偽伝:異聞の花々 作:頭デルタギア
「あーーーーーー!
見つけたぁーーーーーーっ!!」
バルコニーの手すりに体重を預けながら、夜のとばりが降りたロンディニウムの城下町を眺めていると、とてもやかましい大声に加えて、とても小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。
投げつけられる小言の内容は、おおよそ予想がついている。それに面倒くさかったので、声に応えて振り返りはしなかった。
相手はそれを挑発と受け取ったらしい。
上等だコラ、と喧嘩を買ったチンピラのごとき大股にかわって走り寄ってくると、勢いを保ったままジャンプしてきて、ケツに一発蹴りを叩きこんできた。
正直言うと、メチャクチャ痛かった。
プラスチックではなく、金属製のバットでぶっ叩かれたかのような、表面だけでなく芯にまで響いてくる衝撃と痛みに襲われた。
思わず飛び出しかけた声を噛み殺して、何事もなかったように平穏を装ってみせる。その偽装は、どうやら上手くいったようだった。
さきほどの声の主であり、暴行を働いてきた張本人──トトロットは痺れを切らしたのか、手すりまで跳んで着地してくると、びしり、と人差し指を突きつけてきた。
「──モルドレッドのクセして、ボクを無視とはいい度胸してるじゃないか!」
……。
「やい聞いてんのか! こっち見ろ!」
はあ。
わかったわかっ──……
「……?」
振り返った直後、思わず動きを止めた。
「な、なんだよ。そんなジロジロ見てきて……」
居心地が悪そうにもじもじしているトトロットを無視して、上から下へと視線を巡らせる。
猫耳を模したと思しき帽子が特徴的な、ピンクを基調にした珍妙な衣装は一体どこへやったのか。雲のように膨らんだ白いドレスへと身を包み、髪は綺麗な三つ編みおさげにまとめていた。
まるで、妖精舞踏会にそなえてかなり気合を入れてきた、風の氏族のような装いである。
「なあ、なに黙ってんだよ! な、なんか変なところある? やっぱりボクには似合わない?」
着飾ること自体は特段変わった出来事ではないのだが、自分については鈍感なところのあるトトロットがそうしていることが、妙に頭にひっかかっていた。
顎に手を当ててしばらく考える。やがて、思い当たるものがひとつだけ見つかった。
トトロット。
「……なに?」
恋人できたんなら、ちゃんと紹介しろよ。
「────はぁ!?」
数秒固まってから、トトロットは大きく目を見開いて、顔を真っ赤に染め上げた。見抜かれるとは欠片も考えていなかったらしい。
ライネックとトネリコ──そしてウーサーとトネリコの微妙な関係性はすぐに見抜いたくせに、自分については節穴になってしまうようだ。
それにしても。一体いつから付き合い始めたのか。
そりゃ、恥ずかしいから仲間連中には内緒にしておく気持ちも、理解できなくはない。それにしたって、数千年の付き合いなのに黙ったままなのは薄情だろうと思う。
そういえば、トネリコたちはこのことを知っているのだろうか。知らないのであれば、課せられる責任はきわめて重大なものになる。ひとまずは情報収集に徹するべきだと判断した。
ところで、相手はどこの氏族のどいつだ?
それともロンディニウムの人間か?
