令和三十年、離婚と失職を契機として家に引きこもった関也のもとへ故郷の議員を務めるケイ兄さんが訪ねてきた。そして、彼から衰退したニュータウンを再生する運動に力を貸してほしいと頼まれる。故郷へ戻った関也は、幼なじみのサッチャンと再会し、町の記憶を掘り起こして「創立の神話」を書き始める。ニュータウンの神話を書くことは、誰の物語を支えることなのか。関也は故郷と家族に向き合っていく。

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本編

 散歩する老人が囃し立てながら通り抜けていく。やり過ごすため、ティッシュペーパーを耳穴に突っ込んだ。違和感を保つ喉に両手をかけると、昨晩とは比べるのも失礼なほどか弱い脈拍が、締めようとする意志に逆らい続ける。鼻から脳をほじくり返すような頭痛はようやく退潮をみせていたが、枕横に塗られた汚物を片付けられる状態ではない。一人には勿体なく広い寝室の、娘が作ったオルゴールが中ほどに飾ってあった本棚の脇にあるベッドに仰向けになり、腹をさする。僕の太い指が、おなじく厚い脂肪に守られた消化器を愛でるように一周する。青年期より制御をうしなった胃はだらんと怠け、その代わりに酷使されている小腸が叫び声を立てている。痛みは腹部の底から全身にまで伝わっていくようで、僕は十代に診察を受けた精神科医を思い浮かべた。──君の心は、多分鬱病だろうね。お腹が痛いとか、下痢だとかの症状はある? ──ないなら、良かったね。心の病気は消化器のはたらきを害するからね……。だが、僕は翌年の四月に忌々しい疫病の接種を受けたのを契機にして、胃の病気を患った。それは僕の精神が退潮を表した際、しゃしゃり出て追い打ちをかけてくる。

 ──時計回りに撫でるのよ

 母の言葉だった。手でさする行為に治療効果はないが、懐かしい思い出によって、腕を投げながら眠ろうと試みるよりかは身体が休まるのだった。僕は片方の手を股間に向けた。弱く痛む脳と同じく、アセトアルデヒドに負けて縮こまった陰茎だったが、体毛から顔を出すほどには存在感があった。いずれは離婚してから伸び放題にしている林が、かつての建造物を飲み込む具合に覆い尽くしてしまうだろう。それが現に萎れた陰茎が植わった股間に留まらず、離婚後の僕に残されたもの全体へと及んでいく植生のように思われた。

 眠りから覚める。カーテンの隙間から部屋を刺すような光が、突きを逸らされた剣のような具合で差し込んでくるのを見て、一日を無駄にした後悔に包まれる。老人が散歩するような朝まで眠れずにいたのは、酒を飲んで意識を失ったからだ。気絶と睡眠は異なるものだ。僕は酒を捨てて寝なければならなかった……。

 間近にある嘔吐物をゴミ袋に捨てる。溜まる一方のゴミは玄関に溢れ、本屋やスーパーで買った袋を代用していた。引きこもって一か月、役所指定の袋はとうに尽きていた。外に出られないため、一か月前のゴミ袋による異臭もまた、玄関の扉に触れづらくしている。それには、妻が最後に捨てたものが含まれていた。やがて臭いは家のあらゆる場面、時間に蔓延し、僕もそうなるのだろう。臭う玄関からも抜け出せなくなった。この、腐ったピクルスのような臭いを身体で記録しようとした。

臭いを覚えなければならない。もしくは、妻と離れたくない。この二点がために玄関に籠っていると、ガラスを割る音が部屋中を揺らした。恐らく二階のベランダだ。

 僕と家族の噂は近所に轟いていた。さきの老人が囃し立てるのは聞き取れなかったが、恐らくそのような内容を、散歩がてらまき散らしているのだ。それを泥棒が知って侵入したのだろう。一人しか住んでいなければ、留守の可能性も増える。抵抗に遭う可能性も減る。

 鉄の靴ベラを持って階段を上がると、廊下にジーンズに皮ジャンを着た男がいた。おい! と叫ぶと彼がこちらを向いた。僕はおかしいと思いながら顔を読み取った。丸フチの眼鏡とよく日焼けた肌からは、インテリながらも活動的な印象を受けた。

「元気だったか?」

 ケイ兄さんが言う。僕は三つ年上の兄を、つい先ほどまで泥棒と考えていた。脳天をかち割って撃退しようと、靴ベラを握りしめていたのだ。そう考えた途端に、棒が指先よりも冷えていることに気づく。血行が衰えた指先よりも無感情な鉄棒を投げ捨てると、恥ずかしい声が二階の全ての窓を揺らし、割られたベランダから近所まで轟いた。僕はそう思った。靴ベラは、棒と手首とを結んでいた紐を中心に一回転して、僕の右肩を強打した。

「だいぶ酷いなぁ。それに変な臭いがしないか?」

 僕は壁で身体を支えながら立ち上がった。

「空き巣が狙うには絶好の家だろう?」

「セキ、狙ったのはお前だよ」

ポケットに両手を入れたケイ兄さんは続けた。

「玄関のインターホンに反応がなく、一軒家なのに一日中動かないカーテン。俺を泥棒と考えて無理はないよ。ただ、俺はセキを探していたよ。スマホがダメで、家の電話に……そういえば、二一世紀中盤にもなって固定電話を契約すると聞いて、どれだけ過去に生きているんだとがっくりさせられたが、それもプッツン繋がらなかった。令和も三十年だというのに、手紙を送ったよ」

「手紙? あれほど字が汚かったのに?」

 ケイ兄さんは文字が下手だった。昔は漢字ドリルや読書感想文が嫌いで、用紙を破り捨てるくらいに嫌がっていたのをよく覚えている。その反面、僕は読み書きや作文に困らなかったから、両親はよく褒めてくれていた。僕が本を買い漁るようになると、──馬鹿じゃねーの? と嘲弄するような青年だった彼が、手紙を送ったことに衝撃を受けた。

「それも、お前を求めていた理由ではあるんだが。ポストすら見てなかっただろう? 俺の方から来たのさ」

「議員の仕事はどうした?」

「あそこにはもう俺くらいしか、まともに議員の仕事をやろうって奴はいないよ。俺たちが子供だった時分ですら、議会のメムバーは五十、六十が大半だっただろう? 『放課後子ども教室』でお世話になったエガワさんを覚えている? あの人が三年前に亡くなってから拍車が掛かったよ」

