劇場版ゲーム開発部 ヘンダーランド(みたいなところ)の大冒険 作:すーぱーりっかちゃん
原作:ブルーアーカイブ
タグ:ブルーアーカイブ ブルアカ 先生(ブルアカ) 天童アリス ゲーム開発部 クレヨンしんちゃん 曇らせ 会話形式
・ゲマトリア(黒服、ゴルコンダ、デカルコマニー)が敵役として登場します。黒服が事情により魔女の帽子をかぶります
・テーマパーク「変なもんランド」、人形師のおじさん、魔法のペンダントなど、原作にない独自設定が多数あります
・生徒が人形にされたり、姿を変えられたりする展開があります(流血や残酷な描写はありません)
・戦闘描写と、軽めの曇らせ要素があります(ハッピーエンドです
pixivにも掲載しています。
モモイ「だめだー! なんにも思いつかないー!」
才羽モモイが、キーボードの上に突っ伏した。モニターには、タイトルの欄だけが空白のまま点滅している企画書が映っている。
ミドリ「お姉ちゃん、それ今日だけで三回目だよ」
モモイ「だって本当に思いつかないんだもん。次の新作、ぜんっぜんアイデアが出てこないの」
双子の妹の才羽ミドリは、タブレットにペンを走らせながら小さくため息をついた。部屋の隅のロッカーからは、カタン、とかすかな物音がする。部長の花岡ユズが、いつものように中にこもっているのだ。
ミドリ「でも、そろそろ本当に決めないとまずいよ。来月までに企画書を出せなかったら、部費を見直すってユウカに言われてるんだから」
モモイ「うぅ、思い出させないでよ……」
アリス「アリスは新しい冒険がしたいです」
天童アリスが、椅子の上で背筋をぴんと伸ばして言った。大きな瞳が、期待できらきらと光っている。
モモイ「その冒険の中身が出てこないんだってば」
アリス「では、まずは酒場で情報収集です」
ミドリ「部室に酒場はないよ、アリスちゃん」
そのとき、部室の扉がノックされた。
先生「やってるね。差し入れ、持ってきたよ」
モモイ「先生! ちょうどいいところに!」
先生がコンビニの袋を机に置くと、モモイが真っ先に飛びついた。袋の中身を確かめるより早く、先生の袖をつかんで揺さぶる。
モモイ「ねえ先生、何か面白い話ない? 新作のネタになりそうなやつ!」
先生「急に言われてもなあ」
アリス「情報収集です。酒場のマスターは、だいたい先生みたいな顔をしています」
先生「私、そんなに酒場のマスターっぽいかな」
先生は苦笑しながら少し考えて、それから、ぽんと手を打った。
先生「そういえば、昨日の夜に映画を見たんだ。外の世界のアニメ映画なんだけどね」
アリス「映画ですか!」
先生「うん。クレヨンしんちゃんっていうシリーズの一本で、ヘンダーランドの冒険……いや、大冒険だったかな。ヘンダーランドの大冒険」
モモイ「くれよん……?」
ミドリ「ヘンダーランド、っていうのが舞台の名前なんですか?」
先生「そう。外の世界の、山のきれいな場所にあるテーマパークの名前なんだ」
ロッカーの扉が指一本ぶんだけ開いた。隙間から、ユズの片目がのぞいている。話の続きが気になっているらしい。
先生「主人公は五歳の男の子でね。幼稚園の遠足で、そのテーマパークに行くんだ。ところが、その遊園地の裏側には、別の世界がつながっていてね」
アリス「別の世界……!」
先生「遊園地は、実は魔女たちのお城の入り口だったんだよ。悪い魔女の二人組が、そこを拠点にして、こっちの世界を乗っ取ろうとしていたんだ」
アリス「隠しダンジョンです! 表の遊園地はただのフィールドで、裏にラストダンジョンがあるパターンです!」
先生「ふふ、ゲームで言うと、そういうことになるのかな」
ミドリ「アリスちゃん、もう完全にゲームの話になってる」
アリス「ゲームの話です。アリスにはわかります」
アリスは胸の前で両手を握りしめた。もう、物語の続きを聞く準備は万端だった。
先生「主人公は迷子になった先で、人形に変えられたお姫様に出会うんだ。お姫様は、魔女に心を奪われてしまっていてね。昼間はただの人形で、夜にしか動けないんだよ」
ミドリ「夜にしか動けない人形……。それ、ちょっと怖くない?」
ユズ「に、人形が、夜に動く……」
ロッカーの隙間がまた少し細くなった。
アリス「お姫様はかわいそうです。昼間は、ずっとひとりで動けないんですね」
先生「うん。だから、主人公に助けを求めるんだ。魔女たちを倒してほしいって。それで、男の子に魔法のトランプを託すんだよ」
アリス「魔法のトランプ……! 伝説の装備です!」
先生「呪文を唱えてカードを出すと、いろんな魔法が使えるんだ。ただし、自分の欲のためだけに使うと、力が弱くなっちゃうっていう決まりがあってね」
モモイ「えー! じゃあ、部費を増やしてってお願いするのは?」
ミドリ「それは完全に、自分のためでしょ」
モモイ「部のためだもん!」
ミドリ「部って、私たちのことだよ、お姉ちゃん」
モモイ「ぐぬぬ……」
モモイは悔しそうに唇をとがらせた。
アリス「先生、呪文は、どんな言葉なんですか?」
先生「それがね、ちょっとした言葉遊びになってるんだ。すごいなあ、すごいです、みたいな普通の言葉を、外国の呪文っぽく区切って唱えるんだよ」
モモイ「なにそれ、ずるい! そういうの考えるの、私すっごく得意なんだけど!」
ミドリ「お姉ちゃんが考えると、だいたい長くなるんだよね」
アリス「では、アリスも呪文を考えます。……ヒカリ・ヨー、はどうでしょう」
モモイ「それ、アリスがいつも言ってるやつじゃん」
アリス「言い慣れているほうが本番で噛みません」
先生は笑いをこらえながら、話を続けた。
先生「魔女の手下もいろいろいるんだよ。大きなハサミを持った手下とか、狼男とか。一番怖かったのは雪だるまの刺客かな。人間に化けて、主人公の家まで乗り込んでくるんだ」
ユズ「ひっ」
ロッカーの中から、小さな悲鳴が聞こえた。
ユズ「い、家まで、来るんですか……」
先生「ユズも聞いてたんだね」
ユズ「き、聞こえて、しまったので……。雪だるまが家に……。ロッカーの中なら、安全、でしょうか……」
モモイ「ユズ、たぶん雪だるまはロッカーも開けると思うよ」
ユズ「ひぃ……」
ロッカーの隙間がすっと細くなった。
アリス「先生、主人公は、お姫様を助けられたんですか?」
先生「それは見てのお楽しみかな」
アリス「では、アリスは、助けられたと信じます。勇者は、困っている人を見捨てません」
先生「うん。アリスらしいね」
先生がそう言うと、アリスは少し得意げに胸を張った。
アリス「主人公には、パーティーの仲間はいましたか?」
先生「仲間というか、家族がいたよ。お父さんとお母さんと、まだ赤ちゃんの妹。あの映画はね、冒険の話でもあるけど、家族の話でもあるんだと思う」
アリス「家族は最強のパーティーです。アリスは知っています」
モモイ「じゃあ、ゲーム開発部も家族みたいなもんだね!」
ミドリ「お姉ちゃんが言うと、なんか照れるんだけど」
ユズ「わ、わたしも、入って、ますか……?」
モモイ「当たり前じゃん。ユズは部長なんだから」
ロッカーの隙間から、ほっとしたような息が漏れた。
先生「最後はね、主人公が魔女のお城に乗り込んで、魔女たちと勝負するんだ。ダンスで勝負したり、ババ抜きで勝負したり」
モモイ「ラスボス戦がババ抜き!?」
ミドリ「それはちょっと見てみたいかも」
先生「でしょ? それで最後の最後に、魔女たちが主人公を追いかけてくるんだけど、これが本当に怖くてね。すごい顔をして、ものすごい速さで、待ちなさいって言いながらどこまでも追いかけてくるんだよ」
先生は大げさに両手を広げて、追いかける真似をしてみせた。
先生「子どもの頃に見てたら、たぶん泣いてたと思う。でも、大人になってから見ると、怖いのにちょっと笑っちゃうんだよね」
ユズ「こ、怖いのに、笑える……?」
先生「うん。怖いのと面白いのって、案外、紙一重なんだと思うよ」
アリス「怖くて、面白い……。それは、ホラーゲームの実況を見ているときの気持ちと同じですか?」
先生「そうそう、近いかもしれない」
アリスは真剣な顔でうなずいた。忘れないように、頭の中のメモ帳に書き込んでいるのだろう。
アリス「アリスも、魔法のトランプがほしいです。使用回数のあるアイテムは、大事に、大事に取っておきます」
モモイ「アリスは取っておきすぎなんだって。この前のRPGだって、ラストエリクサーを九十九個持ったまま、エンディングまで行っちゃったじゃん」
アリス「ラストエリクサーは、最後の最後まで使ってはいけないアイテムです」
ミドリ「その最後の最後って、ラスボス戦のことだと思うよ……」
アリス「ラスボスを倒したあとに、真のラスボスが出てくるかもしれません。油断は禁物です」
モモイ「それで真のラスボスも、エリクサーなしで倒しちゃうんだよね」
アリス「はい。アリスは強いので」
先生「ふふ。慎重なのはいいことだと思うよ。本当に大事なときのために取っておけるのも、ひとつの強さだからね」
アリス「先生に褒められました。パンパカパーン!」
ミドリ「褒められた、のかなあ……」
モモイが、急に椅子を蹴って立ち上がった。
モモイ「決めた! 次の新作は、遊園地の裏の魔女の城を攻略するゲームにする!」
ミドリ「それ、先生の映画そのままじゃない?」
モモイ「パクリじゃなくてオマージュ! それに、ほら、ゲームを作るには取材が必要でしょ。本物の遊園地を見て、裏側まで調べて……」
ミドリ「裏側まで調べたら、たぶん怒られるよ」
モモイ「あーあ。誰か、こういう遊園地を作ってくれないかなー」
モモイは自分のスマホを取り出すと、ものすごい勢いで文字を打ち込み始めた。
モモイ「ゲーム開発部の公式アカウントに、投稿しとこっと。次回作のネタ発見、っと」
ミドリ「お姉ちゃん、まだ何も決まってないのに……」
モモイ「宣伝は早いほうがいいの! ほら、できた」
モモイが掲げた画面には、元気のいい文章が並んでいた。
『ゲーム開発部、次回作のネタ発見! 先生に教えてもらった外の世界の映画で、遊園地の裏側が魔女のお城なんだって! 取材したいから、誰かそういう遊園地作ってくれないかな~』
アリス「アリスも書き込みます」
アリスは自分のスマホを両手で持つと、一文字ずつ、ゆっくりと打ち込んだ。
『アリスも、魔女のお城に行ってみたいです!』
モモイ「よーし、これで拡散されれば、どこかの誰かが作ってくれるかも!」
ミドリ「そんな都合のいい遊園地、あるわけないでしょ」
ユズ「あ、あったら、ちょっと、怖いです……」
先生「まあまあ。夢があっていいじゃない」
先生は笑いながら、袋の中からプリンを取り出して、ロッカーの隙間に差し入れた。白い指が遠慮がちにそれを受け取る。
ユズ「あ、ありがとう、ございます……」
そのとき、部室の扉が勢いよく開いた。
ユウカ「失礼します。ゲーム開発部、企画書の進み具合を確認しに……」
セミナーの会計、早瀬ユウカだった。腕には、いつもの電卓とファイルを抱えている。ユウカは部室を見回し、机の上のお菓子の山と、モモイのスマホの画面を順番に見た。
ユウカ「……遊園地に、取材?」
モモイ「げっ、ユウカ」
ユウカ「げっ、じゃありません。言っておきますけど、遊園地の入場料が取材費として経費で落ちるなんて、思わないでくださいね」
モモイ「まだ行くって決まってないし! そもそも、そんな遊園地ないし!」
ユウカ「ならいいです。それと先生、そのお菓子は」
先生「私のポケットマネーだよ」
ユウカ「……それなら、いいです。でも、先生もこの子たちを甘やかしすぎですからね」
ユウカは小さく咳払いをすると、企画書の締め切りをもう一度念押ししてから、部室を出ていった。扉が閉まった瞬間、モモイがべーっと舌を出した。
モモイ「冷酷な算術使いめー」
ミドリ「お姉ちゃん、たぶん聞こえてるよ」
アリス「先生。アリスもその映画を見てみたいです」
先生「いいよ。今度、みんなで見ようか。ユズが怖くないように、明るい部屋でね」
ユズ「ろ、ロッカーの中から、見ます……」
モモイ「それ画面見えなくない?」
ユズ「お、音だけで、大丈夫です……」
部室に笑い声が広がった。窓の外では、ミレニアムの空が、ゆっくりと夕焼けの色に染まり始めていた。
その日の投稿はほんの少しだけ拡散された。ゲーム開発部の公式アカウントにしては、多いほうだった。
そして、ほんの少しだけ、届いてはいけない場所にまで届いた。
その夜。
キヴォトスのどこか、窓のない部屋で、一枚の画面だけが青白く光っていた。
画面には、昼間の投稿が映し出されている。ゲーム開発部の公式アカウントの、元気のいい文章。その下に続く、たどたどしい一文。
アリスも、魔女のお城に行ってみたいです。
黒服「クックック……」
黒い服を着た男が低く笑った。顔のあるべき場所には、闇と、ひび割れのような光の筋しかない。
黒服「先生が外の世界の物語を語った。それを聞いた生徒たちが、その物語の中に入りたいと願っている。実に興味深いとは思いませんか」
ゴルコンダ「まことに。テクストの移植、と申せましょう」
部屋の隅に、首のないコートの男が立っていた。両手で一枚の額縁を掲げている。額縁の中には、シルクハットをかぶった紳士の後ろ姿が描かれていた。声は、その絵の中から聞こえてくる。
ゴルコンダ「外の世界で書かれた物語を、このキヴォトスの土に植えたなら、それは根を張るのか。それとも、枯れるのか。記号の実験としては、これ以上ない題材でございますな」
デカルコマニー「そういうこった!」
黒服「しかも、その物語の主人公の役を、自ら望む者がいる。勇者を名乗る、あの少女です」
ゴルコンダ「物語の外から来た言葉で、自らを定義する存在。なるほど、貴下が興味を持たれるのも道理ですな」
黒服「場所はアビドスがよいでしょう。カイザーの理事が、持て余している土地がありますから。あの方には、遊園地の収益の話でもしておけば十分です」
ゴルコンダ「原典には、人形にされた姫君がおりましたな。魔女の手下も、雪だるまに、ハサミに、狼男」
黒服「ええ。役は、すべて用意しておきましょう。人形というのはよい器になりますから」
黒服の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが、窓のない部屋の空気をいっそう冷たくした。
ゴルコンダ「では、名前を決めねばなりませんな。原典の名は『ヘンダー』。すなわち、『変だ』。ならば、こちらは『変なもん』と致しましょう」
黒服「……変なもん、ですか」
ゴルコンダ「変なもんランド。記号とは、往々にしてそういうものでございます」
デカルコマニー「まあ、そういうこった!」
黒服はしばらく黙っていた。
顔のひび割れのような光がほんのわずかに揺れた。
黒服「……よろしいでしょう。名前に、こだわりはありません」
ゴルコンダ「おや、今、少しためらわれましたな」
黒服「気のせいです」
ゴルコンダ「して、物語の結末は、いかが致しましょう」
黒服「空白にしておきましょう。結末を書くのは、物語の中にいる者の役目です。勇者が自ら書くのか。それとも、誰にも書かれないまま、物語だけが続いていくのか」
ゴルコンダ「結末のないテクストは、どこまでも現実を侵してゆく。なんとも、甘美な実験ですな」
デカルコマニー「そういうこった!」
黒服は画面に視線を戻した。投稿の最後の一文を指先でそっとなぞる。
黒服「招待状を出しましょう。先生と、勇者に」
それから、三週間が過ぎた。
アビドス高等学校の、対策委員会の部室。窓の外では、今日も細かな砂が風に舞っている。
アヤネ「た、大変です! アビドスの郊外に、テーマパークができています!」
セリカ「はあ!? テーマパーク!?」
黒見セリカが、読んでいた求人誌を放り出した。奥空アヤネは、ノートパソコンの画面をみんなのほうへ向けた。派手な色の看板と、観覧車と、何の生き物かよくわからないマスコットの写真が並んでいる。
アヤネ「名前は変なもんランド。今週の土曜日に、開園するそうです」
シロコ「ん、変な名前」
ノノミ「わあ、遊園地ですか~。楽しそうですね☆」
セリカ「楽しそう、じゃないわよ! アビドスの土地に、いつの間にそんなもの……」
アヤネ「それが、土地の名義は、カイザーコーポレーションなんです」
部室の空気がすっと冷えた。
机に突っ伏して昼寝をしていた小鳥遊ホシノが、のんびりと顔を上げた。
ホシノ「うへ~。カイザーさんが今度は遊園地かあ」
口調はいつも通りだった。けれど、眠たげな目の奥だけが、わずかに鋭くなっていた。
アヤネ「おかしいのはそれだけじゃないんです。三週間前まで、あそこはただの砂地でした。工事の申請も、資材を運び込んだ記録も、どこにも残っていないんです」
シロコ「三週間で、遊園地がひとつ」
ノノミ「まるで、魔法みたいですね……」
セリカ「感心してる場合じゃないでしょ! カイザーがやることなんだから、絶対ろくでもないことに決まってるわ!」
ホシノ「まあまあ、セリカちゃん。見に行ってみないと、わからないこともあるよ~」
シロコ「ん、偵察なら任せて。入口と出口と、売店の金庫の位置を調べてくる」
アヤネ「金庫は調べなくていいです!」
同じ日の夕方。
シャーレの執務室に、一通の封筒が届いた。
真っ黒な封筒だった。宛名には、金色の細い文字で「シャーレの先生、ならびに生徒の皆様」とある。差出人の欄には「変なもんランド支配人」とだけ書かれていた。
封を切ると、中から招待券の束が出てきた。開園記念、特別ご招待。数えてみると、ちょうど十一枚あった。
先生「……変なもんランド」
先生は、その名前を口の中で繰り返した。三週間前に、ゲーム開発部の部室で話した映画のことが、頭をよぎる。
偶然にしてはできすぎている気がした。
モモイ「先生! 大変大変!」
扉が勢いよく開いて、モモイが飛び込んできた。その後ろから、アリスとミドリが続く。ユズは、ミドリの背中に隠れるようにしてついてきていた。
モモイ「見て見て、これ! アビドスに遊園地ができたんだって! しかも、名前が変なもんランド!」
ミドリ「先生が話してくれた映画の遊園地と、名前がそっくりなんです」
アリス「ヘンダーランドと、変なもんランド。文字はあまり合っていませんが、気持ちは合っています」
先生「うん。ちょうど、そこの招待券が届いたところなんだ」
先生が招待券を見せると、モモイは目をまんまるにした。
モモイ「えっ、すごい! これ、運命じゃん!」
ユズ「う、運命……。ちょっと、怖いです……」
アリス「先生、行きましょう! 隠しダンジョンがアリスたちを呼んでいます!」
先生「うーん……」
先生は黒い封筒をもう一度見た。それから、きらきらした四人分の目を見た。
先生「アビドスの対策委員会のみんなも、気にしてるみたいなんだよね。あの土地のことで。だから、みんなで一緒に行こうか。ただし、私から離れないこと。それが約束」
アリス「はい! 約束します!」
モモイ「やったー! 取材だ、取材!」
ユウカ「取材、ですか」
いつの間にか、開いたままの扉のところに、ユウカが立っていた。腕には電卓とファイル。眉間には深いしわ。
モモイ「げっ、ユウカ」
ユウカ「ゲーム開発部が遊園地に行くと聞きました。私も引率として同行します」
モモイ「なんでユウカまで来るの!?」
ユウカ「あなたたちだけで遊園地に行かせたら、お土産代だけで部費が消えるからです」
ミドリ「否定できないのがつらい……」
先生「助かるよ、ユウカ」
ユウカ「先生もですからね。先生のお財布の監視も私の仕事のうちです」
先生「私、そんなに信用ないかな」
ユウカ「先月の明細をお見せしましょうか?」
先生「……よろしくお願いします」
招待券は十一枚。ゲーム開発部の四人と、対策委員会の五人と、ユウカと、先生。
数え直してみて、先生は少しだけ背筋が冷たくなった。ちょうど、ぴったりだった。
土曜日の朝。
アビドスの郊外の、何もないはずの砂の上に、それは建っていた。
砂漠の陽炎の向こうに、色とりどりの尖った屋根が並んでいる。観覧車がゆっくりと回り、ジェットコースターのレールが、空に向かって奇妙な形にねじれていた。
モモイ「うわあ、本当にあった!」
アリス「フィールドマップに、新しい町が出現しました!」
セリカ「……ほんとに、三週間でこれを建てたっていうの?」
入口の門は、巨大な生き物の顔の形をしていた。口を大きく開けた、何とも言えない顔だった。来園者は、その口の中に吸い込まれるようにして、園内に入っていく。
門の前では、マスコットの着ぐるみが手を振っていた。丸い体に、左右で大きさの違う目。頭のてっぺんからは一本だけ毛が生えている。胸の名札には「ヘンモンくん」と書かれていた。
門をくぐった瞬間、どこかに仕込まれたスピーカーから、なめらかな音声が流れた。
『ようこそ、変なもんランドへ。ようこそ、勇者様』
アリス「勇者様! アリスのことです!」
モモイ「いや、たぶん全員に言ってるやつだよ、それ」
アリス「でも、アリスが門をくぐったときに言いました。タイミングが完璧でした」
アリスは嬉しそうに胸を張った。先生は笑って見せながらも、スピーカーのある方向をちらりと見上げた。それきり、音声は何も言わなかった。
ノノミ「それにしても、あのマスコットさん、かわいい……のでしょうか?」
シロコ「ん、判断が難しい」
ミドリ「でも、なんだか目が離せないデザインだよね。変なのに、妙に統一感がある」
ミドリはさっそくスケッチブックを開いて、鉛筆を走らせていた。
ホシノ「やあやあ、ミレニアムのみんな。今日は、おじさんたちもご一緒させてもらうよ~」
モモイ「おじさん……?」
ミドリ「お姉ちゃん、そこは突っ込まないの」
ホシノはひらひらと手を振ると、先生の隣に並んだ。
ホシノ「先生も招待券もらったんだって?」
先生「うん。黒い封筒でね」
ホシノ「……ふうん。黒い封筒、ねえ」
