前世で読んだ少女漫画の悪役令嬢・吉祥院麗華に転生した私。破滅を避けるため「謙虚、堅実」に生きると決めた入学式の日、漫画には出てこなかった男の子を見つけてしまう。
一人だけ立ったまま微動だにしない、六歳とは思えない落ち着き。もしかして、この子も転生者……!?
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私、吉祥院麗華には、前世の記憶がある。
そしてここは、前世で大好きだった少女漫画『君は僕のdolce』、通称・君ドルの世界だ。
問題は、私の役どころである。
君ドルの吉祥院麗華は、ヒロインをいじめ抜いたあげく、最後は皇帝こと鏑木雅哉に、家ごと叩き潰される悪役令嬢なのだ。
冗談じゃない。
なので私は、破滅を避けるべく「謙虚、堅実」をモットーに、目立たず、敵を作らず、こつこつ貯金をしながら、ひっそりと生きていくことにした。
そう決意して、瑞鸞学院初等科に入学した、その日。
私は、出会ってしまったのだ。
君ドルには、出てこなかったはずの男の子に。
――――――――――
入学式は、退屈だった。
偉い方々のお話が、とにかく長い。前世の小学校の校長先生も話が長かったけれど、瑞鸞の偉い方々は、話が長いうえに品がある。品のある長話というのは、なかなか逃げ場がない。
「それでは皆さん、ご起立ください」
ようやく立てる。座りっぱなしでお尻が痛かったから、ありがたい。
壇上では、白いおひげの理事長先生が、ゆっくりと、丁寧に、とても長いお話を始めた。私は立ったまま、心の中で今日のおやつの予想をして、なんとか時間をやり過ごした。
「――ご着席ください」
やっと終わった。私は、すとんと腰を下ろした。
ところが、講堂が、ざわざわし始めた。
なんだろうと顔を上げると、新入生の席の中に、一人だけ、まだ立っている男の子がいた。
黒い髪の、色の白い男の子だった。少しうつむいて、目を伏せたまま、微動だにしない。まわりが全員座っても、保護者席がざわついても、ぴくりとも動かない。
え、何あの子。
隣の席の女の子に袖を引っぱられて、その子はようやく動いた。まず、こくん、と頭が下がった。それから、ゆっくりと腰を下ろした。
「いま、一礼なさったわ」
「壇上の理事長先生に向かって……」
保護者席から、ため息のような声がもれる。壇上を見ると、理事長先生がハンカチで目元を押さえながら、深々とおじぎを返していた。
いやいやいや。
六歳ですよ? 六歳が、入学式の最後に、壇上へ一礼? あの落ち着きっぷり、あの、まわりに何を言われても動じない感じ。
まるで、中身が大人みたいじゃないか。
……中身が、大人?
私は、はっとした。
それって、つまり、私と同じってこと?
あの子も、前世の記憶を持っている、転生者なんじゃないの!?
背中に、冷たい汗が流れた。
もしあの子が転生者で、しかも君ドルを読んでいたら。私が将来の悪役令嬢だと、知っているかもしれない。目をつけられたら、どうしよう。破滅のきっかけが、皇帝より先に、あんなところに!?