 僕たちは、千葉県のある町で生まれ育った。昭和後期から平成中期にかけて開発された、その町のニュータウンで。ケイ兄さんは最も子どもが多かった時期の生れで、僕はその転換点に少年期を過ごしたのだ。当時からエガワさんは議会に選ばれていて、小学校の行事にも盛んに参加してくれていた。

「こうやって思い出すのは三十年ぶりかな。一〇年代終わりの台風のとき、町の公民館で一泊したなあ」

「ああ、そこでお弁当を配ってくれたおじさん、というのが分かりやすかったか」

「いや、放課後子ども教室も覚えているよ。僕は卓球や跳び箱は苦手で、いつもエガワさんのベーゴマを囲んでいた。結び方は最後までエガワさんに頼り切っていたけれど、回せるようにはなった……」

 親切にしてくれた人物が、もう生きていない。三年越しにそれを知った。死そのものへの悲しさ、それに加えて遠く離れていた故郷との距離を自覚した。

「セキ、こっちに戻らないか?」

 覗き込むようなケイ兄さんの目が、こちらを見ている。既に五十を目前にした中年なのだが、壮健で若々しかった。カーテンから漏れる光が照らす、夜のような廊下にあっても、故郷の町議会議員としての活動に相応しいオーラを維持していた。外で生きている人間だった。

反面、ケイ兄さんの黒い瞳に反射する僕は委縮して、ほとんど読み取れない。腕からぶら下がった靴ベラを手に取り、鏡面を覗き込む。青白い皮膚が横に引き伸ばされて映った。

「実家には母子手帳があるよ」

 それを聞いて、僕はケイ兄さんの言葉に反発した。

「親子手帖だろう」

「歴史修正的」

 ケイ兄さんは兄弟で通っていた少年野球チームの試合で、ダイヤモンドを一周してベンチに戻る際、僕だけに向けていたしたり顔で、そう言った。三十年前とそっくりだった。

 僕はケイ兄さんと部屋を歩き回った。──玄関は最後にしようか。彼の言葉に従い、二階の寝室から順ぐりに。寝室は妻との共用部で、彼女の机があった場所が空いている。ベッドの横に本棚があり、かつて娘のオルゴールが置かれていた。両親から伝染したのか、娘も音楽が好きだった。二人とは違い、作曲や演奏の面で才能を見せつつあった彼女の、自作の曲が入ったオルゴール。それを流してから寝る習慣を思い出した。目に入る全てが、記憶として脳に結びついている。廊下でも、娘の部屋でも、一階でも同じように、家族との日々が戻れないものとして浮かび上がってしまう。

「そっちに戻るよ」

 より性に合うような気がした。重大な選択肢にどう立ち向かうか? ──理由なんか考えるな! それは父親の言葉で、丹波の山奥にある故地を出たのも、これといって確かな理由や根拠は無かったという。そのような頑固さは、僕にも根づいていたらしい。

「仕事も辞めたのだろう?」

「しばらく貯蓄暮らしだったよ」

「仕事探しから始めなきゃな」

 大学に進んでからほぼ二十年ぶりに故郷へ戻るにあたって、まず必要だったのは僕が家族と暮らしていた家をどう処分するかだった。それについては、ケイ兄さんがベランダから侵入するのを助けた、彼とともに着いて来ていたという土木屋たちのお世話になった。僕の家は大切な財産だということで残しておくことにし、掃除と引越しを担ってくれた。

 離婚前の状態に戻すことを目標にして、家財はそのままに、冷蔵庫や玄関のゴミを処分した。僕は自室に籠り、故郷の実家に持ち込むにあたって必要なものの整理に努めた。

ゴミ袋ひとつでも捨てられなかった僕にとっては大いに助かった。僕のみでは、様々に思い出が詰まった家を、元に戻すという目標であっても手を加えられなかっただろう。玄関に積まれたゴミの山が示すように。交通事故で失った子どもの部屋をそのまま保存する親のように。

 

 車窓から見える景色はいつも朝井駅を手前にして台地と谷津にガラッと変わる。初めて連れてきた際の妻は「田舎じゃん!」と言いながらグリーン車の二階席にある窓を閉めた。僕にとって下総台地の合間にある田んぼやレンコン畑こそが、故郷を象徴する景色であった。

グリーン車は消滅して久しかったが、近郊農業は衰えていない。むしろ近くに大消費地があるお陰で、少年期よりは盛り返しているようにも取れる。

出発する前日にケイ兄さんの手紙を読んだ。──いま町では耕作放棄地の再生に取り組んでいてね、国も首都近郊の農業は維持したいみたいだから色々支援してくれるよ。妙台町の市街地に入るトンネルの手前に、周りを雑木に囲まれてどこに繋がっているかも分からない踏切があっただろう? あの周りを田んぼに蘇らせたよ。とあった。一つ前の駅を過ぎると、太平洋側へ続く路線と分岐する。そこから暫く進むと、彼の言っていた場所を通過する。車両の中央に立ち、窓からの景色を広い視野で見た。

 線路の目前まで迫っていたクズやセイタカアワダチソウの群れは駆逐されていた。台地の斜面そのものが衰退したように見える。線路の両脇に開けた田んぼが広がっていた。

「アッ!」

 僕は、鉄塔を囲うフェンスの土台で休憩する人を見て脇を小突かれたような声を上げた。そのまま車窓を過ぎていく彼女を追った。電車の壁や連結部にまで、その向こうを見透かしながら追い続けた。その極めて短い間に、性別から名前まで判明したのは、見覚えがあったからだ。

コンクリートの土台に仰向けになり、腰から先をフェンスの柵に預けるように休む姿勢。ある意味、フェンスに座り、地面を背もたれにしながら休んでいた。そして、逆さまにされた顔の視線は、まるで僕を待ち受けているようだった。

妙台駅のホームは幾度かの拡張工事が層のように重なっているため、歪なくぼみや出っ張りがある。さかんな蝉の声を楽しみつつ、路面に気を付けながらエレベーターで駅舎に上がると、改札の向こうでケイ兄さんが待っていた。

