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21区にある中指が所有するビルの1つ。この建物に室内禁煙の文字はない。だが、此処を取り仕切る末兄様が良い顔をしないので、吸いたい時は屋上に上がるのが暗黙の了解だ。それは末兄様がヘアクーポン泥棒を追いかけて東部に出かけていて、帰られるまでの間留守を任されている今も変わらない。
昼下がり、コツ コツ と靴がコンクリートの階段を踏む音に混じってジャラジャラと身体に巻き付けた鎖が囁く。
薄暗い階段を上り終え、扉がギィと軋みながら開けば、差し込むまばゆい光に思わず目を細める。
ようやく目が慣れると数時間ぶりの外気と開放感に身体が少し軽くなるのを感じながら柵にもたれかかり、胸ポケットから煙草の箱を取り出して、トン と叩いて飛び出した1本を口で咥え・・・
「・・・?」
そうしていざ火を付けようとしたが、ライターがない。確か尻のポケットに入れていたはずだが・・・
思わず胸ポケットやらズボンの前ポケットやら、果てはポケットのない箇所までまさぐって見たが、やはり見つからない。
さては何処かに置き忘れたか。そういえばソファーに座った時になんとなく邪魔で取り出したような気がする。
仕方がないから1度取りに帰るか。また階段を往復しなければならないのが少し億劫だったが、火がない以上はどうしようもない。
「はい、火」
どうしても男所帯になりがちな中指には珍しい女性の少し高くて柔らかな声と共に、隣からスッとライターが差し出され、キンッという甲高い音と共に咥えていた煙草に火が付けられる。
「おお、ありがとな」
軽く礼を言ってから火の付いた煙草を吸う。胸の中に煙の匂いを充満させて、煙を吐き出す。その時になって初めて、俺に火をくれたのは誰だろうと疑問が頭をもたげた。
差し出されたライターは普段俺や同じ立場の兄弟達が使っているような安物ではなく、いかにも高そうなオイルライター。よくよく思い出せばわざわざ側面に中指のエンブレムが彫られていた。どう考えてもレディメイドではなくオーダーメイド・・・
差し出した腕は細身ながらもビッシリと刺青が刻まれており、下手すれば腕1本で俺の全身より多い刺青が刻まれているのではないだろうか。
そこまで思い出した辺りで全身から血の気が引いていくのを感じた。もしかしたら俺は、とんでもないやらかしをしでかしたのではないかと。
いや、まさか、そんなわけがない。此処にその人が居るはずがないのだ。
ギリギリギリギリ、と油の切れたブリキ人形の如くゆっくり首を横に向けると、
「良い吸いっぷりだねぇ。そんなにいいの?ソレ」
小柄な体躯ではありながら雄ライオンの鬣もかくやとばかりな大きさのファーが付いた紫のコートを肩に掛け、胸に巻いたサラシと夥しい量の刺青と鎖、百科辞典よりも大きくて重そうな仕返し帳簿を腰にぶら下げた・・・
同じ南部ではあるが、別の区に居るはずの、中指の大幹部、長姉様がケタケタと笑いながらこちらを見ていた。
「ングッ!?ゴホッゴホッ・・・ンムッ、ゲホゴホッ!!」
「おー大丈夫かー?」
むせた。まさかと思っていた人物の登場に、そしてその人に盛大に無礼を働いてしまった事実に。
その際に咥えていた煙草を落としそうになり、慌てて咥え直したものの煙を深く吸い込んでしまい、再びむせる羽目になった。
「ち、長姉様・・・!?申し訳ございません。俺は・・・」
「あーいいって。同じ家族なんだから。あんまり畏まんなよ」
本来なら額を地面に擦りつけても到底足りないような大失態だったが、長姉様は手をヒラヒラと振って許してくださった。
つくづく、中指でよかったと思う。もし親指であれば、最低でも舌を引きちぎられていただろう。
「ええと、長姉様は何故こちらに?末兄様でしたら・・・」
「東部に出掛けてんだろー?今さっき知ったよ」
なるほど、やはり末兄様に用事があったのか。で、行き違いになったと。
「もし俺でよければ代わりに伺いますが」
「いや、そーいうのじゃなくてさ。ホラ、リカルドのヤツ、藍色のジジイに腕引きちぎられたんだろ?だから見舞いに来てやったんだけどさ」
「・・・ソレ、結構前の事でもうとっくに治ってますが・・・」
「仕方ないだろー!?こっちもイロイロやってて中々時間取れなかったんだって!」
子どものように頬を膨らませて反論してくる姿は、とても中指の大幹部には見えなかった。
この感じだとアポも取っていなかったのだろう。さすがにアポがあるなら末兄様も東部に行くのを中止していたはずだ。
「で、あいつ今ヘアクーポン泥棒追っかけてるんだっけ」
「はい、そのはずです」
「あいつは髪の手入れに命懸けてるってのに。クーポン盗むだなんてさ。ひっどい事する奴もいたもんだよねぇ」
「まったくです」
