資料を渡してAIに短編小説を描いてもらう。

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知る人ぞ知る

 

 中村公使を、私は玄関まで送らなかった。

 

 熱が少しあった。廊下は冷えていた。私は居間の座布団から「ご苦労でした」とだけ言った。公使は畳に手をついたまま、もう一度顔を上げた。健康を理由に入所の延期を願い出るおつもりは、本当にないのですね。来たときと同じことを、来たときより低い声で訊いた。

 

 ありません、と私は答えた。

 

 障子の向こうで冬の日が終わりかけていた。公使の靴音が石畳を遠ざかり、門の閉まる音が一つした。それで、明日という日が動かなくなった。十二月十六日、巣鴨。

 

 十日前、軽井沢で自分の名が指令に載ったと聞いたとき、私は驚かなかった。富田も、高村も、訪ねてきた記者も、私の顔を見ていた。眉一つ動かさずにいれば、人は勝手にそこに覚悟を読む。

 

 火鉢の炭を火箸で寄せた。灰の下にまだ赤いものが残っていた。

 

 この家に戻ったのは昨日の夕方である。世田谷の長尾の家で幾晩か過ごした。あの家の客間は暖かすぎて、夜中に何度も目が覚めた。

 

 四年前の十月十二日、この家の応接間に、陸海外の三大臣と企画院総裁が集まった。日曜日で、私の五十回目の誕生日だった。卓の上には誰も手をつけない茶があった。私は「自分は交渉継続ということに決する」と言った。東条は腕を組んで、これは性格の相違ですなあ、と言った。性格。あの男は私をそういう言葉で片づけた。その四日後に私は内閣を投げ出した。

 

 私は止めようとしたのだ。生命のことは考えない、と伊沢翁にも言った。

 

 

 

 九時を過ぎたころ、後藤と山本が居間に来た。

 

 後藤隆之助とも山本有三とも、学生のころからの付き合いである。二人ともあのころより肩が落ちて、声だけは昔のままだった。

 

 医者が東大病院に入院させる診断書を書くと言っている、と私は話した。入院はしない。二人はうなずいた。私の話が終わると、山本がしばらく黙ってから、

「公爵は、最悪の場合のことを考えているのではないですか」

と訊いた。

 

 小説家らしい訊き方だと思った。

 

「イ、エ」

 

 私は首を少し横に振った。声が二つに割れたのが自分でも分かった。山本はそれ以上何も言わなかった。言わないでいてくれることに、私は感謝した。感謝しながら、この男はいつかこの夜のことを書くだろうと思った。書かれるなら、首を横に振ったところまでがいい。

 

「裁判は拒否するつもりだ」

 

 そう言ったのは私の方だった。低い声で、しかしはっきりと言った。

 

 後藤が膝を進めた。法廷に出て、ペタン元帥のように所信を堂々と述べればいい。東条のような不様なことにだけはなってくれるな。そういう意味のことを、後藤は昔の口調で言った。

 

 私は答えなかった。

 

 通訳を挟んで、日本語を知らない判事たちの前に座る自分を思った。国民政府を対手とせずと声明したのは誰かと問われる。あの連絡会議で、私は終始黙っていた。

 

 後藤の手が、膝の上で固く握られていた。昭和研究会をつくり、学者を集め、新体制の原稿を書かせたのは、この手である。私はその手から目をそらし、火鉢の灰を見た。

 

 

 

 応接間に移ってウイスキーを注いでもらった。ほかの人たちの話が続いた。新しい憲法のこと、選挙のこと、総司令部の誰それのこと。私は黙って聞いていた。グラスの底の琥珀色が、電灯の下でゆっくり揺れた。

 

 十月の初め、私はマッカーサーに会った。帰りの車の中で、今日はえらいことを言われたね、と奥村に言った。コスモポリタンで、まだ若い、敢然と指導の陣頭に立たれよ。あの将軍はそう言った。五十四の男をつかまえて、若いと言った。私はその言葉を、半月ほどのあいだ本気にした。そのあいだに総司令部は、私とは何の関係もないと声明を出していた。

 

 話が違うね。あの日、将軍の代わりに参謀長が会うと告げられたとき、私はそう言ったのだった。話はいつも違っていた。陸軍とも、松岡とも、ワシントンとも、マッカーサーとも。違うと気づくのはいつも私が最後で、気づいたときにはもう、違う話の方が本当になっていた。