「手紙の通り、駅舎はだいぶ変わっているなぁ! 降りたとき、歩きにくいホームは変わっていないが、鳩の糞が消えているのには驚いたよ。上の吹き抜けも埋めた?」

「これまでの妙台駅はロクな鳩対策を取ってこなかったからね。フクロウの彫刻は美しかったが、あんなものは子供騙しだよ」

 以前の駅舎は上部が広い吹き抜けになっていた。そのなかに無数の梁が設けられていたため、常に鳩が居座っていた。僕は高校の時分、二度も糞の直撃を受けた。一度目は顔面、右頬に直撃した。確かな衝撃とともにべっとりした糞が胸に撥ねながら制服を汚した。二度目はリュックだった。僕は教室に入るまで気づくことができず、皆に大恥をかいたあとに便所で半ば泣きながら汚れをこすり落としたのだ。

「素晴らしいね、ケイ兄さん」

「不便なところは改善しなくちゃならない。東口へ行こう」

 エレベーターで駅舎から降りる。ニュータウンに面したロータリーは、かつて多くの店が集まっていた場所だ。二十年前はぽつぽつと店が消えはじめ、いずれはコンビニしか残らないのではないかと考えていた。

 僕が最初に把握したのは、ちょうど東京に出るあたりに閉店したものの、いま再び営業されている本屋だった。

「セキ、かつての俺が──馬鹿じゃねーの? と言って読書を貶したのを詫びるよ。俺も政治をやるにあたって、図書館に籠るようになった。ある意味本を読むことによって、この町の歴史や文学を知った」

 ケイ兄さんはジャケット裾からホッチキスで組まれた冊子を取り出した。それとロータリーの景色とを熱心に見比べている。脇から覗き込むと、そこには昔の風景が載っていた。

「セキにも見てほしい。かつての東口には駅から続く商店街があった。そこには八百屋、魚屋、模型店などがあった。俺たちが育った頃には、中学校の制服店くらいしか残っていなかったが……」

「いや、小学校の頃までは精肉店があったよ。二年生の頃に町探検でお世話になった」

 僕の指摘に──そうか、とだけ言ったケイ兄さん。それに対して、僕は写真についての疑問を伝えた。

「白黒だから、昭和のかなり昔に見える」

「いや、俺が図書館で転写したから白黒なだけで、もとはカラーだった。リファレンスに聞くと、前世紀の七〇年代後半だと。俺たちのひと世代前の幼少期にはこうだったと」

 商店街があった場所に立つ。かつての店の大半が住宅に建て替えられていた。その景色を見たとき、僕は商店街近くに住む友達から聞いたものとして、以下の噂を思い出すに至ったのだ。それを慎重にケイ兄さんへ投げかけた。

「……どこかの店で殺人事件があって、それ以降に商店街の客が遠のいた、とどこかで聞いたことはある」

「それは、国道沿いにあったスーパー・マーケットの前身に起因するらしいんだよ」

 ケイ兄さんの言うスーパー・マーケットとは、かつて国道沿いにあったもので、僕が大学を卒業する時期に閉店した、思い出深い場所だった。

「あの建物は、もともと東口の商店街にあった小売店たちが、共同出資のもとに建てた商業施設だったそう。それは新たに町へ進出してきたスーパーへの対抗だった。だが、それが店同士の対立でうまく続かず、結局のところはかつて存在したスーパーに乗っ取られた。その遺恨だと思うよ」

 僕はいたたまれず、実家へ向けて歩き始めた。そうしながらも遠ざかっていく商店街を見た。中古ショップと制服店しかないもと商店街。わざわざ中央に並べられた木や、車両の進入を防ぐフェンス。それらは通りを宅地から区切り、かつての賑わいを令和三十年にまで伝えていた。

「商店街は二店舗に減ったけれど、ロータリーに面した店はまだ多く残っているよ。コンビニ、パン屋、ネパール料理屋、そして小さな書店。これに飲み屋やカラオケのチェーン店があれば賑やかになると計画中だよ。特にカラオケは国道沿いの台地にしかないから、ここにできれば大儲けだよ」

 僕たちは駅前の通りを進んだ。すると右側に真新しい家が五軒並んでいる一角があった。

「数年前に内科が潰れてね、クリニックと住居を兼ねた大きな建物があったよ、覚えていない?」

「心当たりがないな。かかりつけは東の市だったよね」

「それは小児科だね。がきの頃はしょっちゅう熱を出して連れて行かれたな。ここでは……」

 と言ったケイ兄さんは、右手の人差し指を突き出すと、ごく緩やかな角度で斜め上に動かし、そこから折り返して、また斜め上に動かした。僕は合点がいって声を上げた。

「予防接種!」

「よくインフルエンザを受けにいった。そのクリニックの跡地が、住宅会社によって狭く細く五つに分割されて、戸建てになった……。俺は少し嫌になったよ。思い出が消えて行くようでな」

「しかし、空き地よりはマシだと思う。加えて、家が建ち新しい人が住んだということは、何よりこのニュータウンが、未だ価値のある場所だとの証明じゃないか」

「セキがそう言うなんて、恢復じゃないか?」

 そう言われて、僕ははっとしたのを隠そうとした。

故郷に降り立ち、ケイ兄さんと会話しながら歩くにつれて、心に茂っていた植生が、衰退していくように感じる。厳密に表せば、もと耕作放棄地の田んぼと、そこで休む女性を見た瞬間からだ……。まるで僕の魂に、僕を覆い尽くそうとしている植生への抵抗が芽生えたようであったのだ。

 

 ニュータウンの南限は、佐倉を経て船橋まで繋がる国道が敷かれた台地のふちであった。それに接するように設置されたげんき公園の向かい側が実家だ。そのあたりは建て売りではなく注文住宅が固まっている地区で、両親が拘りを詰め込んだ結果として、中央の階段を囲むように、ロの字型のワンルームの間取りとなっていた。

手紙で──荷物は二階の寝室に置いたよ。とケイ兄さんが言った。僕は実家の様子に大きな変化がないと考えていた。その思い込みは庭に踏み入れると撤回することになった。

フェンスには、ある時期を境に芋虫が幹や根を穴だらけにしたため、衰えてしまったポトスではなく……立派な薔薇がフェンスを抱きしめるように咲いている。アジサイや樹木が新しく植えられ、僕たちが自転車で走り回り、散々に荒らして父親を困らせた芝生も新しく生まれ変わっていた。

