【あらすじ】
セミナーの書記、生塩ノア。
親友のユウカが先生に向ける眼差しに気づいたとき、ノアは笑顔のまま、そっと一歩下がることに決めました。
けれど、一度見たものを忘れられない彼女には、離れるほど増えていく「覚えていたくない記憶」があって……。
会話中心の長編です。
キャラクターの口調や関係性には気をつけていますが、独自解釈を含みます。
【注意】
・強めの曇らせ要素
・先生への恋愛感情(片想い)を含む表現
・ノアとユウカの感情のすれ違い
・先生と生徒の恋愛が成立する描写はありません
以上の要素が苦手な方はご注意ください。
pixivにも掲載しています。
ユウカ「ノア!ちょっとこれ見てよ!」
ミレニアムサイエンススクールの一角にあるセミナーの執務室。
扉が勢いよく開いて、ユウカが領収書の束を握りしめて飛び込んできた。
ノアは書きかけの手帳を音を立てずに閉じた。
ノア「おかえりなさいユウカちゃん。今日もお元気そうですね」
ユウカ「元気じゃないわよ!先生がまた限定版のプラモデルを経費で落とそうとしてたの!」
ノア「ふふ。先週の火曜日の午後四時二十分にも同じことを言っていましたね。『次やったら本当に許さないんだから』と」
ユウカ「そういうのはいちいち再現しなくていいの!」
ユウカは頬を赤くして領収書を机に叩きつけた。
ノアは笑いながらその一枚を拾い上げる。
品名の欄には丁寧な字で「資料」と書かれていた。
ノア「資料……ですか」
ユウカ「資料なわけないでしょ。箱の写真まで添付されてたんだから」
ノア「先生らしいですね。隠す気があるのかないのか」
ユウカ「ないのよ!まったく……」
ユウカは大きくため息をついて自分の席に腰を下ろした。
それから鞄の中をごそごそと探る。
取り出されたのは淡い水色の布で包まれた四角い包みだった。
ひとつではない。ふたつだ。
ノア「あら」
ユウカ「な、なによ」
ノア「お弁当がふたつありますね」
ユウカ「これは……その……作りすぎただけよ。今日は私がシャーレの当番だし、ついでに持っていくだけ。先生どうせまたカップ麺で済ませてるんだから」
ノア「作りすぎたのは今月で四回目ですね」
ユウカ「数えないで!」
ノア「数えていませんよ。覚えているだけです」
ユウカ「同じことでしょ!」
ユウカは包みを抱えて立ち上がった。
耳まで赤くなっている。
ノアはその横顔をいつものように眺めていた。
いつものように笑っていた。
ユウカ「とにかく!私はシャーレに行ってくるから。領収書の件はちゃんと先生に言っておくわ」
ノア「はい。いってらっしゃいユウカちゃん」
ユウカ「……ノアも、たまには一緒に来たら?先生 この前ノアの書類が一番読みやすいって言ってたし」
ノア「ふふ。今日は遠慮しておきます。お二人の邪魔をしてはいけませんから」
ユウカ「じゃ、邪魔って何よ!そういうのじゃないから!」
扉が閉まった。
廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。
ノアはしばらくその音を聞いていた。
聞こえなくなってもまだ扉のほうを見ていた。
笑顔がほんの少しずつ形を失っていく。
誰も見ていないのにそれを隠すように手帳を開いた。
最初のページには几帳面な字で日付が並んでいる。
ノアは書かなくても覚えていられる。それでも書く。
覚えていることと残しておくことは少し違うのだと思っている。
四月の終わり。
先生がシャーレの窓際で言った言葉。
先生『ノアの詩 私は好きだよ。読むと言葉がゆっくり体に染みていく感じがするんだよね』
声の高さも。
そのとき窓の外を飛んでいた鳥の数も。
先生が持っていたマグカップの縁の欠けも。
全部覚えている。
忘れようと思ったことなんて一度もなかった。
ノアは白紙のページにペンを置いた。
でも何も書けなかった。
ノア「……ユウカちゃん」
声に出してみると思っていたよりずっと小さかった。
気づいたのはいつだっただろう。
思い出そうとするとすぐにわかってしまう。三月の第二木曜日だ。
シャーレから帰ってきたユウカが報告書を書きながら何度も手を止めて口元を緩めていた日。
あの日から ノアの記憶の中のユウカはいつも少しだけ先生のほうを向いている。
そして同じだけ。
いや それ以上に。
ノアの記憶の中の自分も先生のほうを向いていた。
ノア「困りましたね」
誰に言うでもなく呟いて ノアは笑ってみせた。
鏡もないのに。
ユウカは大切な友達だ。
計算が得意で 口うるさくて 照れ屋で 誰よりもまっすぐで。
入学したころから隣にいて 一緒に怒られて 一緒に徹夜して 一緒に笑ってきた。
ユウカの笑った顔ならきっとミレニアムの誰よりもたくさん覚えている。
だから決めるのは簡単だった。
簡単なはずだった。
ノアはペンを持ち直して ゆっくりと一行だけ書いた。
「私は 一歩うしろで 笑っていましょう」
インクが乾くのを待ってから手帳を閉じた。
窓の外では午後の光が傾き始めていた。
翌朝ノアは誰よりも早く執務室に来て シャーレ当番の割り当て表を開いた。
セミナーの書記としてスケジュールを管理するのはノアの仕事だ。
誰がいつシャーレに行くのか。
その調整は 書記の権限の範囲でできてしまう。
画面の中にノアの名前がいくつも並んでいた。
来週の火曜日。再来週の金曜日。その次の水曜日。
どれも少し前の自分が楽しみにして入れた日付だった。
ノアはひとつずつ選択して 担当者の欄を書き換えた。
早瀬ユウカ。早瀬ユウカ。早瀬ユウカ。
キーを打つ指は少しも震えなかった。
そのことが 少しだけ怖かった。
ユウカ「おはようノア。早いわね……って え?」
出勤してきたユウカが画面を覗き込んで声を上げた。
ユウカ「これ 来月の当番表?なんで私ばっかりになってるの?」
ノア「ちょうど相談しようと思っていたんです。来月はセミナーの予算編成が重なっていて 私は資料作りで手が離せなくなりそうなので」
ユウカ「それなら私だって予算の担当なんだけど」
ノア「ユウカちゃんは計算担当ですから。シャーレで先生の領収書を見ながらでもできるでしょう?むしろ現場で経費を見張れて一石二鳥です」
ユウカ「それは……まあ そうかもしれないけど」
ユウカは腕を組んで画面を睨んだ。
でも口元がほんの少しだけ緩んでいるのを ノアは見逃さなかった。
見逃せなかった。
ユウカ「……本当にいいの?ノアだって先生のところ行くの 楽しみにしてたじゃない」
ノア「ふふ。私が楽しみにしていたのは先生の領収書をユウカちゃんに見せる瞬間ですよ」
ユウカ「性格悪っ!」
ノア「冗談です。大丈夫ですよ ユウカちゃん。私は書類仕事のほうが向いていますから」
