小説:『その孤高のホストは、今日も冷徹な客を迎える』
放課後の部室棟。
由比ヶ浜の姿はなく、そこにあるのは――「奉仕部」という名の、校内限定ホストクラブ。部員は比企谷八幡、ただ一人。
「……まじで何の罰ゲームだよ、これ」
普段のボサボサ頭をジェルでパリッとセットし、首元と指にはギラギラと光るシルバーアクセサリー。黒のテーラードスーツに身を包んだ八幡は、ソファにふんぞりかえりながら、やさぐれた低い声で毒づいた。
予算不足に喘ぐ部を存続させるためという大義名分のもと、なぜか「校内ホスト」として女子生徒の愚痴を聞く羽目になった八幡。しかし、今日この時間、指名ボードに予約を入れてきたのは、よりによってこの部室の本来の主だった。
コン、コン。
無機質な、しかしどこか威圧感のあるノックの音が響く。
ガチャリ、とドアが開いた。
そこに立っていたのは、漆黒の制服を身にまとった雪ノ下雪乃だった。彼女は手帳を片手に、客としての冷徹な眼差しを八幡に向ける。
「――失礼するわよ、ホストさん」
「……お前な。客だとしても、その氷点下以下の目はどうにかしろよ。来る客全員を凍えさせる気か、女王様」
八幡がやれやれと片手を上げ、アイスティーのグラスを滑らせると、雪乃はふんっと鼻を鳴らして向かいのソファに腰掛けた。
「当然よ。あなたがどのような悪趣味なコンセプトでこのような店を開いているのか、一人の『顧客』として厳しく査定してやろうと思ってね。……で? その似合わない安っぽいシルバーアクセサリーとセットされた髪は、誰の趣味かしら? 見るからに頭の悪そうな仕上がりね」
「最初の第一声から全否定かよ。文句があるなら帰れ。指名料返さないけど」
「お断りよ。私は正当な対価を支払って、この空間とあなたの『労働』を買っているのだから」
雪乃はツンと顔をそむけつつも、八幡が淹れた紅茶にそっと口をつけた。
ボサボサ頭を封印し、スーツとシルバーアクセで武装したひねくれホストと、すべてを見透かすような冷徹な美少女客。誰もいない放課後の部室で、静かで歪な接客ごっこが、今日もこうして幕を開けるのだった。
小説:『その、百円の安さと致命的な破壊力について』
紅茶のカップをソーサーに置いた雪乃は、ふと、机の上に置いてあった手書きのメニュー表に目を留めた。
そこに並ぶ怪しげな項目の数々。ドリンク、愚痴聞き、そして――一番下に、妙に雑な文字で書かれた文字があった。
『壁ドン:100円』
「……ふん」
雪乃は鼻で小さく笑うと、制服のポケットからピシリと折りたたまれた一万円札ではなく、財布から取り出した真新しい100円玉を、カチャリとテーブルの上に置いた。
「これを見世物小屋の余興代として支払うわ。……さあ、ホストさん。そのメニューの一番下、実行してもらいましょうか」
「……は? おいマジかよ。冗談だろ、そんなの」
八幡はパリッとしたスーツの襟を整えながら、引きつった笑みを浮かべる。しかし、客としてルールに則って対価を支払った以上、引けないのも事実だった。
「冗談に見えるかしら? お金はちゃんと払ったわよ。それとも、看板に偽りあり、と言って逃げるのかしら?」
雪乃の翡翠色の瞳が、試すように、そしてどこか面白がるように八幡を見上げる。その挑発的な態度に、八幡のひねくれたスイッチがカチリと入った。
「……上等だ。たったの100円で女王様の機嫌が取れるなら安いもんだろ」
八幡はふっと息を吐き出すと、これまでの気だるげな態度をスッと消し去った。
セットされた前髪の隙間から覗く目が、わずかに鋭く、しかし艶やかに据わる。
ガタッ、とソファが音を立てる。
八幡は長い足でスライドするように立ち上がると、雪乃が座るソファのすぐ脇へと歩み寄った。
「っ……!」
逃げ場を塞ぐように、八幡の右手――シルバーのリングをはめた手が、ガツンと背後の壁に叩きつけられた。
――壁ドン。
至近距離。スーツの裾から漂うわずかなアロマと男の匂い、そして耳元に掠める低い息遣い。
パリッと決めた黒のテーラードスーツと首元のシルバーアクセが、薄暗い放課後の部室でやけに生々しい存在感を放っていた。
「……なっ、あなた……本気で……」
いつもなら冷徹な言葉でマウントを取ってくるはずの雪乃が、予想以上の近さと、普段のパッとしない八幡からは想像もつかない堂々とした色気に気圧され、言葉を詰まらせた。
頬がうっすらと紅潮し、その翡翠色の瞳が大きく揺れている。
八幡は彼女の顔のすぐ横に手を突いたまま、少しだけ顔を近づけ、いつものひねくれた低音ボイスを響かせた。
「どうした、女王様。100円のサービスにしては、ちょっと刺激が強すぎたんじゃねえの?」
「っ……ふ、ふざけないでっ……! たかが100円のオプションで、そんな気障なセリフを……!」
顔を真っ赤に染めながら、必死に気丈に言い返す雪乃。だが、その声はいつもの冷徹さをどこか失い、わずかに震えていた。
「へえ、まだ余裕あるんだな」
悪びれなくニヤリと笑ってみせる八幡と、それに気圧されながらも睨み返す雪乃。
――校内ホストという名の悪ふざけのつもりが、互いのペースを狂わせるには十分すぎる、熱を帯びた放課後のひとコマだった。
小説:『その、倍額の投資と視線の行方について』
壁ドンの一件でわずかに気圧されたものの、雪ノ下雪乃はすぐにすっと背筋を伸ばし、何事もなかったかのように冷徹な仮面を取り戻そうとした。
しかし、その耳たぶから頬にかけてのほんのりとした赤みは、隠しきれていない。
「……ふん。たかが100円の余興にしては、少しばかり調子に乗っているようね、ホストさん。その程度の演技、私の想定の範囲内よ」
強がるように鼻を鳴らした雪乃は、トントンと制服のスカートのプリーツを整えると、再び手元のメニュー表へと視線を落とした。そして、細い指先でメニューの一行を指し示す。