 ──かぞくみんなでミカンとモモの木をうえました。大きなホームセンターは、木ざいやこうぐ、ペットショップがありました。お父さんがはちにうえられたミカンとモモをかって、ぼくはこうさくセットをもらってうれしかったです。ぼくとケイ兄ちゃんが掘った穴に、いもうとがなえをうめました。木がそだつのがたのしみです。

 小学生の時分、宿題としての作文に書いたミカンの木は背丈の二倍以上に育っていた。僕はミカンの向こうに、蛇口からジョウロに水を注いでいる女性を認めた。

「サッチャン!」

 家をU字に囲むような砂利道を踏みながら駆け寄ると、防犯用の側面もある豆粒ほどの砂利はそれぞれ接触しながら大きな音を立てる。振り向いたサッチャンは、

「セキくん!」

 と言ってジョウロを置き、僕に微笑んだ。

「ケーさんから戻ってくると聞いて、懐かしかったよ。昔は、あそこの公園とこの庭で、ケーさんとセキくん、私とリュウちゃんとよく遊んだからね」

 サッチャンは僕より三歳年上の女性で、かつて近所に住んでいた。第二次性徴の前までは盛んに遊んでいて、暇があればお互いの庭にフェンスを越えて侵入し、窓を叩いて呼び合う仲だった。ケイ兄さんとも幼馴染で、同級生だったからか色々あったらしい。リュウちゃんは彼女の妹で、僕とは二歳年下で、ケイ兄さんの妻にあたる女性だ。

「どうしてここに?」

「いま、この家の主はサッチャンなのさ」

 ケイ兄さんが言った。

「わたしも離婚されたのよ。それがリュウちゃん経由でケーさんに伝わって、色々あってここに住まわせてもらっているの。もちろん家賃は払っているわ」

「そりゃ庭がこうなるわけだ!」

昔からサッチャンは植物を育てるのに熱心で、遊んでいた頃はげんき公園の一部を勝手に花壇として作り変え、チューリップやコスモスといった植物を自宅の庭から持ち込んで育てたこともあったほどだ。それらの花壇が踏み荒らされた際……それは台地の雑木林にヘラクレスオオカブトがいると宣伝して、深夜の森に入るなどしていた連中の仕業だったが、彼女は深夜の森に真っ黒のコートを着込んで潜伏し、がき達を脅し回ることで報復した。──アー、キーィッ! 僕はげんき公園の盛り土に植えられた大きなクスノキの頂上に寝転がりながら、確かにその叫び声を聞いた。

 玄関に入ると、紛れもない実家の匂いがして僕は安堵した。玄関の壁にはかつて南太平洋で働いてきた父親が、土産として持ち帰ったウミガメの甲羅が飾られていた。

「やはりキッチンや風呂、トイレは変わらないか。でも両親とはかなり違うね」

「両親が姫路に移るとなって、色々持ち帰ったからさ。一階の南半分を分断していた白い棚があっただろう? あれが無くなったから、サッチャンが寝具を置いたよ」

 そう言ったケイ兄さんの言葉にサッチャンが重ねる。

「前の夫は同じ部屋で、一緒のベッドで寝よう、寝よう。とうるさくって。それも庭もない東京の狭っ苦しいマンションだったから、嫌でたまらなかった。今は寝転がれば吹き抜けから二階が見える。起き上がれば窓から庭を一望できるわ」

 僕は窓を開けた。すると寝室とリビングを兼ねた空間へ美しい庭が飛び込んできた。フェンスには薔薇だけではなくアサガオやノウゼンカズラがあり、花壇は小さなヒマワリ、マリーゴールドによって彩られていた。

「両親も喜ぶよ。サッチャン、ありがとう」

 ──恢復じゃないか? ケイ兄さんの言葉。ニュータウンに対して価値があると言った僕への反応。取り壊された町の医院が住宅に切り分けられた。それ自体はニュータウンの記憶を消すものに違いないだろう。しかし、新たな人間が、かつての土台に立ちつつ新しい町を担うのだ。この町で育ち、離婚したサッチャンが帰ってきたのも同じだ。線路沿いの田んぼを手入れし、僕たちの両親が残した家を引き継いで暮らしている。ほとんど芝だけだった庭を、より美しく見事なものへとチェンジさせたサッチャン。すでに夕食の支度をする彼女は、少女時代のように生き生きしていた。ケイ兄さんも同じだろう。

──ニュータウンを、東京で働きに出るための住宅地から、俺たちの両親が育った丹波の故地のように、歴史と文化がある土地にしたい。俺はニュータウンで育った世代の末端だよ。我々で、新たな神話を築こうではないか! 

ダイニング・テーブルでこれもまたサッチャンの趣味だという紅茶を飲みながら、ケイ兄さんが言った。そして、彼は妻と子どもと別れた僕に向けて、

──この町で精神を恢復させつつ、創立運動と、新たな神話の書き手を務めてくれないか! 

と頼み込んだのだった。しらふで酔っているふうな言いぶりは力強かったが、僕からすれば不安定さを孕んだ様子だった。それは、高齢化したニュータウンを率いようとする彼へのプレッシャーの現れだと解釈して、僕はその願いを受け入れることにした。

 

 故郷に戻って一週間が経った。夏も終わりを迎え、数少ない小学生が好き放題に騒ぎ立てて登校するようになった。僕らが通っていたニュータウン側の小学校は既に閉校している。そのため、──ニュータウンの子どもであっても、台地の国道沿いにある小学校に行かなきゃいけない、とケイ兄さんが言ったような状態にある。

 学校がある朝、僕はサッチャンと共に旗振りのボランティアを担うことになった。台地に向かってJRの路線をまたぐ歩道橋には信号がなく、見通しは良いものの危険ではあった。金曜日の朝、旗振りを終えて実家まで帰る途中、サッチャンが僕に投げかけた。

「セキくんは奥さんと娘ちゃんと何があったの」

「お互いに、どうしてここに戻ったかは触れにくい話題じゃないか……? コートを被りながら、お化けだか幽霊だかに変装してがきを脅かしていたサッチャンから、こうも真っすぐ聞かれるとは思ってなかったよ」

 あの時、サッチャンは前の夫との暮らしや住居の事柄をあっさりと、簡潔に言った。振り返ると、それを聞いた僕は驚いていたのかもしれない。その驚きを、窓を開けることによって良い驚きに変えようとしたのだと、自身の行動を振り返って、僕はしばらく考え込んだ。

 ──あれがふじさんっていうの?