ユウカ「……わかった。じゃあ代わりに 何かあったらすぐ言ってよね。ノアが倒れたら私の仕事が二倍になるんだから」
ノア「はい。約束します」
ユウカは安心したように笑って自分の席に向かった。
鼻歌がかすかに聞こえた。
本人は気づいていないのだろう。
ノアはその鼻歌の旋律を一音ずつ覚えてしまった。
きっと一生忘れられない。
コユキ「ノア先輩〜」
昼休み。
中庭のベンチで本を開いていたノアの隣に コユキがぴょんと腰を下ろした。
ノア「コユキちゃん。反省部屋から出られたんですね」
コユキ「にはは。今日は模範囚なので!……じゃなくて。ノア先輩 最近シャーレに行ってないですよね?」
ノア「あら。よく見ていますね」
コユキ「だって ノア先輩が当番の日は 帰ってきたあとずーっとご機嫌じゃないですか。私のこともあんまり怒らないし」
ノア「私はいつもコユキちゃんに優しいつもりですけど」
コユキ「優しいけど怖いんですよ ノア先輩は!」
コユキは頬を膨らませて それから少しだけ声を落とした。
コユキ「……先輩 なんか元気ないです」
ノアはページをめくる手を止めた。
ほんの一瞬だけ。
ノア「そう見えますか?」
コユキ「見えます。だって先輩 さっきから同じページ開いたままですもん」
ノア「ふふ。コユキちゃんにまで見抜かれるなんて 私もまだまだですね」
コユキ「やっぱり何かあるんですか?」
ノア「何もありませんよ。少し考え事をしていただけです」
ノアは本を閉じてコユキの頭を軽く撫でた。
コユキはくすぐったそうに目を細める。
ノア「コユキちゃん。午後の作業 手伝ってくれたら 今週のおやつはひとつ多めにしてあげます」
コユキ「えっ本当ですか!やります!」
駆けていくコユキの背中を見送りながら ノアは膝の上の本に視線を落とした。
同じページ。
さっきから一行も読めていなかった。
週が明けた月曜日の夕方。
ノアは書類の束を抱えてミレニアムの廊下を歩いていた。
角を曲がったところで 見慣れたシルエットとぶつかりそうになった。
先生「おっと。ごめんね……あ ノア」
ノア「先生」
心臓が一度だけ大きく鳴った。
顔には出ていないはずだ。出さない方法ならよく知っている。
ノア「こんにちは先生。ミレニアムにいらっしゃるなんて珍しいですね」
先生「エンジニア部に頼んでた備品を受け取りにね。ついでにセミナーにも顔を出そうと思ってたんだ」
ノア「ユウカちゃんなら執務室にいますよ。今日も先生の領収書と格闘しています」
先生「あはは……それはちょっと顔を出しにくくなったかな」
ノア「ふふ。覚悟を決めて行ってあげてください」
会話はそれで終わるはずだった。
ノアは軽く頭を下げて 先生の横を通り過ぎようとした。
先生「ノア」
呼び止められた。
先生「最近 当番で会えてなかったよね。忙しいって聞いたけど 無理はしてない?」
ノア「……はい。予算編成の時期なので。ユウカちゃんが代わりに頑張ってくれています」
先生「うん。ユウカもすごく頑張ってくれてるよ。でも 私はノアと話す時間がなくなって 少しさみしかったかな」
ノアは書類を抱える腕に 少しだけ力を込めた。
紙の端が指に食い込む。
ノア「先生はお上手ですね。誰にでもそうおっしゃるんでしょう?」
先生「誰にでもさみしいって言うわけじゃないよ」
先生は困ったように笑った。
いつもの 少しだけ眉の下がった笑い方。
ノアはその笑い方を何百回と覚えている。
先生「何かあったら言ってね。忙しくても ノアの話ならちゃんと聞くから」
ノア「……ありがとうございます 先生」
頭を下げて 今度こそ通り過ぎた。
背中に先生の視線を感じた気がした。
振り返らなかった。
階段の踊り場まで来て ようやく足を止めた。
壁に背中を預けて 天井を見上げる。
先生『ノアの話ならちゃんと聞くから』
今の言葉が 頭の中で何度も再生される。
声の高さも 息継ぎの位置も 少しだけ掠れた語尾も 全部。
ノアは知っている。
この言葉は明日になっても 一年後になっても 十年後になっても 今日とまったく同じ鮮やかさで残り続ける。
薄れることも ぼやけることもない。
忘れたいと願ったって 忘れられない。
ノア「……ずるいですよ 先生」
小さく呟いて ノアは書類を抱え直した。
離れようと決めたのに。
離れようとするたびに 覚えていたいことがひとつずつ増えていく。
木曜日の放課後 ユウカが妙にそわそわしながらノアの机の前に立った。
ユウカ「ねえノア。今週の土曜日って空いてる?」
ノア「土曜日ですか?特に予定はありませんけど」
ユウカ「その……買い物に付き合ってほしいの」
ノア「あら 珍しいですね。ユウカちゃんが休日にお買い物なんて。何を買うんですか?」
ユウカ「……先生に お礼をしようと思って」
ノアの指が キーボードの上で止まった。
ユウカ「ほら 最近当番が増えたじゃない?それで気づいたんだけど 先生ってほとんど休んでないのよ。書類もずっと手書きでメモしてて。だから何か役に立つものをあげたいなって。べ、別に深い意味はないわよ?日頃のお礼っていうか 業務効率化の一環っていうか」
ノア「ふふ。業務効率化ですか」
ユウカ「そうよ!効率化!」
ノア「わかりました。お付き合いします」
ユウカ「本当?ありがとうノア!やっぱりノアってこういうの センスいいから」
ユウカはぱっと顔を輝かせた。
ノアは笑った。
ちゃんと笑えていた。
机の一番下の引き出しには 小さな包みがひとつ入っている。
二週間前に買って 渡す機会をうかがっていたものだ。
深い茶色の革の手帳。
先生が一度だけ 何気なく口にした言葉を覚えていたから選んだ。
先生『ノアみたいに なんでも書き留めておけたらいいのにね。私はすぐ忘れちゃうから』
ノアは引き出しのほうを見なかった。
見なくても そこにあることは覚えている。
土曜日のD.U.のショッピングモールは人であふれていた。
ユウカは三十分前に待ち合わせ場所に着いていたらしく ノアを見つけると大きく手を振った。
ユウカ「ノア!こっちこっち」
ノア「お待たせしました。ずいぶん早かったんですね」
ユウカ「別に。電車の時間を計算したら たまたまこうなっただけよ」
ユウカはいつもの制服ではなく 淡い色のカーディガンを着ていた。
見慣れない服装に ノアは少しだけ目を細めた。
ノア「その服 初めて見ますね」
ユウカ「えっ……へ、変かな?」
ノア「いいえ。よく似合っていますよ。先生にも見せてあげたらいいのに」
ユウカ「なっ……先生は関係ないでしょ!今日はお礼の品を選びに来ただけなんだから!」
ユウカは真っ赤になって先を歩き出した。
ノアはその背中を追いかけた。
