偽伝:異聞の花々 作:頭デルタギア
───雨が、降っている。
どろっとしていて、熱っぽく、鉄の臭いのする雨が。
妙に明るい夜の空から。
ぽつ、ぽつ、ぽつと。
いつまでも、降り続けている。
いつの間にか、仰向けになって寝ていた自分に向けて。
いつまでも、いつまでも。
鬱陶しい。
だから右手で遮ろうとして、そもそも右腕がないことに気づいた。
だったら左手で。
こっちも見当たらない。
どういうことかと抱いた疑問は、すぐに解消された。
上にあった。
千切られた右腕と左腕が、木々に並んで吊るされている。
妙に身体が軽いと思ったら、そういうことだったか。
立ち上がって、取りにいかなければ。
そう思って、両足の感覚を手探りで見つけようとする。
見つからない。
目をゆっくりと下に動かす。
同じように千切れた両足が、遠くに転がっていた。
つまり自分は、手足がなくなった、いわゆるダルマになっているわけで。
不便だな、と思う。
その次の瞬間、こちらが意識を取り戻したのを察知したかのように、手足が震えだした。
どうしたんだと眺めていると、突然四肢の断面から、灰色の触手が這い出してきた。
触手はしばらく蠢めいてから、やがて引っ張られた紐のようにぴん、と張りつめて、伸びる。
その行く先は──震えながらぶら下がる両腕と、転がった両足。
触手はそれらの断面に先端をくっつけると、離れないよう固定してから、高速で戻ってきた。
掃除機のコードを戻したみたいだなと考えているうちに、手足は断面のそばまで来て。
ぐちゃり、ぐちゃり。
薄気味悪い音が立つと同時に、失われていた手足の感覚が、一気に復活した。
気色悪いが、これでようやく立つことができる。
気だるさを感じながらも、ゆっくりと起き上がり、ゆっくりと立ち上がった。
視界が一気に開けて、ここが森のなかだということがわかった。
当然、自分以外の誰の姿もない。
帰ってきた手足をぽんぽんと叩いて労いながら、さて、と考える。
自分はなにか、しなければならないことがあったはずだ。
どうも頭がぼんやりしているから中々思い出せないが、とても重要なことだった。
それを成さなければ、自分が生きている価値などひとつもないような。
頑張って思い出そうとするのだが、脳味噌は大事な部品が欠けてしまったみたいに働かない。
いっそ頭をほじくり返そうかと考えて──気づいた。
油の匂い。
煙の匂い。
炎の匂い。
どこかで──なにかが燃えている。
とても大きな、なにかが燃えている。
本能が『近寄るな』と疼いた。
理性は『行かなければ』と応じた。
迷ったすえに、理性を選んだ。
そこにいけば、なにかがわかるかもしれないと思ったからだった。
自分が置かれていた状況を説明してくれる、なにか。
自分が成さなければならない目的を教えてくれる、なにか。
……頭が痛む。
とにかく行こう。
木々の間から垣間見える、かすかな光を目指して、歩き出した。
▼ ▼ ▼
どれだけ歩いただろうか。
闇のなかでは、時間も方向も容易に狂う。
加えて、ずっと纏わりついてくる血の臭い。
初めは、自分の身体から出ているものだと思った。
それもあったが、それだけではない。
森全体が、炎のそれに加えて、濃い血の臭いに満ちていた。
ヘリコプターかなにかを使って、空から臓物のスープをぶち撒けたみたいに。
目も耳も鼻も、まるで頼りにならない。
自分の進んでいる道が、本当に正しい方向かどうかもわからなかった。
だから、あてずっぽうに、闇雲に。
ひたすら光を目指して歩いた。
どれほど歩いただろうか。
はじめは蝋燭ほどだった光は、徐々に大きくなっていって。
ついには、太陽がすぐそばに墜ちてきたような眩さが視界を占めた。
どうしてか、舌がやけに痛みを訴えてくる。
全部を無視して、光のなかに踏み込んで──
そこで、燃える都市を見た。
どうやら自分が倒れていた森は、小高い丘のようになっていたらしい。
おかげで都市全体を、見下ろすように眺めることができた。
家も、店も、公園も、広場も、街路樹も、道路も──城も。
己を構成するすべてを薪として、その都市は煌々と燃え盛っている。
──頭が、痛む。
脳味噌にかかったモヤは、まだ拭えない。
だが、自分はここを知っている。
家も、店も、公園も、広場も、街路樹も、道路も、城も。
すべてに見覚えがあった。
──頭が、痛む。
足を撓めて、力を込めた。
着地点を定めると同時に、解き放つ。
地面が砕ける音が響き、刹那、身体は虚空に投げ出されていた。
ごう、と耳元で風が唸り、破り捨てられた空気の膜が、散り散りになって宙へ散る。
そして、落下。
瞬きよりも速く近づいてくる石畳、流線形に溶けゆく景色。
来たる莫大な衝撃に備えて、身体を硬くする。
やがて、着地。
耳をつんざく轟音とともに、濛々と土煙が舞い立った。
半ば埋まった足を引き抜き、煙を腕で払い除け、辺りを見渡す。
そこには。
そこには────
ティップタップ ティップタップ
崩して壊せ 壊して崩せ!
