深夜のシャーレ。書類の山を前にして 先生はふと「東京チカラめし」が食べたくなった。
シッテムの箱のアロナとプラナに相談してみたところ そのひと言がなぜかキヴォトス中に広まってしまう。
ゲヘナ ミレニアム トリニティ。三大校を巻き込んで 誰も食べたことのない「焼き牛丼」をめぐる再現競争が始まった。会話中心の長編です。途中で区切らず 一続きの話として読めるように書いています。
キャラクターの口調や関係性には気をつけていますが 独自解釈とif設定を含みます。
pixivにも掲載しています。

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先生「……焼き牛丼が食べたい」

 午前一時のシャーレ執務室は 空調の音と紙をめくる音しかしなかった。

 机の上には決裁待ちの書類が三つの塔になっている。先生はそのうち一つの一番上を手に取って 読まないまま元に戻した。

先生「……焼き牛丼が食べたい」

 誰に聞かせるつもりもない独り言だった。

 けれど机の端に立てかけたタブレットの画面が ぱっと明るくなった。

アロナ「先生! 今なにか食べたいって言いましたか?」

先生「あ 起こしちゃったかな。ごめんね」

アロナ「いえいえ アロナはいつでも先生のそばにいますから! それで何が食べたいんですか?」

 画面の中の青い少女は身を乗り出して 頬を画面にくっつけそうになっている。

 その後ろから 白い髪の少女が静かに顔を出した。

プラナ「先輩 声が大きいです。深夜です」

アロナ「プラナちゃんも聞いてましたよね? 先生の食べたいもの!」

プラナ「……焼き牛丼 と聞こえました」

先生「うん。正確には東京チカラめしの焼き牛丼なんだよね」

 先生はペンを置いて 椅子の背もたれに体を預けた。

 天井を見上げる目が 少しだけ遠くなる。

先生「煮るんじゃなくて焼くんだよ。牛肉を鉄板で焼いて甘辛いタレを絡めて ご飯にのせる。香ばしくて味が濃くて 夜中に書類をやっつけたあとに食べると最高なんだ」

アロナ「おいしそうです……!」

先生「急に思い出しちゃってね。キヴォトスに来てから一度も食べてないなって」

アロナ「ふっふっふ それならアロナにお任せください!」

 アロナは胸を張って 人差し指を立てた。

アロナ「天才美少女アロナちゃんは知ってますよ! 東京チカラめしといえば 国内三百店舗を超える超人気チェーンです! きっとどこかにありますから すぐ探しますね!」

先生「おお さすがアロナ」

プラナ「先輩 それは誤りです」

アロナ「えっ」

 プラナは表情を変えず 空中に小さなウィンドウをいくつか開いた。

 古いニュース記事の見出しがずらりと並ぶ。

プラナ「東京チカラめしの一号店は池袋西口です。その後急速に出店し 最盛期は百店舗以上。ピーク時でも百三十店舗前後とされています。三百店舗には届いていません」

アロナ「うっ……ちょっと多めに覚えてただけです」

プラナ「倍以上です」

アロナ「うう……」

先生「まあまあ。それで今はどれくらいあるのかな?」

 プラナは一拍置いた。

 次のウィンドウを開く指が ほんのわずかにためらったように見えた。

プラナ「その後閉店が相次ぎ 都内最後の店舗も閉店しました。現在 国内の店舗は二つです」

先生「二つ」

プラナ「一つは日本橋店です」

先生「日本橋! なんだ 東京にちゃんと残ってるじゃないか」

プラナ「先生 それは大阪の日本橋です」

 執務室の空気が 目に見えて一段重くなった。

 先生は背もたれから体を起こして プラナの顔をじっと見た。

先生「……大阪の」

プラナ「はい。大阪市浪速区です。東京にない東京チカラめし として報道されたこともあります」

先生「東京チカラめしなのに……東京にない……」

アロナ「せ 先生 もう一つあるって言ってましたよね! プラナちゃん もう一つは?」

プラナ「もう一つは東京都内です」

先生「本当に?」

プラナ「東京法務局の中にある食堂です」

先生「法務局」

プラナ「都内のものは 利用できる場所がかなり限られています。先生が気軽に夜食で立ち寄れる店舗ではありません」

 先生はゆっくりと両手で顔を覆った。

 指の隙間から 長い長い息が漏れる。

先生「そっか……そうなんだね……」

アロナ「先生! しっかりしてください!」

先生「大丈夫だよ。大丈夫なんだけど……ちょっとだけ心が折れそうなんだよね」

プラナ「そもそも ここはキヴォトスです。大阪も東京もありません」

先生「うん……それはわかってるんだ……」

 プラナは画面の中で小さく首をかしげた。

 慰めの言葉を探しているのか 何かの計算をしているのか その顔からは読み取れない。

プラナ「……先生。残念ですか」

先生「ふふ 残念だね。すごく残念だよ。でも知らないまま探し回るよりずっといいかな。教えてくれてありがとう プラナ」

プラナ「……いえ」

アロナ「私も! 私も調べました!」

先生「アロナもありがとう。三百店舗の夢を見せてくれて」

アロナ「うう それ褒めてないですよね……!」

 先生は笑って書類の塔に向き直った。

 そのとき 執務室の隅のソファで 毛布の山がもぞりと動いた。

モモイ「……ねえ先生 今の話なに?」

先生「モモイ? まだいたの?」

 毛布から顔を出したのは 才羽モモイだった。

 夕方に「ユウカから逃げてきた」と転がり込んできて そのまま寝落ちしていたらしい。

モモイ「東京チカラめしって何? すっごく強そうな名前じゃん!」

先生「焼き牛丼のお店だよ。ここにはないけどね」

モモイ「ない? 伝説のお店ってこと? 先生がどうしても食べたいのに 世界に二つしか残ってない幻のご飯……!」

先生「言い方がすごく壮大になってるね」

モモイ「これはみんなに知らせなきゃ!」

先生「え 待って モモイ」

 止める前に モモイのスマホの画面が光っていた。

 送信完了の軽い音が 深夜の執務室にやけに大きく響いた。