雑貨店 文房具店 家電量販店。
ユウカは一軒ずつ真剣に見て回った。
商品を手に取っては値札を見て 機能を確かめて 唸って 棚に戻す。
ユウカ「マッサージ機……は高いわね。予算オーバー」
ノア「ご自分のお財布から出すんですよね?」
ユウカ「当たり前でしょ!経費で落としたら私が先生と同じになっちゃうじゃない」
ノア「ふふ。それは確かに」
ユウカ「アイマスク……は寝不足を肯定してるみたいで嫌だし。栄養ドリンクはなんか違うし……」
ユウカは文房具店の奥の棚の前で足を止めた。
ノアは嫌な予感がした。
予感なんて 曖昧なものではなかったのかもしれない。
ユウカ「あ」
ユウカが手に取ったのは 深い茶色の革の手帳だった。
ノアが引き出しにしまっているものと 同じ型。同じ色。
ユウカ「これ いいかも。先生ってさ よくメモを取るんだけど いつもそこらへんの紙の切れ端に書いて なくしちゃうのよ。この前も大事な会議の時間を書いたメモがなくなって 大騒ぎだったんだから」
ノア「……そうなんですね」
ユウカ「ちゃんとした手帳があれば少しはましになると思うの。革なら丈夫だし 長く使えるし。ねえノア どう思う?」
ユウカがこちらを振り返った。
手帳を両手で大切そうに持って。
答えを待つ目が まっすぐで きらきらしていた。
ノアの頭の中で 先生の声が鳴った。
先生『ノアみたいに なんでも書き留めておけたらいいのにね』
四月二十九日。午後二時五十一分。
シャーレの給湯室の前。
先生は砂糖をふたつ入れたコーヒーを持っていた。
ノア「……とても いいと思います」
声は震えなかった。
自分でも驚くほど 穏やかな声だった。
ノア「先生 きっと喜びますよ。ユウカちゃんが選んだものなら」
ユウカ「そ、そうかな。えへへ……じゃあこれにする!」
ユウカはレジへ向かって弾むように歩いていった。
ラッピングの色を店員さんと相談している声が聞こえる。
青がいいかな。いや 先生っぽいのは……。
ノアは棚の前に立ったまま 同じ手帳が並んでいた空白を見つめていた。
ひとつ減った列。
その隙間が やけに大きく見えた。
ユウカ「ノア お待たせ!付き合ってくれてありがとね。お礼に何かおごるわ。クレープでいい?」
ノア「ふふ。ユウカちゃんがおごってくれるなんて 明日は雨が降りますね」
ユウカ「失礼ね!」
二人で並んでクレープを食べた。
ユウカは先生に渡すときの段取りを何度も口にしていた。
当番の終わりに渡すか 始まりに渡すか。
なんて言って渡すか。
お礼です だけでいいのか。
いつもありがとうございます まで言うべきなのか。
ユウカ「ねえ どう言えば自然だと思う?」
ノア「そのままで大丈夫ですよ。ユウカちゃんの言葉なら ちゃんと届きます」
ユウカ「ノアってたまに すごく優しいこと言うわよね」
ノア「たまに ですか?」
ユウカ「いつもは私の体重とか過去の発言とか掘り返してくるじゃない」
ノア「ふふ。それも愛情表現ですよ」
ユウカは呆れたように笑った。
ノアも笑った。
クレープの味は 少しもわからなかった。
帰り道 ユウカと別れてから ノアは一人で寮への坂道を歩いた。
鞄の中には何も入っていない。
手帳は今も 執務室の机の引き出しの奥にある。
ノアは立ち止まって スマートフォンを取り出した。
モモトークを開く。
先生とのトーク画面。
最後のやり取りは三週間前。当番の日程確認で止まっている。
入力欄に指を置いた。
『先生 お渡ししたいものが』
そこまで打って 手が止まった。
しばらくそのままでいた。
画面が暗くなって また指で触れて明るくした。
一文字ずつ 消した。
消した文字は画面から消える。
でもノアの記憶からは消えない。
自分が何を打とうとしたのか。どこで指が止まったのか。どれくらいの時間迷ったのか。
全部 覚えている。
ノア「……私 本当に忘れるのが苦手なんですね」
夕焼けが坂道を赤く染めていた。
ノアの影だけが 長く長く伸びていた。
月曜日。
ユウカは朝から上の空だった。
電卓を叩く手が何度も止まり 同じ数字を三回入力し直していた。
ノア「ユウカちゃん。その計算 さっきから合っていませんよ」
ユウカ「えっ!?あ ほんとだ……ごめん」
ノア「今日 渡すんですか?」
ユウカ「な、な、なんのことよ」
ノア「鞄から青いリボンが見えています」
ユウカは慌てて鞄の口を閉じた。
それから観念したように肩を落とす。
ユウカ「……今日の当番の最後に渡す。そう決めたの」
ノア「がんばってくださいね」
ユウカ「別にがんばるようなことじゃないわよ。お礼を渡すだけなんだから」
ノア「ふふ。そうでしたね」
ユウカが執務室を出ていったあと ノアはひとりで書類の山に向かった。
予算編成の資料。ユウカに言ったことは嘘ではない。
でも本当は 一日あれば終わる量だった。
ノアはそれを三日かけて仕上げるつもりでいた。
手を止めたら 考えてしまうから。
翌朝 ユウカは執務室に入ってくるなりノアの机に手をついた。
ユウカ「ノア 聞いて」
ノア「おはようございますユウカちゃん。どうでしたか?」
ユウカ「……喜んでくれた」
ユウカの頬がふわりと緩んだ。
ノアがこれまで覚えてきたユウカのどの笑顔とも 少しだけ違う顔だった。
ユウカ「最初はびっくりしてたんだけど 包みを開けたら すごく嬉しそうな顔してくれて。それでね 先生がこう言ったの」
ノアはその先を聞きたくなかった。
聞いたら 覚えてしまうから。
ユウカ「『ちょうど こういうのが欲しかったんだ。ありがとう ユウカ』って」
頭の中で 二つの声が重なった。
先生『ノアみたいに なんでも書き留めておけたらいいのにね』
先生『ちょうど こういうのが欲しかったんだ』
どちらも先生の声だ。
どちらも本心からの言葉だ。
片方は自分に向けられた言葉で もう片方はユウカに向けられた言葉。
そして 自分が届けたかった手帳は 自分ではない誰かの手で 先生のもとに届いた。
ノア「……よかったですね ユウカちゃん」
ユウカ「うん……えへへ。ノアのおかげよ。一緒に選んでくれたから」
ノア「私は何もしていませんよ」
ユウカ「したわよ。ノアがいいって言ってくれたから 自信持てたんだもん」
ユウカはそう言ってノアの手をぎゅっと握った。
あたたかかった。
本当に あたたかかった。
ユウカ「ありがとね ノア」
ノア「……どういたしまして」
ユウカが自分の席に戻っていく。
ノアは握られた手を そっと膝の上に置いた。
まだ ぬくもりが残っていた。
嬉しいと思った。
ユウカが笑っていることが 心から嬉しかった。
その気持ちは 少しも嘘ではなかった。
だから余計に わからなかった。
嬉しいのに どうしてこんなに胸の奥が冷たいのか。