ホシノはそれ以上、何も言わなかった。ただ、門の上で笑っているヘンモンくんの看板を、しばらくじっと見上げていた。
園内はどこもかしこも変だった。
メリーゴーランドの木馬は、全部うしろ向きに走っていた。コーヒーカップは、回るたびに「ぐるぐる、ぐるぐる」と自分でしゃべった。砂の上を走るジェットコースターは「サンドワーム」という名前で、途中で一度、本当に砂の中に潜った。
ノノミ「全部乗りましょう~。ファストパスも、まとめて買っておきました☆」
ユウカ「ちょ、ちょっと待ってください! それ一枚いくらだと……」
ノノミ「大丈夫です。私のカードで払いましたから☆」
ノノミが金色のカードをひらりと見せると、ユウカは電卓を握ったまま固まった。
ユウカ「……他校の生徒さんのお財布に、口出しはしません。しませんけど……」
先生「ユウカ、電卓の数字が見たことない桁になってるよ」
最初に乗ったのはサンドワームだった。
安全バーが下りると、コースターはゆっくりと坂を上り、てっぺんで一瞬だけ止まった。眼下に、砂漠と遊園地が広がる。
セリカ「ちょ、ちょっと、これ、思ったより高くない!?」
アリス「セリカ、大丈夫です。こういうときは、両手を上げるのが正しい作法です」
セリカ「どこの作法よ、それ!」
次の瞬間、コースターは真っ逆さまに落ちた。そのまま、砂の中へ突っこんでいく。
セリカ「きゃあああああ!」
アリス「パンパカパーン! 地中ダンジョンに突入しましたー!」
降りてきたセリカは、髪も制服も砂まみれになっていた。アリスのほうは、髪の先まで砂だらけなのに、満面の笑みだった。
セリカ「……あんた、怖くないわけ?」
アリス「怖かったです。でも、面白かったです。先生が言っていました。怖いのと面白いのは紙一重だそうです」
セリカ「意味わかんない……。でも、まあ、ちょっとだけ楽しかったかも」
アリス「セリカもパーティーの仲間です!」
セリカ「勝手に仲間にしないでよ!」
そう言いながらも、セリカは、アリスの髪についた砂を払ってやっていた。
売店の前では、セリカが値札をにらみつけていた。
セリカ「焼きそば一皿、二千円!? ぼったくりじゃない! 柴関のラーメンなら、四杯は食べられるわよ!」
アヤネ「セリカちゃん、声が大きいです……」
セリカ「だいたい、カイザーのお店でお金なんて落としたくないの! ……でも、このチュロスはちょっとおいしそうね」
シロコ「ん、買ってきた」
セリカ「シロコ先輩、早っ!」
そのシロコはといえば、チュロスをかじりながら、園内の地図をじっと見ていた。
シロコ「ん、出口が少ない。逃げにくい作り」
アヤネ「シロコ先輩、何から逃げるつもりなんですか」
シロコ「強盗したあと」
アヤネ「しません!」
アヤネはため息をついてから、自分の手元の地図に目を落とした。そして、首をかしげた。
アヤネ「……あれ?」
先生「どうしたの?」
アヤネ「この地図、中央のあたりだけが、空白になっているんです。道もアトラクションも何も描かれていなくて」
先生も地図をのぞきこんだ。たしかに、園内の真ん中に、ぽっかりと白い円があった。ちょうど、何か大きなものが建ちそうな広さだった。
ミドリ「工事中、なのかな」
アヤネ「でも、実際に行ってみると、ただの植え込みと噴水があるだけなんです」
ホシノは何も言わなかった。少し離れたベンチに腰を下ろして、大きなあくびをしてみせる。
ホシノ「おじさんはここで荷物番してるよ~。若い子たちは楽しんでおいで」
セリカ「ホシノ先輩、来て早々寝る気!?」
ホシノ「寝てない寝てない。ちゃんと見てるよ~」
そう言いながら目を閉じたホシノの膝の上で、その手は、盾の持ち手から離れていなかった。
モモイはモモイで、別のものに目を奪われていた。アトラクションの建物の陰に、目立たない灰色の扉がいくつも並んでいる。扉にはどれも同じ札が掛かっていた。
関係者以外立入禁止。
モモイ「ねえねえ、あの奥って、どうなってるんだろ。ゲームの取材なら、やっぱり裏側も見ておかないと……」
ユウカ「はい、そこまで」
扉に向かって歩き出しかけたモモイの襟首を、ユウカがすかさずつかんだ。
モモイ「ぐえっ」
ユウカ「関係者以外立入禁止、と書いてあります。読めますよね?」
モモイ「よ、読めます……」
ユウカ「よろしい」
アリス「立入禁止の扉は、たいてい、隠し部屋につながっています。ゲームの定石です」
ユウカ「アリスちゃんも入っちゃだめですからね」
アリス「はい。アリスはちゃんとした勇者なので」
アリスは素直にうなずいた。それでも、その目は灰色の扉から、なかなか離れなかった。
ユズは、人の多さに完全にのまれていた。きょろきょろと周りを見回して、身を隠せる場所を探している。
そして、壁際に並んだ扉を見つけると、吸い寄せられるように近づいていった。
ミドリ「ユズちゃん、それ、コインロッカーだよ!」
ユズ「せ、狭くて、落ち着きそうだったので……」
モモイ「さすがのユズでも入れないって!」
ユズ「は、半分くらいなら……」
ミドリ「入れようとしないで!」
そのとき、アリスがユズの袖を引いた。
アリス「ユズ、あっちに勇者の剣があります! 岩に刺さった剣を抜くと、勇者として認められるそうです!」
ユズ「あ、アリスが行くなら……」
アリス「アリスは、勇者として認められに行ってきます!」
先生「待って、アリス。一人で行かないの。私も一緒に行くよ」
ユウカ「先生、アリスちゃんをお願いしますね。私はこっちの三人を見張っておきますから」
モモイ「見張るって言い方!」
先生とアリスが人ごみの向こうに消えると、モモイはくるりと振り返った。その目が、通りの向かいにある小さな建物に吸い寄せられる。
ショーウィンドウには、小さな人形がずらりと並んでいた。どれも、驚くほど生き生きとした顔をしている。入口の看板にはこう書かれていた。
あなたにそっくりな人形、お作りします。本日限定、先着三名様。
モモイ「ねえ、見てあれ! そっくり人形だって!」
ミドリ「わ、すごい。人形の顔、手描きみたい。髪の毛の流れまで、ちゃんとしてる……」
モモイ「先着三名様だって! ゲーム開発部の記念に作ろうよ! ミドリと、ユズと、私で!」
ユズ「わ、わたしもですか……?」
ユウカ「待ちなさい。人形代は経費では落ちませんからね」
モモイ「自腹だもん! これは自腹の思い出なの!」
モモイは二人の手を引っぱって、店の中に飛び込んでいった。
店の奥のカウンターには、笑った顔の仮面をつけたロボットの店員が立っていた。
店員ロボ「いらっしゃいませ。そっくり人形のご注文ですね。お一人ずつ、こちらの台にお立ちください」
三人が順番に台に乗ると、天井から白い光が降りてきて、頭のてっぺんから足の先までをゆっくりとなぞっていった。
ユズ「ひゃっ……」
ミドリ「ユズちゃん、大丈夫?」
ユズ「な、なんだか、ひやっと、しました……。体の中まで、のぞかれたみたいで……」
モモイ「スキャンってそういうもんだよ。あ、そうだ! アリスの分もお願いします! 今ちょっと、勇者の剣を抜きに行ってて……」
店員ロボ「申し訳ございません。本日のご注文は、先着三名様で締め切りでございます」
モモイ「えー! 一個くらい、いいじゃん!」
店員ロボ「申し訳ございません」
笑った顔の仮面は少しも表情を変えなかった。
モモイ「ちぇー。じゃあ、アリスの分は今度だね。今度は、アリスと一緒に来て作ろうっと」
店員ロボ「お渡しは、閉園前に、出口のカウンターにて承ります」
店を出るとき、ミドリはふと振り返った。ショーウィンドウの人形たちが、一斉にこちらを見ているような気がした。
気のせいだと、思うことにした。
勇者の剣は、園内の小高い丘の上にあった。
ごつごつとした大きな岩に、一本の剣が深々と突き刺さっている。岩の前には立て札があり、古めかしい文字でこう書かれていた。
この剣を抜きし者こそ、真の勇者なり。
アリス「先生、見てください! 本物の聖剣です!」
先生「うん、雰囲気はたっぷりだね」
岩の周りには、ちょっとした人だかりができていた。腕に自信のありそうな来園者が、次々に剣の柄を握っては、顔を真っ赤にして引っぱっている。けれど、剣はびくともしなかった。
横に立っている係員のロボットが、笑った顔の仮面のまま、同じ言葉を繰り返していた。
係員ロボ「残念! あなたは勇者ではありませんでした! またの挑戦をお待ちしております!」
アリス「アリスの番です」
アリスは岩の前に進み出ると、剣の柄を両手でしっかりと握った。深く息を吸って、ぐっと腰を落とす。
アリス「……ふんっ」
剣は動かなかった。
アリス「むむ……。ふんんんっ!」
岩がみしりと鳴った。
周りの人だかりがざわりと揺れた。
アリス「ふんんんんんっ!」
次の瞬間、地面ごと持ち上がるような音がして、岩が浮いた。
剣が抜けたのではなかった。剣が刺さったままの岩が、まるごと、地面から引っこ抜けていた。
係員ロボ「お、お客様!?」
アリス「抜けました!」
先生「アリス、それは抜けたというか、引っこ抜いたというか……」
アリス「岩ごと抜いてはいけない、とは書いてありませんでした」
アリスは、自分の背丈よりも大きな岩を頭の上に掲げたまま、先生のほうを振り返った。その顔は達成感でいっぱいだった。
係員のロボットはしばらく固まっていた。それから、ぎこちなく拍手をした。
係員ロボ「お、おめでとうございます。あなたは真の勇者です」
ロボットが差し出したのは、金色の縁取りがついた紙の認定証だった。勇者認定証、と大きく書いてある。
アリス「パンパカパーン! アリスは、正式に勇者として認定されました!」
先生「よかったね、アリス。じゃあ、その岩、元の場所に戻してあげようか」
アリス「はい。聖剣は、次の勇者のために置いていきます」
アリスが岩を地面の穴に戻すと、不思議なことが起きた。
割れたはずの地面が、まるで時間を巻き戻すように、ゆっくりと元の形に戻っていったのだ。ひびは消え、土は平らになり、岩は最初からそこにあったかのように、何事もなかった顔で座っていた。
先生「……え」
係員ロボ「問題ございません。ここでは、すべてが、元どおりになりますので」
ロボットは、笑った顔の仮面のまま、そう言った。
先生はもう一度、岩を見た。それから、あたりを見回した。来園者たちは、もう別のアトラクションのほうへ歩きだしていて、誰も今のことを気にしていないようだった。
アリス「先生?」
先生「ううん。なんでもないよ。行こうか」
丘を下りる道すがら、アリスは認定証を大事そうに両手で抱えていた。
アリス「先生。勇者は、誰かに認めてもらわないと、勇者になれないのでしょうか」
先生「どうしたの、急に」
アリス「アリスは、ずっと勇者だと思っていました。でも、認定証をもらって、本当にうれしかったです。だから、もらう前のアリスは、まだ勇者じゃなかったのかなと思って」
先生は少しだけ考えてから、アリスの手元の認定証を指さした。
先生「その紙は、アリスが勇者だって証明してくれるものじゃないと思うよ。アリスがもう勇者だったから、あの岩も、あんなことになったんじゃないかな」
アリス「では、アリスは、もらう前から勇者でしたか」
先生「うん。少なくとも、私はずっとそう思ってたよ」
アリスは立ち止まって、先生の顔を見上げた。それから、認定証をぎゅっと胸に押し当てた。
アリス「先生にそう言ってもらえると、レベルが三つくらい上がった気がします」
先生「そんなに?」
アリス「はい。経験値がとてもおいしいです」
広場に戻ると、ちょうどモモイたちも戻ってきたところだった。モモイは妙ににやにやしていて、ミドリとユズは、なぜか顔を見合わせている。
モモイ「アリス、おかえり! あとで、いいもの見せてあげるからね」
アリス「いいもの、ですか?」
モモイ「ふっふっふ。閉園前まで、ないしょ!」
ミドリ「お姉ちゃん、隠しごと下手なんだから、言わないほうがいいよ」
アリス「アリスもいいものを手に入れました。勇者認定証です!」
モモイ「えっ、あの剣抜いたの!? あれ絶対抜けないやつでしょ!?」
先生「抜いたというか、なんというか……」
ユウカ「先生。何か、壊したりしていませんよね?」
先生「……壊れたけど、直ったよ」
ユウカ「どういう意味ですか、それ」
アヤネが手元の地図を広げた。
アヤネ「次はどこに行きましょうか。地図の空白のところに一番近いのは、この、ミラーハウスなんですけど」
シロコ「ん、中から何か見えるかも」
ホシノ「じゃあ、みんなで行ってみよっか。おじさんも今度はついていくよ~」
ミラーハウスの入口には、ねじれた文字の看板が掛かっていた。
あなたはだあれ。
モモイ「うわ、看板からしてもう怖い」
ユズ「か、帰っても、いいでしょうか……」
ミドリ「ユズちゃん、私の手、握ってていいから」
中に入ると、世界が一気に増えた。
右を向いても、左を向いても、鏡の中にこちらを見返すみんながいた。何十人もの先生と、何十人ものアリスが、少しずつ角度を変えて、どこまでも続いている。足元の床までが磨き上げられていて、まっすぐ歩いているつもりでも、すぐに方向がわからなくなった。
セリカ「ちょっと、どっちが本物の通路よ、これ!」
ノノミ「わあ、ノノミがいっぱいです~☆」
シロコ「ん、壁を壊せば早い」
アヤネ「壊さないでください!」
あちこちで、ごつん、と誰かが鏡にぶつかる音がした。ユズの悲鳴が聞こえ、モモイの笑い声が聞こえ、ユウカが点呼を取る声が聞こえた。
アリス「先生、迷路です。迷路は、右手を壁につけて進むと、必ず出口に着きます」
先生「よく知ってるね。じゃあ、私の手を……」
先生が手を差し出しかけたとき、アリスは、ぴたりと足を止めた。
アリス「……あれ?」
目の前の鏡の中で、アリスが笑っていた。
アリスは笑っていなかった。きょとんとして、鏡を見つめているだけだった。それなのに、鏡の中のアリスだけがにっこりと笑って、小さく手を振っていた。
そして、くるりと背を向けると、鏡の奥へと歩きだした。
アリス「待ってください、アリス!」
アリスは反射的に駆けだしていた。
鏡の中のアリスは、迷路の奥へ奥へと進んでいく。曲がり角のたびに、ちらりとこちらを振り返り、ついておいでとでも言うように手招きをする。
先生「アリス!?」
先生の声が、うしろで反射して、何重にも響いた。どの方向から聞こえているのか、もうわからなかった。
鏡の中のアリスが、突き当たりの一枚の鏡の前で立ち止まった。そして、こちらに向かって、ぺこりとお辞儀をした。
その鏡に、アリスは手を触れた。
冷たいガラスの感触がするはずだった。けれど、指先は何の抵抗もなく、鏡の中に沈んだ。
アリス「わっ」
つんのめるようにして一歩踏み出すと、アリスは、薄暗い通路に立っていた。
振り返ると、そこには、ただの灰色の壁があった。鏡も、扉も、どこにもなかった。
アリス「……先生? モモイ? ミドリ? ユズ?」
返事はなかった。
スマホを取り出すと、画面の隅に「圏外」と表示されていた。
通路は細く、天井には何本もの配管が這っていた。ところどころに裸電球がぶら下がり、ぼんやりと黄色い光を落としている。壁には、色あせたポスターが何枚も貼られていた。どれも、この遊園地のものではない、古いアトラクションのポスターだった。
空気は乾いていて、どこか、のりと布の匂いがした。
アリス「……ダンジョンに、入ってしまいました」
アリスは小さな声で言った。
アリス「セーブポイントはありません。パーティーはアリス一人です」
口に出してみると、通路が急に広く感じられた。アリスはスマホをしまって、背中のスーパーノヴァのベルトを握り直した。
通路の奥から、かすかな音が聞こえていた。カタカタカタ、と規則正しく続く音。ミシンの音だった。
アリス「……人の気配がします。まずは、村人に話しかけて、情報収集です」
アリスは音のするほうへ歩きだした。
通路の突き当たりに、小さな木の扉があった。扉の隙間から、あたたかい色の明かりが漏れている。
アリスはそっと扉を押した。
そこは小さな部屋だった。
壁一面の棚に、人形が並んでいた。大きいもの、小さいもの、ドレスを着たもの、着ぐるみのようなもの。作業台の上には、色とりどりの布と、糸巻きと、絵の具の小瓶が散らばっている。ガラスの瓶の中には、人形の目に使うのだろう、小さなガラス玉がぎっしりと詰まっていた。
作業台の前に、一人のおじさんが座っていた。
丸っこい体つきの、小太りのおじさんだった。毛足の長い、丸い犬のような顔に、小さな丸い眼鏡をかけている。くたびれたカーディガンの袖をまくって、ちくちくと小さなドレスを縫っていた。
おじさんは、扉の音に顔を上げると、目を丸くした。
人形師「おや……。お客さんかい。ここは、迷子になって来られるような場所じゃないんだけどねえ」
アリス「パンパカパーン! 隠し部屋を発見しました!」
人形師「か、隠し部屋……?」
アリスは、はっとして背筋を伸ばした。それから、ぺこりと頭を下げた。
アリス「失礼しました。アリスは天童アリスです。勇者です」
人形師「勇者さんか。それはそれは」
おじさんは、眼鏡の奥の目を細めて笑った。とても、やわらかい笑い方だった。
人形師「勇者さんが、こんな狭いところに何の用だい。ここには魔王はいないよ」
アリス「鏡の中のアリスを追いかけていたら、ここに着きました」
人形師「鏡の中の……。そうか。あの鏡は、ときどき、いたずらをするからね」
アリスは、部屋の中をぐるりと見回した。そして、作業台の上に目を留めると、ぱっと顔を輝かせた。
アリス「あっ!」
作業台の端に、三体の人形が並んでいた。
まだ服を着せられていない、作りかけの人形だった。けれど、その顔は、見間違えようがなかった。元気に跳ねた髪と、猫の耳のような形のヘッドホン。同じ形のヘッドホンをした、少し落ち着いた顔。そして、長い髪をして、どこか不安そうに眉を下げた顔。
アリス「モモイと、ミドリと、ユズです! すごく、すごく似ています!」
おじさんの手が止まった。
針を持ったまま、おじさんは、しばらく何も言わなかった。
人形師「……君の、お友達かい」
アリス「はい! パーティーの仲間です! さっき、モモイがいいものを見せてくれると言っていました。きっと、この人形のことです」
人形師「……そうか」
おじさんは静かに針を置いた。そして、作業台の下から小さな丸椅子を引っぱりだして、アリスの前に置いた。
人形師「座りなさい。ちょうど、お茶にしようと思っていたところなんだ。迷子の勇者さんに、少しだけ、おじさんの話し相手になってもらえるかな」
アリス「はい。村人との会話は大事なイベントです」
おじさんは湯気の立つマグカップと、紙に包まれた飴玉をひとつ、アリスの前に置いた。アリスは、礼儀正しく両手でマグカップを受け取った。
おじさんの胸元で、何かがきらりと光った。古びた銀のペンダントだった。縁に沿って、小さなガラス玉が七つ、並んではめこまれている。
アリス「きれいなペンダントです」
人形師「ああ、これかい。お守りだよ。人形の目に使うガラス玉で、自分で作ったんだ」
おじさんはペンダントにそっと触れた。それから、ゆっくりとアリスのほうへ向き直った。
人形師「勇者さんはどうして勇者なんだい?」
アリス「アリスがそう決めたからです」
アリスは迷わずに答えた。
アリス「最初は、ゲームの中の勇者に憧れていただけでした。でも、みんなと一緒にいるうちに、アリスは本当に勇者になりたいと思うようになりました」
人形師「そうか。じゃあ、勇者っていうのは、何をする人なんだい」
アリス「仲間と一緒に冒険をして、困っている人を助けて、悪い魔王を倒します」
人形師「もし、その仲間がいなくなってしまったら、どうする?」
アリス「探しに行きます。どこまででも」
アリスは、作業台の上の三体の人形をちらりと見た。
アリス「パーティーは、全員そろってパーティーです」
人形師「……そうか」
おじさんは目を伏せた。眼鏡のレンズに、作業台のランプの光が小さく映っていた。
人形師「もうひとつ、聞いてもいいかな。勇者さんには怖いものはあるかい」
アリスはすぐには答えなかった。マグカップの中のお茶をじっと見つめる。
アリス「……みんなが、いなくなることです」
小さな声だった。
おじさんは何も言わずにうなずいた。
人形師「それなら、最後にもうひとつだけ。もしも、目の前の誰かが急に怖いものに変わってしまったら、君はどうする?」
アリス「戦います。アリスは勇者なので」
人形師「逃げてはいけないかい」
アリス「勇者は逃げません」
人形師「そうかなあ。おじさんはね、逃げるのも勇気だと思うよ」
おじさんは困ったように笑った。
人形師「自分を守るために逃げるのも、誰かのところへ帰るために逃げるのも、立派な勇気だ。帰りを待っている人がいるなら、なおさらね」
アリス「……逃げるのも勇気」
アリスは、その言葉をゆっくりと繰り返した。頭の中の大事なメモ帳に、しっかりと書きこむように。
人形師「おじさんはね、昔、アビドスの商店街で小さな人形屋をやっていたんだ」
おじさんは棚の人形たちを見上げた。
人形師「子どもたちがショーウィンドウにおでこをくっつけて、人形を見ていくのが何よりうれしくてね。でも、砂が増えて、町から人がいなくなって、お店を閉めることになった。そんなときに、ここで人形を作らないかと、声をかけられたんだよ。たくさんの子どもたちに、おじさんの人形を見てもらえるって」
アリス「すてきなお仕事です」
人形師「……そう、思っていたんだけどね」
おじさんの声が少しだけ低くなった。その目が、作業台の上の三体の人形に向けられる。
人形師「勇者さん。よく聞いておくれ。君のお友達の、その人形はね、本当はただの人形じゃ——」
そのとき、どこか遠くで、鐘が鳴った。
ごおん、と低く重い音が、壁を、床を、部屋じゅうの人形を震わせた。
おじさんの体がびくりと跳ねた。