 

 誰かが私の名を呼んで、何か訊いた。私は少し笑って、グラスを置いた。

 

 ウイスキーは少しも酔わせてくれなかった。

 

 

 

 十一時ごろ居間に戻ると、通隆がついてきた。

 

 次男は二十三になる。兄の文隆が満洲でソ連の手に落ちてから、この家の長男の役を、頼まれもしないのに黙って引き受けている。

 

「今夜は一緒に寝ましょうか」

 

 通隆はそう言った。何気ない調子だった。何気なく聞こえるように、廊下で何度か言い直してきたのだろう。

 

「ひとがいると眠られないから、いつものように独りで寝(やす)ませてくれ」

 

 本当のことだった。私は昔から、人の気配があると眠れない。息子の顔を見て、私はすぐに付け足した。

 

「しかし、少し話していったらどうか」

 

 通隆は床の脇に座った。

 

 何を話そうかと考えた。お前が生まれた年の五月はどんなだったか。お前を抱いたとき、私は何を考えたか。けれど口から出てきたのは、日本はいずれ共産化するおそれがある、ということだった。そうなれば国体の護持はいよいよ難しくなる。この家に生まれた者は、そのためにあくまで力を尽くさねばならない。

 

 話しながら、私は自分の声を聞いていた。二月に陛下の前で上奏文を読み上げたときと、同じ声だった。

 

 息子は神妙に聞いていた。聞いている顔の奥で、別のことを待っているのが分かった。私はその別のことを、とうとう言わなかった。

 

 

 

「僕の心境を書こうか」

 

 話が途切れたところで、私はそう言った。通隆が鉛筆と、手近の長い紙を持ってきた。

 

「もっといい紙はないか」

 

 息子は立って、近衛家の用箋を持ってきてくれた。私は床に入ったまま、硯箱の蓋を胸の上に置き、それを下敷きにして鉛筆を握った。墨を摺れば、字はきちんとした顔になる。今夜の字にはそれが要らない気がした。

 

 書き出しはすぐに決まった。

 

 僕は、支那事変からこのかた、政治の上で多くの過ちを犯した。

 

 書いてから、鉛筆を止めた。

 

 僕、と書いていた。上奏文なら臣と書く。手記なら余と書き、清談録では私と書いた。その場その場に合わせて、私は一人称を着替えてきた。着替えるたびに、その下の体は見えなくなった。僕というのは、学生のころ後藤や山本と夜更けまで話したときの、いちばん薄い着物である。その薄い着物で、私は初めて、過ちという字を自分の上に置いた。

 

 そのことに深く責任を感じているが、

 

 が、と書いた。

 

 その一字のところで、鉛筆の先がかすかに紙を掻いた。その先は、手の方が知っていた。

 

 いわゆる戦争犯罪人として、アメリカの法廷で裁かれることには、耐えられない。とりわけ僕は、支那事変に責任を感じていればこそ、この事変を解決することを最大の使命とした。そして、解決のただ一つの道はアメリカとの了解にあると結論し、日米の交渉に全力を尽くしたのである。

 

 書くほどに、字がなめらかになった。

 

 そのアメリカから、いま犯罪人として名指しされるのは、まことに残念に思う。しかし、僕の志は、知る人ぞ知る。

 

 知る人ぞ知る。私は鉛筆を握ったまま、その六字をしばらく眺めた。後藤か。山本か。陛下か。それとも、この息子か。

 

 僕は、アメリカにさえ、いくらかの理解者がいることを確信している。

 

 確信、と書いた。

 

 戦争にともなう昂奮と激情、勝った者の行き過ぎた驕り、負けた者の度を越した卑屈、故意の中傷、誤解から生まれた流言、そうしたいっさいのいわゆる世論も、いつかは冷静を取り戻し、正常に返る時が来るだろう。その時はじめて、神の法廷で正しい判決が下されるだろう。

 

 神の法廷、と書いた。そこには通訳もいない。

 

 鉛筆を置いた。

 

「字句も熟していないから、君だけで持っていてくれ」

 