その週の金曜日。
本来ならノアがシャーレの当番に入るはずだった日。
ノアはユウカに頼まれて 先生に急ぎの書類を届けることになった。
ユウカ「ごめんノア!私 ヴェリタスとの打ち合わせが長引きそうなの。この書類 今日中に先生のサインが必要で」
ノア「わかりました。届けてきますね」
ユウカ「助かる!あ 先生 たぶん今日も寝不足だから。もし寝てたら起こしていいからね。むしろ起こして」
ノア「ふふ。了解です」
シャーレのオフィスに着いたのは 夕方の六時を過ぎたころだった。
ノックをしても返事がない。
そっと扉を開けると 先生は執務机に突っ伏して眠っていた。
ノアは足音を立てないように近づいた。
机の上には書類の山。冷めたコーヒー。
それから。
深い茶色の革の手帳。
開かれたままのページに 先生の少し癖のある字が並んでいた。
覚えようとしたわけじゃない。
でも 目に入った瞬間に 覚えてしまった。
『ユウカ 予算会議 水曜 十四時』
『ユウカに領収書 怒られないように整理』
『ユウカの弁当のお礼 何か考える』
ノアは手帳から目を逸らした。
逸らしても 文字は消えなかった。
まぶたの裏にくっきりと焼きついて 何度でも読めてしまう。
書類を机の端に置いた。
先生を起こそうと手を伸ばして 止めた。
眠っている先生の顔は いつもより少しだけ幼く見えた。
目の下に うっすらと隈がある。
ユウカの言うとおり ちゃんと休んでいないのだろう。
ノアは自分の上着を脱ぎかけて それもやめた。
代わりに オフィスの隅にあった毛布を手に取った。
そのとき 扉が開いた。
ユウカ「ノア!ごめん 打ち合わせ早く終わって……」
ユウカの声が途中で小さくなった。
眠っている先生を見て 慌てて口を押さえる。
ユウカ「……寝てる」
ノア「はい。起こそうか迷っていたところです」
ユウカ「もう。また無理して」
ユウカはノアの手から毛布を受け取った。
ごく自然に。
当たり前のように。
そして先生の肩に そっとかけた。
ずれないように 端を整えて。
起こさないように 息をひそめて。
ユウカの指先が ほんの一瞬だけ 先生の髪に触れそうになって 引っ込んだ。
ノアはそれを 少し離れた場所から見ていた。
二人の姿が 夕陽の差し込む窓を背にして ひとつの絵みたいに見えた。
その絵の中に 自分の居場所はなかった。
ユウカ「……ノア?どうしたの」
ノア「いいえ。なんでもありません」
ユウカ「書類 ありがとね。サインは私がもらっておくから 先に帰っていいわよ」
ノア「はい。そうさせてもらいますね」
オフィスを出て 扉を閉めた。
廊下は静かだった。
ノアは扉の前で 一度だけ深く息を吸った。
吸った息が 胸の途中でつかえて うまく吐き出せなかった。
シャーレを出ると 空は灰色に変わっていた。
朝の天気予報は晴れだった。
ノアは傘を持っていなかった。
駅まで歩く途中で 最初の雨粒が頬に落ちた。
すぐに本降りになった。
ノアは近くの古い商店の軒先に駆け込んだ。
シャッターの下りた店の前。
ひさしから落ちる雨だれが 足もとで小さく跳ねている。
ノアは鞄から手帳を取り出した。
先生に渡すはずだった手帳ではない。自分の手帳だ。
濡れないように胸に抱えて ページを開く。
あの日書いた一行が そこにあった。
「私は 一歩うしろで 笑っていましょう」
ノアはその下にペンを走らせようとして うまく書けないことに気づいた。
指先が冷えているせいだと思った。
そう思うことにした。
先生「ノア?」
顔を上げた。
雨の向こうに 傘を差した先生が立っていた。
ノア「……先生。どうして」
先生「目が覚めたら ユウカがノアが書類を届けてくれたって教えてくれてね。お礼を言いそびれたし 雨も降ってきたから 追いかけてきたんだ」
ノア「ユウカちゃんは……」
先生「ヴェリタスに戻ったよ。打ち合わせの続きがあるんだって」
先生は軒先に入ってきて 傘を閉じた。
狭い軒先に二人。
肩が触れそうな距離。
ノアは半歩だけ 横にずれた。
先生「書類 ありがとう。それと……寝ちゃっててごめんね」
ノア「いいえ。先生がお疲れなのは知っていますから」
先生「ノアにはいつも助けてもらってばかりだね」
ノア「最近は ほとんどユウカちゃんですよ」
言ってから 少しだけ後悔した。
棘のある言い方になっていなかっただろうか。
先生はしばらく黙っていた。
雨の音だけが 二人のあいだを埋めていた。
先生「ノア。ひとつ聞いてもいいかな」
ノア「はい」
先生「私 何かノアに嫌な思いをさせた?」
ノアは手帳を閉じた。
ノア「どうしてそう思うんですか?」
先生「当番が急に全部ユウカに変わって ミレニアムで会ったときも ノアはすぐに話を切り上げたよね。モモトークも 前はノアから詩の感想を聞きに来てくれたりしてたのに 最近は全然で」
ノア「……」
先生「もし私が何かしたなら ちゃんと謝りたいんだ。気づかないうちに傷つけてたなら なおさら」
ノア「先生は何も悪くありません」
先生「じゃあ 理由を聞いてもいいかな。言いたくなければ無理には聞かないよ。でも 何もわからないまま距離を置かれるのは 正直ちょっと苦しいんだよね」
先生はノアのほうを見ていた。
まっすぐに。
責めるのではなく ただ知りたいという目で。
ノアの口が 少しだけ開いた。
言ってしまおうか。
全部。
四月二十九日のことも。窓際で詩を褒められた日のことも。先生の声のひとつひとつを 一度も忘れずに覚えていることも。
ユウカのために身を引こうとしたことも。
それなのに 離れれば離れるほど 先生のことばかり覚えてしまうことも。
ノア「先生 私は」
先生のポケットで スマートフォンが震えた。
二人とも 一瞬動きを止めた。
画面が光っている。
ノアの位置からも 表示された名前が見えてしまった。
『ユウカ』
ノアは口を閉じた。
ゆっくりと。
開きかけた扉を 内側から閉めるように。
ノア「出てあげてください」
先生「でも 今ノアが」
ノア「大丈夫です。ユウカちゃん きっと先生が雨に濡れていないか心配しているんですよ」
先生は迷うように画面とノアを見比べた。
それから通話ボタンを押した。
先生「もしもし ユウカ?……うん 大丈夫だよ。今ノアと一緒。……え?傘?持ってるよ。……あはは わかった わかった。ちゃんと帰るから」
電話の向こうから ユウカの声がかすかに漏れ聞こえた。
怒っているような 心配しているような いつもの声。
先生はそれを聞きながら 困ったように でも少し嬉しそうに笑っていた。
ノアは雨を見ていた。
灰色の空から 途切れることなく落ちてくる無数の線を。