人形師「ああ……だめだ……。言おうとすると、いつも、こうなる……」
アリス「おじさん?」
おじさんは、作業台に手をついて、うずくまった。カーディガンの背中がぶるぶると震えている。その背中が、みるみるうちに、ふくらんでいった。
丸かった顔が前へ前へと伸びていく。やわらかかった毛並みが針のように逆立っていく。眼鏡が床に落ちて、からんと乾いた音を立てた。作業台をつかんだ指の先から、鋭い爪が伸びて、木の天板に深く食いこんだ。
人形師「にげ……なさい……」
それが、おじさんの声で聞こえた、最後の言葉だった。
顔を上げたそれは、もう、おじさんではなかった。
天井に頭がつきそうなほど大きな、灰色の狼が、二本の足で立っていた。黄色く光る目が、まっすぐにアリスを見下ろしている。開いた口の中で、白い牙が並んでいた。
狼は、部屋じゅうを震わせるような声で、長く吠えた。
アリスはマグカップを置いて、ゆっくりと立ち上がった。背中のスーパーノヴァに手を伸ばしながら、目を輝かせる。
アリス「これは……イベント戦闘です!」
アリスは、背中からスーパーノヴァを引き抜いた。
いや、引き抜こうとした。長い砲身が、すぐうしろの棚にがつんとぶつかった。棚が大きく揺れて、並んでいた人形が、ぱらぱらと床に落ちる。
アリス「あっ、ごめんなさい!」
狼が腕を振りかぶった。
アリスはとっさにスーパーノヴァの胴体を盾にした。鈍い衝撃が腕に響いて、足が床の上をずるりと滑る。狼の爪が砲身の表面を引っかいて、火花が散った。
アリス「むむ……。この部屋は狭すぎます。光の剣を振り回せません」
狼は低くうなりながら、じりじりと距離を詰めてくる。アリスはちらりと作業台を見た。そこにはまだ、作りかけの三体の人形が並んでいた。モモイと、ミドリと、ユズの顔をした人形。
ここで撃てば、きっと、あの人形も無事ではすまない。
アリス「それに……」
アリスは狼の黄色い目を見上げた。
さっきまで、この部屋には、お茶をいれてくれるやさしいおじさんがいた。やわらかい声で、勇者とは何かと聞いてくれた。
アリスの頭の中で、いくつもの考えが、ゲームの選択肢のように並んだ。
たたかう。
にげる。
アリス「先生が心配しています」
鏡の迷路で、先生は手を差し出してくれていた。アリスは、その手を握らないまま、ここへ来てしまった。今頃、先生もモモイもみんなも、アリスを探しているに違いなかった。
それから、おじさんの声が、頭の中によみがえった。
逃げるのも勇気だよ。誰かのところへ帰るために逃げるのも、立派な勇気だ。
アリス「……撤退します!」
アリスはくるりと身をひるがえした。
アリス「撤退戦で一番大事なのはしんがりです! アリスは一人なので、アリスがしんがりです!」
開いたままの扉から通路へ飛び出すと、すぐうしろで、狼が床を蹴る音がした。
通路は細かった。大きな狼の体は、配管や壁の出っぱりに、ごつん、ごつんとぶつかっている。そのたびに、ほんの少しだけ、距離が開いた。
アリスは走りながら、通路の脇に置かれたものを片っ端から確認した。
アリス「キャスター付きのハンガーラック。使えます!」
衣装がぎっしりと掛かったハンガーラックを、アリスはうしろへ向けて思いきり押しだした。ラックは床の上を勢いよく転がっていき、狼の胸にぶつかった。色とりどりの衣装が、狼の頭の上にばさばさと降りかかる。
狼が怒ったように吠えた。
アリス「段ボール箱。中身は……ヘンモンくんの頭です!」
次の曲がり角に積まれた箱を、アリスは次々と崩した。中から転がり出たヘンモンくんの大きな頭が、通路いっぱいにごろごろと散らばる。左右で大きさの違う目をした頭が、何十個も、通路の床からこちらを見上げていた。
狼は、その頭を踏んで、思いきり足を滑らせた。
アリス「足止めに、成功しました!」
それでも、狼はすぐに起き上がった。黄色い目が、通路の暗がりの中で光っている。
アリスは天井を見上げた。何本もの配管が通路に沿って這っている。そのうちの一本に、「蒸気」と書かれた札が下がっていた。
アリスは、走りながらスーパーノヴァを上に向けた。
アリス「狙うのはおじさんではありません。配管です!」
引き金を絞ると、まばゆい光が一直線に走った。
配管が裂けて、白い蒸気が、ものすごい勢いで噴き出した。通路は一瞬で真っ白になり、何も見えなくなる。うしろで、狼が戸惑ったように鼻を鳴らす声が聞こえた。
アリス「煙幕です! 今のうちに、距離を取ります!」
アリスは、蒸気の中を手探りで駆け抜けた。分かれ道を右に曲がり、細い階段を駆け上がり、また分かれ道を左に曲がる。
どれだけ走ったのか、わからなかった。いつの間にか、ミシンの音も狼の足音も聞こえなくなっていた。
アリスはようやく足を止めた。
目の前には大きな鉄の扉があった。扉の上には、緑色の非常口の明かりが灯っている。
アリス「出口です!」
アリスは取っ手に飛びついた。
扉は開かなかった。押しても、引いても、びくともしない。よく見ると、取っ手には、太い鎖がぐるぐると巻きつけられていた。
アリス「……鍵がかかっています」
そのとき、背後で、床がみしりと鳴った。
振り返ると、蒸気の名残の白いもやの中に、大きな影が立っていた。黄色い目が二つ、まっすぐにこちらを見ている。
狼だった。
アリス「……行き止まり、です」
アリスは、扉を背にして、スーパーノヴァを構えた。
狼がゆっくりと近づいてくる。アリスの指が引き金にかかる。
けれど、その指は、それ以上動かなかった。
アリス「……撃てません」
狼の顔の向こうに、丸い眼鏡をかけた、やさしい顔が重なって見えた。お茶をいれてくれた手。飴玉をくれた手。
アリス「アリスは、おじさんを、撃つことはできません」
狼が爪を振り上げた。
アリスはぎゅっと目をつぶった。
けれど、爪は、振り下ろされなかった。
おそるおそる目を開けると、狼は振り上げた腕を、もう片方の手で必死に押さえつけていた。全身の毛が逆立ち、体ががくがくと震えている。黄色い目の奥で、何かが、必死に戦っていた。
人形師「……ゆう、しゃ……さん……」
狼の口から、かすれた声が漏れた。
おじさんの声だった。
アリス「おじさん!」
人形師「これを……持って、いきなさい……」
狼は、自分の胸元に爪を引っかけると、銀のペンダントを引きちぎった。そして、それをアリスのほうへ放った。
アリスは両手でそれを受けとめた。七つのガラス玉が、手のひらの中で、ちかちかと光っていた。
人形師「唱えるんだ……。ヘンナ・モンダネ……」
アリス「ヘンナ・モンダネ……」
人形師「ひとつ使えば、ひとつ、曇る……。自分のためだけに使えば、ふたつ、曇る……。だから……最後のひとつは……切り札に、とっておきなさい……」
狼の体が大きくのけぞった。黄色い目から、おじさんの気配が、波が引くように薄れていく。
人形師「はやく……!」
アリスはペンダントを握りしめた。
何を願えばいいのかはもうわかっていた。
アリス「ヘンナ・モンダネ! ……出口をください!」
手の中で、ガラス玉のひとつが、ぱっとまばゆく光った。
光は、アリスの指の隙間からあふれだし、背後の鉄の扉に吸いこまれていった。鎖が、砂のようにさらさらと崩れ落ちる。扉の輪郭が金色に縁どられ、ゆっくりと、外側へ開いていった。
開いた扉の向こうから、風が吹きこんできた。遊園地の音楽と、人のざわめきと、夕方の匂いがした。
アリスは扉の前で振り返った。
アリス「おじさん! 一緒に——」
狼は首を横に振った。
そして、一歩、また一歩と、うしろへ下がっていった。白いもやの中に、大きな影が溶けていく。
人形師「お友達を……大事に……」
アリス「必ず、また来ます! 約束です!」
アリスは光の扉に飛びこんだ。
その少し前。
ミラーハウスの出口の前で、先生は何度目かわからない電話をかけていた。呼び出し音は鳴らなかった。圏外です、という機械の声が、何度も同じことを繰り返すだけだった。
ユウカ「迷路の中は全員で三往復しました。係員のロボットにも聞きましたけど、迷子の連絡は入っていないそうです」
ユウカの声は落ち着いていた。けれど、電卓を握る指が白くなっていた。
モモイ「アリス、どこ行っちゃったの……。ねえ、アリスー!」
ミドリ「お姉ちゃん、落ち着いて。叫んでも、ここじゃ届かないよ」
ユズ「わ、わたしが、もっと早く、気づいていれば……」
先生「ユズのせいじゃないよ」
先生はスマホを下ろした。
先生「私が、ちゃんと手を繋いでいればよかったんだ」
ホシノ「先生、それはあとにしよっか」
ホシノが先生の肩をぽんと叩いた。いつもの、のんびりした声だった。けれど、その目はもう、少しも眠そうではなかった。
ホシノ「シロコちゃんは東側、ノノミちゃんは西側。アヤネちゃんはドローンで上から見て。セリカちゃんは、入口と出口のゲートで張ってて。迷子なら、最後は絶対にそこを通るから」
シロコ「ん、了解」
ノノミ「任せてください!」
セリカ「わかったわよ。あの子、勝手にいなくなるんじゃないわよ、まったく……」
セリカが駆けだそうとした、そのときだった。
広場の端に建つ倉庫の、何もない壁が、金色に光った。
光の中から、小さな体が転がり出てきた。うしろ向きに回るメリーゴーランドの前で、ころころと二回転して、ぺたんと尻もちをつく。
アリス「……脱出、成功しました」
モモイ「アリスーっ!」
真っ先に飛びついたのはモモイだった。勢いあまって、二人そろって石畳の上に転がる。
モモイ「どこ行ってたの!? 心配したんだからね! ばか! ばかアリス!」
アリス「ご、ごめんなさい、モモイ。でも、ばかを二回言うのは、言いすぎです」
ミドリ「お姉ちゃん、アリスちゃんがつぶれちゃうよ……」
そう言うミドリの目も少し赤くなっていた。ユズはその背中にしがみついたまま、何度も何度も、よかった、と小さく繰り返していた。
先生がアリスの前に膝をついた。
先生「アリス。怪我はない?」
アリス「はい。HPは満タンです」
先生「よかった……」
先生は、深く、長く、息を吐いた。それから、アリスの目をまっすぐに見た。
先生「ごめんね。私が、ちゃんと手を繋いでいればよかった」
アリス「先生のせいではありません。アリスが、鏡の中のアリスを追いかけてしまったんです」
モモイ「何それ、怖っ!」
ユウカ「アリスちゃん」
ユウカが腰に手を当てて立っていた。声は厳しかった。けれど、その目の縁には、うっすらと涙がにじんでいた。
ユウカ「どれだけ心配したと思ってるんですか。一人で勝手にいなくなったら、だめでしょう」
アリス「……ごめんなさい、ユウカ」
ユウカ「……まったく。もう」
ユウカは、ずれていたアリスの襟を、黙って直してやった。
アリス「でも、みんな、聞いてください。アリスは、隠しダンジョンを見つけました!」
アリスは、身を乗り出して話しはじめた。鏡の中の自分のこと。細い通路のこと。人形だらけの小さな部屋と、やさしい人形師のおじさんのこと。おじさんが狼に変身したこと。狭い部屋では戦えないと判断して、撤退戦をしたこと。
アリス「ハンガーラックと、ヘンモンくんの頭と、蒸気の煙幕を使いました。完璧な撤退戦でした」
モモイ「えー、何それ! 隠しアトラクションじゃん! ずるい、私も行きたかった!」
ノノミ「狼男さんのアトラクション、あるんですね~」
シロコ「ん。でも、関係者以外立入禁止の場所なら、アトラクションじゃないかも」
アヤネ「それに、その倉庫の位置……地図の、空白のすぐ近くです」
アヤネの言葉に、みんなが一瞬だけ黙った。
先生は、アリスが両手で握りしめているものに気づいた。
先生「アリス、それは?」
アリス「ペンダントです。おじさんがくれました。ヘンナ・モンダネと唱えると、願いを叶えてくれます」
アリスが手を開くと、銀の縁に並んだ七つのガラス玉が見えた。そのうちのひとつだけが、白く濁ったように曇っていた。残りの六つは澄んだ光をたたえている。
アリス「ひとつ使ったので、残りは六回です。自分のためだけに使うと、ふたつ減るそうです」
モモイ「それ、先生の映画のトランプとおんなじルールじゃん!」
ホシノが、アリスのそばにしゃがみこんだ。ペンダントをじっと見つめる。
ホシノ「アリスちゃん。そのおじさん、他に何か言ってた?」
アリス「お友達を、大事にしなさいと言っていました。それから……何かを言おうとして、言えなくて、狼になってしまいました」
ホシノ「……そっか」
ホシノは一瞬だけ黙った。それから、いつものように、ふにゃりと笑った。
ホシノ「大事にしなよ~、それ」
アリス「はい。大事に、大事にします」
閉園を知らせる音楽が流れはじめた。
出口のカウンターでは、笑った顔の仮面のロボットが、三つの箱を用意して待っていた。
モモイ「来た来た! アリス、見て見て! さっき言ってた、いいもの!」
モモイが箱のふたを開けた。
中には、モモイにそっくりな人形が入っていた。今日着ていた服と、まったく同じ服を着ている。ミドリの箱にはミドリの人形が、ユズの箱にはユズの人形が、同じように横たわっていた。
モモイ「じゃーん! そっくり人形! すごいでしょ!」
ミドリ「本当に、そっくり……。髪の毛の跳ね方まで、同じだ」
ユズ「わ、わたしがいる……」
アリスは、人形を見つめたまま、動かなかった。
アリス「……この人形、アリスは、さっき見ました」
モモイ「えっ?」
アリス「おじさんが作っていました。小さな部屋で、まだ、服を着ていなかったときに」
モモイ「へえ、じゃあ、そのおじさんが作ってくれたんだ! すごいね、あの短い時間で!」
モモイは無邪気に笑った。
アリスは何か言おうとした。けれど、何を言えばいいのか、わからなかった。おじさんの、言いかけたままの言葉が、耳の奥に引っかかっていた。
君のお友達の、その人形はね、本当はただの人形じゃ——。
モモイ「アリスの分も頼もうとしたんだけど、もう締め切りだって言われちゃってさ。今度、一緒に来て作ろうね」
アリス「……はい。約束です」
アリスはそう答えた。
ユウカが、箱を三つまとめて抱えたモモイを見て、小さくため息をついた。
ユウカ「言っておきますけど、それ、経費では落ちませんからね」
モモイ「わかってるってば! 自腹の思い出なんだから!」
ゲートを出るころには、空はすっかり群青色になっていた。
園内の明かりが、砂の上にいくつもの色を落としている。先生は、最後にもう一度だけ、振り返った。
遊園地の真ん中。地図の上で、ぽっかりと空白になっていた場所。
そこに、城が建っていた。
尖った塔をいくつも持つ、黒い大きな城の影が、暮れていく空にくっきりと浮かんでいた。
先生がまばたきをすると、それは消えていた。
ホシノ「先生も見た?」
いつの間にか、ホシノが隣に立っていた。
先生「……うん」
ホシノ「そっか」
ホシノはそれだけ言うと、盾を背負い直して、みんなのあとを歩いていった。
次の日の午後。
ゲーム開発部の部室の棚には、三体の人形が並んで座っていた。モモイと、ミドリと、ユズ。昨日の帰り道、モモイが「ここが一番よく見える」と言って、モニターの真上の棚に飾ったのだ。
ユズ「な、なんだか、見られてる気がします……」
モモイ「そりゃ見てるよ。私たちの人形なんだから」
ユズ「じ、自分に見られるのは、ちょっと……」
ユズはロッカーの扉を少しだけ開けて、そこから人形をちらちらとうかがっていた。
ミドリは、人形をモデルにしてスケッチブックに何かを描いている。新作のキャラクターデザインらしかった。
ミドリ「人形の顔、本当によくできてるんだよね。手描きなのに、筆の跡がほとんど見えない。どうやって描いたんだろう」
アリス「おじさんはすごい職人さんです。アリスにはわかります」
アリスは、首から下げたペンダントを、何度も指でなでていた。昨日から、一度も外していない。
モモイ「ねえアリス。そのペンダント、ちょっと試してみようよ」
アリス「だめです。残りは六回しかありません」
モモイ「六回もあるじゃん!」
アリス「六回しか、です。使用回数のあるアイテムは大事に取っておくものです」
ミドリ「出た、アリスちゃんのエリクサー症候群」
モモイ「お願い! 一回だけ! ほら、ユウカに部費を見直すって言われてるでしょ。企画書もまだ半分しかできてないし、このままじゃ本当に減らされちゃうかもしれないの。だから、部費を増やしてってお願いしてみてよ!」
ミドリ「お姉ちゃん、それ、先生が言ってたやつじゃない? 自分のためだけに使うと、力が弱くなるって」
モモイ「自分のためじゃないもん! 部のため! ゲーム開発部のためだもん!」
ミドリ「だから、部って私たちのことなんだってば……」
アリスはペンダントを見つめた。それから、モモイの顔を見た。モモイは両手を合わせて、うるうるとした目でこちらを見ている。
アリス「……ゲーム開発部のため。つまり、パーティーのため、ですか」
モモイ「そう! パーティーのため!」
アリス「パーティーのためなら……一回だけ、です」
ミドリ「アリスちゃん、押しに弱すぎるよ……」
アリスはペンダントを両手で包むと、目を閉じた。
アリス「ヘンナ・モンダネ! ゲーム開発部の部費を増やしてください!」
ペンダントが光った。
けれど、それは昨日のような、まばゆい光ではなかった。ふたつのガラス玉がぼんやりと鈍く光ったかと思うと、そのまますうっと白く曇っていった。
部室がしんと静まりかえった。
モモイ「……い、今、ふたつ光ったよね?」
ミドリ「光ったっていうか、曇ったよね……」
そのとき、部室の扉がノックされた。
ユウカ「失礼します」
入ってきたのはユウカだった。手には、分厚いファイルを抱えている。
ユウカ「ちょうどよかった。全員そろっていますね。ゲーム開発部の来月の部費の再計算が、終わりました」
モモイ「き、来た! 増えた!? 増えたよね!?」
ユウカ「減りました」
モモイ「なんで!?」
ユウカ「今朝、変なもんランドから、ミレニアム宛てに請求書が届いたんです。施設の配管が一本、壊されたそうで。修理費は、ゲーム開発部の部費から差し引かせてもらいます」
アリスの肩がびくりと跳ねた。
アリス「……蒸気の煙幕です」
ユウカ「心当たりがあるんですね、アリスちゃん」
アリス「撤退戦に、必要な犠牲でした……」
モモイ「うわーん! 増えるどころか、減ってるー!」
モモイは机に突っ伏した。アリスは、手の中のペンダントを見下ろした。七つのガラス玉のうち、三つが白く曇っていた。澄んでいるのは四つだけだった。
アリス「……自分のために使うと、本当に、ふたつ減るみたいです」
ミドリ「だから言ったのに」
モモイ「ご、ごめん、アリス……。私のせいで、二個も……」
机から顔を上げたモモイは、珍しく、本当にしょげていた。アリスは首を横に振った。
アリス「大丈夫です、モモイ。これで、ルールがはっきりしました。残りの四つは、本当に大事なときのために、取っておきます」
ユウカ「……さっきから、何の話をしているんですか?」
ミドリ「えっと、ちょっとした、おまじないの話です」
ユウカは怪訝な顔をしたまま、棚の上の人形に目を留めた。
ユウカ「それが、昨日の人形ですか」
モモイ「そうだよ。いいでしょ」
ユウカ「……よくできてますね」
ユウカは、モモイの人形をそっと手に取った。それから、ほんの少しだけ眉をひそめた。
ユウカ「なんだか、ひんやりしてますね、この人形」
ミドリ「棚がエアコンの風の通り道だから、かな」
ユウカ「そうかもしれませんね」
ユウカは人形を棚に戻すと、ファイルを抱え直した。
ユウカ「企画書の締め切りは来週の金曜日です。忘れないでくださいね」
モモイ「……徹夜だ」
ミドリ「え?」
モモイ「今日は徹夜で、企画書を完成させる! 部費をこれ以上減らされてたまるかー!」
その夜。
ゲーム開発部の部室は作戦会議室になっていた。床には寝袋が四つ広げられ、机の上にはピザの箱と、エナジードリンクの缶と、モモイの書きなぐったメモが散らばっている。
モモイ「タイトルは『変なもんクエスト』!」
ミドリ「そのまますぎない?」
モモイ「わかりやすいのが一番なの! 主人公は勇者で、遊園地の裏にある魔女のお城に乗り込むんだよ。中ボスは、狼男と、ハサミの魔女と、雪だるま!」
ユズ「そ、それ、先生の映画の……」
モモイ「オマージュ! で、ラストはね、勇者が自分でエンディングを書くの!」
ミドリ「どうやってゲームにするの、それ」
モモイ「そこはユズがなんとかしてくれる!」
ユズ「え、ええ……」
アリス「アリスは、ラスボス戦のテストプレイを担当します。勇者の視点から、意見を出します」
そう言ってから、アリスは少し考えこむように首をかしげた。
アリス「モモイ。勇者が自分で書くエンディングは、どんなものがいいと思いますか」
モモイ「えー、そうだなあ。魔王を倒して、お姫様と結婚して……っていうのはベタすぎるし」
ミドリ「お姉ちゃんのシナリオ、いつもベタだけどね」
モモイ「うるさいなあ。……でもさ、やっぱり最後は、みんなで笑っておうちに帰る、っていうのが一番いいんじゃないかな。冒険は楽しいけど、帰る場所があるから、冒険できるんだよ」
アリス「みんなで、おうちに帰る……」
アリスは、その言葉を、口の中でそっと繰り返した。
四人は、夜遅くまで手を動かし続けた。モモイがシナリオを書き、ミドリがキャラクターを描き、ユズが動く試作品を組み上げ、アリスがそれを遊んでは、感想を言う。
いつもの、ゲーム開発部の夜だった。
日付が変わるころ、最初に力尽きたのはモモイだった。
モモイ「あと……五分だけ……目を……つぶる……だけ……」
キーボードの上に頭を乗せたまま、モモイはすうすうと寝息を立てはじめた。ミドリがため息をつきながら、その肩に毛布をかけ、寝袋のほうへ引きずっていく。
ミドリ「アリスちゃん、私も少しだけ寝るね……。お姉ちゃんが起きたら、起こして……」
そう言ったミドリも、寝袋に入ったとたんに静かになった。
