先生はそれを、いつも通りサボりに来たイロハに何も考えずにあげてしまいます。
次の日からゲヘナ学園で起き始めたのは、誰も見たことのない「やる気に満ちたイロハ」による大改革でした。会話中心のコメディです。
キャラクターの口調や関係性には気を付けていますが、独自解釈とif設定を含みます。【注意】
・謎の薬で性格が反転するif設定
・万魔殿内のクーデターや、風紀委員会との戦闘描写(コメディ寄りで、重い流血はありません)
・マコト議長がひどい目に遭います
・原作にない独自設定を含みます
以上の要素が苦手な方はご注意ください。
pixivにも掲載しています。
先生「サヤ、これは何かな?」
シャーレの執務室。
机の上に並んだ小さな紙の包みを指さすと、ソファに座っていたサヤが胸を張った。
白衣の袖が少し余っている。
サヤ「よくぞ聞いてくれたのだ先生! それはぼく様が開発した最新の丹薬なのだ!」
先生「丹薬……なんだよね? 見た目は完全にドリップコーヒーなんだけど」
サヤ「ふふん。お湯に溶かしやすいように工夫した結果なのだ。粉末を不織布で包んでカップの縁に引っかける。この形が一番効率がいいとわかったのだ」
先生「なるほど。コーヒー屋さんの知恵を借りたんだね」
サヤ「借りたのではないのだ。ぼく様が独自に到達した結論なのだ」
サヤは得意げに鼻を鳴らした。
包みは全部で三つ。
どれにも筆で書いたみたいな文字が小さく並んでいるけど、先生にはさっぱり読めない。
先生「それで今日はこれを見せに来てくれたの?」
サヤ「違うのだ。今日は錬丹術研究会の活動報告書を出しに来たのだ。シュン姉さんに怒られる前にちゃんと出すのだ」
先生「えらいね。じゃあ報告書は預かるよ」
サヤ「うむ。ついでに先生の意見も聞かせてほしいのだ。この丹薬はまだ試作段階で……」
サヤの端末が震えた。
画面を見たサヤの顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
サヤ「し、シュン姉さんからなのだ……」
先生「出たほうがいいんじゃないかな」
サヤ「出たら最後なのだ。報告書の締め切りを三日過ぎていることがばれたのだ」
先生「三日過ぎてたんだね」
サヤ「先生まで責めないでほしいのだ! ぼく様はすぐに帰って言い訳……ではなく説明をしてくるのだ!」
サヤは報告書を机に叩きつけるみたいに置いて、執務室を飛び出していった。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
ドアが閉まって執務室が静かになった。
机の上には報告書と三つの小さな包みが残っている。
先生「……忘れていったね」
包みを一つ持ち上げてみた。
軽い。
鼻を近づけると、ほんのり香ばしい匂いがする。
焙煎した豆に似ているけど少しだけ甘い。
先生「試作品の見本なのかな。あとで連絡しておこう」
先生は包みを机の端に寄せて、溜まっていた書類に手を伸ばした。
この時点で先生は二つ勘違いをしていた。
一つはこの包みを置き土産だと思ったこと。
もう一つはサヤが言いかけた「試作段階で」の続きを、たいしたことじゃないと思ったことだった。
昼を少し過ぎたころ。
執務室のドアが控えめにノックされた。
イロハ「失礼します。万魔殿の書類を届けに来ました」
先生「いらっしゃいイロハ。いつもありがとう」
イロハは書類の束を机に置くと、そのままソファに沈み込んだ。
抱えていた文庫本を開く。
帰る気配はまったくない。
先生「届けに来たんだよね?」
イロハ「はい。届けました。任務完了です」
先生「それで今は何をしてるのかな」
イロハ「休憩です。シャーレまで歩いてきたので疲れました」
先生「ゲヘナから車で来たんじゃなかったっけ」
イロハ「車に乗るのも疲れるんですよ先生」
イロハはページをめくった。
当たり前みたいな顔で居座っている。
先生は少し笑った。
先生「マコトに怒られない?」
イロハ「マコト先輩は今日イブキと一緒にお出かけの計画を立てるので忙しいそうです。私がいなくても気付きませんよ」
先生「それならいいけど」
イロハ「それにここは静かですから。万魔殿にいると次から次へと面倒事が降ってくるんです」
そう言ってイロハは小さく息を吐いた。
疲れているのは本当なんだろう。
目の下にうっすら影がある。
先生「最近忙しいの?」
イロハ「……まあそれなりに。マコト先輩がまた予算を無茶な使い方しようとしていて。止めるのも面倒なんですが止めないともっと面倒になるので」
先生「大変だね」
イロハ「はぁ……。わかってくれるのは先生くらいです」
先生は立ち上がって給湯スペースに向かった。
ポットのお湯を確かめる。
ちょうどいい温度だった。
先生「何か飲む? インスタントでよければコーヒーもあるよ」
イロハ「先生が淹れてくれるなら」
先生「えっと……あ、そうだ」
インスタントの瓶は空っぽだった。
先生の視線が机の端の小さな包みに止まる。
ドリップコーヒーの形をした三つの包み。
先生は一つを手に取った。
先生「これ貰い物なんだけど。よかったら持っていく? 私は今から会議だから一緒に飲めないんだよね」
イロハ「貰い物ですか」
先生「うん。いい匂いがしたよ」
イロハは包みを受け取って裏返した。
筆文字をちらりと眺めたけど、すぐに興味をなくしたみたいだった。
イロハ「読めませんね。どこかの高級品でしょうか」
先生「たぶんね。山海経のものだと思う」
イロハ「ありがとうございます。じゃあ戻ったら飲みます。こういう小さなご褒美がないとやってられないんですよ」
先生「ふふ。頑張りすぎないようにね」
イロハ「心配いりません。頑張らないのは得意なので」
イロハは包みを制服のポケットにしまって、もう一度文庫本に目を落とした。
結局そのあと一時間ほど居座ってから、のんびりゲヘナへ帰っていった。
机の上に残った包みは二つ。
先生がそれに気付いて首をかしげるのは、もう少しあとのことだった。
ゲヘナ学園の万魔殿。
議長室の隣にある執務スペースには、今日も書類の山がそびえていた。
マコト「キキキッ! イロハ! ようやく戻ったか! このマコト様を待たせるとはいい度胸だな!」
イロハ「はぁ……。ただいま戻りました」
マコト「見ろこの計画書を! 次の休日はイブキを遊園地に連れていく! ついでに遊園地ごと万魔殿の所有物にする!」
イロハ「予算がありません」
マコト「予算は作るものだ!」
イロハ「作れません。却下です」
イロハは計画書を受け取らずに自分の机へ向かった。