本当に酷い話である。U社の最高級港船、ダイオウエイ港船にあるプライベートヘアサロン「サロン・ド・モワルー」に10回行くと貰えるスペシャルヘアクーポン。末兄様が大切に保管していたソレが、ある日無残にも奪われてしまったのだ。
あの日の筆舌に尽くしがたい怒りと悲しみに震える末兄様の様子は昨日の事のように思い出せる。
「ま、東部に居ることが分かってるなら捕まるのも時間の問題だろー。あいつもそろそろ義理巡礼とか考えなきゃだろうし?」
「・・・だと思ったんですけどね」
「ん?」
「これを。今朝帳簿を確認してたら追加されてたやつです」
「どれどれ?・・・掃除屋の相手をさせられて建物に撥ねられた・・・?え、何コレ」
「俺も、何故こうなったのかは・・・」
「H社だと建物が移動するって話は聞いたことあるけど・・・」
「第一何故掃除屋と・・?」
二人して首を傾げる。末兄様がうっかり裏路地の夜に屋外に居たとは考えにくいが・・・
「ま、まぁ、こうやって帳簿に書き込む元気があるなら大丈夫でしょ。・・・多分」
「そ、そうですよね」
ひとまずこの件についてはこれ以上考えないようにしよう。二人の間で共通認識が固まった。
「・・・」
「・・・」
しばし無言の時間。長姉様は帳簿をパラパラとめくっているが、読んでいるというよりは手慰みのようだ。俺も無言で煙草の煙を吐き出す。
1人でいる時は沈黙も悪くないが、誰かといる時は気まずさが勝つ。しかも相手は長姉様である。何か話しかけた方がいいのか?それとも・・・
幸いにも、そう考えていたのは俺だけではないようだ。
「なぁ、それ、美味いのか?」
長姉様が、俺が咥えている煙草を指差す。
「よく煙草が美味いだのなんだの聞くけどさ、アタシは吸わないからよくわかんなくって」
「・・・吸わないんですか?あんなに立派なライター持ってるのに?」
意外だった。てっきり長姉様も吸う人だと思ってたから。
「うん、アタシは吸わないけどさ」
長姉様はそこで一度言葉を切り
「ターニャの姉貴は吸う人だったから」
ターニャの姉貴・・・聞いた事があった。俺が中指に入る前、そんな名前の長姉様が居たと。黒い沈黙が南部の中指を半壊させ、兄貴姉貴達を殺しまくったあの事件から姿を消したそうだ。
最終的に狼のようなアタマになって青い残響と一緒に図書館に入っていくのを目撃されたが、その後図書館から出てきたという報告はない。
当然、中指に背を向けたのだから、帳簿に名前が刻まれている。近頃、図書館に喰われた人々が復活しているという噂を聞くが、もしかしたらターニャの姉貴も何処かで復活してるかもしれない、と末兄様が言っていた。
「仲良かったんですか?」
「まーアタシが末妹だった頃から世話になってたからな。ライターずっと持ち歩くのはその時からの癖だな。持ってないと妙に落ち着かないっていうか」
その言葉を聞いた時、俺の脳内にもう会うことのない人の姿がよぎった
「・・・」
「?どした?」
「いえ、その・・・仲の良かった兄弟姉妹を追わなきゃいけないって、辛くないですか」
「んー?あーそうか。此処にゃクィークェグが居たんだったな。もうすぐ末姉になるかってとこで律儀に中指に脱退宣言かまして逃げたんだったか。馬鹿だよな」
「はい」
「辛いよな」
「はい」
「家族を捨てて、残された家族に辛い思いをさせたんだから・・・死んで償って貰わないとな」
「・・・はい」
そうだ、クィークェグの姉貴は俺達を捨てた。硬く結ばれたはずの義理の鎖を勝手に解いて逃げてしまったんだ。何か事情があったのかもしれない。きっとターニャって人もそうだったのかもしれない。だけど、それは中指の義理を忘れていい理由には、家族を捨てていい理由にはならないはずだ。
「なぁ、ソレ、アタシにも分けてくれよ」
「どうぞ」
煙草の箱を再び取り出し、1本渡す。長姉様は受け取って口に咥えてから自分のライターを取り出そうとして、
「ん」
自分の咥えている煙草と俺が咥えている煙草を交互に指差した。
・・・火をよこせ、と言っているのだろう。長姉様は俺の返事を待たずして咥えた2本の煙草の先端を押し付ける。
二筋の紫煙が立ち上る。煙草は吸わないと言っていた割に、柵にもたれかかりながら煙草を楽しむ長姉様の姿は中々堂に入っているように見えた。
「じゃあ、アタシは帰るから。リカルドの野郎が帰ってきたらよろしく言っておいて」
「はい、お気をつけて」
「それと、何か気に食わない事があったらキッチリ帳簿に書きなよ?アンタの怨みは中指の怨み。中指が、アタシが、キッチリお返ししてやるから」
「・・・はい」
まだ火がついたままの1本を指に挟んだままヒラヒラと手を振って歩いて行く長姉様を見ながら、ひょっとして玄関先までお見送りするべきだっただろうかと思いつつも、まぁ、長姉様なら多少の無礼は許してくださるだろうと、もう少しだけこの1本を楽しむ事にした。