ユズ「わ、わたしも……ちょっとだけ……」
アリス「ユズはロッカーで寝ないんですか?」
ユズ「今日は、みんなの近くが、いいので……」
ユズは、寝袋にもぐりこむと、頭まですっぽりと隠れた。
部室にはアリスだけが残った。
アリスはヘッドホンをつけると、ユズの組み上げた試作品の、ラスボス戦を何度も遊んだ。まだ絵も音も仮のものばかりだったけれど、四人で作ったゲームだと思うと、それだけで楽しかった。
ヘッドホンの中で、仮のBGMが鳴り響いている。
だから、アリスは気づかなかった。
モニターの真上の棚で、三体の人形の目がほんの一瞬光ったことに。
床の上の三つの寝袋が、ひとつ、またひとつと、空気の抜けるように静かにしぼんでいったことに。
午前二時。
ヘッドホンを外して伸びをしたアリスの耳に、こん、こん、と小さな音が聞こえた。
部室の扉を誰かがノックしていた。
アリス「……はい?」
アリスは扉を開けた。
廊下には、大きな雪だるまが立っていた。
まんまるな白い胴体の上に、まんまるな白い頭が乗っている。頭のてっぺんにはバケツをかぶり、真ん中にはにんじんの鼻、首には毛糸のマフラー。細い木の枝の腕が、胴体の両脇から、所在なさげに垂れ下がっていた。
雪だるま「にゅ……にゅ、入部、希望、です……」
くぐもった、ひどく小さな声だった。
アリスは目を見開いた。
アリス「パンパカパーン! 入部希望者です!」
雪だるま「ひっ」
アリス「ゲーム開発部は、いつでも新しい仲間を募集しています! どうぞ、中へ! 今、部長たちを起こします!」
アリスは、くるりと振り返って、寝袋のほうへ駆け寄ろうとした。
アリス「モモイ、起きてください! 新しい仲間が——」
雪だるま「あ、あの……」
雪だるまが枝の腕を伸ばした。
その腕の先が、アリスの胸元の、ペンダントに向けられていた。
雪だるま「そ、その、ペンダントを……わ、渡してください……」
アリスは足を止めた。それから、ペンダントを、両手でぎゅっと握りこんだ。
アリス「これは、おじさんから預かった、大事なアイテムです。渡すことはできません」
雪だるま「そ、そう、ですよね……ご、ごめんなさい……で、でも……」
雪だるまがぶるぶると震えた。
その足元から、白い霜が、床の上をさあっと広がっていった。霜は机の脚を這いのぼり、モニターの画面を曇らせ、ピザの箱を凍りつかせた。息が白くなった。天井から、細いつららが何本も伸びてくる。
雪だるま「わ、渡してもらわないと……台本の、とおりにしないと……」
枝の腕が、アリスに向かって伸びてきた。触れてもいないのに、指先がしびれるほど冷たい。
アリスは、スーパーノヴァに手をかけた。そして、そのまま、手を止めた。
ここで撃てば、部室の機材が、みんなのパソコンが、四人で作りかけのゲームが、全部吹き飛んでしまう。うしろには、寝袋で眠っているみんながいる。
アリス「……光の剣は使えません」
アリスはペンダントを握った。
澄んだガラス玉は残り四つ。大事に、大事に取っておくと決めた、四つだった。
けれど、今は、そのときだった。
アリス「ヘンナ・モンダネ! 炎の魔法です! この部屋をあたたかくしてください!」
ガラス玉のひとつがぱっと赤く光った。
次の瞬間、部室の空気が、ぐんと熱くなった。床の霜がみるみる溶けて水になり、天井のつららがぽたぽたとしずくを落とす。曇っていたモニターがふわりと晴れた。あっという間に、部室は、真夏のサウナのような暑さになっていた。
雪だるま「あ、あつ……あつい、です……!」
雪だるまの体から、だらだらと水が流れ落ちはじめた。にんじんの鼻が傾き、バケツがずり落ちそうになっている。
雪だるま「と、溶ける……とけちゃう……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
雪だるまは、慌てて窓に駆け寄ると、そのまま外へ転がり出た。
アリスが窓に駆け寄ったときには、白い影は夜の暗がりの向こうへ、ごろごろと転がって消えていくところだった。
窓の下の床に、一枚のカードが落ちていた。黒いカードに、金色の文字。
アリス「……撃退、しました」
アリスは大きく息を吐いた。それから、汗をぬぐって、振り返った。
アリス「みんな、大丈夫ですか。今、すごい雪だるまが——」
言葉が途中で止まった。
寝袋は空っぽだった。
三つの寝袋は、どれも、中身だけが抜け落ちたように平たくなっていた。そして、それぞれの枕の上に、ひとつずつ人形が横たわっていた。
モモイの寝袋にはモモイの人形が。ミドリの寝袋にはミドリの人形が。ユズの寝袋にはユズの人形が。
モニターの真上の棚は空になっていた。
アリス「……モモイ?」
返事はなかった。
アリス「ミドリ? ユズ?」
アリスはロッカーを開けた。誰もいなかった。机の下をのぞいた。誰もいなかった。廊下に飛び出して、左右を見回した。非常灯の緑の光が、がらんとした廊下を照らしているだけだった。
部室に戻って、アリスは、モモイの寝袋の前に膝をついた。おそるおそる、人形を持ち上げる。
人形はあたたかかった。
昼間、ユウカが「ひんやりしている」と言っていた人形が、今は人の体温のように、ほんのりとあたたかかった。
アリス「……みんなが人形に……」
アリスは、窓の下に落ちていたカードを拾い上げた。金色の文字は、震えるほど丁寧な字で書かれていた。
勇者殿。
お仲間はお預かりいたしました。
お返しをお望みならば、変なもんランドへお越しください。
ご来園は、勇者と、同行者一名様のみ。
明晩、閉園ののち、夜明けまでお待ちしております。
夜明けを過ぎれば、人形は、人形のままに。
変なもんランド支配人
部室の中はまだ蒸し暑かった。溶けた霜が床を濡らし、天井からはしずくが落ち続けている。
アリスは三体の人形を拾い集めると、胸に抱えて床に座りこんだ。それから、片手でスマホを取り出して、一番上にある名前を押した。
呼び出し音は一回で途切れた。
先生『アリス? どうしたの、こんな時間に』
先生の声だった。まだ、仕事をしていたのだろう。キーボードを叩く音が、ぴたりと止まったのが聞こえた。
アリス「先生……」
声が震えた。アリスは人形を抱く腕に力をこめた。
アリス「アリスは……パーティーを守れませんでした」
電話の向こうで、一瞬だけ、息をのむ気配がした。
先生『……今、どこにいる?』
アリス「部室です」
先生『すぐに行く。ドアに鍵をかけて、待ってて。大丈夫。一人にはしないから』
電話が切れた。
アリスは、三体の人形を抱いたまま、じっと扉を見つめていた。
腕の中の人形は、ずっと、あたたかいままだった。
先生が部室に着いたのは、それから二十分後のことだった。
鍵を開けて扉を開くと、むっとするような熱気が顔に当たった。床は水びたしで、天井からはまだ、ぽたりぽたりとしずくが落ちている。その真ん中に、アリスが座っていた。三体の人形を胸にしっかりと抱えて。
先生「アリス」
アリス「……先生」
先生は、濡れた床にかまわず、アリスの隣に腰を下ろした。何も聞かずに、しばらくそのまま座っていた。アリスの肩が、少しずつ、少しずつ、こわばりをほどいていくのがわかった。
先生「何があったのか、私に聞かせてくれる?」
アリスは、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。部費のお願いでガラス玉がふたつ曇ったこと。夜通し企画書を作っていたこと。午前二時に、入部希望の雪だるまが来たこと。ペンダントを渡せと言われたこと。炎の魔法で追い払ったこと。振り返ったら、みんなが人形になっていたこと。
アリス「アリスはヘッドホンをしていました。みんながいなくなったのに、気づきませんでした」
先生「それはアリスのせいじゃないよ」
アリス「でも、アリスは勇者です。勇者は、パーティーを守らないといけません」
先生「アリスはちゃんと守ったよ。雪だるまから、このペンダントも、部室も、みんなのゲームも」
先生は、アリスの腕の中の人形に目を落とした。モモイの人形の、跳ねた髪。ミドリの人形の、落ち着いた目元。ユズの人形の、下がった眉。
先生「それに、みんなはまだ、ここにいる。そうでしょ?」
アリス「……人形があたたかいんです。昼間は冷たかったのに」
先生「うん。だったら、きっと、取り戻せる」
先生は、アリスが握りしめていたカードを受け取って、そこに並んだ金色の文字を読んだ。読み終えると、黙ったまま、それを裏返した。裏には何も書かれていなかった。それでも先生は、しばらくそのカードを見つめていた。
夜明け前に、ユウカが駆けつけた。パジャマの上にコートを羽織っただけの姿で、髪もまとめていなかった。
ユウカ「先生! 連絡を受けて……アリスちゃん!」
ユウカは、部室の惨状と、アリスの抱えた人形を見て、言葉を失った。それから、その場に膝をついて、モモイの人形をそっとのぞきこんだ。
ユウカ「……うそでしょう。モモイ? ミドリ? ユズ?」
返事がないのはわかっていた。それでもユウカは、一人ずつ、名前を呼んだ。
その少しあとに、もう一人、部室の入口に影が立った。
ネル「セミナーから緊急の呼び出しだって聞いたから来てみりゃ……なんだ、これ」
C&Cのリーダー、美甘ネルだった。メイド服の上に、上着を引っかけている。水びたしの床を見て、眉間に深いしわを寄せた。
ネル「おい、チビ。何があった」
アリス「……ネル先輩」
アリスがもう一度最初から話すあいだ、ネルは腕を組んで壁に寄りかかって聞いていた。話が雪だるまのところまで来ると、その口元が、ぎりっと引き結ばれた。
ネル「……上等じゃねえか」
ネルの声は低かった。
ネル「人んとこの後輩を、寝てる間にかっさらっていきやがって。ふざけた真似しやがる」
朝になると、シャーレの執務室で作戦会議が開かれた。
机の真ん中には、三体の人形が並べて置かれていた。その周りに、先生と、ユウカと、ネルと、アリスが座っている。壁の大きなモニターには、アビドスの対策委員会の部室が映っていた。
アヤネ『夜明け前に、ドローンで変なもんランドを偵察してきました。これを見てください』
画面が切り替わった。真っ暗な砂漠の中に、遊園地の明かりが浮かんでいる。その真ん中に、昼間にはなかったはずのものが映っていた。
尖った塔をいくつも持つ、黒い城だった。
アヤネ『地図の空白の場所に、夜のあいだだけ現れているみたいです。私がドローンを飛ばしたときにはもう建っていて、夜明けと同時に消えました。それから、園の周りは、カイザーPMCの警備ロボットが囲んでいます。数は少なくとも二百体以上です』
セリカ『あいつら、やっぱりグルなんじゃない!』
ホシノは、画面の向こうで、先生が掲げたカードをじっと見ていた。
ホシノ『先生。そのカード、もう一回見せて』
先生がカードをカメラに近づけると、ホシノは、しばらく黙っていた。
ホシノ『……やっぱりね。この書き方、黒服だよ』
ネル「黒服?」
ホシノ『ゲマトリアっていう、変な大人たちの一人。前にちょっと、おじさんも、やりあったことがあってさ』
ホシノの口調は、いつも通り、のんびりしていた。けれど、画面越しでもわかるほど、その目は冷えていた。
ホシノ『あいつはね、約束は守るんだ。ちゃんと守る。ただ、守り方が、ろくでもないだけでさ。だから、このカードに書いてあることは全部本当だと思ったほうがいいよ』
ユウカ「全部、本当……。じゃあ、夜明けを過ぎたら、みんなは本当に人形のままに……」
ホシノ『たぶんね』
執務室が静まりかえった。
最初に口を開いたのはユウカだった。
ユウカ「罠です。どう考えても罠です。勇者と、同行者一名だけで来いなんて」
シロコ『ん。なら、全員で突入すればいい。私たちも行く』
ホシノ『それをやったら、ルール違反になるねえ。あいつは、ルールを破った相手には容赦しないよ。人形が人形のまま、っていうのを、本当にやると思う』
先生「なら、私が行くよ。同行者一名の、その一名として」
ホシノ『先生が行くのは、たぶん、あいつの思うつぼだよ』
ホシノはすぐに首を横に振った。
ホシノ『あいつが一番興味を持ってるのは、先生だからさ。先生が城に入ったら、今度は先生が何かの役をやらされるかもしれない。おじさんは、それが一番、嫌だな』
先生「でも……」
アリス「先生」
アリスがまっすぐに先生を見ていた。
アリス「このカードに書いてあるのは、勇者殿、です。招待されたのはアリスです。だから、アリスが行きます」
先生「アリス……」
アリス「それに、先生には、外で待っていてほしいです。アリスたちが帰ってくる場所に、先生がいてほしいです」
先生は、何か言いかけて、口をつぐんだ。
アリスの目はもう揺れていなかった。
ユウカ「……同行者は私が行きます」
ユウカが、膝の上で拳を握りしめていた。
ユウカ「おとといの引率は私でした。あの人形を買うのを止めなかったのも私です。経費で落ちないとか、そんなことばかり言って……」
アリス「ユウカのせいではありません」
ユウカ「でも」
シロコ『ん、私も行ける。潜入は得意』
ネル「あたしが行く」
壁に寄りかかっていたネルが、短く言った。
ネル「同行者ってのは、要するに、チビの護衛だろ。だったら、あたしが一番向いてる」
全員の目がアリスに集まった。
アリスは、ユウカを見て、モニターの向こうのシロコを見て、それからネルを見た。少しのあいだ、真剣な顔で考えこむ。
アリス「アリスはネル先輩と行きます」
ユウカ「アリスちゃん……」
アリス「ネル先輩はミレニアム最強です。それに、ネル先輩は、アリスとゲームをしてくれます。アリスに負けても、負けても、何回でも挑戦してくれます」
ネル「最後のは余計だろ」
アリス「何回負けても、あきらめない人は、仲間を見捨てません。だから、アリスは、ネル先輩と行きたいです」
ネルはぽかんと口を開けた。それから、ぷいと顔をそむけた。耳のあたりが少しだけ赤くなっていた。
ネル「……ちっ。しょうがねえな。付き合ってやるよ、チビ」
アリス「よろしくお願いします、ネル先輩」
アリスはユウカのほうに向き直った。
アリス「ユウカには別のお願いがあります。外で、先生を見張っていてください。先生が、無理をして城に入ってこないように」
ユウカ「……それは」
ユウカは先生をちらりと見た。それから、ふっと息を吐いた。
ユウカ「それは、確かに、とても大事な仕事ですね」
先生「ちょっと、二人とも」
ユウカ「先生は黙っていてください。……ネル先輩。アリスちゃんをお願いします」
ネル「言われなくても、わかってる」
先生はしばらく黙っていた。それから、アリスの前にしゃがみこんで、その目の高さに自分の目を合わせた。
先生「アリスが決めたなら、私はそれを信じるよ」
アリス「はい」
先生「でも、約束して。危なくなったら、すぐに私を呼ぶこと。一人で抱えこまないこと。それから、必ず帰ってくること。ネルと二人で……ううん、五人で、だね」
アリス「はい。パーティー全員で、帰ってきます」
先生「ネルも。約束してくれる?」
ネル「……ああ。約束する」
作戦はすぐに決まった。
対策委員会は、園の周りを固めて、警備ロボットを引きつける。帰り道を確保するのも対策委員会の役目だった。先生とユウカは園の正門の前で待つ。アリスとネルには、ユウカが用意した小型の通信機が渡された。
ユウカ「城の中まで電波が届くかはわかりません。でも、届く限りは、ずっとつないでおきます」
アヤネ『ドローンの映像もそちらに回します。外からわかることは全部お伝えしますね』
ホシノ『じゃあ、夜にね~。先生、ちゃんと寝ておきなよ。今夜は長くなりそうだからさ』
その日の午後。
アリスは、片づけの終わった部室で、三体の人形を前に座っていた。床はまだ少し湿っていて、エアコンの風が、乾いた音を立てていた。
扉が開いて、ネルが入ってきた。手には、ゲーム機のコントローラーを二つぶら下げている。
ネル「おい、チビ。夜まで暇だろ。付き合え」
アリス「ネル先輩……」
ネル「どうせ、じっとしてても余計なこと考えるだけだろうが。一戦だけだ」
画面の中で、二人のキャラクターがぶつかり合った。ネルの操作は荒々しくて、速かった。アリスの操作は正確だった。
一戦目はアリスが勝った。
ネル「なんでだよ!」
二戦目もアリスが勝った。
ネル「なんでだよ!!」
三戦目、ネルはコントローラーを握りつぶしそうな勢いでボタンを連打して、それでもやっぱり負けた。
ネル「おかしいだろ! 今の、絶対あたしの勝ちだったろ!」
アリスの口元がふっとゆるんだ。
小さな、小さな笑い声がこぼれた。
ネル「……やっと笑ったな」
アリス「え?」
ネル「なんでもねえよ。もう一戦だ」
ネルは、そっぽを向いたまま、コントローラーを握り直した。
アリス「ネル先輩は、どうして一緒に来てくれるんですか」
ネル「あ?」
アリス「ネル先輩は、ゲーム開発部の部員ではありません。危ない場所なのに、どうして」
ネルは、しばらく画面を見つめていた。キャラクター選択の音楽がのんきに流れている。
ネル「あたしはな、仲間を取られて黙ってるやつが、一番嫌いなんだよ。そいつが自分でも、他人でもな」
アリス「……仲間」
ネル「何回も一緒にゲームやってりゃ、そいつはもう仲間だろ。違うのか」
アリス「違いません」
アリスは首を大きく横に振った。
アリス「ネル先輩は、アリスのパーティーの仲間です」
ネル「……そうかよ」
窓の外で、日が傾きはじめていた。
部室に差しこむ光が、オレンジ色から、だんだんと紫色に変わっていく。
そのとき、アリスは、視界の端で何かが動いたのに気づいた。
机の上に並べた人形のうち、モモイの人形の指が、ほんのかすかにぴくりと動いていた。
アリス「……!」
アリスは身を乗り出した。人形はもう動かなかった。けれど、その小さな指先は、さっきとは違う形に曲がっていた。まるで、何かをつかもうとしたかのように。
アリス「……みんな、そこに、いるんですね」
アリスは三体の人形を、一体ずつハンカチでくるんだ。そして、それを、そっとリュックの中にしまった。
アリス「みんなも一緒に行きます」
ネル「……ああ」
その夜。
アビドスの砂漠に、冷たい風が吹いていた。
閉園したはずの変なもんランドには、煌々と明かりが灯っていた。そして、その真ん中に、黒い城がそびえていた。
園の周りのあちこちで、銃声と爆発音が上がっていた。シロコとノノミが、警備ロボットの群れを相手に派手に暴れているのだ。
ノノミ『はーい、ロボットさんたちは、こちらでお相手しますね~☆』
シロコ『ん、二百体なら、余裕』
セリカ『ちょっとアリス! あんた、絶対帰ってきなさいよ! まだ、あのコースターの決着、ついてないんだからね!』
アリス「はい、セリカ! 次は、セリカも両手を上げて乗りましょう!」
セリカ『上げないわよ!』
正門の前で、ホシノが、盾を地面に立てて待っていた。
ホシノ「ネルちゃん、アリスちゃんのこと、よろしくね~」
ネル「ちゃん付けすんな!」
ホシノはくすっと笑った。それから、アリスのほうへ向き直った。今度は少しも笑っていなかった。
ホシノ「アリスちゃん。黒服はね、ずるいことはしても、嘘はつかない。だから、あいつが言ったルールは一言一句、ちゃんと聞いておくんだよ」
アリス「ルールをちゃんと聞く」
ホシノ「そう。ルールの穴っていうのは、たいてい、ルールの中にあるから」
アリスは大きくうなずいた。
ユウカが腕時計を見た。
ユウカ「今日の日の出は午前五時四十八分です。現在、午後十一時三十六分。残り、六時間十二分」
ネル「十分だ」
先生がアリスの前に立った。
何か言葉をかけようとして、先生は、少しだけ迷った。それから、アリスの通信機の位置を、指先でそっと直した。
先生「行ってらっしゃい。アリス、ネル」
アリス「行ってきます、先生」
巨大な生き物の顔の形をした門が、二人の目の前で、ゆっくりと口を開けた。
門をくぐると、背後で、ばくん、と大きな口の閉じる音がした。
振り返ると、門はもう閉じていた。外の銃声も、風の音も、ぴたりと聞こえなくなっていた。
ネル「……閉じこめられたってわけか」
アリス「ダンジョンでは、よくあることです」
夜の変なもんランドは、昼間とはまるで違う顔をしていた。
客はひとりもいないのに、アトラクションはすべて動いていた。うしろ向きのメリーゴーランドが、誰も乗せないまま、ゆっくりと回っている。コーヒーカップが、誰もいない座席に向かって、ぐるぐる、ぐるぐる、と小さな声でつぶやき続けている。
そして、道の両側には、ロボットの係員たちがずらりと並んでいた。全員が、笑った顔の仮面をつけている。二人が歩くと、何十もの仮面が、いっせいにこちらを向いた。
ネル「気味が悪いな」
アリス「観客です。イベントには観客がつきものです」
ネル「そういう問題か?」
通信機から、ざらついた音がした。
先生『アリス、ネル。聞こえる?』
アリス「はい、先生。よく聞こえます」
先生『よかった。門が閉じた瞬間、映像が乱れたから、心配したよ。二人とも、無理はしないでね』
ネル「わかってるって」
少し進むと、道をふさぐように、小さな改札口が立っていた。改札の横には、駅員の制服を着たロボットがいる。
改札ロボ「いらっしゃいませ。入園券を拝見いたします」
ロボットの目から赤い光が伸びて、アリスとネルの頭のてっぺんから足の先までを、すうっとなぞった。
改札ロボ「勇者様、一名。お子様、一名」
ネル「誰がお子様だ、こらぁ!」
ネルの手が、目にもとまらぬ速さでロボットの襟元をつかんでいた。ロボットの足が地面から浮いている。
改札ロボ「た、大変、失礼いたしました。再計測いたします。……勇者様、一名。お連れ様、一名」
ネル「最初からそう言え」
ネルがロボットを放り出すと、改札の扉がぱたんと開いた。
アリス「ネル先輩。お子様料金で入れるなら、そのほうがお得だったのではないでしょうか」
