一
富田が客間に入ってきたとき、近衛は奥の椅子に深く掛けて、庭を見ていた。
障子は開け放してあった。秋晴れの日曜で、傾きはじめた日が縁側を越え、卓の端まで届いていた。卓のまわりに椅子が五つある。茶はまだ出ていない。
「海軍省の岡局長から、いま伝言がありました」
「うん」
近衛は長い足を組んだまま、顔だけをこちらへ向けた。
「そのまま申し上げます」
富田は手帳を開いた。読み上げる声は、ふだんより少し低かった。
「海軍は交渉の破裂を欲しない。すなわち戦争をできるだけ回避したい。しかし海軍としては表面に出してこれを言うことはできない。今日の会議においては海軍大臣から『和戦の決は首相に一任する』ということを述べるはずになっておるから、そのお含みで願いたい」
富田は手帳から目を上げた。
「以上です」
近衛はしばらく黙っていた。それから、富田の読んだ言葉をひと続きだけなぞった。
「表面に出して、言うことはできない」
「ゆうべ私が海軍大臣にお目にかかった折も、同じでした」
富田は前の晩、及川の私邸を訪ねていた。及川は言ったという。軍として、戦争ができるとか、できないとかいうことはできない。戦争をするか否かは政府の決めることで、開戦と決まれば、いかに不利でも戦うのが軍の建前である。だから明日は首相の決定に委す。首相は、交渉続行と裁定してほしい。
「裁定、か」
「はい」
近衛は少し笑った。
「それなら、僕は決めるだけでいいわけだ」
「閣下が、お決めになるのです」
「同じことじゃないか」
富田は答えなかった。手帳を閉じ、上着の内へ戻した。
「陸軍からは、何も言ってきておりません」
「言ってくる必要がないのさ。陸軍には、九月六日がある」
九月六日の御前会議は、十月上旬頃に至ってもなお要求を貫徹し得る目途がなければ、ただちに開戦を決意する、と定めていた。近衛はその席に首相として列していた。
「十月上旬、と」
「今日は十二日だ」
近衛はまた庭の方を向いた。
「いい天気だね」
富田は少しためらってから言った。
「それから……本日は、おめでとうございます」
「ああ」
五十になる日だった。
「夜は、お身内だけでささやかに、と伺っております」
「客が帰ってからだな」近衛は言った。「君は隣にいてくれ。今日は、僕と四人だけでやる」
女中が襖の外に膝をついて、鈴木の来着を告げた。約束の時刻には、まだ間があった。
「早いね。お通しして」
富田は一礼して、隣の間へ下がった。
鈴木は背広で入ってきた。陸軍の出だが、いまは企画院の総裁である。近衛は掛けたまま迎えた。
「閣下。少し早く着きすぎました」
「君はいつもそうだ。掛けたまえ」
鈴木は掛けなかった。
「本日は、お誕生日だそうで」
「誰から聞いた」
「新聞記者が、門の前で話しておりました」
「門の前に記者がいるのかい」
「三人ほど。日曜に陸海外の三相がそろって荻窪へ、というので」
近衛は笑った。
「じゃあ、帰りに顔を見られるわけだ。笑って出てくるか、黙って出てくるか」
やがて女中が、豊田と及川を案内してきた。近衛は立って迎えた。豊田は背広、及川は海軍の軍服だった。
「お邪魔いたします」
「お招きにあずかりまして」
「日曜にすみません」
「門の前で聞きました」及川が言った。「おめでとうございます。五十にして天命を知る、ですな」
「知っていれば、日曜に皆さんを呼び立てたりはしませんよ」
小さな笑いが起きて、すぐにやんだ。
東条は最後に来た。軍服の胸を張り、眼鏡の奥の目を近衛に据えて、正しく一礼した。
「遅くなりました」
「いや、時間どおりです」
「本日は、おめでとうございます」
「ありがとう」
「では」
東条は近衛の向かいの椅子の後ろに立ち、そのまま動かなかった。主人が掛けるのを待っているのだと、近衛は少し遅れて気づいた。近衛が掛けると、皆が掛けた。東条は椅子の背に背をつけなかった。
女中が茶を配って、下がった。
二
柱時計が二時を打った。
「さて」
近衛は四人の顔を順に見た。
「日曜にこうして来てもらったのは、ほかでもない。日米の交渉を、続けるか、やめるか。今日、ここで話をつけたい」
及川は湯呑みを両手で包んでいた。口はつけていない。その手もとから顔を上げた。
「海軍から、申し上げてよろしいか」
「どうぞ」
「今や和戦いずれかに決すべきかの関頭に来た。その決定は総理に一任したい」
豊田がわずかに目を上げた。及川は湯呑みを見たまま続けた。