ひいいっ。
その日の帰り、車寄せで迎えの車を待っていると、少し離れたところに、例の男の子がいた。入学式で袖を引っぱっていた女の子と一緒に、車を待っているらしい。
女の子が、小さな紙の包みを渡していた。中から出てきたのは、桜の形をした、ピンク色の和菓子だった。
男の子は、それを一口かじった。
その瞬間、あの無表情が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
ふわっと、目元がやわらかくなった。たったそれだけなのに、まわりの空気まで、ぽかぽかとあたたかくなったように見えた。
……あの顔、知っている。
前世で、仕事帰りの先輩が、コンビニの新作プリンを一口食べたときの顔だ。一日の疲れが、全部とけていく顔だ。
六歳の子どもが、する顔ではない。
やっぱり、中身が大人なのでは。
……でも。
帰りの車の中で、窓の外を流れていく街並みを見ながら、私は、もうひとつのことを考えていた。
もし、本当に、あの子が転生者だったら。
前世の話が、できるかもしれない。
駄菓子屋さんの十円のガムのこと。給食の揚げパンのこと。夜中にやっていたテレビの通販番組のこと。コンビニの新作スイーツのこと。この世界の誰に話しても、絶対に通じないあれこれを、「分かる!」と言い合えるかもしれない。
生まれ変わってから、私はずっと、一人だった。
家族は大好きだ。お兄様は優しい。でも、私が本当はド庶民の元短大生だということは、誰にも言えない。言ったら、たぶん、病院に連れていかれる。
この世界で、私と同じものを見てきた人が、もう一人いるかもしれない。
怖い。けれど、ほんの少しだけ、胸がどきどきした。
……いやいや、浮かれている場合じゃない。相手は、私の破滅を知っているかもしれないのだ。気を引きしめないと。
――――――――――
しかも、同じクラスだった。
教室で、その子と目が合った。思わずちょっとだけ首をかしげてしまったけれど、向こうは、無表情のまま、じっとこっちを見ているだけだった。何を考えているのか、まったく読めない。
……ちょっと変な子なのかしら? それとも、やっぱり。
怖い。
自己紹介が始まった。さすがは瑞鸞、みんな好きなものが大きい。ポニーだの、パパのヘリコプターだの、うちのクルーザーだの。前世の私なら、好きなものは「駄菓子」一択なのに。
私は、にっこり笑って、無難に名前だけを言っておいた。謙虚、堅実。目立たないのが一番だ。
そして、例の男の子の番がきた。
「……あさぎり、なぎ」
朝霧凪くん、というらしい。朝霧といえば、確か大きな病院のグループだ。
先生に、好きなものも言うように促されて、朝霧くんは、面倒くさそうにもう一度立ち上がった。そして、たっぷり間をあけてから、ひとことだけ言った。
「……ごはん」
教室が、しんとなった。
ごはん。
ポニーとヘリコプターとクルーザーの流れで、ごはん。
私は、その意味を、必死に考えた。
……もしかして。
前世の、白いご飯のことでは?
瑞鸞の給食は、シェフが作る豪華なフレンチばかりで、ほかほかの白いご飯にお漬物、なんて質素なものは出てこない。わが家の食卓だってそうだ。前世の安舌を持つ私は、毎日、炊きたてのご飯と、たくあんと、お味噌汁が恋しくて恋しくてたまらない。
まさか、あの子も、同じなの?
前世の庶民の食卓が恋しくて、思わず「ごはん」と口にしてしまったの!?
分かる。分かるよ、その気持ち!
……いや、だめだ。共感してどうする。相手は、私の破滅を知っているかもしれない転生者なのだ。
見極めなければ。
あの子が、本当に転生者なのかどうか。
――――――――――
翌朝、朝霧くんの机の上には、お弁当が三つ並んでいた。
どうやら、昨日の「ごはん」を聞いたクラスの子たちが、「おなかがすいているのかしら」と心配して、おうちのシェフに作らせてきたらしい。瑞鸞の子どもたちは、心が優しくて、財力がある。
黒い漆塗りの重箱には、大きなエビの天ぷら。銀色のランチボックスには、耳を切り落としたサンドイッチ。紫色の風呂敷の中からは、朝霧くんの頭くらいある、まんまるのおにぎりが出てきた。
どれも、シェフの本気が見える。
朝霧くんは、その三つを、一時間目のチャイムが鳴る前に、全部食べた。
黙々と。表情ひとつ変えずに。おにぎりの中から具が四つも出てきても、眉ひとつ動かさずに。
教室中から、拍手が起きた。
次の日には、五つになっていた。
「うちのシェフのほうが、おいしいもん!」
「ちがうよ、うちのシェフはフランスでいちばんになったんだから!」
机のまわりでは、シェフ自慢の言い合いが始まっていた。瑞鸞の子どもたちは、張り合うものの規模が違う。
朝霧くんは、それも全部食べた。
私は、自分の席から、その光景をこっそり眺めていた。
前世の運動会の日、母が作ってくれたお弁当を思い出した。唐揚げと、甘い卵焼きと、ウインナーのタコさん。シェフのお弁当には、たぶん一生かなわない。でも、あれはあれで、世界で一番おいしかった。
……いけない。しんみりしている場合ではない。
あの子のお腹、いったいどうなっているのかしら。
……少し、うらやましい。
いや、違う違う。私は見極めに来ているのだ。
お弁当は、その日のうちに先生に止められた。空っぽのお弁当箱を見たおうちの人から、学校に電話があったらしい。そりゃそうだ。
――――――――――
次の手がかりは、思いがけないところからやってきた。
生活科の時間に、「しょうらいのゆめ」を一人ずつ発表することになったのだ。
これは、チャンスだ。
転生者なら、前世で何をしていたかが、将来の夢ににじみ出るはずだ。前世がお医者さんなら、お医者さん。前世が学校の先生なら、学校の先生。前世が公務員なら……いや、公務員は私の夢だった。
クラスの子たちは、元気に発表していった。
「パパのかいしゃを、つぎます!」
「おうじさまと、けっこんします!」
「うちのクルーザーの、せんちょうになります!」
クルーザーの子は、ぶれない。
私は「みんなの役に立つお仕事がしたいです」と、ふんわりとした答えでやり過ごした。本当は公務員だけれど、吉祥院家の娘が「公務員になりたいです」と言ったら、大騒ぎになる。
そして、朝霧くんの番がきた。
朝霧くんは、のろのろと立ち上がった。教室中が、しんとなる。先生も、少し身を乗り出している。大病院の跡取りと言われている子の、将来の夢だ。みんな、気になるのだ。
私も、ごくりとつばを飲んだ。
朝霧くんは、たっぷりと間をあけて、言った。
「……ねたい」
……は?