別に言い触らしたりしねぇから、早く教えろよ。
逸る心をなんとか抑えて、聞くべきことを質問してみる。
すると、ぷるぷる震えていたトトロットはがばっ、と顔を上げて、
「──そんなことあるワケないだろっ!!」
うがーっ、と吠えながら、鋭いパンチを何度も繰り出してきた。
最初のうちは照れ隠しかと思っていたのだが、小さな拳に宿った怒りは純度が高く、恥ずかしさがどこにも見られない。コンビネーションは鋭さを増す一方で、気を抜いた瞬間にノックアウトされかねないほどだった。
次第に自分の考えが本当に合っているのか不安になって、拳をガードしながら躊躇いがちにトトロットに尋ねた。
じゃあなんだよ、その服。
「服ぅ? ……ああ、だからか。
ったく、本当にモルドレッドはモルドレッドだな」
どういう意味だ。
「言葉通りだよっ。
で、この服なんだけど……へへ、すごいだろー? エクターが伝手をあたって用意してくれたんだ。『明後日の調停式に参加するつもりなら、もう少し装いに気を遣え』ってさ。
サイズがピッタリでビックリしたぜー? ああ見えて結構お世話焼きなんだよな」
腕を止めたトトロットは、その場で器用にくるり、と一回転してから、令嬢のごとくドレスの裾を持ち上げてみせる。
調停式。
その言葉を聞いて、戴冠式が間近に迫っていることをようやっと思い出すことができた。
──『秋の戦争』。
トネリコ率いる救世主一行、
3つの勢力が連合を組んで、各氏族へと戦いを挑み──その果てにブリテン初の統一王が誕生することになった戦い。
妖精國で生まれて初めて、人間を『奴隷』ではなく『兵士』として戦争に駆り出してきた、
トネリコの介入が無ければ、ほとんどの氏族が全滅していたであろうあの戦いに比べると、いくらか規模は小さくなってはいたが──それでもロンディニウムの人間たちにとっては、夏に勝るとも劣らない過酷なものだっただろう、大いなる戦い。
その戦いにおける最大の戦功こそが、調停式であり戴冠式だった。
ウーサーが王冠をいただき、氏族長より『骨の鐘』を受け取ることで、王として君臨する日。
そして、トネリコの描いた夢が──ようやくその実を結ぶ日。
……そうだったな。
もう、そこまでたどり着いていたのか。
この身体になってから、時間感覚が曖昧になった自覚はあったのだが、まさかここまでひどいとは思ってもいなかった。
しかし、いつでもそばに争いがあった、苛烈きわまりないこれまでの旅路とは打って変わって、ここ最近は不安になるぐらい平穏な日々が続いていた。
具体的に言えば、剣を振るう機会は獣やモース退治以外になく、エクターとトトロットは王妃となるトネリコのドレスづくりに励み、グリムはどこでなにをやっているのかわからず、ライネックはヤケクソのように日夜連続でモース狩りをおこない、そして自分はあちこちをぶらぶらとふらつくぐらいには平穏だった。
だから、ちょっと忘れてしまうぐらいは仕方ないと思う。
「……まさか忘れてたんじゃないだろうな?」
半目になって訝しんでくるトトロットから視線を逸らす。
トトロットはしばらく睨みつけてきていたが、やがて観念したようにため息を漏らす。
そしてはっ、となにかに気づいた素ぶりを見せてから、改めて指を突きつけてきた。
「そうだ! 危ない、誤魔化されるところだった。
オマエ──どっちの式典にも出席しないって本当かよ!?」
……ああ。
「なんで!? 理由は!?」
面倒くさいから。
そう答えてやると、トトロットはとんでもないバカを目撃したような表情で見返してきた。
それから謎に納得したふうに掌を拳で叩くと、気の毒そうに眉をひそめつつ、おそるおそるこう問いかけてくる。
「まさか、モルドレッド──」
なんだよ。
「……オマエも、ライネックと同じで……?」
ブッ飛ばすぞ。
「だってだって! それぐらいしか思いつかないぜ!?」
あのな。
あんな突撃バカを貰いたがる物好きは、ブリテンに2人しかいちゃいけねえんだよ。
もし3人目に心当たりがあるなら今すぐ連れてこい。で、そいつもブリテン統一に一枚噛ませろ。その資格が充分ある。
「い、言い過ぎだろ! あとでトネリコにボコボコにされたってボクは知らないからな!」
怯えをあらわにするトトロットを小馬鹿にする。
トネリコが戴冠式にそなえてウーサーや各氏族長と会議を進めているだろう部屋とこのバルコニーが、いったいどれだけ離れていると思っているのか。
『風の報せ』を操る風の氏族ならばいざ知らず、トトロットは翅の氏族で、こっちはそもそも妖精ですらない。
だから、万が一にも聞かれる可能性など──
次の瞬間、ぞくり、と背筋が震えた。
脊椎に氷柱を押し当てられたかのような、うなじによく鍛えられた刃を添えられたかのような、神経が一瞬で凍りつく錯覚を覚えるほどの殺気が、どこからともなく降り注いできたからだ。
あわてて周囲を見渡すが、自分とトトロット以外に気配はない。
……なあ、今。
「今? なにかあったっけ?」
きょとん、と首を傾げているところを見るに、トトロットはなにも感じ取らなかったようである。
ということは、今の殺気は自分のみを標的としたモノ以外のなにものでもないわけで──
──いや、なんでもない。
脳裏に浮かび上がったトネリコの真っ黒な笑顔に、全面降伏することを決意した。おそるべし魔猪の氏族。その場にいなくても、言動や行動を縛ってみせるとは。
静かに警戒心を高めていると、トトロットが悔しそうに顔を歪めながら、訴えかけてきた。
「……なあ、本当に出ないつもりかよ」
……そうだっつってんだろ。
「本当の本当に?」
お前、ちょっとしつこいぞ。
「しつこくもなるに決まってるだろ!
