『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説
「孤高とぼっちの不可侵条約」
総武高等学校、二年生の春。
クラス替え直後の教室というのは、一種独特の生臭い熱気に包まれている。すでにスクラムを組み終えたグループが談笑し、端っこの席では、これから始まる一年間の処世術を計算して青ざめている人間がいる。
俺――比企谷八幡も、その「青ざめている人間」の一人だった。
窓際の最後ろから二番目。風通しはいいが、存在感としては限りなくモブに近いポジション。我ながら見事な配置である。
だが、問題はその斜め前の席だった。
「…………」
黒髪のロングヘアを揺らし、腕を組んで窓の外を睨みつけている女子。
平塚静。
近寄る者すべてを切り捨てるような冷徹なオーラをまとい、クラスの誰もが彼女の半径二メートル以内には近寄ろうとしない。不良というわけではない。むしろ成績は常に上位らしいが、その圧倒的な「一匹狼感」と、時折見せる威圧感のせいで、学内ではちょっとした恐怖の対象として有名だった。
(……やばいな。あんなのと一年間クラスが一緒とか、無駄なストレスで胃に穴が空きそうだ)
俺はそっと目を逸らし、机の上に広げた現代文の教科書に逃げ込んだ。関わらない。あれには関わらないのが一番の得策だ。そう心に誓い、最初の数日間は徹底して空気のように過ごした。
しかし、運命というやつは、往々にしてひねくれ者の意表を突いてくる。
事件が起きたのは、五月半ばの放課後だった。
部活も入らず、さっさと帰ろうと教室を出ようとしたとき、机の上に財布を忘れたことに気づいて戻ってきたのだ。
西日に染まる誰もいない教室。
静まり返った空間で、ぱら、と紙のめくれる音がした。
「……っ」
窓際の席。そこには、いつもは氷の女王のような顔をしている平塚静がいた。
彼女は周囲を警戒するようにちらりと確認すると、机の引き出しから取り出したぶ厚い少年漫画誌を、ものすごい集中力で読みふけっていたのだ。しかも、その表情は険しいものではなく、なんだか妙に嬉しそうというか、胸をときめかせているような……。
思わず足が止まり、床のきしむ音が響いた。
「――誰だっ!」
ものすごい殺気とともに、平塚が跳ね上がるように振り返った。その手には、丸められたノートが凶器のように握られている。
目が合った。平塚の顔が、みるみるうちに朱色に染まっていく。
「き、貴様……比企谷、だな?」
「あ、えっと……その、財布をですね……」
ヤバい。これは絶対に見てはいけないものを見てしまった。秘密を知られた彼女は、このまま俺を窓から放り投げるか、あるいは二度と学校に来られないような社会的制裁を加えてくるに違いない。
冷や汗が背中を伝う中、平塚は激しく動揺しながらも、必死に漫画を隠そうとカバンに押し込んでいた。
だが、彼女はふと動きを止め、真っ赤な顔のまま、じっと俺を睨みつけた。
「……おい、比企谷」
「は、はい」
「見たか?」
「いえ、何も。俺の視界には、ただ窓の外の電柱と、風に揺れる若葉しか映っていませんでした」
「嘘をつけ! 完全に目が合っていたぞ!」
平塚はガタッと椅子を蹴立てて立ち上がり、俺に詰め寄ってきた。身長は俺とそう変わらないはずなのに、なぜか圧倒的なプレッシャーがある。
しかし、間近で見ると、彼女の目は思っていたよりもずっと澄んでいて、どこか年相応の危うさを含んでいた。
「……ふん」
しばらく沈黙が流れたあと、平塚はふっと息を吐き、乱れた髪をかき上げた。
「まあいい。どうせ、私のそんな趣味を知ったところで、お前が誰かに言いふらすような軽薄な男ではないことくらい、クラスの隅っこで腐った目をしているお前を見ていれば分かる」
「……買い被りすぎじゃないですかね、それ。あと腐った目ってなんですか」
「事実だ。お前はいつも一人で、人間を斜めから観察しているような嫌な目をしている」
「ひどい言われようだ」
俺が苦笑いを浮かべると、平塚はふっと小さく笑った。その笑みは、いつもの威圧的なものではなく、どこか肩の力が抜けた綺麗なものだった。
「……お前、いつも一人だな」
「あなたこそ」
「私は、群れるのが嫌いなだけだ。くだらないおしゃべりや、中身のない同調圧力につき合っている暇があったら、物語の世界に浸っている方が百倍マシだ」
「……意外と、気が合いますね」
口プツリと漏らした俺の言葉に、平塚は少しだけ目を丸くし、それからフンと鼻を鳴らした。
「冗談を言うな。私と貴様では、生き様が違う」
「そうですね。こちとら極力目立たず平穏に生きるのがモットーなんで」
「ふっ、それのどこが青春だ。青春とはもっと泥臭く、不器用で、ままならないものだろうに」
呆れたように言いながらも、平塚はカバンを肩にかけた。
「おい、比企谷」
「なんですか」
「帰りにな、購買の新作のメロンパンでも食いに行くぞ。おごってやる」
「……は? なんでまた」
「秘密を共有した共犯者への、ささやかな口止め料だ。文句あるか?」
威圧的だが、どこか不器用な優しさが混じったその誘いに、俺は小さく息を吐いた。
「……文句はありませんよ。高いやつを選んでやりますから」
「ふっ、調子に乗るなよ」
夕暮れの教室。
並んで歩くわけでもなく、少し距離を空けたまま廊下を歩き出す。
クラスの誰とも馴染めない一匹狼の女子と、ひねくれたぼっちの男子。
友達というには少し気恥ずかしく、他人というにはお互いの秘密を知りすぎている――そんな、名前のまだない絶妙な関係が、俺たちの高校二年の春に、こうして静かに始まったのだった。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・続編
「不可侵条約の更新と、放課後の買い食い」
それからというもの、俺たちの奇妙な距離感は、少しだけ形を変えた。
元々、クラスの隅っこでそれぞれ孤立していた人間同士だ。劇的に仲良くなって連れだって行動するような気恥ずかしい真似はしない。が、ふとした瞬間に視線が交わり、言葉を交わす頻度が目に見えて増えていた。