先生「……うん。じゃあまたあとで。……ノア ごめんね。それで さっきの話の続きだけど」
ノア「もう大丈夫です」
先生「大丈夫って」
ノア「たいしたことじゃなかったんです。予算編成で少し疲れていて 先生に甘えそうになっただけです」
先生「ノア」
ノア「本当ですよ」
ノアは笑った。
これまで覚えてきたどの自分の笑顔よりも 上手に笑えた気がした。
先生「……わかった。今は聞かないでおくね。でも 私は本当にノアの話が聞きたいと思ってるよ。それだけは覚えておいてくれる?」
ノア「ふふ。先生 私に向かって覚えておいてなんて」
先生「あ……そうだね。ノアは覚えてるか」
ノア「はい。全部 覚えています」
全部。
その言葉の重さを 先生は知らない。
先生「この傘 使って。私は走って帰るから」
ノア「それでは先生が濡れてしまいます」
先生「シャーレはすぐそこだから大丈夫。ほら」
差し出された傘を 断る理由が見つからなかった。
受け取った柄は まだ先生の手のぬくもりが残っていた。
先生「気をつけて帰ってね。また今度 ゆっくり話そう」
先生は雨の中へ駆け出していった。
スーツの背中が あっという間に濡れて色を変えていく。
角を曲がって 見えなくなった。
ノアは傘を開かなかった。
柄を両手で握りしめたまま 軒先に立ち尽くしていた。
また今度 ゆっくり話そう。
その言葉がひとつ 記憶に増えた。
増えて 積もって 重くなっていく。
ノアは手帳を開いた。
さっき書けなかった一行の下に 今度はペンが動いた。
震える字で。
「忘れられたら よかったのに」
ひさしから落ちた雨粒が ページの上にひとつ落ちた。
インクが小さく滲んだ。
ノアはそれが雨粒だったのかどうか 確かめなかった。
確かめなくても 覚えているから。
それから一週間 ノアはいつも通りに過ごした。
朝は誰よりも早く執務室に来て 夜は誰よりも遅く帰った。
予算編成の資料は 三日どころか一日で仕上がってしまって 手持ち無沙汰になった時間を ほかの仕事で埋めた。
コユキの勉強を見て 会議の議事録をまとめて 過去五年分のセミナーの文書を整理し直した。
先生から一度だけモモトークが届いた。
『この前はありがとう。傘はいつでもいいからね』
ノアは既読をつけたまま 返事をしなかった。
借りた傘は 執務室のロッカーの中に 丁寧にたたんでしまってある。
返しに行けば会うことになる。
会えば また覚えることが増える。
ユウカは相変わらず楽しそうだった。
当番の日には朝からそわそわして 帰ってくると報告書を書きながら口元を緩めていた。
先生がまた領収書をごまかしたとか。
手帳をちゃんと使ってくれているとか。
自分の作ったお弁当を 全部食べてくれたとか。
ユウカ「でね 先生ってば 卵焼きが甘すぎるって言うのよ。そのくせ全部食べるんだから」
ノア「ふふ。先生は甘いものがお好きですから。コーヒーにお砂糖をふたつ入れますし」
ユウカ「え そうなの?知らなかった」
ノアは言葉に詰まった。
ノア「……前に 当番のときに見かけたので」
ユウカ「へえ。さすがノアね。私も今度から気をつけてみる」
ユウカに悪気はない。
ノアが教えたことを ユウカは素直に受け取って 先生のために役立てるだろう。
それでいいはずだった。
それを望んで 一歩下がったはずだった。
なのにノアは その夜 執務室にひとり残って しばらく何も手につかなかった。
先生がコーヒーに砂糖をふたつ入れることを知っているのは 自分だけだと思っていた。
自分だけの小さな秘密を 自分の口から手放してしまった。
机の一番下の引き出しを開けた。
渡せなかった手帳の包みが そこにあった。
ノアはそれを取り出して 両手で持った。
捨てることも 使うことも 誰かにあげることもできなかった。
ノア「……私 何をしているんでしょうね」
包みを抱えたまま 机に額をつけた。
ひんやりとした天板の感触。
時計の秒針の音だけが 静かな部屋に響いていた。
その翌日。
ユウカは来月の予算書類を作りながら 小さく首を傾げていた。
ユウカ「……あれ?」
画面には セミナーの業務記録が並んでいる。
会計として 各メンバーの稼働時間や経費の使い方を確認するのもユウカの仕事だ。
数字を見るのは得意だった。
そして数字は 嘘をつかない。
ノアの稼働時間が 先月の倍近くになっていた。
毎日 朝七時前に出勤。夜十時過ぎに退勤。
予算編成が忙しいとは聞いていたけれど 資料の提出日はとっくに過ぎている。
それなのに ノアの残業時間は減っていなかった。
ユウカは当番表を開いた。
来月 ノアの名前はどこにもない。
その次の月も。
さらに前の記録をさかのぼる。
ノアが当番表を書き換えた日付。
予算編成の資料が完成した日付。
ノアが「手が離せなくなる」と言った時期と 実際に忙しかった時期。
数字が 合わなかった。
ユウカ「……どういうこと」
ユウカは画面を見つめたまま しばらく動けなかった。
指先が 電卓のキーの上で止まっていた。
コユキ「ユウカ先輩?」
いつの間にか コユキが隣に立っていた。
コユキ「怖い顔してますよ。また私の請求書ですか?」
ユウカ「違うわよ。……ねえコユキ。最近のノア どう思う?」
コユキ「ノア先輩ですか?」
コユキはうーんと唸って 天井を見上げた。
コユキ「優しいです。いつもより。怒らないし おやつも多めにくれるし。でも……」
ユウカ「でも?」
コユキ「なんか 遠いです。笑ってるのに ここにいない感じがします」
コユキはそれ以上は言わなかった。
何か知っているわけではないのだろう。
ただ ノアのことをちゃんと見ている子の言葉だった。
ユウカは画面に視線を戻した。
ノアの稼働時間。空白の当番表。
ショッピングモールで手帳を選んだとき ノアが一瞬だけ見せた表情。
あのとき 何かがおかしいと思ったのに 浮かれていて見ないふりをした。
ユウカ「……私 バカだ」
コユキ「えっ!?ユウカ先輩が自分のことバカって言った!?明日はミサイルが降りますよ!」
ユウカ「うるさい」
ユウカは立ち上がった。
時計は夜の九時を回っていた。
ノアはまだ 執務室にいるはずだった。
執務室の明かりは ひとつだけ点いていた。
ノアの机の上のスタンドライト。
ノアは書類をめくる手を止めて 扉のほうを見た。
ノア「ユウカちゃん。こんな時間にどうしたんですか?」
ユウカ「それはこっちの台詞よ」
ユウカは扉を閉めて ノアの机の前まで歩いてきた。
手にはタブレットを持っている。
ユウカ「ノア。先月の稼働時間 自分で把握してる?」
ノア「ええ。少し多めでしたね」
ユウカ「少しじゃないでしょ。倍よ。予算編成の資料は先々週には提出済み。なのに残業時間は減ってない。むしろ増えてる」