──そりゃ、調停式とか戴冠式とか、そういうのは全然オマエに似合ってないよ。けどさ、けどさぁ!」
トトロットはぎゅっ、と拳を握りしめた。血の気が引いてまっしろに見えてしまうほど、力強く。
「最初にトネリコと出会ったオマエがっ。
最後までトネリコと歩き続けたオマエがっ!
モルドレッドが──トネリコの夢を見届けてやらないでどうするんだよ!?」
──……。
「……オマエが調停式にも戴冠式にも出席しないってこと、トネリコから聞いたんだ。
そのときにあの子がどんな顔してたか、知らないだろっ?
笑ってたけど、悲しそうだった!
納得してたけど、寂しそうだったっ!
それでもわからないってんなら、ボクがはっきり言ってやる。
トネリコは──オマエにそばで見ていて欲しいんだよ!!」
トトロットのその言葉は、ロンディニウムを超えた先──南部全体にまで響き渡ってしまうのではないかと錯覚してしまうほど、大きく聞こえてきた。
それだけ感情を籠めて話せるトトロットを、ほんの少しだけ羨ましく思う。
少なくとも、自分には到底真似できそうにないから。
それに自分は知っていた。トトロットという妖精の小さな身体のなかには、どんな妖精にも負けないほどの行動力と固い信念が眠っているということを。
見知らぬ
詰問するような目つきのトトロットと数秒間だけ見つめあう。
そして、今この瞬間、告げるべき言葉だけを告げた。
──もう、おれの出る幕じゃない。
「……は?」
おれは降りるって言ってんだ。
アイツの無茶に、いつまでも付き合ってられっかよ。
あとはお前らで面倒みてやれ。
「──モルドレッド、オマエ」
話はそれだけか?
だったら行くぞ。
俯いていたトトロットへひらひらと手を振ってやりながら、手すりからゆっくりと距離を放す。
ここまで徹底的に拒絶してやれば、さすがに二度と話しかけようとは思わなくなるだろう。
予測ではなく確かな経験則からそう判断して、この場をあとにしようとした刹那だった。
「とりゃーーーーーーーーーっ!!」
威勢のいい掛け声が聞こえたと思ったら、トトロットがアクション俳優顔負けの飛び蹴りをかましてきた。
避ける暇などまるで無かった。名人の放った弓矢よりも鋭く、名狙撃手の撃った銃弾よりも真っ直ぐに向かってきた右足が、側頭部へ突き刺さる。
意識を飛ばさなかったのは奇跡に近い。
その奇跡の代償として、ケツを蹴られたとき以上の痛みに襲われてしまったことを考えると、やはり意識を飛ばしておいた方が良かったかもしれなかった。
───ってえな!
ふらつく足を制御しながら、地面に降りたったトトロットを即座に怒鳴りつける。しかしトトロットも負けじと声を大きく張り上げてきた。
「当たり前だっ、痛くなるように蹴ったんだからな!
トネリコはきっと怒らないだろうから、ボクがかわりに怒ってやる!
このバカ! アホ! マヌケ! おたんこなす! 無愛想の猫舌!」
猫舌は関係ねえだろ!!
「うるさいっ!! オマエの呼び方なんかバカ猫舌で十分だっ!!」
頭にバカつけ足してんじゃねーよこのチビ!
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ! バカバカバカバカ!」
チビ、チビ、チビ、チビ、チビ! チビチビチビチビ!
グリムは笑い転げ、エクターは知らないフリを貫き、ライネックは白い目を向けて、ウーサーは柔らかく仲裁をかけて、トネリコは呆れ返っていそうな、世にもみっともない言い争いはしばらく続いた。
やがて、なにが原因で罵倒しあっていたのかさえすっぽ抜けてしまうほど働かされた脳みそが、白旗をかかげて一時休戦を提案してきたとき、対面で同じように息を荒げていたトトロットがぎろり、と睨みつけてきた。
「──ボクは、トネリコの喜ぶ顔が好きだ。
明るい顔が好きだ。嬉しそうな顔が好きだ。
なによりも……幸せそうに笑ってる顔が、大好きだ。
だから。
オマエにどんな事情があるかは知らないけど!