ネル「そういう問題じゃねえ!」
そのとき、園内のスピーカーから、静かな声が流れはじめた。
黒服『ようこそ、勇者。そして、お連れ様』
ネルが銃に手をかけた。アリスも、背中のスーパーノヴァのベルトを握る。
落ち着いた、丁寧な男の声だった。どこから聞こえてくるのか、わからなかった。前からも、うしろからも、足元の石畳の下からさえも聞こえてくるようだった。
黒服『クックック……。変なもんランドの夜の部へ、ようこそおいでくださいました。今宵、この園は、あなた方のためだけに開いております』
ネル「いけすかねえ声だな」
黒服『ご説明いたしましょう。あなた方のお仲間は、この園のどこかで、それぞれの役目についておられます。園の三つの区画を抜け、夜明けまでに、城の最上階へお越しください。それが、このたびの物語の筋書きです』
アリス「三つの区画……。中ボスが三体いるパターンです」
黒服『なお、お連れ様の銃は、城の外でしたら、どうぞご自由にお使いください。では、よい夜を』
声はそれきり聞こえなくなった。
ネルがちっと舌打ちをした。
ネル「好き勝手しゃべるだけしゃべって、消えやがった」
アリス「ネル先輩。今の、聞きましたか」
ネル「あ?」
アリス「城の外でしたら、と言いました」
ネルが眉をひそめた。
アリス「ホシノが言っていました。黒服は嘘はつかない。ルールの穴は、ルールの中にある、と。だから、城の外でしたら、ということは……」
ネル「城の中じゃ、銃が使えねえってことか」
アリス「その可能性が高いです」
ネル「……ちっ。ますます、いけすかねえ」
通信機から、今度はアヤネの声がした。
アヤネ『アリスさん、ネル先輩。ドローンで、三つの区画を確認しました。北側が大きな森になっています。東側に、洋館のような建物。西側は……ゲームセンター、でしょうか。城へ渡る橋はその先にあります』
アリス「順番に、攻略していきます」
北の区画へ向かう道すがら、ネルが、ちらりとアリスの胸元を見た。
ネル「そのペンダント、あと何回使えるんだ」
アリス「三回です。最後のひとつは切り札なので、実質、二回です」
ネル「切り札、ねえ。……ケチって肝心なときに使えなかった、なんてのはなしだからな」
アリス「はい。アリスは、ラストエリクサーを九十九個持ったまま、エンディングを迎えたことがあります。今回は、そうならないように気をつけます」
ネル「九十九個って、お前……」
アリス「でも、使うべきときを間違えなければ、一個でも足ります」
ネルは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、少しだけ歩く速さを落として、アリスの隣に並んだ。
ネル「お前の背中はあたしが見ててやる。だから、お前は前だけ見てろ」
アリス「はい。ネル先輩は最強のしんがりです」
ネル「しんがりって言うな。なんか、地味だろ」
北の区画の入口には、木でできたアーチがかかっていた。アーチには、白い文字でこう書かれていた。
満月の森。
森の中は奇妙な場所だった。本物の木と、板に描かれた木が、ごちゃまぜに立ち並んでいる。地面には、作りものの草と、本物の草が入りまじっていた。
そして、森の上には、月が浮かんでいた。
本物の月ではなかった。空のずっと低いところに、とてつもなく大きな、まんまるの照明が吊るされていた。黄色い光が、森の隅々までを、昼間のように明るく照らしている。
ネル「でっけえ電球だな」
アリス「満月の森、なので、満月です」
ネル「雑だな」
森の奥から、遠吠えが聞こえた。
ネルがすっとアリスの前に出た。二丁のサブマシンガンを両手に構える。
ネル「来るぞ」
茂みが大きく揺れた。
飛び出してきたのは狼だった。
小部屋で見たおじさんの狼よりも、ひと回り小さい。毛並みは淡い金色をしていた。二本の足で立ち、長い爪の生えた腕を、大きく振り上げている。
そして、その頭には、なぜかヘッドホンがのっていた。
狼男「が、がおー!」
狼は、森じゅうに響くような声で吠えた。
狼男「こ、ここを通りたくば、この満月の狼を、倒してからにするがいい……じゃん!」
ネル「……じゃん?」
アリス「じゃん、と言いました」
狼男「い、言ってない! 言ってないし!」
狼は首をぶんぶんと横に振った。それから、自分でも戸惑ったように、頭を押さえた。
狼男「台本だと、そういうセリフじゃ、なくて……。とにかく! 勇者は、ここで、やっつける! そういう、役だから!」
狼が地面を蹴った。
速かった。ネルが引き金を引くより早く、狼はもう、二人の目の前まで迫っていた。振り下ろされた爪を、ネルは体をひねってかわす。爪が、さっきまでネルの立っていた地面を、深々とえぐった。
ネル「速えじゃねえか!」
ネルは、地面を転がりながら引き金を引いた。弾丸が、狼の足元の地面を、ばばばっと削る。狼は、跳ねるようにそれをかわした。そのまま、本物の木の幹を蹴って、宙を舞う。
アリスもスーパーノヴァを構えた。けれど、狼とネルの距離が近すぎて、撃てなかった。
アリス「ネル先輩、離れてください! 狙えません!」
ネル「離れたら、こいつがお前に行くだろうが!」
そのとおりだった。狼の黄色い目は、ネルではなく、ずっとアリスを追っていた。ネルが何度引き離しても、狼はアリスのほうへ、アリスのほうへと向かってくる。
狼男「勇者は……ここで……!」
先生『アリス、ネル、大丈夫!?』
ネル「大丈夫に決まってんだろ! ちょっと黙ってろ!」
ネルの足が狼の脇腹をとらえた。小さな体からは想像もつかない重い蹴りに、狼の体が吹っ飛んで、板の木を何本もなぎ倒した。
狼は、作りものの草の上を転がって、よろよろと起き上がった。頭のヘッドホンが、ずれて、片方の耳のほうへ傾いている。
ネルは、その頭に、ぴたりと銃口を向けた。
ネル「終わりだ」
アリス「待ってください!」
アリスの叫び声が森に響いた。
ネルの指が引き金の上で止まった。
ネル「なんだよ!」
アリスは狼の頭を見つめていた。
ずれたヘッドホン。猫の耳の形をした、ヘッドホン。その縁に、ピンク色のラインが一本、入っている。
アリスは、そのヘッドホンを知っていた。毎日、毎日、部室で見ていた。モニターに向かって、ああでもないこうでもないと頭をかきむしる、その頭の上で。
アリス「あのヘッドホンは……モモイのです」
ネル「……はあ!?」
アリスの背中で、リュックの中の何かが、とくん、と脈打った気がした。
アリスがリュックを下ろして口を開けると、ハンカチにくるまれたモモイの人形が、ほのかに光っていた。昼間よりもずっとあたたかかった。
アリス「モモイです。あの狼はモモイです」
ネル「冗談だろ……。じゃあ、あいつ、自分の後輩を、勇者をやっつけろって……」
狼男「ゆう、しゃ……は……」
狼は、頭を抱えて、うずくまっていた。苦しそうに、喉の奥でうなっている。
狼男「や……っつけ……な……いと……。台本……だから……。でも……なんで……知ってる、声……」
アリス「モモイ!」
アリスが呼ぶと、狼の体が、びくりと震えた。
アリス「モモイ、アリスです! わかりますか!」
狼男「ア……リ……」
けれど、その声は、すぐに低いうなり声にのみこまれた。狼が顔を上げる。黄色い目が、また、ぎらりと光った。
頭上で、作りものの満月が、ひときわ強く輝いていた。
先生『アリス』
通信機から、先生の声がした。さっきよりもずっと静かな声だった。
先生『落ち着いて。どうしたいのか、決めるのはアリスだよ。私は、アリスが決めたことを信じるから』
アリスは深く息を吸った。
どうしたいのかは決まっていた。モモイを撃ちたくない。モモイを取り戻したい。
では、そのためには、どうすればいいのか。
アリス「……狼男は満月の光で変身します」
ネル「あ?」
アリス「ゲームの定石です。狼男の敵は、満月の夜にだけ強くなります。満月が隠れれば、人間に戻ります」
アリスは、空に浮かぶ巨大な照明を見上げた。
そして、首からペンダントを外した。澄んだガラス玉は残り三つ。
ネル「おい、それ、残り少ないんじゃねえのか」
アリス「はい。でも、今が、使うときです」
アリスはペンダントを高く掲げた。
アリス「ヘンナ・モンダネ! 月を雲で隠してください!」
ガラス玉のひとつが銀色に光った。
光は、まっすぐに空へとのぼっていった。そして、作りものの満月のまわりで、ふわりとほどけた。
ほどけた光は雲になった。もくもくとした灰色の雲が、どこからともなく湧きだして、満月をゆっくりと覆っていく。森の中が、少しずつ暗くなっていく。
最後の光の筋が雲の向こうに消えた。
狼男「あ……」
狼が膝をついた。
淡い金色の毛並みが、風に吹かれた綿毛のように、ふわりふわりと抜けて、空中で光の粒になって消えていく。長かった爪が縮み、伸びていた口元が丸くなり、大きかった体が、みるみるうちに小さくなっていく。
最後に残ったのは、パジャマ姿で作りものの草の上に倒れている、一人の女の子だった。
頭の上には、ピンクのラインの入った、猫の耳の形のヘッドホンがのっていた。
アリス「モモイ!」
アリスは駆け寄って、モモイの体を抱き起こした。目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。息はしている。けれど、その体は、抜け殻のように軽かった。
アリスは、リュックからモモイの人形を取り出した。人形は、さっきよりもずっと強く、光っていた。
アリス「モモイ。帰ってきてください」
アリスは、人形を、モモイの胸の上にそっと置いた。
人形の光が、すうっとモモイの体に吸いこまれていった。光が消えると、人形は、ただの人形に戻っていた。表情もぬくもりも、どこか遠くへ抜けていったように静かになっていた。
そして、モモイのまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。
モモイ「……あれ? アリス?」
ぼんやりとした目で、モモイはアリスの顔を見上げた。それから、あたりの森を見回した。それから、自分のパジャマを見下ろした。
モモイ「なんで私、こんなとこで寝て……うえっ、ぺっぺっ! なんか、口の中が毛っぽい!」
アリス「モモイ……!」
アリスは、モモイに思いきり抱きついた。
モモイ「ぐえっ、ちょ、アリス、苦しい、苦しいってば!」
ネル「……ったく」
ネルは銃を下ろすと、大きく息を吐いた。それから、そっぽを向いて、ぼそりとつぶやいた。
ネル「撃たなくて、よかった」
モモイは、作りものの草の上にあぐらをかいて、自分の手のひらをじっと見つめていた。指を一本ずつ、曲げたり伸ばしたりしている。
モモイ「……ちゃんと、私の手だ」
アリス「はい。モモイの手です。毛も、爪も、ありません」
モモイ「爪? 毛? ちょっと待って、私、何になってたの」
ネル「狼」
モモイ「狼!?」
モモイは一瞬ぽかんとした。それから、頭を抱えた。
モモイ「……なんとなく、覚えてる。夢の中みたいに、ぼんやりだけど。気がついたら、真っ暗なところにいて、体が全然動かなくて。でも、ずっと、アリスの声が聞こえてたんだ。すぐそばで」
アリス「モモイの人形は、アリスのリュックの中にいました」
モモイ「そっか。じゃあ、あれが人形の中、だったのかな」
モモイは、草の上に転がっている自分の人形を拾い上げた。人形はもう光っていなかった。ただの、よくできた布と綿の人形だった。
モモイ「それでね、真っ暗なのとは別に、もうひとつ変な感じがあったの。私の体が、どこか遠くで、勝手に動いてる感じ。頭の中に、台本みたいなのが流れてきてさ。満月の狼の役、代わりの役者、って書いてあって……」
アリス「代わりの、役者」
アリスは、小部屋のおじさんのことを思い出した。狼になってしまった、やさしいおじさん。おじさんは、アリスにペンダントを渡した。たぶん、それで、狼の役を外されてしまったのだ。
アリス「おじさんの、代わりだったんですね」
モモイ「おじさん?」
アリス「あとで、説明します」
モモイは手の中の人形を見下ろした。
それから、急に、うつむいた。
モモイ「……私の、せいだ」
アリス「モモイ?」
モモイ「私があんな投稿したから。誰か、こういう遊園地作ってくれないかなって。あんなの、冗談のつもりだったのに。だから、ミドリも、ユズも……アリスまで、こんな目に……」
モモイの声がだんだん小さくなっていく。パジャマの膝をぎゅっと握りしめていた。
アリスは、モモイの前にしゃがみこんだ。
アリス「モモイが投稿してくれたから、アリスは、勇者の剣を抜けました」
モモイ「え……」
アリス「セリカと、サンドワームに乗れました。人形師のおじさんにも会えました。ネル先輩と、パーティーを組めました。アリスは、この遊園地に来て、楽しいこともたくさんありました」
モモイ「でも」
アリス「それに、悪いのは、モモイの投稿を勝手に読んで、勝手に遊園地を作って、勝手にみんなを人形にした人です。モモイではありません」
ネル「チビの言うとおりだ」
ネルが、腕を組んだまま、モモイを見下ろしていた。
ネル「うだうだ言ってる暇があったら、立って歩け。妹を取り返すんだろうが」
モモイはぐしっと鼻をすすった。それから、勢いよく立ち上がった。
モモイ「……うん!」
先生『モモイ、聞こえる?』
アリスの通信機から、先生の声がした。アリスが通信機を差し出すと、モモイは目をまるくした。
モモイ「先生!? どこにいるの!?」
先生『外で待ってるよ。……よかった。本当に、よかった』
先生の声は少しだけ震えていた。モモイは、しばらく何も言えずに、通信機を握りしめていた。
先生『ミドリとユズのことも、待ってるからね。みんなで帰っておいで』
モモイ「……うん。絶対、みんなで帰る」
アリスはすっと背筋を伸ばした。そして、両手を高く上げた。
アリス「モモイが仲間になりました! パンパカパーン!」
モモイ「えへへ……。仲間になった!」
ネル「パジャマで、スリッパで、丸腰だけどな」
モモイ「うっ」
モモイは自分の足元を見下ろした。ふわふわのスリッパが片方だけ脱げかけている。
モモイ「まあ、なんとかなるでしょ! 勇者のパーティーには、遊び人だって必要なんだから!」
アリス「モモイは、遊び人ではなく、シナリオライターです」
モモイ「そこは否定しなくていいの!」
東の区画には背の高い洋館が建っていた。
壁も、窓枠も、屋根の飾りも、すべてが黒い紙で縁どられている。玄関の上の看板には、細い切り抜きの文字で、こう書かれていた。
切り絵の館。
重い扉を押し開けると、中は、吹き抜けの大広間になっていた。白い壁一面に、黒い切り絵が貼りつけられている。コウモリ、猫、フクロウ、鎧を着た騎士、うねる蔓草。どれも、今にも動きだしそうなほど細かく切り抜かれていた。
そして、館のどこか奥のほうから、音が聞こえていた。
しゃきん。
しゃきん。
モモイ「……ハサミの音だ」
アリス「台本どおりなら、ここのボスは、ハサミの魔女です」
ネルが壁の切り絵をにらみつけた。
ネル「おい。今、そこのコウモリ、動かなかったか」
次の瞬間、壁のコウモリが、ばさりと羽ばたいた。
切り絵のコウモリが、壁から剥がれ、宙に舞い上がった。それを合図にしたように、壁じゅうの切り絵が、いっせいに動きだした。猫が背中を丸めて跳びおり、フクロウが首を回し、騎士が紙の剣を抜いて、ずしん、と床に降り立つ。
ネル「上等だ!」
ネルの二丁のサブマシンガンが、火を噴いた。弾丸がコウモリを撃ち抜き、猫を撃ち抜き、騎士の胸に穴を開けた。
けれど、紙の魔物たちは、止まらなかった。穴の開いたまま、ひらひらと、ひらひらと、こちらに向かってくる。
ネル「くそっ、紙だから、撃っても穴が開くだけかよ!」
アリス「物理攻撃が効きにくい敵です!」
モモイ「ちょ、ちょっと、私、丸腰なんだけど! うわっ、こっち来た!」
紙の猫がモモイの顔に飛びかかった。モモイは、とっさにそれを両手でつかまえた。猫は、モモイの手の中で、じたばたともがいている。
モモイは、その猫を、まじまじと見つめた。
モモイ「……あれ?」
アリス「モモイ、危ないです!」
モモイ「待って。この猫……」
モモイの目が、猫の顔に吸い寄せられていた。切り抜かれた目の中に、小さな穴が、二つ開いていた。光を表すための、小さな、小さな穴。
モモイ「ミドリはね、目を描くとき、いっつも最後に小さい光を二つ入れるの。右上に大きいのと、その下に小さいの。癖なんだよ。何回言っても、絶対に二つ入れるの」
モモイは館の壁を見回した。宙を舞うコウモリを見た。床を踏みしめる騎士を見た。どの目にも、同じ場所に同じ大きさの、二つの光が切り抜かれていた。
モモイ「この線……ミドリの絵だ」
ネル「は?」
モモイ「間違いないよ。私が一番知ってる。毎日、隣で見てるんだから」
そのとき、大広間の正面の階段の上で、しゃきん、と大きな音がした。
階段の踊り場に、一人の人影が立っていた。
黒い、裾の長いドレス。顔の上半分を隠す、黒い紙の仮面。そして、その手には、持ち主の背丈ほどもある巨大な銀色のハサミが握られていた。
ハサミの魔女「ようこそ、勇者さま」
静かな声だった。
ハサミの魔女「ここから先へは通しません。ちょきん、と、切って差しあげます」
魔女が、ハサミを開いて、閉じた。
しゃきん、と鳴った瞬間、壁の切り絵がまた何枚も剥がれ落ちて、新しい魔物になった。
モモイ「ミドリ!」
モモイが叫んだ。
モモイ「ミドリでしょ!? 私だよ! お姉ちゃんだよ!」
ハサミの魔女「……お姉ちゃん、うるさい」
広間が、一瞬、静まりかえった。
魔女自身も、驚いたように、自分の口元に手をやっていた。
ハサミの魔女「……今の、は……台本に……ない……」
アリス「今のはいつものミドリです!」
ネル「確定だな、こりゃ」
魔女は頭を振った。仮面の奥の目がぎゅっと閉じられる。
ハサミの魔女「ちがう……。わたしはハサミの魔女……。勇者を、ここで、切る……。そういう、役……」
魔女が階段を蹴った。
巨大なハサミが、大きく開いて、アリスに向かって振り下ろされた。
ネルが間に飛びこんだ。交差させた二丁の銃で、ハサミの刃を受けとめる。耳をつんざくような金属音が響いて、火花が散った。
ネル「ぐっ……! 細っこい腕の、どこにこんな力があんだよ……!」
ハサミの魔女「どいて……ください……」
ネル「どくかよ!」
そのすきに、モモイが走った。
スリッパを片方、階段の途中に脱ぎ飛ばしながら、魔女のすぐそばまで駆け上がる。
アリス「モモイ! 危ないです!」
モモイ「ミドリ!」
モモイは、魔女の腕に、しがみついた。
魔女の動きが止まった。ハサミが、ネルの銃から、ゆっくりと離れていく。
モモイ「ミドリ、帰ろう。こんなの、ミドリの役じゃないでしょ。ミドリのハサミは、紙を切って、きれいな形にするためのものでしょ。人を切るためのものじゃないでしょ」
ハサミの魔女「……おねえ、ちゃん……」
モモイ「ミドリの絵はね、誰かを怖がらせるためのものじゃないんだよ。私が書いたへんてこなシナリオを、いっつもいっつも、ちゃんとかっこよくしてくれる絵なんだよ。私、知ってるもん。ずっと、隣で見てたんだもん」
仮面の下から、一筋、涙がこぼれた。
けれど、魔女の手は、まだハサミを握りしめたままだった。指が白くなるほど強く。まるで、台本が、その手を放させまいとしているかのように。
アリスはペンダントを握った。澄んだガラス玉は残り二つ。
モモイの言葉が頭の中に残っていた。ミドリのハサミは、きれいな形にするためのもの。
アリス「ヘンナ・モンダネ!」
アリスはペンダントを高く掲げた。
アリス「ハサミを絵筆に変えてください!」
ガラス玉のひとつが緑色に光った。
光は、魔女の手の中の巨大なハサミに吸いこまれていった。銀色の刃が、やわらかくしなり、ほどけていく。二枚の刃は一本の長い柄になり、刃先はふわりと広がって、やわらかな毛の穂先に変わった。
魔女の手の中に残ったのは、背丈ほどもある、大きな絵筆だった。
その瞬間、広間を飛び回っていた紙の魔物たちが、いっせいに動きを止めた。コウモリも猫もフクロウも騎士も、ひらひらと舞い落ちて、白い壁にぴたりと貼りついた。
壁に戻った切り絵はもう魔物には見えなかった。月夜の森で遊ぶ猫とフクロウとコウモリと、それを見守る騎士の、一枚の大きな絵になっていた。
ネル「……へえ」
ネルが、思わずといったふうに声を漏らした。
アリス「きれいです」
黒い紙の仮面がはらりと落ちた。
その下にあったのは、涙で濡れた、ミドリの顔だった。ミドリは、目を閉じたまま、ゆっくりとモモイの腕の中に倒れこんだ。
アリスは、リュックからミドリの人形を取り出した。人形は、緑色の光を、やさしく灯していた。
アリス「ミドリ。帰ってきてください」
人形を胸の上に置くと、光は、すうっとミドリの体に溶けていった。
ミドリのまぶたが、ゆっくりと開いた。最初に映ったのは、真上からのぞきこんでいる、モモイの顔だった。
ミドリ「……お姉ちゃん?」
モモイ「ミドリ……」
ミドリ「なんで、泣いてるの」
モモイ「な、泣いてないし!」
モモイは、ぐしぐしと袖で顔をこすった。こすっても、こすっても、涙は止まらなかった。
ミドリ「……泣いてるじゃん」
ミドリは少しだけ笑った。それから、自分も、ぽろぽろと泣きだした。
二人は階段の踊り場で、くっついたまま、しばらく泣いていた。
アリスとネルは、階段の下で、それを黙って見上げていた。
しばらくして、アリスの通信機から、先生の声がした。
先生『……ミドリ、聞こえる?』
ミドリは、涙をぬぐいながら、アリスから通信機を受け取った。
ミドリ「先生……。うん、聞こえる」
先生『おかえり、ミドリ』
ミドリ「……ただいま、って言うのは、まだちょっと早いかな」
先生『そうだね。じゃあ、続きは、こっちに帰ってきてから聞かせて。ちゃんと待ってるから』