マコトがその後ろをついて歩きながら騒いでいる。
いつもの光景だった。
部屋の隅でカメラをいじっていたチアキが顔を上げた。
チアキ「おかえりイロハ。またシャーレでサボってたでしょ」
イロハ「書類を届けに行っただけです」
チアキ「三時間も?」
イロハ「道が混んでいたんです」
チアキ「あはは。じゃあそういうことにしとこっか」
イロハは机に座ってポケットから包みを取り出した。
給湯ポットのお湯をカップに注いで包みを縁に引っかける。
ゆっくりお湯を落とすと、部屋にふわりと香ばしい匂いが広がった。
チアキ「お。いい匂い。何それ」
イロハ「先生から貰いました。高級品らしいです」
マコト「何ィ!? 先生からの貢ぎ物だと!? ならばこのマコト様に献上するのが筋だろう!」
イロハ「先生は私にくれたんです。マコト先輩には一滴もあげません」
マコト「ぐぬぬ……!」
イロハはカップを両手で包んで口をつけた。
一口。
二口。
少し首をかしげる。
イロハ「……コーヒーにしては不思議な味ですね。甘いような苦いような」
チアキ「おいしい?」
イロハ「まあ悪くは……」
言いかけてイロハの手が止まった。
カップを机に置く。
ことり。
イロハは何度か瞬きをして、目の前の書類の山を見つめた。
じっと。
さっきまでの眠たげな目とは何かが違う。
チアキ「イロハ?」
イロハ「チアキ。この書類の山はいつからここにありますか」
チアキ「え? えーっと……先週からかな。イロハがそのうちやるって言ってたやつ」
イロハ「そうですか」
イロハは立ち上がった。
背筋がまっすぐ伸びている。
マコトとチアキが同時に一歩下がった。
イロハ「信じられません。こんなに溜めていたなんて」
マコト「……イロハ?」
イロハ「今から片付けます。チアキはこっちの広報関係の束を分類してください。三十分で終わらせます」
チアキ「さ、三十分? この量を?」
イロハ「二十分でもいけます」
そう言い切ったイロハの目は、きらきら輝いていた。
チアキが見たことのない顔だった。
マコトにとっても入学以来見たことのない顔だった。
イロハはペンを取ると猛烈な勢いで書類をさばき始めた。
読む。
判を押す。
付箋を貼る。
次の束へ。
手が止まらない。
マコト「お、おいイロハ。具合でも悪いのか」
イロハ「最高です。こんなに頭が冴えているのは生まれて初めてかもしれません」
マコト「それは具合が悪いと言うんだ!」
イロハ「マコト先輩。そこに立たれると書類棚の動線が塞がるので右に三歩ずれてください」
マコト「何だと!?」
イロハ「右に三歩です」
マコトは思わず右に三歩ずれた。
ずれてからはっとした顔になる。
マコト「なぜこのマコト様が言われた通りに動いているんだ……!」
チアキ「すごい。イロハが……働いてる……」
チアキは震える手でカメラを構えた。
シャッターを切る。
何枚も。
チアキ「これはスクープだよ。万魔殿始まって以来の大事件だよ」
イロハ「チアキ。撮っている暇があったら手を動かしてください」
チアキ「は、はいっ!」
宣言通り二十分後。
一週間分溜まっていた書類の山はきれいに消えていた。
イロハは最後の一枚をファイルに収めて小さく息をついた。
疲れた様子はまったくない。
むしろ頬が上気している。
イロハ「はぁ……」
チアキ「あ。いつものため息」
イロハ「足りません」
チアキ「え?」
イロハ「仕事が足りないんです。もっとありませんか。予算の再編成。各部活動の活動実態調査。議事録のデータベース化。そうだ温泉開発部の爆破予定地の事前把握もまだでしたね」
マコト「イロハが……自分から……仕事を探している……!?」
イロハ「マコト先輩」
イロハがくるりと振り返った。
満面の笑みだった。
まぶしいくらいの。
イロハ「私、今すごく働きたいんです。働きたくて、仕方がないんです」
その瞬間マコトの背筋を冷たいものが走った。
理由はわからない。
ただ本能が告げていた。
何かとんでもないことが始まろうとしている、と。
翌朝。
シャーレの執務室で先生は端末の着信音に叩き起こされた。
机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
先生「はい、シャーレの……」
サヤ「先生! 大変なのだ! ぼく様の丹薬を知らないか!?」
先生「おはようサヤ。丹薬って昨日の?」
サヤ「そうなのだ! 三つ置いていったはずなのだ! シュン姉さんに説教されている間に思い出したのだ!」
先生「それなら机の上に……あれ」
包みは二つしかなかった。
先生は昨日の記憶をたどった。
イロハ。
インスタントの空き瓶。
いい匂いのする包み。
先生「……サヤ。一つ人にあげちゃったかもしれない」
サヤ「なななななんですとーっ!?」
端末のスピーカーが割れそうな声だった。
先生は少し耳から離した。
先生「ごめん。てっきり置いていってくれたコーヒーの見本だと思って。これは何の薬なのかな」
サヤ「それは……反転丹なのだ」
先生「反転丹?」
サヤ「飲んだ者の気質をひっくり返す丹薬なのだ。臆病な者は大胆に。怠け者は働き者に。本来は気の巡りを研究するための試作品で、まだ人に試したことはないのだ」
先生の頭に昨日のイロハの姿が浮かんだ。
ソファに沈み込んで、頑張らないのは得意だと笑っていたイロハ。
先生「……それ、怠け者が働き者になるんだよね」
サヤ「理論上はそうなのだ」
先生「どのくらいの働き者に?」
サヤ「わからないのだ。だから試作段階だと言ったのだ。最後まで聞かずに……いや最後まで言わずに帰ったぼく様も悪かったのだ」
先生「いや。確かめないで人にあげた私が一番悪いよ。ごめんね」
サヤ「先生……」
先生「効果はいつまで続くの?」
サヤ「それもわからないのだ。ただ理論上は心の芯が強く揺さぶられた時に元に戻るはずなのだ。ひっくり返ったものはもう一度大きな力でひっくり返せばいい。その人にとって一番大事なものに触れた時に」
先生「一番大事なもの……」
サヤ「その人が誰に飲ませたのか教えてほしいのだ先生。ぼく様が今すぐ行って経過観察と追加の採血を」
先生「サヤ」
先生の声が少しだけ低くなった。
サヤが黙る。
先生「まずは本人の様子を確かめるのが先だよ。データを取るのは本人がいいって言ってからにしよう」
サヤ「……うむ。そうなのだ。わかったのだ」
先生「ありがとう。何かわかったらすぐ連絡するね。サヤも元に戻す方法を考えてくれる?」
サヤ「任せるのだ。ぼく様は天才なのだ。自分の作ったものの責任くらい取ってみせるのだ」