モモイ「送った! ゲーム開発部のグループと あとなんか色々なとこ!」

先生「色々なとこって どこかな?」

モモイ「えーっと……色々!」

 プラナが静かにタブレットの中で目を閉じた。

プラナ「先生。モモトークの拡散経路を追跡しますか」

先生「……明日にしよっか」

 この夜の判断を 先生はのちに少しだけ後悔することになる。

 翌日の昼 ゲヘナ学園の給食部の調理場には 朝から不穏な気配が漂っていた。

 大鍋の前に立つ愛清フウカは おたまを握ったまま入口を見て固まっていた。

ハルナ「ごきげんよう フウカさん」

フウカ「……帰って」

ハルナ「まだ何も申し上げておりませんわ」

フウカ「その顔を見ればわかるの。どうせまた面倒なことでしょ」

 入口に立っていたのは 黒舘ハルナだった。

 その後ろには赤司ジュンコ 獅子堂イズミ 鰐渕アカリが並んでいる。美食研究会がそろって調理場に来る時点で ろくなことにならないのは明白だった。

ハルナ「面倒なこと ではありません。美食の探求です」

フウカ「それを面倒って言うのよ」

ジュンコ「ねえハルナ あたしお腹すいたんだけど 話早くしてよ」

イズミ「ここの給食の匂いするね~ ねえフウカ それ味見していい?」

フウカ「駄目」

アカリ「うふふ 今日はフウカさんにお願いがあって来たんですよ」

 ハルナは一枚のスマホ画面をフウカに向けた。

 そこには 昨夜モモイが流したメッセージが表示されている。

『先生が東京チカラめしを食べたくて死にそうになってる! 世界に二つしかない幻の焼き牛丼だって!』

フウカ「……何これ」

ハルナ「東京チカラめし。わたくしも初めて耳にする名前です。けれど 先生がそこまで恋い焦がれる料理となれば 相当な美食に違いありませんわ」

フウカ「死にそうって書いてあるけど 大げさでしょ」

ハルナ「先生は普段から多忙の中で 食事を後回しにしがちなお方です。その先生が夜更けに思わず名を口にした料理。それはきっと 魂が求める味なのです」

 ハルナは胸に手を当てて 真剣な目をしていた。

 フウカはその目を見て 反論の言葉を少しだけ飲み込んだ。

フウカ「……で 私に何をさせたいの」

ハルナ「再現していただきたいのです。キヴォトスで誰よりも早く 先生に東京チカラめしを」

フウカ「どんな料理かもわからないのに?」

ハルナ「手がかりはあります。焼き牛丼。煮るのではなく焼く。これだけで十分ですわ」

フウカ「十分じゃないわよ!」

ジュンコ「焼いた牛肉をご飯にのせるんでしょ? 簡単じゃん」

フウカ「簡単なら自分で作りなさいよ」

ジュンコ「あたしが作ったら食べる前に全部食べちゃうもん」

イズミ「わかる~」

 フウカはこめかみを押さえた。

 そこへ調理場の奥から 牛牧ジュリがひょこりと顔を出した。

ジュリ「フウカ先輩 焼き牛丼ですか? 私も作ってみたいです!」

フウカ「ジュリはちょっと待ってて」

ジュリ「えっ まだ何もしてないのに」

フウカ「何もしてないうちに止めてるのよ」

 ジュリがしょんぼりと肩を落とす。

 フウカは小さくため息をついて エプロンの紐を結び直した。

フウカ「……先生が食べたがってるなら 作るのはいいわ。でも一つだけ条件があるから」

ハルナ「何なりと」

フウカ「材料は自分たちで買ってきなさい。どこかから盗んだり 爆破して奪ったりしないで」

 ハルナは一瞬だけ視線を横に流した。

 アカリがにこにこしたまま 背中に何かの袋を隠した。

フウカ「……今隠したの何」

アカリ「うふふ 何でもありませんよ」

フウカ「牛肉でしょ」

アカリ「とっても立派な牛肉です」

フウカ「どこで手に入れたの」

ハルナ「正規の手段ですわ。購入しようとしたところ 店主が快く譲ってくださいました」

ジュンコ「店主さん ハルナの銃見て泣いてたけどね」

フウカ「返してきなさい!」

 美食研究会の四人が顔を見合わせる。

 ハルナは少し考えてから 静かにうなずいた。

ハルナ「承知しました。代金はきちんとお支払いします。美食は 誰かの涙の上に成り立ってはなりませんから」

フウカ「言ってることは立派なのに なんで最初からそうしないのよ……」

 結局 アカリが肉屋へ代金を払いに行き 残りのメンバーは調理場に居座ることになった。

 フウカは鉄板を火にかけながら 先生の言葉を頭の中でなぞっていた。

フウカ「焼いて 甘辛いタレ……それだけじゃ たぶん足りないのよね」

ハルナ「と おっしゃいますと?」

フウカ「先生がわざわざ名前で覚えてるくらいでしょ。普通の焼肉丼とは どこかが違うんだと思う」

 ハルナの目がきらりと光った。

 美食に関わるとき この少女の直感はときどき恐ろしく鋭い。

ハルナ「では 本物を知る方に聞けばよいのです」

フウカ「先生に?」

ハルナ「いいえ。先生に尋ねてしまえば 驚きがなくなってしまいます。わたくしたちは 先生が一口食べて言葉を失う瞬間をお届けしたいのです」

フウカ「……結局 手探りってことじゃない」

ハルナ「手探りこそ美食の醍醐味ですわ」

 鉄板の上で牛肉が音を立て始めた。

 フウカは匂いを確かめながら 醤油と砂糖と酒の配合を少しずつ変えていく。

 一枚目は焦げた。二枚目は甘すぎた。三枚目で イズミが勝手に全部食べた。

イズミ「おいしい! これもう正解じゃない?」

フウカ「正解かどうか あなたにはわからないでしょ」

イズミ「でもおいしいよ?」

フウカ「おいしいだけじゃ駄目なの。先生が食べたいのは 先生の知ってる味なんだから」

 ハルナはその言葉を聞いて 小さく微笑んだ。

 フウカ本人は気づいていなかったが その横顔はすっかり料理人のものになっていた。

ハルナ「やはり フウカさんにお願いして正解でした」

フウカ「べつに あなたのためじゃないから」

ハルナ「存じております。先生のため ですわね」

フウカ「……そういうのいちいち言わないで」

 フウカの耳が赤くなったのは 鉄板の熱のせいということになった。