「……ですが、これで終わると思うなよ。さっきの借りを返さないと、客としての気が済まないわ」
カチャリ、と今度は財布から、先ほどよりも少し重みのある硬貨がテーブルに置かれた。
『顎クイ:200円』
「……おいおい、マジかよ」
八幡は思わず引きつった声を漏らす。壁ドンの100円から、一気に倍額の200円へのランクアップ。予算を上げてでも、ここでマウントを奪い返そうという魂胆が透けて見えていた。
「当然よ。今度は私のターンだわ。その小賢しいホスト気取りの余裕を、どこまで保てるか見せてもらいましょう」
雪乃は顎を少し引き、挑戦的な翡翠色の瞳で八幡を見据えた。どこか「できるものならやってみなさい」という無言のプレッシャーが込められている。
「……上等だ。客の要望には全力で応えるのが、この店のプロの矜持なんでね」
八幡はふっと息を吐き出すと、先ほどの気だるげな様子を消し去り、再びセットされた前髪を揺らしながらスッと雪乃の正面へと歩み寄った。
距離が縮まる。
スーツの裾が微かに擦れ、甘いアロマと男の匂いが鼻腔をかすめる。
八幡の右手――シルバーのリングがきらりと鈍い光を放つその手が、スッと伸びた。
「っ……」
雪乃の息が、わずかに詰まる。
逃げる間もなく、八幡の指先が雪乃の滑らかな顎のラインにそっと触れた。
そして――クイッと、その美しい顔を無理やり上方へと持ち上げる。
「なっ……!」
――顎クイ。
至近距離。視線が完全に絡み合う。
いつもなら冷徹な言葉で理詰めに追い込んでくるはずの雪乃が、予想以上の近さと、八幡の真っ直ぐな(そして普段からは考えられないほど色気を纏った)視線に気圧され、完全に言葉を失っていた。
開いた口が塞がらないといった様子で、雪乃の頬の赤みが一気に耳の先まで広がっていく。
「どうした、女王様。200円のオプション代を払った割には、顔が真っ赤だぞ?」
八幡は彼女の顎を支えたまま、いつものひねくれた低音ボイスにほんの少しの余裕を滲ませて囁いた。
「っ……ば、馬鹿なことを……! たったの200円で、私をこんな……!」
必死に気丈に言い返そうとするものの、上を向かされた姿勢のまま至近距離で見つめられているせいか、声のトーンが上ずり、瞳が大きく揺れている。
「200円分の価値はあったろ? それとも、もっと追加料金払うか?」
「ふ、ふざけないでっ……! もうおしまいよ、こんな悪趣味な店!」
顔を真っ赤に染め上げた雪乃は、バッと八幡の手を払いのけると、慌てた様子で立ち上がり、そのままバタンと激しい音を立てて部室を飛び出していった。
静まり返った部室。
残された八幡は、自分の手を見つめながら、ふうっと大きく息を吐き出した。
「……はぁ。疲れた……マジで心臓に悪いわ、あいつの相手は」
ボサボサ頭に戻るための髪をかき上げながら、八幡は苦笑いを浮かべるのだった。校内ホストという名の茶番劇は、今日も互いのペースを狂わせたまま、静かに幕を閉じる――わけがなかった。
小説:『その、合計五百円の安さと、一生消えない動揺について』
「……ふん」
顎クイの一件で部室を飛び出した雪ノ下雪乃だったが、意外なことに、放課後にはケロッとした顔で再び奉仕部のドアをノックした。
「あら、まだ開店していたのね、ホストさん。……いえ、今の時間帯は『指名なしの一般営業』だったかしら」
何食わぬ顔でソファに腰掛けた雪乃は、今度は手帳を開きながら、制服のポケットからピカピカの500円玉をテーブルの上にポンと置いた。
「今日はね、どうしても試してみたい『メニュー』があるのよ。それなりに値が張るけれど、この程度の金額、私にとってはただの小銭に過ぎないわ」
「……おい、まさかとは思うが」
八幡は嫌な予感をひしひしと感じながら、テーブルの上の硬貨を見つめた。雪乃は自信ありげに、メニュー表の二箇所を細い指で指し示す。
『バックハグ:300円』
『愛の囁き(オプション):200円』
「ええ、その通りよ。この二つのオプションを『セット』で頼みたいわ。壁ドンも顎クイも、結局はあなたの小賢しい演技の一環に過ぎなかったわ。けれど、この二つを同時に行えば、絶対にあなたの人間としての浅ましさが露呈するはずよ。そうして、私の完全なる勝利でこの悪ふざけを終わらせてあげるわ」
どこまでも論理的で、どこか歪んだ対抗心を燃やす雪乃。
八幡は呆れ果てて大きくため息をついた。
「……はぁ。本気かよ、お前。こんな恥ずかしいオプションを、金払ってまで……。まあ、いいさ。客の要望には全力で応えるのが、この店のプロの矜持だからな。後悔しても知らないぞ」
八幡はふっと息を吐き出すと、これまでのやさぐれた気だるげな雰囲気をスッと消し去った。
髪をパリッとセットし、黒のテーラードスーツを乱れなく着こなした彼は、普段のパッとしない八幡とは別人のような堂々とした色気を纏っている。
「……さあ、覚悟はいいかしら? 存分に見せてもらいましょうか」
雪乃がソファに深く腰掛け、目を閉じて少し顎を上げた。
――バックハグ。
静かにソファの後ろに回り込んだ八幡は、雪乃の制服越しに、その細い肩にそっと手を回した。
予想以上の近さ。スーツの裾から漂う甘いアロマと、男の体温。
雪乃の翡翠色の瞳がわずかに見開かれ、凍りついたように固まる。
――そして、愛の囁き。
八幡は彼女の背後に密着したまま、その形の良い耳元に、ギリギリまで顔を寄せた。
そして、いつものひねくれた低音ボイスを、驚くほど甘く、優しく、そしてどこか艶やかに響かせた。
「……いつもは冷徹で理屈っぽくて、俺を罵倒してばかりの女王様だけど。……そんなお前が、わざわざ俺に恥ずかしいオプションを頼んで、勝負を挑んでくるなんて。……案外、可愛いところがあるんじゃねえの?」
「っ………………!!!!」
ガツンッ!!!