通話が切れた。
先生はすぐにイロハの番号を呼び出した。
コール音が三回。
イロハ「はい棗です。おはようございます先生」
いつもより一段高くてはきはきした声だった。
先生は思わず端末を見直した。
表示されている名前は間違いなくイロハだ。
先生「お、おはようイロハ。今どこにいるの?」
イロハ「万魔殿の執務室です。朝五時から来ています」
先生「五時」
イロハ「各部活動の予算執行状況を確認していました。驚きましたよ先生。ゲヘナの予算はひどい有様です。無駄が多すぎます。私が全部見直しますね」
先生「イロハ。昨日あげたコーヒーなんだけど」
イロハ「ああ。とてもおいしかったです。ありがとうございました。おかげで目が覚めました。今までの私はどうかしていたんです」
先生「えっと……体の調子はどうかな? 頭が痛いとか、気分が悪いとか」
イロハ「絶好調です。あ、すみません先生。給食部と九時から打ち合わせなのでそろそろ失礼しますね。それでは」
先生「待ってイロハ……」
通話は切れた。
先生はしばらく黙って天井を見上げた。
先生「……ゲヘナに行かないと」
そのころゲヘナ学園の万魔殿では、マコトが議長室の椅子にふんぞり返っていた。
ふんぞり返ってはいたけど、その顔には落ち着きがなかった。
マコト「チアキ。イロハはどうしている」
チアキ「えっとね。朝五時に来て予算書を全部見直して。七時に救急医学部と美食研究会の被害予測会議をやって。八時には温泉開発部の次の爆破予定地を全部特定してたよ」
マコト「全部?」
チアキ「全部。三か所。そのうち二か所は先回りして別の空き地を勧めてた。温泉開発部の部長も納得してたって」
マコト「あの温泉開発部が納得しただと……?」
チアキ「うん。イロハが地質調査のデータまで用意してたから。こっちのほうがいいお湯が出ますよって」
マコト「……」
マコトは椅子の肘掛けを握りしめた。
ぎしり、と音がした。
マコト「キ、キキキッ……! ま、まあいい! イロハが働くのは万魔殿にとって良いことだ! つまりこのマコト様の手柄だ!」
チアキ「そうかなあ」
マコト「そうだ! イロハは万魔殿の戦車長でこのマコト様の部下だ! 部下の手柄は上司の手柄だ!」
そこへ議長室のドアがノックされた。
ノックの音さえきびきびしている。
イロハ「失礼します、マコト先輩。報告があります」
マコト「おお来たかイロハ! ちょうど今お前を褒めてやろうと……」
イロハ「こちらをご覧ください」
イロハが机に置いたのは分厚いファイルだった。
表紙には「万魔殿業務効率化計画」と書いてある。
マコトがおそるおそるページをめくる。
マコト「なんだこれは」
イロハ「万魔殿が今抱えている業務の一覧です。それと各業務の所要時間。担当者。ボトルネック」
マコト「ボトル……なんだ?」
イロハ「業務を一番遅らせている原因です。調べた結果、それがはっきりわかりました」
マコト「ほう。言ってみろ」
イロハ「マコト先輩です」
議長室が静まり返った。
チアキがカメラを構えたまま固まっている。
マコト「……は?」
イロハ「マコト先輩の思いつきで始まって途中で放り出された企画が四十二件。マコト先輩の承認待ちで止まっている書類が百十七件。風紀委員会への嫌がらせに使われた予算が今年だけで……」
マコト「ま、待て待て待て!」
イロハ「数字は嘘をつきません」
イロハはにこやかだった。
悪意はかけらもない。
ただ純粋に事実を並べているだけ。
それが一番恐ろしかった。
マコト「イロハ……お前、何が言いたい」
イロハ「マコト先輩には少し休んでいただこうかと思いまして」
マコト「休む?」
イロハ「はい。議長の職務は私が代行します。そのほうがゲヘナのためになります」
マコト「キ……キキキッ! 何を言い出すかと思えば! この羽沼マコトを議長の座から引きずり下ろそうというのか! そんなことが許されると……」
イロハ「サツキ先輩」
イロハが振り返ると、いつの間にかドアのところにサツキが立っていた。
手には何枚もの紙を持っている。
サツキ「ふふ。万魔殿の役員と主要な部活動の皆さんの署名、集めておいたわよ」
マコト「サツキ!?」
イロハ「議長職務代行の承認書です。万魔殿の規則では、役員と関係部活動の過半数の同意があれば議長の職務を一時的に代行できます。昨日の夜に条文を全部読み直しました」
マコト「そんな規則があったのか!?」
イロハ「ありました。マコト先輩は読んだことがないと思いますけど」
サツキ「イロハちゃんがあんなに熱心に頼みに来るんだもの。断れないわよね。それに見ていて面白そうだし」
マコト「面白そうで裏切るな!」
マコトは椅子から立ち上がって叫んだ。
机をばんと叩く。
マコト「チアキ! お前はこのマコト様の味方だな!?」
チアキ「えーっと……」
チアキは目を泳がせた。
カメラをいじる。
イロハを見る。
マコトを見る。
チアキ「わたしはその……中立? 報道は中立だから」
マコト「報道部でもないくせに何を言っている!」
チアキ「ごめんねマコト先輩。でもこれ絶対いい記事になるから」
マコト「最悪だ!」
イロハは一歩前に出た。
そしてほんの少しだけ表情を和らげた。
イロハ「マコト先輩。乱暴なことはしたくありません。少しの間だけ倉庫の隣の休憩室でゆっくりしていてください。お菓子もゲームも漫画も用意してあります」
マコト「…………お菓子?」
イロハ「マコト先輩の好きなやつを一通り」
マコト「くっ……! そ、そんなもので釣られるこのマコト様では……」
五分後。
マコトは休憩室のソファでポテトチップスの袋を抱えていた。
ドアの外側にはしっかりと鍵がかかっている。
マコト「おのれイロハぁぁぁ! 覚えていろぉぉぉ!」
ばりばりとポテトチップスをかじる音が廊下まで響いていた。
議長室に戻ったイロハは、マコトの椅子には座らなかった。
その隣に自分の机を運び込んで、すぐに仕事を始めた。
チアキ「座らないの? 議長の椅子」
イロハ「あの椅子は大きすぎて作業効率が悪いので」
チアキ「そういう理由なんだ」
イロハ「それよりチアキ。お願いがあります」
イロハが手を止めてチアキを見た。
その時だけ目に少し違う色が宿った。
イロハ「イブキを、しばらく学園の外に連れ出してもらえませんか」
チアキ「イブキちゃんを?」
イロハ「これから万魔殿はかなり忙しくなります。もしかすると少し騒がしいことも起きるかもしれません。イブキを巻き込みたくないんです」
チアキ「……」