ある日の放課後。いつものように購買の通路で、俺たちは並んでメロンパンの棚を眺めていた。
「おい、比企谷。今日はあの期間限定の、いちごクリームが入ったやつにするか、それとも王道のプレーンにするべきか……」
「迷うなよ、大人のくせに……いや、今は高校生か。ならなおさら本能に従ってカロリーの高い方に突っ込めよ」
「ふん、何を言う。カロリーの摂取は計画的かつ戦略的でなければならん。……む、お前がさっきから狙っているのは、その最後の一個のチョココロネか?」
「あ、これ? 譲らないからな。俺が三歩早く視線を合わせた」
「なんだと、貴様……!」
いつの間にか、俺たちは敬語をやめていた。
いつからだったか。たぶん、三度目の放課後買い出しのとき、平塚が「いつまでそんなよそよそしい口の利き方をしているんだ」と、ぶっきらぼうに眉根を寄せたのがきっかけだったはずだ。
購買のおばちゃんが「はいはい、仲良しさんはそこまでね」と苦笑いしながらパンを袋に入れてくれる。俺たちはそれを手に入室すると、自然と人気のない階段の踊り場へと足を向けていた。
ガタ、と階段の段差に腰を下ろし、俺はチョココロネの袋を破る。
隣に座った平塚は、戦利品のメロンパンを大きな一口でかじりつきながら、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……しかし、お前とこうしていると、どうもペースが狂うな」
「こっちのセリフだ。静かなぼっちライフを満喫していたはずなのに、気づけばクラスで一番目立つ不気味系美女と買い食いしている。お陰で周囲の視線が痛いんだよ」
「不気味系とはなんだ、失礼な。私はただ、無駄に群れるのが嫌いな高潔な魂を持っているだけだ」
「はいはい、高潔な魂の持ち主が、昨日の放課後、ジャンプの最新号読んで『ここでこの展開かぁ……!』って悶絶していたの、しっかり窓越しに目撃してましたけど」
平塚の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと首がこちらに向き、その美しい目がジロリと細められる。
「……比企谷。お前、死にたいのか?」
「事実を述べたまでです。あ、ちなみに俺はあの漫画、主人公の修行パートより、ライバルが闇落ちしかけてる今の展開の方が好きだな」
「っ……! わ、分かっているじゃないか、比企谷!」
驚いたことに、平塚の顔がパッと輝き、なぜか力強く俺の肩をバシバシと叩いてきた。
おい、痛い。骨が軋む音がした気がするぞ、この元不良(のちの教師)の片鱗を残す女は。
「お前、案外見る目があるな。あのライバルの葛藤こそが、この作品の真骨頂なのだ。人間の弱さと、それでも足掻こうとする醜さこそがリアリティを生む……!」
「うわ、熱っ。文学論語り出すのやめてくれないか。パンが美味しくなくなる」
「ふん、無粋な奴め」
呆れたように言いながらも、平塚の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
夕日が校舎の窓ガラスを赤く染め、遠くから部活の掛け声や、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
クラスに居場所がないわけじゃない。だが、なんとなくどこにも馴染めない。
そんなお互いの「余白」を、この乾いた空気感のまま埋め合えるのは、意外と悪くなかった。
「なぁ、比企谷」
メロンパンの袋をくしゃりと丸めながら、平塚がぽつと言った。
「ん?」
「明日の現代文の課題、お前、どうせまだやってないだろう」
「……図星を突かないでくれるか。見事に白紙だ」
「まったく、しょうがない奴だな。……放課後、図書室の隅の席を確保しておけ。特別に、私のノートを見せてやる」
ふんっと鼻を鳴らし、立ち上がる平塚。
その整った横顔を見上げながら、俺は小さく息を吐いてから笑った。
「――了解。じゃあ、今日のところは恩に着ておくよ、静」
「っ……! だ、誰がその呼び方でいいと言った、比企谷っ!」
真っ赤になって振り返る平塚を背に、俺たちはそれぞれの夕暮れの中へと歩き出した。
青春なんて洒落たものじゃない。けれど、このひねくれた二人だけの時間は、案外悪くない形をして――俺たちの高校二年は、静かに、しかし確実に色づいていくのだった。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・続編
「あるいは、とっくの昔に絡め取られているということ」
自覚したのがいつだったか、なんて正確には覚えていない。
あるいは、あの放課後、誰もいない教室で真っ赤になりながら少年漫画を隠していた姿を見たときかもしれないし、あるいは、購買でチョココロネの数を競って不満そうに眉を寄せたときかもしれない。
気づいたときには、すでに手遅れだった。
「おい、比企谷。聞いてるのか?」
「……聞いてるよ。現代文の第3章のレポートだろ」
図書室の冷房がかすかに効いた静かな空間。
向かいの席に座る平塚が、不満そうにペンをトントンと机に叩いている。相変わらず整った顔立ちで、少し乱れた黒髪が耳にかかっている。その、あまりにも絵画的な光景を、俺――比企谷八幡は、教科書の陰からこっそりと視界の端に収めていた。
(……やばいな、本当に)
心の中で、何度目か分からないため息を飲み込む。
いつの間にか、俺の視線は無意識に彼女を探すようになっていた。クラスの端っこで窓の外をぼんやりと眺めている横顔も、購買のパンのチョイスで真剣に悩んでいる後ろ姿も、全部。
彼女は「孤高の一匹狼」を気取っているけれど、実際は誰よりも不器用で、正義感が強くて、時折見せる子供っぽいくらいの純粋さに、このひねくれた心臓はとっくの昔に撃ち抜かれている。
だが、それを表に出す気なんて、死んでもない。
青春ラブコメの主人公気取りで「好きだ」なんて告白しようものなら、この絶妙で心地よい共犯関係は一瞬で崩れ去るだろう。平塚は笑って誤魔化すか、あるいは「馬鹿なことを言うな」といつもの強烈なチョップを食らわせて、二度と口を利いてくれなくなるに違いなくない。