お城 お家 秘密の隠れが
探さにゃそんそん ひとつも逃すな
ボクらのあそびは これから続く!
ティップタップ ティップタップ
殺して燃やせ 燃やして殺せ!
森かげ 岩かげ 家のかげ
狩らにゃそんそん ひとりも逃すな
ボクらのあそびは まだまだ続く!
ティップタップ ティップタップ──
牙を持つナニカが、髭を生やしたナニカが、とがった耳を持つナニカが。
血まみれになって、笑顔になって、楽しそうに遊んでいた。
──頭が痛む。
なにで遊んでいるのだろうと気になり、じっと見つめる。
人間の手足だった。
人間の頭だった。
人間の胴体だった。
人間の内臓だった。
人間の──
──頭が、痛む。
不意に、どこからともなく声が聞こえた。
男のような、女のような、どちらでもないような、低くしゃがれた声。
殺せ。
聞いているだけで、不吉な気分になるような声。
殺せ。
強く、重く、激しく、禍々しく、無条件に従いたくなるような声。
殺せ。
■■■■■■が生まれ持つ、強烈な殺戮衝動をカタチにしたような声。
殺せ。
殺せ。
本能が『従え』と囁いた。
理性は『従うな』と抵抗した。
今度は迷わなかった。
本能に従った。
声に、すべてを委ねる。
途端、ずっと奥底に沈めていた狂暴な何かが、歓喜の雄叫びをあげて浮上を開始する。
ああ、そうだ。
このチカラはたぶん、そのためにあったのだ。
殺して、殺して、殺し尽くすために。
それだけのために、自分に与えられたのだ。
冷水を浴びたみたいに、頭がスッキリしていく。
一歩を踏み出す。
人間で遊んでいたナニカが、今さら気づいて振り返ってきた。
──あれ。
モルドレッド?
殺したのに。
後ろから襲って、バラバラに千切ってやったのに。
なんで生きてるんだ?
気持ち悪いなあ。
まあ、いいか。
もういっかい、殺してやろう。
今度はすり潰しちゃおうか!
けらけら、けたけた。
ニコニコと笑いながら、ナニカたちは近づいてくる。
楽しそうだ。
だから、自分も楽しもう。
一歩を踏み出す。
拳を握る。
知らなかった。
気付かなかった。
こんなにも世界が──自由にできていたなんて。
そこから先は朧げだ。
ただ、悲鳴と恐怖と殺意がずっとそばにあったことだけは──確かに覚えている。
目に映るすべてを殺し尽くしても。
ずっと、ずっと。
▼ ▼ ▼
地面から車輪をのぼって伝わってくる振動を感じながら、ホープは流れゆく景色を眺めていた。
3人の妖精──ニット帽をかぶったロブ、トサカをたてたワグ、フードをかぶったウィンキーと行動を共にすることになって、そろそろ数時間が経とうとしている。
見知らぬ相手と一緒に旅をするのは初めてだったから、最初のホープはそりゃもう大いに緊張していたのだ。
自分の一挙手一投足を気にしない瞬間など1秒たりともなく、大聖堂の周囲に配置されている石像よりも固まって動けなかった。だが、ワグの底抜けた明るさとウィンキーの一歩引いた落ち着きに助けられて、今では随分と話せるようになっていた。
たとえば、チョコレートを手に入れるべく、ソールズベリーからここまでやってきたということを、自分から明かすぐらいには。
「──ソールズベリーから1人で!? すげぇなあー!」
ホープの言葉を聞いたワグが、おおげさに驚いてみせる。
わざとらしいが、この短すぎる付き合いのなかで、これが彼の自然体なのだということをホープは知っていた。つまり彼の表情に浮かぶ驚きと尊敬は本物ということになる。
褒められたことが皆無に近いホープが気恥ずかしさを覚えていると、ナイフを研石で研いでいたウィンキーが、呆れと感心が半々ぐらいで混ざり合ったかのような声で話した。
「エディンバラに亡命するために、北部からやってくるヤツは見たことあるが……チョコレートが欲しくてわざわざ北部までやってくる妖精は初めて見たな」
「主な成分は麻痺、魅了、カロリー!