イロハ「イブキにはマコト先輩が急な出張に行ったと伝えてください。遊園地でも水族館でもどこでもいいです。費用は私の個人的なお金から出します」
チアキはしばらくイロハの顔を見つめていた。
それからふっと笑った。
チアキ「うん。わかった。まかせて」
イロハ「ありがとうございます」
チアキ「でもさイロハ」
イロハ「はい」
チアキ「今のイロハ、すっごく有能だけど。ちょっとだけ、イロハっぽくないね」
イロハ「……そうですか?」
チアキ「うん。じゃあ行ってくるね」
チアキが出ていったあと、イロハはしばらくペンを持ったまま動かなかった。
ほんの数秒。
それからまた猛烈な勢いで書類をさばき始めた。
先生がゲヘナ学園に着いたのは昼過ぎだった。
校門をくぐった瞬間、違和感に気付いた。
先生「……静かだ」
ゲヘナ学園はいつも騒がしい。
どこかで爆発が起きていて、どこかで誰かが撃ち合っていて、どこかで何かが燃えている。
それが普通だった。
なのに今日は爆発音が一つもしない。
廊下には「本日の爆破予定 なし」と書かれた掲示板が立っている。
その下に「温泉開発は指定区域にて実施のこと 万魔殿」と添えてある。
先生「イロハ……本当に全部回してるんだ」
食堂の前を通りかかると、給食部のジュリとフウカが並んで呆然と立っていた。
先生「フウカ。ジュリ。何かあったの?」
フウカ「先生……。あの、聞いてください。万魔殿の人が来て、給食部の人員を倍にしてくれたんです」
先生「倍に?」
ジュリ「それに調理器具も全部新しくなったんです! あと美食研究会の皆さんが、なぜか食堂のお手伝いを……」
フウカ「イロハさんが美食研究会と交渉したらしくて。食堂を爆破しない代わりに、新メニューの試食会に毎回招待するって」
先生「……それで美食研究会が手伝ってるんだ」
フウカ「はい。黒舘さんが真剣な顔でキャベツを千切りにしています」
先生は食堂の奥をのぞいた。
確かにハルナが包丁を握っていた。
真剣そのものの顔で。
フウカ「おかしいですよね。いいことのはずなのに、なんだか落ち着かなくて」
先生「うん。わかるよ」
フウカ「イロハさん、ちゃんと寝てるのかな……」
先生はフウカにお礼を言って、万魔殿の建物へ急いだ。
万魔殿の議長室。
ドアを開けると、イロハは書類と三つの端末に囲まれていた。
片手で電話をしながら、もう片方の手で判を押している。
イロハ「はい。ではその件は明日の朝までにお願いします。はい。失礼します。……あ、先生。いらっしゃい」
先生「こんにちはイロハ」
イロハ「来てくれたんですね。ちょうどよかったです。シャーレにもご相談したいことがあったので」
イロハは立ち上がって先生に椅子を勧めた。
お茶まで淹れてくれる。
手際がいい。
よすぎるくらいに。
先生「イロハ。マコトは?」
イロハ「休憩室でお休み中です。議長の職務は私が代行しています。手続きはちゃんと踏みました。書類もあります」
イロハは承認書の束を先生の前に置いた。
先生は一枚ずつ目を通した。
署名も手続きも、確かに整っている。
先生「……ちゃんとしてるね」
イロハ「当然です」
先生「マコトはどうしてる?」
イロハ「元気ですよ。さっきお昼ご飯を差し入れたら、三人前食べていました。文句を言いながら」
先生「そっか」
先生は少しだけほっとした。
ひどい扱いはされていないらしい。
それからお茶を一口飲んで、言葉を選んだ。
先生「イロハ。昨日あげたコーヒーのことなんだけど。実はあれ、コーヒーじゃなかったんだ」
イロハ「そうなんですか?」
先生「サヤが作った薬だったんだよね。飲んだ人の性格をひっくり返すんだって。確かめもしないで渡しちゃった。本当にごめん」
イロハは目を丸くした。
それから少し考えるように首をかしげた。
イロハ「なるほど。それで今日はこんなに調子がいいんですね」
先生「怒らないの?」
イロハ「どうして怒るんですか? むしろ感謝したいくらいです。先生のおかげで本当の私に気付けたんですから」
先生「本当の、イロハ……」
イロハ「今まで私はずっと面倒くさがって、本気を出さずにいました。でも本気を出せば、こんなにいろんなことができるんです。ゲヘナはどんどん良くなっています。爆発は減りましたし、食堂は平和ですし、予算の無駄も消えました」
先生「うん。それはすごいことだと思うよ」
イロハ「そうでしょう?」
先生「でも、イロハは今楽しい?」
イロハのペンが止まった。
ほんの一瞬だけ。
イロハ「楽しいですよ。やりたいことが次から次へと浮かんできて、それが全部うまくいくんです。楽しくないはずがありません」
先生「そっか」
イロハ「……先生は、私が元に戻ったほうがいいと思っているんですか」
イロハがまっすぐ先生を見た。
その目はまぶしいほど澄んでいた。
先生はすぐには答えなかった。
先生「正直に言うとね。わからないんだ」
イロハ「わからない?」
先生「今のイロハがやってることは、どれもゲヘナのためになってる。それは本当だと思う。でも薬で変わったイロハが、薬が切れたあとに今の自分をどう思うのか。それは私にもわからないんだよね」
イロハ「……」
先生「だから一つだけ約束してほしいんだ。取り返しのつかないことはしないって」
イロハ「取り返しのつかないこと、ですか」
先生「誰かを傷つけたり、誰かの居場所を勝手に奪ったり。そういうことだよ」
イロハはしばらく黙っていた。
それから、にっこり笑った。
イロハ「大丈夫です。私は誰も傷つけるつもりはありません。ただ、ゲヘナをもっと良くしたいだけです」
先生「うん」
イロハ「そのために、あと一つだけやらなければいけないことがあるんです」
先生「……あと一つ?」
イロハは机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
先生の前に滑らせる。
そこにはこう書いてあった。
ゲヘナ学園統一計画書。
先生「イロハ、これは……」
イロハ「ゲヘナには今、二つの権力があります。万魔殿と風紀委員会です。この二つがいがみ合っているせいで、どれだけの予算と時間が無駄になっているか。先生もご存じでしょう?」
先生「それは……そうかもしれないけど」
イロハ「調べました。万魔殿と風紀委員会の対立にかかった費用は、ここ一年でゲヘナ全体の予算の三割に達します。三割ですよ先生。それだけあれば、食堂をあと三つ建てられます」
先生「イロハ」
イロハ「だから一つにするんです。風紀委員会を万魔殿の傘下に入れて、指揮系統を統一します。そうすればゲヘナはもっと効率的に回ります」