 同じころ ミレニアムサイエンススクールのヴェリタス部室では モニターの光が薄暗い部屋を青く染めていた。

 中央の車椅子に座った明星ヒマリが 優雅に紅茶のカップを傾けている。

ヒマリ「つまり この天才清楚系病弱美少女ハッカーの頭脳を 焼き牛丼のために貸してほしい と」

ケイ「そうです」

 ヒマリの前に立っているのは ケイだった。

 腕を組んで 表情はいつも通り硬い。けれどその後ろで アリスとモモイとミドリとユズが 期待のこもった目で成り行きを見守っている。

アリス「ケイは先生のために 伝説のアイテムを錬成しようとしています!」

モモイ「私が発見したクエストだからね! 東京チカラめし!」

ミドリ「お姉ちゃんが勝手に拡散しただけでしょ……」

ユズ「で でも……先生が元気ないなら……何かしてあげたい……です」

 ユズは段ボール箱から半分だけ顔を出して 小さくつぶやいた。

 ヒマリはカップを置いて ケイをまっすぐ見た。

ヒマリ「理由を聞いても?」

ケイ「……先生は 私が王女のそばにいることを許してくれました。その借りを返す機会があるなら 返しておきたいだけです」

ヒマリ「借り ですか」

ケイ「合理的な判断です。それ以上の意味はありません」

アリス「ケイは照れています!」

ケイ「王女 照れていません」

 ケイの声が少しだけ早口になった。

 ヒマリはくすくすと笑って キーボードに指を置いた。

ヒマリ「よいでしょう。ではまず キヴォトス内のネットワークで情報を検索してみますね」

 画面にいくつものウィンドウが開いては閉じていく。

 隣でコーヒーを飲んでいた各務チヒロが 横目でその様子を眺めていた。

チヒロ「部長 それ本当にやるの? 焼き牛丼だよ?」

ヒマリ「チヒロ。どんな小さな謎も おろそかにしないのが天才の流儀です」

チヒロ「はいはい」

 しかし いくら検索しても 東京チカラめしという言葉が引っかかるのは 昨夜から今朝にかけての噂話ばかりだった。

 ヒマリの眉が わずかに寄る。

ヒマリ「……ありませんね。キヴォトスには 元となる情報がまったく存在しないようです」

モモイ「えー! 天才ハッカーでも無理なの?」

ヒマリ「無理とは言っていません。存在しない ということがわかったのです。これも立派な成果ですよ」

ミドリ「それ 負け惜しみって言うんじゃ……」

 そのとき ケイが一歩前に出た。

ケイ「では 別のデータベースを参照します」

チヒロ「別の?」

ケイ「名もなき司祭たちが残したデータです。私の中にも 断片的なアクセス経路が残っています」

 部室の空気がすっと冷えた。

 チヒロがコーヒーのカップを置き ヒマリの顔からも笑みが引いた。

チヒロ「ちょっと待って。それって 軽い気持ちで触っていいものじゃないでしょ」

ケイ「理解しています。ですが 外部の情報が必要なら それ以外に手段はありません」

ヒマリ「ケイ。先生のためだとしても 危険を冒していい理由にはなりませんよ」

ケイ「危険な領域には触れません。検索するのは食文化のデータだけです。何かあれば すぐに遮断してください」

 ケイはヒマリをまっすぐ見返した。

 その目には 以前のような冷たさとは違う 引かない強さがあった。

アリス「アリスも見ています! ケイに何かあったら アリスが止めます!」

ケイ「……王女がそう言うなら 失敗はできませんね」

 ヒマリはしばらく黙っていた。

 やがて 小さく息を吐いて キーボードから手を離した。

ヒマリ「チヒロ 監視をお願いします。異常があれば 私の判断を待たずに切断してください」

チヒロ「……わかった」

 ケイが端末に手を触れる。

 モニターに 見たことのない文字列が流れ出した。古い 冷たい 意味を読み取れない記号の羅列。その中から ケイは一つずつ 言葉を拾い上げていく。

ケイ「……検索語 チカラめし。該当なし」

モモイ「えっ」

ケイ「検索語 焼き牛丼。……断片データを一件確認」

 全員が画面に顔を寄せた。

 そこに表示されたのは たった二行の文字だった。

『焼きダレ』

『かけダレ』

ミドリ「……タレ?」

ユズ「タレが……二つ……?」

ケイ「推測します。焼くときに絡めるタレと 盛り付けたあとにかけるタレ。二種類のタレを使い分けている可能性があります」

ヒマリ「なるほど……。単に焼いた肉をのせるだけではない ということですね」

チヒロ「司祭のデータベースに なんでそんなのが残ってるのかは謎だけどね」

ケイ「理由は不明です。ですが 手がかりとしては十分です」

 ケイはわずかに口角を上げた。

 ほんの一瞬だけの その表情を アリスは見逃さなかった。

アリス「ケイが笑いました!」

ケイ「笑っていません」

アリス「パンパカパーン! ケイは新しいスキル ちょっと笑う を覚えました!」

ケイ「王女……」

 そのとき 部室のドアが勢いよく開いた。

 入ってきたのは 早瀬ユウカだった。手には分厚い書類を抱えている。

ユウカ「ヴェリタス! 今朝から電力使用量が異常に跳ね上がってるんだけど 何をしてるの!」

モモイ「げっ ユウカ」

ユウカ「げっ じゃないわよ。それにモモイ なんでここにいるの。昨日の報告書まだ出てないわよね?」

モモイ「そ それより大事なことがあるの! 先生が死にそうなの!」

ユウカ「……は?」

 ユウカの顔から血の気が引いた。

 書類が一枚 床に落ちる。

ユウカ「先生が……どういうこと?」

ミドリ「お姉ちゃん! 言い方!」

ミドリ「あの ユウカ 違うの。先生は元気。ただ 食べたい物が食べられなくて落ち込んでるだけ」

ユウカ「…………」

 ユウカは数秒かけて 状況を理解した。

 そして ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。

ユウカ「つまり あなたたちは 先生の夜食のために 名もなき司祭のデータベースにアクセスして 部室の電力を三倍に跳ね上げたってこと?」