「……いっぱい、ねたい」
朝霧くんは、それだけ言って座った。
ねたい。
将来の夢が、寝たい。
六歳の子どもの将来の夢が、「いっぱい寝たい」。
そんな子ども、いる? いない。普通の六歳は、お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、電車の運転手さんとか言うものだ。
寝たい、なんて言うのは。
――前世で、寝る間もなく働いていた大人だけだ。
私の頭の中に、満員電車に揺られ、終電で帰り、栄養ドリンクを片手に机にかじりつく、くたびれた大人の姿が浮かんだ。前世の私は社会人になってすぐに記憶が途切れているけれど、会社の先輩たちが「とにかく寝たい」「休みの日は一日中寝ていたい」と言っていたのは、よく覚えている。
まさか、あの子。
前世で、働きすぎて……!?
なんてことだ。気の毒すぎる。もし本当にそうなら、今世ではゆっくり寝てほしい。いくらでも寝てほしい。
私が一人で胸をいっぱいにしていると、先生が、感動したように手をたたいた。
「まあ、朝霧くん。すてきな夢ね! 患者さんが、いっぱい安心して眠れるような病院を作りたい、ということね?」
教室中から、「すごーい」「さすがあさぎりくん」と拍手が起きた。
……絶対、違うと思う。
朝霧くんは、拍手の中で、もう半分目を閉じていた。
その日の帰り、私は車の中で、こっそりと決意した。
もし朝霧くんが、前世で働きすぎた大人なのだとしたら。せめて今世では、彼の眠りを邪魔しないようにしよう。同じ転生者のよしみとして。いや、まだ転生者と決まったわけではないけれど。
……なんだか、だんだん、怖いよりも気の毒のほうが勝ってきた。
――――――――――
こうなったら、まわりから攻めるしかない。
次の休み時間、私は、朝霧くんの隣の席の女の子に話しかけた。入学式で、朝霧くんの袖を引っぱっていた子だ。
「日向さん、ちょっとよろしいかしら」
「はい。なんでしょうか、吉祥院さん」
日向柚葉さん。背筋がぴんと伸びていて、言葉づかいがとても丁寧な子だ。六歳とは思えないくらい、落ち着いている。
「日向さんは、朝霧くんと、昔からのお知り合い?」
「はい。家がとなりです。生まれたときから、ずっといっしょです」
生まれたときから。それなら、何か知っているかもしれない。
「朝霧くんって、その……とても大人びていらっしゃるわよね。入学式のときも、壇上の理事長先生に一礼なさったりして」
「あれは、ねていました」
「…………え?」
「立ったまま、ねていました。一礼ではありません。首が、かくんとおちたのです」
日向さんは、ぴくりとも表情を変えずに言った。
「凪は、ねむいか、おなかがすいているか、どちらかです。それ以外のときは、ありません」
「……一つも?」
「ありません」
日向さんは、きっぱりと言い切った。
そんな人間、いる?
……いや、待って。生まれたときから一緒の幼なじみにまで、本当の顔を隠しているのだとしたら。それはそれで、筋金入りの転生者ということになるのでは。
「あの、日向さん。朝霧くんが、たまに、大人みたいなことを言ったりは……」
「しません」
「昔のことを思い出して、遠い目をしたりは……」
「するのは、お昼ごはんの前だけです」
日向さんはそう言うと、小さくため息をついた。六歳のため息とは、とても思えない、深いため息だった。
「吉祥院さん。凪のことで、何かお困りでしたら、わたしにおっしゃってください」
この子も、この子で、六歳とは思えない。
まさか、この子のほうが……?