絶対、絶対、絶ッ対に──ふん縛ってでも、調停式と戴冠式に連れてきてやる!」
……。
「今日から精々夜道には気をつけるんだなっ!
特に背中からの奇襲は用心しておけよっ!
おやすみ!!」
堂々たる闇討ち宣言を行ってから、トトロットはやって来たときと同様に、たったかたったか小走りで去っていった。
闇討ちは黙ってやるから闇討ちたり得るのではないかと思ったが、わざわざ忠告してやる義理もない。好きにさせてやることにした。
──なんか、疲れたな。
騒がしいヤツがそばにいたせいだろう。ひとりに戻っただけなのに、辺りはさっきよりも深く静まり返っているように感じられる。
だから、その声は一層強く聞こえてきた。
────殺せ……殺せ……人間を殺せ……─────
何千年と経った今でも色褪せない不吉さを持ったその声は、これまで抑えつけられていた鬱憤を晴らすかのごとく、その獰猛さを暴力的に増していた。
トネリコの魔術である『
そのふたつが合わさったことにより、■■■■■■が生まれ持つ強烈な殺戮衝動は、完全とはいかずとも鎮静化することに成功していた。
──今までは。
声が強くなっていると初めて気づいたのは、秋の戦争をどうにか乗り越えて、皆が戦後処理に励んでいた頃からだ。
初めは気のせいだと思った。戦争が終わったあとだから、気が昂ったままなのだろうとばかり思っていた。
しかし、ウーサーを目にするたびに、ロンディニウムの人間たちを見るたびに、声はいや増しに濃くなっていった。
────……殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
────……人間を殺して、同胞を産み出せ。
────……我らが王より受けた命を果たせ。
クソくらえだ。
衝動に従って人間を殺戮するのは勿論のこと、頭ごなしに抑えつけられて命令されるのが死ぬほど嫌いな性分である。
だから四六時中響く声を無視して、万が一のことを考えて、なるべく人と触れ合ってしまわないよう、ウーサーや円卓軍とは距離を──物理的にも精神的にも──取った。
元から単独行動はお手のものだ。最初のうちは、物好きな奴がコミュニケーションを取ろうとしてくれていたが、そのうち誰も近寄らなくなっていった。そのことにひどく安堵していることを考えると、やはり自分はいつまで経っても卑怯者のままなのだと思う。
今になって声が響きだした理由は、おそらく人間──ウーサーが統一王になろうとしているためだろう。
妖精よりも遥かに脆弱で、短命で、儚く、『奴隷』としてしか価値のなかった人間。
それが、並みいる氏族を次々と打ち破っていき、ついにはブリテン初の王となって君臨しようとしている──
間違いなく、妖精國の歴史において、あまりにも大きな転換点だった。
その中心人物たるウーサーや、円卓の人間たちも同様に。
だから、
本当に、クソくらえだ。
アイツらは間違っても■■■■■■になりたくて戦ったわけではない。妖精と人間の共存という、半ば空想に近かった夢を、それでも実現させるために死力を尽くしたのだ。
その思いを穢すような真似は、たとえ自分自身であっても──だからこそ、許しておけるはずがなかった。
……口にしたことは一切ないが、ウーサーはいいヤツだ。
他者を労わり、慈しみ、そして守るために剣を執ることができる──『善き人間』の手本のような男だった。根っこは割と人間不信なところがあるトネリコが、あそこまで入れ込むのもわからなくもない。
あれこれ助言もしてやった記憶もあるライネックには申し訳ないのだが、ウーサーこそがトネリコの隣にいるべき相手だと、実は出会ったときからずっと考えていた。
だからこうして、ウーサーとトネリコがロンディニウムの騎士と救世主から、ブリテンの王と王妃へ変わろうとしている状況は、らしくもなく祝杯を挙げたいぐらいには喜ばしかった。
なぜならば。
トネリコはいい加減──幸せになるべきなのだから。
ずっと頑張ってきたのだ。ずっと報われなかったのだ。それでもここまで走ってきたのだ。
一生涯のなかで、どちらかひとつだけでも手が届けば御の字なそれらふたつを、同時に手に入れることぐらいは──許されて然るべきだ。