 通隆は用箋を受け取り、膝の上で一度だけ目を落とした。それから折りたたんで懐に入れた。何も言わなかった。この子は、言わないことの重さを、どこで覚えたのだろう。

 

 

 

 午前二時を過ぎて、通隆は立ち上がった。

 

「用があったら呼んで下さい。隣室に寝(やす)んでおりますから」

 

 襖が閉まった。隣の部屋で、布団を広げる音がした。それから静かになった。

 

 独りになると、家が急に大きくなった。廊下の奥で柱が鳴った。霜が降りているのだろう。軽井沢を発った晩も霜が降りていた。初冬の月が高原を照らし、車は谷へ下った。あの晩私は、戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だと罵られ、戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ、と記者に言った。言いながら、いい台詞だと思った。

 

 正月に熱海で、加瀬から借りたワイルドを読んだ。獄中のワイルドが書いた長い手紙である。世間は自分をあまりに個人的だと批評したが、自分の破滅は個人主義が過ぎたからではなく、足りなかったから起きたのだ。そういうくだりに、私は鉛筆で線を引いた。京都の学生だったころ、私はワイルドの社会主義論を訳した。辞書を引きながら、下宿の窓が白むまで机に向かった。

 

 

 

 火鉢の火は、ほとんど消えていた。

 

 父の死んだ朝のことを思い出した。明治三十七年の元日。父は椅子に腰掛けていた。八時ごろ、私と秀麿が病床へ見舞いに行った。私たちが入っていくと、父の容体は急に変わった。

 

 あれは偶然だった。医者もそう言ったし、大人たちもそう言った。けれど十二の子供には、自分たちが部屋に入った途端に父が崩れた、ということだけが残った。私が前へ出ると、何かが壊れる。その考えを、私は誰にも言わなかった。言わないまま、大人になった。

 

 父が死ぬと、家はまるで火が消えたようになった。出入りしていた人たちは来なくなり、借金だけが残った。

 

 数日前、長尾の家で秀麿に会った。九年ぶりだった。私は何も言わなかった。夕食のあと、皆が色紙を持ってきたので、次々に字を書いた。人が帰り、二人だけになったとき、私は弟に言った。やっぱり、お前はいいことをしたよ。今になってみると、お前が羨しいよ。よかった。よかった。

 

 秀麿は家を出て、音楽の方へ行った。あの晩、弟は何も訊かず、冷めかけた私の湯呑みに、黙って茶を注ぎ足した。

 

 

 

 枕元に、小さなものを置いてある。

 

 昼のうちに、手の届くところに移しておいた。小さくて、軽い。

 

 これは、決断だろうか。生まれてはじめて、誰にも担がれずに、自分の手で選ぶことである。

 

 それとも。

 

 分からないまま、私は枕元へ手を伸ばした。

 

 隣の部屋で、通隆が寝返りを打つ音がした。

 

 呼べば、来るだろう。用があったら呼んで下さい、と言った声が、まだ襖のこちら側に残っている。

 

 私は呼ばなかった。

 

 外はまだ暗い。障子の桟の一本一本が、かすかに白く浮き始めている。霜だろうか。それとも、私の目がもう、ものの輪郭を確かめようとしなくなったのだろうか。

 

 知る人ぞ知る、と私は胸のうちで言ってみた。言い終わる前に、その言葉が誰に宛てたものなのか、分からなくなった。

 