そんなリスクを冒すほど、俺は勇敢じゃない。
この距離のまま、お互いに「友達未満、共犯者以上」の仮面を被ったまま、並んで歩く。それで十分だ。それ以上を望むのは、欲張りすぎというものだ。
「おい、比企谷。ここ、お前の字が汚すぎて読めないんだが」
「悪かったな、ミミズが這ったような文字で。ほら、そこは『諦念』って書いてあるんだよ」
「ていねん……? お前、またそんな斜に構えた言葉を好んで使うな。もっと前向きな表現をしなさい」
「前向きな生き方ができるなら、とっくの昔にリア充の爆発に巻き込まれて散ってるっての」
やれやれ、とばかりに肩をすくめて見せる。
完璧だ。今の発言には、微塵も彼女に対する特別な感情なんて滲み出ていないはずだ。ただの「いつものひねくれた比企谷八幡」を完全に演じきっている。
しかし、平塚はふっとペンを置き、じっと俺の顔を見据えた。
「……なんだよ」
「いや」
平塚は少しだけ目を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「最近、お前は相変わらず腐った目をしているが……どこか諦めが良すぎて、逆に気味が悪いな。もっとこう、若者らしい泥臭い焦りとか、そういうものがないのか?」
「勝手なこと言うな。これでも毎日、平穏無事に生きることで精一杯だよ」
「ふん……まあいい」
彼女はそれ以上詮索せず、再びノートに視線を戻した。
その瞬間、俺はこっそりと胸の内で息を吐き出す。バレてはいない。相変わらず、彼女の目には俺は「ちょっと気が合うひねくれたクラスメイト」にしか映っていないはずだ。
それでいい。それがいい。
図書室の窓の外では、夕暮れの茜色が校庭の木々を染め始めている。
遠くで帰宅部の下駄の音が響く中、俺たちはまた、他愛のない文句を言い合いながらノートに向き合う。
この胸の奥にある熱を、絶対に表に出さないと誓いながら。
俺たちの、終わりが見えない不器用な日常は、今日も静かに続いていく。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・続編
「あるいは、お互いに隠し事をしているということ」
図書室の窓から差し込む夕日が、ページの上でオレンジ色の線を引いている。
向かいの席に座る比企谷の、いつも通り不貞腐れたような、しかしどこか落ち着いた横顔。それを、私は教科書の隙間からこっそりと盗み見ていた。
(……本当に、何をやっているんだか、私は)
心の中で、何度目かも分からない苦笑いを飲み込む。
いつからだったか。
あの放課後、人目を盗んで読んでいた漫画をこいつに見られたときから、心のどこかが狂い始めていたのは確かだ。
「孤高の一匹狼」を気取って、誰も寄せ付けないオーラを纏ってきたつもりだったのに、このひねくれた男子生徒――比企谷八幡だけは、その冷徹な防壁を軽々とすり抜けて、いつの間にか私の日常の中心に居座っていた。
購買のパンの趣味で言い合い、階段の踊り場で他愛のない悪態をつき、こうして並んで課題を片付ける。
そんな時間が、思いのほか心地よくて、愛おしい。
だが、それを表に出す気なんて、死んでもなかった。
私には、「平塚静」としての意地がある。
それに、もしここで彼に対する特別な感情がバレてみろ。この不器用で、絶妙なバランスで成り立っている「共犯関係」は一瞬で崩れ去ってしまうだろう。彼はきっと、あの気まずそうな、しかしどこか突き放したような目を向けて、私の前からスッと距離を取るに違いない。
そんな臆病な理由で、私はいつだって「ただのクラスメイト」の仮面を被っている。
お互いに一歩も踏み出せないまま、ただ平行線を歩き続ける――それが、私たちに許された唯一の距離感なのだと、自分に言い聞かせながら。
「おい、比企谷」
「ん? なんだよ、急に。また俺の字がミミズに見えてきたか?」
「そうじゃない。……お前、その問題の解き方、微妙に回りくどいぞ。もっとこう、ストレートなアプローチがあるだろうに」
わざとらしく呆れた声を出しながら、私はペン先をトントンと机に突いた。
完璧だ。今の声のトーンには、微塵も甘さも、隠し切れない熱も混じっていない。ただの「少し小言の多いクラスメイト」を完全に演じきっているはずだ。
しかし、比企谷はふっと小さく笑って、いつものひねくれた目をこちらに向けた。
「うるさいな。回りくどいのは俺の人生のモットーなんでね。ストレートに生きていけるほど、世の中甘くできてないんだよ」
「ふん……相変わらず、ひねくれた奴だ」
そう返しながら、私は内心で冷や汗を拭う。
危なかった。あいつのそのちょっとした軽口や、時折見せる妙に大人びた(あるいは諦めきった)表情に、心臓が跳ね上がるのを抑えるのに必死だった。
お互いに、相手には何も気づかれていないと思っている。
相手はただの「気の置けない、少しだけ厄介な同級生」だと、そう信じ込んでいる――その滑稽なすれ違いの上に、私たちの日常は成り立っていた。
「……まあ、いいさ」
私は小さく呟き、再び自分のノートに視線を落とした。
夕暮れのチャイムが、校舎のスピーカーから静かに響きわたる。帰宅を急ぐ生徒たちの足音が遠ざかり、図書室には私たちを包む穏やかな沈黙だけが残された。
この胸の奥にある熱を、絶対に表に出さないと誓いながら。
――本当は、どちらか一方が少しだけ勇気を出せば、この関係はもっと違う形に変わるのかもしれないと、心の片隅で期待しているくせに。
静まり返った空間の中、私たちは再び、それぞれのノートに向き合う。
終わりが見えない、けれどどこか温かい不器用な日常を、まだしばらく噛り締めるように。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・続編
「あるいは、防壁の裏側にある本音」
その日の放課後、買い出しのついでに寄った駅前の裏通りは、いつもよりやけに静まり返っていた。
「……なんだか、嫌な空気だな」