「で、和でゆくならば、どこまでも和でゆく。すなわち、多少の譲歩はしても交渉をあくまでも成立せしめるという建前で進むべきである。交渉半ばにして、交渉を二、三ヶ月してから、どうもこれじゃあいかんというので、さあこれから戦争だ、と言われては海軍としては困る。戦争をやると決すれば、今ここできめなければならん。今がその時機だ。最後の時機に来ている。やらないということであれば、あくまで交渉を成り立たせるという建前の下で進んでもらいたい」
言い終えると、及川は湯呑みを卓に置かず、また膝の上で包み直した。
皆が近衛を見ていた。
富田の手帳の声が、まだ耳の奥に残っていた。そのお含みで願いたい。
近衛は組んでいた足を解き、両の足を床に揃えた。
「今日ここでいずれかに決すべしというならば、自分は、交渉継続ということに決する」
自分の声が、思ったより大きく聞こえた。
鈴木が息をついた。豊田が茶に手を伸ばしかけて、やめた。
「その総理の結論は早すぎる」
東条だった。
「早すぎる」
近衛はその言葉を、口の中で一度転がしてから返した。
「わが国は、これまで譲歩に譲歩を重ねてまいりました」東条は言った。声は高くならなかった。「しかるにアメリカは、少しも歩み寄らない。十月二日の回答が、それを示しております。九月六日の御前会議では、十月上旬頃に至るも、なお我が要求を貫徹し得る目途なき場合は、ただちに開戦を決意す、と決まっております。一体、交渉成立の見込みのない交渉を継続して、ついに時機を逸するということになっては一大事である」
そこで東条は、体ごと豊田の方へ向き直った。
「一体、外務大臣は、交渉成立の見込みありやと考えるかどうか」
「それは条件次第である」
「条件」
「今日の問題の最難点は、結局支那の駐兵問題だと思う」豊田の口調は乾いていた。外相になる前は、この人も海軍の大将だった。「これについて陸軍が従来の主張を一寸も譲らないということならば、交渉の見込みはない。しかし、その時において多少なりとも譲歩しても差し支えないということであれば、交渉成立の見込みは絶対にないとは言えない」
「駐兵問題だけは陸軍の生命であって、絶対に譲れない」
豊田は黙った。
「支那への駐兵は、支那事変の締めくくりです」東条は続けた。「日華基本条約にもとづいて行われねばならない。そして駐兵は、永久駐兵でなければならない」
「陸軍大臣」
近衛が呼んだ。
「はい」
「この際は、名を捨てて実を採り、形式はアメリカの言うようにして、実質において駐兵と同じ結果を得ればよいではないか」
「形式、と仰る」
「形式です。いったん撤兵と書く。そのうえで、日支の協定で、必要なだけ残す」
東条は眼鏡を押し上げもせず、近衛を見た。
「支那の土になった兵が、どれだけおるか、総理はご存じのはずです」
「知っています」
支那事変は、近衛の第一次内閣のときに始まった。四年前の夏だった。
「その兵の親に、撤兵、という二字を、どう読ませるのですか」
近衛は答えなかった。
「陸軍としては、承服いたしかねます」
時がたった。
障子の光は卓の上から畳へ、畳から縁側へと退いていった。議論は同じ所を回った。
「ですから、駐兵の形式さえ——」と豊田が言えば、東条が「形式の問題ではありません」と切った。鈴木が「しかし、期限というものが」と言えば、「期限は、九月六日に決まっております」と返った。アメリカの回答は首脳会談そのものを拒んではいない、と豊田が言う。会談の前にすべてを呑めと言っておるのです、と東条が言う。石油は待っているあいだにも減ります、と鈴木が誰にともなく言う。
一度だけ、及川が口を開いた。
「海軍としては……」
皆が及川を見た。
「……先ほど申し上げたとおりです」
近衛は足を組み直していた。いつ組んだのか、自分でも覚えがなかった。
女中が入ってきて、灯りを入れた。誰も口をきかなかった。女中が下がるまで、皆、灯りの方を見ていた。庭はもう暗かった。
「海軍大臣に伺いたい」
東条が言った。及川が顔を上げた。
「海軍として、この戦争に確信がおありか、ないのか。承りたい」
部屋が静かになった。柱時計の振り子の音がした。
「及川さん」
豊田が小声で言った。
及川は湯呑みを包んだ手に目を落とし、それから近衛の方を見た。
「それは……先ほど申し上げたとおり、総理の御判断に一任いたします」
「自分は、海軍の判断を承っておるのです」
「海軍としては、和戦の決は政府の決めるところと心得ております」
東条は及川から目を離し、近衛に向き直った。
「総理」
近衛は及川を見ていた。及川は目を伏せていた。
表面に出して言うことはできない、と岡は言ってよこした。それを言わせるのは、この部屋では自分しかいなかった。
「及川君——」
及川が顔を上げた。
近衛はその顔を見た。及川は待っていた。何を待っているのかは、近衛にも分かった。
「……いや」
近衛は及川から目をそらし、灯りの方を見た。