一度食べたら中毒になっちゃって、あのノクナレアに一生従う羽目になるって話──だっけ?」
おーこわ、と身震いするワグを、ウィンキーは小馬鹿にするように笑い飛ばす。
「ありゃ、そうしたくなるぐらい美味いっていう例えだよ。本当に中毒になるわけじゃない。
第一、そんな効果があるんなら、あの見栄っ張りのムリアンが目を付けないワケがないだろ?」
「違えねぇ!」
ワグがからから、と喉を鳴らす。
そして、今までの会話を背中越しに聞いていたらしいロブが、疑問を投げつけてきた。
「それで、チョコレートはどんな味がするんだ? 食べたんだろ?」
「──ええと」
「あっ! オレも気になる気になる! 畑で遠巻きに見たことだけはあるんだけどなあ。実際お食べになられるのは、上級妖精サマとその取り巻きだけなんだろ? 羨ましいよな怖いけど!」
「確かに……オレもちょっと気になるな。教えてくれるかい?」
ロブは純粋に、ワグは好奇心旺盛に、ウィンキーは控えめに。
大なり小なり差はあれど、ホープがチョコレート経験者であるという前提を、かけらも疑っていなかった。
どうしよう、と思う。けれどはぐらかす術なんて見つからなくて、結局ホープは正直に話すことにした。
「実は……わたしも、食べたことなくて……」
「え?」
「ま、街の皆さんがわたしにお願いしてきたんです。チョコを食べてみたいから、エディンバラまで行ってきてくれって……」
「──」
打ち明けた途端、微妙な空気がその場に満ちて、ホープはたまらず縮こまってしまう。
モルドレッドのときもそうだった。彼も、ホープをどこか別の世界から来た住人を見るような目で眺めてきていた。ホープにとっての『ありふれたもの』を『おかしなもの』として扱うような目で見つめてきていた。
これまでは、そんな目を向けられなかった。だから、自分の生き方は間違ってなんかいないと、無邪気に信じられていた。
自分を犠牲にして誰かの望みを叶えることも、どうしても叶えられなくて『役立たず』と罵られることも、全部正しい流れなのだと、根拠もなく思い込んでいた。
あの瞬間から。
モルドレッドに命を救われた瞬間から。
温かいスープを受け取った瞬間から。
ずっと胸にしまい込んでいた感情を。
ずっと収めておくつもりだった激情を。
ひとつ残らず吐き出してしまったあの瞬間から──自分はどこかおかしくなってしまっているのだと思う。
自分の歩んできた道が、本当に正しかったのか、なんて。
そんなくだらないコトを、考えてしまっているのだから。
「……わたし、おかしいんでしょうか?」
たまらず、言葉を零す。
ロブは答えない。
ワグも答えない。
ウィンキーは──答えた。
「おかしくなんかないさ」
「……」
「信条ってのは、そう簡単に変えられるモンじゃない。
アンタがそういう『目的』の元に生まれついて、今までの行動がその『目的』に基づくものなら──ああ、アンタはひとつも間違っちゃいないよ。
……少なくとも、自分が生まれた『目的』のひとつもロクにわからない野良妖精よりは、よっぽど恵まれてる」
「……そう、でしょうか」
ナイフを器用に弄びながら、ウィンキーはそう言った。
先ほどのホープと同じように、流れる景色を見つめる横顔は、枯れ切った井戸の底めいて乾ききっている。
けれど、最後の言葉にだけは、どうやっても潤ってしまう感情の芯が差し込まれているようにホープは聞こえた。
自分でもらしくないと思ったのか、ウィンキーは失敗したなと言わんばかりに唇を噛んでから、ニヒルな仮面を取り繕ってみせて、
「ま、窮屈だとは思うがね。
──さ、真面目な話はここまでだ。ワグ、なにか一発笑い話を頼む」
「ええ!? ここでオレに振るのかよぅ!」
「当たり前だろ。アホみたいな脳天気さが、オマエの一番いいところなんだから」
「褒めてんのか貶してんのかどっちなんだよ!!」
チクショーやってやる! と発狂して、なんとか渾身の爆笑トークを生み出さんと頭を捻るワグのおかげか、重苦しかった空気はどこかに散らばっていく。
ホープはそっと胸を撫で下ろし、ウィンキーは首をすくめる。あんな気まずい雰囲気はもうゴメン。これから先はずっと愉快な──胸に一物はあれど──旅路になるのだと、誰もが思っていた。
だが、ロブはそう思わなかった。
「ウィンキー」
「うん? どうした、ロブ」