……結局、元の世界に戻る術は見つからなかった。
しかし、仮に見つかったところで、おそらくこの世界に留まることを選んでいただろう。
その理由は、決して殺戮衝動だけではない。
今の自分は確かに、大切なものを置いていってしまう恐怖は無くせたかもしれない。
だが、そのかわりに、大切なものに置いていかれる恐怖を手に入れただけだ。
自分はこの先もずっと──人間とは決して相容れない異形のまま生きていくのだろう。
けれど。
──良い夢を、見ることができた。
嘘偽りなく、掛け値なしにそう思う。
何せ、完全な■■■■■■に成り果ててしまった自分が、誰かの夢を守るために最後まで戦うことができたのだ。
その果てに、人間と人外が共存する世界が誕生する瞬間を、目の当たりにしようとしている。
これ以上を望むのは……さすがに罰当たりだ。
ふと、天を見上げる。
そこにあるのは、満天の星空。
手を伸ばせば吸い込まれてしまいそうな闇を背景に、散りばめられた星々が磨き抜かれた宝石のごとき輝きを放っている、何度見ても感嘆してしまうほど綺麗な空。
それを見て、大穴に身を投げようと決めた。
もしトネリコが、今の自分に起きている現象を知れば、必ず解決に奔走しようとするはずだ。
たとえブリテンのどこへ逃げたとしても、草の根を分けてでも探し当ててきて、首根っこを引っ掴んでからソールズベリーの大聖堂あたりに連れ込むに違いない。
戦乱が続いていた何百年前ならまだしも、今はもう氏族間同士の争いはほとんどない。
ソールズベリーのすぐそば、ブリテンの中心に空いている、大きく暗く深い穴。
なんのためにあるのか、どれほどの深さなのか、その奥底にはなにが眠っているのか──あのトネリコをもってしても、ついぞ全貌を解明することは叶わなかった虚空。
あそこなら、自分の行方もしっかりくらましてくれるに違いない。
懸念があるとすれば、戴冠後にウーサーと相談して穴の処遇を決めるというトネリコの発言だったが、近寄れもしなければ調べることもできない危険物への対応など、見ないフリをするか見えないように埋め立ててしまうのが相場である。あまり深刻に考える必要もないだろう。
末路を決めたら、だいぶ気持ちが楽になってきた。トトロットからの闇討ちなど、ミジンコに噛まれるぐらいの危険度しかない。なんだったら勘が鈍ってないかどうか確かめるために、わざと受けてやってもいいかもしれないとさえ思いながら、バルコニーをあとにしようと一歩踏み出して。
その時。
『トネリコは──オマエにそばで見ていて欲しいんだよ!!』
不意に、トトロットの言葉が頭のなかに蘇った。
足を止める。がしがし、と頭を掻く。ため息を吐く。舌を鳴らす。
それだけやって、ようやく踏ん切りがついた。
……まぁ。
戴冠式ぐらいは、見に行ってやるよ。
誰もいない空間へ宣言したのは、少しばかりの抵抗だったのかもしれない。
今度こそ止まることなく、バルコニーから抜け出した。
城下町へと繋がる大きな階段を降りている最中、夜の涼しく心地よい風を感じつつ、城壁の隙間からちらちらと伺えたロンディニウムの街並みを、何気なく見下ろしてみる。
そこはいつか、人間と妖精が共存していくための街。
そこはいつか、トネリコの旅が報われた証明となる街。
そこはいつか、世界中の洗濯物がまっ白になるみたいに、みんなが幸せになる────
───本当に。
良い夢を、見られた。
▼ ▼ ▼
なにも考えたくないとき、いつもホープはなにかで頭を埋め尽くすようにしていた。
たとえば、花壇に植えられた花々の本数。
たとえば、街路に敷き詰められた石畳の枚数。
たとえば、他の妖精から小石を投げつけられた回数。
今回その役割を果たしてくれたのは、エディンバラへたどり着くまでに刻める足音の数だ。南部と違って空気が肌寒い北部では、聞いたことのない足音が響いてくるから、これにしようと決めた。
なぜ、なにも考えたくなくなったのか。
答えは呆れるほどハッキリしていて、彼の──モルドレッドの言葉が今もなお、深く突き刺さった矢じりのように、頭から離れないでいるからだ。
──どうかしてるぞ。
──向いてねぇんだよ、そもそも。