先生「ヒナたちがそれを受け入れると思う?」
イロハ「話し合いで受け入れてもらえれば、それが一番です。もう申し入れはしました。返事は今日の夕方です」
先生はゆっくり息を吐いた。
イロハの言っていることには筋が通っている。
筋が通っているからこそ、危うい。
先生「もし断られたら?」
イロハ「その時は」
イロハは窓の外に目をやった。
万魔殿の格納庫が見える。
そこには、イロハの戦車が静かに眠っていた。
イロハ「虎丸に出てもらうことになりますね」
その日の夕方。
風紀委員会の執務室で、ヒナは万魔殿からの文書を読み終えて、静かに机に置いた。
アコ「ヒナ委員長。どうされますか」
ヒナ「……」
アコ「万魔殿の傘下に入れだなんて。冗談にもほどがあります。即刻突き返しましょう」
ヒナ「冗談だったら、どれだけよかったかしら」
ヒナは目を閉じて眉間を押さえた。
疲れた声だった。
ヒナ「アコ。今日一日のゲヘナの被害報告、もう一度見せて」
アコ「は、はい。……爆発ゼロ件。銃撃戦ゼロ件。器物損壊ゼロ件。違法な温泉掘削ゼロ件。美食研究会による食堂襲撃、ゼロ件です」
ヒナ「風紀委員会ができてから、一度もなかった数字ね」
アコ「……はい」
ヒナ「全部、万魔殿が先回りして片付けたのよ。私たちが出動するより早く」
イオリが机の端に腰かけたまま腕を組んだ。
イオリ「委員長。正直に言っていい?」
ヒナ「どうぞ」
イオリ「今日の私たち、することがなかった。パトロールに出ても何も起きてない。不良を見つけても、もう万魔殿の連中が補導した後だった」
ヒナ「そうね」
イオリ「なんか……腹立つんだけど」
ヒナ「わかるわ」
ヒナは目を開けた。
窓の外では夕日がゲヘナの校舎を赤く染めている。
静かで、平和で、整っている。
ヒナ「でも、だからといってこの文書に頷くわけにはいかない」
アコ「当然です!」
ヒナ「勘違いしないで、アコ。万魔殿が嫌いだから断るんじゃないの」
アコ「え?」
ヒナ「この計画書にはね、全部が書いてある。人員配置も、予算も、指揮系統も。完璧よ。でも一つだけ書いていないことがある」
アコ「書いていないこと……ですか」
ヒナ「どこにも書いてないの。この全部を、誰が支えるのか。答えは一つしかないわ。棗イロハが一人で全部を回すのよ」
ヒナは文書の最後のページを指でなぞった。
ヒナ「誰かひとりが全部を背負うやり方は、長くは続かない。……私はそれを、少しだけ知っているから」
アコとイオリが顔を見合わせた。
ヒナはそれ以上何も言わなかった。
執務室のドアがノックされた。
入ってきたのは先生だった。
先生「こんばんは。急にごめんね」
ヒナ「先生。……来ると思ってた」
先生「万魔殿の文書のことだよね」
ヒナ「ええ。断るわ」
先生「うん。それでいいと思う」
ヒナは少し驚いたように先生を見た。
ヒナ「止めないの?」
先生「風紀委員会のことを決めるのはヒナたちだからね。私が口を出すことじゃないよ。ただ、イロハのことで話しておきたいことがあるんだ」
先生は反転丹のことを話した。
サヤの試作品のこと。
コーヒーと勘違いして渡したこと。
心の芯が揺さぶられれば元に戻るかもしれないこと。
話し終えると、アコが机を叩いた。
アコ「つまり全部先生のせいじゃないですか!」
先生「うん。そうなんだよね。本当にごめん」
アコ「あっさり認めないでください! 怒りにくいじゃないですか!」
イオリ「……先生らしいけど」
ヒナは小さく息を吐いた。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
ヒナ「薬のせいなら、少し安心したわ」
先生「安心?」
ヒナ「棗イロハが本気でゲヘナを乗っ取ろうとしていたら、私たちに勝ち目があるかわからないもの。今日一日見ていてわかった。あの子は、本当はとても有能なのね」
先生「……うん。私もそう思う」
ヒナ「普段はそれを隠しているのか、使う気がないのか。どちらにしても」
ヒナは立ち上がった。
椅子の背にかけてあったコートを羽織る。
ヒナ「明日、万魔殿は動くわ。こちらも準備する。先生」
先生「何かな」
ヒナ「戦いになったら、私は手加減しない。でも、あの子を傷つけるつもりもない。……先生はどうするの?」
先生「私はイロハと話すよ。何度でも。それが私にできることだから」
ヒナ「そう」
ヒナは窓の外の万魔殿の建物を見つめた。
あちらの窓には、夜遅くまで明かりがついていた。
ヒナ「あの子がそれで止まってくれるといいけど」
翌朝。
ゲヘナ学園の中央広場は、異様な空気に包まれていた。
広場の北側には、万魔殿の部隊がずらりと並んでいる。
その中心に、一両の戦車。
ハッチから上半身を出したイロハが、拡声器を握っていた。
イロハ「風紀委員会の皆さん。おはようございます。万魔殿議長代行の棗イロハです」
朝の空気によく通る声だった。
はきはきとして、迷いがない。
イロハ「昨日お送りした提案へのお返事、確かに受け取りました。残念です。でも、私は諦めません。ゲヘナの未来のために、今日ここで、この長い対立を終わらせます」
広場の南側。
風紀委員会の部隊の先頭に、ヒナが立っていた。
その後ろにアコとイオリ。
ヒナは何も持たずに、まっすぐイロハを見上げていた。
ヒナ「始める前に、一つだけ聞いていい?」
イロハ「どうぞ、空崎委員長」
ヒナ「今のあなたは、楽しい?」
イロハの拡声器を持つ手が、ほんのわずかに揺れた。
昨日、先生に同じことを聞かれた。
イロハ「……楽しいですよ。とても」
ヒナ「そう」
ヒナは愛銃を構えた。
ヒナ「なら、私が止めるわ」
次の瞬間、広場は轟音に包まれた。
先生は広場の端、校舎の陰からその光景を見ていた。
隣にはサヤがいた。
朝一番に山海経から飛んできたらしい。
目の下に濃い隈がある。
サヤ「先生。元に戻す丹薬、間に合わなかったのだ。ごめんなさいなのだ」
先生「謝らなくていいよ。徹夜してくれたんだよね。ありがとう」
サヤ「でも……」
先生「サヤが責任を感じてくれてるのはわかってる。でも一番悪いのは私だからね。サヤは一緒に考えてくれれば、それで十分だよ」
サヤは唇を噛んで、こくりと頷いた。
広場では、万魔殿の部隊と風紀委員会の部隊がぶつかり合っていた。
だけど、おかしなことに気付く。
万魔殿の部隊が、驚くほど統率されているのだ。
イロハの指示一つで、隊列が組み変わる。
風紀委員会の突撃をいなし、側面に回り込み、包囲しかける。
イオリ「くそっ! なんだこれ! 万魔殿の連中、こんなに強かったか!?」