「いってええええッ!!!」
背後から雪乃の激しいエルボーが、八幡の脇腹に見事にクリーンヒットした。
「ふ、ふざけないでえええええッ!!!!! たったの500円で、私をこんな、こんな……!!!! あ、あんた、いったい何を……!!! もう、二度と、二度とこんな店には来ないんだからああああッ!!!!」
顔を真っ赤に染め上げ、耳の先まで熱を帯びた雪乃は、バッとソファから飛び上がると、鞄をひったくるように抱えて、今度こそ部室を飛び出していった。
その足取りは、いつもよりも明らかに乱雑で、狼狽を隠しきれていなかった。
静まり返った部室。
脇腹を押さえながら、八幡はソファにへたり込んだ。
「……はぁ。疲れた……マジで心臓に悪いわ、あいつの相手は」
ボサボサ頭に戻るための髪をかき上げながら、八幡は苦笑いを浮かべるのだった。校内ホストという名の茶番劇は、今日も互いのペースを狂わせたまま、静かに、しかし決定的に幕を閉じる――わけがなかった。
その一部始終を、部の片隅に隠れていた由比ヶ浜結衣が、スマホで動画撮影しながら「ええええッ!? ヒ、ヒッキーと雪乃ちゃんがバックハグで愛の囁き!? マジで!? やばっ、超録画されてるし!!!」と、興奮気味に呟いていたことは、誰も知らない。
小説:『その、千円の究極投資と致命的な敗北について』
「――まったく、頭のてっぺんからつま先まで、ふざけた男ね」
翌日の放課後。
あんなに盛大に逃げ出したはずの雪ノ下雪乃は、何食わぬ顔どころか、いつも以上に毅然とした足取りで奉仕部のドアを開けて入ってきた。
「ようこそ、女王様。昨日の今日でまたご来店とは、よほど俺の接客が気に入ったらしいな」
ソファに座り、スーツの袖をまくりながら八幡がニヤリと笑う。パリッとした髪型とシルバーアクセは相変わらず健在で、昨日の動揺など微塵も見せない。
「勘違いしないでちょうだい。昨日のあなたの低俗な愛の囁きは、私の冷静な分析によって完全に論破されたわ。あれはただのハッタリよ。……だからこそ、今日でこの悪ふざけに完全な決着をつけてあげるの」
雪乃はそう言い放つと、冷徹な美貌のままスッと歩み寄り、テーブルの上に音を立てて一枚の紙幣を置いた。
『フィルム越しのキス:1000円』
さらにその隣には、壁ドン(100円)と顎クイ(200円)の代金も合わせた合計1300円分の硬貨が丁寧に並べられていた。
「……おいおいマジかよ。おいおい、千円って……お前、本気で言ってんのか?」
さすがの八幡も、メニュー表の最上段に君臨する最高額のオプションに目を丸くした。
「当然よ。壁ドン、顎クイ、そしてこの『フィルム越しのキス』。すべてのコンボを完璧に受けきった上で、私があなたのそのふざけた余裕を完全に粉砕してあげるわ。さあ、逃げも隠れもできないわよ、ホストさん」
雪乃の翡翠色の瞳には、今度こそ勝つという強い意志と、わずかな緊張の色が入り混じっていた。
「……上等だ。客がそこまで本気なら、こっちもプロのプライドにかけて全メニュー完遂してやるよ」
八幡はふっと息を吐き出すと、これまでの余裕をかなぐり捨て、真っ直ぐに雪乃へと歩み寄った。
――壁ドン。
ガツン、と背後の壁に八幡の手が叩きつけられる。逃げ場を完全に塞がれた雪乃の肩が、びくりと跳ねた。
――顎クイ。
シルバーアクセが光る指先が、雪乃の滑らかな顎のラインをすくい上げ、強制的に上を向かせる。
「っ……!」
至近距離。甘いアロマの香りと熱気が、雪乃の理性をじわじわと侵していく。
そして――。
八幡はポケットから、あらかじめ用意されていた(あるいは由比ヶ浜が用意していた)薄いプラスチックの透明なフィルムを取り出し、自分の唇の前にスッと当てた。
「おい、目を閉じろよ、女王様」
「なっ……!」
八幡がそのまま、すっと顔を近づける。
フィルム越しに重なる、二人の唇の気配。
「っ……!!!!」
頭が真っ白になるような衝撃と、心臓が爆発しそうなほどの激しい鼓動。
いつもなら冷徹な言葉で相手を論破するはずの雪乃は、その圧倒的な至近距離と、八幡のひねくれた優しさの混じった瞳に気圧され、完全に目を見開いたまま固まってしまった。
耳の先から首筋まで、全身がトマトのように真っ赤に染まっていく。
「……どうだ。千円の価値はあったか、女王様?」
フィルムの向こう側で、八幡が低く、しかしどこか照れくさそうな声を落とす。
「っ…………ば、馬鹿……こんなの、反則よ……」
雪乃は震える声でそれだけ呟くと、もはや立っていられないといった様子でその場にへたり込みそうになった。すかさず八幡がその体を支え、部室の静寂の中に二人の荒い息遣いだけが残される。
校内ホストという名の悪ふざけは、互いの心に決して消えない熱を刻み込みながら、予想外の結末へと向かっていくのだった――。
小説:『その、千円の妥当性と酒飲みの冷やかしについて』
「――ふん。千円の価値があるかどうか、この私が直接検分してやろうじゃないか」
ガラリ、と勢いよく奉仕部のドアを開けて入ってきたのは、白衣を翻した生活指導担当教師・平塚静だった。その手には、お札ではなく――なぜかキンキンに冷えた缶コーヒーと、小銭の入った財布が握られている。
「って、平塚先生!? お前、なんでここに……!?」
ソファでやれやれと息をついていた八幡が、思わず飛び上がった。
「決まっているだろう。職員室で『あのひねくれた比企谷が、全メニューを完遂して雪ノ下を赤面させた』というもっぱらの噂を耳にしてな。教師として、風紀の乱れがないか『実地調査』にやってきたのさ。……ほら、壁ドンからフィルム越しのキスまで、全メニュー分の代金、合計1300円だ。私にもその『千円の価値』とやらを見せてみろ」
ニヤニヤと悪だくみの笑みを浮かべる平塚に、八幡は激しく頭を抱えた。
「冗談だろ……! 女王様だけでもキャパオーバーなのに、なんで大人の色気(自称)漂う独身女性までこんな茶番に参戦してくんだよ!」
「いいから早くしろ! 生徒の自主的な(?)経済活動に水を差すもんじゃない。ほら、まずは壁ドンだ!」
平塚の圧倒的な圧力の前に、八幡はもはや逃げ出す選択肢を奪われていた。
「……くそっ……! 知らねえからな、後で職員室でどんなお説教されても知らねえからな……!」
八幡は盛大に悪態をつきながらも、スッと立ち上がり、平塚の目の前へと歩み寄った。
――壁ドン。
ガツン、と背後の壁に八幡の手が叩きつけられる。しかし、平塚は微動だにせず、むしろ面白がるように余裕の笑みを浮かべている。
――顎クイ。
シルバーアクセが光る指先で、平塚の顎をグイッと持ち上げる。
「ほう、なかなか板についてきたじゃないか、八幡。悪くない目つきだ」
そして――。
八幡は渋々ながら、透明なフィルムを自分の唇の前に構え、その顔を近づけた。
「……おい、頼むから目ぐらい閉じろよ、先生」
「はっはっは、大人の余裕というものを見せてやろう――って、おや?」
いざ至近距離になり、フィルム越しに重なりそうになった瞬間。