目をつぶると、足を止めると、座り込むと、ここぞとばかりに勢いを増してくる。だからホープはあまり休息をとらず、エディンバラへの道を進んでいた。
決して、悪いことばかりじゃない。
ほとんど歩きっぱなしのおかげか、身体は寒さに負けないぐらいの温かさを保っているし、北部の見慣れない景色は新鮮で、ホープの気持ちをほんの少しばかり上向かせてくれる。なによりも、大気に満ちる魔力の流れから、目的地が近くまで来ていることを感じ取ることができた。
王の氏族の長、女王ノクナレア。
6の氏族長のひとり、エディンバラの統治者にして、女王モルガンへの明確なる反逆者。
戦闘能力は女王陛下や妖精騎士に及ばずとも、こと異界常識/妖精領域の規模にかけては、妖精國に並ぶ者なし──という噂さえ広まるほどの大妖精。
その噂は真実だと肯定するかのごとく、霧のように北部を覆っていた彼女の蜂蜜めいた魔力。
チョコレート畑を通りすがったときには、薄っすらとしか察することができなかったそれが、今は常に鼻先を掠めているかのごとく、はっきりと知覚できている。
それはすなわち、彼女の領地たるエディンバラとホープの距離が、着々と縮まっているということを意味していた。
「……あと、もうちょっと」
小さく声を出して、頬を何度か叩く。
そう、あともうちょっとで、自分はエディンバラに到着する。みんなが欲しがっていたチョコを手に入れられたら、今度はエディンバラからソールズベリーまでの道を、たどり直して──……
「もう、ちょっと……」
ぱたり、と足を止める。
ソールズベリーまで自分は生きて帰れるだろうか、と考える。わからない。そして、わからないと思ってしまう時点で、すでに答えは出ているようなものだった。
弱気の虫が地面から何十匹と這いずりでてきて、絡みついてきたかのように、足が動かなくなった。ホープの心を、ひたすらの恐怖が埋め尽くす。
それは故郷であるソールズベリーに戻れないことに対する恐怖であり、生まれた目的を果たせない自分に対する恐怖でもあった。
ここから動かなきゃ、と思う。
ここから動きたくない、と思う。
認めてしまおう。ホープの心はもう折れかかっていた。あるいは、とっくの昔に折れてしまっていたけれど、今の今まで見ないフリをしていただけなのかもしれない。
ここから一歩でも踏み出した瞬間、『それ』が確定してしまうような気がする。
そして、もし確定してしまったときの自分が、一体どんな存在になり果ててしまうのか──ホープはよく知っていた。
ただそこにあるだけで世界を汚す黒い藻、妖精を殺すブリテンの呪い。
目的を見失い、輝きさえ色褪せた、妖精の残骸。
語ることも、聞くこともできなくなった生命──モースに。
「……黒く、なりたくないなぁ」
零れてしまった泣き言をしまい込むように、唇に手で蓋をする。
とにかく、歩き出さなければ。決意をあらたにしたホープが、その場から動き出そうした瞬間だった。
「──ったく。兄貴ってばしっかりしてくれよなー! こんなだだっ広い平原に落っことすなんて、おっちょこちょいにも程があるぜ!」
「う、うるせー! あんなところでブラックドッグに襲われるなんてわかるかよ! 大体、一番慌ててたのはオマエだったろ!? ワグ!」
「そりゃ、オレは荷車を牽く係だったからなぁ。自分の命はもちろん、兄貴たちの命も大切にするのは当然だろ?」
「その大慌てで売り物を落っことしちまって、冬を越せなくなったかもしれないのも、充分に命の危機だと思うんだがな……」
「冷静にしてる場合かよウィンキー! ほらほら手足を動かせ動かせ! 日が暮れる前に見つけなきゃあ、オレたちゃこのまま彷徨う羽目になっちまうぜ!」
どこからともなく、そんな騒がしい声が聞こえてきた。
あたりを見渡してみれば、自分が歩いてきた道から少し遠く離れた場所で、3人の妖精がなにやら慌てた様子でたむろしていた。
尖った耳と嘴のような鼻、そして緑色の肌を備えた人型の妖精。
どの氏族にもあてはまらない特徴をしているところを見ると、このあたりを縄張りにしている野良妖精だろうか。しかし、そばに置かれた荷車は随分と年季が入っている。まるで、妖精國中を旅してきたかのような。
──探し物……してるのかな。