「あとちょっと歩いてから飛ばす。落ちたくなけりゃあ、どっかにしっかり掴まっとけ。
ワグとホープも」
いつになく真剣な様子のロブを見て、弟分たるワグがどこか不安そうに声をかけた。
「どうしたんだよ、兄貴? そんなコワイ顔して……」
「怖くもなるさ。
──ウィンキー、見えるか? 左側、奥の方だ」
ウィンキーはフードを手で押し上げながら、ロブに言われた方向へ視線をやった。
自分たちが移動している整備された国道。
その国道を両側から挟み込むようにして広がっている、膝丈ほどの高さで揃った草の大群が、北風の寒さを受け流すように絶えず揺れている、空と地面の境界線を超えてなおどこまでも続いているような大草原。
そこに、異物がひとつある。
へどろを纏ったような毛皮、正気を失った眼差し、瘴気めいた唸り声。
妖精を粉々に噛み砕くための鋭い牙、妖精をずたずたに引き裂くための歪んだ爪、妖精をぐちゃぐちゃに貪るための大きな口。
この妖精國において、モルガンとトリスタンに次ぐ嫌われ者。
「……──ブラックドッグか」
「ああ。けど、幸い距離は離れてる。こっから全速力で飛ばせば、マンチェスターまで逃げ切れるかもしれねえ」
呟きながら、ロブはすでに移動を開始していた。ただし、ブラックドッグに気取られないよう、ゆっくりと摺り足で。
修羅場の到来を予感したウィンキーから目配せを受けたワグも、覚悟を決めたように荷車の一部を強く掴む。そして、自分たちの逃走を遮るものがないか確認しようと、首を巡らせて──
「──嘘だろ!」
思わず、大きく悲痛な叫び声を上げてしまった。
右側、奥の方。
左側をそっくりそのまま真似たかのような大草原が支配する景色に、同じく異物がひとつ──いや、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
「兄貴! 群れだ! ヤツら、群れで囲んできてやがるっ!!」
「何ぃ──!?」
ロブがさらに大きな声を上げて、急いで周囲を確認する。
ワグの言葉は嘘ではなかった。草原のなかに潜みながら、こちらをじっと見据える黒点が、目を動かすたびに増えていく。
気づかれないよう追ってきたのか、それとも最初からそこにいたのか。どちらだろうと構わなかった。命の危機であることに、変わりはないのだから。
「────クソ! 掴まっとけよっ!!」
すかさずロブは潰さんばかりの力を籠めて取っ手を握り締めると、全員の準備が終わっていると信じて、逃走を開始する。
だが、ブラックドッグたちもロブが駆け出すタイミングを見計らっていたかのように、ほぼ同時のタイミングで追跡を始めた。
「■■■■■──!」
黒犬たちは草を踏み荒らし、土くれをまき散らし、涎を垂らして呻きながらロブたちを追う。
無我夢中という概念をカタチにしたような足音が何重にも重なって、まるで草原そのものが追ってきているかのような錯覚さえ覚えるほどだった。
さらにはあちこちから突き刺さってくる、悪意と食欲の混ざった視線の矢印。
常人なら身をさらしているだけで発狂しかねないそれらに、ロブが耐えられているのは、ほとんど奇跡に近かった。
「うわうわうわうわうわ来てる来てる来てる来てる! 兄貴もうちょっと早く早く早くぅ!!」
「うるせえ今やってる!!」
ワグのやかましい声を背中で受け止めて、ロブは足の回転を加速していく。
この妖精國へ
自分は逃げるだけ、ワグは慌てるだけ。
となれば、頼りにできるのはあとひとりしかいない。
はぐれ者だった自分たちに、この國の常識やルールを教えてくれた、信頼できる仲間のひとり。
頭がよくて、要領もよくて、きっとどこの街でだって上手くやっていけるだろう仲間のひとり。
「ウィンキー! なんとかならねえかなあ!?」
「……ならないな」
「ならねえかあ!」
はじめから予想はしていたが、改めてそう返されると落ち込むしかなかった。
こうなったら、荷車に積んである自分たちの荷物や売り物をばら撒いてでも時間を稼ぐか──と、ロブが春を迎えられなくなるかもしれない覚悟を決めようとしたとき。
「──ロブさん、ワグさん、ウィンキーさん。
こんなわたしに、色々と親切にしてくださって、本当にありがとうございました」
それまで一度も喋らずにいたホープが、ふと口を開いた。
「みなさんの役に立つことができて、嬉しかったです。