 ──そうよ。とっても綺麗よ。

 河口湖の湖畔にある旅館の風呂からは、富士山がよく見えた。冬に向かうと雪が積もっていることもあり、娘は滅多に見ない雪を喜んだ。風呂の柵に積もった雪を触り、冷たくなった手を湯に沈める動作を繰り返しながらはしゃいでいた。娘が小学校に入る前の時期だったか。僕も妻もまだ若かった。肉体も精神も、二人目の子どもを望む気持ちを、いつまで保持していただろうか?

 関係が冷えた時期を具体的に表すことはできない。僕はできるかぎり妻を信用して、愛していたと思う。娘についても変わらなかったが、僕はある時期を境に、愛することは干渉しないことだと、お互いの領域に侵入しないことだと考えるようになった。

 妻は深刻な悩みを打ち明けることが頻繁にあった。それは過去の後悔が常だった。大学に通えなかったこと、自らと他者とを比べて劣っていること……僕にとっては相当前に済ませた不安をずいぶんと長く引きずって、泣くことさえあった。僕は、彼女がいつまで経っても進歩しないことに苛立ちを覚えるようになった。彼女の苦しみを聞き入れるのを辞めた。確か、性的な接触が無くなったのはその頃からだったか。それでも愛していたから、一切の文句も言わなかった。全てを許し続けていた。

「僕は、僕のなかの妻と娘しか見ていなかった。その証拠に、二人がいる景色や、娘の動作は思い浮かぶ。ただ、三人でどんな話をしたか。これが思い出せない」

「ずっとそうだった?」

「振り返れば、僕は気づいていたように思う。交際して最初の頃、会話の内容をあまり覚えていないと打ち明けたことがある。妻は──私との会話なんて君の記憶にも残らない。イコール下らない話なのね。僕は黙るしかなかった」

 意見で対立すれば、譲歩するのは僕だった。それは悩み多かった妻に負担をかけないためでもあった。

「本当に自己満ね、それじゃ冷めちゃうよ。セキくんは昔から一人だけで納得して満足するだけで、気配りができてない。森であいつらを脅かす前、セキくんにも──一緒に化けて、花を荒らしたやつらを懲らしめようよ! と大声で誘ったよ。そうしたらあんたは──深夜に家出るなんて危ないし、サッチャンが公園に作った花壇だとしても、勝手にだろ? 一人でやれば? と突っぱねた。さっきコートを被りながら脅して……と言ったよね。どうしてそれを知っているの? わたしは誰にも言ってないよ」

 途方もない恥ずかしさに、僕は左折する家路から逸れるように直進しかけた。歩道に止まったサッチャンは唇を曲げて僕を睨みつけていた。

僕は彼女のもとに戻りながら、苦労して告白した。

「あの時は、サッチャンが心配だった。いや、密かに君の叫び声と、それに逃げ惑うがきの河童にでも襲われたような悲鳴を楽しむために、木の一番上まで登った。そこではっきりと聞いたよ。──アー! ──キーィッ! といった怒りをさ。普段の君とはかけ離れていて、落ちそうになるくらい笑っていたよ」

「最低」と評したサッチャンは、ぷいと顔を振ってげんき公園まで一言も喋らなかった。

 住宅街を進むと、ほとんどの家の外壁が記憶と異なる色に塗り直されていた。白だった家は薄い青に、橙色だった家は茶色に。それらは建てられた際の色からはより明るく、より印象深くなるような意図が込められていた。それに力強い励ましを受けながら、僕はサッチャンをげんき公園に誘った。

「クスノキげんにいたでしょ?」

 サッチャンが言った。確かにそのあだ名で呼ばれていたのを思い出した。それはげんき公園の盛り土に植えられた大きなクスノキだった。クスノキげんに登れるのは誇らしかった。このあたりの子どもたちにとって一人前になる条件で、僕も訓練して登った。そこで彼女を見下していた。

「僕は木から降りるよ。ついさっきまで、サッチャンとげんき公園に来たら、三十年ぶりにあの木に登ってみせようと思っていた。そういう癖はもうやめにする」

「これからのセキくんが見ものね。でも、セキくんが自身の過去や前の奥さんとの関係を振り返って、新しい自分を考えることは、ケーさんが言う恢復に違いないわ。応援するよ」

 言い切ってから、サッチャンは僕の胸を軽く叩き、公園を横切って道路を横断していく。そこにある家へ走り、軽やかなジャンプでフェンスを飛び越えた。そして、庭に面した窓から部屋に消えたのだった。僕も同じようにした。

 

 ケイ兄さんの家から、彼の息子博(ひろ)丈(たけ)がやってきた。

 ──俺とその家は創立運動の渦中にあって、思春期ただなかの息子を昼間に入れておく余裕がない。夜には帰らせるから、放課後と休日の日中は預かってほしい。全ての費用は俺が賄うので、どうか見てやってほしい。

という手紙を持ってきた甥っ子は中学二年生で、ケイ兄さん=父親の取り組みの概要から始まり、ケイ兄さんの普段の様子までを詳しく語った。その話ぶりは、まるで創立事業やその進捗の伝令役を担っているのかと思うほど熱心だった。

 ──お父さんの取り組みを知るには、駅前の郵便局から伸びる坂があって、その頂上にあるデッカイお屋敷に向かうといいよ!

