、修学旅行の夜の星のことも、あの黒板の星空のことも、ちゃんと知っている。
星なんだ、いいね、のひとことの重さがわかるのは、たぶんこの場で、私だけだった。
でもそれでいいのだろう。
颯太と湊にも送ろうか、と三秒だけ迷って、やめた。
笑われるに決まっている。
陽菜には、帰ってからおみやげと一緒に見せることにした。
あの日の星のヘアピンは、今もちゃんと持っている。
白と銀の衣装でステージに立つ日には、ときどきこっそりつけていく。
店を出ると、駅前のロータリーは夕焼けの色に染まっていた。
カラオケの帰りに見たのと同じ景色だ。
莉子は私の腕にしがみついて、さっきの写真を見返しては、かわいい、を繰り返していた。
そのたびに、美咲が莉子を私から引きはがす。
いつもの帰り道だった。
「次は、アリサの私服をなんとかしようね!」
「……ズボンじゃ、だめ?」
「だめじゃないわよ」
「だめじゃないけど、もったいないの!」
「あのー、すみません」
後ろから声をかけられて振り返ると、スーツ姿の女の人が立っていた。
二十代の半ばを過ぎたくらいだろうか。
髪をきっちりとまとめていて、背筋がまっすぐで、立っているだけでてきぱきとした人なんだだとわかる。
「突然ごめんなさい。もしかして……カラオケの動画の方、ですか?」
首の後ろが、あの金曜の夜と同じように、ひやりとした。
私の足は、考えるより先に、半歩前へ出ようとしていた。
美咲と莉子を、背中で隠せる位置へ。
向こうでは聖女の力を欲しがる人ほど、丁寧な言葉と立派な肩書きを携えて近づいてきたのだ。
けれど、先に前へ出ていたのは、美咲だった。
「……何かご用ですか」
美咲の声は、クラス委員に名乗り出たときよりも、ずっと低くて硬かった。
莉子は、私の腕をぎゅっとつかんだまま離さない。
守るつもりで出しかけた私の半歩は、二人のあいだで、そのまま止まった。
帰ってきて最初の日曜日、モールの出口でお母さんが私より先に前へ出たときと、同じだった。
その人は、美咲の硬い声にも、たじろいだりはしなかった。
私を見る目はまっすぐで、値踏みするような色は、どこにもない。
けれど、それだけで信じていい理由にはならないことを、私は向こうで嫌というほど知っていた。
女の人は、美咲と莉子のほうにも向き直ると深く頭を下げた。
それから両手で一枚の名刺を差し出す。
「失礼しました。私、こういう者です」
名刺には、聞いたことのある大きな芸能事務所の名前が、きちんとした字で印刷されていた。
角ばった文字を何度読み返しても、まるで向こうの世界の文字みたいに、意味がうまく頭に入ってこなかった。
それが、私と篠原さんの出会いだった。