誰かが幸せになるには、誰かが不幸にならないといけない。
それは自分のものであれ、他人のものであれそうだ。
ビジネスも、興行も、医療も。
全て誰かの労力の上で成り立つ。
わたしが今こうしているのだって、これから生まれるはずの何十億、何百億の命を蹴散らしてきた結果だ。
わたしが真に救った、と言えるものは何一つとしてない。
それはきっと、元々そうなるはずだったから。
幸せの総量というのは決まっている。
だって、じゃなければおかしいじゃないか。
ならなぜこんなことをしている?
なぜ誰かのためにわたしが苦しむ?
誰も答えてくれやしない。
彼もしくは彼女らの犯したミスのツケをわたしが払うのが、どうしようもなく、不愉快だった。
そんな煮詰まった感情が、常にわたしの視線の先に立ちはだかっていて、どんなものより不気味だった。
わたしの考えをかき消すかのように患者は増え、霧散する。
「まったく、嫌になるな…」
「なになに〜?まーたそんな顔して。ちょっとは僕のこと見習った方がいいんじゃない?」
ため息をつき、姿勢を崩したわたしにそいつは話しかけてきた。
現実逃避する暇すらない。
「またややこしいのが出張ってきたな…」
「ややこしいってなにさ!」
「うるさいから喋らないでくれ」
「はー!?せっかく僕が慰めてあげようと思ったのに、君ってほんとにさぁ!」
「悪いがテイオー、君に構っている暇はない」
「僕が君に構ってあげようとしたんだけど?勘違いしないでよね!」
そんな話をしたいわけではないというのに。
こうなってしまうからこそ会いたくはなかった。
未来というのは、なんともまあ不都合な存在だ。
「はあ…皆、競走なんてやめてしまえばいいのに」
「ええ…流石にそれは飛躍しすぎじゃない?」
ああ、図らずも声に出ていたらしい。
いや、もうそんなこと気にしなくてもいいか。
どうせ声に出したところでなにも変わらない。
「誰も彼も夢を抱いてバカを見る。言っておくが、挑戦と無謀は違う。この学園にいる多くは、後者だ」
「急にギア上げてくるね…ま、僕には関係ない話かな〜」
才覚のあるやつというのは、たちが悪い。
才能を前に、現実が見えなくなる。
それほどまでに、ウマ娘にとってそれは比重が大きい。
「誰しもリスクを負っている。そんな中で、君だけが関係ないだなんてそんなはずはない」
「チッチッチッ、無敵のテイオー様にそんな理屈は通用しないのだよ!」
「そうか。なら、君と俺は関係がないから帰ってくれ」
「も〜、付き合い悪いなあ…いいじゃんちょっとくらいさ。ほら、お医者さんならもっと寄り添ってよ!」
「確かに俺は医者だ。だからこそ、君のようなバカガキにも笑顔で対応しなくてはならない」
「よくもそんな憎まれ口を…ほんとに医者なの?ヤブじゃん」
もう一言返そうとも思ったが、さすがに面倒で憚られた。
所詮は子供の軽口、何を熱くなることがある?
これはわたしの、直すべき悪癖だな。
そう思って、身を翻して歩を進めた。
「ねぇねぇ、なんで今日はそんなに苛立ってるわけ?」
「誰だってそういうときはある。特に、そういう絡まれ方をすればなおさらだ」
「まあ確かにいっつもドライだけどさ。にしても今日はなーんか落ち着きがないよね〜」
さっぱりわからないといった様子だ。
だが、そう言いつつもわたしについてくる。
「とにかく、次が控えてるんだ」
テイオーは肩をすくめて目を細めた。
歩きながらよくもまあそんな不注意を働けたものだ。
「そんなイライラしてたら患者さんも落ち着けないって」
「俺の悩みの種はすぐ横にあるんだが?」
クソ、いつまでついてくるつもりなんだ?
これじゃあまったく仕事にならない。
最低限の義務は果たすべきだというのに、未熟さが故にそれもままならないとは情けない。
ここは一つ、身を切るしかないか…
「はあ…今度、いや今日だ。患者の診察が終わればハチミーでもなんでも買ってやるからもう帰ってくれ」
「ええー、どうしよっかなー♪」
「先に言っておくが、俺の報告次第で君が今後レースに出走できるかできないかが変わってくるが…」
「じょ、冗談じゃんか!じゃあ僕もう行くね!!」
そう言って、テイオーは去って行った。
その速度はまさに韋駄天…ああいや、こんなどうでもいいことを考えている暇はない。
すぐさま準備を整え、小走りで診察へ向かった。
トレセン学園には潤沢な医療器具が設置されている。
しかし、最初からそれを使うわけではない。
もちろん、使用するにしてもタダではないし不必要であれば当然使うことはない。
「まずは触診からだ。誤ってわたしを蹴らないでくれよ?また別の医者がここへ来ることになる」
「は、はい…」
「痛みの中心から遠い場所、今回は上部から診る。少しつまむようにしていくが、気にしないでくれ」
まずは膝裏近く、ふくらはぎの筋肉を診ていく。
この独特の空気感はやはり、何度やっても慣れない。
左右差はなく肉離れなども特にしていない。痛みもない様子で、反応も特にないことから次に移行する。
多くのウマ娘が最も懸念すべき点は筋腱移行部だ。
最もストレスがかかりやすく、ウマ娘ほどのパワーがあればかかる衝撃も大きい。
だからこそ、問題が見つかるとしたらここかと思ったが…
「圧痛はなし、目立った症状もない。ひとまずは問題無しか」
そんなわたしのつぶやきを聞いて、ウマ娘はホッとしたような表情を浮かべた。
ああ、かわいそうに。
そう思わずにはいられなかった。
ここの空気はなんだか息苦しくて、張り詰めている。