いつものように少し距離を空けて歩いていた俺――比企谷八幡は、ふと足を止めた。
前方を歩いていた平塚も、それに気づいたようにスッと立ち止まり、鋭い目を細める。
電柱の陰から、いかにも暇を持て余したような不良グループが三、四人、ぞろぞろと姿を現したのはその直後だった。派手な髪色に、耳障りな笑い声。明らかにこちらに狙いを定めている。
「お、姉ちゃん。一人でいいところじゃねえか。俺たちとちょっと遊んでいこうぜ」
「ほう、見かけねえ顔だな。どこの高校だ?」
平塚の顔色が変わった。
教師としての威厳や、いつもの強気な仮面など関係ない。ここはただの、制服を着た一人の女子高生だ。
反射的に一歩踏み出そうとした平塚の足が、しかし、ぴたりと止まった。
――彼女の手が、かすかに震えていた。
(……っ)
頭の中で、冷ややかな思考回路が一瞬にして吹き飛んだ。
彼女がどんなに「孤高の一匹狼」を気取っていようと、クラスの誰にも怯えないような顔をしていようと、所詮は年端もいかない女の子なのだ。いざという時の恐怖や焦りが、その背中に滲み出ているのが痛いほど分かった。
お互いに気持ちを隠し合って、友達未満の仮面を被って、平穏な日常を演じていた。
だけど――ここで黙って見ているような真似をしたら、俺は一生、自分を軽蔑するだろう。
一歩。
平塚の細い肩の前に、俺の影が覆い被さるように割り込んだ。
「おいおい、大勢で一人の女子に声掛けとは、いいご身分だな。頭の数が揃ってないと、一人じゃまともに会話もできないクチか?」
わざと気だるげに、しかし乾いた声で吐き捨てる。
不良たちが一斉に視線をこちらに向けた。先頭に立っていた男が、面白くなさそうに顔を歪める。
「んだ、テメェ。ひょろいモブが邪魔すんじゃねえよ」
「邪魔? いや、こっちはな、これ以上お前らのくだらない低脳な悪ノリにつき合わされるこっちの身にもなってほしいんだよ。目が腐りそうだ」
「てめっ……!」
男が怒気に任せて掴みかかってくる。
わかっていた。運動神経が良いわけでも、ケンカが強いわけでもない。まともにやり合えば一方的に痛い目をみるのはこっちだ。
それでも、腕が振り上げられた瞬間、俺は一歩も引かずにその腕を受け止め――いや、勢いそのままに地面へと押し倒される格好になった。
「っ……!」
鈍い痛みが背中を走る。アスファルトの冷たさが制服越しに伝わってきた。
だが、それ以上に。
「――比企谷っ!」
背後から聞こえたその声は、いつもの勝気な響きではなく、明らかに恐怖と、切迫した熱を帯びていた。
次の瞬間。
不良たちの間から、すさまじい気迫が爆発した。
「……よくも、私のクラスメイトに手を出しやがったな」
低く、底冷えのするような声。
それは「不良の凄み」なんて生易しいものではなく、理性を外れた怒りに満ちた、本当の修羅の声音だった。
振り返る間もなく、平塚の足技が炸裂した。鈍い肉音が響き、一番近くにいた男が綺麗に吹き飛ぶ。残りの不良たちも、彼女の圧倒的な殺気と容赦ない一撃の前に、顔面を蒼白にして数歩後ずさった。
「な、なんだこいつ……っ! バケモンかよっ!」
「失礼な奴らだ。さっさと失せろ。二度とその面を見せるな!」
一喝された不良たちは、命からがら逃げ出していくように走り去っていった。
……静まり返った路地に、静の荒い息遣いだけが響く。
「……馬鹿、なのか、お前は……!」
震える声で振り返った平塚の目は、驚きと怒りと、そしてそれ以上に、あふれ出しそうな涙を必死にこらえているような色をしていた。
俺は地面に転がったまま、痛む肩を押さえて苦笑いを浮かべる。
「……ひどい言われようだな。助けてやったっていうのにさ」
「誰が助けてくれと頼んだ! お前が前に出なくたって、私が一人で何とかできたはずだ!」
「強がりはやめろよ。足、震えてたぞ」
図星を突かれたのか、平塚は息を詰まらせ、それから音を立ててしゃがみ込んだ。
彼女は震える手で顔を覆い、しばらくの沈黙のあと、小さく掠れた声で呟いた。
「……本当に、馬鹿だな。お前は」
夕暮れの路地裏。
傷だらけの制服のまま、俺たちは並んでアスファルトに座り込む。
お互いに隠し続けていたはずの感情が、この不器用な事件をきっかけに、もう二度と元には戻れないほど、激しく音を立てて溢れ出していた。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・完結編
「勘違いするなよ? 本命だ」
二月十四日。世間が甘いチョコレートの香りと、どこか浮かれた熱気に包まれる日。
総武高校の教室は、朝から妙なテンションの男子と、そわそわする女子たちの空気が入り混じっていた。
そんなクラスの隅の席で、俺――比企谷八幡は、いつも通り机に突っ伏して現実逃避を試みていた。
(……どうせ俺に関係のあるイベントじゃない。チョコといえばせいぜい、あとで自分で買いに行く半額のブラックサンダーくらいだ)
そう自分にと言い聞かせ、目を閉じたその時だった。
「――おい、比企谷」
コツ、と、目の前の机を軽く叩く音がした。
低く、しかし妙に緊張を帯びた声。聞き慣れた、けれど今日に限ってはいつもより少しだけ体温の高い声。
「……ん?」
顔を上げると、そこには平塚静が立っていた。
周りの目を避けるように、彼女は少し頬を紅潮させ、手元に持っていた小さな包みを後ろ手に隠そうとしていた。その美しい顔立ちは珍しく強張っており、耳たぶまで真っ赤に染まっている。
「……なんだよ、静。人の優雅な仮死状態を邪魔して」
「うるさい。少し、私に付き合え」
有無を言わせぬ圧力を放ちながら、平塚は俺の腕を掴み、そのまま教室の隅――廊下に面した人気のない非常階段の踊り場へと引っ張っていった。
冷たいコンクールの壁に押し付けられるような形で、俺たちは向かい合う。
心臓がうるさいほどに跳ねていた。まさか、とは思いたい。けれど、この時期に、このシチュエーションで、彼女が俺を人気のない場所に連れ出す理由なんて、限られている。
平塚は大きく息を吸い込むと、震える手で、カバンから一つの小さな箱を取り出した。