と、思った瞬間、日向さんは自分のかばんから小さな紙の包みを取り出して、机に突っ伏している朝霧くんの頭の横に、そっと置いた。和菓子らしい。それから、朝霧くんの寝ぐせを、ちょいちょいと手で直してあげていた。
……ただの、世話焼きの幼なじみだった。
日向さんは、直し終わった寝ぐせを見て、満足そうに小さくうなずいていた。保護者だ。完全に、保護者だ。六歳にして、もう保護者の風格がある。
それにしても、日向さんの言うことが本当なら、朝霧くんはずっと眠いか、お腹がすいているかのどちらかということになる。
でも、私は見てしまったのだ。
次の算数の時間。朝霧くんは、教科書を立てて、その陰で、明らかに寝ていた。頭が、ゆっくりと前後に揺れていた。先生も、それに気がついたらしい。
「では、この問題を……朝霧くん」
教室中が、朝霧くんを見た。朝霧くんは、のろのろと顔を上げて、黒板を見た。
三秒ほど、黒板を見ていた。
「……じゅうに」
「せ、正解です」
朝霧くんは、また教科書の陰に戻っていった。
ちょっと待って。
今、寝てたよね? 確実に寝てたよね? 寝ていたのに、黒板を三秒見ただけで、答えが分かるの?
いや、小学一年生の算数だから、私だって分かる。前世の記憶があれば、誰だって分かる。
――前世の記憶があれば。
やっぱり、怪しい。
――――――――――
こうなったら、直接試すしかない。
私は、作戦を立てた。
転生者なら、前世の言葉に反応するはずだ。瑞鸞の子どもたちが絶対に知らない、庶民の小学校の言葉を、さりげなく聞かせてみればいい。
問題は、どの言葉にするかだ。
「給食当番」? いや、これは瑞鸞の子でも、言葉くらいは知っているかもしれない。「ソフト麺」? 地域によっては出ないと聞いたことがある。前世の出身地が違ったら、空振りだ。「冷凍ミカン」? 悪くない。でも、普通のミカンを凍らせただけだと思われたら、それまでだ。
もっと確実に、全国の小学生の心をつかんで離さない、あの給食の王様がいい。
私は、決めた。
給食の時間。食堂で、朝霧くんの近くの席になった私は、あくまで独り言のように、小さな声でつぶやいてみた。
「……揚げパン」
前世の給食の、王様である。きなこと砂糖をまぶした、あの揚げパン。瑞鸞の子は、まず知らない。
朝霧くんの肩が、ぴくりと動いた。
反応した!
朝霧くんは、ゆっくりとこっちを向いた。眠そうな、伏し目がちの目が、まっすぐに私を見た。
来る。何か、来る。
「……たべたい」
やっぱり、知ってるの!?
「……あげぱん、って、なに?」
知らないんかい。
肩から、すとんと力が抜けた。ほっとしたのと同時に、ほんの少しだけ、がっかりしている自分がいて、私はちょっとびっくりした。
「……たべもの?」
「……ええ、まあ」
「……たべたい」
知らないのに、食べたいの!?