はじめて誰かと一緒に旅をして……。
緊張しっぱなしだったけど、ほんの僅かな間だったけど、とても、とても楽しかったです」
こんなときにもかかわらず、ホープの声は静かで、柔らかで、ゆえにロブたちの耳によく馴染んだ。
「だから、どうか──」
なにをするつもりなのか。
3人のうちの誰かが、問おうとするよりも早く。
ホープは、その身を。
「どうか。
皆さんが、幸福でありますように───!」
荷車の外に投げ出した。
止める間など1秒もなかった。ロブは全力で走ったままだった。だから1人分の体重が減った荷車は、それまで俯いて不貞腐れていたのが嘘みたいな速度で、ぐんぐんと国道を突き進んでいく。
飛び降りたホープらしき影が、みるみるうちに遠ざかっていく。ブラックドッグたちもまた、最初からそれが目当てだったかのように速度を緩めていく。
「……ホープ」
「──」
「……」
だから、誰も引き返そうとは言わなかった。
誰だってそうだ。命あっての物種なのだから。自分の命を大切にしようと思うのは当然だ。
なにも突き落としたワケじゃない。あの子が勝手に自分から飛び降りてくれたんだ。
だから、引き返さなくたって良いはずだ。
何度も、何度も心のなかで誤魔化すようにそう繰り返して。
気分はまるで晴れることなく、足取りの重さも変わることなく、ロブたちは国道を進み続けた。
▼ ▼ ▼
一体自分は、なにをやっているのだろう。
だらしなく口を開けて、ひっきりなしに汗を流して、みっともなく息を荒げて。
一体自分は、なにをしたいのだろう。
チョコレートを買いに来ただけなのに、こうしてブラックドッグの群れに追われて。
「──はっ、はあっ、は、はっ、はっはっ」
荷車から飛び降りて、ごろごろと地面を転がってから、ホープはまったく方向を決めずに走り出した。とは言っても最低限、ブラックドッグが待ち構えているであろう先は選ばずにだ。
逃げ切る自信など、あるわけがなかった。
当然だ。今の状況は、以前のホープが追い詰められたときの繰り返しをしているに過ぎない。
そのとき怯えて隠れて気絶することしかできなかったくせに、どうして今度は上手くいくなんて思うことができるのか。
それでも、ホープは走った。
早鐘のように鳴り響く胸をおさえて、汗と涙でにじむ視界をぬぐって、喘ぐように酸素をめいっぱい吸い込みながら、次第に足が棒切れみたいに感じるようになってきても走り続けた。
悪戯心を発揮した1匹のブラックドッグが、隊列から離れるように跳躍して、ホープの背中を襲う。
「あ──う!」
咄嗟に姿勢を大きく傾けたおかげで、運よく直撃は免れたものの、羽がほんの少し欠けてしまった。
長いあいだ、ずっと自分のそばにいてくれた数少ないひとつ──1日も欠かすことなく、大事に手入れしてきた羽が。
それでも、ホープは走った。
なんで走っているんだろう、と考える。
既に自分の命は失われたに等しい。今度は隠れる場所もなく、誰の姿も見当たらない草原。囲んでくるのは敵ばかりで、どこを見たって出口はない。ひとりぼっちだ。
要するに、ここで終わりなのだ。
走ったところで歩いたところで立ち止まったところで、結末は絶対に1ミリたりとも変わることはないだろう。
ホープという餌をブラックドッグたちが余すことなく喰らい尽くして、あとには骨のひとかけらさえ残らないという、どこにでもあり触れている普遍的で残酷な結末は。
なのに、ホープはいつまでも走っている。
諦めたらいいのに諦めず、止まったらいいのに止まらず。
理由もわからず、いつまでもいつまでも。
「ひゅ──ぃ、ふう、はあっ、はぁっ!!」
ほら、今もそうだ。
変な風に伸びていた草を踏んでしまったせいで、滑って危うくコケかけた。
そこで止まればよかったのに、よれよれになって、踏ん張って姿勢を立て直して、また走り出した。
バカみたいだと、頭の片隅ですべてを諦めた自分が冷たく囁く。
我慢したって、無駄に終わるのに。
頑張っても、報われないのに。
これ以上やったって、苦しみが続くだけなのに。
「────うる、さいっ!!」
叫ぶ。
呼吸が荒くなっているところに喉を酷使したせいで、いがらっぽい咳を吐き出した。
咳をしたせいで呼吸が乱れて、息がたちまち苦しくなった。
ちかちか、と視界が白い点滅を開始した。
