偽伝:異聞の花々 作:頭デルタギア
原作:Fate/
タグ:R-15 残酷な描写 クロスオーバー Fate/Grand Order 仮面ライダー555 ホープ トネリコ 乾巧 妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ 独自設定 独自解釈
独自設定/独自解釈/独自展開アリのクロスオーバーです。
全6話ぐらいで終わる予定です。
ふるさとをほろぼされたかのじょは それでもせかいをすくうために
たったひとりで たびをしていました。
かぜときば つちとはね そしてかがみ
いくつものであいをはたし いくつものわかれをへて
それでもかのじょは ずっとひとりぼっちで たびをつづけていました。
そんなあるひ かのじょはいっぴきのけものとであいます
そのけものは なまえを──
「──バッチリ、貰ったぁ────っ!!」
そんな掛け声とは裏腹に、その一撃はどこまでも鮮烈だった。
これまで味わったことのない激痛と衝撃が全身を走り抜けていき、どさり、とごみ袋が落ちたような音が耳に響く。
そして気が付いたときにはもう、自分は大の字になりながら天を見上げていた。
変わった色の空を背景にした、やけにゆっくりと流れていく雲を眺めているうちに、ああ自分はこっぴどくやられたのだと理解して──そのまま意識を暗黒に放り込んだのが、おそらく数分ほど前のこと。
意識を取り戻して、飛び起きるなり目に飛び込んできたのは、近くを流れている川で濡らしてきたらしいタオルを持って立ち尽くす少女の姿だった。
「あれ、もう起きたんですか?」
金色の長い髪を大きなリボンで纏めた少女は、宝石をはめ込んだように大きな瞳をぱちぱち、と瞬かせながら、まるで同居人みたいな調子で話しかけてきた。
さっきまで殺し合いを繰り広げていた相手とはとても思えないような態度で、ついついこちらの気まで抜けてしまいそうになる。というか、抜けた。
ばたん、と背中から倒れ込むと、少女は小走りで近寄ってきた。
上からひょっこり覗き込んでくると、指を二本立てた右手をぱっと出してきて、
「何本に見えます?」
知るかバカ。
返事をするのも億劫だったので、小さく鼻を鳴らしてやる。
すると少女は顎に手をやりながら、うーんとなにやら考え込みはじめた。
「1時間ぐらいは目覚めないように殴ったハズなんだけど……私もまだまだだなぁ」
……さりげなく恐ろしいことを言われたような気をするが、無視する。
四肢──揃っている。
神経──どこも断絶していない。
殺意──力尽きるまで暴れたお陰か、今は大人しくしている。
聞くべきことが、ひとつだけ見つかった。
なぜ。
なぜ、自分を──
「殺さなかったのか、ですか?」
……さあな。
見透かしたようなこと言ってんじゃねえよ。
「図星、って顔しましたよね、今。
というか、心?
えへへ。実は私、ヒトの嘘とか見抜けちゃったりするんです」
……ウザっ。
「う、ウザいって言いました今!? ひどいっ!」
ウザいのはウザいんだからしょうがねぇだろ。
つーか笑顔が微妙にひきつってて気色悪い。
「こ、こんなに真っ直ぐ罵倒してくる人はじめて会った……。
じゃ、なくてっ! とにかく今はもろもろ置いといて話を聞いてくださいっ」
お前にやられて今ダルいから、手短に済ませろよ。
「もっかいブン殴ってやろうかコイツぅ……!」
少女は青筋をピキピキ立てながらしばらく震えていたが、深呼吸を何度か繰り返して、どうにか元の調子を取り戻した。
そして、先ほどとは打って変わった静かな表情で、こう言ってきた。
「──殺さなかったのは当然です。
というより、
──。
「初めは牙の氏族みたいに、頑健な身体とずば抜けた自然治癒力を兼ね備えているのかと思っていました。見た目も似てますし。
だから再生が追いつかないほどの速度で攻撃し続ければ、必ず殺せると思っていたんです。
でも、殺せなかった。
だから、意識を刈り取る方向に切り替えたんですよ。
私も私で、いろいろ予定が立て込んでいますので、千日手に付き合うつもりはありません」
……。
「質問は終わりですか?