東条が、そのとき初めて椅子の背に背をつけた。
「……そうですか」
それきり、誰も何も言わなかった。
しばらくして、近衛は言った。
「外交にも、戦争にも、危険はある」
声はもう、いつもの柔らかさに戻っていた。
「要は、いずれにより大きな確信が持てるかということでしょう。自分は、交渉の方により大きな確信が持てる。だから、この途を選びたい」
近衛は言葉を切った。
「それにもかかわらず戦争をやるというのならば、自分としては、責任はとれない」
「責任は、とれない」
東条がくり返した。
「とれません」
柱時計が六時を打った。
東条が立った。
「本日は、これで失礼いたします」
「ご苦労でした」
及川と豊田も立った。及川は近衛に深く頭を下げた。近衛はそれを見なかった。三人が出ていくと、鈴木だけが残った。
三
灯りの下に、湯呑みが五つ残っていた。どれも、ほとんど減っていなかった。
「閣下」
「君は帰らないのかい」
「すぐに帰ります」
鈴木は立ったまま、少し間を置いた。
「陸軍大臣も、あれで苦しいのです」
「苦しいのは、皆そうだろう」
「大臣は、海軍がはっきり言えば……」
鈴木はそこで言葉を切った。
「また伺います」
鈴木が一礼して出ていくと、隣の間の襖が開いて、富田が入ってきた。
「聞こえていたかい」
「時々」
「門の前に、記者がいたそうだ」
「まだおります」
「陸軍大臣は、笑って出ていったかね」
「黙って、車に乗られました」
近衛はうなずいた。それから、しばらく何も言わなかった。
「富田君」
「はい」
「僕は今日、決めたんだよ」
富田は少し遅れて、答えた。
「……はい」
襖の外で女中が膝をつき、食事の支度ができたと告げた。皆様、お待ちでございます。
「すぐ行く」
女中が下がり、富田も一礼して下がった。
近衛は動かなかった。卓の上の、及川の座っていた前の湯呑みを見ていた。四時間、及川の手の中にあった湯呑みだった。茶は、一度も口をつけられないまま冷えていた。
四
二日後の夜、近衛が荻窪へ帰ると、鈴木が来た。
近衛は和服のままだった。その日は朝から長かった。朝、首相官邸の日本間で東条と二人きりで会い、そのあと閣議があった。夕方は内田信也の家で飯を食った。食べるだけの会になった。
鈴木は客間の入口で頭を下げた。
「夜分に、申し訳ありません」
「また来たね」
「陸軍大臣の使いで参りました」
「陸軍大臣とは、今朝会ったばかりだよ。官邸で」
「存じております」
近衛は、朝の日本間を思い出していた。東条は最後まで背を伸ばして座っていた。帰りぎわに、これは性格の相違ですなあ、と言った。
「性格の相違だ、と言われた」
鈴木は答えなかった。
「伝言を聞こう」
「そのまま申し上げます」
鈴木は手帳を開いた。二日前に富田がしたのと同じ手つきだった。
「段々その後探るところによると、海軍が戦争を欲しないようである。それならなぜ海軍大臣は自分にそれらをはっきり言うてくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば、自分としてもまた考えなければならんのである。しかるに、海軍大臣は全部責任を総理に任せている形がある。これはまことに遺憾である」
近衛の顔が、わずかに動いた。
鈴木は目を上げずに読み続けた。
「海軍がそういうように肚がきまらないならば、九月六日の御前会議は根本的に覆るのだ。従って御前会議に列席した首相始め陸海軍大臣も統帥部の総長も、皆輔弼の責を充分に尽くさなかったということになるのであるから、この際は全部辞職して今までのことを御破算にして、もう一度案を練り直すということ以外にないと思う。それには陸海軍を抑えてもう一度この案を練り直すという力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出ていただくより以外に途はないと思う。その宮様は、東久邇宮殿下が最も適任と思う」
鈴木はそこで一度息を継いだ。
「それで自分としては、総理に辞めてくれとは、はなはだ言いにくいけれども、事ここに至ってはやむを得ず、どうか東久邇宮殿下を後継首相に奏薦することに御尽力を願いたい」
それから、手帳から目を上げないまま言い添えた。
「首相とこれ以上お会いすることは、感情的になるおそれがあり、好ましくない、と。以上です」
灯りの下で、卓は片づけられていた。湯呑みはひとつもなかった。
「海軍大臣からはっきり話があれば」
近衛は言った。
「はい」
「……そう言ったのか」
「はい」
近衛は答えなかった。鈴木は手帳を閉じた。
「お返事は」
「考えておく」
「では」
鈴木は一礼して出ていった。