アコ「全員の動きが把握されています……! こちらの作戦が全部読まれているみたい……!」
イロハは戦車の上から戦場全体を見渡していた。
拡声器ではなく、通信機に向かって次々と指示を飛ばす。
イロハ「第二班は三秒後に右へ。第四班は援護射撃を続けてください。風紀委員会の銀鏡さんは突出する癖があります。そこを囲みます」
イオリ「なっ……!」
イロハ「天雨さんは指揮に集中するために後ろに下がっています。通信を乱してください」
アコ「ど、どうして私の位置が……!」
そして。
その全部を一人で支えているのは、イロハだった。
ヒナが動いた。
万魔殿の兵が左右に吹き飛ぶ。
風紀委員長の圧倒的な火力が、統率された隊列に穴を開ける。
イロハ「さすがですね、空崎委員長。でも想定内です。虎丸、前進」
戦車が唸りを上げた。
ヒナの正面に回り込む。
ヒナ「戦車相手でも、私は止まらない」
イロハ「わかっています。だから、止めるつもりはありません。時間を稼げればいいんです」
ヒナの目が細くなった。
ヒナ「……時間?」
イロハ「今、万魔殿の別働隊が風紀委員会の本部を押さえに向かっています。指揮所を失えば、風紀委員会は組織として動けなくなります」
アコ「なんですって!?」
ヒナが舌打ちした。
珍しいことだった。
ヒナ「本当に厄介ね。……いつもこの頭を使ってくれていたら、ゲヘナはもっと平和だったかもしれないのに」
イロハ「だから今、使っているんです」
広場の端で、先生は拳を握った。
先生「……行かないと」
サヤ「先生!? 危ないのだ!」
先生「大丈夫。撃たれないように気を付けるから」
サヤ「気を付けてどうにかなるものではないのだ!」
先生は校舎の陰から出た。
両手を上げて、ゆっくり広場の中央へ歩いていく。
気付いた両陣営の生徒たちが、次々と銃口を下げた。
イオリ「先生!? 何やってんの!?」
アコ「危ないです先生! 下がってください!」
先生は止まらなかった。
イロハの戦車の前まで歩いて、見上げた。
先生「イロハ。少しだけ話をさせてくれないかな」
イロハ「先生……。今は戦闘中です。危ないですよ」
先生「うん。わかってる。だから短くするね」
イロハは何も言わなかった。
ただ通信機を一度だけ叩いて、全隊に射撃中止を伝えた。
イロハ「……どうぞ」
先生「昨日、約束してくれたよね。取り返しのつかないことはしないって」
イロハ「はい。誰も傷つけていません。弾は全部、非殺傷弾です」
先生「うん。そこはちゃんと守ってくれてる。ありがとう」
イロハ「なら」
先生「でもね。風紀委員会の居場所を、ヒナたちの意思を無視して奪うのは、取り返しがつかないことだと思うんだ」
イロハの表情が、わずかに硬くなった。
イロハ「……ゲヘナのためです」
先生「うん。イロハが本気でそう思ってるのは、わかるよ」
イロハ「だったら、どうして止めるんですか。先生だって昨日言ったじゃないですか。私のやっていることはゲヘナのためになっているって」
先生「言ったね。それは本当にそう思ってる」
イロハ「なら」
先生「でも、イロハが一人で全部を回しているこのやり方は、イロハが倒れたら全部止まっちゃうんだよね」
イロハが黙った。
先生は続けた。
先生「昨日フウカが心配してたよ。イロハ、ちゃんと寝てるのかなって」
イロハ「……寝ています」
先生「何時間?」
イロハ「…………二時間です。でも平気です。疲れていませんから」
先生「疲れてないのは、薬のせいかもしれない。それが切れた時、イロハの体がどうなるか。私は、それが怖いんだ」
イロハはハッチの縁をぎゅっと握った。
指が白くなるほど。
イロハ「……先生は、ずるいです」
先生「そうかもしれないね」
イロハ「心配されたら、言い返せないじゃないですか」
その時だった。
マコト「キキキキキッ! 見つけたぞイロハぁぁぁ!」
広場に、場違いなほど元気な声が響き渡った。
全員が振り返る。
広場の西側。
校舎の屋上に、マコトが仁王立ちしていた。
制服のあちこちにポテトチップスのかけらがついている。
アコ「議長!? 閉じ込められていたんじゃ……!」
マコト「キキキッ! このマコト様を休憩室ごときに閉じ込めておけると思ったか! 換気口を這って脱出してやったわ!」
イオリ「換気口……」
マコト「三時間かかった!」
イオリ「かかりすぎだろ」
マコトは屋上の縁に片足をかけて、広場を見下ろした。
その顔は得意げだった。
得意げだったけど、なぜか少し安心したようにも見えた。
マコト「イロハ! お前の天下もここまでだ! ゲヘナを統べるのはこのマコト様だ!」
イロハ「マコト先輩。危ないですから下りてきてください」
マコト「誰が下りるか!」
イロハ「では、そこから落ちないように気を付けてください。通信が混乱するので、静かにしていただけると助かります」
マコト「無視するなぁぁぁ!」
イロハは先生に向き直った。
その目にはまた、あのまぶしい光が戻っていた。
イロハ「先生。お話はわかりました。でも、私はもう引き返せないんです。ここで止めたら、今まで動かしてきたものが全部無駄になってしまいます」
先生「イロハ……」
イロハ「ごめんなさい。少し下がっていてください。……全隊、射撃再開を」
チアキ「ちょっと待ったーっ!」
また別の声が広場に響いた。
今度は東側。
校門のほうから、一台の車が猛スピードで突っ込んでくる。
車は広場の端で急停止した。
運転席から飛び出してきたのは、チアキだった。
手にはカメラ。
そして。
イブキ「イロハせんぱーいっ!」
助手席のドアが開いて、小さな女の子が飛び出してきた。
ふわふわの髪に、遊園地のカチューシャをつけたまま。
両手には大きな風船を持っている。
イブキだった。
イロハの手から、通信機が落ちた。
イロハ「……イブキ?」
イブキ「イロハ先輩! ただいまー! イブキね、チアキ先輩と遊園地に行ってきたんだよ! 観覧車に乗ってね、ジェットコースターにも乗ってね、それからね……」
イブキは戦車の前まで駆けてきて、そこでぴたりと足を止めた。
周りを見回す。
銃を構えた万魔殿の部隊。
風紀委員会の部隊。
ぼろぼろになった広場。
イブキ「……みんな、何してるの?」
誰も答えられなかった。
イロハは戦車の上から、チアキを睨んだ。
イロハ「チアキ。どうして連れてきたんですか。イブキを巻き込まないでって、お願いしたはずです」
チアキ「うん。お願いされた。だから昨日は、ちゃんと遊びに連れて行ったよ。一晩泊まりで」
イロハ「なら、どうして」