それじゃあ、私の番ですね。
あなたは──何者なんですか?」
──忘れた。
「嘘」
……気づいている。
目の前の少女は、自分が一体何なのか──とっくの昔に気づいている。
理屈はない。根拠もない。
だが、その見透かしてくるような目でわかった。
少女もこちらが察していることに気づいたのか、どこかバツが悪そうな顔をして頷いた。
「……はい。あなたが気絶している間に、記憶を読み取らせていただきました。
ビックリしちゃいました。まさか、この時代で
これも、未来の『私』から意識を伝達された影響なのかなぁ……?」
ぶつぶつ、と小声で呟いている少女へ、無言で問う。
なら、尚更──どうして殺そうとしないのか。
人を喰い尽くしてなお飽き足らず、そこから憎悪と悲劇の連鎖しか産めない──悍ましい異形になり果てた自分を。
「……あなたは、死にたいんですか?」
当然だ。
今の自分には、声が聞こえているのだから。
あの頃とは──■■■■として戦っていた頃とは比べ物にならないほど強い声が。
男のようにも女のようにも聞こえて、そのどちらでもない、低くしゃがれた声が。
四六時中鳴り止まない──■■■■■■の本能に従って人間を殺せという、声が。
その果てに、自分のすべてを懸けてでも『守りたい』と思ったものを。
自分のすべてを擲ってでも『殺したい』と感じるようになってしまった。
「……それは」
今は理解できている。
つまるところ奴も──■■■■■■の王も、必死に生きようとしただけなのだろう。
種の断絶を乗り越えるために。
生まれた目的を果たすために。
きっと、一生懸命生きていたのだ。
守るべき同胞を喰らい、罪もない子供を喰らい、限られたモノにのみ不死を与えるやり方を許したわけではない。
だが、そうまでしても生きなければならない理由があったことだけは、今では認めている。
人間も、■■■■■■も──誰だって『生きていたい』と願うことは、おかしくないのだから。
だから。
だから、奴はきっと、最期の最期に。
反撃でも、防御でも、回避でもなく。
目の前の存在を再誕させることを選んだのだろう。
そして、その結果生まれたのが──今の自分だ。
かつての自分が最も恐れていた──身も心も■■■■■■と化した、自分だ。
「──」
頭のなかまで覗いたくせに、少女は悲痛な表情を浮かべている。
そういえば、格好こそ思わず笑ってしまうが、人間そのものな姿をしている少女に対して、なぜか殺意を抱かない自分がいることに気づいた。
だが、それが一体なんだというのか。それが死ななくてもいい理由にはならない。
「なります」
……。
「あなたが私に対して殺意を抱けないのは、きっと──私が妖精だからでしょう」
……アタマ大丈夫か?
「いま真面目な話してるのでちょっと静かにしてくださいっ!
──ここはブリテン。あなたが暮らしていた世界とは、まったく異なる歴史を歩んだ末に生まれた、妖精たちが過ごす世界」
……それで?
「わかりませんか?
今のあなたが死にたがっているのは、人間を襲うことを恐れてるから──ですよね。
しかし、この世界でもっとも繁栄しているのは、あなたが……正確に言うなら■■■■■■が標的としている人類ではありません。
だから、あなたが死ぬ必要なんてどこにもないんです。
あなたがその殺戮衝動を、誰彼かまわず振り撒きたいと考えているなら、話は別ですけど」
……。
「それに、あなたは私に負けました。であるなら、生殺与奪の権利は私が握っているも同然です」
……お前、知り合いに野蛮人って言われたことないか?
「ありません! 私は知性派なので! で!」
少女は無い胸を自信満々に張っている。
が、実際に殺し合った身としては、動物の皮を身体に巻いた原始人が、よくわからないままに学者の真似をしているようにしか思えなかった。
「…………なにか、ものすごーく不愉快な扱いを受けた気がしますが……まあ、いいでしょう」
少女は言葉を切ると、ふと誘われたように空を見上げた。
そこにあるのは、手を翳したくなるような青ではなく。
届かないと知りながら、それでも手を伸ばしたくなるような黄金。
少女は目を細めながら、その空を眺めている。
焦がれるように、憎むように。
黙って、ただ眺めている。
「──実は私。旅を始めたばっかりで、仲間がひとりもいないんですよね。でも正直なところ、他の妖精の力とかあんまり借りたくなくて。何せ、故郷を滅ぼされちゃってますし?」
…………だったら、なんだ?
知ったことかよ。
「まあまあ。勝手に頭を覗いたのはこれでチャラということで!
そういうワケで、あなたを仲間にします」
は?
「妖精國とは無関係。牙の妖精に勝るとも劣らない頑健さ。底無しの生命力。そして、不死身の身体──うん! 長く使い潰すにはピッタリの人材です!」
おい。
「というのは、まあ、半分冗談で」
半分は本気なのかよ。
「もちろん本気ですとも。なにを利用してでも、私には叶えたい夢があるんですから」
……夢?
どんな。
「この世界を──
……それは、また。
随分スケールの大きい夢だな。
「でしょう?
でも、それを叶えるには、今はなにもかもが足りていません。
力も、知恵も、知名度も、仲間も。
だから、あなたを最初の一歩にします」
そんな面倒くさいこと、やると思うか?