ノア「ほかの仕事も溜まっていましたから」
ユウカ「過去五年分の文書整理が?今やらなきゃいけない仕事?」
ノア「……いつかはやらなければいけない仕事です」
ユウカ「当番表もそう。来月も 再来月も ノアの名前がない。予算編成が理由なら もうとっくに戻せるはずよね」
ノア「ユウカちゃんのほうが先生のお役に立てるからです。経費の管理も」
ユウカ「ノア」
ユウカの声が 低くなった。
ユウカ「数字が合わないのよ」
ノアは何も言わなかった。
スタンドライトの光が ノアの横顔に濃い影を落としていた。
ユウカ「ノアが言ってる理由と 実際の数字が全然合わない。私が気づかないと思った?私 セミナーの会計よ?」
ノア「……ユウカちゃんは 本当にすごいですね」
ユウカ「茶化さないで」
ノア「茶化していません。本当にそう思っています」
ノアは笑おうとした。
口の端が持ち上がりかけて 途中で止まった。
ユウカ「……先生のこと 避けてるんでしょ」
沈黙。
ユウカ「この前 先生が言ってたの。ノアに避けられてる気がするって。私が何かしたのかなって すごく気にしてた。私 ノアは忙しいだけですよって答えたけど……違うんでしょ」
ノア「……」
ユウカ「どうして?先生に何かされたの?」
ノア「いいえ。先生は何もしていません」
ユウカ「じゃあどうして」
ノア「ユウカちゃん」
ノアはゆっくりと顔を上げた。
ライトの光を受けた瞳が ユウカをまっすぐに見ていた。
ノア「三月の第二木曜日」
ユウカ「……え?」
ノア「シャーレから帰ってきたユウカちゃんは 報告書を書きながら 七回手を止めました。そのうち五回 笑っていました。四月の三日には 先生に頼まれたからと言って いつもは絶対に買わない高いほうのボールペンを買ってきました。四月十八日には 先生の好きな食べ物をさりげなく私に聞いてきました。五月に入ってからは お弁当を作りすぎた日が十一回あります」
ユウカ「ちょ……ちょっと待って」
ノア「ショッピングモールに行った日 ユウカちゃんは待ち合わせの三十二分前に来ていました。カーディガンは新しく買ったもので 値札を切った跡が袖口に残っていました。手帳を選んだあと クレープを食べながら 先生に渡すときの言葉を十四通り考えていました」
ユウカの顔が 真っ赤になって それから少しずつ青ざめていった。
ノア「私 全部覚えているんです。ユウカちゃんが先生のことを好きなのも ずっと前から知っていました」
ユウカ「……ノア」
ノア「だから 一歩下がろうと思ったんです。ユウカちゃんが先生の隣にいられるように。それが一番いいと思ったんです」
ノアの声は 最後まで穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
ユウカ「なんで……ノアがそんなことする必要があるのよ」
ノアは答えなかった。
答えられなかった。
ユウカの目が 大きく見開かれた。
計算が得意な彼女の頭の中で 散らばっていた数字が 一本の式につながっていくのが見えるようだった。
ユウカ「……まさか」
ノア「……」
ユウカ「ノアも 先生のこと」
スタンドライトの光が わずかに揺れた気がした。
揺れたのは光ではなく ノアの肩だった。
ノア「……私 忘れるのが苦手なんです」
ぽつりと 落とすような声だった。
ノア「四月二十九日の午後二時五十一分。先生が給湯室の前で 私みたいになんでも書き留めておけたらいいのにって言いました。砂糖をふたつ入れたコーヒーを持っていました。私の詩を好きだと言ってくれた日の窓の外には 鳥が三羽飛んでいました。先生が困ったときに笑う顔 疲れているときの声 嬉しいときに少しだけ早口になるところ。全部 覚えています」
ユウカ「ノア……」
ノア「離れれば 増えないと思ったんです。会わなければ 新しい記憶は増えないから。今あるものだけなら いつか重さに慣れるかもしれないって」
ノアの指が 机の上で白くなるほど握りしめられていた。
ノア「でも 駄目でした。廊下ですれ違っただけで覚えてしまう。電話の名前が見えただけで覚えてしまう。ユウカちゃんが教えてくれる先生の話も 全部覚えてしまう。先生が眠っている顔も ユウカちゃんが毛布をかけた手つきも 先生の手帳に書いてあったユウカちゃんの名前も 全部」
声が 初めて揺れた。
ノア「忘れられないんです。何ひとつ。嬉しかったことも 苦しかったことも 同じ鮮やかさで ずっと残るんです。ユウカちゃんが笑ってくれて嬉しいのに その笑顔を思い出すたびに 一緒に胸が痛くなるんです。どちらかだけを忘れることもできないんです」
ノアは顔を伏せた。
髪が流れて 表情が見えなくなる。
ノア「ごめんなさい ユウカちゃん。こんなこと 言うつもりじゃなかったんです。最後まで 笑っているつもりだったのに」
机の上に ぽたりと小さな雫が落ちた。
ひとつ。
またひとつ。
ユウカはしばらく何も言わなかった。
タブレットを持つ手が 小さく震えていた。
ユウカ「……バカ」
かすれた声だった。
ユウカ「ノアの バカ」
ノア「……はい」
ユウカ「はいじゃないわよ!」
ユウカはタブレットを机に置いて ノアの肩を両手でつかんだ。
ユウカ「なんで勝手に決めるの!?私のためって何!?私がいつ ノアに身を引いてなんて頼んだのよ!」
ノア「頼まれていません。私が勝手に」
ユウカ「そうよ 勝手よ!勝手すぎる!」
ユウカの目からも 涙がこぼれていた。
本人は拭おうともしなかった。
ユウカ「ノアがそんなに苦しんでるのに 私 何にも知らないで 浮かれて 先生の話ばっかりして……手帳だって ノアに選んでもらって 嬉しくて……」
ユウカの言葉が詰まった。
何かに気づいたように 息をのむ。
ユウカ「……ねえ ノア。あの手帳」
ノアの肩が 小さく跳ねた。
ユウカ「あのとき ノア 変な顔してた。私 気づいてたのに 見ないふりしたの。……もしかして ノアも」
ノアは答えなかった。
代わりに 机の一番下の引き出しに視線を落とした。
ほんの一瞬だけ。
ユウカはそれを見逃さなかった。
会計の目は 数字だけでなく 人の視線の動きも追ってしまう。
ユウカ「……開けていい?」
ノア「……」
ユウカ「嫌なら開けない」
長い沈黙のあと ノアは自分で引き出しを開けた。
中から取り出した小さな包みを 机の上に置く。
包装紙越しにも 中身の形がわかった。
ユウカが選んだのと 同じ大きさの 同じ厚みの。
ユウカ「……っ」
ユウカは口を押さえた。
肩が大きく震えた。
ユウカ「なんで……なんで言ってくれなかったのよ……」
ノア「言えるわけ ないじゃないですか」