リボンが結ばれた、いかにも手作りらしい綺麗に包装された箱。それを、乱暴に、しかしどこか大切そうに俺の胸元へと突きつけてきた。
「ほら、受け取れ」
「……これって」
言葉を失う俺の前で、平塚はプイと顔をそむけ、真っ赤になった顔を隠すように腕を組んだ。
そして、あの勝気な彼女からは想像もつかないほど、か細く、けれど聞き逃せない強い声で言った。
「……勘違いするなよ?」
心臓が跳ねる。やっぱり、いつもの照れ隠しのセリフだ。
――「義理だからな」「たまたま余ったから、クラスメイトの情けだ」そう続くはずだった。
だが、平塚はぐっと唇を噛みしめると、再びまっすぐに俺の目を見据えた。
その瞳には、もう逃げも隠れもしない、ただ純粋な決意と熱が宿っていた。
「……勘違いするなよ。……本命だ、バカ」
静まり返った階段の踊り場に、その言葉が鮮やかに落ちた。
時が止まったかのような静寂の中、俺は動揺を隠せないまま、目の前の小さな箱を見つめた。
頭が真っ白になり、気の利いたセリフなんて一つも出てこない。ただ、胸の奥底で、ずっと蓋をしていた熱が一気にあふれ出しそうになる。
「……っ、な、なんだその気の抜けた顔は! もしかして、嬉しくないのか……!?」
「っ……違う、そうじゃなくて……!」
俺は慌ててその箱を両手でしっかりと受け取った。
ずしりとした重みが、妙にリアルに手のひらに伝わってくる。
「……嬉しくないわけないだろ。ただ、お前がそんなストレートに言うもんだから、処理能力が追いつかなかっただけでさ」
照れくささをごまかすように頭を掻きながら、俺はふっと息を吐いて笑った。
平塚は、俺の手にあるチョコと、俺の顔を交互に見つめると、やがてふっと、今日一番の、とびきり綺麗な笑みを浮かべた。
「……そうか。なら、よしとする」
窓の外では、冬の冷たい空気を切り裂くように、青空がどこまでも広がっていた。
お互いに隠し続けていた不器用な感情は、もうこれ以上隠す必要なんてない。
「おい、比企谷」
「なんだよ、静」
「……今度、放課後に甘いものでも奢れ。その代わり、私の話に付き合ってもらうからな」
「……了解。いくらでも付き合ってやるよ、俺の彼女」
「っ……誰がすでにそういう関係になったと言った……!」
「え、今のは本命のチョコを渡した彼女としての発言じゃないのか?」
「うるさい! バカ! もう知らない!」
真っ赤になって早足で階段を駆け上がっていくその後ろ姿を、俺は少し笑いながら追いかけた。
青春なんて洒落たものじゃない。けれど、俺たちの物語は、この最高に不器用で愛おしい春の入口から、ようやく本当の意味で始まったのだった。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・エピローグ
「あるいは、修学旅行の夜に交わす約束」
十月、秋風が心地よく吹き抜ける季節。
俺たち総武高校の二年生は、修学旅行で京都・奈良の古都を訪れていた。
日中はクラスごとの自由行動や寺社仏閣の巡り合わせで慌ただしかったが、夜を迎えてようやく一息つく時間帯。旅館の畳の部屋、あるいは庭に面した静かな廊下。建物の端、夜の冷気がかすかに漂う縁側の近くに、俺――比企谷八幡はいた。
「――こんなところで、何をしているんだ、比企谷」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには私服の上に羽織をまとった平塚静が立っていた。
周囲の女子たちから抜け出してきたのか、少しだけ髪が乱れていて、それが妙に大人っぽくて目を奪われる。
「いや、ちょっと夜風に当たろうと思ってさ。部屋の中は修学旅行ハイの奴らが騒ぎすぎてて、頭が痛くなってきたからな」
「ふん、相変わらず付き合いの悪い奴だ。……まあ、私も少し部屋の空気が息苦しかったから、ちょうどいいが」
そう言って、平塚は俺の隣に並んで縁側に腰を下ろした。
ひんやりとした秋の夜風が、二人の間を通り抜けていく。バレンタインのあの告白以来、俺たちの関係は「一応、付き合っている」という形に落ち着いた。とはいえ、学校内では相変わらず周囲の目を気にして一定の距離を保っているし、こうして二人きりで話すときも、どこか照れくささが勝ってしまいがちだった。
しばらくの沈黙。静まり返った庭園の向こうで、虫の音がかすかに響いている。
「なぁ、静」
「なんだ、急に」
「修学旅行ってさ、大体こういうイベントの夜に告白するのが王道のアレだろ?」
「……は? お前、何を言い出すんだ急に」
平塚がギクリとしたように体をこわばらせ、じっと俺の横顔を見据えた。暗がりの中でも、その耳たぶがほんのりと赤くなっているのが分かる。
俺はふっと小さく息を吐き、視線を正面の庭に向けたまま、少しだけ言葉を選んでから口を開いた。
「あのさ、バレンタインのときは、お前に先を越されただろ。本命だ、なんて不意打ちみたいな直球を投げられて、正直めちゃくちゃ焦ったし、ずるいと思ったんだよ」
「なっ……! あれは、その、私だってだな……!」
「だからさ」
俺は言葉を区切り、ゆっくりと首を回して、まっすぐに彼女の目を見た。
「あの時は不意を突かれたから、今度はちゃんと、俺の言葉で言っておこうと思ってな」
「比企谷……」
夜の闇と月明かりの中、平塚の瞳が揺れる。
俺は自分の不器用さに苦笑いしながら、それでも誤魔化さずに、はっきりと声を紡いだ。
「――お前のことが好きだ、静。あのひねくれた購買のパンの争奪戦のときから、いや、もっと前から、ずっとお前に惹かれてたんだと思う」
言った瞬間、自分の耳が熱くなるのを感じた。
気恥ずかしさでその場で床下に潜り込みたい気分だったが、逃げずに її の目をまっすぐに見つめ続けた。
平塚はしばらく言葉を失い、目を見開いたまま固まっていた。
だが、次の瞬間、彼女は両手で顔を覆い、小さく「……ばか、だな、本当に……」と掠れた声を漏らした。
指の隙間から覗くその顔は、これまで見たこともないほど愛おしく、最高に綺麗だった。
「……ふっ、自分のセリフをわざわざやり直すなんて、本当にお前らしくもないロマンチストだな、比企谷」