やるわけねぇだろ。
「『声』を、無くすまでには届かずとも、抑える方法があるとしたら?」
────。
「『声』の封じ方を身に付けた上で、あなたが元いた世界に帰る術が、見つかったとしたら?」
────あり得ない。
そんな、都合の良すぎる妄想は。
「ええ、そうです。
これは夢想。化生となったヒトが、それでも求めた夢のカタチ。
けれど、どうして『あり得ない』なんて思うのですか?」
言わなくてもわかるだろう。
そんな手段が、もしあったのなら──アイツらは。
一体なんの為に悲しみ、苦しんできたのか。
「それは、あなたの世界の話でしょう?」
────。
「言ったハズです。ここはもう、あなたの知ってる世界じゃないと。
だから決して、行き止まりなんかじゃありません。
あなたにもまだ──夢を見る権利は残されているんですよ」
それに、と少女は続ける。
「例え、あなたが■■■■■■だとしても──だからこそ。為せることがあると、私は思います。
いえ……私が、証明してみせます。
人ならざる怪物であろうと。
國に拒まれた魔女であろうと。
夢に手を伸ばしてもいいのだと、世界に認めさせてみせます」
夕陽が沈み、辺りが赤紫色の闇に潜んでいく。
そんな暗がりにあってなお、少女はひときわ強い輝きを放っていた。
「……きっと、今は信じられないかもしれません。
だから、私を信じてください。
殺意の嵐に呑まれて、大事なものを見失ないかけて。
それでも人を守りたいと願って。
……死を乞いながら、波間に身を投じた。
そんなあなたを信じると決意した、私のことを」
輪郭を夕焼けで染めた、金砂の髪。
力強い意志を宿した、翡翠の瞳。
それよりも、なによりも。
その声に、言葉に───たぶん、見惚れていたのだと思う。
「そうですね。まずは」
黄昏色の空の下、暖かな風が吹く丘の上。
きっと、自分は───
「私と一緒に───世界を救ってみませんか?」
───
▼ ▼ ▼
あなたがもし、妖精國で平穏に過ごしたいと願うのならば、覚えておかなくてはならないことが山のようにある。
ひとつ、風の氏族と土の氏族のどちらかには必ず肩入れすること。
ひとつ、年に一度の“存在税”に必要な魔力はちゃんと用意しておくこと。
ひとつ、牙の氏族か人間でないのならモースは相手にしないこと。
ひとつ、キャメロットの裏側にある“大穴”には罪人以外近づかないこと。
ひとつ、雨が降ったあとに東の国道を使ってはいけないこと。
自分の両手両足だけではとても足りず、隣の隣のそのまた隣の手足を借りてきて、それでようやく揃えられるのは、あくまでも要点のなかの要点のみ。
仮にすべてを指折り数えるつもりがあるのなら、村どころか都市ひとつの住人を総動員しなければならないぐらいには、妖精國に散りばめられている常識は多かった。
しかし、幸いというべきか、「これさえ覚えておけば、命の危機ぐらいは少なくなる」といったルールは、すぐに知ることができる。
そのルールとは、こんなものだ。
──女王陛下と妖精騎士には逆らうな。
妖精國における女王陛下とは、言わずもがな。
疆界を拡げ、妖精國を築きし王。すべての妖精にとっての、絶対的な支配と恐怖の象徴──モルガンに他ならない。
ブリテンの中心部たる罪都キャメロット。その玉座に居座り、2000年もの間ずっと、そしてこれからもブリテンを永遠に支配し続けるであろう、最果てのオークニーより舞い戻りし魔女。
彼女が一たび杖を振るえば、とるにたらない妖精は呆気なく吹き飛び、発展を積み重ねてきた都市は粉々に砕かれ、おそろしい『厄災』は跡形もなく討ち滅ぼされる。
ゆえに命が惜しければ、女王陛下には決して逆らってはいけない。
そして、妖精騎士。
それは、襲いくる数多の厄災からブリテンを守護するべく集った、女王に次ぐ魔力を持つ、妖精國屈指の強者たち。
モルガン陛下の手によって、異世界の騎士の名を『着名』させられ、生まれた目的を果たすために日々を生きる妖精が住まうこの國で、自身の敗北と引き換えに誰にも
ブリテンでもっとも恐れられている妖精騎士。
『黒犬公』──太陽のガウェイン。
ブリテンでもっとも嫌われている妖精騎士。
『妖精殺し』──妖弦のトリスタン。
ブリテンでもっとも美しい妖精騎士。
『妖精國最強』──湖光のランスロット。
ブリテンでもっとも謎めいている妖精騎士。
『沈黙卿』──赤雷のモ■■レ■ド。
彼の騎士たちは──1人を除いて──様々な危機からブリテンを守ってくれる厚き盾だが、同時にモルガンがくだした裁定を躊躇なく実行する、冷たく無慈悲な剣でもある。
それに抗うということはすなわち、女王陛下に抗うことへと直結している。
ゆえに命が惜しければ、妖精騎士には決して逆らってはいけない。
この2つのルールを守っていれば、あなたの身に降りかかる火の粉の数は、格段に少なくなるだろう。
もっとも──それで命の保証がされるわけではないのだけれども。
▼ ▼ ▼
妖精國の南部では、甘いものはとても貴重な品物として扱われている。
数百年前にエディンバラにて勃発した『おかし革命』によって、妖精國における甘みを北部が独占している状況が続いていることに加えて、女王が果物などの加工を禁じているためだろう。
さすがに上級妖精ともなれば、お菓子のひとつやふたつぐらいは手に入れられるが、下級妖精と上級妖精の間にどれほどの格差があるかを考えてみれば、やはり貴重品であることに変わりはない。
だから、みんなはきっと、ホープに頼んできたのだ。
──ねえ知ってる? 風のうわさで聞いたんだけど。
──こっちには流れてこない エディンバラにしかない 珍しいお菓子があるんだって。
──チョコレートって いうんだって。
──茶色くて かたくて 板みたいな形をしてて とびっきりに甘いんだって。
──うらやましいなあ ほしいなあ。
──けれど エディンバラまでいくのはとってもあぶないし とっても面倒だよ。
──誰か チョコレートを持ってきてくれないかな。
──そうだ そうだ! あいつがいた!