ノアは顔を上げた。
涙で濡れた頬のまま 笑おうとして 失敗した。
ノア「ユウカちゃんが あんなに嬉しそうな顔で これがいいって言ったんですよ。あんなにきらきらした目で 私にどう思うって聞いたんですよ。そんな顔をされたら 私 いいと思いますって言うしかないじゃないですか」
ユウカ「ノア……」
ノア「私 ユウカちゃんのことも大好きなんです。ユウカちゃんが笑っているのを見るのが好きなんです。ずっと隣で見てきたんです。だから」
ユウカ「だから自分が泣けばいいって思ったの?」
ノアは言葉を失った。
ユウカ「そんなの 全然嬉しくない」
ユウカはノアの肩から手を離して 乱暴に目元をこすった。
ユウカ「ノアがいない場所で先生の隣にいたって 私 ちっとも嬉しくないわよ。ノアが泣いてるのに 私だけ笑ってるなんて 計算が合わないじゃない」
ノア「ユウカちゃん……」
ユウカ「勝ち負けとかじゃないけど!そういうのじゃないけど!でも ノアが勝手に降りた勝負で 私が何かを手に入れたって それ 私の気持ちまで勝手に決められたのと同じよ」
ユウカは鼻をすすって まっすぐにノアを見た。
ユウカ「私 ノアと対等でいたいの。今までずっとそうだったでしょ。予算でも 仕事でも 喧嘩でも。なのに一番大事なところで 私だけ置いていかないでよ」
ノアは何も言えなかった。
ただ ユウカの言葉をひとつずつ 胸の中にしまっていった。
この言葉も きっと一生忘れない。
でも この言葉なら 忘れなくていいと思えた。
ユウカ「当番表 元に戻すから」
ノア「え?」
ユウカ「全部計算し直す。来月の分も 再来月の分も。ノアの名前 ちゃんと戻す」
ノア「でも ユウカちゃん」
ユウカ「でもじゃない。会計の私が言ってるの。数字が合わない当番表なんて 認められないわ」
ユウカはそう言ってから 少しだけ声を落とした。
ユウカ「……それに 傘。返してないんでしょ」
ノア「どうしてそれを」
ユウカ「先生が言ってたの。ノアに傘を貸したって。ノアは几帳面だから すぐ返しに来ると思ってたのにって」
ノアはロッカーのほうを見た。
丁寧にたたまれた 先生の傘。
ユウカ「返しに行って。ちゃんと自分の足で。ノアの当番の日に」
ノア「……私が行ったら ユウカちゃんは」
ユウカ「平気よ。……平気じゃないかもしれないけど 平気になるようにがんばる。ノアがいないほうが よっぽど平気じゃないもの」
ユウカは震える声で そう言い切った。
それから 机の上の包みを ノアのほうへそっと押し戻した。
ユウカ「これも ノアが決めて。渡すのか 渡さないのか。私は口出ししない。でも 私のために渡さないっていうのは なしだからね」
ノアは包みを見つめた。
長いあいだ 引き出しの奥で眠っていた小さな箱。
それに そっと手を伸ばした。
ノア「……ユウカちゃんは ずるいですね」
ユウカ「ノアに言われたくないわよ」
ノア「ふふ。……そうですね」
二人は顔を見合わせた。
どちらの目も 赤く腫れていた。
ひどい顔だった。
ノアはそれを ちゃんと覚えておこうと思った。
ノアの当番の日は 朝から薄曇りだった。
シャーレのオフィスの前で ノアは傘と小さな包みを抱えて立っていた。
ノックしようとした手が 一度止まる。
覚えている。
前にここに立ったときの自分の気持ちも。
扉の向こうで眠っていた先生の顔も。
毛布をかけたユウカの手つきも。
全部 鮮やかなまま残っている。
ノアは小さく息を吸って 扉を叩いた。
先生「はーい。どうぞ」
扉を開けると 先生は書類から顔を上げて 一瞬目を丸くした。
それから ゆっくりと表情をほどいた。
先生「ノア」
ノア「おはようございます先生。本日の当番の生塩ノアです」
先生「……うん。おはよう。来てくれて嬉しいよ」
ノア「当番表を直されてしまったので。ユウカちゃんに」
先生「ユウカに?」
ノア「数字が合わないそうです」
先生は少しだけ考えて それから小さく笑った。
先生「そっか。ユウカらしいね」
ノア「はい。とても」
ノアは先生の机の前まで歩いていって 傘を差し出した。
ノア「先日はありがとうございました。お返しするのが遅くなってしまって 申し訳ありません」
先生「ううん。ちゃんと持って帰れたならよかった」
ノア「それと……先生」
ノアは傘を渡したあとも 机の前から動かなかった。
包みを抱えた腕に 力がこもる。
ノア「ずっと先生を避けていて ごめんなさい。先生は何も悪くないのに 不安にさせてしまいました」
先生「謝らなくていいよ。理由があったんだよね」
ノア「はい」
先生「話せそう?」
ノアは視線を落とした。
机の上に 深い茶色の革の手帳が置かれていた。
ユウカが選んだ手帳。
ページの端が少しだけ反っていて 毎日使われていることがわかった。
ノアは自分の腕の中の包みを見た。
同じものが入っている。
渡せば 先生の机には同じ手帳がふたつ並ぶことになる。
ノア「……全部は 話せません」
先生「うん」
ノア「話してしまったら たぶん私は 先生にもユウカちゃんにも 困った顔をさせてしまいますから」
先生「……そっか」
ノア「でも ひとつだけ聞いてもらえますか」
先生「もちろん」
ノアは顔を上げた。
先生の目を まっすぐに見た。
ノア「私 忘れるのが苦手なんです」
先生「うん。知ってるよ」
ノア「嬉しかったことも 悲しかったことも 全部同じように覚えてしまうんです。先生にかけてもらった言葉も ひとつも忘れていません。それが 苦しくなってしまったんです。だから 新しい記憶が増えないように 離れようとしました」
先生は黙って聞いていた。
途中で口を挟むことも 慰めの言葉を急ぐこともなく。
ノア「でも離れても 覚えることは増えていきました。そして 先生と話せなかった時間のことまで 全部覚えてしまいました。……それなら 苦しくても ちゃんと覚えたいことを増やしたほうが いいのかもしれないって 思ったんです」
先生は少しのあいだ 何も言わなかった。
言葉を選んでいるのが ノアにはわかった。
先生「……私は ノアの記憶がどれだけ重いのか ちゃんとはわかってあげられないと思う。私はすぐ忘れちゃうほうだからね。わかったようなことは言えないよ」
ノア「……はい」
先生「でも ノアが覚えていてくれたおかげで 助けられたことがたくさんあるんだ。書類のこともそうだし 私が忘れてた約束をノアが覚えていてくれたこともあった。私の言葉をノアがずっと大事に覚えていてくれるなら それは私にとってすごく嬉しいことだよ」
先生はそこで一度 言葉を区切った。