「うるさい。こういうのは男のプライドってやつだろ」
「……まあ、いいさ」
平塚は顔を覆っていた手を下ろすと、照れ隠しを隠すようにふっと誇らしげに笑い、それからそっと俺の肩に自分の肩を寄せた。
温かな体温が、秋の夜風をすっと和らげていく。
「私もだ、比企谷。……お前のそういう不器用なところが、どうしようもなく好きだ」
古都の夜空に浮かぶ満月の下で、俺たちは静かに手を取り合った。
青春なんて呼ぶには少しひねくれていて、少し不器用かもしれない。けれど、俺たちの物語は、この場所から確かに、最高の一歩を踏み出していた。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・真の結末
「あるいは、夜の京都で啜るこってりと、不器用な口づけ」
旅館の消灯時間を過ぎてからの夜逃げ――いや、正確には「夜の自主的な外出」は、修学旅行という非日常がもたらす最高の背徳感だった。
京都の冷えた夜気を切り裂くように、俺たちはこっそりと宿の裏口を抜け出した。
目的地はひとつ。関西に来たなら、そして京都にいるなら、行かないわけにはいかない場所がある。ラーメン激戦区・一乗寺に君臨する、すべてのこってりの聖地――『天下一品』の総本店だ。
「……おい、本当に抜け出して大丈夫なのかよ。見つかったら一発レッドカードだぞ」
少し息を切らせながら歩きながら、私服の上にパーカーを引っ掛けた平塚が、呆れたような、しかしどこか楽しげな横目を向けてくる。
「何を言う、静。修学旅行の夜の買い出しという名の脱走は、青春の免罪符だろ。それに、お前が『どうしても本場のこってりを食べておきたい』って目で訴えてたからな」
「っ……! そんな目で訴えてない! 勝手に人の欲求を代弁するな!」
顔を真っ赤にして抗議する平塚をよそに、夜風の中を並んで歩く。
やがて、目の前に見えてきた赤と白の看板。あの独特の匂いが漂う『天下一品 総本店』の明かりが見えたときには、歩き疲れた足にも自然と力が戻ってきた。
数分並んで通されたカウンター席。
湯気が立ち込める店内で、迷うことなく注文を済ませる。
「やっぱり、ここに来たら『こってり』一択だよな」
「当たり前だ。中途半端なものを頼むなど、この聖地に対する冒涜に等しい」
運ばれてきた丼から立ち上る、あの濃厚な鶏白湯スープの香り。
レンゲでスープを一口すくった平塚は、至福の表情を浮かべて小さく息を吐いた。
「……っ、ん、美味しい……これだよ、これ。この背徳的なまでの濃厚さがたまらん」
「ほんと、お前の食の好みのガッツキ具合は、こういうときだけ素直だよな」
「うるさい。美味いものに素直なのは人間の本能だ」
文句を言いながらも、二人して夢中になって麺を啜る。
ニンニクや辛子味噌を途中で投入し、「辛すぎだろこれ」「馬鹿、これがいいアクセントになるんだろうが」なんて他愛のない小競り合いを挟みながら、あっという間に丼の底を空けた。スープまで綺麗に飲み干す、いわゆる「デッド飲み」を完遂し、満足感に浸りながら店を後にする。
再び夜の京都の静かな通りに出た。
さっきまでの賑わいが嘘のように、辺りはひっそりと静まり返り、街灯の光がアスファルトに二人の影を長く伸ばしている。
お腹は満たされたが、さっきから妙に心臓のあたりが騒がしかった。
さっき、縁側で交わした告白の余韻が、まだ体の奥で熱を持ったまま残っている。
「……満足したか?」
少し歩調を緩めながら、俺が尋ねると、平塚は満足そうに小さく頷いた。
「ああ、最高だった。……まさか、修学旅行の夜に総本店でこってりをキメることになるとは思わなかったがな」
そう言ってふっと柔らかく微笑んだ彼女の横顔が、街灯の明かりに照らされて、どうしようもなく綺麗に見えた。
見とれていると、平塚はふ足を止め、恥ずかしそうに視線をそらしながらも、そっと袖を引っ張ってきた。
周囲には誰もいない。夜の静寂が、俺たちだけの世界を作っている。
「……で、だな、比企谷」
「ん?」
「さっきの……その、縁側の続きだ」
平塚は大きく息を吸い込むと、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
その緊張した面持ちに、俺も自然と背筋が伸びる。
「これから先も、こういう不器用で、くだらない買い食いに……ずっと付き合ってくれるか?」
照れ隠しも、強がりも、全部かなぐり捨てた彼女の真っ直ぐな問いかけに、答えなんて迷う必要すらなかった。
「……当たり前だろ。一生、お前の面倒くさい我儘に付き合ってやるよ、俺の彼女」
クスリと笑った平塚の顔に、俺はそっと歩み寄った。
拒むように閉じられた彼女の綺麗な瞼。その唇に、そっと自分のそれを重ねる。
スープの余韻がわずかに残る、不器用で、甘くて、少しだけ照れくさい夜のキス。
引き離したとき、平塚は顔を真っ赤に染めながらも、フンと誇らしげに鼻を鳴らした。
「……合格だ、比企谷」
「そりゃどうも」
京都の夜風の中、繋いだ手のひらから伝わる体温は、これ以上ないほど温かかった。
俺たちの青春は、やっぱりどこかひねくれていて、最高に愛おしい形をして、明日へと続いていくのだった。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・番外編
「あるいは、一匹狼の嫉妬と絶対不可侵の断り文句」
「……あのさ、比企谷くん。もしよかったら、次の休日に一緒に映画でもどうかなって……」
放課後の下駄箱前。
クラスでも上位を争う清楚系女子が、頬をうっすらと染めながら、俺――比企谷八幡にそう切り出してきた。
周囲にいた男子生徒たちが、一斉に殺意と羨望の入り混じった視線をこちらに向けてくる。いや、待ってくれ。最近、なぜかこういうイベントが妙に多い。俺はモブのポジションを安全に死守していたはずなのに、一体どこで歯車が狂ったのか。
おそらく、あの修学旅行の一件以来、自分でも気づかないうちに「等身大の不器用さ」みたいなものが変に漏れ出しているらしい。自覚はないが、周囲からは「意外とアリかもしれない枠」にランクインしてしまっているようだ。