というか、十中八九そうだろう。でなければ、こんな北部のなにもない平原でうろうろと彷徨ったりしない。
ホープはしばらく迷ったが、結局近づくことに決めた。本当に困っているようだったし、それにさっきまでの暗い思考から目を背けたかったのもあった。
「あの」
ホープが声をかけた瞬間、ああでもないこうでもないと地面を探し回っていた3人はびくり、と肩を震わせて飛び上がった。それから、それぞれが思い思いの武器らしき物品を懐から取り出すと、ホープに突きつけてくる。
だが、モルドレッドの眼差しを思えば、どうということはなかった。ホープはゆっくり両手を上げて、危害を加えるつもりがないことを端的に示す。
「お困りのようでしたら──なにか、わたしにできることはありますか?」
そう告げると、妖精たちは揃って顔を見合わせて、なにやら困ったように眉を八の字に曲げている。
が、今のままでは埒が明かないと判断したのか。3人のうちの1人──フードを目深に被った妖精が武器をしまい込み、にこやかに笑いながら話しかけてきた。
「お見苦しいところを見せちまって申し訳ないね、お嬢さん。
確かにオレたちは困ってるが、それとお嬢さんになんの関係があるってんだい? 格好を見る限り、そっちは旅の途中だろう? オレたちのことはほっといて、のんべんだらりと行ってくれ」
「ええ!? せっかく手伝ってくれるって言ってんのにもがががが」
「ワグ! オマエはちょっと黙ってろ!」
トサカを立てた妖精がフードの言葉に反応したところで、ニット帽を被った妖精がすかさず口を塞ぐ。
どうやら警戒されているらしい。
ホープが察したことを、言葉にされずとも表情から感じたのだろう。
背後で騒ぐ2人を呆れた目で見ていたフードは、観念したようにため息を吐きながら振り返ると、髪の隙間から猜疑心に塗れた視線をわずかに覗かせた。
「──ま、そういうことだ。せっかく声をかけてもらっておいてなんだが、アンタを信用する気はこれっぽっちもない。だからさっさとよそにいってくれないか?」
「ウィンキー、そこまで言う必要は……」
「ロブは静かにしてな」
意識したように意趣返しめいた台詞は、効果覿面だったようだ。ニット帽はむっ、と拗ねた風に唇を尖らせたまま黙り込んだ。
自分が原因で3人を揉めさせてしまったことに、ホープの胸がぎゅっ、とわし掴まれたみたいに痛む。
けれど、ここでひたすら落ち込んでいるわけにはいかない。モルドレッドは、きっと自分のそういうところを疎んでいたに違いないのだから。
だから──
「──……幸運の、祝福を」
ホープは目をつぶって、手を組んで、魔力を自らが理想と思うカタチへと変換し、世界に解き放った。
木漏れ日のように心地よく、春風のように柔らかく、花香のように安らかな魔力が、ノクナレアの魔力が支配していた空間を塗り替えていく。
「──」
それは3人が瞬きを終えるまでの、ほんの一瞬だけだったが、この妖精國においては絶対的な隙に等しかった。
にもかかわらず3人がなんのアクションも起こせなかったのは、少女から放たれた魔力があまりにも、優しく、清らかで、綺麗に見えたからだ。
「───!」
一番最初に我に返ったのは、やはりフードを被った妖精──ウィンキーだった。
相手がその気なら、自分たちは今頃死んでいた。
あれだけ警戒していたくせに、どうして気を抜いてしまったのかと後悔しながら、グロスターで仕入れてきたナイフを抜き放ち、少女へ振り下ろそうと目論んで──
「あーーーーーー!」
トサカ頭──ワグの叫びに、勢いよくつんのめった。
普段からお調子乗りでやかましいとは思っていたが、この窮地にいたってもそれを貫くとは。怒りを通り越して感心すらしてしまう。
しかし振り向くわけにはいかない。目の前にはまだ敵──かどうかはわからないが、目的がまるで読めない存在がいるのだから。
だからウィンキーは、振り返ることなくワグを怒鳴りつけようとして。
「見つかったーーーーーーーーーっ!!」
「──なに?」
「落とした商品だよ! 足元! 足元にあったんだ!」
今度は、振り返ることを我慢できなかった。
そこにいたのは呆気にとられたロブと、手のなかに小さな木箱を持っているワグ。