近衛はひとりで、及川の座っていた椅子を見ていた。
「富田君」
返事はなかった。
## 覚え書き(史実と創作の境)
戯曲「一任」(第二稿)を小説の形に書き直したもの。筋と史料の扱いは戯曲と同じ。
出典の略号:手記=近衛文麿『最後の御前会議』(『最後の御前会議/戦後欧米見聞録』所収)、岡=岡義武『近衛文麿』。頁は書き起こしの「本」の頁。
### 史料の言葉をそのまま、または口語にほどいて使ったところ
- **岡軍務局長の伝言**(一):手記 086–087。原文のまま。手記では「報告があった」とだけあり、伝えた手段は書かれていない。
- **前夜の富田と及川の会話**(一、富田の報告):岡 186 を口語にした。
- **会議の順番**(二):手記 087 に「劈頭に海軍大臣より」とある。及川の一任、近衛の「決する」、東条の「早すぎる」、豊田、東条の「駐兵」、近衛の「名を捨てて」の順は手記どおり。
- **及川の一任発言**:手記 087。原文のまま。
- **近衛「交渉継続ということに決する」、東条「その総理の結論は早すぎる……外務大臣は……」、豊田「それは条件次第である……」、東条「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」、近衛「名を捨てて実を採り……」**:手記 087–088。豊田の「最難点」は、書き起こしでは「再難点」。岡 187 の「一番の難関」に合わせ、誤植とみて改めた。
- **東条「譲歩に譲歩を重ねて……」**:岡 187。岡は順番を明記していない。手記の順に合わせ、「早すぎる」の根拠として言わせた。
- **東条「日華基本条約……永久駐兵」**:岡 188。
- **近衛「外交にも、戦争にも、危険はある……責任はとれない」**:岡 187 を台詞にした。
- **会議は二時から六時まで、結論なし**:手記 088。岡は「四時間」。
- **十四日の一日**(四):朝の官邸での近衛・東条会談(手記 088–091、岡 188–189)、閣議(岡 189)、夕方六時に和服姿で内田信也邸へ行き「今日はたゞ御馳走になるだけです」と言ったこと(岡 189–190、内田の回想)。
- **「性格の相違ですなあ」**:14日朝、官邸での会談の終わりに東条が言った(手記 091、岡 188–189)。
- **鈴木が持ってきた東条の伝言**(四):手記 093 の原文のまま(「統帥府」は「統帥部」とした)。最後の「感情的になるおそれ」は岡 191。岡では、近衛が内田邸から私邸に戻ると鈴木が来訪した。
- **秋晴れの日曜、近衛の五十歳の誕生日**:岡 186。
- **九月六日の御前会議の「十月上旬」の期限**:手記 079。**十月二日のアメリカの回答**:岡 182–184。
- **近衛が長い足を無造作に組む**:天皇の前でもそうだったという、富田の回想(岡 056–057)。
### 創作したところ
- **山場**:東条が及川に海軍としての確信を問い、及川が一任で答え、近衛が「及川君——」と言いかけてやめる場面は、すべて創作。荻窪会談で東条が海相に直接問うた記録はない。14日夜の東条の伝言(「海軍大臣からはっきり話があれば、自分としてもまた考えなければならん」)から逆算して置いた。問いの型は、東条が豊田に「確信」を質した岡 187 に合わせた。
- **東条「その兵の親に、撤兵という二字を、どう読ませるのですか」**:創作。手記では「陸相はついに承服せず」としか書かれていない。「撤兵は退却」「士気」は14日の閣議・会談の言葉なので、12日には使わなかった。
- **一の近衛と富田の会話、鈴木の早い到着、記者、誕生日のやりとり、及川の「五十にして天命を知る」**:創作。
- **二の議論が堂々巡りする場面、鈴木の「石油は、待っているあいだにも減ります」、豊田の「及川さん」**:創作。
- **及川が湯呑みを手放さなかったこと**:創作。
- **三、鈴木の「大臣は、海軍がはっきり言えば……」**:創作。14日の伝言の伏線として置いた。
- **服装**:近衛の和服は、14日夕の「例の如き和服姿」(岡 189)から。ほかの人物の服装は推定。
- **会議に富田が同席しなかったこと**:史料からは分からない。小説では隣の間に置いた。
- **階級と経歴**:東条はこの時点で陸軍中将(大将昇進は首相になった10月18日)、及川は海軍大将、豊田は予備役の海軍大将、鈴木は予備役の陸軍中将[補足:三冊にない知識]。
- **結末**:近衛が富田を呼び、返事がない所で終わる。創作。