ミドリ「うん」
ミドリは通信機をアリスに返すと、大きな絵筆をしっかりと握り直した。
ひとしきり泣いたあと、ミドリは階段に腰かけたまま、手の中の大きな絵筆を不思議そうにくるくると回した。
ミドリ「これ、私のハサミだったんだよね」
アリス「はい。ペンダントの力で、絵筆にしました」
ミドリ「……なんか、こっちのほうが、しっくりくるかも」
ミドリは、筆の穂先を、そっと指でなでた。やわらかい毛が指のあいだをくすぐった。
ミドリ「ねえ、アリスちゃん。私、役をやらされてるあいだ、頭の中に台本が流れてたの。全部じゃないけど、少しだけ、覚えてることがある」
アリス「教えてください。情報は攻略の鍵です」
ミドリ「まず、お城の中のこと。お城の中では、銃も魔法も使えないんだって。争いごとは、全部、遊びで決めるっていう決まりなの」
ネル「やっぱりか」
アリス「城の外でしたら、と言っていました。ホシノの言ったとおりです」
ミドリ「それから、台本の、一番最後のページ。そこだけ、真っ白だった気がする。そして、って一言だけ書いてあって、その続きが何もなかった」
アリス「エンディングがまだ書かれていない……」
モモイ「それ、私が言ってたやつじゃん! 勇者が、自分でエンディングを書くの!」
ミドリ「お姉ちゃんの思いつきが当たることって、あるんだね」
モモイ「どういう意味!?」
ミドリは少しだけ笑った。それから、急に真顔になって、アリスを見た。
ミドリ「それとね、アリスちゃん。もうひとつ。雪だるまの役のこと」
アリス「雪だるま……」
ミドリ「あれ、ユズちゃんだよ」
アリスの体が固まった。
アリス「……部室に来た、雪だるまも、ですか」
ミドリ「うん。台本に、そう書いてあった。勇者からペンダントを奪え、って。それで、ユズちゃんの体が、部室まで行かされたの」
アリスの手が、胸元のペンダントを握りしめた。
あの夜。にゅ、入部、希望、です、とつぶやいた、くぐもった小さな声。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も繰り返しながら、窓から転がり出ていった、白い背中。
アリス「アリスは……ユズを、追い払ってしまったんですか」
声がかすれた。
アリス「炎の魔法で、ユズを、溶かそうとしたんですか」
ミドリ「アリスちゃん……」
アリス「ユズは、ずっと、ごめんなさいと言っていました。アリスは、それなのに……」
ミドリ「でもね、アリスちゃん。ユズちゃん、あのとき、入部希望です、って言ったでしょ」
ミドリは、アリスの手に、そっと自分の手を重ねた。
ミドリ「台本には、そんなセリフ、なかったんだよ。ペンダントを渡してください、だけだった。入部希望っていうのは、ユズちゃんが、自分で言ったの」
アリス「ユズが自分で……」
ミドリ「台本に体を動かされてても、ユズちゃん、ゲーム開発部に来たかったんだと思う。だから、部室の扉をノックしたんだよ」
アリスは、黙って、ペンダントを見下ろした。澄んだガラス玉は残りひとつ。
それから、顔を上げた。
アリス「では、迎えに行きます。ユズを」
モモイ「うん!」
ネル「最初から、そのつもりだろうが」
アリスは、すっと背筋を伸ばして、両手を上げた。
アリス「ミドリが仲間になりました! パンパカパーン!」
ミドリ「……なんか、これ、照れるね」
モモイ「でしょ? でも、ちょっとうれしいでしょ?」
ミドリ「……ちょっとだけね」
そのころ、変なもんランドの正門の前では、先生がじっと通信機を握りしめていた。
砂漠の夜風は冷たかった。けれど、先生は、上着を羽織るのも忘れていた。
ユウカ「先生。座ってください。立ったままだと、倒れますよ」
先生「うん……」
ユウカ「さっきから、うん、しか言ってません」
ユウカは、ため息をついて、先生の肩に毛布をかけた。腕時計を見る。
ユウカ「現在、午前二時五十八分。日の出まで、残り二時間五十分です。モモイも、ミドリも、取り戻せました。残りはユズだけです」
先生「うん。わかってる」
ユウカは、自分の分の毛布を膝にかけて、先生の隣に腰を下ろした。しばらく、何も言わなかった。
ユウカ「……私、あの日、経費では落ちません、としか言えなかったんです」
先生「ユウカ」
ユウカ「人形を買うのを止めていれば、こんなことにはならなかったのに」
先生「ユウカが止めても、モモイたちは、きっと買ってたと思うよ。自腹の思い出なんだって、あんなに張り切ってたからね」
先生はユウカのほうを向いた。
先生「それに、あの日、ユウカが一緒にいてくれたから、みんなは安心して遊べたんだと思う。私もそうだったよ」
ユウカ「……先生はずるいです」
ユウカは、毛布に顔をうずめるようにして、小さくつぶやいた。
砂を踏む音がして、シロコとノノミとセリカが戻ってきた。三人とも、服のあちこちが砂と煤で汚れている。
シロコ「ん、警備ロボット、二百十二体。全部片づいた」
ノノミ「数えていたんですね、シロコちゃん……」
セリカ「アリスたちは!? まだなの!?」
アヤネ「今、西の区画に向かっています。ドローンで見ると、西側は全部凍りついているみたいです」
ホシノが先生の隣に立った。盾を地面に突き立てて、その上にあごを乗せる。
ホシノ「先生、顔が怖いよ~」
先生「……信じるって決めたのに、待つのは、こんなに難しいんだね」
先生は、門の向こうの黒い城を見上げた。
ホシノ「それが、大人の仕事なんじゃない?」
先生「そうかもしれないね」
ホシノ「大丈夫だよ。あの子たちはちゃんと帰ってくる。先生が待ってるんだからさ」
ホシノはふにゃりと笑った。先生も、ほんの少しだけ、笑い返した。
西の区画は一面の氷に閉ざされていた。
かつてはにぎやかなゲームセンターだったのだろう。何十台ものゲーム機が、分厚い氷の中に閉じこめられていた。氷の奥で、画面だけがまだ光っていて、デモ画面のキャラクターたちが、音もなく動き続けている。
吐く息が真っ白だった。
モモイ「さ、寒っ! パジャマで来るとこじゃないって、ここ!」
ミドリ「お姉ちゃん、スリッパ片方なくしたもんね……」
ネル「ほら」
ネルが、自分の上着を脱いで、モモイの頭からばさりとかぶせた。
モモイ「え、ネル先輩……」
ネル「ガタガタ震えられると、うるせえんだよ」
氷のゲームセンターの一番奥に、細い橋がかかっていた。橋の向こうには、黒い城の門が、すぐそこに見えている。
そして、橋の手前に一台だけ、凍っていないゲーム機があった。
その前に、雪だるまが座っていた。
まんまるな白い胴体を、さらに小さく丸めて、膝を抱えるようにうずくまっている。頭のバケツは、目の下まで深くかぶられていた。部室で見たときよりも、ずっと、小さく見えた。
雪だるま「こ……ここは……通せません……」
かすれた、小さな声だった。
ネル「どけ」
アリス「待ってください、ネル先輩」
アリスは一歩前に出た。
アリス「あれはユズです」
ネルがぐっと言葉をのみこんだ。
アリスはペンダントを見下ろした。澄んだガラス玉が、ひとつだけ、凍えるような空気の中で光っている。
最後のひとつ。切り札にとっておきなさい、とおじさんは言った。
アリスはペンダントから手を離した。
アリス「最後のひとつは切り札です。それに、ユズに、魔法はいりません」
モモイ「アリス……?」
アリスは、雪だるまの前まで歩いていった。雪だるまがびくりと体を縮める。
雪だるま「だ、台本では……ゆ、勇者を、ここで凍らせる……って……」
アリス「では、勝負です」
雪だるま「……え?」
アリス「ゲームで、勝負です。アリスが勝ったら、ここを通してください」
アリスは、雪だるまの隣にある、凍っていないゲーム機を指さした。格闘ゲームの筐体だった。画面の中で、デモ画面のキャラクターが、くるくると技を繰り出している。
雪だるまの、炭でできた目が、きらりと光った気がした。
雪だるま「……げ、ゲームで、勝負……」
雪だるまはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、筐体の前の椅子に座り直した。枝の腕が、レバーとボタンの上に、驚くほど自然に置かれた。
雪だるま「……い、いいでしょう。ここでは、わたしが、最強です」
ミドリ「あ、今の、完全にユズちゃんだ」
モモイ「UZQueenモードだ……」
一戦目。アリスは全力で戦った。
画面の端に、雪だるまの使うキャラクターの体力ゲージが、ぴくりとも減らないまま表示されていた。アリスのキャラクターは、ほとんど何もできないまま、画面の外まで吹き飛ばされた。
アリス「……負けました。パーフェクト負けです」
モモイ「次、私!」
二戦目。モモイは十五秒で負けた。
ミドリ「じゃあ、私……」
三戦目。ミドリは十二秒で負けた。
ネル「どけ。あたしがやる」
四戦目。ネルは八秒で負けた。
ネル「なんでだよ!!」
モモイ「ネル先輩、一番早く負けてる……」
ネル「うるせえ! もう一回だ!」
ミドリ「ネル先輩、目的、忘れてません……?」
雪だるまは、筐体の前で、少しだけ胸を張っているように見えた。
アリスは、もう一度、椅子に座った。コインを入れる。キャラクターを選ぶ。
アリス「ユズ。もう一戦、お願いします」
雪だるま「な、何回やっても、同じです……」
アリス「はい。でも、お話ししながら、やりたいです」
ラウンドが始まった。
アリスはレバーを動かしながら、画面を見たまま話しはじめた。
アリス「ユズ。あの夜、入部希望です、と言いましたね」
雪だるまの指が、ほんの一瞬、止まった。
アリス「アリスは、とても、うれしかったです。新しい仲間が来てくれたと思いました。ゲーム開発部は、ずっと、部員を募集していたので」
雪だるま「……」
アリス「でも、ユズは、入部希望者ではありません」
アリスのキャラクターが、雪だるまのキャラクターの攻撃をかわした。
アリス「ユズは部長です」
雪だるまの手が止まった。
アリス「ユズがいないと、ゲーム開発部は、ゲームを作れません。モモイのシナリオも、ミドリの絵も、ユズのプログラムがないと、動きません。アリスがテストプレイをするゲームも、ありません」
雪だるま「……わ、わたし……」
アリス「それに、アリスはユズとゲームをするのが大好きです。何回負けても、もう一回やりたくなります。ネル先輩と、同じです」
ネル「あたしを引き合いに出すな」
画面の中で、アリスのキャラクターの攻撃が、雪だるまのキャラクターに当たった。一発、また一発。雪だるまの手は、レバーの上で止まったまま、動かなかった。
雪だるま「……わたし、ここにいれば、誰にも見られないって思ったんです」
ぽつり、と声がこぼれた。
雪だるま「台本が言ったんです。雪だるまの中は、あったかくはないけど、ロッカーみたいに狭くて暗くて、ずっと隠れていられるって。誰にも見られないで、誰にも話しかけられないで、ずっと……」
アリス「ユズ」
雪だるま「でも、わたし……アリスを凍らせようとした。ペンダントを取ろうとした。大事なものだって、言ってたのに……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」
アリス「アリスもユズを溶かしかけました。おあいこです」
雪だるま「お、おあいこ……」
アリス「ここは寒いです。帰りましょう、ユズ」
アリスは、画面から目を離して、雪だるまのほうを向いた。
アリス「隠れていても、いいです。ロッカーなら、部室にあります。でも、隠れるなら、アリスたちのそばに隠れてください。そうしたら、アリスたちはロッカーの扉の前で、ずっと待っています」
画面の中で、雪だるまのキャラクターの体力ゲージが、ゼロになった。
勝者の名前が大きく表示された。
アリスは、ちらりと画面を見て、首を横に振った。
アリス「今のはノーカウントです。ユズの手が止まっていたので。だから、次は部室で、ちゃんと勝負しましょう」
雪だるまの、炭の目から、ぽたりと水が落ちた。
ぽたり、ぽたりと、雪だるまの全身からしずくが落ちはじめた。魔法の炎ではなかった。雪だるまの内側から、あたたかいものが少しずつにじみだして、白い体をとかしていくようだった。
バケツがずるりと滑り落ちた。
にんじんの鼻がぽとりと床に落ちた。
白い殻が、まるでロッカーの扉が開くように、真ん中からぱかりと割れた。
その中に、パジャマ姿のユズが膝を抱えて、目を閉じていた。
アリス「ユズ!」
ネルが、すぐに駆け寄って、ユズの体を抱き起こした。氷のように冷たかった。モモイが、かぶっていたネルの上着を、ためらいなくユズにかぶせた。
アリスは、リュックから、最後の人形を取り出した。ユズの人形は、淡い、やさしい光を灯していた。
アリス「ユズ。帰ってきてください」
人形を胸の上に置くと、光は、静かにユズの体に溶けていった。
ユズのまつげがふるりと震えた。
ユズ「……あ……アリス……?」
アリス「はい。アリスです」
ユズ「わ、わたし……。あ、あの……ご、ごめんなさ……」
アリス「入部希望、受理します!」
ユズ「……え?」
アリス「……あっ。ユズは部長でした」
一瞬の沈黙のあと、モモイが噴き出した。ミドリが肩を震わせて笑いだした。ネルまでが、顔をそむけて、くっくっと喉を鳴らしていた。
ユズはきょとんとしていた。それから、泣きながら、少しだけ笑った。
ユズ「……は、はい。部長、です……」
アリス「ユズが仲間になりました! パンパカパーン!」
アリスは両手を高く上げた。
アリス「パーティーが、全員、そろいました!」
その声に応えるように、氷のゲームセンターの奥で、重い音が響いた。
橋の向こうの、黒い城の門が、ゆっくりと開いていく。
園内のスピーカーから、あの静かな声が流れた。
黒服『お見事です、勇者。それでは、最終幕へどうぞ』
五人は細い橋を渡った。
城の門をくぐると、そこは、劇場のような大広間だった。
足元には赤い絨毯がまっすぐに伸び、天井からは、いくつものシャンデリアが下がっている。左右の壁には、二階、三階とバルコニー席が重なり、そのすべての席に、笑った顔の仮面をつけたロボットたちが座っていた。正面の壁のずっと高いところには、巨大な時計の文字盤がはめこまれていて、針は午前三時二十分を指していた。
モモイ「うわあ……ラスボスの部屋だ……」
ミドリ「お姉ちゃん、声が震えてる」
モモイ「震えてない! 寒いだけ!」
広間の奥に、スポットライトが落ちた。
光の輪の中に、二つの影が立っていた。
一人は黒い服を着た男だった。顔のあるべき場所には、闇と、ひび割れのような光の筋しかない。いつもの黒いスーツの上に、黒いマントを羽織っている。そして、その頭の上には、先のとがった大きな黒い帽子がのっていた。
どこからどう見ても、魔女の帽子だった。
もう一人は首のないコートの男だった。同じように黒いマントを羽織り、両手で一枚の額縁を掲げている。額縁の上の縁には、小さな魔女の帽子がちょこんとのせられていた。額縁の中の紳士の後ろ姿は、なぜかシルクハットの部分だけが、とがった魔女の帽子に描き直されていた。
ネル「……なんだ、その格好」
黒服「台本に、城の主は魔女の二人組である、と書かれておりますので。役は演じねばなりません」
ネル「似合ってねえ」
黒服「……存じております」
モモイ「(ちょっと似合ってるかも)」
ミドリ「(お姉ちゃん!)」
黒服は、帽子のつばにそっと指を添えると、優雅に一礼した。
黒服「はじめまして、勇者。私はこの園の支配人です。皆様からは黒服と呼ばれております」
ゴルコンダ「そして我らはその相棒にございます。かような姿で失礼いたしますが、どうぞお見知りおきを」
デカルコマニー「そういうこった!」
ゴルコンダ「なお、この帽子は、描き直されてしまいましてな。私の意思では、ございません」
アリスは一歩前に出た。リュックの肩ひもをぎゅっと握りしめている。
アリス「みんなを人形にしたのはあなたですか」
黒服「人形を作ったのは人形師です。役を与えたのは台本です。私は場を用意したにすぎません」
ネル「屁理屈こねてんじゃねえぞ」
黒服「クックック……」
アリス「人形師のおじさんを、狼にしたのも、あなたですね」
黒服「彼とは契約を交わしました。人形を作っていただく代わりに、店をもう一度開くための資金をお渡しする、と。その契約には、園の秘密を守ることも含まれておりました。破れば、役に戻る。それだけのことです」
アリス「それはずるいです」
黒服「ええ。ずるいことはいたします」
黒服は、ひび割れのような光を、わずかに揺らした。
黒服「ですが、嘘は、ついておりません」
アリスは唇を引き結んだ。ホシノの言葉が耳の奥でよみがえる。黒服は、ずるいことはしても、嘘はつかない。
黒服「さて。この城の決まりはもうご存じでしょう。この城の中では、銃も、魔法も、神秘も、等しく沈黙します」
ネルが黒服に銃口を向けた。引き金に指をかける。
何も起きなかった。引き金は、まるで石になってしまったかのように、ぴくりとも動かなかった。
ネル「……本当に、撃てねえ」
アリスも、背中のスーパーノヴァに手を触れた。いつもなら、かすかに唸っているはずの動力の音が、まったく聞こえなかった。側面のランプはすべて暗く沈んでいた。
黒服「争いごとはすべて遊戯で決める。それが、この城の決まりです。遊戯は三番勝負。舞踏と、ババ抜きと、鬼ごっこ。あなた方が勝ち越せば、城の最上階への道をお開けしましょう」
アリス「最上階には何があるのですか」
黒服「この物語の、台本が」
アリスはミドリと目を合わせた。ミドリが小さくうなずく。
最後のページが真っ白な台本。
アリス「受けて立ちます」
黒服「結構」
黒服が指を鳴らすと、広間の床が、ごうん、と回りはじめた。赤い絨毯が巻き取られ、その下から、つややかな黒と白の床が現れる。バルコニー席の上には、巨大な針のついたメーターが下りてきた。拍手の大きさを測るものらしかった。
黒服「第一の遊戯、舞踏。観客の拍手が大きかったほうの勝ちです。まずは我々から」
どこからともなく、ワルツが流れはじめた。
黒服と、デカルコマニーが、向かい合って一礼した。そして、踊りだした。
ぎこちない踊りだろうと、誰もが思った。けれど、それは、妙に優雅だった。黒服の足運びは、寸分の狂いもなく正確だった。顔がないので、表情はまったく変わらない。とがった帽子だけが、ターンのたびに、ゆらりと揺れた。デカルコマニーは、額縁を高く掲げたまま、くるくると回った。
ゴルコンダ「おお……おお、目が回りますな……。相棒、もう少し、ゆるやかに……」
デカルコマニー「そういうこった!」
ゴルコンダ「そういうことでは、ございませんぞ……!」
曲が終わると、バルコニー席のロボットたちが、きっちりと揃った拍手を送った。メーターの針が、ぐんぐん上がっていき、七十のところで止まった。
黒服「では、勇者の皆様。どうぞ」
モモイ「ど、どうしよう! 私、ダンスなんてやったことないよ!」
ミドリ「私も……」
ネル「あたしは踊らねえからな」
アリス「アリスもダンスは……。勇者の剣の舞なら、できますが」
そのとき、ユズがネルの上着の裾から、おずおずと手を挙げた。
ユズ「あ、あの……」
アリス「ユズ?」
ユズ「り、リズムゲームなら……わ、わたし、ほとんどの曲でフルコンボ、です……」
四人がいっせいにユズを見た。
ユズ「お、音を聞いて、拍を数えて、その通りに体を動かせば……。ダンスも、たぶん同じ、です……」
モモイ「ユズ、天才!」
ミドリ「ユズちゃん、指示出して!」
ユズ「は、はい……!」
曲が変わった。今度は、弾むような、速いテンポの曲だった。
ユズは、ぎゅっと目を閉じて、拍に耳をすませた。それから、目を開けた。いつもの、おどおどした目ではなかった。ゲームの画面に向かうときの、まっすぐな目だった。
ユズ「右、左、右、ターン! 次、二拍休んで、跳んで!」
ユズの声に合わせて、四人が動いた。
モモイは、元気がありあまったように、手足をめちゃくちゃに振り回した。めちゃくちゃなのに、なぜか拍だけはぴたりと合っていた。ミドリはその横で、すらりと腕を伸ばして、くるりと回った。アリスは背中のスーパーノヴァを剣のように掲げて、勇者の決めポーズを拍のたびにひとつずつ決めていった。
バルコニー席から、ぱらぱらと拍手が起こりはじめた。
ユズ「次、全員で、同じ動き……! でも、一人、足りない……」
全員の目が、壁際で腕を組んでいるネルに向いた。
ネル「……踊らねえって、言っただろ」
アリス「ネル先輩。パーティー全員でないと、勝てません」
ネル「ぐっ……」
モモイ「ネル先輩、お願い!」
ミドリ「お願いします!」
ユズ「お、お願い、します……!」
ネルは、しばらく、四人の顔を順番ににらみつけていた。
それから、耳まで真っ赤になって、床を蹴った。
ネル「……一回だけだからな!」
ネルが輪の中に飛びこんだ。
その動きは、ダンスというより、戦いだった。鋭く、速く、無駄がない。足払いのような回し蹴りが拍の頭にぴたりと決まる。宙返りから着地した瞬間、曲が、最後の一音を鳴らした。
五人が、同時に、決めポーズを取った。
一瞬の静けさのあと、バルコニー席が、爆発したような拍手に包まれた。ロボットたちが、立ち上がって手を叩いている。笑った顔の仮面が、心なしか、本当に笑っているように見えた。メーターの針が振り切れるほどの勢いで跳ね上がり、百のところで、かちんと止まった。
バルコニー席のあちこちから、アンコール、アンコール、という合成音声が上がりはじめた。
ネル「アンコールなんか、やらねえからな!」
モモイ「やったー! 勝ったー!」
ユズ「ふ、フルコンボ……です……」
アリス「ネル先輩、かっこよかったです。C&Cのダンス部門も、作れそうです」
ネル「作らねえよ! 二度とやらねえからな!」
ミドリ「でも、耳まで真っ赤ですよ、ネル先輩」
ネル「うるせえ!」