平塚はふと、八幡の真剣な眼差しと、スーツの裾から漂うアロマの香りに気づいた。いくら茶番とはいえ、間近で見るひねくれ者の「本気っぽい色気」は、さすがの独身アラサー女性の防衛本能を少しだけ刺激したらしい。
平塚の美しい眉がピクリと跳ね、頬にほんのりと朱が差した。
「っ……! こ、この野郎、なかなかやりやがる……!」
「うわ、まっ赤になってやがるぞ、この人……!」
フィルムの向こう側で、二人は揃って気まずそうに顔をそむけた。
「……ふ、ふん! ま、まあ、千円の価値が本当にあるかどうかは……酒の肴としては合格点といったところだな!」
平塚は慌てて缶コーヒーをガチャリと開け、ごくごくと飲み干すと、顔の赤みを隠すようにバッと背を向けた。
「それじゃあな、八幡! 良い部費稼ぎの時間を続けたまえ!」
パタンと激しくドアが閉まり、静まり返った部室。
残された八幡は、ぐったりとソファに倒れ込み、天井を見上げて深い溜息をついた。
「……もうやだ、今年の部費とかどうでもいいから、一刻も早く家に帰りたい……」
校内ホストという名の地獄のような茶番劇は、教師まで巻き込んで、今日も盛大に迷走していくのだった。
小説:『その、五百円の破格と不器用な照れ隠しについて』
平塚先生が嵐のように去っていった直後。
ガラリ、と再び奉仕部のドアが開いた。
「……失礼するわよ」
そこに立っていたのは、少し気怠げで、しかしどこか鋭い眼光を放つ女子生徒――川崎沙希だった。彼女は銀色の硬貨をトントンと指先で弾きながら、ずいっと部室に入ってくる。
「お、川崎か。客ってことは、お前もあの茶番に付き合いに来たのかよ」
ソファでぐったりしていた八幡が、やれやれといった様子で声をかける。
「……別に、暇つぶしよ。それに、職員室の前で平塚先生が『あそこのホストは意外とボッタクリじゃない』とか変な噂を流してたからな。どれほどのものかと思ってね」
川崎はそう言うと、テーブルの上にジャラリと500円玉を置いた。そして、メニュー表の片隅に貼られた新しい付箋を指し示す。
『期間限定セット(ハグ、愛の囁き、フィルム越しのキス):500円』
「ほう……? 壁ドンや顎クイが単品でそこそこの値段なのに、このてんこ盛りセットがたったの500円とは、随分と良心的な大盤振る舞いだな、ホストさん」
「おいおい、誰だこんな頭の悪いメニュー追加したの……って、絶対由比ヶ浜の仕業だな……」
八幡が遠い目をしながら頭を抱えるが、川崎は腕を組んでフッと挑発的な笑みを浮かべた。
「どうした? 看板に偽りありか? それとも、私相手だと緊張して動けなくなるとか?」
「……上等だ。500円の元くらい、しっかり取らせてもらうさ」
八幡はため息をつきつつも、ふっと表情を引き締め、パリッとしたスーツの襟を正して川崎の目の前へと立った。
――まずは、ハグ。
スッと踏み込んだ八幡が、川崎の体を優しく包み込むように腕を回した。
「っ……! な、なんだよ急に……!」
予想以上の真剣な距離感に、川崎の肩がびくりと跳ねる。スーツから漂う甘いアロマと男の体温に、彼女の白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
――続いて、愛の囁き。
八幡はそのまま彼女の耳元に顔を寄せ、低く艶やかな声を落とした。
「……いつも弟の面倒とか色々背負い込んでさ、お前も大概苦労性だな。……無理してツッパんなよ、たまにはこうやって誰かに甘えろよな」
「っ――――!!!!」
川崎の目が大きく見開き、言葉を失う。心臓の音が聞こえそうなほどの至近距離だった。
――そして、フィルム越しのキス。
最後に八幡が透明なフィルムを自分の唇の前に掲げ、スッと顔を近づける。フィルムの向こう側で重なりそうになる気配に、川崎はついに耐え切れなくなった。
「ばっ、ふざけんな……! こんなの、反則だろ……!」
顔を真っ赤に染め上げた川崎は、たまらず八幡の胸を軽くドンと突き飛ばし、そのまま背を向けてバッとドアへと走り出した。
「り、料金は払ったからな! じゃあな!」
パタン、と激しく閉まったドアの音。
静まり返った部室で、八幡はふうっと大きく息を吐き出し、ソファに倒れ込んだ。
「……はぁ。マジで心臓に悪いイベントばっかだな、今日のホスト営業は……」
ボサボサ頭に戻るための髪をかき上げながら、八幡は遠い目をするのだった。校内ホストという名の茶番劇は、今日もまた一人の少女の心を盛大にかき乱して、静かに幕を閉じていく。
小説:『その、八百円の冷やかしと計算外の結末について』
川崎が赤面して逃げ出した余韻がまだ残る中、ガタッ、と勢いよく奉仕部のドアが開いた。
「ちょっと、失礼しまーす!」
軽やかな足取りで入ってきたのは、相模南だった。彼女はスマホをいじりながら、面白半分といった様子でクスクスと笑っている。
「へえ、ここが噂の『校内ホスト部』ね! 平塚先生や川崎さんが赤くなって出てくるから、どんなもいのか見に来ちゃった。ねえ、ホスト君、私もその『噂のメニュー』ってやつ試してもいいよね?」
ソファでぐったりしていた八幡は、またしても現れた新たな客に、いよいよ乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「おいおい、今日は何の祭りだ……。お前まで冷やかし半分で来やがって……」
「冷やかしじゃないって! ちゃんとちゃんとお金払うし。……ええと、メニューにあったよね?」
相模は悪びれた様子もなく、楽しそうに財布から小銭を取り出すと、カチャリとテーブルの上に合計800円分の硬貨を並べた。
『壁ドン:100円』
『顎クイ:200円』
『ハグ&愛の囁き・フィルム越しのキス(期間限定セット):500円』
『合計:800円』
「……おいマジか、フルコースで頼みやがったぞこいつ」
「当然でしょ! せっかくの面白いイベントなんだから、最後まで楽しまないと損じゃん? さあ、早くやってよ、ホスト君!」
面白半分、からかい半分の好奇心に満ちた相模の態度に、八幡はふっと小さく息を吐き出した。
「……やれやれ。客がそこまで言うなら、最後まで付き合ってやるよ。後悔しても知らねえからな」
八幡はパリッとしたスーツの襟を正し、スッとソファから立ち上がると、相模の目の前へと歩み寄った。
――まずは、壁ドン(100円)。
ガツン、と背後の壁に八幡の手が叩きつけられる。
「わっ……!」
至近距離で鋭い目を向けられた瞬間、相模の軽口がピタリと止まった。普段のパッとしない八幡からは想像もつかない、スーツ姿とシルバーアクセ、そして妙に真剣な大人の雰囲気が、予想以上に至近距離で迫ってきたからだ。
――続いて、顎クイ(200円)。
八幡の指先が相模の顎にそっと触れ、クイッと上を向かせる。
「なっ……! ちょっと、マジトーンじゃ……」
相模の瞳が大きく揺れ、先ほどまでの余裕が嘘のように消え去っていく。