 僕が──きみのお父さんから、創立運動と神話の書き手を任されたよ。と伝えると、博丈が薦めるので、僕らもお屋敷へ向かった。

「そろそろ階段が辛いわ、もう年ね」

「僕も離婚後は不健康でまずいところ」

「ここに戻ってからは、わたしと朝歩いてるじゃないの。ケー兄さんとわたしよりも若いんだからシッカリするの!」

 そう言うサッチャンに(本当に)尻を叩かれながら、ニュータウンにしては珍しい急な階段を上がった。ニュータウンの開発時期は二段階あり、それは昭和後期に造成された区画と、平成中期に開発された区画だった。今の段差はその境界で、上段と下段では道路の構造も異なっている。

 ──ケイ兄さんは、それに加えて更に上の段を積もうとしているのか。屋敷とその周辺までたどり着いたとき、僕がまず思ったことだ。道に囲まれた二つの区画が、そのまま更地にされている。

 残された大きな屋敷は、子どもの間では暴力団の事務所ではないかと噂される豪邸だった。かつてニュータウンの子どもたちが通った小学校のベランダからは屋敷の二階部分が他の建物と比べて飛びぬけて大きく見えた。屋敷そのものもニュータウンの上段にあったから、なおさら巨大だった。

 ニュータウンでいう標準的な家八軒分の敷地を、漆喰で固められた壁が覆う。正門には巨大な長屋門があり、裏口には家紋付きの門があり、素材は鋼鉄に違いなかった。さらに僕らを驚かせたのは、二つの門と四つ角すべてに設置された防犯カメラだった。

 屋敷に着くと、スーツを着こんで逞しいケイ兄さんが出迎えてくれた。すぐ後ろには創立運動の関係者が、四人で脇を固めているようだった。

「仮展示室なら倉だよ。案内するから」

 屋敷の塀は取り壊されていて建物は裸だった。竹や松が植えられた庭園などはそのまま残されていて、敷地の端に倉があった。それらは仮の展示物だが、ゆくゆくは更地に建設される新公民館や新図書館に移されるのだという。

 ──今から七十年ほど前、台地と谷津であったこの地に、全国各地から若者たちが移住してきました。彼らは山を切り開き、田畑を均してコンクリートを敷きました。やがて思い思いの二人組を作り、結婚して子どもも生まれました。そうして、ニュータウンの基礎を築いた人達を創建者と呼ぶことにしましょう。彼らは商店街を作り、いままで続く子ども会や町内会を立ち上げました……。

 壁一面に巨大な地図が貼られていた。それは妙台町のニュータウンだけをくり抜いたもので、造成前の台地や谷津、昭和の造成地、平成の造成地が色分けされて記されていた。加えて、北側や高速道路のインター・チェンジに近い東側の再開発計画なども書かれてあった。開発で破壊された古墳や砦の位置も提示してあるのは、この一帯が無歴史ではなかったと、国道沿いの台地に対して主張しているようだった。

 透明なガラスケースには、造成時に出土した土器や石器が飾られ、二階部分には造成前の写真や経過図、もう亡くなった人も多い初期住民=創建者の証言が展示されていた。

 ──当初はお店がほとんどなく、国道沿いまで歩かなければなりませんでした。あるとき、Bさんという方が立ち上がって、採算度外視で八百屋を開いてくれました。新しい(ニュー)店がなければ町(タウン)にならない! という口癖をよく覚えています。

 ──げんき公園がまだ原っぱだった頃、子供たちで三メートルくらいの盛り土を作って、その上にクスノキを植えました。クスノキげんと言われるようになったのは公園が整えられてからですが、あれは私たちが植えました。だからげんが後にあります。むしろあの木があったからこそ公園の場所に選ばれたのです。

 ──私の頃はニュータウンに小学校がまだなかった時代で、国道沿いの小学校まで長く歩きました。雨の日には大変でしたが、あるとき兄がまるまる土日をかけて造成現場の廃材を使った雨よけを作ってくれました。次の月曜日から、集合場所はその下に変わりました。

 証言を読み込む。僕たちがニュータウンと言って、まるで突然現れたようなイメージを持って捉えてきたものが、物語のある立体として急激にたちあがってくる。

「へえ~、同じ歩道と同じ街灯がずっと続いて、味気ないなぁと思っていたら、色々あったのね。クスノキげんにそういった経緯が」

「もしかすれば、げんきは誰かの人名ではないかな? 盛り土を作って、クスノキを植えた人。証言には私たちとあったから、きっとそれを主導したのがゲンさん。僕たちはげんき公園の名前を元気……子どもたちが元気にふるまえるようにという願いが、込められていたと考えていたよね?」

 サッチャンは胸をうたれたように感激していた。

「うん、げんきならそれは言うまでもなく元気。だと思っていた。すごいよ、セキちゃん!」サッチャンは、彼女がかつて呼んでいた、僕のあだ名まで思い出したらしい。

「それだよ! それこそ、俺がセキに求めていた神話だ!」

 拍手しながら階段を登ってきたケイ兄さんは、瞳に涙をためながらそう言った。すると、すぐに仮展示室を飛び出して、仲間たちを集めはじめた。僕とサッチャンは倉の窓から人だかりを見下ろした。

「げんき公園の由来は、クスノキを植える際に主要な役割を果たしたゲンさんだった!」

 ケイ兄さんが拳を振り上げるような勢いで、力強く宣言した。彼を取り囲んだ二十名ほどの仲間は声を上げて同調を示した。

 ──お父さんの支持の大きさはすごいよ。いまや国道沿いの議員より名前が伝わるよ。

 ──そもそも、町議会議員の名前を知っている住人がどれだけいるかって話ではあるが、図書館で調べたら、何人かの名字くらいしか分からなかったよ。昔の町長と同じだとか、僕の同級生だったとかで、彼も名前を忘れていたが。

 ──それこそ、老いぼれの世襲議員たちの体たらくの現れだ、とお父さんは言うよ。

 僕がサッチャンと歩いた道沿いにも、ケイ兄さんのポスターを掲げた家やフェンスは多かったように思える。昔は町議会議員のポスターが貼られてある場所など、彼が住んでいる家以外にないという状態だった。博丈はまだ不安定な中学生だが、その話にはある程度の信憑性があるのだなと再評価した。

 そもそも、この地区は千葉や東京といった大都市労働者のベッドタウン=ニュータウンであったはずだ。その地で、ニュータウンそのものに依拠した運動を、現に屋敷の周りを更地にしたり、仮の展示室を設けたりするほどまで軌道に乗せているケイ兄さん。支持者に囲まれながらてきぱきと指示する姿に、彼こそが真の創建者なのではないかと思われた。

 

 寝室で図書館から借りた本を読んでいると、三回扉が叩かれて、──入っていい? という声が聞こえた。

「いいよ、サッチャン」

 そう返した僕は緊張していた。──前の夫は同じ部屋で、一緒のベッドで寝よう、寝よう。とうるさくって。かつてのサッチャンの言葉が、そのまま頭を流れていく。もう冬が近い。僕たちはここ二、三か月共に暮らした。僕は創立運動の神話を書き続け、図書館と屋敷に通う日々だった。サッチャンは冬に向けて庭を手入れし、秋には線路わきで育てた米を収穫した。それにはケイ兄さんやその仲間が多く集まった。