朝霧くんは、名前しか知らない揚げパンに思いを馳せるように、遠い目をしていた。そして、そのまま、お皿の上に積み上げられた野菜の山を、黙々と食べ始めた。クラスの子たちが、嫌いなピーマンやにんじんを、次々に彼のお皿へ押しつけていたのだ。それを全部、文句ひとつ言わずに食べている。
この子は、たぶん、食べ物なら何でもいいのだ。
……いや、まだだ。まだ分からない。前世の私だって、知らない食べ物の名前を聞いたら、とりあえず「食べたい」と言ったと思う。
――――――――――
そして、運命のデザートの時間がきた。
その日のデザートは、プリンだった。とろとろの、カラメルがほろ苦い、シェフ特製のプリン。私は一口ずつ大事に食べて、あっという間に食べ終わってしまった。
「デザートのおかわりをご希望の方は、どうぞこちらへ」
給仕さんの声に、私はさりげなく、あくまで優雅に立ち上がった。食堂の壁ぎわのワゴンに、プリンが、ひとつだけ残っていたのだ。
ひとつだけ。
私は、ワゴンに近づいて、プリンの器に手を伸ばした。
そのとき、反対側から、もうひとつの手が伸びてきた。
朝霧くんだった。
私たちは、ひとつのプリンを、二人で持っていた。
「あら。朝霧くんも、プリン、お好きなの?」
「……ん」
「そう。わたしも、だいすきなの」
笑顔は崩さない。でも、指は離さない。これは譲れない。前世から、プリンは私の大好物なのだ。
朝霧くんも、指を離さない。じっと、私の目を見ている。
これは、試されているのかもしれない。
転生者同士の、無言の駆け引き。どちらが先に引くか。ここで負けたら、私は、彼に弱みを握られるのでは――。
いや、そもそも、ここで引いたら、私の大事なプリンが食べられない。それは弱みとか以前に、純粋に悲しい。
朝霧くんの目は、伏し目がちで、何を考えているのか読めない。ただ、プリンへの思いだけは、指先から、ものすごく伝わってくる。私も負けじと、指先に力をこめた。
小学一年生が二人、ワゴンの前で、ひとつのプリンを握りしめて見つめ合っている。冷静に考えると、ものすごく間抜けな絵だ。でも、今はそんなことを考えている場合ではない。
食堂中の子どもたちが、息をのんでこっちを見ていた。隣のクラスのテーブルの鏑木雅哉まで、頬杖をついたまま、ちらりとこっちを見た。やめて。皇帝の視線だけは、本当にやめて。
私は、朝霧くんの目を見つめ返した。
朝霧くんの目は、だんだん細くなっていった。
だんだん、だんだん、細くなっていった。
そして、完全に閉じた。
……ん?
すう、すう、と、小さな寝息が聞こえた。
朝霧くんの指が、プリンの器から、するりと離れた。
寝た。
この子、プリンを賭けた真剣勝負の真っ最中に、立ったまま寝た。
「あさぎりくんが、れいかさまに、ゆずった!」
「プリン、ゆずってあげたんだ!」
「おうじさまみたい……!」
食堂が、わっと沸いた。ちょっと待って。違う。これは譲られたんじゃない。この子が、寝ただけだ。
朝霧くんは、隣の席の女の子に肩を揺さぶられて、ぼんやりと目を開けた。私は、彼にだけ聞こえる小さな声で言った。
「……あなた、いま、寝てたわよね?」
「……ねてない」
「目、閉じてたわよ」
「……やすめてた」
「すうすう言ってたわよ」
そんな転生者がいるか。
大人の中身を持った人間が、プリンの前で寝るか。寝ない。前世の私なら、プリンを前にして寝るなんて、絶対にありえない。
私は、みんなのほうを振り返った。
「あの、みなさん。これは、ゆずってもらったのではなくて――」
「あさぎりくん、かっこいい!」
「おうじさまー!」
私の声は、拍手にかき消された。
……もう、いい。
「ありがとう、朝霧くん。いただくわね」
私は、にっこり笑って、プリンを受け取った。
席に戻ると、芹香ちゃんと菊乃ちゃんが、目をきらきらさせて待っていた。
「麗華様、よかったですね。朝霧くんに、ゆずってもらえて」
「朝霧くん、おやさしいですね」
「……ええ。ほんとうに」
私は、にっこり笑ってうなずいた。笑いながら、スプーンを持つ手に、ぎゅっと力が入った。
違うのよ。譲られたんじゃないのよ。あの子は寝ていたのよ。
でも、そんなことを言ったら、「せっかく譲ってもらったのに、なんてことを」と思われるに決まっている。謙虚、堅実。和を以て尊しとなす。ここは、黙って受け取るのが正解だ。
プリンは、おいしかった。とても、おいしかった。
なのに、なんで負けた気がするのかしら。
ちらりと振り返ると、朝霧くんは、自分の席で、空っぽのガラスの器をじっと見つめていた。とても、とても悲しそうな顔で。
……もしかして、本当は、ものすごく食べたかったの?