チアキ「今朝、イブキちゃんがね。イロハ先輩にお土産を早く渡したいって言ったの」
チアキはカメラを下ろした。
いつもの軽い調子が、少しだけ消えていた。
チアキ「それでね、思ったんだ。イロハがイブキちゃんを遠ざけたのは、イブキちゃんに見られたくないことをするつもりだったからじゃないかなって」
イロハ「……っ」
チアキ「イロハは昔から、本当にやりたくないことをする時は、絶対にイブキちゃんに見せないもんね」
イロハは何か言い返そうとして、口を開いた。
でも、言葉が出てこなかった。
イブキ「イロハ先輩」
イブキが戦車を見上げていた。
風船の紐を、両手でぎゅっと握っている。
イブキ「イロハ先輩、なんだかこわい顔してる」
イロハ「……そんなこと、ありませんよ」
イブキ「ううん。してるもん」
イブキは首を横に振った。
カチューシャがぴょこぴょこ揺れる。
イブキ「イロハ先輩はね、いつもはもっとねむそうなお顔してるの。それでね、イブキがお話しすると、ちょっとだけ笑ってくれるの。イブキ、そっちのイロハ先輩のほうが好き」
イロハの肩が、小さく震えた。
イブキ「イブキ、遊園地でイロハ先輩のお土産選んだんだよ。いっぱい考えたの。イロハ先輩、本読むの好きだから、しおりにしたの。くまさんのしおり」
イブキは風船を片手に持ちかえて、ポシェットから小さな包みを取り出した。
精一杯背伸びして、戦車の上のイロハに差し出す。
イブキ「イロハ先輩、またいっしょにお昼寝しよ? イブキ、イロハ先輩とお昼寝するの大好きなの」
広場が静まり返った。
誰も息をしていないみたいだった。
イロハはゆっくり手を伸ばした。
イブキの小さな手から、包みを受け取る。
くまの絵が描かれた、可愛いしおりだった。
イロハ「…………イブキ」
その声は、震えていた。
イロハ「私、ずっと……何をしていたんでしょう」
イロハの瞳から、あのまぶしい光がすうっと引いていった。
代わりに戻ってきたのは、いつもの、少し眠たげで、少し気怠そうな目だった。
イロハは戦車の縁にぐったりともたれかかった。
イロハ「はぁ…………」
長い、長いため息だった。
イロハ「……疲れました」
イブキ「イロハ先輩?」
イロハ「ものすごく、疲れました。体中が重いです。頭も痛いです。二日分の疲れが一気に来ました」
イブキ「だいじょうぶ!?」
イロハ「大丈夫じゃないです。もう一歩も動きたくありません」
イロハは顔を上げて、イブキを見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
イロハ「でも、ありがとうございます、イブキ。しおり、大事にしますね」
イブキ「うん!」
イブキがぱっと笑顔になった。
広場のあちこちから、力が抜けるような息が漏れた。
万魔殿の兵も、風紀委員会の兵も、銃を下ろしていく。
サヤが先生の袖をつかんだ。
サヤ「先生……今のは」
先生「うん。イロハの心の芯は、イブキだったんだね」
サヤ「……一番大事なものに触れた時、なのだ」
先生「サヤの理論、ちゃんと合ってたね」
サヤ「当然なのだ。ぼく様は天才なのだ」
サヤは得意げに胸を張ったけど、その目は少しだけ潤んでいた。
先生は戦車に近づいて、イロハを見上げた。
先生「おかえり、イロハ」
イロハ「……先生」
先生「具合はどう?」
イロハ「最悪です。全部覚えてるんですよ。マコト先輩を休憩室に閉じ込めたことも、温泉開発部と交渉したことも、美食研究会にキャベツを切らせたことも。全部」
先生「そっか」
イロハ「恥ずかしくて死にそうです」
先生「死なないでね」
イロハ「比喩です」
イロハは顔を両手で覆った。
耳まで赤くなっている。
イロハ「……でも、一つだけわかったことがあります」
先生「何かな」
イロハ「一人で全部やるのは、楽しいけど。……すごく、寂しかったです」
先生は少しだけ黙って、それから柔らかく笑った。
先生「うん。そうだよね」
イロハ「ゲヘナ中を回っていたのに、誰とも話していなかった気がするんです。指示を出して、報告を受けて、また指示を出して。チアキともサツキ先輩とも、ちゃんとお喋りしていなかった。イブキのことも、遠ざけていました」
先生「全部自分でやれちゃうと、誰かに頼る理由がなくなっちゃうからね」
イロハ「……はい」
先生「でもさ、イロハ。今回わかったこともあるよね。イロハは、やろうと思えばすごいことができる」
イロハ「やろうと思わないので、意味はありません」
先生「ふふ。そうだね。でも、本当に困った時は、きっと何とかしてくれるんだろうなって。私はそう思えるようになったよ」
イロハ「……そういう期待、やめてください。面倒くさいので」
そう言いながら、イロハの口元は少しだけ緩んでいた。
ヒナが近づいてきた。
銃を肩にかけて、戦車を見上げる。
ヒナ「終わったみたいね」
イロハ「……空崎委員長。ご迷惑をおかけしました」
ヒナ「ええ。とても迷惑だったわ」
イロハ「はい」
ヒナ「でも、昨日一日のゲヘナはとても静かだった。……少しだけ、羨ましかったわ」
イロハ「羨ましい、ですか」
ヒナ「あれだけのことを、たった一人で回せる能力が。私には真似できない」
イロハ「委員長だって、いつも一人で背負っているじゃないですか」
ヒナ「……そうね」
ヒナは少しだけ目を伏せた。
ヒナ「だから、あなたが今言ったことは、私にも少し刺さったわ」
イロハとヒナは、しばらく黙って見つめ合った。
敵同士の組織の、それぞれの真ん中にいる二人。
何かが、ほんの少しだけ通じた気がした。
アコ「委員長ーっ! 本部の被害状況の確認が終わりました! 万魔殿の別働隊は、本部の入り口で律儀に待機していたそうです! お茶を出したら喜んで飲んでいたと!」
ヒナ「……そう」
イオリ「なんか締まらないな」
その時だった。
マコト「キキキキキッ!」
またあの声が響いた。
全員が、うんざりした顔で西側の屋上を見上げる。
マコトはまだ屋上にいた。
腕を組んで、仁王立ちで。
その顔は、ありえないほど得意げだった。
マコト「見たか風紀委員会! これがこのマコト様の作戦だ!」
ヒナ「……作戦?」
マコト「そうだ! 全てはこのマコト様の計画通りだったのだ!」
マコトは高らかに叫んだ。
広場中に響き渡る声で。
マコト「イロハのクーデターも! 風紀委員会への宣戦布告も! 全部このマコト様がイロハに命じてやらせたことだ! 風紀委員会の実力を測り、その弱点を暴くための壮大な作戦だったのだ!」
広場が、しんと静まり返った。
先生は、ゆっくりとマコトを見上げた。
先生「……マコト?」