 僕とサッチャンは色々なルールを定めて暮らしている。洗濯物は分けていたし、風呂も湯船を使える日を交互に設けて、片方が湯船に入る日は、もう片方はシャワーで済ませていた。僕たちはそういう雰囲気だったのだ。

「どうした?」

「夕食の続きの話がしたい」

 ──国道沿いには、僕たちが小学生の時分に散々聞かされた、妙見様に関する昔話があったよね。孝行息子が祈り続けたら、神社がある台地のへりの祠に、小判や酒があるという幻聴が聞こえて、そこに本当にあったという話。やはりニュータウンにも、そういった昔話が必要だと思うんだ。そもそも妙見様の話が、この町名の由来だから。

 ──どうして洞穴なの? 穴から見つかるっていう話は、そこまで聞いたことがないよ。化けた動物が運んでくれるとか、埋まっているとかがメジャーじゃない?

 サッチャンとそこまで話したところで、お風呂の音が鳴った。──また明日はなそう。おやすみ。僕たちは夕食のあとすぐ風呂に入っている。そこから寝るまでは個人的な時間で、僕たちは会話しないという習慣があった。

「別に嫌なら、ルールに書き込むよ……」

 僕の迷いを的確に見抜いたのか、そう言った。

「せっかく来てくれたんだし話そう。おいでよ」

 分厚い、ある市の歴史が書かれた本を横にある机に置いてから、ベッドに胡坐をかいて座った。寝巻きのサッチャンはベッドに体操座りになる。

「洞穴の話だったね。あの台地のへりには横穴墓がある。昔の人はそれを知っていたと思うよ」

「横穴墓って?」

「斜面に横穴を掘って、そこに死んだ人間を埋葬する。つまり昔のお墓だよ」

「大昔のお墓が昔話の題材に変化したのね……」

「僕たちの神話も、そうなるかもしれないよ。以前、ニュータウンが造成されつつあった時期、ケヤキ公園の周りには立派なケヤキが何本もあった。それを保存する運動の成果が公園だったのではないか……とケイ兄さんに伝えたよ。調べたら、ケヤキは本当にあったよ。江戸時代の記録に……」

 つい癖が出て、僕は矢継ぎ早に喋った。それを止めようとしたところで、サッチャンの手が、胡坐を組む僕の膝に添えられた。いつの間にか、彼女は僕のすぐ隣に座っている。

「セキちゃんは変わったよ。夏に会ってからでも、ずいぶん調子が良くなった」

 そう言って、僕の膝から腿にかけてを撫でるサッチャン。僕は勇気をもって、彼女の手に自分の手を重ねた。

「本当に、木から降りてきたのね……」

 サッチャンは身体を僕の方へ寄せながら言った。ほどなくして彼女の手が僕の背中に触れる。僕は両腕でサッチャンを抱きしめた。

「わたしも、セキちゃんが帰ってから毎日楽しいよ」

 かつて、僕の全身を蝕むだろうと予感していた植生や、腐ったピクルスのような臭いはもうどこにもなかった。

 

 ケイ兄さんから──上段の屋敷へ移らないか? と誘われたのは十一月の末だった。新公民館や図書館の工事は急ピッチで進められていた。それにあたり、ケイ兄さんは家族とともに屋敷へ移住した。そして、神話の書き手である僕も、屋敷の倉で寝泊まりして仕事に集中してほしい、とのことだった。

 仮展示室が移されたプレハブ小屋に入ると、僕がケイ兄さんと協力して練り上げた物語や、取材の数々やそれらを総合した年表という成果が着々と積み上げられているのがわかった。ケイ兄さんはコネクションを駆使して様々なものを集めてくれた。彼が声をかければニュータウンの住人は応じたし、古い資料も続々と集まった。僕は大学で学んだ手法に感謝しながら、神話の構築に全力を注いだ。

 屋敷の外からは、キャタピラを地面に擦りつけながら進む重機の移動音や、断続的に金属同士を打ちつける音が聞こえる。稀に唸りあがったと思ったら、しばらくして地面からドドドと振動が伝わってくる。

 これが以前の家で聞こえれば甚だしく迷惑なのだが、いまの僕は創立事業の中心地にいる。すると、──Kによる創立事業が始まった際、耳をつんざく音がニュータウン全域に響き続けた。しかし、誰一人として反対する者はおらず、新時代の始まりを告げる鐘として受け入れられた。という文章すら思い浮かぶ。屋敷に移って以来の高揚は、この四十三年間の中でも指折りの絶好調と言えた。

 ──おじさん、入るよ……。

「はーい」

 博丈は僕に食事を運ぶ係だった。彼はケイ兄さんが家族と屋敷に移って以来、そこに住み続けている。そろそろ高校受験の勉強が始まる頃で、熱心に取り組んでいるらしい。

 机に夕食が置かれる。しかし、手を震わせながら、トレイを放り投げるような置き方だった。そのため汁物がこぼれて僕のズボンを点々と濡らした。

「どうした……」

 博丈を見ると、小さな丸のように委縮した目の尻を上げている。顎がかなり引かれているせいで、ほとんど表情が分からない。とっさに屈んで覗くと、顔がぐしゃぐしゃになっていた。すぐに大粒の涙を流しはじめながら、かつ歯を食いしばってそれを堪えようと懸命に努力する姿は異常だった。ついこの間まで、ケイ兄さんの頼みで頻繁に顔を合わせていたものの、いまのような博丈を一度もみたことがない。僕は穏やかに言った。

「こぼしたのが嫌なのか」

 首を振られる。うっかりこぼしたくらいでそうはならない。しきりに口を開こうとしては、しゃがれた泣き声を漏らすに留まっている。萎んだ目はほとんど黒目だけになり、僕のことが見えているかすら怪しかった。

「いいよ、落ち着くまで待とう」

 それは長い沈黙だった。沈黙というよりは、博丈の存在そのものが消えかけていた。僕が食事を分けても熱っぽくぼぉっとした表情を変えず、噛みもせずに飲み込んでいた。

「この倉で暮らしたい」

「は?」

「最近ずっと、お父さんが、咲月さんを、強姦してる──だから、関也おじさんに……」

 