──ボクらののぞみをかなえてくれる とってもべんりな妖精が!
断ることなど、ちっとも思いつかなかった。
だってホープは、人々に希望を振りまくために、この世に生まれてきたのだから。
それに、ホープが誰かの願いを叶えるために動くのは、これが初めてではない。
祭が終わったあとの掃除や簡単なおつかいといった、非常に些細なことから、畑を襲う害鳥退治や日照権をめぐって揉める土の氏族と風の氏族の仲裁といった、すこし危険が伴うことまで。
ひっきりなしに放られる願いを、ホープは頑張って叶え続けてきた。その過程で助けられたことはなかったし、感謝してもらったこともない。
だけど。
逃げることなど、かけらも考えなかった。
だってホープは、誰かの助けになれているだけで、満足だったのだから。
年々増加の一途をたどるモース、森と野原を闊歩する獰猛な獣、さまよう野良の妖精を狙ってはびこる奴隷商人。それらすべてをくぐり抜けるのは、決して容易くはなかった。
証拠として、元からくせっ毛気味だった髪はより強く跳ねっかえっているし、素肌はすり傷を負ってない部分を探すほうが難しいぐらいのあり様だったし、茶色と水色が入り混じったごまだらの羽はところどころが薄汚れている。
もし無事に戻れたとしても、門番はそう簡単に街へ入れてくれないだろうなと自分でも確信できてしまうぐらいには、今のホープはボロボロだった。
それでもどうにかやってきて、朝と夜を何度も繰り返して、ホープはようやく北部までたどり着いたのだ。
もっとも、チョコレートが手に入ると噂されるエディンバラまでは、まだまだ距離が残っていたけれど。あともう少しだけ頑張れば、自分は役に立てるのだと──誰かの希望になれるのだと思えば、ホープは幾らかの力を取り戻すことができた。
取り戻すことが、できてしまった。
「────は、あ。はあ、はあっ」
たまらずといった風に唇からこぼれ落ちた吐息を、ホープはあわてて掌で抑えつける。
表面がたちまち汗ばみ、行き場をうしなった熱気が不満を発散するように体内で暴れだす。不快な感覚に眉をひそめながらも、それでもホープは声を殺して、野原に点在する岩陰のひとつに隠れつづけた。
なぜ。
理由は、すぐ近くにあった。
へどろを纏ったような毛皮、正気を失った眼差し、瘴気めいた唸り声。
血生臭く、忌まわしく、呪わしい気配。
6つの氏族のどれでもない、どこから来たのかもわからない、正体不明の嫌われもの。
確かなことをひとつだけ言えば、このブリテンでただ一種、同族喰らいの業を担う
「─────」
ブラックドッグが、そこにはいた。
ホープは目をつぶって、ブラックドッグについて知っている限りのことを思い出す。危機的状況に置かれているせいか、思考回路は普段よりも早く回ってくれた。
死にゆくものの腐臭を嗅ぎ取って現れる。
牙の氏族にかけられた呪いのひとつと言われている。
かじられた妖精は、あまりの激痛に悪妖精化してしまう。
北と南で出没頻度が違うモースに比べてどこにでも現れる。
要するに、絶対に遭遇してはいけない相手である。
モースさえも喰らうことができるため、牙の氏族のなかには、調教して使役する部隊もいるらしい。間近でその存在を感じたからこそ、ホープにはとても信じられなかった。
あれはきっと、目に映るなにもかもを喰らい尽くすまで、決して満ち足りないだろう。その標的は敵だけではなく、いつか首輪をつけたものにまで及ぶはずだ。
「ひゅ──ふっ、はぁ、はあ……」
落ち着きを取り戻していく呼吸と相反するように、心は絶え間のない焦燥につつまれていく。
逃げられるだろうか、と考えて、すぐさま無理だ、と結論づける。
ホープが今いる場所は、身を隠せる程度の石があちこちにあるだけで、ほとんど平原に近い。
さらに運の悪いことに──ブラックドッグは複数匹いた。1匹から逃げられたところで、すぐさま他に追いつかれる光景が、勝手に頭に浮かんでくる。思わず頭を振ったけど、妄想は強く焼きついて離れない。
怖かった。
待ち受けている苦痛が。
走り寄ってきている喪失が。
なによりも──
生まれた目的さえ満足に果たせず、これまでの年月を無駄にするしかない自分に対する、失望が。
「……ひっ、う」
黒犬の口から流れ落ちた瘴気が、空気を介してこちらの胸を侵しているかのような、どす黒い気分が沸き上がってくる。
蝿に産みつけられた卵がいっせいに孵化したみたいに、心臓のあちこちでうぞうぞと蠢いているのがわかる。
姿勢を丸めて守ろうとするが、敵は内側にあるものだから、どこにも逃げ場がない。だけどホープはつい我慢できなくなって、なにもかもから目を背けるように、腕と膝のなかに強く顔を埋めた。
それが良くなかったのかもしれない。