ケイ「正確には二・八倍です」

ユウカ「そういう問題じゃありません!」

 ユウカの声が部室に響き渡った。

 けれど怒鳴り終えたあと ユウカは画面に映った二行の文字を ちらりと見た。

ユウカ「……焼きダレと かけダレ」

ヒマリ「おや 興味がおありですか?」

ユウカ「ありません。ただ 先生がまた変なものを食べて体を壊したら困るから。栄養バランスは私が計算します」

モモイ「結局やるんじゃん!」

ユウカ「予算は一円も出しませんからね!」

 ユウカの言葉は厳しかったが 書類を拾う手つきは妙に丁寧だった。

 トリニティ総合学園のティーパーティーのテラスには 午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。

 白いテーブルクロスの上に 紅茶と焼き菓子が並べられている。

ヒフミ「あ あはは……すみません ナギサ様。突然お時間をいただいて」

ナギサ「いいえ ヒフミさんならいつでも歓迎しますよ。それで 先生のことで相談がある と伺いましたが」

 桐藤ナギサは カップを持ったまま ヒフミの顔を見つめた。

 ヒフミは膝の上で ペロロ様のバッグの紐をぎゅっと握っている。

ヒフミ「えっと……先生が 東京チカラめしという料理を食べたくて 元気がないみたいなんです」

ナギサ「東京チカラめし……ですか」

ヒフミ「はい。モモトークで回ってきて……。私も先生にはたくさんお世話になってるので 何かできないかなって」

ナギサ「それは……聞いたことのない料理ですね」

 ナギサは形のいい眉を寄せて 少し考え込んだ。

 その隣で 聖園ミカが椅子の背にもたれて クッキーをかじっていた。

ミカ「へえ~ 先生ってそういうの食べたくなるんだ。なんか意外じゃんね」

ナギサ「ミカさん 食べながら話さないでください」

ミカ「はーい。で ナギちゃん どうするの?」

ナギサ「どうするも何も。先生が望んでいらっしゃるのなら トリニティとして誠意を示すべきでしょう」

ヒフミ「せ 誠意……ですか?」

 ナギサはカップを置いた。

 その目には 政治の場で見せるときと同じ 静かな決意が宿っていた。

ナギサ「料理とは 素材と技術と環境です。最高の牛肉 最高の料理人 最高の厨房。これらをそろえれば 再現できないはずがありません」

ヒフミ「あの でも どんな味なのかは誰も……」

ナギサ「ええ。ですから キヴォトス中から牛肉を集めます。すべての部位 すべての産地のものを」

ヒフミ「す すべて!?」

ナギサ「料理人も 一流の方々をお招きしましょう。厨房は そうですね……テラスの東側に新設すれば 三日で完成するはずです」

ミカ「ナギちゃん それ焼き牛丼一杯のためにやること?」

ナギサ「先生のためです」

ミカ「うん そうなんだけどさ。なんかズレてない? 先生って たぶんそういう豪華なのを食べたいんじゃないと思うじゃんね」

 ミカはクッキーを置いて 珍しく真面目な顔をした。

 ナギサの手が 一瞬だけ止まる。

ナギサ「……では ミカさんには 先生が何を望んでいるかわかるのですか」

ミカ「わかんないよ。でもさ 夜中にふっと食べたくなるご飯って 高いお店のご飯じゃないでしょ。そういうのって もっとこう……普通の味なんじゃないかな」

 ヒフミは驚いてミカを見た。

 ナギサも すぐには言い返さなかった。

ヒフミ「ミカ様の言うこと ちょっとわかる気がします……。夜中に食べたくなるのって 特別なものより いつもの味だったりしますよね」

ナギサ「……なるほど」

 ナギサは目を伏せて しばらく紅茶の水面を見つめた。

 やがて 顔を上げる。

ナギサ「では 普通の味を 最高の品質で作りましょう」

ミカ「そうじゃないんだってば!」

 そのとき テラスに一人の生徒が駆け込んできた。

 ティーパーティー付きの連絡係らしい。息を切らして ナギサに報告書を差し出す。

生徒「ナギサ様! ゲヘナの給食部が大量の牛肉を仕入れているとの情報が入りました! 背後には美食研究会の姿も!」

ナギサ「……ゲヘナが?」

生徒「さらに ミレニアムでは 部活単位の電力使用量が急増しているとのことです! 何らかの大規模な研究が進行中と見られます!」

 ナギサの顔色が変わった。

 紅茶のカップを持つ手が かすかに震え始める。

ナギサ「ゲヘナとミレニアムが 同時に……。これは偶然ではありませんね」

ヒフミ「え えっと ナギサ様?」

ナギサ「東京チカラめし。その名が広まった直後に 二つの学園が一斉に動き出した。つまり これは単なる料理ではないのです」

ミカ「いや 料理だよ」

ナギサ「先生の心をつかむための 戦略的な切り札。それを先に手にした学園が シャーレとの関係で優位に立つ……。そういう筋書きなのでしょう」

ヒフミ「ち 違うと思います! みんな たぶん純粋に先生に食べてほしいだけで……」

ナギサ「ヒフミさん。あなたの優しさはよくわかっています。ですが 政治とは 最悪の事態を想定するものです」

 ナギサは立ち上がった。

 白い羽根がふわりと揺れる。

ナギサ「トリニティの名にかけて 東京チカラめしは 私たちが最初に完成させます」

ミカ「あーあ……ナギちゃん スイッチ入っちゃった」

ヒフミ「あはは……ど どうしよう……」

 ヒフミは頭を抱えた。

 ペロロ様のバッグが 膝の上でくたりと傾いた。

 三日後。

 シャーレの執務室には 先生と アロナとプラナ そして補習授業部の三人がいた。

 白洲アズサ 下江コハル 浦和ハナコ。ヒフミが「先生にだけは状況を伝えないと」と連れてきたのだった。

先生「……ごめん もう一回言ってくれる?」

ヒフミ「は はい。今 キヴォトス中の牛肉の価格が 三日で四倍になっています」

先生「四倍」

ハナコ「うふふ トリニティが市場の牛肉を買い占めて ゲヘナの美食研究会が輸送車を襲って ミレニアムが物流システムに侵入して配送先を書き換えて……。今や牛肉は 金塊よりも熱い取引対象になっているそうですよ」