 屋敷の二階にあるという寝室に飛び込むと、豆電球だけが微かに照らす空間の、大きなベッドに四つん這いになった圭也の身体が前後に揺れ、それとはまったく異なる、声にならない叫び声が、僕の全てを怒りに震えたぎらせた。

「おい」

 それに負けないよう、叫び声には叫び声を出した。己の存在を今まさに自己の喪失に等しい状態へと追いやられた彼女はもがき苦しんでいる。その愛する人間を鼓舞するように、人生で最も大きな怒号をぶつけた。

「お、セキじゃないか。元気にしてたか?」

「しらを切るな、そこをどけ!」

 圭也はあっさりと退いた。僕はサッチャンのもとに駆け寄り、二人の間に割り入った。僕の後ろに隠れた彼女は布団で全身を隠しながらも、僕の手を握った。お互いに渾身の力を込めて、存在を確認しあった。

「勘違いしないでくれよな。これはお互いの同意のもとだ」

 爪が、僕の腕を何度も何度も引っ搔いた。

「俺とサッチャンに何があったかなんて、お前に分からないだろう」

「ごく昔に振られたんだろ? その未練を、いまの地位で晴らしたのか! とんだクソ野郎!」

「セキはニュータウンの神話を考えてくれただろう? 俺たちの関係についても、同じく神話があるよ。それをどうして理解してくれない?」

「お前が言う神話は、人をレイプするためか?」

「俺を拒む機会ならいくらでもあったが? サッチャンはそういう素振りを一度も見せなかったよ」

「そりゃそうだ! サッチャンを僕らの実家に呼び寄せたのはお前で、僕を呼び寄せたのもお前だろう? そして町議会議員で、創立運動の指導者で、逆らったら何をされるかわからない恐ろしさも理解できないのか? そんな男が、こんな大仕事をこなしていいのかよ!」

「現に任されているからね。俺が真の創建者だって、セキも考えてくれているのだろう? 神話の書き手として」

「兄さん、いまここで僕は創立運動と、新たな神話の書き手を降りるよ。サッチャンを連れて実家に戻る。そして今後一切、お前たちとは関わらないよ……」

「残念だ」

 ようやく、それに至って圭也は残念そうに言った。僕はうなだれて、博丈が黙っていたのと同じくらいの時間、一切の声も出せなくなった。

「リュウちゃんと博丈にはどう言うんだよ。家族も大切にできない奴が政治をやるのかよ。こん畜生!」

「セキは、ずっと共に歩んでくれると信じていたよ」

 僕は圭也に注意を払うべきだった。ベランダの窓を破られるかたちで再会した。それは一般の常識に鑑みて到底あり得ない手段だった。心身共に自殺の手前にあった僕は気づかなかった。僕は過去や物事の神話化に努めた。一方の圭也は、かれそのものを、自己神話化する騙り手だったのだ。だからこそ、神話の書き手としての僕を求めた……。

 

 年が明けた冬の、寒くて乾燥した日の深夜、僕とサッチャンはげんき公園のクスノキげんに火を放った。僕は書き進めていたかつての神話や、取材の原稿などを何個かの束にまとめて大きな木の根元に置いた。そこにサッチャンがガソリンを撒いた。紙はすぐに油を飲み込んで、どろどろしたオリーブオイルより暗く染まった。すぐにマッチを投げ込むと、クスノキを覆い隠すほどの炎柱が一瞬、立ち上がってすぐに弱まった。火はしだいに木の上のほうへと這い、盛り土を覆う根にも広がっていく。土は雨のたびに流されているのか、昔より露出しているように思えた。ゆったりとした炎が広まるのに合わせて、僕たちは後ずさりながら盛り土を降りていった。

 熱気だけがクスノキを覆う勢いだったが、燃焼は遅々として進まない。むしろ既に積もった落ち葉や枝が盛んに燃えている。風が吹けば火の粉が飛んでいきそうなものだが、いっこうにその気配はない。

「なかなか難しいね」

 サッチャンは残念がった。クスノキげんの神話。僕が最初に神話として意味づけたもの。圭也が絶賛したもの。僕の膨大な原稿をただ燃やすのではなく、──クスノキと一緒に燃やそうよ。と提案したのだった。ほんの三メートル離れただけなのに、僕の手を握る彼女だけが、ほんとうに暖かい。

「帰ろうよ、セキちゃん」

「だね。人に見つかると困る……」

 とは言ったものの、僕たちが通報されることはなかった。

新しい公民館と図書館は次の冬に完成する目途が立った。一方で、仮展示のプレハブは撤去されている。僕が神話の書き手を降りてから神話の創造は上手くいかず、創立運動の熱も徐々に下がりつつあると聞いた。そこで僕たちは、ニュータウンの象徴となった、冬でも葉を絶やすことのない緑の木を炎上させる手段に出た。

 暗い庭を横切る。一階の、庭に面した窓のそばにあるサッチャンのベッド。そこで一緒になった。達したとき、僕に跨った彼女の蕩けた表情の奥に、じっとり燃え続ける緑の木がちょうど重なった。──大昔に見た金環日食のようだったよ。あの朝は曇りだったよね。──うん、曇り。──でも、僕は見た覚えがあるんだよ。もう閉校した学校の前の坂で、昇降口に入る前、最後に、と見上げたらさ。

 力を使い果たした僕に、サッチャンは強く言った。

「火が消えるまで起きていよう。残ったら追いガソリン」

 リビングの椅子を二つ並べる。夏に比べると寂しくなった庭が手前にある。それでも花壇に植えたキンセンカやヴィオラ、冬薔薇は変わらず美しかった。一番近くにサッチャン、その次に、僕たちが手入れする恢復途上の庭。ずっと奥にあるクスノキだけが、めらめらと燃え続ける。

 ああいった木に登ったままでは、景色を見て声に耳を澄ませることしかできない。木の葉に紛れてみえないものは数多くあるだろうし、遠くにいる者たちが、互いに話していることも聞こえやしない。

 僕は木から降りた。──大好きだよ。と初めてサッチャンに言われたのは、事件のあとこの家に戻ってすぐだった。それを尊重する選択を取った。どうであれ、僕たちはお互いに家族を失った。故郷に戻る前と、その後に。

 朝日が顔を出す。花壇に水をやる時間だ。


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