あるいは、ホープの居場所にはとっくに気付いていて、恐怖心を煽り立てるためにわざと無視していたのかもしれない。
1匹のブラックドッグが、ふと何かに導かれるように立ち止まり、ホープが身を隠している岩に視線を向けた。
草が風に揺れ動く音。
仲間が辺りを歩き回る音。
虫が居場所を荒らされて逃げ惑う音。
そのわずかな隙間に潜り込むように、怯えるかすかな吐息の音。
──みつけた。
獣は言葉を話せない。しかし、そう考えていることが瞬時に見て取れる、邪悪な笑みをブラックドッグは浮かべた。
彼我の距離、もはや数歩といったところ。
しかしブラックドッグは焦ることなく、足音を極限まで殺しながら、ゆっくりとした歩調で獲物との距離を詰めていった。
この期に及んで、獲物を取り逃がす愚を犯すつもりはない。そして、わざわざ仲間に分け前をやるつもりもない。
──ひとりじめしてやろう。
──あたまも てあしも はねも しんぞうも。
──ぜんぶ ぜんぶ ひとりじめしてやろう。
信じられないほど甘く芳しい香りが鼻腔を駆け巡る。ぽとぽと、と垂れ落ちた涎が地面にシミを作る。
わずかに残った理性の限界は、岩の頂点から垣間見えた、くすんだ青髪を目にした瞬間に打ち破られる。
そうしてブラックドッグが無音のまま、自身の影でさえ追いつかない速度で、岩陰に隠れる少女に飛びかかろうとした瞬間だった。
横っ腹に、それまで考えていたことが丸ごと消し飛んでしまうような、凄まじい痛みが炸裂した。
「────!?」
予想していなかった方向からの衝撃に、ブラックドッグはなす術もなく吹き飛ばされた。
何度も回転を繰り返す視界、撹拌の止まらない内臓。それは遠くの場所にあった岩に勢いよくぶつかることで、ようやく動きを止めた。同時に、その生命活動をも、つつがなく。
突如として発生した轟音と、ずた袋と化した仲間の姿に、他のブラックドッグはいっせいに反応を示した。外敵に対する警戒と、獲物に対する害意が入り混じった、剣呑な空気が一気にたちこめる。
そんな空気をものともしない風に、気だるげに立つ人影がひとつ。
「……」
人影の正体は、男だった。
伸びた分を無造作に一本でたばねただけの、あぶらっけのない煤けた茶髪。黒のタンクトップと灰がかった薄手のジャケット、そして青いジーンズ。着飾るという言葉から、遠く離れた場所で生を受けたように、男の姿は質素をきわめていた。
背丈はおよそ170cm後半の中肉中背。だが手足はバランスを崩さない程度に長く、筋肉は程よく引き締まっている。よく言えばすっきりとした無駄のない体型、悪く言えば平凡な──妖精國のなかでは──見目をしている。
ただひとつ、変わったところがあるとすれば、右手に握られた小箱だろうか。
妖精が嫌う鉄の臭いを漂わせているが、まず武器とは思われないだろう。なぜなら、剣のように鋭い刃を携えているわけでもないし、弓のように安全な距離から攻撃を加えられるようにも見えないからだ。もちろん、掌に収まる程度の大きさで、盾になれるはずもない。
風の氏族が見れば、窮乏さに目を細めただろう。
牙の氏族が見れば、脆弱さに口を歪めただろう。
土の氏族が見れば、貧相さに鼻を鳴らすだろう。
しかしブラックドッグたちは、目を細めもしなければ、口を歪めもせず、また鼻を鳴らしもしなかった。
彼らは獣であるがゆえに──男の表層……人の皮を剥がした奥にある、濃密な衝動を敏感に嗅ぎ取っていたからだ。
妖精が抱く無邪気なそれとも、人間が抱く粘着質なそれとも異なる。
荒々しく、禍々しく、狂おしいまでに純粋な
──
──
──
ブラックドッグたちは唸り声を上げながら、男を包囲するような形へと移動し始めた。そして、相手がその場から1歩でも動いた瞬間に、四方八方から噛み千切ってやらんと目論みながら、ゆったりと身体を沈ませていく。
男はなにもせず、黙ってそれを眺めているだけだった。
右手は手持ち無沙汰に箱をいじくりつつ、左手はズボンのポケットに突っ込んだまま。殺風景な平原というよりかは、人混みが溢れかえる街中の方がいくらか似合った立ち姿である。
だが、ブラックドッグたちは一切油断をしなかった。
むしろより警戒を高めるかのように、姿勢を地を這わんほど低くした。
一分の隙もない包囲網が完成しても、男は相変わらず無関心に突っ立ったままだった。
ただ、一瞬だけ──すぐそばの岩陰で気を失っている少女に、視線を向ける。男が見せた動きらしい動きは、それぐらいだった。
やがて、場に満ちる緊張の臨界点は、当たり前のように限界を迎える。
「──────!」
1匹が牙を剥き出しながら吠えた。
1匹が前のめりになって跳んだ。
1匹が狂騒とともに駆け出した。
1匹が鋭い爪を振りかざした。
1匹が────