黒服「……ふむ。我々の負けのようですね」
ゴルコンダ「致し方ありませんな。若さという記号には勝てませぬ」
デカルコマニー「そういうこった!」
黒服がもう一度指を鳴らした。床が回り、今度は広間の真ん中に、大きな丸いテーブルが現れた。テーブルの上には、一組のトランプが置かれている。
黒服「第二の遊戯、ババ抜き。最後にジョーカーを持っていた側の負けです」
七人がテーブルを囲んで座った。黒服と、デカルコマニーと、五人。額縁は、デカルコマニーの膝の上に立てかけられた。
カードが配られると、すぐに、問題がひとつ明らかになった。
デカルコマニーには頭がなかった。だから、カードを持っても、自分の手札が見えなかった。デカルコマニーは少し考えるように首のあたりを傾けてから、手札をくるりと外側に向けて持ち直した。
ネル「おい。こいつの札、丸見えだぞ」
ゴルコンダ「それが、我が相棒の、唯一の弱点でしてな」
デカルコマニー「そういうこった!」
モモイ「堂々としすぎでしょ!」
一方で、黒服には、顔がなかった。カードを引いても引かれても、ひび割れのような光はまったく揺らがなかった。何を持っているのか、まるでわからない。
ミドリ「こっちは、逆に、何も読めない……」
そして、勇者側には、また別の問題があった。
アリス「アリスは、今、ジョーカーを持っています」
四人「言うな!」
アリス「あっ」
モモイ「あっ、今、顔のひびがちょっと光った! ジョーカー持ってるでしょ!」
黒服「これは、シャンデリアの照明の反射です」
モモイ「ほんとに!?」
黒服「私は嘘はつきませんので」
ネル「……見えてる札を引くのは、なんか、ずるしてる気分になるな」
ゴルコンダ「お気遣いなく。相棒は、まったく気にしておりませぬ」
デカルコマニー「そういうこった!」
モモイは、ジョーカーを引くたびに「う゛っ」と声を漏らした。ネルは、ジョーカーを引いた瞬間に、テーブルを叩き割りそうな顔をした。ミドリとユズはまだましだったけれど、ユズはカードで顔を隠しすぎて、何も見えなくなっていた。
一人、また一人と、手札がなくなっていった。最初に上がったのはデカルコマニーで、ゴルコンダが「全員が気を遣って、相棒からジョーカーを引かぬように避けてくださったおかげですな」と、しみじみ言った。続いて、ミドリが上がり、ユズが上がり、ネルが上がり、モモイが上がった。
最後に残ったのは、アリスと、黒服だった。
アリスの手には二枚。黒服の手には一枚。
黒服「では、引かせていただきます」
黒服の指が、アリスの手札の上で、ゆっくりと左右に揺れた。
アリスは、精いっぱい、顔に力を入れた。何も考えないように。何も顔に出ないように。
黒服の指が右のカードの上で止まった。アリスの眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。
黒服は左のカードを引いた。
黒服「上がりです」
アリスの手の中に、一枚だけ残っていた。
ジョーカーだった。
モモイ「あー!」
ネル「くそっ……!」
黒服「これで、一勝一敗。勝負は最終遊戯に持ち越しですね」
アリスは、手の中のジョーカーを見つめていた。
悔しかった。けれど、それとは別に、何かが気になっていた。
ジョーカーのカードには道化師の絵が描かれていた。とんがり帽子をかぶって片足で立ち、人差し指をまっすぐ上に向けている。手描きの絵だった。
ミドリ「アリスちゃん、ちょっと、見せて」
ミドリが、アリスの肩越しに、カードをのぞきこんだ。そして、小さく息をのんだ。
ミドリ「この絵……私たちの人形の顔と、同じ筆づかいだ」
アリス「おじさんの、絵ですか」
ミドリ「たぶん。線の入り方と、色の重ね方が、そっくりなの」
アリスはカードを顔に近づけた。
道化師の、だぶだぶの袖のふち。そこに、模様のふりをして、とても小さな文字が書きこまれていた。
とけいとうの、だいほんに、おしまいと。
アリス「……!」
アリスは、顔を上げかけて、ぐっとこらえた。そして、ジョーカーを、そっとポケットにしまった。
黒服のひび割れのような光が、一瞬だけ、アリスのポケットのほうへ向いた気がした。けれど、黒服は、何も言わなかった。
黒服「では、最終遊戯。鬼ごっこです」
黒服は、立ち上がって、とがった帽子をかぶり直した。
黒服「我々が鬼を務めましょう。百を数えたら、追いかけます。夜明けまでに勇者がこの城の最上階、時計塔のてっぺんまで辿り着けば、あなた方の勝ち。勇者が捕まれば、我々の勝ち」
アリス「捕まったら、どうなりますか」
黒服「そのときは、勇者にもこの園の役をひとつ、お引き受けいただきます。夜明けとともに、お仲間の方々の、お隣で」
四人の顔がこわばった。
アリスだけはまっすぐに黒服を見ていた。
アリス「勇者が捕まったら、ですね」
黒服「ええ。お仲間の方々は、いくら捕まえても意味がありませんので、捕まえません」
ネル「……なめやがって」
アリス「わかりました。受けて立ちます」
黒服は、ゆっくりと、大きな時計の文字盤のほうを向いた。そして、静かに、数えはじめた。
黒服「いち。に。さん……」
アリス「みんな、行きます!」
五人はいっせいに走りだした。
広間を飛び出すと、目の前に、大きな階段が伸びていた。
五人はその階段を駆け上がった。踊り場を曲がり、また駆け上がる。背後から、黒服の数える声が、どこまでも追いかけてきた。広い城の中に反響して、すぐ耳元で数えられているように聞こえる。
黒服『……三十。三十一。三十二……』
モモイ「ねえ、これ、どっちに行けばいいの!?」
アリス「上です! 時計塔は、城の一番高いところにあります!」
階段を上りきると、長い廊下が左右に分かれていた。壁には燭台が並び、赤い絨毯がどこまでも続いている。どちらの廊下の先にもまた別の階段が見えた。
ミドリ「どっちも上に行けそうだけど……」
ネル「ちっ、迷路かよ」
アリスは通信機に手を当てた。
アリス「アヤネ、聞こえますか。時計塔はどちらですか」
返ってきたのは、ざらざらとした雑音だけだった。城の中までは、電波が届かないらしい。
アリス「……ここからはアリスたちだけです」
黒服『……九十八。九十九。百』
数える声がぴたりと止まった。
城の中がしんと静まりかえった。
黒服『では、参ります』
次の瞬間、階段の下から、足音が聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ、こつ。
規則正しい、落ち着いた足音だった。それなのに、その足音は、信じられない速さで近づいてきていた。
ユズ「き、来ます……!」
階段の下の踊り場に、黒服が姿を現した。
背筋をぴんと伸ばし、両腕を体の脇にぴたりとつけたまま、黒服は走っていた。いや、走っているようには見えなかった。上半身はまったく揺れていないのに、足だけが、目にもとまらない速さで動いている。とがった帽子は少しも傾かず、マントだけが、ばさばさと音を立ててはためいていた。
黒服「待ちなさい」
静かな声だった。
モモイ「怖っ! 怖い怖い怖い! これ、先生が言ってたやつだ!」
黒服「待ちなさい」
アリス「怖いです! でも、ちょっとだけ、面白いです!」
ユズ「わ、笑えません……!」
ネル「いいから走れ!」
五人は右の廊下へ駆けこんだ。
そのとき、左の廊下の奥からも、別の足音が聞こえてきた。どたどたと騒がしい、大きな足音だった。
デカルコマニー「そういうこった!」
ゴルコンダ「相棒、前が、前が見えておりませんぞ! そもそも見る頭がございませんがな!」
ミドリ「あっちも、待ちなさいって言うのかな……」
ゴルコンダ「言いませんとも。待てと言われて待つ者など、テクストの中にも、現実にもおりませんからな!」
デカルコマニー「そういうこった!」
額縁を高々と掲げたデカルコマニーが、左の廊下から、まっすぐこちらに突進してくる。
ミドリ「挟み撃ち!?」
モモイ「アリス、先に行って!」
モモイが急に立ち止まった。
モモイ「私が囮になる! あいつらが捕まえたいのは、勇者だけなんでしょ! だったら、勇者っぽくすればいいんだよ!」
アリス「モモイ……」
モモイ「早く!」
ユズが、はっとしたように顔を上げて、モモイのそばに寄った。
ユズ「わ、わたしも、モモイと行きます……!」
モモイはくるりと向きを変えると、廊下の分かれ道を、アリスたちとは反対の方向へ走りだした。そして、思いきり息を吸いこんだ。
モモイ「パンパカパーン! アリスはこっちでーす!」
アリスそっくりの、元気いっぱいの声だった。
デカルコマニーの足がぴたりと止まった。額縁の中のゴルコンダが声のしたほうを振り向く。
ゴルコンダ「おや、勇者はあちらに。相棒、参りますぞ!」
デカルコマニー「そういうこった!」
デカルコマニーは、どたどたと、モモイの消えたほうへ方向を変えた。
階段を上りきった黒服は、分かれ道の真ん中で、一瞬だけ立ち止まった。
黒服「……今の声は、少々、元気がよすぎますね」
黒服は、迷わず、アリスたちの走っていったほうへ足を向けた。
ネル「こっちに来やがった!」
モモイの走っていった廊下では、デカルコマニーがどたどたと突進を続けていた。
廊下の途中に、細長い木の戸棚がひとつ、壁際に置かれていた。掃除用具入れらしかった。デカルコマニーが、その前を通りすぎようとした瞬間。
戸棚の扉が、ばん、と内側から開いた。
ゴルコンダ「なっ……」
デカルコマニーは、開いた扉に、正面から激突した。首のない体が、大きくのけぞって、ひっくり返る。手から離れた額縁が、つるつるに磨かれた床の上をくるくると回りながら、廊下の果てまで滑っていった。
ゴルコンダ「おおおおお……! 止めて、止めてくだされぇぇ……!」
戸棚の中から、ユズが、そっと顔を出した。
ユズ「ろ、ロッカーは、得意、なので……」
モモイ「ユズ、ナイス!」
廊下の向こうから戻ってきたモモイが、ユズとハイタッチを交わした。
一方、右の廊下を走るアリスたちの前には、長い回廊が続いていた。
両側の壁には、金の額縁に入った肖像画が、ずらりと並んでいる。そして、回廊の突き当たりは、行き止まりだった。白い壁があるだけで、扉も、階段も、何もない。
ネル「くそっ、行き止まりだ!」
ミドリ「……ううん。まだ」
ミドリが、背負っていた大きな絵筆を握りしめた。
ミドリ「アリスちゃん、ネル先輩。あそこの、カーテンの陰に隠れて」
アリス「ミドリは?」
ミドリ「絵を描く。急いで」
ミドリは、突き当たりの白い壁に向かって、絵筆を走らせた。
迷いのない筆さばきだった。黒、茶色、金色、と色を重ねていくたびに、壁の上に少しずつ形が浮かびあがっていく。
重い木の扉。その扉が半分だけ開いている。扉の向こうには、上へと続く螺旋階段と、その上から差しこむ、やわらかな光。
最後に、ミドリは開いた扉の隙間に、小さな影をひとつ描き加えた。今まさに、階段を駆け上がっていく、勇者の背中の影だった。
ミドリがカーテンの陰に飛びこんだのと同時に、回廊の入口に黒服が姿を現した。
黒服「待ちなさい」
黒服の顔のない顔が突き当たりを向いた。そこには、半分開いた扉と、上へ続く階段と、駆け上がっていく小さな影があった。
黒服「……そちらでしたか」
黒服は、速度を落とさないまま、扉へと突進した。
ごいん、と鈍い音が、回廊じゅうに響いた。
黒服の体が壁にぶつかって、ゆっくりとうしろへ傾いた。とがった帽子が、ぐしゃりとつぶれて、斜めにずり落ちる。
黒服「……虚像、ですか」
どこか遠くの廊下から、ゴルコンダの嘆く声が、かすかに聞こえてきた。
ゴルコンダ『虚像に欺かれるとは……我らゲマトリアの、名折れですぞ……!』
ミドリ「絵は魔法じゃないから。ルール違反じゃないよね」
カーテンの陰から、ミドリが小さくつぶやいた。アリスとネルはそのすきに、回廊の脇の小さな扉から、するりと抜けだしていた。
時計塔の螺旋階段は、細く、どこまでも上へ伸びていた。
階段の壁の向こうからは、ごうん、ごうん、と巨大な歯車の回る音が響いてくる。アリスとネルは、一段飛ばしで、それを駆け上がっていった。
けれど、下から、またあの足音が聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ、こつ。
黒服「待ちなさい」
ネル「しつけえな、あいつ!」
黒服は、帽子をかぶり直しながら、螺旋階段を上ってきていた。つぶれた帽子は、さっきよりも少しだけ、とがり具合が足りなくなっていた。
ネル「チビ。先に行け」
アリス「ネル先輩?」
ネル「あいつは勇者しか捕まえねえんだろ。だったら、あたしは捕まらねえ。ここで、通せんぼしてやる」
ネルは、階段の真ん中に仁王立ちになった。螺旋階段は狭く、人ひとりがやっと通れる幅しかない。
アリスは一瞬だけ迷った。それから、うなずいた。
アリス「お願いします、ネル先輩!」
アリスは階段を駆け上がっていった。
黒服が、ネルの目の前まで上がってきた。
黒服「お連れ様。そこをお通しいただけますか」
ネル「やなこった」
黒服が右へ動いた。ネルも右へ動いた。黒服が左へ動いた。ネルも左へ動いた。黒服が、壁を蹴って頭上を越えようとすると、ネルも同じ壁を蹴って、その前に立ちふさがった。
ネル「鬼ごっこならな、あたしは、一回も負けたことねえんだよ」
黒服「……お連れ様。勇者の邪魔をするのは反則ではありませんか」
ネル「ルールに、邪魔すんなって書いてあったか?」
黒服の動きが止まった。
黒服「……書いてはおりませんね」
ネル「だろ?」
ネルはにやりと笑った。
アリスは、螺旋階段の最後の一段を上りきった。
そこは、時計塔のてっぺんの、小さな丸い部屋だった。
頭の上では、巨大な鐘が、静かに吊り下がっている。壁の一面は時計の文字盤の裏側になっていて、外の光が文字の形にぼんやりと透けていた。東の空が、ほんのわずかに、白みはじめている。
部屋の真ん中に、書見台がひとつ、置かれていた。
その上に、分厚い本が、開かれたまま載っていた。革の表紙には、金の文字で、題名が箔押しされている。
変なもんランドの大冒険。
アリスはそっとページをめくった。
そこには、アリスたちのことが書かれていた。
勇者は、鏡の迷路で、自分の影を追って迷子になった。勇者は、人形師の小部屋で、狼と出会った。満月の森で、勇者は狼を見た。切り絵の館で、ハサミの魔女は泣いた。氷のゲームセンターで、雪だるまは膝を抱えていた。
きちんとした、きれいな字だった。アリスが体験したことの全部が、そこに、物語として並んでいた。
そして、最後のページ。
真っ白な紙の、一番上に、一言だけ書かれていた。
そして——。
その先は何も書かれていなかった。書見台の脇に、一本の羽根ペンが置かれていた。
黒服「……お見事です」
背後で、声がした。
振り返ると、部屋の入口に、黒服が立っていた。ネルが、その腕をつかんだまま、肩で息をしている。
ネル「悪い、チビ……。こいつ、手すりの外側をよじ登って、上を越えていきやがった……」
黒服「階段を上るのは、お連れ様が許してくださいませんでしたので。……手すりの外側については、何も言われておりませんでしたから」
黒服は、ネルの手をそっとほどくと、つぶれた帽子をかぶり直した。
けれど、それ以上、アリスに近づこうとはしなかった。
黒服「勇者は最上階に辿り着きました。この遊戯はあなた方の勝ちです」
アリス「……捕まえないんですか」
黒服「私は嘘はつきませんので」
黒服は、書見台の上の台本を、顔のない顔で示した。
黒服「さて、勇者。結末をお書きなさい。あなたが書いたものがこの物語の結末になります。どのような結末でも、かまいません」
アリスは羽根ペンを手に取った。
真っ白なページをじっと見つめる。
どんな結末を書けばいいのか、わからなかった。先生の映画の結末はまだ知らない。見てのお楽しみ、と先生は言った。ゲームのエンディングなら、たくさん知っている。勇者が魔王を倒して、国じゅうがお祭りになって、お姫様と結婚して。
でも、それは、アリスの書きたい結末ではなかった。
アリスは目を閉じた。
部室の、散らかった机。モモイの書きなぐったメモ。ミドリのスケッチブック。ロッカーの扉の隙間からのぞく、ユズの片目。ネルと並んで握ったコントローラー。正門の前で、通信機の位置を直してくれた、先生の指。
そして、徹夜の部室で、モモイが言った言葉。最後は、みんなで笑っておうちに帰る、っていうのが一番いいんじゃないかな。
アリスは目を開けた。そして、ゆっくりとていねいに、一文字ずつ書きはじめた。
勇者たちは、みんなでおうちに帰りました。
おしまい。
羽根ペンを置くと、部屋の中が、しんと静まりかえった。
黒服「……ありふれた結末ですね」
アリス「ありふれていても、いいです」
アリスはまっすぐに黒服を見た。
アリス「アリスは、この結末が、一番好きです」
黒服「クックック……。なるほど。実に、興味深い」
そのとき、台本の文字が、金色に光りはじめた。
おしまい、の四文字から、光が波のように広がっていく。ページをめくり、本の表紙を越え、書見台を越えて、部屋じゅうに広がっていく。
城が大きく揺れた。
アリスの背中で、スーパーノヴァが、低く唸りはじめた。暗く沈んでいたランプが、ひとつ、またひとつと、灯っていく。ネルの手の中で、石のように固まっていた引き金が、かちりと軽くなった。
ネル「……動く」
黒服「物語が閉じれば、城の決まりも閉じます。当然のことです」
螺旋階段の下から、ばたばたと足音が上がってきた。モモイが、ミドリが、ユズが、息を切らせて部屋に飛びこんでくる。その少しうしろから、額縁を抱えたデカルコマニーが、よろよろとついてきていた。
モモイ「アリス! 書けた!?」
アリス「はい。書けました」
ゴルコンダ「おお……結末が記されてしまいましたか。結末を持ったテクストは、もはや閉じるほかございませんな」
デカルコマニー「そういうこった……」
デカルコマニーの声は、心なしか、しょんぼりしていた。
黒服は、窓の外の、白みはじめた空を見やった。
黒服「外の世界のテクストは、キヴォトスでは、このように終わるのですね。先生に、お伝えください。実に——」
アリスはスーパーノヴァを構えた。
砲身の先が、まっすぐに黒服を向いていた。
黒服「……おや」
アリス「これは、パーティーのみんなを人形にした分と、おじさんを狼にした分です」
ネルも二丁の銃を構えた。
ネル「あと、あたしをお子様扱いした分もな」
黒服「それは改札の機械が……」
ネル「お前んとこの機械だろうが!」
スーパーノヴァの砲身に、まばゆい光が集まっていく。黒服は、帽子のつばに手を添えたまま、少しだけ首をかしげた。
黒服「……これもまた、ひとつの結末、ということでしょうか」
アリス「光よ!」
白い光が時計塔のてっぺんを貫いた。
光は黒服とデカルコマニーと額縁を、まとめてのみこんで壁を突き破り、夜明け前の空へと突き抜けていった。
ゴルコンダ「おおおお……これもまた、ひとつの、結末ぅぅぅ……!」
デカルコマニー「そういうこったぁぁぁ……!」
声は、どんどん小さくなっていった。白みはじめた空のずっと向こうで、何かがきらりと一度だけ光った。
それきり、何も聞こえなくなった。
ユズ「……と、飛んで、いきました……」
ミドリ「きれいに、星になったね……」
その瞬間、足元が、大きく傾いた。
時計塔の壁に、ぴしり、と大きなひびが走った。頭上の鐘がぐらりと揺れて、ごおん、と最後の音を鳴らした。
ネル「崩れるぞ! 走れ!」
五人は、崩れていく螺旋階段を駆け下りた。
足元の段が、うしろから順番に、砂になってさらさらと崩れ落ちていく。壁のひびから、白い朝の光が差しこんでいた。
大広間まで下りると、バルコニー席のロボットたちが、いっせいに立ち上がって拍手をしていた。笑った顔の仮面のまま、崩れていく天井の下で、いつまでも手を叩いている。
モモイ「なんで拍手してんの、あれ!?」
ミドリ「カーテンコール、なのかも……」
ユズ「こ、怖いのに、ちょっときれい、です……」
城の門を飛び出し、細い橋を駆け抜けた。
振り返ると、黒い城が、砂の山のように崩れていくところだった。尖った塔が一本、また一本と傾き、音もなく、さらさらと流れ落ちていく。
通信機がざざっと鳴った。
先生『アリス! 聞こえる!? 城が崩れてる! みんな無事!?』
アリス「先生! 勝ちました! パーティー全員、無事です! 今から、帰ります!」
通信機の向こうで、誰かが息をのむ音がした。それから、ユウカの、泣き声のまじった声が聞こえた。
ユウカ『ほ、本当に……全員……?』
アヤネ『ア、アリスさん! 園全体が、外側から砂になって崩れはじめています! 正門までのルートはまだ大丈夫です! 急いでください!』
五人は、凍っていたゲームセンターを抜けた。氷はすっかり溶けて、ゲーム機の画面が、ひとつずつ、ぷつりぷつりと消えていく。切り絵の館の前を通ると、壁に貼りついた月夜の森の絵が、一枚、また一枚と剥がれて、朝の風に舞い上がっていった。満月の森の上では、作りものの月が雲に包まれたまま、ゆっくりと地面へ落ちていくところだった。
広場まで戻ってきたとき、うしろ向きのメリーゴーランドは、もうほとんど止まりかけていた。
アリスは、その前で、ふいに足を止めた。
ネル「おい、チビ! 止まんな!」
アリスは、広場の端の、古い倉庫の壁を見ていた。
あの日、光の扉から転がり出てきた壁。その向こうには鏡の迷路がある。そしてそのずっと奥には、細い通路と、小さな部屋がある。
アリス「……勇者たちは」
モモイ「アリス?」
アリス「アリスは台本に、勇者たちは、と書きました。勇者たちは、みんなでおうちに帰りました、と」
アリスの顔から、すうっと血の気が引いていった。
アリス「おじさんは、勇者たちの中に、入っていません」
ミドリ「……あ」
ミドリが口元を押さえた。