その木箱は、ウィンキーたちがブラックドッグから逃げてる最中に落としてしまった、見栄っ張りのムリアンが所望していたネックレスを納めてある木箱にそっくりだった。いや、そのものだ。
「……中身は?」
「ある! あるぜちゃんと! 傷ひとつない新品だ!」
「それどころか木箱にも掠り傷がついてない……オレたちゃまったくツイてるなぁ!」
ワグとロブはそう言って仲良く肩を組んで飛び跳ねているが、ウィンキーに言わせれば都合がよすぎるとしか思えない。
落とし物はすぐそばに、心配していた傷はなく、万事快調めでたしめでたし。
世のなかが、そんな風に上手く回ってくれるなら、ウィンキーはこうして盗賊くずれのケチな行商人になっていなかっただろう。つまり、これは第三者の干渉によってもたらされたものだ。
そして、この場における第三者とは──目の前の、風の氏族らしき少女しかいない。
「……オマエ、なにした?」
「わ、わたしの祝福を使いました。幸運の祝福です」
「幸運の……」
たまらず問いただすと、少女は意外にも素直に答えてくれた。
幸運の祝福。
なるほど、確かに今の状況は幸運以外のなにものでもない。正体不明に説明がついて、ウィンキーはひそかに胸を撫でおろした。それから、こう思った。
──上手くやれば、売れるかもな。
ちら、と不思議そうに首を傾げている少女を見やる。
「?」
どういう事情があるか知らないが、おそらく1人でここまでやってきたのだろう。青いショートのくせっ毛はぼさついているし、ドレスはあちこち汚れていて、羽にはシミができていた。百人中百人がみすぼらしいと答えるだろう。
だが、傷はあっても五体満足なこと、慎ましやかだが気品が漂っていること、さらに先ほどの幸運の祝福を身につけていること。それらを鑑みると、案外上級妖精だったりするのかもしれない。
そして、見ず知らずの相手にも祝福を降り注がせる間抜けっぷり。
ウィンキーは決めた。
よし、売ろう。
「ロブ、ワグ。こっち来い」
「うん? なんだよウィンキー、内緒話か?」
「いいから」
ちょいちょいと2人を手招きして呼び寄せる。少女には、ちょっと自分たちだけで話をしたいから距離を取ってくれと頼んだ。
少女はこれにも大人しく従って、そういう従順さもまたウィンキーの商売欲を刺激した。
そして少女に聞こえないように声をひそめながら、自分の案を2人に共有する。
最初は怪訝そうにしていたロブとワグも、金儲けになると聞いた途端、あっという間に目を輝かせた。
「──でも、どこの領地に売る? どの領主に売る?」とワグ。
「ボガードのダンナで良いんじゃないか? あの娘は花嫁としてシッポリ可愛がって貰えばいい」とロブ。
「でもよぉ、ダンナは筋金入りの妖精嫌いだぜ? 機嫌を損ねちゃオレたちの身も危ないよ」とワグ。
「花嫁で無理そうなら、幸運をもたらす妖精ってコトで売ればいい。戦争には願掛けも必要だろ?」
ウィンキーがそう言い包めると、2人はなるほど、と手を叩いて納得してくれた。
話はまとまった。
あとの課題は、少女を騙せるかだけだ。
ウィンキーはごほん、と咳払いして、律儀に待ってくれていた少女に話しかける。
「──お嬢さん、ちなみに目的地はどちらだい?」
「……エディンバラ、です」
「そうか──よければ送っていこうかい?」
「でも、そこまでしていただく必要は」
「まあまあまあ、ひとまず話を聞いておくれよ」
ウィンキーはぺろり、と舌で唇を湿らせて、
「実はオレたち、親切な介護団も兼任していてね。
エディンバラと、それからマンチェスターに、ちょっとした伝手があるのさ。
その格好を見る限り、休み抜きの歩き通しが続いてると見た。
さっきの祝福のお礼も兼ねて、補給でも休憩でもなんでもしていくといい。もちろん金は取らない」
「! ──わたし、お役に立てたんですか?」
「ああ、とっても役に立ってくれたよ」
そして、これからも役に立ってくれるだろう。
「え、えへへ。えへへへ──ありがとうございますっ」
少女はとてもうれしそうに笑ってから、ぺこり、と頭を下げた。
「それでは、よろしくお願いします」
まったく。祝福サマサマだ。
怖いぐらいに、ツイている。