ばらばらな動作と、ひとつの食欲に身を任せて、獣たちはひと塊の波濤となりながら、男へ向かって押し寄せた。
引き裂かれた風が耳障りな悲鳴をあげて、抉られた大地が茶色の血飛沫をまき散らす。
ゆえに、男のジャケットの下に鉄色の帯が巻かれていたことも、男がその帯に小箱を装填したことも、すべて気づかれることはなかった。
もっとも気づかれたところで、一連の動作がどういった意図を持つものか、獣たちが理解することもなかっただろう。
同様に。
男がポツリと呟いた、たった1つの言葉の意味も。
「──変身」
▼ ▼ ▼
ホープが目を覚ましたとき、世界は一変していた。
それは比喩などではなく、文字通りの意味だった。
淡く輝くような黄昏色の空は、深く沈むような濃紺色へと。
南部と比べて肌寒いぐらいだった空気は、突き刺すような冷たさへと。
黒犬が吐き出す餓えた獣声は、夜の虫や草が生み出す穏やかな寝息へと。
夢でも見ているのかと思う。
けれども夢ではないことは、ホープ自身が誰よりも理解していた。ボサボサになった髪の毛、すり傷だらけの肌、ところどころが薄汚れた羽──要するに、夢のなかにまで現実の苦労を持ち込みたくないという、ささやかな抵抗心から出した答えだった。
どうやらその答えは間違っていなかったようだが、ホープにはどうしてもわからなかった。一体どうして、自分が今も生きていられるのか。
ブラックドッグの群れに囲まれた瞬間の恐怖は、鮮明に思い出すことができる。それから、どうにか岩陰に隠れて、必死に息を殺していたことも。
そこから先の記憶はすっかり抜け落ちているから、たぶん気絶してしまったのだと思う。
やっぱり、と確信する。
あのときの自分は、間違いなく絶対に、妖精國における『死』の一歩手前まで、追い詰められていたはずなのだ。
何をどうやったのかは検討もつかないが、きっと自分はあそこから何らかの手段を使って、窮地を脱することができたのだろう──なんて、恥知らずなことを臆面もなく言うつもりはなかった。それだけの力を秘めているのであれば、こんなにも苦労していないのだから。
ということは、やっぱり。
「……夢?」
ホープはそう呟いてから、躊躇いつつも自分の頬へ指を伸ばした。
かき集めた勇気を奮える指先に集中させて、思い切ってえいやっと引っ張ってみる。
「いひゃ!」
普通に痛かった。
なんなら気合いを入れた分、倍増しで痛かった。
「……うう」
ひりひり、と無言の抗議を示してくる頬をなだめつつ、ホープは自身の思考が袋小路に入り込んだことを、あらためて実感した。
夢ではない。
だが、夢でなければあり得ない。
霧のなかに彷徨いこんでしまったかのような、心許ない気持ちが徐々に募っていく。命の危機は遠ざかったというのに、全身を包む悪寒はいつまでも纏わりついて、ちっとも去ってくれない。
どうしよう、とホープが頭を抱えかけたそのときだった。
視界の端、空の中ではなく地面の上で、小さな星が光っていた。
「?」
不思議に思って、しっかり目を凝らしてみれば、それは星というより炎だった。
すべての夜を切り払うつもりなら心許なさすぎるが、自分の周りだけを照らすだけなら十分心強い大きさの炎。ホープはほとんど無意識で、吸い込まれるように炎へと近づいていく。
徒歩にしておよそ十数歩。ホープが倒れていた位置から少し離れた場所で、その焚き火は軍務を果たす兵士のごとく、寡黙にゆらゆらと揺れていた。
焚き火の周囲には、丸まったブランケットと、似たような見た目をした茶色い布袋がふたつ置いてある。布袋はどちらも、ホープが持ってきた荷物入れにそっくりな見た目をしていた。きちんと中身を確認しなければ、間違えて持って行ってしまいかねないぐらいには。
「……」
明らかな他者の痕跡を前にして、ホープが選んだ答えは──休息だった。
状況に対する困惑だけでなく、旅路の疲れが蓄積していたのかもしれない。誰がつけた焚き火なんだとか、なんで荷物がふたつもあるのかとか、色々考えていたことは、いつの間にか炎にまかれて消えていた。
焚き火のそばでしゃがみ込み、そっと両手をかざす。染みついた夜の寒さが、薄皮をめくるみたいにゆっくりと剥ぎ取られていくのがわかった。
ほう、と安堵の吐息をつく。
そして、このまま疑問も一緒にどこかに行ってくれないかな──なんて、都合のいいことを考えて。
「どけ」
背後から投げかけられた声に、ホープの心身はふたたび凍りついた。
石像のごとく固まって、ぴくりとも動かないホープを見て、どんなことを思ったのか。苛立たしげに舌打ちを繰り出したあたりを見ると、少なくとも愉快ではないことだけは確からしい。
怯えてますます動かないホープに、とうとう痺れを切らしたのか。声の主はため息を短く吐くと、ザッザッと乱暴に足音をたてながら、迂回するような形で姿を見せた。