地面を走っているという感覚ではなく、海のなかでもがいているという感覚が強くなってきた。
それでも、ホープは走った。
周囲から絶え間なく聞こえてくるブラックドッグたちの唸り声も、内から無尽蔵に湧き上がってくる諦観の声も、なにもかも振り切るように走り続けた。
ウィンキーは「恵まれている」と言ってくれた。
それはきっと間違いではない。夢中になれるものを見つけられなかった自分がどういう風に生きているのか、ホープはまったく想像することができない。
仮に想像できたとしても、それはたぶん、ホープではない別の誰かの姿になってしまうだろう。
ブリテンで生きる妖精にとって、『
それを得られて生まれたことを、ホープは誇りに思っている。
モルドレッドは「向いてない」と言ってくれた。
それはきっと間違いではない。ブリテンで生きて何百年と経つけれど、いまだにホープは自分が名前の通りに生きてこられた自信がまるで持てずにいる。
年月を無駄にするばかりで、目的も果たせない落ちこぼれだと責められてばかりだからだ。
ブリテンで生きる妖精にとって、『
それを満足にこなせないことを、ホープは悲しく思っている。
ああ。
そうだ。
どちらも、ホープの真実だ。
否定できない、否定してはならない真実なのだ。
けれど、今は邪魔だ。
今この瞬間だけは、真実なんかいらない。走り続けるのに邪魔だ。
だから無視する。
寂しさも、辛さも、悲しみも、喜びも、怒りも、苦しみも──全部。
「───────」
もはや全身の感覚はない。草原で染められていたはずの視界はまっ白に染まり、自分が走っているのか歩いてるのか、生きているのか死んでいるのかさえわからなかった。
それでも、ホープは走った。
なんで走っているんだろう、と改めて考える。
今度は、すぐにわかった。
なんて簡単な答えだったんだろう、と思わず笑った。
折れそうなほど辛くても、狂いそうなほど苦しくても、泣きたくなるぐらい寂しくても。
まだ自分は、走れるからだ。
最初から、大層な理由なんかなかった。
最初から、取るに足らない理由しかなかった。
これが本当に答えなのかもわからない。
もしかしたら間違いなのかもしれない。
それでもいい、とホープは思う。
恵まれているから、じゃなくて。
向いてないから、でもなくて。
もう無理だと思っても、報われないと理解しても。
たとえ──最後の最後まで、星の光を見つけられなかったとしても。
走れる限り、走っていく。
それが。
それだけが──
わたしが
「は────あっ、ぅ!」
けれど、現実はいつだって無常だ。
とうとう限界を迎えたホープの足は、持ち主の意志に反することを選んだ。加速度的に脱力していく下半身の影響を受けて、上半身もまた全面降伏することを選んだ。
その結果、ホープは見るも無様なかたちで、平原のど真ん中ですっ転ぶことになった。
ひどいあり様だった。
汗と風をたっぷり吸い込んだ髪はくせっ毛の領域を超えて使い古したホウキみたいになっているし、素肌は彼女がソールズベリー出身であると主張したところで誰も信じないようなあり様だったし、ごまだらの羽はところどころが欠けてしまっている。
けれど、そんなコトはどうだって良かった。
自分は、まだ走れるのに。走りたいと思っているのに。
言うことをまったく聞いてくれない身体が、疎ましくてたまらない。
「わたしは───」
力尽きた獲物の姿を捉えたブラックドッグたちが、悍ましい腐臭を口腔より漂わせながら、どんどん近づいてくる。
かろうじて力を籠められる手を、土ごと握り締める。
「わたしは、まだ──」
近づいてきたうちの1匹が、見せつけるように大きく爪を振り上げてみせる。
今度は怯えない。目も逸らさない。気絶したりなんかしない。
そんなことよりも、もっとずっと、大事なことがあったから。
「まだ、走っていたい───!」
少女の願いを、かき消すかのごとく。
爪は無慈悲に、振り下ろ、され、て────
▼ ▼ ▼
ところで。
ファイズギアの装着者がファイズへと変身するためには、主に2つの要素を満たしている必要がある。
1つ目は、装着者がオルフェノクであることだ。
ファイズの全身を走る赤いライン──フォトンストリーム──を流れる流体エネルギー、それが『フォトンブラッド』だ。
ファイズのパワーを最大限引き出すためには絶対に欠かせない、いわば人体においての血液と呼べるような代物である。