先生「どうしてそうなったのかな……」

アズサ「戦況を報告する。ゲヘナ陣営は給食部を拠点に 鉄板焼きの技術を急速に向上させている。ミレニアム陣営は 謎の古代データから二種類のタレの存在を突き止めた。トリニティ陣営は資金力で素材と人材を独占しつつある」

先生「アズサ 戦況って言わないで」

アズサ「でも これはもう戦争だ。三大校が 焼き牛丼をめぐって争っている」

コハル「ほ 本当にバカみたいなんだけど! たかがご飯で!」

先生「うん。私もそう思うよ……」

 先生は机に突っ伏した。

 タブレットの中で アロナがおろおろと手を振っている。

アロナ「先生! キヴォトスのニュースでも取り上げられてます! 見出しは『東京チカラめし戦争 勃発』です!」

先生「見出しにしないでほしかったな」

プラナ「補足します。現在 キヴォトスで東京チカラめしを実際に食べたことがあるのは 先生ただ一人です。にもかかわらず その名前だけが 幻の美食 伝説の秘宝 戦略兵器など 様々な意味で流通しています」

先生「戦略兵器?」

プラナ「一部の生徒は 食べると身体能力が向上する料理だと信じています。名前に チカラ と入っているためと推測されます」

先生「そういう意味の名前じゃないんだよ……」

 先生は顔を上げて 窓の外を見た。

 遠くのビルの上空で 黒い煙がうっすらと立ち上っている。

先生「……あれは?」

アズサ「ゲヘナ風紀委員会と美食研究会の交戦だと思う。牛肉輸送車の奪い合いで」

先生「ヒナも巻き込まれてるのか」

ハナコ「風紀委員長さん 今朝から三回ほど出動されているそうですよ。お気の毒に」

 先生はしばらく黙っていた。

 それから 椅子から立ち上がり 上着に袖を通した。

ヒフミ「せ 先生?」

先生「元はと言えば 私がぽろっと口にしたのが始まりなんだよね。だから 私がちゃんと話してくるよ」

コハル「話すって 誰と?」

先生「全員とかな」

アロナ「全員ですか!?」

先生「うん。でも止めに行くわけじゃないんだ」

 ヒフミが目を丸くした。

 先生は上着の襟を直しながら 少し困ったように笑った。

先生「みんなが私のために何かしようとしてくれてるのは すごく嬉しいんだよ。それを頭ごなしにやめさせるのは違うと思う。ただ 誰かが怪我をしたり 関係ない人が困ったりするのは駄目だ。そこは線を引かないといけない」

ハナコ「つまり 争いは止めて 料理は止めない ということですね」

先生「そういうこと。まあ 言うのは簡単なんだけどね」

アズサ「作戦はあるのか」

先生「うーん……正直 まだないかな」

コハル「ないの!?」

先生「行きながら考えるよ。みんなも 手伝ってくれるかな」

 ヒフミは一瞬だけ迷って それからぎゅっとバッグの紐を握り直した。

ヒフミ「……はい! 私も ナギサ様を止められなかったので。今度はちゃんと話してみます」

先生「ありがとう ヒフミ。無理はしなくていいからね」

ヒフミ「あはは……無理しないと たぶん止まらないと思います……」

 先生は苦笑しながら 執務室のドアを開けた。

 その背中に プラナが小さな声をかける。

プラナ「先生」

先生「うん?」

プラナ「急速な拡大に 人材の育成が追いつかず 品質が低下し 顧客が離れる。それが 東京チカラめしが店舗を減らした理由の一つとされています」

先生「……それが今 どう関係あるのかな」

プラナ「現在の三大校の動きが それに酷似しています」

 先生は ドアノブを握ったまま 数秒間固まった。

先生「……急ごうか」

 最初に向かったのは ゲヘナの給食部だった。

 調理場の前には 風紀委員会の車両が停まり 空知ヒナが腕を組んで立っていた。

 ヒナの制服の裾は 焦げて少し黒くなっている。

ヒナ「……先生」

先生「ヒナ。大変だったね」

ヒナ「大変 なんてものじゃない。三日で出動十一回。全部牛肉絡み。……私 そろそろ牛肉を見たくない」

先生「本当にごめんね」

ヒナ「どうして先生が謝るの」

先生「発端は 私の独り言なんだ」

 ヒナは目を細めて 先生の顔をじっと見た。

 怒るでも呆れるでもなく ただ静かに見つめている。

ヒナ「……先生が悪いわけじゃない。暴れてるのは美食研究会。でも……」

先生「でも?」

ヒナ「先生がそんなに食べたかったなら 私にも言ってくれればよかったのに」

 小さな声だった。

 ヒナは言ってしまってから 自分で驚いたように視線を逸らした。

ヒナ「……なんでもない。中にいるから 行って。私は外を見張ってる」

先生「ヒナ」

ヒナ「何」

先生「落ち着いたら 一緒にご飯を食べに行こう。牛肉以外のね」

ヒナ「……約束だから」

 ヒナは背を向けたまま そう言った。

 先生は小さくうなずいて 調理場の扉を開けた。

 中は まるで戦場だった。

 鉄板が四枚並べられ その上で牛肉が絶え間なく焼かれている。フウカが汗だくになってヘラを振るい その周りでジュリが米を研ぎ ジュンコとイズミが試食係として皿を空にし続けていた。