焚き火に照らし出されたのは、男の姿だった。
ホープは一瞬、自分と同じ風の氏族だと思った。細部をのぞけば人間と瓜二つな容姿に、不機嫌さに染まりながらも端正な顔立ち。
しかし羽がないことに気づいて、そうではないと考え直す。なによりも、妖精なら誰もが持ち得る神秘の気配を、彼からはまったく感じとれない。
人間と同じ姿で、妖精の神秘を持たない存在。
という、ことは。
──人間、なのかな。
妖精たちにとって、人間は大切な栄養素である。
なぜならば、人間がそばにいるだけで、妖精の幸福度および精神的充足は、簡単に高まるからだった。
特に今のブリテンでは、女王の命によって、人間の出荷数は厳しく制限されている。どこにも登録されていない──いわゆる野良の人間と出会う機会は、人間をあてがわれることのない下級妖精らにとって、一生に一度の幸運と言い換えても過言ではない。
しかし、ホープは内心首を傾げた。
なぜだろう。
どうしても、どうしても──彼を人間とは思えないのだ。
さっきまでの怯えはどこへやら、ひたすら注視するホープをよそに、男は抱えていた木の枝を雑に投げ捨てると、ホープの対面に腰を下ろした。
そして、重たげに布袋のひとつを引き寄せてから、中身を覗き込んで──
「……」
嫌なモノを見た、と言わんばかりに顔をしかめて、唐突にホープへ向かって投げつけてきた。
ホープは焚き火にかすりかけたそれを慌てて受け取ると、おそるおそるといった風に男を見る。男はただ、面倒くさそうに首を振るだけだった。
なんだろう、と思って中を見る。
真っ白なドロワーズ。
下着である。
口にせずともわかるかもしれないが、あえて断言しよう。
ホープの、下着である。
「…………──〜〜〜ッ」
瞬間湯沸かし器を使ったって、こう早くはいくまい。
それぐらいの速さで顔を真っ赤に染め上げたホープは、声にならない声を上げて、大急ぎで布袋を閉めてから、二度と中身が見えなくなるように入り口をぐるぐるに縛り上げた。
息を荒げているホープとは正反対に、男は落ち着いた様子で自分の荷物らしい袋から、小ぶりな鍋とカップと水袋、それから褐色のゼリーを取り出していた。
まずは鍋を半分くらい水で満たしてから、焚き火の上に吊るす。そして充分に煮立ったと同時に、ゼリーと少量の塩を投入していく。数分もしないうちに、牛肉の脂っぽい香りが立ち込めてきた。
男はすん、と匂いを嗅いでから、鍋にへらを突っ込んで、ゆったりと回し始める。
今がチャンスだと、ホープは判断した。なけなしの勇気を振り絞り、男に向かって話しかけるチャンスであると。
「あ、あの」
「……」
男は黙して語らない。
「こ、こんばんは」
「…………」
男は黙して語らない。
「えと、その、どこの氏族の方ですか?」
「………………」
男は黙して語らない。
「あのぅ、そのぅ、お、お住まいは……」
「……………………」
男は、黙して、語らない。
キャメロットの門扉よりも固く閉じられた唇は、おそらくホープでは数百年かけてもこじ開けられないだろう。
しかし諦めず、ホープが再度干渉を目論んだそのときだった。
がさり、と。
背後で、なにかが擦れる音がして──
「ひっ────」
悲鳴混じりに振り返る。そこには誰もいない。
だがホープには、ブラックドッグの幻影がしっかりと見えていた。
そいつは今にも飛びかからんと四肢を縮めて、三日月のように裂かれた口からよだれをぽたぽた零しながら、じっとこっちを眺めている。
いなくなったはずなのに、今もなお。
「……」
いつになったら、この恐怖から解放されるのだろうか。
ホープが苦悩に苛まれているところを尻目に、男は出来上がった携帯用スープを、こぼさないようにそっとカップに注いだ。
液体を注ぎ込まれ、頭から白い湯気を吐き出し始めたカップを、大事そうに両手で持つ。
そして、これからキャメロットの大穴へ飛び込むのだと言わんばかりの、決死さが浮かぶ表情を作りながら──息を吹きかけ始めた。
何度も、何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も──
作品の出来を執拗に見分する土の氏族さながら、男はスープを冷まし続けていた。
その姿がどこかおかしくて、なにもかもに怯えていた自分がなんだかバカみたいに思えてきて、ホープはたまらず小さく噴き出す。
すぐさま後悔した。
聞き咎めた男が、もの凄い形相でこっちを睨みつけてきたからだ。
「ご、ごめんなさい……っ!」
「……」
「あ、あの。本当に、ごめんなさい。わたしにあげられるものなら、なんでもあげますから。だから、どうか、お赦しを……」
ホープがすかさず、いつものように平伏しようとすると、初めて男が話しかけてきた。
「迷惑だ」