装着者に人智を超えた力を与えることが確約されてある分、そのために内包されてあるエネルギーは、当然並大抵のものではない。
そのエネルギーに耐え抜き、自在に制御できる強靭な肉体を持つ者──それこそが、オルフェノクなのだ。
よって、ファイズギアの装着者が変身するためには、オルフェノクであることが求められている。
2つ目は、上空にとある人工衛星らが打ち上げられていることだ。
その人工衛星を、ライダーズギアの開発元たるスマートブレインは、『ホークアイ』と『イーグルサット』と呼称していた。
ホークアイに課せられた役割は、スパイ衛星としての機能を活用することでありとあらゆる情報を収集し、状況に応じた適切なデータをギアの装着者に送信することである。
だが、重要なのはもう片方──イーグルサットだ。
情報衛星たるイーグルサットはスマートブレイン本部とリンクしており、ライダー本体のデータ収集や分析、修復プログラムやアップデートされたプログラムの転送など、ライダーそのもののサポートを役割としている。
しかしもう1つ、欠かせない役割がイーグルサットには課せられている。
それは──電子レベルまで分解されたスーツの電送である。
ギアが形成してくれるのは、あくまでもスーツ生成の情報を記憶してあるフォトンフレームのみ。
実際にスーツのパーツを保持しているのは、イーグルサット/スマートブレイン以外に無いのだ。
よって、ファイズギアの装着者が変身するためには、人工衛星が打ち上げられていることが求められている。
さて。
これらを理解した上で、妖精國を俯瞰して見るとする。
当然、スマートブレインという企業はどの領地にも見当たらない。
なぜなら妖精國にオルフェノクはたった1人を除いて他におらず、そもそも異聞帯の大本になっている汎人類史にさえ、『オルフェノク』という概念は存在していないのだから。
よって、ライダーズギアも、それに必要なものも開発されていないし、これからされることもない。
たとえ
それは誰にも変えられない、絶対不変の真理だった。
───だが。
ここに、例外が存在する。
▼ ▼ ▼
「──」
そして彼女は、瞼を開いた。
妖精國ブリテン。
その首都たる罪都キャメロットにおいて、6の氏族長、さらには30の大使と100の官司が集う、唯一の場所──女王の間。
ブリテンの政を担うべく議論を交わす声と、女王陛下の不興を買ってしまわないか恐れる/怯える思念が、日頃から飛び交っているそこには今、上級妖精であっても思わず息を止めてしまうような静謐さに隙間なく支配されていた。
当然だ。
だって、そこには彼女しかいない。
この妖精國で玉座に座す資格を持った、ただ1人の妖精。
ブリテンのすべてを欲して、ブリテンのすべてを支配した魔女。
女王モルガン──その人しか。
「……」
モルガンは薄く透けた漆黒のベールの下で、凍えるように昏い青色の眼を、すうっと細めていた。
まるで、ここではないどこかを見ているかのように。
艶やかな水色の口紅を引いたことで、吸い込まれてしまいそうな極上の色香を醸し出している唇を一文字に引き結び。
なにを喋るわけでもなく、じっと虚空を見据えていた。
「……なるほど」
並の妖精であれば、空気に耐えかねて自害を選んでもおかしくないほどの沈黙が続いたなかで。
得心がいったようにふと呟いた女王は、玉座に立てかけていた杖をそっと手に取ると、そのまま天井を指し示した。
「ブラックドッグが数匹、それから──ふん。
数少ない理性や知性すら投げ捨てた獣ども。
敵と断ずるには些か物足りぬが……良いだろう。
貴様に、我がブリテンを守護する勅命を下す。
精々心ゆくまでその剣を振るうと良い」
まるで、ここにはいない誰かへと話しかけているように。
モルガンは誰もいない広間へ向けてつらつらと宣言すると、杖の先に魔力を集め始めた。
そこに秘められているのは、
要するに、彼女はこう考えたのだ。
変身に必要な要素が欠けているのであれば、自分がその役割を果たせばいいと。
当然、彼女にとってギアやドライバー──そしてフォトンブラッドは、どのような可能性を秘めているかまるでわからない、未知なる世界からやってきた未知なる道具でしかない。
ならば。
未知ならば、既知へと作り変えてしまえばいい。