だが、ここで安易にOKするほど、俺の命知らずな度胸はない。なぜなら、すぐ斜め後ろの階段の踊り場から、恐ろしいほどの殺気と冷たい視線が突き刺さっているからだ。
(……やばい。あれはガチで背中を刺される視線だ)
冷や汗を流しながら、俺は目の前の女子に申し訳なさそうな、いつもの腐った目を向けた。
「あー、気持ちはありがたいんだけど……悪い。その日はちょっと無理だ」
「え……? そう、なんだ。予定があるの?」
「いや、予定っていうか……」
俺はわざとらしく遠い目をしながら、少し声を落としてこう言った。
「俺、他に行く気ないんだよね。というか、平塚静しか興味ないんで、ほかの奴と出かける気力がないっていうか……」
――静寂。
下駄箱の周りにいた野次馬たちの動きが、一瞬にして凍りついた。
「……は? 平塚って、あの平塚さん……? え、嘘だろ……?」というどよめきが周囲から漏れ聞こえる。
相手の女子も「え……ええっ!?」と顔を真っ青にして後ずさり、慌てて「ご、ごめんね!」とその場から逃げ去っていった。
ふう、と内心で大きく息を吐き出す。これで当分、面倒な勧誘は来まい。
「……で、だな、比企谷」
背後から、凍てつくように低く、しかしどこか震えた声が降ってきた。
振り返ると、そこには腕を組んだ平塚静が立っていた。顔は真っ赤で、耳の先まで綺麗に茹で上がっている。彼女は睨みつけるような、しかし完全に照れを隠しきれていない複雑な表情で、俺をじっと見据えていた。
「おい、今の聞こえたぞ。『平塚静しか興味ない』だと……? どこのどいつだ、そんな大口を公衆の面前で叩いていた馬鹿は」
「いや、事実だろ。事実を述べたまでだけど」
「そういう問題じゃない! 女子の気を引くために私の名前を勝手に盾にするな! 恥ずかしいだろうが!」
顔を真っ赤にして早口でまくし立てる平塚は、いつもの「孤高の一匹狼」の面影など微塵もなく、ただの年相応に可愛い恋人だった。
俺は苦笑いを浮かべながら、彼女のすぐ近くへと歩み寄る。
周囲の視線はとっくに気にならない。
「別に盾にしたわけじゃないって。事実、俺の視界にはあんたしか映ってないし、ほかの女に興味を向ける暇があったら、お前の面倒くさい我儘に付き合っていた方がよっぽど有意義だからさ」
「っ……!」
図星を突かれたのか、平塚は息を詰まらせ、それからプイと盛大に顔を背けた。
だが、その口元には隠しきれないニヤけた笑みが漏れている。
「……ば、馬鹿なこと言ってないで、帰るぞ。お腹が空いた。今日は購買のパンじゃなくて、ちゃんと温かいものが食べたい気分だ」
「はいはい、了解。じゃあ、今日は俺の奢りで例のラーメン屋でも行くか」
「……ふっ、いい返事だ」
真っ赤な顔を隠すようにスタスタと歩き出す平塚の背中を、俺は少し笑いながら追いかける。
振り返れば、周囲の生徒たちが呆れたような、あるいは生温かい目を向けてきているが、そんなものはどうでもよかった。
不器用で、ひねくれていて、最高に愛おしいこの日常は、今日も変わらず俺たちの足元に広がっている。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディ短編小説・最終章
「あるいは、卒業の日のプロポーズとこってりした未来」
総武高等学校の体育館。
窓から差し込む春の柔らかな光が、ピカピカの床に長い影を落としている。卒業式が終わったばかりの校舎は、別れを惜しむ生徒たちの泣き笑いの声や、どこか切なさを帯びたざわめきに満ちていた。
式の会場から少し離れた、静かな中庭のベンチ。
俺――比企谷八幡は、そこに腰掛けていた。
少し遅れて、校舎の陰から姿を現した平塚静が歩いてくる。
彼女の制服姿も、今日が最後だ。少し乱れた黒髪に、どこか気恥ずかしそうな、けれど凛とした横顔。いつもは威圧的なその美しさが、今日という日ばかりは、ただひたすらに愛おしかった。
「……こんなところで何をしている、比企谷」
「いや、ざわついた教室から逃げてきただけだよ。お前こそ、後輩たちからの花束攻撃からよく逃げ切れたな」
「ふん、私の殺気を察知して誰も近づけなかっただけだ」
そう言って静は隣に腰を下ろしたが、その声のトーンはいつになく微かに震えていた。
無理もない。春からは、お互いの進路が別々の街になる。
彼女は実家から少し離れた都内の大学へ、俺は別の私立大学へ。毎日のように顔を合わせ、購買のパンを巡って小競り合いをし、放課後の買い食いやくだらない悪態をつき合ってきた日常が、今日を境に強制終了させられるのだ。
「……なァ、静」
静かに前を向いたまま、俺はぽつと言った。
「なんだよ、改まって」
「大学が別々になるってさ、やっぱり、想像以上に面倒くさいよな」
静の肩が、ピクリと揺れた。
彼女はぐっと唇を噛み締め、俯いたまま小さな声で呟く。
「……仕方ないだろう。お互いの進路だ。こればかりは、どうしようもない」
「……そうだな」
俺は一度息を吸い込み、ポケットに突っ込んでいた手をそっと抜き出した。
そして、じっとうつむく彼女の顔を覗き込む。
――驚いた。
静の目には、大粒の涙が零れ落ちるのを必死にこらえようと、真っ赤に潤んだ瞳があった。いつも強気で、どんな困難にも一歩も引かなかった「孤高の一匹狼」が、今日だけは、ただの一人の女の子として震えている。
「……泣くなよ、不細工だぞ」
「うるさい……! 私だって、好きで泣いているわけでは……!」
震える声を隠すように顔を背けようとした静の顎を、俺は迷わずそっと包み込んで、自分の方へと向けさせた。
彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「……離れ離れになるのが嫌ならさ」
俺は自分の心臓の音を聞きながら、乾いた唇を動かした。
「……同棲しないか?」
「……は?」
静が息を呑み、目を見開いた。
「住むところなんてどこでもいい。お前と離れるくらいなら、今すぐ2人用のアパートにでも変えて、一緒に暮らそうぜ」