「えっ……」
「それ。迷惑だから、やめろ」
言葉少なに拒絶を示して、男はふたたび口を閉じる。
呆然としていたホープは我に返って、男の様子を窺いながら姿勢をなおした。
いつもは、こうしていたのだ。
望まれた願い事を、力およばず叶えられなかったとき。
あるいは、叶えられたとしても、思うようにはできなかったとき。
そして、自分の不手際によって、相手を怒らせてしまったとき。
ホープはいつだって頭を下げて、自分が持っているなにかを差し出してきた。
ときには、朝に摘んだ花になって。
ときには、こつこつ貯めていたお金になって。
ときには、大事にしてきた家具になって。
ときには、“存在税”にそなえて貯蔵していた魔力になる──そんな、なにかをだ。
ホープが知っている妖精たちは、当たり前のような顔をして、それを受け取ってくれていた。
だから、これはきっと「正しい」行いなのだとホープは信じていた。目的さえ遂げられなかった間抜けな自分が最後にできる行いなのだと感謝すらしていた。
でも、彼は断った。
どうしてなのかはわからない。
わからないけど、きっとまた──自分は役に立つことができなかったのだと思う。
──お前なんかに頼んだのが間違いだったよ、役立たず。
──
──こんなのより、もっとたのしいことを探しに行こう!
キャメロットの大穴の底に打ち捨てられた後のような、抗いようのない暗闇が視界をじわじわと占拠していく。ブラックドッグたちに包囲されていたときとはまた異なる失望と絶望が、ホープの胸を埋め尽くす。
だから、なかなか気づくことができなかった。
「おい」
二度と話しかけてこないと予想していた男から、みたびの呼びかけ。ホープが顔を上げると、そこには濛々と湯気を放つカップがあった。
べつに用意したものなのだろう。男が使っていたものは地面に置かれている。しかし一体なんのために用意されたのか──?
そこまで考えて、カップが自分に向いていることを改めて見て、ようやくホープは男がさっき作ったスープを分け与えてくれているのだと気づいた。
「──……わ、わたしなんかのために、用意していただくなんて」
本日何度目になるかわからない「なぜ」が出る前に、ホープの口から零れ落ちたのは言いなれた卑下の言葉。
だが男は気にも留めず、つまらなそうな顔をして淡々と告げた。
「そうやってウジウジすんのが、おまえの癖か?」
「……ごめんなさい」
「すぐ頭下げるところもだな」
「……」
もはや身動ぎひとつできなくなってしまったホープに、男は容赦なく続ける。
「わかったら、黙ってこれ飲んで、さっさと寝ろ」
強く差し出されたカップを断る選択肢など、最初からホープにはなかったのだろう。
ぺこり、と小さく頭を下げてから、貴重品を扱うようにカップを受け取ろうと手を伸ばす。その際、腕に引き攣るような痛みを感じて、ホープは動きを止めた。
それを見た男はふん、と鼻を鳴らすと、押しつけるような形で強引に持たせてくれた。そして、ようやっとマシな温度になってきたらしい自分のカップを両手で持って、ちびちびと飲み始めた。
「……」
元来、妖精が食事を摂る必要はまったくない。
笑ってしまうほど長寿であり、強靭な生命力を誇り、ただそこにいるだけで生きていけるからだ。
よって今の妖精國で作られている料理は、すべて人間文化を『模倣』したものでしかなく、食事の有無が生死に直結しない妖精たちにとって、それはいわば好奇心を満たすためのごっこ遊びに過ぎず──それは、ホープも例外ではなかった。
要するに、飲む必要はなかった。
だが、飲んだ。
そして、思った。
今ほど──そう、今ほど。
「……あったかい……」
そう感じたことは、ない。
焚き火に手をかざしたときとは比べ物にならないほどの暖かさが、身体全体に行き渡っていた。その暖かさを齎してくれたのが、ホープの知っている常識からかけ離れた行動を繰り返す男というのが、余計に彼女の情緒をおかしくさせていた。
じんわりと滲んでくる目をこすりながら、そういえば自分は、男の名前ひとつさえ知らないことに気づく。
ブラックドッグの群れがどうしていなくなったのか。どうして自分は無事なままなのか。わからないことは沢山あるけれど、こうやって温かなスープをもらったことだけは確かだ。
「あの……」
だからホープは、男に名前を尋ねた。
もし答えてもらえなくても構わなかった。
けれど男はしばらく考え込み、短く答えた。
「───
ホープはそこから先で起きた出来事を、出会いを、別れを。
コーンウォールの『名なしの森』が身にまとう、忘却の霧に包まれるときまで、何度も、何度も思い返すことになる。
それは、ホープの孤独な旅の終わり。
今はもう無い、春の記憶が産まれた日。
──忘れたくなかった夢のはじまりだ。