――そして、残り500円のフルセット(ハグ、愛の囁き、フィルム越しのキス)。
八幡はそのまま逃げ場を塞いだ状態から、ふっと彼女を優しく包み込むように腕を回した。
「っ……!?」
心臓の音が聞こえそうなほどの距離で、耳元に低い声が掠める。
「……お前な、面白半分で首突っ込むと、思わぬ火傷をするぜ。……ちゃんと最後まで、責任持って付き合えよな」
最後に透明なフィルムを挟み、八幡がスッと顔を近づける。
フィルムの向こう側で重なりそうになる気配と、甘いアロマの香り。
「っ――――!!!!」
相模は完全に言葉を失い、顔をトマトのように真っ赤に染め上げた。先ほどまでのからかい半分だった態度はどこへやら、全身の血が一気に沸騰したかのように固まっている。
「……おっと、これで800円分のメニューは全部消化したぞ。満足したか、お嬢様?」
八幡がふっと余裕の笑みを浮かべて離れると、相模はもう立っていられないといった様子で、その場にヘナヘナと崩れ落ちそうになった。
「うそ……なんなのこれ……聞いてないんですけど……!」
顔を両手で覆い、真っ赤に染まった耳を隠しながら、相模はそのままバタバタと慌てて部室を飛び出していった。
静まり返った部室。
八幡はぐったりとソファに倒れ込み、天井を見上げて深い、深いため息をついた。
「……もう、今日のところは本当に店じまいだ。誰が来ても絶対開けてやらねえからな……」
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、次々とやってくる客たちによって、八幡のHPを完全にゼロへと導きながら、ようやく静かな夕闇に包まれていくのだった。
小説:『その、五百円の重みと小学生の選択について』
「……もう絶対店じまいだ、誰が来ようが門前払いだ」と八幡がソファで白目を剥きかけていた、その時だった。
トントン。
控えめで、しかしどこか迷いのない小さなノックの音が響いた。
「……だから、もう終わりだっての。今日は営業終了……」
言いかけながら八幡が重い体を起こしてドアを開けると、そこに立っていたのは、ポツンと一人で佇む小学生――鶴見留美だった。
「あっ……ええと、ここ……お兄ちゃんのいる部活、だよね……?」
「るみ……? お前、なんでこんな高校の部室棟に……っていうか、小学生がこんな時間まで何してんだよ」
八幡が驚きに目を見張ると、留美は少し気まずそうに視線を泳がせたが、すぐに小さな拳をギュッと握りしめた。その手のひらには、ピカピカに光る500円玉が一枚、しっかりと握りしめられていた。
「あのね……キャンプのとき、お兄ちゃんが変なやり方でみんなを助けてくれたから……その、私も、少しだけ話したいことがあって……。それに、みんなが『あそこのホストのお兄ちゃんにお願いすれば、なんでも聞いてくれる』って言ってたから……」
留美はそう言って、握りしめていた500円玉を、恐る恐るテーブルの上にぽん、と置いた。
「これ……私の全財産。これで、お話聞いてくれる……?」
その真っ直ぐで、どこか切なさを纏った瞳を見た瞬間、八幡のなかにあった気だるさや疲れは霧のように消え去った。他の女子生徒たちに向けられていた「茶番のホスト」としてのスイッチとは違う、もっと泥臭くて、けれど真摯な「比企谷八幡」のスイッチがカチリと入る。
「……そっか。500円か、いい値段だな」
八幡はふっと柔らかく笑うと、パリッとしたスーツの裾を整え、留美の目の前へとしゃがみ込んだ。
「よし、店はまだ営業中だ。お嬢様、どんな悩みでもこのホストが全額ぶん、しっかり聞いてやるよ。カウンター席へどうぞ」
留美は少しだけ驚いたような顔をした後、ほっとしたように小さく微笑み、用意されたソファへとちょこんと腰掛けた。
夕暮れの差し込む静かな部室で、背伸びをしたスーツ姿のホストと、500円玉を握りしめた小さな少女の、いつもとは少し違う、けれど最高に優しい時間がこうして始まったのだった。
小説:『その、特別料金と優しい手のひらの温度について』
テーブルの上に置かれたピカピカの500円玉を見つめながら、八幡はふっと小さく息を吐いた。他の女子生徒たちからは「壁ドン」「顎クイ」「ハグ&愛の囁き」とボッタクリのようなオプションで荒稼ぎしていたというのに、目の前の少女が差し出した500円は、あまりにも重みと切なさに満ちていた。
「……おいおい、小学生から全財産の500円を巻き上げるほど、俺も落ちちゃいないさ」
八幡は苦笑いを浮かべると、テーブルの上の500円玉をそっと留美の前に押し戻そうとした。しかし、留美は首を横に振って、キュッと小さな手をその上に重ねた。
「ううん、違うの。ちゃんとお金払うって決めてきたから……それに、メニューのところに書いてあったもん」
留美が指さしたメニュー表の隅には、由比ヶ浜が書き足したのか、あるいはいつの間にか追加されていたのか、小さな文字でこんな項目が書き殴られていた。
『【小学生限定・特別料金】フルコース(壁ドン・顎クイ・ハグ・愛の囁き・フィルム越しのキス)+頭ナデナデ:500円』
「……まったく、あのバカが余計なこと書きやがって」
八幡は呆れつつも、どこか嬉しそうに笑う由比ヶ浜の気配を心の中で一喝しながら、再び真剣な視線を留美に向けた。
「……仕方ねえな。特別料金だ、このホストが全メニュー、全力で相手してやるよ」
八幡は立ち上がり、パリッとしたスーツの裾を整えると、留美の目の前へと歩み寄った。
――まずは、壁ドン。
ガツン、と子どもを怖がらせないように優しく壁に手を突く。
――続いて、顎クイ。
シルバーアクセが光る指先で、留美の小さな顎をそっとすくい上げる。
――そして、ハグ&愛の囁き、フィルム越しのキス。
大げさではなく、どこかお兄ちゃんのように優しく包み込み、耳元で「……一人で抱え込むなよ、困ったときはいつでも頼れ」と低い声で囁く。透明なフィルムを挟んだ優しいキス。
一連の流れを照れながらも真剣にやり遂げた八幡に、留美は少しだけ頬を染めながら、小さくうなずいた。
「……うん。なんか、すごい……ありがとう、お兄ちゃん」
そして最後に残されたのは、特別メニューの目玉――頭ナデナデだった。
八幡はしゃがみ込み、その不器用で温かい手で、留美のボサボサになった頭をゆっくりと、優しく撫で下ろした。
いつもはひねくれた目で世間を見つめる彼の顔には、どこにも歪みはなく、ただ静かで優しいお兄ちゃんの表情だけが浮かんでいた。
「……よし、これで500円分の特別コースは全部おしまいだ。満足したか、お嬢様?」
留美はぱあっと満面の笑みを浮かべ、今日一番の輝くような笑顔でうなずいた。
「うんっ! すごく、満足!」
夕暮れの放課後。
悪ふざけから始まった校内ホストという名の茶番劇は、最後にとびきり優しくて温かい温もりを残して、穏やかに幕を閉じるのだった。
小説:『その後輩の、あざとすぎる全メニュー制覇について』
