TS娘の曇った心を義理の兄がVRMMOゲームを通じて徐々に癒していくお話 作:乾いた布団
――父さんと義母さんが亡くなった日のことは、今でも鮮明に覚えている。
突然の連絡。
急いで向かった病院。
そして、警察と医師から告げられた、とても残酷な事実。
何もかもが、あまりにも唐突すぎて、到底現実だとは思えなかった。
両親を失った悲しみは、当然ながら非常に大きい。
それこそ、その場で呆然と立ち尽くしてしまうほどには……。
……けれど、そんな時。
ふと頭の中を巡ったのは、妹のことだった。
ただでさえ、塞ぎ込んでいた妹。
そんな状況下で、もし両親まで失ってしまったら――。
その時、少年は心に誓ったのだった。
決して妹を、一人にしてはいけない。
例え、返事がなくても……。
例え、姿を見ることすらできなくても……。
毎日、声をかけ続けよう。
自分だけは、妹の味方でいよう。
それだけは、何があっても絶対に忘れないようにしよう……と。
◇◇◇
――朝比奈悠真は、キッチンで二人分の朝食を用意していた。
テーブルに並んでいるのは、焼いたトーストと目玉焼き、それに簡単なサラダ。
自分の分はダイニングテーブルへ置き、もう一人分はトレーに乗せる。
食パン。
目玉焼き。
小さな器に入れたサラダ。
それと、牛乳を注いだグラス。
「……よし」
準備を終えると、悠真はまず先に自分の朝食を手早く済ませる。
焼いたトーストを頬張り、目玉焼きとサラダを口へ運ぶ。
最後に牛乳を飲み干すと、小さく息を吐いた。
「ごちそうさま」
そして、空になった食器を片付けた後、残しておいたトレーを持ち上げると、そのままおもむろに廊下へと向かった。
朝の光が差し込む廊下は、静まり返っていた。
家の中にいるのは、悠真と妹の乃亜だけ。
以前までは、ここに父と義母もいた。
朝になれば、キッチンから義母が料理をする音が聞こえた。
リビングへ行けば、父が新聞を捲りながらコーヒーを啜っていた。
どこにでもある、ごく普通の家庭。
それが、ほんの数ヶ月前までの、悠真にとっての『普通』だった。
――けれど、今は違う。
今は、父も、義母も、もういない。
家の中は、以前よりもずっと静かだ。
(……ふぅ)
小さく息を吐きながら、悠真は階段を上る。
そして、上りきった先の突き当たりで、足を止めた。
目の前にあるのは、『乃亜の部屋』と書かれたネームプレートが掛かった一枚の扉。
その先に――妹がいる。
「……」
悠真は扉を見つめる。
ここへ来るのは、毎朝の日課となっていた。
今日もきっと……妹からの返事はないのだろう。
そう、分かっている。
それでも――。
「乃亜、朝食を持ってきたぞ」
悠真は、いつものように声をかけた。
「トーストと目玉焼き。あと、サラダもある。食べられそうだったら食べてくれ」
そう言いながら、扉の前へトレーを置いた。
「……」
静寂。
扉の向こうからは、何の物音もしない。
悠真は、そのまましばらく待った。
……だが。
――十秒。
――二十秒。
(……)
どれだけ待てども、反応はない。
時計の秒針が小さく時を刻む音だけが、静かな廊下に響き渡る。
(……やっぱりか)
僅かに肩を落とす。
やはり分かってはいても、いざ返事がないと少しだけ寂しい気持ちになる。
――だけど、それでも。
この日課をやめるつもりは一切なかった。
例え、返事がなくても。
例え、この扉が開かなくても。
ただ、自分はお前と一緒にいるぞということを伝えておきたかったのだ。
妹がそれをどう受け取っているのかは、正直分からない。
もしかしたら、鬱陶しいと思われているのかもしれない。
だが、それでも――。
(……よし)
少しだけ迷ってから、悠真はもう一度口を開いた。
「……あと昨日、お前が好きなプリンを買ってきたんだ。冷蔵庫に入ってるから、もしよければ俺がいない間に食べていいからな」
「……」
しかし相変わらず、返事は返ってこない。
悠真は、閉ざされた扉を見つめた。
実際のところ、その向こうにいる妹の顔を、彼はほとんど知らない。
だけど――。
妹を心配する気持ちは、間違いなく本物だった。
できることなら、妹には笑顔でいてほしい。
できることなら、幸せになってほしい。
だって、たった二人の兄妹なのだから。
――だが。
少なくとも、今の自分にできることは、これくらいしか思いつかなかった。
毎朝、朝食を作る。
扉の前まで運ぶ。
そして、声をかける。
いつか――。
いつの日か、この扉が開くことを願って。
……けれど、その日は今日ではないらしい。
時計へ視線を向ける。
時刻は八時。
そろそろ家を出なければ、学校に遅れてしまう時間だ。
「じゃあ、そろそろ時間だから俺は学校に行くな。多分、夕方くらいには帰れると思うから、それまでは留守番を頼むぞ」
踵を返しながら告げた、何気ない一言。
――だが。
学校。
その単語を口にした瞬間、悠真の脳裏に義母の言葉がふと蘇った。
――乃亜は、もう何年も学校へ通っていないの。
(……っ!)
詳しい話を聞く前に、義母は他界してしまったため、詳しい理由までは知らない。
だが、理由はどうであれ、その事実を知ってからというものの……。
悠真は妹とどう接すればいいのか、分からなくなっていた。
多少強引にでも、学校へ行くように言った方がいいのか。
手を引いて。外へ連れ出した方がいいのか。
それとも、本人が何かを言い出すまで、何もせずに待った方がいいのか。
何が正解で、何が不正解なのか。
悠真には、分からなかったのだ。
何しろ、悠真と乃亜は、義理の兄妹。
父と義母が再婚してから、同じ家で暮らすようになった関係のため、悠真が知っている妹の姿は、驚くほど少なかった。
記憶に残る、唯一の鮮明な思い出は、初めて顔を合わせた日のこと。
義母の背中へ隠れるようにして、僅かにこちらを窺っていた小さな少女。
緊張した面持ちで。
『よろしくお願いします』
そう告げた姿。
それが、悠真の知る妹のほとんど全てなのだった。
ゆえに、妹が今、何を考えているのか。
悠真には、ほとんど分からなかった。
何が怖いのか。
何が辛いのか。
何を望んでいるのか。
何一つとして分からない。
その事実が、悠真にはとても苦しかった。
助けたいと思う。
少しでも楽にしてやりたいとも思う。
けれど、妹が何を求めているのか分からない以上、下手に動くことも悪手だと思えた。
無理に扉を開けて。
無理に話を迫って。
そして、乃亜がさらに自分の世界へ閉じこもってしまったら?
そんなことを考えると、どうしても一歩が踏み出せないのだ。
だから今は、待つしかない。
いつか、乃亜自身が扉を開いてくれる、その日まで。
「……それじゃあ、行ってくるな」
最後にもう一度声をかけてから、悠真は玄関へ向かう。
背後には、静かな廊下だけが残されていた。