息を深く吸って、診察を続けた。
順調に診察は進んだが、一つ問題があった。
左脚のくるぶしの後ろ辺りがうっすら浮き出ている。
視覚的に見れば大したことはなく、なんとなくぼやけている。ただ、それだけだ。
見た目のみで話すならの話だが。
「…痛みを誤魔化すのはやめておけ。微細だが、君からは反応が見て取れる。診察にブレが出るからやめてくれ」
「い、痛くないですよ。平気です」
「一生走れなくなりたいならそれでも構わんよ」
そう言えば、大人しくウマ娘は白状した。
未勝利のままで終わるわけにはいかないと気合を入れすぎたらしい。いわゆるオーバーユース、使いすぎだった。
しかし触診だけでは具体的な病名がわからないため、画像検査を用いて診察を続けた。
結果はほとんど知っていたようなものだったが。
「検査の結果は後脛骨筋腱炎、しかも慢性化している。今までよく走れていたな?とりあえず、今は安静にしておくべきだ」
「治るまでどれくらいかかりますか?最後には間に合いますよね!?私、こんなところで…」
随分焦った様子で患者はわたしに尋ねてきた。
わたしの口から出る言葉を恐れているらしい。
わたしは患者が落ち着くのを待ち、息を吐いてから言った。
「治るには半年ほどを要するし、奇跡的に間に合ったとしても満足に走るには足りない。諦めてくれ」
「そ、そんな…」
患者は崩れ落ちるようにして、体勢を崩した。
「せ、先生は知ってたんですよね?」
「そうだな。それで?」
患者を横目に資料をまとめた。
しかしなんともまあ、胸糞が悪い。
「ならどうしてもっと早く止めてくれなかったんですか!?」
「忠告の度に君は大丈夫、そう言ってやめなかった。君のトレーナーにだって伝えた。君たちの責任だろう?」
「あなたがもっと強く止めてくれてたらこんなことには…」
「君を止めるには客観的事実が必要だった。だがそれを拒否し続けたのは君だ。頼るには遅すぎたな」
そう言ってわたしは資料を持ち報告に上がろうとした。
しかし、患者はわたしの腕を掴んで離さなかった。
「どういうつもりか知らないが、邪魔をしないでくれないか?」
「最後、最後だけでいいんです!ここを逃したら私一度も勝てないまま終わっちゃうんですよ!?」
どうしても諦めきれない様子だった。
しかし、その目からはどうみても破滅しか感じない。
夢や希望、そんな明るく儚いものですらなかった。
「同情はしよう。だが、それを看過することはできない」
わたしはそれを無視して、部屋を出ようとした。
しかし、腕を掴む力はどんどん強くなって…
「ぐっ…!?」
「私だってこんなことはしたくないんです。でも、先生が…」
ああ、クソ!なんでどいつもこいつもこう自分勝手なんだ!?
そう心の中で反芻するが、刺激すればどうなるかわからない。
なんとか胸のうちに留めて、説得を試みる。
「どちらにせよ俺に問題があれば疑われるのは君だぞ?レースに出走どころか停学、ひいては今後の人生に響くぞ」
「どうだっていいですよ、そんなこと!」
「正気か!?勝てる見込みすらないレースにただ出走するためだけに今後の人生を棒に振るのか!」
「先生に何が分かるっていうんですか!?わかったようなこと言わないでください!」
ああ、本当に苛立つ仕事だ!
誰かが不利益を被らなきゃいけない世の中なんてクソくらえだ、消えてしまえ!
「わかるはずないだろう。夢や希望なんて曖昧なものを抱いて勝手に期待して、人の言うことは無視するくせにいざとなったらどうしてどうしてって、いい加減にしてくれ!」
声を荒げて、わたしはそう言った。
すると患者は少し驚いたのか、ひるんだ様子で力が弱まる。
手を振りほどいて、すぐさま距離を取る。
よほど堪えたのか、患者はその場に座り込んだ。
そんな様子を見て、頭に上った血は引いていく。
「…もうわかったろう。無駄なことはよしてくれ」
ばら撒かれた資料を回収しようとした。
しかし、患者がもう一度わたしに迫ってくる。
わたしは思わず身構えたが、落ち着いた様子でこう言った。
「ご、ごめんなさい。私も拾うの手伝います…」
「あ、ああ…助かる」
考えれば、普段は落ち着いた娘だった。
目の前の現実を受け入れるのに、時間がかかっていただけで、単なる気の迷いに決まっている。
それに比べ、わたしは怒りを留めることができなかった。
子供相手に、どうかしている。
いったいなんなんだろうか、わたしは?
「ほ、本当にすみませんでした先生…」
そう言われて、なんとか意識を戻す。
「…ああ、気にしないでくれ」
「元はといえば私が掴みかかってしまったんですから、気にしないでください。もうレースには出られないかもしれませんけど…」
「できる限りは俺も尽力しよう。辛いかもしれないが…」
なんで誰かが不幸にならないといけないんだろうか。
誰かが幸せになろうと、幸せになったっていいはずなのに。
「今日はありがとうございました。先生も、お元気で…」
そう言って、患者は部屋から退室した。
先ほど掴みかかられた時の気迫はなく、その背中には覇気がない。
君も、どうか元気で…そう言おうと思った。
だが、わたしはそれを飲み込んだ。
元気なんて出せるはずがない。
わたしだって、今こうしているのは空元気だ。
今日もまた一つ、夢を失った。
いったい、これからいくつ失えばいいんだろうか?
どこまでも憂鬱に、わたしはその日を終えた。
正直ウマ娘の診察がどんな感じなのかはよくわからんのでだいぶ独自解釈が入ってます。