ハルナ「まあ 先生! なんというタイミングでしょう」

先生「ハルナ。ずいぶん賑やかだね」

ハルナ「ええ。今まさに 東京チカラめしが完成に近づいているところですわ」

フウカ「近づいてない! 全然近づいてない!」

 フウカがヘラを置いて振り返った。

 目の下にうっすらとクマができている。

フウカ「先生 お願いだから一つだけ教えて。東京チカラめしって タレは何種類?」

先生「えっ」

ハルナ「フウカさん! 先生に聞いてはいけないと あれほど」

フウカ「もう三日も寝てないのよ! 聞かせて!」

 先生は困ったように頭をかいた。

 そして ハルナとフウカの顔を交互に見た。

先生「……私の知ってる限りだと 焼くときのタレと 最後にかけるタレがあった気がするんだよね。ただ 私も作り方を知ってるわけじゃないから 正確なことは言えないよ」

フウカ「……やっぱり二種類なのね」

ハルナ「フウカさん ご存じだったのですか?」

フウカ「確信はなかったけど。焼いただけの肉だと 味がご飯まで染みないの。だから最後にもう一回 何かかけてるんじゃないかって」

 フウカは疲れた顔で それでも少しだけ得意そうに笑った。

 ハルナはその横顔を見て 静かに頭を下げた。

ハルナ「……さすがです。わたくしの美食の舌より フウカさんの料理人の勘のほうが 一歩先を行っていましたわね」

フウカ「べ べつに 褒めても何も出ないから」

先生「ねえ ハルナ。一つ頼みがあるんだ」

ハルナ「何でしょう」

先生「牛肉の輸送車を襲うのは やめてくれるかな」

 ハルナの笑みが ほんの少しだけ硬くなった。

 先生は責める声ではなく 淡々と続けた。

先生「作ってくれるのは嬉しいよ。本当に。でも 運転手さんや ヒナたちや 牛肉を待ってる他のお店の人が困ってる。私のためのご飯で 誰かが困るのは 私は嫌なんだよね」