ダイヤモンドに限りなく近い硬度を持ったソルメタル製の装甲パーツは、エクターから教わった技術を基礎として魔力で編んだ鎧に。
電子レベルに分解したパーツを保持するイーグルサットは、次元接続そのものと呼べる魔術たる『合わせ鏡』を行使できる己自身に。
スーツ生成の情報を記憶しているフォトンフレームへの情報電送は、かつて未来の自分が実践してみせたものに改良を加えたカルデアの技術──レイシフトに。
そんなことが可能なのか、と誰かから問われれば。
答えるまでもない、とモルガンは鼻で笑い飛ばしただろう。
なぜならば。
模倣こそ、妖精の真髄なれば。
──是は、ブリテンを守護する戦いである。
そんなつまらないことを考えて、モルガンはそっと唇を曲げる。
おおよそ彼女らしからぬ、悪戯っぽい微笑みを刻んで。
「……──『承認』します」
宣言。
そうしてつつがなく、その魔術は実行された。
今のブリテンが創り上げられる切っ掛けとなった、『冬の戦争』。
かつての
そこからずっと、モルガンのそばにいてくれた──
彼女が見つけた初めての光を、この世に顕現させるための魔術が。
▼ ▼ ▼
そしてホープが聞いたのは、自分の肉が引き裂かれる音ではなく、雄々しい馬の嘶きだった。
「────!!」
灰色の疾風。
そう錯覚してしまうほどの速度で、その妖精馬はブラックドッグたちの狩場に滑り込んできた。
一瞬、その場にいる誰もが、なにが起きたのか理解できずに固まった。
地面に転がっていたホープも、爪を振り上げていたブラックドッグでさえも。
そして妖精馬は混乱に一切構う素振りを見せず、ホープに覆いかぶさっていたブラックドッグを、駆けてきた勢いのまま蹴り飛ばした。
爆音。
ホープの皮膚の表面を暴風が通り過ぎる。
同時に、内臓が1つ残らず砕けたブラックドッグの死体が、ここから遥かに離れた大地へと墜落する音が響き渡った。
「──……ぇ」
一体、なにが起きたというのか。
呆然とするホープの前で、妖精馬に跨っていた誰かが、ゆっくりと地面に降り立つ。
「──そこまでにしとけよ、しつこいやつは嫌われるぜ」
伸びた分を無造作に一本でたばねただけの、あぶらっけのない煤けた茶髪。
黒のタンクトップと灰がかった薄手のジャケット、そして青いジーンズ。
不機嫌に歪んだ端正な顔立ちと、神秘をまるで感じられない気配。
ホープを救って、かき乱して、二度と会うことはないだろうと思っていた存在。
「……モルド、レッドさん?」
声を投げかけてきたホープを、モルドレッドは一瞬だけ横目で見た。
相も変わらずズタボロで、ひどい有様をしていた。汚れていない箇所を探すほうが難しいだろう。
だが、まだ生きている。
それだけわかれば──充分だ。
すぐさまブラックドッグたちに視線を向け直す。どうやら突如出現した存在は自分たちの敵であると、ようやく判断できたらしい。
包囲網は加速度的に厚さを増していき、そこかしこから耳が腐り落ちるような唸り声が聞こえ始めた。
だが、恐れるには足らず。
「弱いものイジメは飽きただろ?
──相手してやるよ」
笑って、モルドレッドは妖精馬の鞍にかけておいたベルト──ファイズドライバーを腰に巻きつけた。
そして、手慣れた仕草で懐から取り出した携帯電話型マルチデバイス──ファイズフォンにコードを入力する。
5・5・5。
それは、かつて■■が人間を守るために戦うと決意した象徴を呼び出すための合図。
それは、1人の少女が手にした夢を守るためだけに振るおうと決意した結晶を纏うための号令。
――『Standing by』
闘争を告げる電子音が、高らかに鳴り響く。
モルドレッドは応えるように、ファイズフォンを握り締めた右手を天に突き上げた。
そして。
「──変身っ!!」
装填。
同時に、女王の間より送られてきた鎧のデータを内包した光が、モルドレッドの身体を包み込んだ。
目が焼けんばかりの眩い輝きが、あたりを瞬間的に埋め尽くして。
ここに、1人の騎士が降臨した。
大きな両の瞳を金色に光らせた仮面。
血管にも似た深紅の線が、無数に張り巡らされた黒い下服。
そして、罪都キャメロットの都市紋章を胸部に刻印した、白銀の装甲。
それは、妖精騎士モードレッド。
あるいは───
超金属の仮面の騎士が1人。
――『Complete!』
───ファイズ。