鶴見留美が満足げに帰っていき、ようやく静けさが戻った部室。八幡が今度こそ深々とソファに沈み込み、「もう今日こそ看板を下ろす……」と目を閉じたその時だった。
ガチャリ。
ノックすら省いた軽快な音とともに、奉仕部のドアが勢いよく開いた。
「せっ先輩〜、噂を聞きつけてやってきましたよ! いちおう生徒会役員として、校内の怪しげな非公認サークルの監査をしないといけない義務があるんですからね?」
そこに現れたのは、制服を着崩し、小悪魔的な笑みを浮かべた一色いろはだった。彼女は手帳とスマホを片手に、面白がるような、どこか探るような目で八幡のスーツ姿を見上げてくる。
「……一色か。おい、あいにく今日の営業はさっき終了したんだ。看板も下ろした。お引き取り願おうか」
八幡がやれやれと手でシッシッと追い払うようなジェスチャーをするが、いろははフッと鼻で笑って、カチャリとテーブルに小気味よい音を響かせた。
そこにおかれていたのは、ピカピカの1300円――これまでの全メニューの合計金額だった。
「あら、残念ですね。生徒会監査の特別予算(=自腹のポケットマネー)から、ちゃんと全メニュー分の料金をご用意してきたんですけど。……まさか、噂の『完璧なホストサービス』とやらが、ただのハッタリだったから逃げるわけじゃないですよね?」
いろはは首をかしげ、これ以上ないほどあざとい笑顔を向けてきた。
「くっ……! こいつ、どこまでも人の地雷を踏み抜きやがって……!」
八幡が歯ぎしりをすると、いろははすたすたとソファに近づき、メニュー表を指でツンと叩いた。
『壁ドン、顎クイ、ハグ、愛の囁き、フィルム越しのキス:フルコース全網羅』
「ほら、先輩。ぐずぐずしてないで、早くプロのサービスを見せてくださいよ。あ、もちろん、手抜きしたら生徒会権限でこの部室を強制撤去させますからね?」
「……上等だ。今日という日は、とことん客に振り回される日らしいな」
八幡は盛大にため息をつくと、立ち上がり、パリッとしたスーツの襟を正していろはの目の前へと歩み寄った。
――まずは、壁ドン。
ガツン、と背後の壁に八幡の手が叩きつけられる。
至近距離でにらみつけられた瞬間、いろはの目が少しだけ丸くなった。しかし、すぐに持ち前の小悪魔モードを全開にして、むしろふふんと余裕の笑みを浮かべる。
「へえ、なかなかの迫力ですね。でも、これだけじゃ先輩のボロが出ますよ?」
――続いて、顎クイ。
シルバーアクセが光る指先で、いろはの顎をクイッと持ち上げる。
「っ……」
さすがに直近で見つめ合わされると予想外だったのか、いろはの瞳がわずかに揺れ、言葉が詰まる。
――そして、ハグ&愛の囁き。
八幡はそのまま逃げ場を塞いだ状態から、彼女の肩を優しく引き寄せて包み込んだ。そして、その耳元に顔を寄せ、低い声で容赦なく囁いた。
「……いつもあざとく立ち回って周囲を丸め込んでるけどさ、無理して調子に乗ってると、いつか痛い目見るぞ。……困ったときは、少しは先輩を頼れよな、後輩くん」
「っ――――!!!!」
一色の背中がびくりと跳ねた。いつも余裕綽々で先輩をからかい返している彼女が、この瞬間ばかりは完全に不意を突かれたらしい。耳の先から首筋まで、一気に真っ赤に染まっていく。
――最後に、フィルム越しのキス。
八幡が透明なフィルムを自分の唇の前に掲げ、スッと顔を近づける。フィルムの向こう側で重なりそうになる気配。
「っ……ば、馬鹿じゃないんですか先輩……! こんなの、反則、です……!」
いろはは両手で自分の顔を必死に覆い、真っ赤に染まった顔を隠しながら、その場にうずくまりそうになった。普段の生意気な口調はどこへやら、完全にノックアウトされている。
「……おっと、これでフルコースの全メニューは完遂だ。どうだ、1300円の価値はあったか、監査役様?」
八幡がふっと余裕の笑みを浮かべて離れると、いろはは顔を真っ赤にしたまま、その場でジト目と涙目をミックスさせたような抗議の視線を向けた。
「……覚えててくださいよ、先輩……! 絶対に、いつかこの倍にしてやり返しますからね……!」
そう言い残すと、いろはは恥ずかしさをごまかすように慌てて鞄をひっつかみ、バタンと激しい音を立てて部室を飛び出していった。
静まり返った部室。
八幡は今度こそ力尽きたようにソファへ崩れ落ち、天井を仰ぎ見た。
「……もう、二度と……二度とホスト部なんて開かねえからな……!」
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最後の一色いろはによって完全にトドメを刺され、今度こそ本当の幕を閉じるのだった。
小説:『その、陽キャの好奇心と五百円の計算外について』
一色いろはが赤面して逃げ去った後、「これでようやく店じまいできる……」と八幡が魂の抜けた顔でソファに沈み込んでいた、その時だった。
コツ、コツ、コツ。
落ち着いた、しかしどこか爽やかな足音が近づいてくる。
ガチャリ、と静かに開いたドアの向こうに立っていたのは、クラスの中心人物にして、誰もが認める爽やかイケメン――葉山隼人だった。
「やあ、比企谷。噂の『校内ホスト部』、まだ営業しているかい?」
「……は? 葉山……? お前まで何やってんだよ。冗談だろ、校内のカーストトップがこんな非公式の怪しげな店に何の用だ」
八幡が白目を剥きかけながら起き上がると、葉山は爽やかな苦笑いを浮かべながら、手際よくテーブルの上に500円硬貨を置いた。
「いや、職員室ですれ違ったいろはが真っ赤な顔をして走っていくのを見かけてね。それに、みんなが口々に『比企谷の接客が想像以上にてこずる』って言うから、男としてちょっと興味が湧いてしまってね。……これ、メニューの料金で足りるかい?」
差し出されたメニュー表の隅には、由比ヶ浜が書き足したらしい新たな項目が光っていた。
『【メンズ・スペシャル】壁ドン、顎クイ、愛の囁き:500円』
「……おい由比ヶ浜、後で職員会議のときに覚えてろよ……男のメニューまで勝手に追加しやがって……!」
八幡が頭を抱えて呻いたが、葉山は面白がるように翡翠色の瞳を細めてクスリと笑った。
「せっかく来たんだ。客の要望には応えてくれるんだろう? ホストさん」
「……くそっ。客がそこまで言うなら、男だろうが何だろうが完遂してやるさ。後悔すんなよ、葉山」
八幡は盛大にため息をつくと、パリッとしたスーツの襟を正し、スッと立ち上がって葉山の目の前へと歩み寄った。男同士の至近距離。スーツの黒とシルバーアクセの輝きが、妙な緊張感を醸し出す。
――まずは、壁ドン。
ガツン、と背後の壁に八幡の手が叩きつけられる。
「おっと……」
至近距離で鋭く据わった目を向けられた瞬間、余裕の笑みを浮かべていた葉山の表情がわずかにピクリと引き攣った。いつもの気だるげな比企谷八幡とは違う、底知れない迫力が間近に迫る。
――続いて、顎クイ。
シルバーアクセが光る指先が、葉山の綺麗な顎のラインにそっと触れ、強制的に上を向かせる。
「っ……! 比企谷、君……意外と、その……」