ハルナ「…………」

先生「怒ってるわけじゃないんだ。ハルナがどうしてそうしたのかも なんとなくわかるから。一番に届けたかったんでしょ?」

ハルナ「……ええ。トリニティが牛肉を買い占めていると聞いて 焦ってしまいました。美食の前では 誰よりも誠実でありたいと思っていたのに」

 ハルナは目を伏せた。

 やがて 顔を上げて 背筋を伸ばす。

ハルナ「わかりました。今後 牛肉の強奪はいたしません。代わりに……正々堂々 味で勝負いたしますわ」

先生「勝負?」

ハルナ「ええ。トリニティにも ミレニアムにも。どの学園が 先生に最高の東京チカラめしを捧げられるか」

先生「いや だから 争わないでほしくて」

ハルナ「争いではありません。競い合いです。美食とは 互いを高め合うものですから」

 ハルナの目は 輝いていた。

 先生は 止めるべきか迷って 結局 何も言えなかった。

 少なくとも 銃撃戦よりはずっとましだった。

 次に向かったミレニアムのヴェリタス部室では ケイがモニターの前に座り込んでいた。

 周りには 空になったエナジードリンクの缶が転がっている。

先生「ケイ。大丈夫?」

ケイ「……先生。問題ありません。現在 焼きダレの配合比率を シミュレーションで六千四百パターン検証したところです」

先生「六千四百」

ケイ「残念ながら 正解データが存在しないため 最適解を判定できません」

 ケイの声には はっきりと疲れが滲んでいた。

 アリスが 隣で心配そうにケイの袖を引っ張っている。

アリス「ケイは 昨日から一度も休んでいません。アリスが寝てって言っても 聞いてくれません」

ケイ「王女 あと少しで」

先生「ケイ」

 先生はケイの隣にしゃがんで 目線を合わせた。

先生「少し休んだほうがいいんじゃないかな」

ケイ「……ですが ゲヘナとトリニティが先に完成させたら」

先生「完成させたら どうなるの?」

ケイ「……私が 先生に借りを返せません」

 ケイは言ってから 唇を噛んだ。

 先生は少しだけ黙って それから穏やかに笑った。

先生「ケイ。私は 貸し借りだと思ったことはないよ」

ケイ「…………」

先生「ケイがアリスのそばにいたいって思ったのは ケイ自身が選んだことでしょ。私はそれを応援しただけ。だから 返してもらうものなんて 最初から何もないんだよ」

ケイ「……それは 非合理的です」

先生「うん。先生ってそういうものだからね」

 ケイは顔を背けた。

 モニターの光が その横顔を青く照らしている。

ケイ「……では。借りではなく ただ 先生に食べてほしい と思うのは 合理的でしょうか」

先生「それなら すごく嬉しいよ」

 アリスが ぱっと顔を輝かせた。

 ケイの肩から ほんの少しだけ力が抜けた。

ケイ「……三時間だけ 休みます」

アリス「パンパカパーン! ケイが休息コマンドを選びました!」

ケイ「王女 いちいち実況しないでください」

 先生が部屋を出ようとしたとき チヒロが呼び止めた。

チヒロ「先生。一応言っておくけど 物流システムの件 やったのはうちの部員じゃないからね。モモイがどこかから拾ってきたツールを勝手に使ったの」

先生「……モモイ」

チヒロ「今 ユウカに正座させられてるよ」

 廊下の向こうから ユウカの声とモモイの悲鳴が 重なって聞こえてきた。

 最後に向かったのは トリニティのティーパーティーのテラスだった。

 三日前には存在しなかった巨大な厨房が テラスの東側に建っている。白い大理石の壁に 金色の文字で『東京チカラめし トリニティ本店』と刻まれていた。

先生「……本店」

ミカ「あ 先生だ! ねえ見てよこれ ナギちゃんが三日で建てたんだよ ヤバいじゃんね」

先生「うん。ヤバいね」

ミカ「でしょ? しかも支店の計画まであるんだよ。トリニティ自治区に三十店舗」

先生「三十」

 ミカは笑っていたが その目は少しだけ困っていた。

 厨房の奥から ナギサが姿を現す。その後ろには 疲れ切った顔のヒフミが続いていた。

ナギサ「先生。ようこそお越しくださいました」

先生「ナギサ。立派な厨房だね」

ナギサ「ありがとうございます。キヴォトス中から最高の和牛を集めました。A5ランクの霜降りを 一流の料理人が 炭火で丁寧に焼き上げています」

先生「……うん」

ナギサ「タレには 秘伝の熟成醤油と 蜂蜜と トリュフを」

先生「トリュフ」

ナギサ「仕上げに金箔を」

先生「金箔」

 先生は 言葉を探すように 口を閉じた。

 ヒフミが ナギサの後ろで 泣きそうな顔で首を横に振っている。

先生「ナギサ。気持ちは本当に嬉しいんだ。でも 一つ正直に言ってもいいかな」

ナギサ「……はい」

先生「私が食べたかったのはね 夜中に 疲れて 何も考えずに かきこめる焼き牛丼なんだよ。安くて 早くて 味が濃くて。たぶん トリュフも金箔も入ってないんだよね」

 ナギサの表情が 固まった。

 テラスに 長い沈黙が落ちる。

ナギサ「……では 私のしたことは」

先生「無駄じゃないよ。ナギサが私のために 本気で動いてくれたのは ちゃんと伝わってる」

ナギサ「ですが 牛肉の買い占めで 他の学園にも 市場にも迷惑を」

先生「それは……そうだね。そこは 一緒に謝りに行こうか」

 ナギサは唇を震わせた。

 それから そっと目を伏せる。

ナギサ「……ゲヘナとミレニアムが動いたと聞いて 私は 先生をめぐる陰謀だと思い込んでいました。本当は ただ みなさん 先生に食べてほしかっただけなのですね」

ヒフミ「ナギサ様……」

ナギサ「ヒフミさんは 最初からそう言っていたのに。私が 聞こうとしなかったのです」

 ナギサはヒフミに向き直って 深く頭を下げた。

 ヒフミは慌てて両手を振る。

ヒフミ「そ そんな! 私も もっとちゃんと止められたらよかったので……!」

ミカ「はいはい 二人とも謝りっこはそこまで。ねえ先生 じゃあ結局どうするの?」

 先生は テラスから見える三つの学園の方角を 順番に眺めた。

 遠くゲヘナの空には まだ少しだけ煙が残っている。

先生「うーん……みんなで一緒に作る っていうのはどうかな」

ミカ「一緒に?」

先生「ゲヘナにはフウカの腕がある。ミレニアムにはケイが見つけたタレの手がかりがある。トリニティには 牛肉がある。……たくさんね」

ナギサ「……山ほどあります」

先生「それを一つにしたら たぶん 一番近いものができると思うんだよね」

 ナギサは しばらく考え込んでいた。

 三大校が一つの厨房に集まる。それが どれほど政治的に難しいことか 先生よりもナギサのほうがよく知っている。

ナギサ「……先生が 仲介してくださるのですか」

先生「私は場所を用意するだけだよ。一緒にやるかどうかは みんなが決めることだから」

ナギサ「…………」

ヒフミ「ナギサ様。私 やってみたいです」

 ヒフミが一歩前に出た。

 ペロロ様のバッグを握る手は 震えていたけれど 声はまっすぐだった。

ヒフミ「ゲヘナにも ミレニアムにも 友達がいます。みんなで作ったら きっと楽しいと思うんです」

ナギサ「ヒフミさん……」

ミカ「いいじゃんね ナギちゃん。三大校合同で焼き牛丼作るとか 歴史の教科書に載っちゃうかもよ?」

ナギサ「載りたくありません……」

 ナギサはそう言いながらも ティーカップを手に取って 一口だけ紅茶を飲んだ。

 カップを置く音は 迷いのない音だった。

ナギサ「……わかりました。トリニティは 参加します。ただし 条件が一つ」

先生「何かな」

ナギサ「最初の一杯は 必ず先生に召し上がっていただきます。それだけは 譲れません」

先生「うん。それは私も譲れないかな」

 ミカが吹き出して ヒフミも やっと肩の力を抜いて笑った。

 五日後の夜。

 シャーレのビルの一階ホールに 急ごしらえの厨房が作られていた。

 ゲヘナから運ばれた鉄板 ミレニアムから持ち込まれた温度管理システム トリニティから届いた大量の牛肉。三つの学園の制服が 一つの場所に入り混じっている。

フウカ「ジュリ ご飯は硬めに炊いて。タレを吸うから」

ジュリ「は はい! どのくらい硬めですか?」

フウカ「いつもより水を一割少なく」

ジュリ「一割ですね わかりました!」