マコト「キキキッ! 先生も驚いたか! このマコト様の策略の深さに!」
先生「いや、そうじゃなくて。今回のことは、私がサヤの薬を間違えてイロハに渡したのが原因で……」
マコト「黙っていろ先生! このマコト様の手柄を横取りするつもりか!」
先生「横取りじゃなくて……」
マコト「休憩室でポテトチップスを食べていたのも作戦の一環だ! 敵を欺くにはまず味方からと言うだろう!」
イオリ「絶対嘘だ」
アコ「換気口を三時間這っていたのも作戦の一環なんですか」
マコト「当然だ!」
チアキがカメラを構えていた。
赤い録画ランプが、ちかちかと点滅している。
チアキ「わあ。今の、全部撮れちゃった」
マコト「キキキッ! 良いぞチアキ! 万魔殿の広報に載せろ! このマコト様の偉大さをゲヘナ中に知らしめるのだ!」
チアキ「了解でーす」
ヒナが小さく息を吐いた。
それから、手元の端末を操作し始めた。
ヒナ「アコ」
アコ「はい、委員長」
ヒナ「今回の騒動の被害報告書。万魔殿の別働隊に提供したお茶の費用。広場の修繕費。風紀委員会の臨時出動にかかった人件費。全部まとめて」
アコ「はい」
ヒナ「宛先は、万魔殿議長、羽沼マコト」
アコ「承知しました」
マコトの笑い声が、ぴたりと止まった。
マコト「……は?」
ヒナ「全部あなたの作戦だったんでしょう? なら、責任を取るのもあなたよね」
マコト「ま、待てヒナ! それとこれとは……」
ヒナ「さっき、自分ではっきり言っていたわ。広場にいる全員が聞いていた。チアキの映像にも残っている」
マコト「ぐ……ぐぬぬぬ……!」
マコトは助けを求めるように、広場を見回した。
サツキはにこにこ笑っている。
チアキはまだ録画を続けている。
そしてイロハは。
戦車の縁にもたれたまま、眠たそうに目を細めていた。
マコト「イ、イロハ! お前からも何か言ってやれ! お前が勝手にやったことだろう!?」
イロハは少しだけ考えた。
ほんの一秒くらい。
イロハ「はい。全部マコト先輩のご指示でした」
マコト「イロハぁぁぁぁ!?」
イロハ「私は命令に従っただけです。部下の手柄は上司の手柄。部下の責任も上司の責任。……マコト先輩がいつも言っていることですよね」
マコト「言ったけど! 言ったけども!」
先生「イロハ、さすがにそれは……」
イロハ「先生。今は黙っていてください。せっかく丸く収まりそうなので」
先生「丸く収まってるかな、これ」
先生はマコトを見上げた。
それからヒナに向き直った。
先生「ヒナ。本当のところは私に責任があるんだ。修繕費は、シャーレからも出させてもらえないかな」
ヒナ「先生がそう言うなら、半分は受け取るわ」
先生「ありがとう」
ヒナ「でも残りの半分は、議長に払ってもらう。自分で自分の作戦だと言ったんだもの。……それに」
ヒナはちらりとマコトを見上げた。
ほんのわずかに、口元が上がっていた。
ヒナ「たまには、あの人が責任を取るところも見てみたいの」
広場のあちこちで、くすくすと笑い声が漏れた。
万魔殿の兵も、風紀委員会の兵も、一緒になって。
マコト「笑うなぁぁぁ! キキキッ……なぜだ……なぜこうなるのだぁぁぁぁ!」
マコトの絶叫が、ゲヘナの空にこだました。
いつもの、騒がしいゲヘナの空に。
どこか遠くで、爆発音がした。
温泉開発部が、早速いつもの場所を掘り始めたらしい。
イオリ「……戻ったな」
アコ「戻りましたね」
ヒナ「ええ。戻ったわ」
ヒナはため息をつきながら、それでも少しだけ嬉しそうに、爆発のした方へ歩き出した。
それから数日後。
シャーレの執務室のドアが、控えめにノックされた。
イロハ「失礼します。万魔殿の書類を届けに来ました」
先生「いらっしゃい、イロハ」
イロハは書類の束を机に置くと、そのままソファに沈み込んだ。
抱えていた文庫本を開く。
ページの間から、くまのしおりが少しだけのぞいていた。
先生「体はもう平気?」
イロハ「三日間寝込みました。マコト先輩がずっと枕元で文句を言っていたので、あまり休めませんでしたけど」
先生「マコトがお見舞いに来てくれたんだ」
イロハ「お見舞いじゃなくて、請求書の愚痴です。でも、プリンを置いていってくれました。イブキの分と、私の分」
先生「ふふ。マコトらしいね」
イロハ「……そうですね」
イロハはページをめくった。
しばらく、静かな時間が流れた。
イロハ「先生」
先生「ん?」
イロハ「あれから少しだけ、仕事のやり方を変えたんです」
先生「そうなの?」
イロハ「面倒くさい仕事を、チアキとサツキ先輩に振るようにしました。前は自分でやったほうが早いと思って、全部抱え込んでいたので。……抱え込んだうえでサボっていたので、溜まる一方だったんですけど」
先生「それは、すごくいい変化だと思うよ」
イロハ「そうですか?」
先生「うん。一人で全部できるイロハもすごかったけど。誰かに頼れるイロハのほうが、私は好きかな」
イロハ「……そういうことを、さらっと言わないでください」
イロハは文庫本で顔を半分隠した。
イロハ「それで、空いた時間でイブキとお昼寝しています」
先生「結局サボってるんだね」
イロハ「効率的な休養です」
先生は笑って、給湯スペースに向かった。
今度はインスタントコーヒーの瓶を、ちゃんと確かめる。
中身はたっぷり入っていた。
机の引き出しには、サヤに返しそびれた包みが二つ、厳重に封をしてしまってある。
表には先生の字で大きく書いた付箋が貼ってあった。
コーヒーではありません。飲むな危険。
先生「何か飲む?」
イロハ「先生が淹れてくれるなら」
先生「今度はちゃんとしたコーヒーだからね」
イロハ「ラベル、確認しましたか?」
先生「確認したよ。三回」
イロハ「なら、いただきます」
先生がカップを差し出すと、イロハはそれを両手で包んだ。
一口飲んで、ほっと息をつく。
いつもの、少し眠たげな顔で。
イロハ「……やっぱり、これくらいがちょうどいいです」
先生「そっか」
イロハ「働きたくて仕方がない私なんて、もうこりごりです。……先生のコーヒーを飲んで、ここでのんびり本を読む。これくらいで十分なんですよ」
そう言ってイロハは、くまのしおりを挟んだページを開いた。
その時、先生の端末が鳴った。
表示された名前は、羽沼マコト。
マコト「先生ぇぇぇ! ヒナから追加の請求書が届いたぞぉぉぉ! 換気口の修理費だそうだ! このマコト様が這ったせいで歪んだらしい! どういうことだぁぁぁ!」
イロハは顔を上げずに、ページをめくった。
イロハ「はぁ……。それは本当にマコト先輩のせいですね」