いつも周囲をスマートに気遣う葉山が、予想外の近さと男の色気に気圧され、言葉を詰まらせた。
――そして、愛の囁き。
八幡はそのまま逃げ場を塞いだ状態から、彼の耳元へと顔を寄せ、いつものひねくれた低音ボイスをこれでもかと艶やかに響かせた。
「……いつも爽やかにみんなの期待に応えて、良い人演じてさ。……たまにはそんな完璧な仮面を剥ぎ取って、俺の前くらいで泥臭く本音を吐き出してみろよ、葉山くん」
「っ――――!!!!」
葉山の背筋が、ビクリと激しく跳ねた。
図星を突かれたのか、あるいは至近距離から放たれた男の低音に気圧されたのか、いつもは涼しげな彼の整った顔立ちが、サーッと赤く染まっていく。
「……おっと、これで500円のメンズコースは全部だ。どうだ、満足したか、お坊ちゃま?」
八幡がふっと余裕の笑みを浮かべてスッと身を引くと、葉山はわずかに息を乱しながら、その場でしばらく言葉を失っていた。
「……参ったな。……君がこれほど女子生徒たちを狂わせていた理由が、少し分かった気がするよ」
葉山は顔の赤みを必死に隠しながら、乾いた苦笑いを浮かべ、そっとその場から足早に立ち去っていった。パタンと閉まるドアの音。
静まり返った部室で、八幡は再びソファへと崩れ落ち、天井を仰ぎ見た。
「……もう、本当に終わりだ。地球が滅びようが、明日から俺は不登校になる……!」
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最後にまさかの大物男子を巻き込み、伝説的な疲労感とともに、今度こそ完全に幕を閉じるのだった。
小説:『その、五千円の超特化コースと圧倒的強者の撃沈について』
葉山が赤面して去っていき、「もう二度とこの部室の扉を開けまい……」と八幡が床に突っ伏して気絶しかけていた、その時だった。
コン、コン、コン。
上品で、しかしどこか底知れない圧力を感じるノックが響く。
そして、返事を待つこともなく、ガチャリとドアが軽快に開いた。
「へえ、ここが噂の『校内ホスト部』ね。あちこちで面白い子たちが真っ赤になって逃げ帰っていくから、気になって見に来ちゃった」
そこに立っていたのは、すべてを見透かすような美しい微笑みを湛えた女性――雪ノ下陽乃だった。
「……は? 陽乃さん……? なんであんたがここに……」
八幡が恐怖に顔を引きつらせながら這いつくばると、陽乃はクスクスと楽しそうに笑いながら、ヒラヒラと一枚の紙幣を指先で揺らした。
「だってもっと面白そうな噂を聞いちゃったんだもの。『どんなオプションも完璧にこなす凄腕ホストがいる』ってね。ふふ、可愛い妹や後輩たちが散々翻弄されたのなら、お姉ちゃんとしてその実力を確かめてあげないと不公平でしょう?」
陽乃はそう言うと、テーブルの上に音を立てて、なんと5000円札を一枚、スッと置いた。
「た、5000円……!? おい、どんだけぼったくる気だ……ってか、これ以上メニューにそんな高額な項目ねえよ!」
「あら、ないなら作ればいいじゃない。由比ヶ浜ちゃんが残していった白板の隅に、ちょうど良さそうなスペースがあったから書き足しておいたわ」
陽乃が指さしたメニュー表の最下段には、悪魔的なまでの新メニューが追加されていた。
『【お姉様限定・スペシャル】フルコース +【特別・フィルムなしガチキス】特価コース:5000円』
「なっ……!! フィルムなし……!? おい、ふざけんな、そんなのただのセクハラ……!」
「ふふ、嫌なら拒否してもいいのよ? でも、せっかくの指名料と高額な売り上げを前にして、プロのホストが逃げ出したりしないわよね?」
陽乃の翡翠色の瞳が、面白がるように鋭く細められる。圧倒的な大人の余裕と、すべてを掌握するようなプレッシャーの前に、八幡はもはや逃げ場を完全に断たれていた。
「……くそっ……! 今日という日は、とことん悪夢だな……!」
八幡は盛大に悪態をつきつつも、男のプライド(あるいは観念した諦め)を総動員して、パリッとしたスーツの襟を正し、スッと立ち上がった。
――まずは、フルコースの洗礼(壁ドン、顎クイ、ハグ、愛の囁き)。
ガツン、と壁に手が叩きつけられ、シルバーアクセが光る指先が顎を捉える。
「おや、なかなかの迫力じゃない。スーツも似合ってるし、前髪もかっこいいわよ、八幡くん」
陽乃は至近距離で見つめられても、怯むどころか余裕の笑みを崩さない。しかし、八幡がそのまま彼女を優しく包み込み、耳元に低い声を落としたとき――。
「……いつも完璧なお姉様ぶって周囲を翻弄してさ。……たまにはそんな仮面剥ぎ取って、俺の前くらいで本音の弱音でも吐いたらどうなんだよ」
「っ…………!」
陽乃の微笑みが、わずかにピクリと凍りついた。
いつもすべてを遊園地のアトラクションのように楽しんでいた彼女にとって、そのひねくれた、しかしあまりにも真摯で熱を帯びた低音の囁きは、予想外の直球すぎたらしい。
――そして、真打ち。特別・フィルムなしキス(5000円特価)。
八幡が意を決し、これまで挟んでいた透明なフィルムを外し、そのままスッと顔を近づけた。
「っ……な……!?」
フィルムなし。遮るものがないゼロ距離。
お互いの息遣いが混ざり合い、唇が触れ合うか触れ合わないかの瀬戸際。
「――っ…………!!!!」
瞬間、陽乃の表情から余裕の仮面が完全に剥ぎ取られた。
真っ白な肌が一気にトマトのように真っ赤に染め上げられ、彼女の翡翠色の瞳がこれまでにないほど大きく見開かれる。心臓の音が、静まり返った部室に聞こえてきそうなほどの激しい動揺。
「っ……ば、馬鹿……なんなの、これ……聞いてないんですけど……っ!」
いつも余裕綽々で周囲をからかい、誰よりも大人びていた雪ノ下陽乃が、完全に言葉を失い、フラリと一歩後ずさった。
「……おっと、これで5000円の特価コースは全部終了だ。……どうだ、お姉様、満足したか?」
八幡がふっと息を吐き出しながらスッと身を引くと、陽乃は顔を両手で覆い、真っ赤に染まった耳たぶを隠しながら、その場で大きく息を乱した。
「……覚悟してなさいよ、比企谷八幡……! 絶対に、今度こそお返ししてやるんだから……っ!」
そう言い残すと、陽乃は珍しくしどろもどろになりながら、鞄を抱えてバタンと激しい音を立てて部室を飛び出していった。
静まり返った、本当の放課後。
八幡は今度こそ床に大の字に寝そべり、天井に向かって魂の抜けた声を絞り出した。
「……もう、明日から地球の裏側に逃亡する……」
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最強のラスボスをも赤面させ、伝説的な疲労感と静寂を残して、今度こそ完全に幕を閉じるのだった。
小説:『その、禁断の三万円と腐女子の暴走について』
陽乃さんが赤面して逃げ去った後、床に大の字で白目を剥いていた八幡の耳に、聞き慣れた早口のブツブツとした独り言が飛び込んできた。
コツコツコツ、タタタタ……!