## 覚え書き(史実と創作の境)

出典の略号:岡=岡義武『近衛文麿』、手記集=『最後の御前会議/戦後欧米見聞録』、清談録=『清談録』。頁は各書き起こしの「本」の頁。

### 遺文の原文
作中では現代語に訳して示した。原文は次のとおり(岡 233)。「しかし、僕の志は知る人ぞ知る。」から後は、総司令部が削除を命じた部分である(岡 234)。

> 僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。

### 史料にあることを、そのまま、または言い換えて使ったところ
- **15日夕刻**:中村豊一公使に、健康を理由に入所の延期は求めないと伝えた(岡 231)。
- **14日夕に荻外荘へ移った**(岡 231)。その前は長尾欽弥邸にいた(岡 228)。
- **15日夜9時すぎの居間の場面**(岡 232)
- 後藤隆之助と山本有三が同席した。
- 入院させる診断書の話が出たが、入院はしないと言った。
- 「裁判を拒否するつもりだ」と言った。
- 山本が「最悪の場合」を問い、近衛は「イ、エ」と答えた。
- 後藤がペタンと東条を引いて法廷に出るよう説き、近衛は無言だった。
- **応接間**:ウイスキーを飲みながら、黙って人々の話を聞いた(岡 232)。
- **通隆との場面**(岡 232–234)
- 近衛の言葉:「ひとがいると眠られないから、いつものように独りで寝ませてくれ。しかし、少し話していったらどうか」
- 共産化と国体護持の話をした。
- 遺文を書いた:「僕の心境を書こうか」、鉛筆と手近の長い紙を渡されて「もっといい紙はないか」、近衛家の用箋に、床の中で硯箱の蓋を下敷きにして鉛筆で書き、「字句も熟していないから、君だけで持っていてくれ」と渡した。
- 通隆の言葉:「用があったら呼んで下さい。隣室に寝んでおりますから」。午前2時すぎに退いた。
- **12月6日の逮捕指令**:軽井沢で知り、「別段驚いた様子もみせなかった」(岡 227)。
- **軽井沢で記者に語った言葉**(岡 228):「僕は運命の子だ」。
- **荻窪会談**(手記集 086–091):1941年10月12日、五十回目の誕生日、日曜日に開いた。「自分は交渉継続ということに決する」と言い、東条は「これは性格の相違ですなあ」と言った。
- **伊沢多喜男に**「生命のことは考えない」(岡 169)。
- **「国民政府を対手とせず」**の連絡会議で、近衛は終始沈黙した(岡 082)。
- **マッカーサー会見**(岡 215–222):「話が違うね」「コスモポリタン」「未だ若い」、帰りの車で通訳の奥村に「今日は、えらいことを言はれたね」と言った。総司令部はのちに近衛との関係を否定する声明を出した。
- **上奏文**(手記集 182–184):1945年2月、共産革命への恐れを天皇に述べた。
- **ワイルド**(岡 8、238):京大時代に社会主義論を訳した。1945年正月に熱海で加瀬俊一から『深き淵より』を借りて読み、傍線を引いた。傍線の箇所は地の文で言い換えた。
- **父篤麿の死**(清談録 本 027、本 006):明治37年元日、八時ごろ秀麿と見舞いに行くと容体が急変した。父の死後は「まるで火が消えた様に」なった。
- **秀麿との再会**(岡 230):9年ぶりに会い、色紙に揮毫した。「やっぱり、お前はいいことをしたよ」「今になってみると、お前が羨しいよ。よかった。よかった」。

### 創作したところ
- 近衛の内面の語りはすべて創作。とくに、山本が「この夜のことを書くだろう」と思う所、記者への言葉を「いい台詞だと思った」所は、人目を気にする面として意図して残した。「話はいつも違っていた」の振り返りと、一人称の「着替え」も創作。
- **「寝ませて」「寝んで」**:岡の表記のまま。「寝む」は「やすむ」と読む。
- **「前へ出ると何かが壊れる」という考え**:父の臨終の記憶から生まれたとするのは創作。史料にあるのは容体急変の事実だけである。本の「神聖なる欠点」と「傷の起源」に当てはめた設定。
- **細部**
- 中村公使を玄関まで送らなかったこと、「ご苦労でした」、熱が少しあること。
- 長尾邸の客間が暖かすぎたこと、後藤の握った手、応接間で名を呼ばれて笑ったこと、京都の下宿、秀麿が茶を注ぎ足したこと。
- 火鉢、霜、障子、柱の鳴る音などの描写。
- 通隆が廊下で言い直してきたという推測。
- 遺文を受け取った後の通隆の仕草。
- **通隆の言葉**:「今夜は一緒に寝ましょうか」は、岡の地の文(一緒に寝ようかと言った)を台詞にした。
- **後藤・山本との付き合い**:「学生のころから」とした。三冊では確かめていない。
- **文隆**:「満洲でソ連の手に落ちて」とした(三冊にない[補足]知識)。
- **枕元の毒**:「小さなもの」の置き方と、昼のうちに移したことは創作。岡は「青酸加里による自殺」とのみ記す(岡 234)。
- **服毒の場面**:直接は描かず、手を伸ばすところで止めた。発見は16日明け方(岡 234)。

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