TS娘の曇った心を義理の兄がVRMMOゲームを通じて徐々に癒していくお話 作:乾いた布団
扉の前に置かれた朝食を見つめる。
正確には、扉の隙間から見えるトレーの端を。
兄の遠ざかっていく足音を聞きながら、俺は膝を抱えて座り込んでいた。
……俺は、本当に駄目な奴だ。
こうして兄は毎日、食事を用意してくれる。
毎日、声をかけてくれる。
困ったことがないか、気にかけてくれる。
なのに俺は、そんな兄に対して何も返せない。
ありがとう、の一言すら言えない。
彼は、何も悪くない。
俺が勝手に怖がって、部屋の中へ逃げているだけなのに……。
大前提として、兄が怖いわけではない。
むしろ、優しすぎるくらいの人。
少なくとも、そんなことは頭では理解しているのだ。
彼に傷つけられたこともなければ、一度として怒鳴られたこともない。
ただ毎日、優しく声をかけてくれる。
それだけなのに……。
彼の声を聞くと、体が勝手に強張ってしまう。
自分でも、どうしてそうなるのか分からない。
……いや。
本当は、分かっているのだ。
小学生の時。
それも、俺の体が手術によって変化した直後に起きた、最悪の事件。
男子たちの笑い声。
そして、逃げようとした俺を取り囲む、何人もの影。
嫌だと言っても、面白がって伸ばされ続けた手。
体を抑えられ、服を無理やり脱がされそうになった。
何度も、何度も。
やめて、と叫んだ。
お願いだから離して、と泣いた。
けれど、彼らは笑っていた。
俺が嫌がるほど、楽しそうに。
どうして彼らが、あんなことをしたのか。
今となっては、分からない。
いや、分かりたいとも思わない。
自分の意思とは関係なく、無遠慮に体を触られる。
逃げようとしても、逃げられない。
助けてほしいと願っても、すぐには誰も来てくれない。
それが、どれほど怖いことなのか。
俺は、あの時初めて知った。
それからだった。
男の人が、怖く感じるようになったのは。
男の人の声を聞くだけで、体が勝手に強張るようになった。
男の人が近くにいるだけで、呼吸が浅くなった。
何もされていないのに、手が震えることだってあった。
おかしな話だ。
だって俺は、男だというのに……。
……はぁ。
兄が彼らとは違うことは、頭では分かっている。
兄は優しい。
そんなことは、百も承知だ。
だけど、あの時の恐怖を思い出すと、どうしても体が動かないのだ。
だから――俺は逃げている。
この部屋に閉じこもっていれば、誰にも触れられることはない。
誰からも、見られることはない。
嫌なことは、何も起こらない。
そう思っている。
……けれど。
何も起こらない部屋の中で、俺は少しずつ苦しくなっていた。
毎日、兄は声をかけてくれる。
毎日、気遣ってくれる。
なのに、俺は何も返せない。
そのことが、少しずつ胸を締め付けていた。
……やがて。
廊下が完全に静かになったことを確認すると、俺はそっと扉を開けた。
ほんの少しだけ、外を窺う。
誰もいない。
それを確認してから、床に置かれたトレーを部屋の中へ引き寄せた。
トレーの上には、美味しそうな朝食が用意されている。
兄が、俺のために作ってくれたものだ。
「……ありがとう」
小さく呟く。
誰にも届かないであろう声。
それでも、言葉にしたかった。
そして、トーストを一口食べる。
温かい。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ほんの少しだけ、涙が出そうになった。
……お兄ちゃん。
俺は何も返せていない。
何もできていない。
それでも――いつか。
いつか、ちゃんと面と向かって「ありがとう」と言えるようになりたい。
ほんの一言でいい。
この扉を挟まずに。
ちゃんと、兄の顔を見て。
そうして、いつか伝えたい。
そんな小さな願いを胸に抱きながら。
俺は今日も、兄が作ってくれた朝食を食べるのだった。