だったら、寝なければよかったのに。
私は、最後の一口を、ゆっくりと味わった。ほんの少しだけ、申し訳ない気がした。でも、返さない。これは、もう私のプリンだ。
「……やっぱり、ちょっと変な子ね」
小さくつぶやいた声は、たぶん、誰にも聞こえなかったと思う。
――――――――――
その夜、お兄様にプリンの話をした。
もちろん、寝ていた件は伏せた。「同じクラスの朝霧くんという子に、プリンを譲っていただいたの」とだけ話した。悔しいけれど、世間的にはそういうことになってしまったのだ。
「朝霧くん? ああ、朝霧さんの弟さんか」
「お兄様、ご存じなの?」
「お姉さんが、僕の同級生だよ。朝霧椿さん」
お兄様はそう言って、ほんの少しだけ、楽しそうに笑った。
「どんな方ですの?」
「そうだなあ。学院では、とてもおしとやかな人だと言われているね」
「学院では?」
「うん。学院では」
お兄様は、それ以上は何も言わずに、にこにこしていた。
……お兄様? 今の笑顔は、何ですの? 「学院では」って、どういう意味ですの?
朝霧くんの謎を解く前に、新しい謎が増えてしまった。
――――――――――
最後の確認は、プティピヴォワーヌのサロンでするつもりだった。
サロンは、お菓子が食べ放題なのだ。もし朝霧くんが、大人の中身を持った転生者なら、少しは遠慮するはずだ。前世の大人の常識というものがある。
サロンに入ると、入り口のあたりに、上級生のお姉様方の人だかりができていた。
「まあ! あなたが、椿お姉さまの弟さん?」
「目元が、椿お姉さまにそっくり……!」
人だかりの真ん中で、朝霧くんが、お菓子の乗ったお皿を次々に渡されていた。
椿お姉さま、というのは、お兄様の言っていた朝霧椿さんのことだろう。どうやら、プティピヴォワーヌでは、知らない人のいない有名なお姉様だったらしい。「おしとやかで、小鳥のように少しずつ召し上がる方だった」と、お姉様方がうっとりと話していた。
あのお兄様が、少し楽しそうに笑うほどのお姉様。いったい、どんな方なのかしら。
お皿をお菓子でいっぱいにしてもらった朝霧くんは、ぺこりと頭を下げると、窓際の隅のソファに座った。
ケーキを食べていた。
マカロンを食べていた。
クッキーと、シュークリームと、タルトと、ゼリーを食べていた。
隣に座った女の子が、紅茶を飲みながら、静かに「それで、十個目です」と数えていた。
遠慮のかけらもない。
あの子、来てからずっと食べてるわね……。
ちなみに、部屋のまんなかの特等席では、鏑木雅哉が、チョコレートをつまみながら、退屈そうに窓の外を眺めていた。うっかり目が合ってしまったので、私は「あら、教室に用事を思い出しましたわ」という顔で、さりげなくサロンを後にした。皇帝の観察は、命がけなのだ。
翌日、サロンで、上級生のお姉様から、こんな話を聞いた。
「昨日、朝霧様がケーキのお皿を持ったまま、ソファでお休みになっていらしたの。それがあまりにお可愛らしくて、みんなで『朝霧様を見守る会』を作りましたのよ」
また寝てたのか。
ケーキを持ったまま、寝てたのか。
しかも、会ができている。見守る会。いったい何を見守るのだろう。寝顔だろうか。食べっぷりだろうか。瑞鸞のお嬢様方の考えることは、ときどき、私の想像を軽々と飛び越えていく。
「麗華さんも、よろしければ入会なさらない?」
「い、いえ。私は、遠くから応援しておりますわ」
謙虚、堅実。余計な会には入らない。
私は、心の中で、そっと結論を出した。
あの子は、転生者ではない。
前世の記憶も、大人の中身も、たぶん、ない。
あるのは、食欲と、睡眠欲だけだ。
「……ただの、変な子だわ」
私は、ため息をついた。
まったく、人騒がせな。入学式の日からずっと、無駄にびくびくしてしまったじゃないか。
でも、まあ。
あの子が転生者でないのなら、私の破滅を知っている人は、やっぱりこの世界に、私一人だけということだ。
揚げパンの話ができる相手も、十円のガムの話ができる相手も、この世界には、いない。
それは、少しだけ心細くて、少しだけ、ほっとすることだった。
まあ、いいか。前世の話はできなくても、プリンを取り合う相手くらいは、いるみたいだし。
次こそは、ちゃんと勝ってみせる。起きている朝霧くんに。
ふと、サロンの窓際を見る。
今日も朝霧くんは、隅のソファで、黙々とマカロンを食べていた。窓から差しこむ光の中で、伏し目がちに、静かにお菓子を口に運ぶ姿は、まるで一枚の絵のようだった。上級生のお姉様方が、少し離れたところから、うっとりと見守っている。
……見た目だけなら、孤高の王子様ってところかしら。
中身は、プリンの前で寝る子なのだけれど。