 ジュリは計量カップを何度も確認しながら 慎重に水を量っていた。

ケイ「フウカ。鉄板の表面温度は 二百二十度を維持してください。それ以上だとタレが焦げます」

フウカ「わかってるわよ。さっきからずっと二百二十度よ」

ケイ「正確には二百二十・四度です」

フウカ「誤差の範囲よ! ……それよりケイ あなたちゃんと寝たの?」

ケイ「三時間だけ休みました。先生にも言われましたから」

フウカ「……ふふ。先生って 本当にそういう人よね」

ケイ「……ええ」

 二人とも 少しだけ笑った。

 ホールの端では ハルナとナギサが向かい合っていた。

ナギサ「……輸送車の件は 水に流しましょう」

ハルナ「あら。では 買い占めの件も水に流しましょう」

ナギサ「こちらの件は流していただかなくても結構です」

ハルナ「あら。では 流さずに覚えておきます」

ナギサ「……やはり 流していただけますか」

 ハルナが扇子で口元を隠して笑うと ナギサも小さく笑みを返した。

 ホール中央では ユウカが電卓を叩いていた。

ユウカ「モモイ どうせタダなんだしって顔しないで」

モモイ「してないよ~」

ユウカ「タダじゃありません。トリニティが牛肉を出して ゲヘナが人件費を出して ミレニアムが電気代を出してるの。誰かが把握しないと また揉めるでしょ」

ミドリ「ユウカが一番 冷静だね……」

ユウカ「先生の夜食で キヴォトスの経済が傾くなんて 絶対に許しませんから」

 その横では アリスが鉄板の匂いを吸い込んで目を輝かせている。

アリス「いい匂いがします! HPが回復しそうな匂いです!」

ユズ「ほ 本当ですね……」

アズサ「……補給の準備はできている」

コハル「べ 別に 楽しみになんかしてないんだからね!」

ハナコ「うふふ コハルちゃん 鉄板ばかり見ていますよ」

コハル「み 見てない!」

 そして。

 フウカがヘラを置いた。

 湯気の向こうで 肉の表面が光っている。

 硬めに炊かれたご飯の上に 鉄板で焼かれた牛肉と玉ねぎがのせられ 焼きダレの上からもう一つのタレがかけられた。

 フウカは両手で丼を持ち上げた。

フウカ「……できた」

ハルナ「これが……」

ケイ「東京チカラめし……」

ナギサ「……金箔は のっていませんね」

ミカ「ナギちゃん まだ言ってる」

 フウカはお盆に丼をのせて ゆっくりと先生の前に運んだ。

 先生が立ち上がる。

フウカ「本物と同じかどうかは わからないけど。先生が知ってる味に 少しでも近ければいいなって」

先生「見ただけで わかるよ。近いと思う。すごく」

 先生は丼を受け取って テーブルについた。

 箸を取る。

 全員が息をのんだ。

 その瞬間 入口の自動ドアが開いた。

 息を切らした空知ヒナが駆け込んでくる。その後ろには 天雨アコと 連邦生徒会の生徒が数名続いていた。

アコ「連邦生徒会からの緊急通達です」

 生徒の一人が書類を掲げた。

生徒「シャーレに対し 三大校の合同事業に関する公平性の確認を求めます」

先生「公平性の確認……?」

生徒「今回の料理が『三大校の友好の象徴』として報道されております。最初に食べる行為には 政治的な意味があるとの懸念が寄せられております」

ヒナ「……先生 ごめん。止めようとしたんだけど」

生徒「焼いたのはゲヘナ タレはミレニアム 肉はトリニティ。公平性が確認されるまで 試食は一時保留とさせていただきます。協議の見込みは二週間ほどです」

 ホールが静まり返った。

 アロナがタブレットの中で半泣きになっている。

 そのとき プラナが静かに口を開いた。

プラナ「……提案があります」

アロナ「プラナちゃん?」

プラナ「先生が食べなければ 公平です」

 プラナは淡々と続けた。

プラナ「先生は これまで学園の自治を尊重し 独断で政治的な問題を解決することはありませんでした。今ここで先生が食べることは その原則に反する可能性があります」

 先生は長い息を吐いた。

 そして 箸を丼の縁に置いた。

ナギサ「先生……!」

先生「みんなが一緒に作ってくれたのに 私が食べたせいで また揉めたら 意味がないよね。ちゃんと協議してもらって みんなが納得してから食べるよ」

ハルナ「ですが それでは 料理が冷めてしまいますわ」

先生「うん。だから これは みんなで食べて」

フウカ「……先生の分なのに」

先生「作った人が 最初に食べるのが一番公平だと思うんだよね。それに みんな 何日も頑張ってくれたんだから。自分たちの作ったものが どんな味か 確かめてほしいな」

 フウカは小さく笑った。

フウカ「……ほんと 先生ってそういう人よね」

 フウカは箸を取って 一口食べた。

 目を閉じる。

フウカ「……おいしい」

 その一言で ホールの空気がほどけた。

ジュリ「わ 私も!」

ケイ「……検証のため 私も」

ハルナ「わたくしもいただきますわ」

ミカ「あたしもあたしも!」

 フウカは鉄板で次々と丼を作り みんながそれを手に取って食べ始めた。

イズミ「おいしい~! これ毎日食べたい!」

ジュンコ「おかわり!」

アリス「HPが全回復しました! レベルアップです!」

ユズ「……おいしいです」

コハル「べ べつに ちょっとおいしいだけだから!」

アズサ「補給完了。これは 士気が上がる」

ハナコ「うふふ みんな 同じ顔してますね」

ヒフミ「あはは……本当に……よかったぁ……」

ナギサ「……トリュフは 要りませんでしたね」

ユウカ「……一杯あたりの原価 意外と安いわね。これ……売れるわ」

 全員が手を止めた。

ハルナ「……売れる?」

ケイ「売れる……」

ナギサ「売れる……」

 三人の目が 同時に光った。

先生「……あの みんな?」

 先生の声は 誰にも届かなかった。

 それから二週間後。

 シャーレの執務室では 先生が書類の山に向き合っていた。

 窓の外からは 賑やかな声と 香ばしい匂いが漂ってくる。

アロナ「先生! 大ニュースです!」

先生「どうしたの アロナ」

アロナ「三つの学園が それぞれ焼き牛丼の店を出したんです! ゲヘナは『美食焼き丼 給食部監修』 ミレニアムは『演算焼き牛丼 ver.6400』 トリニティは『焼き牛丼 ティーパーティー御用達』です!」

先生「……すごいね」

プラナ「補足します。『東京チカラめし』という名前は 外の世界の登録商標の可能性があるため 使用を控えるよう 連邦生徒会から通達が出ました」

先生「なるほどね」

アロナ「しかも店舗数なんと 三百店舗を超えました!」

先生「三百」

プラナ「急速すぎる拡大です。品質が低下する恐れがあります」

先生「……プラナ それ 前にも聞いたね」

プラナ「歴史は繰り返す と言います」

先生「……それで 協議のほうはどうなったの?」

プラナ「継続中です。議題は『シャーレがどの学園の店舗を最初に訪れるか』に移行しました。見込みは不明です」

先生「……私 まだ一口も食べてないんだよね」

プラナ「大阪の日本橋店は 現在も営業中です」

先生「……キヴォトスから大阪まで どうやって行けばいいのかな」

プラナ「不明です」

 そのとき 執務室のドアが開いた。

 フウカが小さな弁当箱を持って立っている。

フウカ「……はい」

先生「フウカ?」

フウカ「焼き牛丼じゃないわよ。ただの生姜焼き弁当。給食部の余り物で作ったの。……これなら どこの学園の功績でもないでしょ」

 先生は弁当箱を受け取って 蓋を開けた。

 生姜焼きとご飯が きれいに詰められている。

 先生は箸を取って 一口食べた。

先生「……おいしいね」

フウカ「……いつか 協議が終わったら。最初の一杯は 私が焼くから」

先生「うん。約束だね」

アロナ「先生 それって東京チカラめしですか?」

プラナ「それは 東京チカラめしではありません」

先生「……うん。知ってるよ」

 先生は最後のご飯を 丁寧に口に運んだ。

 窓の外では 三百を超える焼き牛丼の店が 今日も湯気を上げている。

 そのどれにも 先生はまだ 一度も入れていない。


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