先生「だから それが苦しいなら 苦しいって言ってほしい。一人で抱えて 自分から遠ざかるんじゃなくてね。私にでも ユウカにでもいい。ノアの気持ちは ノアが小さくしなきゃいけないものじゃないよ。誰かのためだとしても」
先生は ノアが抱えている包みには触れなかった。
中身を尋ねることもしなかった。
ただ ノアが自分で決めるのを 待っていた。
ノアは包みを見下ろした。
しばらくそのままでいて それから そっと机の上に置いた。
ノア「先生に 差し上げようと思って 買ったものです」
先生「開けてもいい?」
ノア「……はい」
先生は丁寧にリボンをほどいた。
包装紙を破らないように 一枚ずつ開いていく。
中から現れた深い茶色の革の手帳を見て 先生の手が止まった。
机の上の もうひとつの手帳。
同じ色。同じ形。
先生「……これ」
ノア「ユウカちゃんと 同じものを選んでしまいました。先に買っていたのは 私なんですけどね」
ノアは冗談めかして笑った。
今度は ちゃんと笑えた。
ノア「ふふ。先生が前に 私みたいに書き留めておけたらいいのにって言ってくださったので」
先生「……覚えててくれたんだね。私 言ったことも忘れてたよ」
ノア「知っています。先生はすぐ忘れますから」
先生「あはは……耳が痛いな」
先生は二冊の手帳を並べて 少しだけ考えていた。
それから 新しいほうを手に取った。
先生「ユウカがくれたほうは 仕事用なんだ。領収書とか予定とか ユウカに怒られないための手帳だって 本人に言われちゃってね」
ノア「ユウカちゃんらしいですね」
先生「だから こっちは別のことに使おうかな」
ノア「別のこと ですか?」
先生「うん。私が忘れたくないことを書く手帳にしようと思う。ノアみたいに全部は覚えていられないから せめて大事なことくらいは書き留めておきたいんだ」
先生は手帳の最初のページを開いて ペンを取った。
少し癖のある字で 日付を書く。
今日の日付。
先生「最初は何を書こうかな」
ノアは先生の手元を見つめていた。
何も書かれていない白いページ。
これから少しずつ 先生の忘れたくないことで埋まっていくページ。
そこに自分の名前が書かれることは もしかしたらないのかもしれない。
あったとしても 自分が望む形ではないのかもしれない。
その予感は 胸の奥にちゃんと残っていた。
曇った空が すぐに晴れたりしないように。
ノア「先生」
先生「うん?」
ノア「ひとつ お願いしてもいいですか」
先生「なにかな」
ノア「今日 私がここに来たことを 書いておいてください。先生はきっと忘れてしまうので」
先生は少しだけ目を見開いて それから柔らかく笑った。
先生「忘れないよ。でも 書いておくね」
ペン先が紙の上を走った。
ノアはそれを読まなかった。
読んでしまえば覚えてしまう。
でもそれは 先生の手帳の中にだけあればいいと思った。
ユウカ「先生!」
扉が勢いよく開いた。
息を切らしたユウカが 領収書の束を握りしめて立っていた。
ユウカ「この限定版プラモデルの領収書!資料って書いてありますけど 箱の写真まで添付されてるんですけど!?」
先生「えっ ユウカ?今日はノアが当番じゃ」
ユウカ「会計監査です!当番とは関係ありません!」
ユウカはずかずかとオフィスに入ってきて それからノアの顔を見た。
机の上に並んだ 二冊の手帳を見た。
一瞬だけ 唇がきゅっと結ばれた。
それから ふっと力を抜いた。
ユウカ「……ノア。ちゃんと来たのね」
ノア「はい。ユウカちゃんに直された当番表どおりに」
ユウカ「そう。ならいいわ」
ユウカはそれだけ言って 先生のほうに向き直った。
ユウカ「先生。今月の経費 もう一度一緒に確認しますからね。ノアも手伝って」
ノア「ふふ。喜んで」
先生「ええ……二人がかりはちょっと手加減してほしいかな」
ユウカ「しません!」
ノア「しません」
声が重なった。
ユウカとノアは顔を見合わせて 同時に吹き出した。
先生は観念したように 両手を挙げた。
夕方。
当番を終えたノアとユウカは 並んでミレニアムへの帰り道を歩いていた。
空はまだ曇っていたけれど 西の雲の切れ間から 細い光が差していた。
ユウカ「ねえノア」
ノア「はい」
ユウカ「私 負けないから」
ノアは足を止めた。
ユウカも止まって こちらを振り返った。
夕陽を背にしたその顔は 少しだけ赤かった。
ユウカ「何がとは言わないけど。……ノアが本気でも 私 譲らないから。だから ノアも譲らないでよね。勝手に降りたら 今度こそ本気で怒るから」
ノアはユウカの顔を見つめた。
これまで覚えてきた どのユウカの顔とも違う。
まっすぐで 少し怖がっていて それでも逃げない顔。
ノア「……ふふ。ユウカちゃん 怖いですね」
ユウカ「茶化さない!」
ノア「茶化していません」
ノアは小さく笑って 一歩前に出た。
ユウカの隣に並ぶ。
半歩うしろではなく ちゃんと隣に。
ノア「私も 負けません。……たぶん」
ユウカ「たぶんって何よ」
ノア「まだ よくわからないんです。先生のことも ユウカちゃんのことも 同じくらい大切なので」
ユウカ「……そっか」
ユウカはそれ以上何も言わなかった。
ただ ノアの手をとって 歩き出した。
あの日 文房具店の前で握られたときと同じ あたたかい手だった。
胸の奥はまだ 少し痛かった。
先生の手帳に並んだユウカの名前も。毛布をかけたユウカの指先も。雨の中で鳴った電話の画面も。
何ひとつ消えずに ノアの中に残っている。
きっと これからも増えていく。
苦しい記憶も 嬉しい記憶も 同じ鮮やかさで。
それでも。
寮に戻ったノアは 机の上で手帳を開いた。
あの日の一行と 雨に滲んだ一行の下に 新しいページがあった。
ペンを握る手は もう震えていなかった。
「忘れられたら よかったのに」
その一行を 指でそっとなぞった。
消さなかった。
消しても 覚えているから。
その下に ゆっくりと書き足した。
「でも 今日のことは 忘れたくありません」
窓の外で 雲の切れ間がほんの少しだけ広がっていた。
ノアはそれを長いあいだ眺めていた。
ノア「私 忘れるのは苦手なんです」
誰もいない部屋で 小さく呟いた。
ノア「だから ちゃんと覚えておきますね」
灰色の空は まだ晴れていなかった。
それでもノアは 少しだけ笑っていた。
「一度見たものを忘れられないノアが恋をしたら、身を引くことがいちばん残酷な選択になるんじゃないか」と思ったところから書いたお話です。
離れても増えていく記憶と、それに気づいて「計算が合わない」と怒ってくれるユウカ。二人には、勝ち負けじゃない場所で対等でいてほしかったんです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。