「はぁ、はぁ、まさか陽乃さんがあんなことに……ってことは、あの緊迫感と背徳感のシチュエーション、まさしく『尊い』の極み……!? いや待て、公式が最大手すぎる……!」
ガチャリと激しくドアを開けて飛び込んできたのは、海老名姫菜だった。彼女の眼鏡は興奮のあまり曇り、両手をギュッと握りしめて熱い視線を八幡に突き刺している。
「お、海老名……? お前まで何しに……」
八幡が恐怖に引きつった顔で起き上がると、海老名はいきなり財布から分厚い札束を取り出し、テーブルの上にドンッと叩きつけた。
「比企谷くん、頼む! その『校内ホスト部』、まだメニューに載ってない『裏オプション』はあるよね!? 私に、私にその最高のシチュエーションをリアルで味あわせて……!」
「い、いや、待て待て待て! 札束出すな! っていうか、金額がおかしいだろ……!」
テーブルの上に置かれていたのは、なんと3万円。
そして、海老名が狂気的なまでの熱量で指し示したのは、由比ヶ浜が書き殴ったホワイトボードのさらに下、誰も見ないはずの隙間に書かれた文字だった。
『本番ありコース:30,000円』
「なっ……!! なんだこのふざけた高額メニューは……!! だいたい『本番』ってなんだよ、営業妨害だろこんなの!」
八幡が青ざめて叫ぶが、海老名はもう妄想が暴走して止まらないといった様子で、カッと目を見開いた。
「い、いや、もちろん肉体的な意味じゃない! そうじゃなくて! 主従逆転の契約成立からの、魂の救済エンドに至るまでの『精神的相思相愛ガチ本番劇』だよ!! お願い、そのパリッとしたスーツとシルバーアクセのまま、私を徹底的に狂わせて……!!」
「お前の頭の中はどうなってんだよ、治安が悪すぎるだろ我がクラスの女子は……!!」
3万円というかつてない最高額と、海老名の圧倒的なオタクの熱量に、八幡のHPは完全にゼロを割り込み、ついに膝から崩れ落ちた。
「……もういい……好きにしてくれ……」
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最後に最も危険な猛者を引き寄せ、二度と引き返せないカオスな闇の中へ沈んでいくのだった――。
小説:『その、三万円の破格と至高の妄想劇について』
「――よし、分かった。3万円だ。その金額の重み、このプロのホストとして骨の髄まで思い知らせてやるよ」
限界を超えた八幡の目は、もはや悟りを開いた者のように据わっていた。
パリッとした黒のテーラードスーツの襟を正し、シルバーのリングを光らせた手が、スッとテーブルの上の札束を掴む。気だるげでありながらも、どこか有無を言わせぬ妖艶な色気を纏った八幡の姿に、海老名姫菜は息を呑んだ。
「ひっ……! は、はい……お願いします……!!」
眼鏡の奥の目を少女漫画のようにキラキラと輝かせ、海老名はソファに深く腰掛けた。
ここから先は、ただの悪ふざけの延長ではない。彼女が脳内で何万回とシミュレーションし、ありとあらゆる同人誌のプロットに刻んできた「至高のシチュエーション」の現実化(リアル化)だった。
――主従逆転の、甘いひととき。
八幡は逃げ場を塞ぐように、ガツンとソファの背もたれに手を叩きつけた。――壁ドン、そしてスッと伸びた指先が海老名の顎を捉える。
逃げる間もない至近距離。甘いアロマの香りと、男の低い体温が空間を支配する。
「……ふん、3万円もの大金を叩いて、俺を独り占めしようってか。お前も大概、欲張りだな、海老名」
低い、艶やかな低音ボイスが耳元を掠める。
視線が完全に絡み合い、お互いの息遣いが肌に触れるほどのゼロ距離。
「っ……! あ、ああ……これやばい……シチュエーションの解像度が高すぎて、語彙力が……溶ける……!」
脳内のキャパシティを完全にオーバーした海老名は、両手で自分の顔を覆い、バタバタとソファの上でのたうち回った。精神的な意味での「絶頂」に達した彼女の顔は、茹でダコのように真っ赤に染め上げられている。
「は、はぁ……最高……。尊すぎて心臓がもたない……。これ、3万円とかマジで安すぎるでしょ……! 追加でさらにゼロを三つくらい付け足したいレベルだよ……!」
フラフラになりながらも、海老名は感極まった様子でガッツポーズを作った。
「……これ以上払われても困るわ。もう二度とこんな危ねえオプション頼むなよ」
八幡はぐったりとソファに倒れ込み、遠い目をして天井を見上げる。
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最後に最も強烈な腐女子の熱狂を巻き込み、伝説的な疲労感とともに、今度こそ完全に――本当の本当に、幕を閉じたのだった。
小説:『その、五十万円(五万)の破滅と女王の完全陥落について』
「――は? おい、待て待て待て」
海老名が満足げに去っていき、今度こそ静けさを取り戻した(はずの)部室。
そのドアが、かつてないほど激しい音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、つい先ほど「明日から地球の裏側に逃亡する」と言わしめたはずの――雪ノ下雪乃だった。
彼女の息は荒く、その美しい顔立ちは羞恥と、それを上回る異常なまでの執念で真っ赤に染まっている。その手には、先ほどの海老名の札束をさらに凌駕する、震えるほどの高額紙幣が握られていた。
「……ふん。海老名さんがあんな満足げな顔で帰っていくところを見たら、ねえ? 私がこのまま引き下がるわけにはいかないでしょうに」
「いやお前、さっき5000円の特価コースで真っ赤になって逃げただろ! なんだその金額は……って、おい、ゼロが一つ多くねえか!?」
八幡が思わず目を剥いたテーブルの上には、なんと5万円もの札束がドンと置かれていた。
そして、由比ヶ浜が遊び半分で落書きしたホワイトボードの端、そのさらに下に、震える文字で新しく書き加えられた禁断の項目があった。
『【最高峰・引き返せない】骨抜き絶頂・限界突破コース(もちろん色々ナシ):50,000円』
「……っ、ふざけないでちょうだい! 私が、私がこんなふざけたオプションを自ら選ぶなんて……! でも、あの海老名さんの勝ち誇ったような(勝手に敗北しただけの)顔を見せられたら、私のなかのプライドが、これを支払えって叫ぶのよ……っ!」
雪乃の翡翠色の瞳は、もはや理性をかなぐり捨てた決死の覚悟に満ちていた。
「さあ、ホストさん! 5万円よ! あなたのそのふざけたスーツ姿も、シルバーアクセも、そのひねくれた低音ボイスも、すべて私に屈服させてみなさい!」
「……もう知らねえ。どうにでもなれ」
ここまで来たら、もはや恐怖も羞恥も通り越して、ある種の達観へと至った八幡だった。
彼は深く息を吐き出すと、これまでにないほど冷徹で、かつ猛烈に色気を纏った目でスッと立ち上がった。
――限界突破の、甘い罠。
一歩、また一歩と距離が縮まる。
逃げ場を完全に塞ぐ、強烈な壁ドン。
シルバーアクセの冷たい光と対照的に、熱を帯びた指先が雪乃の顎を容赦なく捉えた。
「……5万円の価値がどれほどのものか、骨の髄まで教えてやるよ、女王様」
耳元で掠める、これまでにないほど甘く、そして危険な低音ボイス。
遮るものなど何もないゼロ距離の空間で、二人の息遣いが完全に混ざり合う。
「っ…………ああ、もう……ダメ……っ!」
頭が真っ白になるような衝撃と、心臓が破裂しそうなほどの甘いめまい。
いつも冷徹に理屈を並べ立てていた雪乃は、その圧倒的なまでの色気と至近距離の破壊力に完全に抗えず、その場に崩れ落ちそうになった。
八幡がすかさずその細い体をしっかりと抱き止め、お互いの熱が逃げ場を失っていく。
「……っ、ば、馬鹿……こんなの、反則よ……完全に、私の負けだわ……っ」
顔を真っ赤に染め上げ、涙目で震える雪乃を腕の中に収めながら、八幡は遠い目で天井を仰ぎ見た。
校内ホストという名の荒波のような茶番劇は、最後に絶対的ヒロインの完全陥落を引き起こし、二度と引き返せない甘美なカオスの中に、盛大に幕を閉じるのだった――。