「お、おい、比企谷……お前、何を――」
「そしてさ、そのままお互い大学を卒業したら……結婚しよう、静」
まっすぐに放たれたその言葉に、静の思考が完全に停止した。
プロポーズなんて、ロマンチックな演出も、気の利いたセリフもない。けれど、これ以上なく真剣で、俺なりの精一杯の覚悟を込めた言葉だった。
静はしばらく言葉を失い、俺の顔をジッと見つめていた。
やがて、その震えていた唇が、驚きから、やがて呆れたような、そして――今日一番の、とびきり綺麗で愛おしい笑みに変わった。
「……本当に、お前という男は……どこまで救いようのない馬鹿なんだ」
涙を拭うこともせず、静はふっとフンと鼻を鳴らした。
「学生の分際で、同棲だの結婚だのと、気が早すぎるにもほどがあるだろう……!」
「いいだろ、それくらい言わねぇと、お前がいつまでも泣きそうな顔してるからだろ」
「……っ、泣いてなどいない!」
強がりながらも、静はもう隠しきれなくなったように、俺の胸元にその頭を預けてきた。
細い腕が、しっかりと俺の制服の生地を掴んで離さない。
「……でも、だな」
胸元から聞こえてきたその声は、震えが消え、いつもの力強さと、深い優しさに満ちていた。
「……お前のその無謀な我儘に、一生付き合ってやるのも、悪くないかもしれないな」
「――ああ、当たり前だ。逃がさねぇよ」
春の青空の下、桜のつぼみが少しずつ膨らみ始める校庭。
制服を着た僕たちの青春はここで終わるけれど、その先にあるもっと不器用で、もっと愛おしい「これからの日常」が、確かに始まろうとしていた。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』パロディのメタ構造・後日談
「あるいは、メタフィクションな放課後とこってりの結末」
「どうだッ!! 我が至高の脳内妄想が生み出した『もしも平塚静が同級生で、さらに八幡と結ばれるifルート』の完全版! このドラマチックな展開、そして天下一品総本店での濃厚なファーストキスに至るまでの完璧なプロット! 刮目せよ、これが我が魂の叙事詩だーーっ!!」
部室の扉を盛大に開け放ち、材木座義輝は両手を広げて自作の原稿用紙の束を高々と掲げた。
「……は? なによこれ、バッカじゃないの。待って、鳥肌立つんだけど。ていうか、いくら妄想でもラーメン屋でキスとか正気? 衛生面どうなってんのよ、どんだけこってり好きなわけ?」
ソファにふんぞりかえりながら、惣流・アスカ・ラングレーは腕を組み、冷ややかな視線を向けながら容赦なくバッサリと切り捨てる。
「いや、本当にその通りだよ。アスカの言う通り、ツッコミどころしかねぇよこれ。なんだよ『平塚静しか興味ないんで』って。しかも二個上の三年生の先輩だぞ、そんな圧倒的な格上の美人に向かって一年のガキが生意気な中二病全開のセリフを吐くとか、現実で言ったら秒で黒歴史として墓場まで持っていくレベルだろ。あと勝手に俺をモテ男にするな、解釈違いもいいところだ」
ソファの隅で、俺――比企谷八幡は、冷めた目をしながら持っていた缶コーヒーを一口飲んだ。
というか、そもそも俺と平塚先輩の間にそんなラブコメの波動が流れる余地なんて、どんな世界線をたどっても存在しないはずなのだが、なぜか材木座の脳内では完全に爆発的な化学反応を起こしていたらしい。
「ふん……。まったく、好き勝手に私の高校時代をドロドロの恋愛劇に仕立て上げて……!」
低く、けれどどこか尋常ではない圧力を帯びた声が、部室の入り口から響いた。
「「「っ……!?」」」
全員の動きがピタリと止まる。
部室のドアの隙間から覗いていたのは、まさにその「平塚静」本人だった。彼女は、顔を真っ赤に染め上げ――いや、怒りなのか羞恥なのか、綺麗に茹で上がったトマトのような顔で、拳をボキボキと鳴らしていた。
「ひ、平塚先輩……!? なんでここに……!?」
材木座が青ざめ、一歩、また一歩と後ずさる。
「コピーが廊下に盛大に落ちていたぞ、材木座。……ほう、私を同級生に仕立て上げ、比企谷とくっつき、挙句の果てにラーメン屋でキスだと? 誰がそんな不器用で、かつ図々しい後輩に絆されるものか……!」
「ひぃっ! 命だけは! 拙者の首だけは置いていってくださいましーーっ!!」
材木座の絶叫とともに、部室は一瞬で修羅場と化した。
アスカは「はぁ、バッカみたい。付き合っていられないわね」とやれやれといった様子で鼻を鳴らし、そそくさと荷物をまとめて部室の隅へと避難していく。
俺はといえば、椅子に座ったまま、頭を抱えて深いため息をついた。
「……やれやれ。先輩も暇だな、わざわざこんな部室の隅の落書きを回収しにくるなんてさ」
「うるさい! 誰が落書きなど回収するものか、たまたま様子を見に来たらこれだ!」
平塚先輩は顔を真っ赤にしたまま、乱れた黒髪をかき上げ、それからバッと視線をそらした。
だが、その耳の赤さは、どう取り繕っても隠しきれていなかった。
「……で、だ、比企谷」
「ん?」
「……お前、さっきからその、不貞腐れたような顔をして……まさか、あの妄想の結末に不満でもあるまいな?」
ジロリと向けられたその目は、どこか期待と気まずさが入り混じった、実によく知る「めんどくさい先輩」のそれだった。
俺はれっきとした現実の溜息をもう一度ついてから、椅子から立ち上がる。
「不満ってわけじゃないけどさ。……ほら、行くぞ」
「……どこへだ?」
「決まってるだろ。あんな材木座の薄っぺらい妄想に付き合わされたせいで、こっちはすっかり腹が減ったんだよ。……ほら、たまには先輩を、ラーメンにでも誘ってやるよ、静先輩」
名前を呼んだ瞬間、平塚先輩の顔がさらに一歩赤くなり、彼女はふっと、今日一番の――どこか照れくさそうで、最高に綺麗な笑みを浮かべた。
「……まったく、しょうがない後輩だな。いいだろう、今日は特別に、私の奢りで『こってり』を付き合ってやるとしよう」
夕暮れの部室。
相変わらずツッコミどころだらけの日常の中で、俺たちの足取りは、今日も今日とて不器用で、愛おしい方へと続いていくのだった。