ミドリ「台本に書かれてた人は、みんな、物語の一部なんだよ。私たちは、勇者たちに入ってたから、帰れる。でも、おじさんは狼男の役で、台本に書かれてて……」
モモイ「物語と一緒に、消えちゃう、ってこと!?」
アリスはペンダントを握りしめた。曇ったガラス玉が六つと、澄んだガラス玉が、ひとつ。
アリス「おじさんを迎えに行きます」
先生『アリス……』
通信機から、先生の声がした。
アリス「先生、ごめんなさい。少しだけ、寄り道をします」
アリスは、通信機に向かって、はっきりと言った。
アリス「でも、必ず帰ります。約束は守ります。おじさんと、約束したんです。必ず、また来るって」
通信機の向こうが、しばらく、静かになった。
ユウカ『先生……!』
先生『……わかった』
先生の声は落ち着いていた。けれど、その奥で、何かを必死にこらえているのがわかった。
先生『信じてる。でも、夜明けまで、あと十五分しかない。それだけは忘れないで』
アリス「はい!」
先生『ユウカ、ごめんね。私はアリスを信じるよ』
ユウカ『……もう。本当に、もう……!』
ネル「チビ一人で、行かせるかよ」
ネルがアリスの隣に並んだ。
モモイ「私たちも行く!」
アリス「でも、モモイたちはパジャマのままで……」
モモイ「パーティーは、全員そろってパーティーなんでしょ!」
モモイがアリスの手をつかんだ。ミドリが反対の手をつかんだ。ユズは、ネルの上着の裾を、ぎゅっと握りしめていた。
ユズ「わ、わたしもです……」
アリスは四人の顔を見回した。それから、大きくうなずいた。
アリス「行きます!」
ミラーハウスの鏡は一枚残らずひび割れていた。ひびの隙間から、砂がさらさらとこぼれ落ちている。
五人は、崩れかけた迷路の中に飛びこんだ。たくさんの鏡に、たくさんの五人が映っては、砂になって消えていく。
ネル「くそっ、どっちだ!」
アリス「……あっ」
一枚の鏡の中で、アリスが、手を振っていた。
アリスは手を振っていなかった。それなのに、鏡の中のアリスだけがにっこりと笑って、迷路の奥を指さしていた。こっちだよ、とでも言うように。
アリス「こっちです!」
鏡の中のアリスは曲がり角のたびに、ちらりと振り返っては手招きをした。あの日と同じだった。ただ、今日は、アリスはひとりではなかった。
突き当たりの鏡の前で、鏡の中のアリスは、ぺこりとお辞儀をした。
アリスがその鏡に手を触れると、指先が、するりと沈んだ。
灰色の通路はあの日のままだった。色あせたポスター。天井を這う配管。アリスが撃ち抜いた配管は、まだしゅうしゅうと細く蒸気を吐いていた。床には、ヘンモンくんの頭が、いくつも転がったままになっていた。
モモイ「うわっ、なにこれ、ヘンモンくんの頭!?」
アリス「撤退戦の跡です」
ネル「お前、ここで何やったんだよ」
通路の壁も、天井も、少しずつ砂になって崩れはじめていた。五人は、その中を、ミシンの音が聞こえていた方向へと駆けていった。
ミシンの音は、もう、聞こえなかった。
小さな木の扉を押し開けると、部屋の中は、薄暗かった。
棚に並んでいた人形たちが、足元から、さらさらと砂になって崩れていく。ドレスの裾が、小さな靴が、ひとつ、またひとつと形をなくしていく。作業台の上の布も、糸巻きも、絵の具の小瓶も、輪郭がぼやけはじめていた。
その床の上に、灰色の狼が、丸くなって横たわっていた。
狼の体は透けていた。毛並みの向こうに、床の木目が見えていた。
アリス「おじさん!」
アリスが駆け寄ると、狼は、ゆっくりと目を開けた。
黄色い目だった。けれど、その目はもう、少しも怖くなかった。
人形師「……勇者、さん……?」
かすれた声だった。おじさんの声だった。
人形師「どうして……戻って……」
アリス「迎えに来ました。約束しました。必ず、また来るって」
人形師「……ばか、だなあ……」
狼は目を細めた。笑っているように見えた。
人形師「物語は終わったんだろう……。おじさんは、物語の中の狼だから……一緒に消えるだけだよ……。いいんだ。君たちが帰れるなら……」
アリス「よくありません」
アリスは首からペンダントを外した。
七つのガラス玉のうち、六つが白く曇っている。最後のひとつだけが、薄暗い部屋の中で、澄んだ光をたたえていた。
モモイ「アリス、それ……最後の……」
アリス「はい。最後のひとつです」
人形師「だめだ……それは切り札だって……。君の、ために、とっておきなさいって……」
アリス「はい。だから、今、使います」
アリスはペンダントを両手で包んだ。
アリス「ラストエリクサーは、一番大事なときに使うものです。今がそのときです」
アリスはペンダントを高く掲げた。
アリス「ヘンナ・モンダネ!」
最後のガラス玉が光を帯びはじめた。
アリス「おじさんも、アリスたちのパーティーです! 一緒に、おうちに帰ります!」
光があふれた。
それは、これまでのどの光よりもまばゆく、あたたかい金色だった。光は小さな部屋をいっぱいに満たし、狼の透けた体をやさしく包みこんだ。
透けていた毛並みが、少しずつ、色を取り戻していく。逆立っていた毛がふわりと寝ていく。長く伸びていた鼻先が、丸く、短くなっていく。大きかった体がゆっくりと縮んでいく。
光がおさまったとき、床の上には、くたびれたカーディガンを着た小太りのおじさんが座りこんでいた。
丸っこい、犬のような顔。毛足の長い、やわらかな毛並み。ちゃんと、どこも透けていなかった。
おじさんは、目をぱちぱちとさせて、自分の手を見下ろした。
人形師「……ああ。……ああ」
アリスは、作業台の下にしゃがみこんだ。あの日、床に落ちた小さな丸い眼鏡が、まだそこに転がっていた。アリスはそれを拾い上げると、おじさんの顔に、そっとかけてあげた。
人形師「……よく、見える」
おじさんは、眼鏡の奥で、何度もまばたきをした。それから、アリスの顔を見て、くしゃりと顔をゆがめた。
人形師「最後のひとつを……おじさんなんかの、ために……」
アリス「おじさんなんか、ではありません。おじさんはパーティーの仲間です」
モモイ「アリスが……エリクサーを使った……!」
ミドリ「お姉ちゃん、今、感動するとこそこ?」
アリスの手の中で、ペンダントのガラス玉は七つとも白く曇っていた。それでも、アリスは、それを大事そうに握りしめた。
部屋が大きく揺れた。棚の人形たちは、もうほとんど、砂の山になっていた。
ネル「おい、感動してる場合じゃねえ! 崩れるぞ!」
おじさんは、立ち上がろうとして、よろめいた。足に力が入らないらしい。ネルが、おじさんの腕を自分の肩にまわして、ぐっと持ち上げようとした。
ネル「重っ……! ちょっとは痩せろ、おっさん!」
人形師「す、すまないねえ……」
アリス「アリスが運びます」
アリスはおじさんの前にしゃがみこむと、ひょいとその体を背負った。
人形師「お、おお……?」
アリス「勇者の剣の岩よりは軽いです」
ネル「……お前、ほんと、どうなってんだよ」
五人と、おじさんは、崩れていく部屋を飛び出した。
通路が、うしろから砂になって崩れていく。鏡の迷路を抜け、倉庫の壁を抜け、広場に転がり出る。広場のメリーゴーランドはもう半分が砂になっていた。
アヤネ『正門まで、まっすぐです! 門が崩れかけています!』
五人は正門に向かって走った。
巨大な生き物の顔の形をした門が、目の前に迫ってくる。開いたままの大きな口が、上のほうから、さらさらと崩れはじめていた。
門の向こうに、人影が見えた。
先生が立っていた。
門が崩れ落ちる、その直前。五人と、背負われたおじさんは、大きな口の中を駆け抜けた。
背後で、どさあっと、砂の山が崩れる音がした。
東の空から、太陽が顔を出していた。
振り返ると、そこにはもう、何もなかった。観覧車も、メリーゴーランドも、黒い城も。ただ、朝日に照らされた砂の丘が、どこまでも広がっているだけだった。風が吹くと、砂の表面が、さらさらと流れていった。
最初に駆け寄ってきたのはユウカだった。
ユウカは何も言わずに、モモイとミドリとユズを三人まとめて抱きしめた。
ユウカ「あなたたちは……本当に……! 人形になんか、なってる場合ですか……!」
モモイ「ユ、ユウカ、苦しい……」
ユウカ「苦しくていいんです! どれだけ、心配したと……!」
ユウカの声が途中で崩れた。ミドリが、そっとユウカの背中に手をまわした。ユズは、ユウカの肩に顔をうずめて、小さくしゃくりあげていた。
セリカが、腕を組んで、アリスの前に立った。
セリカ「遅いわよ!」
アリス「ごめんなさい、セリカ」
セリカ「……おかえり」
セリカはぷいと顔をそむけた。その目の縁が少し赤かった。
シロコ「ん、おかえり」
ノノミは、アリスの背中から下ろされたおじさんを見て、目をまるくしていた。
ノノミ「あの……もしかして、商店街の人形屋さん、ですか……?」
おじさんは、ノノミの顔を、眼鏡ごしにじっと見つめた。それから、ゆっくりと、目を細めた。
人形師「……ショーウィンドウに、毎日、おでこをくっつけていた子かい」
ノノミ「はい……! はい、そうです……!」
ノノミの目に、みるみる涙がたまっていった。
ホシノが、ひょっこりと、おじさんの隣に顔を出した。
ホシノ「うへ~。おじさんが二人になっちゃったねえ」
人形師「は、はあ……?」
ホシノ「キャラかぶりだよ~。どうしよっか」
アヤネ「ホシノ先輩、今、そういう場面じゃないです……」
アリスは、人の輪から少し離れたところに立っている先生のほうへ、歩いていった。
先生は、アリスがすぐ目の前に来るまで、何も言わなかった。言えなかったのかもしれなかった。
アリス「先生。ただいま、帰りました。パーティー全員と、おじさんも一緒です」
先生「……おかえり、アリス」
先生はゆっくりと手を差し出した。
アリスは、少しだけ、その手を見つめた。それから、自分の手を、そっと重ねた。
先生「今度はちゃんと繋いでるよ」
アリス「はい」
アリスは、先生の手を、ぎゅっと握り返した。
アリス「……あたたかいです」
アリスのうしろから、おじさんがゆっくりと歩いてきた。そして、先生の前で、深々と頭を下げた。
人形師「あなたが、勇者さんの先生ですね」
先生「うん。アリスが、お世話になったみたいだね」
人形師「お世話になったのは、こちらのほうです。……この子は、立派な勇者ですね」
先生「うん。自慢の生徒なんだ」
アリスは、先生の手を握ったまま、少しだけ胸を張った。
そのとき、ホシノが、すっと先生の前に出た。盾を砂の上に突き立てる。
砂の丘のてっぺんに、朝日を背にして、ひとつの影が立っていた。
黒い服の男だった。羽織ったマントはあちこちが焦げて、裾がぼろぼろになっている。そして、その頭の上には、ぐしゃりとつぶれたとがった帽子が、まだのっていた。
ホシノ「先生に、なんか用?」
黒服「いいえ。ご挨拶だけです」
黒服は、丘の上から、静かに一礼した。
黒服「先生。あなたが語った外の世界の物語は、あなたの生徒たちによって、書き換えられました」
先生「書き換えたんじゃないよ」
先生は、アリスの手を握ったまま、まっすぐに黒服を見上げた。
先生「あの子たちは、自分たちの物語を、自分たちで書いたんだ」
黒服「……クックック。なるほど。では、いつか先生ご自身の物語も、お聞かせいただきたいものです」
先生「それはお断りするよ」
黒服「残念です」
黒服は、それきり立ち去るかと思われた。けれど、少しだけ間を置いて、もう一度口を開いた。
黒服「……ところで、先生。物語が閉じた以上、この役も閉じたはずなのですが。なぜか、この帽子が、脱げないのです」
誰も何も言わなかった。
アリスがすっと手を挙げた。
アリス「それは呪いの装備です。教会で、お金を払って、外してもらってください」
黒服「……覚えておきましょう」
朝の風が砂を巻き上げた。
砂ぼこりがおさまったとき、丘の上には、もう誰もいなかった。
それから、一週間が過ぎた。
ゲーム開発部の部室の床は、新しい板に張り替えられていた。水びたしになった古い床は、すっかり反り返ってしまって、もう使いものにならなかったのだ。
モニターの真上の棚には、三体の人形が並んで座っていた。もう、ひんやりもしていないし、あたたかくもない。ただの、よくできた人形だった。部屋の隅には、ミドリの背丈ほどもある大きな絵筆が、立てかけてあった。
ユズ「も、もう、見られてる感じは、しません」
ユズは、ロッカーの扉を、いつもより少しだけ大きく開けていた。
モモイ「というわけで! 新作のタイトルは『変なもんクエスト』で決定です!」
ミドリ「結局、そのままなんだ」
モモイ「当たり前じゃん。取材はばっちりなんだから! 狼男もやったし、遊園地の裏側も見たし!」
ミドリ「取材っていうか、当事者だよね、私たち」
モモイ「ラスボスは帽子の脱げない支配人!」
アリス「呪いの装備を外さない限り、何度でも復活します」
ミドリ「ちょっと面白そうなのが、悔しい……」
部屋の隅では、ネルとユズが、並んでコントローラーを握っていた。画面の中で、ネルのキャラクターが、またしても吹き飛ばされる。
ネル「なんでだよ!」
ユズ「ご、ごめんなさい……。手加減、できなくて……」
ネル「謝んな! もう一回だ!」
部室の扉がノックされた。
先生「やってるね。差し入れ、持ってきたよ」
モモイ「先生!」
先生のうしろから、もう一人、丸っこい人影がひょこりと顔を出した。くたびれたカーディガンに、小さな丸い眼鏡。
人形師「やあ。お邪魔するよ」
アリス「おじさん!」
アリスが椅子から飛び上がった。
おじさんは、アビドスの商店街の空き店舗で、もう一度小さな人形屋を始めることになったのだと話してくれた。対策委員会のみんなが、埃だらけの店の掃除を手伝ってくれたこと。最初のお客さんはノノミだったこと。シロコが、どこからか立派な木材を持ってきて、棚を作ってくれたこと。
人形師「どこから持ってきたのかは聞かないことにしたよ」
先生「うん。それが、いいと思う」
おじさんは、抱えていた箱を、作業机の上にそっと置いた。
人形師「今日はね、届けものがあって来たんだ。勇者さんに」
アリス「アリスに、ですか」
人形師「約束したんだろう? 今度は一緒に来て作ろうって」
モモイがはっとしてアリスを見た。
おじさんが箱のふたを開けた。
中には、アリスにそっくりな人形が入っていた。長い髪も制服も、背中に背負った小さな小さなスーパーノヴァまで、そっくりだった。
アリス「……アリスです」
モモイ「あの日、アリスの分だけ作れなくて、ごめんね。なんか、アリスだけ仲間外れみたいになっちゃって」
アリス「アリスは、仲間外れではありませんでした。順番待ちでした」
モモイ「……そっか。順番待ちか」
モモイは、へへっと笑って、鼻の下をこすった。
人形師「今度のはただの人形だよ。何も入っていない」
おじさんは、少し考えてから、照れくさそうに付け加えた。
人形師「いや、ひとつだけ、入ってるかな。作った人の、ありがとうがね」
アリスは、人形をそっと両手で持ち上げた。人形は軽くてやわらかくて、少しも冷たくなかった。
人形師「それから、これも」
おじさんは、カーディガンのポケットから、銀のペンダントを取り出した。夜明けの砂漠で、少しのあいだ預からせてほしいと言って、アリスから受け取っていったものだった。
七つのガラス玉が、窓からの光を受けて、きらきらと光っていた。
ひとつも曇っていなかった。
アリス「……全部、澄んでいます」
人形師「曇ったガラス玉はね、ていねいに磨けば、また澄むんだよ。魔法はもう入っていないけれどね」
おじさんは、アリスの手のひらに、ペンダントをのせた。
人形師「使い切ったものは、なくなってしまうわけじゃない。誰かのために使った分は、ちゃんと、こうして残るんだ。おじさんはそう思うよ」
アリスは、ペンダントを、ぎゅっと胸に抱いた。
アリス「アリスは、これを、宝物にします。一生、大事にします」
モモイ「アリス、それ、また使わずに取っておくやつでしょ」
アリス「宝物は取っておくものです。エリクサーとは違います」
ミドリ「そこはちゃんと区別してるんだ……」
アリスは、自分の人形を、棚の上に運んでいった。モモイと、ミドリと、ユズの人形の隣に、そっと座らせる。
四体の人形が並んだ。
モモイ「……これで、全員そろったね」
アリス「はい」
アリスは、棚を見上げて、満足そうにうなずいた。
アリス「パーティーは、全員そろってパーティーです」
おじさんは眼鏡の奥で目を細めた。それから、部屋の隅でコントローラーを握っているネルのほうを見た。
人形師「そうだ。そちらのお嬢さんの分も作ろうか。勇者さんを助けてくれた、恩人だからね。サイズは小さめにして……」
ネル「誰が小さいって!?」
人形師「い、いや、人形の大きさの話でね……!」
ネルは、顔を真っ赤にして、おじさんをにらみつけた。それから、ぷいとそっぽを向いて、ぼそりと言った。
ネル「……普通のサイズで、頼む」
人形師「はいはい。普通のサイズでね。じゃあ念のため、身長だけ測らせてもらえるかな」
ネル「測んな!」
モモイ「ネル先輩、ほしいんだ……」
ネル「うるせえ!」
先生のスマホがぶるりと震えた。対策委員会のグループからのメッセージだった。
『アヤネ:カイザーコーポレーションが、テーマパーク事業からの撤退を発表しました。あの土地は、今は、ただの砂地です』
『セリカ:ざまあみなさい!』
『セリカ:あと、アリスに伝えといて! コースターの決着は、別の遊園地でつけるからね!』
『ノノミ:人形屋さん、今日もお店を開けています☆』
『シロコ:ん、棚、もうひとつ作る』
『ホシノ:おじさんたちは、今日もお昼寝日和だよ~』
先生は、画面を見て小さく笑った。横からのぞきこんだアリスが、目を輝かせる。
アリス「先生、セリカからの挑戦状です!」
先生「ふふ。今度は、普通の遊園地に行こうか。みんなでね」
アリス「はい! ……でも、隠しダンジョンがあったら、入ってもいいですか?」
先生「それは……私と、手を繋いでいるならね」
アリス「約束します」
アリスは、それから先生の袖を、くいくいと引っぱった。
アリス「先生。約束の映画をみんなで見たいです」
先生「うん。今日、ちゃんと持ってきたよ」
先生は、コンビニの袋の底から、一枚のディスクを取り出した。
部室の明かりを少しだけ落として、モニターの前に、みんなで座った。モモイと、ミドリと、アリスと、ネルと、おじさんと、先生。
ユズは、ロッカーの扉に手をかけていた。けれど、少し迷ってから、その扉を閉めた。そして、アリスの隣に、ちょこんと腰を下ろした。
アリス「ユズ。ロッカーの中から見るのでは、なかったのですか」
ユズ「きょ、今日は……みんなのそばで、見ます」
ユズは、膝を抱えて、少しだけ笑った。
ユズ「隠れるなら、みんなのそばに隠れるって、決めたので」
映画が始まった。
遊園地と、魔女と、人形のお姫様と、魔法のトランプ。雪だるまが出てきたとき、ユズが小さく悲鳴を上げた。ハサミの手下が出てきたとき、ミドリが「私のほうが、絵はうまかった」とつぶやいた。狼男が出てきたとき、モモイが「私のほうが、かわいかった」と言い張った。
そして最後の追いかけっこの場面で、部室じゅうが悲鳴と笑い声でいっぱいになった。
モモイ「怖っ! 黒服より怖い!」
ネル「なんで笑えんだよ、これ……! いや、ちょっと笑えるけど……!」
ユズ「こ、怖いのに……ふふっ……」
エンドロールが流れはじめると、アリスは画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
アリス「主人公は、お姫様を、助けられました」
先生「うん。そうだったね」
アリス「アリスも、おじさんを、助けられました」
おじさんが、アリスの頭を、そっとなでた。アリスは、くすぐったそうに目を細めた。
モモイ「ねえ、おじさん。新作の『変なもんクエスト』にさ、人形屋さんのキャラを出してもいい? 勇者に、伝説のアイテムをくれる人!」
人形師「おじさんが、ゲームに?」
ミドリ「デザインは私が描きます。丸い眼鏡と、カーディガンと、やさしい顔で」
ユズ「う、動かすのは、わたしが、がんばります……」
人形師「……それは、光栄だなあ」
おじさんは、照れくさそうに頭をかいた。
そのとき、部室の扉が、勢いよく開いた。
ユウカ「失礼します」
ユウカだった。腕には、いつもの電卓と、一枚の紙を抱えている。
モモイ「げっ、ユウカ」
ユウカ「げっ、じゃありません。部室の床の、張り替え工事の請求書が届きました」
ユウカは紙を机の上に置いた。モモイが、おそるおそるそれをのぞきこむ。
モモイ「さ、三十二万円……!?」
ユウカ「水びたしになった床と、その下の配線まで、全部やり直しましたから」
モモイ「うわーん! 部費が、部費が消えるー!」
ユウカ「……今回は」
ユウカは小さく咳払いをした。少しだけ、目をそらした。
ユウカ「今回は、セミナーの経費で落としておきます。今回だけ、ですからね」
部室がしんと静まりかえった。
モモイがゆっくりと顔を上げた。信じられないものを見るような目で、ユウカを見つめる。
モモイ「ユウカが……優しい……?」
ユウカ「なんですか、その顔は」
モモイ「偽物だ……!」
モモイは椅子を蹴って立ち上がった。ユウカを指さして、叫ぶ。
モモイ「人形だ! このユウカ、人形だ! 中に、誰か入ってる!」
ユウカ「誰が人形ですか!」
部室に、笑い声が弾けた。
ミドリがお腹を抱えて笑い、ユズがアリスの背中に隠れて肩を震わせ、ネルが「人形にしちゃ、口うるさすぎだろ」と言ってユウカににらまれ、おじさんは眼鏡を外して涙をふいていた。先生も声を上げて笑っていた。
アリスは、ペンダントを握りしめて、みんなの顔を見回した。それから、両手を高く上げた。
アリス「パンパカパーン!」
棚の上では、四体の人形が並んで、にぎやかな部室を見下ろしていた。